(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ジェームズ・F・バーンズ - Wikipedia

ジェームズ・F・バーンズ

ウィキメディアの曖昧あいまい回避かいひページ

ジェームズ・フランシス・バーンズ英語えいご: James Francis Byrnes1882ねん5月2にち - 1972ねん4がつ9にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政治せいじ。1945ねん7がつから1947ねん1がつまで国務こくむ長官ちょうかんつとめ、かくない唯一ゆいいつ原爆げんばく投下とうか強硬きょうこうであった。

ジェームズ・フランシス・バーンズ
James Francis Byrnes
生年月日せいねんがっぴ (1882-05-02) 1882ねん5月2にち
出生しゅっしょう アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく サウスカロライナしゅうチャールストン
ぼつ年月日ねんがっぴ (1972-04-09) 1972ねん4がつ9にち(89さいぼつ
死没しぼつ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく サウスカロライナしゅうコロンビア
所属しょぞく政党せいとう 民主党みんしゅとう
配偶はいぐうしゃ モード・ブッシュ
(1906ねん5がつ - 1972ねん4がつ

在任ざいにん期間きかん 1951ねん1がつ16にち - 1955ねん1がつ18にち
ふく知事ちじ ジョージ・ティマーマン

在任ざいにん期間きかん 1945ねん7がつ3にち - 1947ねん1がつ21にち
大統領だいとうりょう ハリー・S・トルーマン

その職歴しょくれき
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
上院じょういん議員ぎいん

1931ねん3月4にち - 1941ねん7がつ8にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
下院かいん議員ぎいん

1911ねん3月4にち - 1925ねん3月3にち
テンプレートを表示ひょうじ

経歴けいれき

編集へんしゅう

1882ねん5がつ2にちサウスカロライナしゅうチャールストン誕生たんじょうする。母子ぼし家庭かていまずしい家庭かていそだち、仕立したいとなははたすけるために高校こうこう中退ちゅうたいし、独学どくがく法律ほうりつまなぶ。

1911ねん3がつから1925ねん3がつまで連邦れんぽう下院かいん議員ぎいん、1931ねん3がつから1941ねん7がつまで連邦れんぽう上院じょういん議員ぎいんとなり、在任ざいにんちゅう地元じもとでの水力すいりょく発電はつでんところ建設けんせつなどの内政ないせいめんでの功績こうせきのこした。そのフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうによって連邦れんぽう政府せいふ戦時せんじ動員どういん局長きょくちょう抜擢ばってきされ、原爆げんばく開発かいはつ担当たんとうしていたマンハッタン計画けいかくにもふかかかわっていくこととなる。

1943ねん5がつ戦時せんじ動員どういん局長きょくちょうとなったバーンズは、国内こくない産業さんぎょう資本しほんすべ軍需ぐんじゅ物資ぶっし生産せいさんえさせるなど、統制とうせい経済けいざいてき手法しゅほうもちいた。また、マンハッタン計画けいかく責任せきにんしゃ1人ひとりとして、ひがしヨーロッパ覇権はけんつよめるソ連それん牽制けんせいするために、日本にっぽんたいする原爆げんばく攻撃こうげき支持しじしていた。そのため、天皇てんのうせい護持ごじれられれば日本にっぽんには終戦しゅうせん交渉こうしょう余地よちがあるとする、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ日本にっぽん有望ゆうぼう投資とうしさきかんがえるジョセフ・グルー国務こくむ次官じかんら3にん委員いいんかいとはせい反対はんたい路線ろせんであった。

