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藤原為房 - Wikipedia

藤原ふじわらためぼう

平安へいあん時代じだい後期こうき公卿くぎょう甘露かんろてら5だい藤原ふじわらたかしかた長男ちょうなんせいさん参議さんぎ

藤原ふじわら ためぼう(ふじわら の ためふさ)は、平安へいあん時代じだい後期こうき公卿くぎょう藤原ふじわらきた勧修寺かんしゅうじりゅう但馬たじままもる藤原ふじわらたかしかた長男ちょうなん官位かんいせいさん参議さんぎぼうじょう大蔵おおくらきょう勧修寺かんしゅうじごうした。

 
藤原ふじわら ためぼう
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき
生誕せいたん ながうけたまわ4ねん1049ねん
死没しぼつ 永久えいきゅう3ねん4がつ2にち1115ねん4がつ27にち
別名べつめい ぼうじょう大蔵おおくらきょう勧修寺かんしゅうじ
官位かんい せいさん参議さんぎ
主君しゅくん 白河天皇しらかわてんのう堀河ほりかわ天皇てんのう鳥羽天皇とばてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた勧修寺かんしゅうじりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわらたかしかたはは平行へいこうおやおんな
つま みなもとよりゆきこくおんな藤原ふじわらひさしぎょうおんな
讃岐さぬき宣旨せんじ藤原ふじわらじょうしゅんおんな
ためたかしあらわたかし重隆しげたかちょうたかし泰隆やすたかあさたかしおやたかし
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博学はくがくかつ、優秀ゆうしゅう実務じつむ官僚かんりょうとして活躍かつやくし、のちの勧修寺かんしゅうじりゅう一門いちもん繁栄はんえい基礎きそきずいた。大江匡房おおえのまさふさ藤原ふじわら伊房いぶさともに「まえさんぼう」としょうされる。日記にっきに『ためぼうきょう』がある。

経歴けいれき

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延久のべひさ3ねん1071ねん後三条ごさんじょう天皇てんのうろく蔵人くろうどせられ、よく延久のべひさ4ねん1072ねん三条さんじょう天皇てんのう白河天皇しらかわてんのう譲位じょういしていんちょうひらくとためぼういん判官ほうがんだいにんぜられた。

延久のべひさ5ねん1073ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、うけたまわ2ねん1075ねん遠江とおとうみまもる任官にんかんする。のち、中宮なかみや藤原ふじわら賢子さとこ中宮ちゅうぐうしょう/大進たいしんて、えい3ねん1083ねん左衛門さえもんけん検非違使けびいし)、えい4ねん1084ねん蔵人くろうどおうとく3ねん1086ねんけんひだりしょうべん次々つぎつぎ要職ようしょくにんぜられさんこと兼帯けんたい栄誉えいよよくした。またそのかたわらで、摂関せっかんどおり忠実ちゅうじつ)のいえつとめている[注釈ちゅうしゃく 1]

寛治かんじ6ねん1092ねんためぼう下人げにん日吉ひよし神社じんじゃ神人しんじん殺害さつがいしたとの理由りゆう延暦寺えんりゃくじ衆徒しゅとからうったえられ、阿波あわ権守ごんもり左遷させんされるが、よく寛治かんじ7ねん1093ねんゆるされて帰京ききょうよしみ元年がんねん1094ねん)にはわきまえかん時代じだいの「春日しゅんじつ行幸ぎょうこう行事ぎょうじしょう」を名目めいもくしたがえよん修理しゅうりけん大夫たいふ叙任じょにんされて完全かんぜん復権ふっけんした。

白河しらかわいん近臣きんしんとして信頼しんらいあつく、よしみ2ねん1095ねんしたがえよんじょうよしみ3ねん1096ねんせいよんよしみうけたまわ2ねん1107ねんせいよんじょう蔵人くろうどあたま順調じゅんちょう昇進しょうしんてんひさし2ねん1111ねん参議さんぎにんぜられ、勧修寺かんしゅうじりゅうとしては高祖父こうそふ藤原ふじわらため以来いらい125ねんぶりの公卿くぎょうとなった。勧修寺かんしゅうじりゅうから公卿くぎょう輩出はいしゅつしたことはおどろきのをもってむかえられたらしく、「一家いっか繁盛はんじょう千載せんざいかちごと[2]、「凡人ぼんじんといへども、子孫しそん繁盛はんじょうもの[3]、とひょうされた。

