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赤線協定 - Wikipedia

あかせん協定きょうてい(あかせんきょうてい、Red Line Agreement)は、1928ねん7がつ31にちに、当時とうじのトルコ石油せきゆ会社かいしゃ(the Turkish Petroleum Company, TPC:イラク石油せきゆ会社かいしゃ the Iraq Petroleum Company, IPC)の出資しゅっししゃあいだむすばれた協定きょうてい。この協定きょうてい目的もくてきは、TPC の企業きぎょう体制たいせいととのえることにあり、すべての出資しゅっししゃたいして、きゅうオスマン帝国ていこくりょうにおいて独自どくじ石油せきゆ権益けんえきもとめることをきんじた「自粛じしゅく条項じょうこう」をふくんでいた。この協定きょうていによって、石油せきゆ独占どくせんないしカルテル体制たいせいきずかれ、ひろ領域りょういきにわたってきわめておおきな影響えいきょうりょくおよぶことになった。このカルテル体制たいせいは、1960ねん結成けっせいされた石油せきゆ輸出ゆしゅつこく機構きこう (OPEC) によって成立せいりつしたあらたなカルテル体制たいせいに、30ねん以上いじょうさきんじていた。

つたえられるところによれば、1928ねんのある会合かいごうで、アルメニアじん実業じつぎょう慈善じぜん活動かつどうでもあったカルースト・グルベンキアン中東ちゅうとう地図ちずあかせんき、「自粛じしゅく条項じょうこう」が効力こうりょくをもつべき範囲はんいしめしたのだという[1]。そのうえでグルベンキアンは、この範囲はんい自分じぶん1914ねん時点じてんでのオスマン帝国ていこく領域りょういきだとべた。グルベンキアンはさらに言葉ことばいで、自分じぶん帝国ていこくまれそだったのだから、当然とうぜんそれをっているのだとった。出資しゅっししゃたちは、そのせん注意深ちゅういぶかうえで、これにこととなえなかった。これは事前じぜんにそのような領域りょういき設定せってい予想よそうされていたからであった。(ただし、あかせんいたのはグルベンキアンではなく、フランスの代表だいひょうしゃだったとするべつせつもある。)グルベンキアン以外いがい出資しゅっししゃは、今日きょうスーパーメジャー (supermajors) の前身ぜんしん企業きぎょうであった。「あかせん」の内側うちがわには、オスマン帝国ていこく中東ちゅうとうにおける領土りょうどが、アラビア半島はんとうトルコふくめてれられていたが、クウェート除外じょがいされていた。クウェートが除外じょがいされたのは、この地域ちいきをイギリスのためにのこしておくことを意味いみしていた。

後年こうねんスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーウォルター・C・ティーグル (Walter C. Teagle) は、この協定きょうていは「ひどくわるいち」だったとべた[2]。いずれにせよ、この協定きょうていは、TPCを継承けいしょうした後継こうけい企業きぎょうイラク石油せきゆ (Iraq Petroleum Company, IPC) の事業じぎょう領域りょういき明確めいかくした。IPCのもと従業じゅうぎょういんで、のち著述ちょじゅつとなったスティーヴン・ヘムズリー・ロングリッグ (Stephen Hemsley Longrigg) は、「間違まちがいだらけのカルテルのかなしむべき事例じれいであるとか、国際こくさい協力きょうりょく公正こうせい分配ぶんぱいについての啓発けいはつてき事例じれいである、などと様々さまざま評価ひょうかされるこのあかせん協定きょうていは、20年間ねんかんにわたってこの方面ほうめん体制たいせい維持いじし、中東ちゅうとうだい部分ぶぶんにおける石油せきゆ開発かいはつ様態ようたい速度そくどをほとんど決定けっていづけた」としるしている[3]アラビアン・アメリカン・オイル(アラムコ)バーレーン石油せきゆ会社かいしゃ (Bahrain Petroleum Company, BAPCO) がそれぞれ支配しはいてき地位ちいめたサウジアラビアバーレーンべつにすれば、IPCはこの時期じきあかせんないにおける石油せきゆ開発かいはつ事業じぎょう独占どくせんしていた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく石油せきゆ会社かいしゃであったスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージとソコニー・バキュームしゃはIPCに出資しゅっししており、あかせん協定きょうていしばられていた。両社りょうしゃたいして、サウジアラビアの石油せきゆ開発かいはつからんで、アラムコから提携ていけいばなしちかけられたさいのIPC出資しゅっし企業きぎょう協定きょうていたてにして提携ていけいみとめなかった。やがて、米国べいこく資本しほん各社かくしゃは、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつによってあかせん協定きょうてい無効むこうになったと主張しゅちょうしたが、グルベンキアンとの法的ほうてき交渉こうしょうはその延々えんえんつづけられた[4]結局けっきょく、このいちけん法廷ほうていがい和解わかい成立せいりつし、米国べいこく資本しほん各社かくしゃはアラムコにも資本しほん参加さんかした [5]以降いこうあかせん協定きょうてい文書ぶんしょしたが、IPCは事業じぎょう継続けいぞくした。

出典しゅってん脚注きゃくちゅう

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  1. ^ "The Emergence of the Arabian Oil Industry" by Rasoul Sorkhabi, Ph.D., University of Utah's Energy & Geoscience Institute, GeoExpro, No. 6 of 2008.
  2. ^ Bennett H. Wall and George S. Gibb, Teagle of Jersey Standard, New Orleans, 1974, p. 209
  3. ^ Oil in the Middle East by S. H. Longrigg, 2nd Edition, published by the Oxford University Press, 1961, p.70
  4. ^ Daniel Yergin, The Prize: The Epic Quest for Oil, Money and Power, New York, 1991, pp. 413-419
  5. ^ "Oil: Share the Wealth”, Time, 23 December 1946

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Black, Edwin. British Petroleum and the Red Line Agreement: The West's Secret Pact to Get Mideast Oil (Dialog Press, 2011).

外部がいぶリンク

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  • Black, Edwin. Banking on Baghdad (John Wiley and Sons, New York 2003) and the only available map and transcription see www.bankingonbaghdad.com.