国務こくむ長官ちょうかん

編集へんしゅう

1945ねん7がつ国務こくむ長官ちょうかんとなり、3にん委員いいんかい提言ていげん独断どくだん黙殺もくさつして原子げんしばくだん使用しようつよ大統領だいとうりょう進言しんげんした。「一発いっぱつ都市としばせる兵器へいき我々われわれアメリカが所有しょゆうしていることを事前じぜん警告けいこくすべきである。それでも降伏ごうぶくしなければ原爆げんばく投下とうかすると日本にっぽん政府せいふつたえるべきだ」と主張しゅちょうし、警告けいこく原爆げんばく投下とうか反対はんたいうったえたジョン・マクロイ陸軍りくぐん次官じかんたいして、「それはアメリカのよわさをしめすものだ、原爆げんばく投下とうかまえ天皇てんのうせい保証ほしょう降伏ごうぶくびかけるのは反対はんたいだ」とべる[1]。バーンズはポツダム会談かいだんかうふねなかで、マクロイの助言じょげん無視むしするようトルーマンを説得せっとくした。ただし、コーデル・ハルもと国務こくむ長官ちょうかんがバーンズに、天皇てんのうせい存続そんぞくが「アメリカでおそれるべき政治せいじてき反響はんきょう」をこすことを警告けいこくしたのである。アメリカのような世論せろん選挙せんきょおおきく依存いぞんするくに政治せいじ世論せろんに(さらには国務省こくむしょうにまで)反対はんたいして天皇てんのうせい存続そんぞく容認ようにんするわけにはいかなかった。こうして7がつ23にちにトルーマンが中国ちゅうごく蒋介石しょうかいせきにポツダム宣言せんげん最終さいしゅう草案そうあん送付そうふした時点じてんで、天皇てんのうせい条項じょうこう削除さくじょされたのであった[2]

また、日本にっぽん最初さいしょポツダム宣言せんげん受諾じゅだく回答かいとう[3]拒否きょひし、「天皇てんのう日本にっぽん政府せいふ権威けんい連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかん従属じゅうぞくsubject to)する」という趣旨しゅしの「バーンズ回答かいとう」を起草きそう返信へんしんしたことでもられる。日本にっぽん政府せいふ最終さいしゅうてきにこのバーンズ回答かいとうれてポツダム宣言せんげん受諾じゅだくした。

1946ねん9がつには占領せんりょうのドイツにおける強硬きょうこうだつ工業こうぎょう政策せいさく見直みなおし、ソ連それんたいする牽制けんせい戦後せんごのドイツを利用りようするために『ドイツ産業さんぎょう再建さいけん支持しじする演説えんぜつ』をおこない、ドイツ国民こくみん将来しょうらいへの希望きぼうあたえている。しかし、「ポケットに原爆げんばく」とばれた原爆げんばく使用しようたい東側ひがしがわ外交がいこうふだ使用しようする姿勢しせいがトルーマン大統領だいとうりょうから危険きけんされ、1947ねん1がつ解任かいにんされた。1951ねん1がつから1955ねん1がつまでサウスカロライナしゅう知事ちじつとめた。

故郷こきょうもどって奨学しょうがくきん制度せいど創設そうせつ(バーンズ基金ききん)などに尽力じんりょくし、地元じもとではいま人気にんきがある。1972ねん4がつ9にちサウスカロライナしゅうコロンビアにて、89さい死去しきょした。

1906ねん5がつにモード・パーキンズ・ブッシュと結婚けっこんした[4]2人ふたりあいだ子供こどもはいない。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 2005ねん8がつ5にち放送ほうそう。ドキュメンタリー番組ばんぐみヒロシマ 〜あのとき原爆げんばく投下とうかめられた〜』より
  2. ^ 戦争せんそうはいかに終結しゅうけつしたか大戦たいせんからベトナムイラクまで』千々ちじかず泰明やすあきちょ
  3. ^ 天皇てんのう統治とうち大権たいけん変更へんこうくわえないことを条件じょうけんとした受諾じゅだくこと
  4. ^ モードブッシュバーンズ-しん南部なんぶ女性じょせい

外部がいぶリンク

編集へんしゅう
先代せんだい
エドワード・ステティニアス
  アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかん
だい49だい:1945ねん7がつ3にち - 1947ねん1がつ21にち
次代じだい
ジョージ・マーシャル