その永久えいきゅう2ねん1114ねんいん別当べっとうしょうとしてせいさんいたる。永久えいきゅう3ねん1115ねん)4がつ2にち腫物しゅもつにより薨去こうきょ享年きょうねん67。

ためぼう異例いれい昇進しょうしんについては、自身じしん能力のうりょくくわえ、いもうと藤原ふじわら光子みつこ藤原ふじわらこうしつ堀河ほりかわ鳥羽とばりょう天皇てんのう乳母うば)にうところもおおきかったともわれている[4]。「よる関白かんぱく」の異名いみょうゆうした次男じなん藤原ふじわらあらわたかしをはじめとする子孫しそん蔵人くろうどべんかんから参議さんぎ中納言ちゅうなごんいた家系かけいとして定着ていちゃくすることとなった。

永久えいきゅう元年がんねん1113ねん)に発生はっせいした2つの事件じけんにおいて、ためぼう発言はつげんにより、朝廷ちょうてい方針ほうしんけっしたとのはなしつたわっている。

鳥羽天皇とばてんのう暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんである永久えいきゅうへんにおいて、犯人はんにんとされ流罪るざいとなったじんさとし係累けいるいについての詮議せんぎこったさい、これほどの悪逆あくぎゃく父母ちちはは兄弟きょうだいまで関与かんよしたものではなく縁者えんじゃつみ必要ひつようはない、とためぼう発言はつげん。これに公卿くぎょう一同いちどう同意どういし、ひとしさとしちちである左大臣さだいじんみなもとしゅんぼうはじ縁者えんじゃについては不問ふもんされた[5]
興福寺こうふくじ延暦寺えんりゃくじ衆徒しゅとかえ朝廷ちょうていたいして強訴ごうそおこなった、いわゆる永久えいきゅう強訴ごうそにおいて、延暦寺えんりゃくじ衆徒しゅと大挙たいきょして日吉ひよし神社じんじゃ御輿みこしほうじて上洛じょうらくし、以前いぜん興福寺こうふくじ衆徒しゅと上洛じょうらくしたさい祇園ぎおんしゃ神人しんじん暴行ぼうこうはたらいたとして、興福寺こうふくじけんしょう僧都そうずじつさとし流罪るざい朝廷ちょうてい要求ようきゅうした。これにたいして、白河しらかわ法皇ほうおう公卿くぎょう招集しょうしゅうして対策たいさく協議きょうぎしたが、藤原ふじわらてらである興福寺こうふくじ仏罰ぶつばつと、目前もくぜんせま延暦寺えんりゃくじ衆徒しゅととの両方りょうほうおそれて、公卿くぎょうかたまった発言はつげんするものはいなかった。しかし、藤原ふじわらためぼう発議はつぎによりようやく延暦寺えんりゃくじ要求ようきゅうれることにまり、朝廷ちょうてい延暦寺えんりゃくじたいしてじつさとし処罰しょばつと、今後こんご興福寺こうふくじうったえがあっても延暦寺えんりゃくじそうつなばっしないと約束やくそくした。

かんれき

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公卿くぎょう補任ほにん』による。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ さら村上むらかみはじめみなもと雅実まさみにもつかえていた時期じきがある[1]

出典しゅってん

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  1. ^ ちょうあきてんなが2ねん9がつ4にちじょう
  2. ^ ちゅう右記うき
  3. ^ へいはん
  4. ^ まき道雄みちおいん近臣きんしん研究けんきゅうぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、2001ねん
  5. ^ 源平げんぺい盛衰せいすい
  6. ^ たい久安ひさやす3ねん10がつ24にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 河野こうの房雄ふさお白河しらかわ鳥羽とばりょう院政いんせい内蔵ないぞうあたま」(『平安へいあん末期まっき政治せいじ研究けんきゅう』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1979ねん
  • ところいさお筆者ひっしゃためぼう略伝りゃくでん」(『ふみ聚』10ごう、1979ねん)。
  • 木本きもと好信よしのぶ藤原ふじわらためぼう-その生涯しょうがい日記にっき大府おおぶ』-」(『平安朝へいあんちょうかんじん記録きろく研究けんきゅう』、おうふう、2000ねん
  • まき道雄みちおよる関白かんぱく院政いんせい」(『いん近臣きんしん研究けんきゅう』、ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、2001ねん
  • 公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん