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尾張国 - Wikipedia

尾張おわりこく

近国きんごくぞくするれいせいこくひと

尾張おわりこく(おわりのくに、をはりのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。東海道とうかいどうぞくする。愛知あいちけん西部せいぶにあたる。

尾張おわりこく

-尾張おわりこく
-東海道とうかいどう
別称べっしょう しゅう(びしゅう)
所属しょぞく 東海道とうかいどう
相当そうとう領域りょういき 愛知あいちけん西部せいぶ
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 近国きんごく
ぐんさとかず 8ぐん69さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
尾張おわり国府こくふ 愛知あいちけん稲沢いなざわ
尾張おわり国分寺こくぶんじ 愛知あいちけん稲沢いなざわ尾張おわり国分寺こくぶんじあと
尾張おわり国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい愛知あいちけん稲沢いなざわ
一宮いちのみや 真清田ますみだ神社じんじゃ愛知あいちけん一宮いちのみや
大神神社おおみわじんじゃ愛知あいちけん一宮いちのみや
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概要がいよう

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名称めいしょう由来ゆらい

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7世紀せいき後半こうはん木簡もっかんでは尾張おわりこく治国ちこくふたつの表記ひょうきられる[1]平安へいあん時代じだいつくられた『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ天孫てんそん本紀ほんぎ尾張おわり系譜けいふにも「」とある。大宝たいほう4ねん704ねん)にくにしるし鋳造ちゅうぞうされたときに尾張おわりさだめられたと推定すいていされる[2]

やまとくんしおり』には「尾張おわりくには、みなみさとしおおぐんのかた、ちょういずるたるがごとし、一説いっせつしょう墾の義也よしや」、 『古事記こじきでん』には「尾張おわりこく名義めいぎおもえず」などと諸説しょせつがあり、はっきりしない。

なお、古代こだい東海道とうかいどう伊勢いせこくから海路かいろ伊勢湾いせわん経由けいゆ三河そうごこくびていたとするせつもあり、初期しょき尾張おわりこく東山ひがしやまみちぞくしており、のち交通こうつう変化へんか東海道とうかいどうぞくするようになったとするせつもある[3]

領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい下記かき区域くいき相当そうとうする。

弥生やよい時代じだい

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古墳こふん時代じだい大和やまと時代じだい

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飛鳥あすか時代ときよ

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えきりんほんの『節用せつようしゅう』によると尾張おわりこく肥沃ひよくあつ土肥どい)な大上おおがみこくしるされており、古代こだいから須恵すえ土師器はじきなどのもの生産せいさんさかんであった。 その富裕ふゆう農業のうぎょう生産せいさんりょく畿内きないへの地理ちりてきちかさを背景はいけいにして朝廷ちょうていささえる律令りつりょうこくとして成長せいちょうした。

奈良なら時代じだい

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このうち神護かんごけいくも3ねん記事きじによると、当時とうじ国府こくふ国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら位置いち鵜沼うぬまがわげん木曽川きそがわ下流かりゅうとされる[4][5]。 『日本にっぽんりゃくもとけい8ねん884ねん)8がつ26にちじょうでは、尾張おわり国分寺こくぶんじ焼失しょうしつし、その機能きのうあいさとしぐん定額ていがくてら願興寺がんごうじげん名古屋なごやちゅう尾張おわり元興寺がんごうじあとか)にうつしたとえる[4][ちゅう 6]発掘はっくつ調査ちょうさにおいても、この焼失しょうしつ存続そんぞくみとめられていない[5]

中世ちゅうせい

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古代こだいよりつづ水利すいり工事こうじすすめられ(木曽川きそがわ長良川ながらがわ流域りゅういき隣国りんごく美濃みのこくとともに耕地こうち開発かいはつされた)、くに面積めんせきちいさいながらもべい生産せいさんだか他国たこくくらはやくから向上こうじょうした。

平安へいあん時代じだい

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みなもと頼朝よりとも生誕せいたんとされる熱田あつた神宮じんぐうだい宮司ぐうじ藤原ふじわら別邸べっていあと誓願寺せいがんじ

また、はん養女ようじょ孫娘まごむすめ)は足利あしかが義康よしやす(足利あしかが初代しょだい)にとついでおり、足利あしかがにも血脈けちみゃくつたえている(足利あしかが8代目だいめ室町むろまち幕府ばくふひら足利尊氏あしかがたかうじである)。

鎌倉かまくら時代ときよ

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室町むろまち時代ときよ

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清洲きよすしろ清須きよす
以後いご戦国せんごくいたる150年間ねんかん尾張おわり足利あしかが一門いちもん守護しゅごさん管領かんりょう斯波しば領国りょうごくとなった。
なお、1391ねんには知多ちたぐんが、1395ねんにはうみひがしぐんぶんぐん守護しゅご一色いっしきにんじられているが、これは当時とうじ守護しゅごであった土岐とき牽制けんせいする措置そちであったとされている。だが、うみひがしぐん1430ねん一色いっしきよしぬき足利あしかが義教よしのり対立たいりつして没収ぼっしゅうされ、知多ちたぐん応仁おうにんらん一色いっしき義直よしなお西にしぐんいたさい室町むろまち幕府ばくふ没収ぼっしゅうされている[7]

戦国せんごく時代じだい

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斯波しば守護しゅごだい織田おだ実力じつりょくつも、応仁おうにんらん発生はっせい織田おだふたつに分裂ぶんれつひがしぐんについた「大和やまともり清洲きよす織田おだ)」と西にしぐんについた「伊勢いせまもる岩倉いわくら織田おだ)」が戦後せんご尾張おわり支配しはいめぐってこうそう状態じょうたいとなる。 斯波しば両者りょうしゃたくみに操縦そうじゅうしていたが、やがて実力じつりょくうしなう。また駿府すんぷ今川いまがわおや東尾ひがしおちょう侵攻しんこうした名残なごりで那古野なごのしろ今川いまがわ保有ほゆうとなる。 「大和やまともり」の家老がろう一族いちぞくが「弾正だんじょうちゅう」として枝分えだわかれし、織田おだ信秀のぶひでだい躍進やくしんする。信秀のぶひで那古野なごのしろ今川いまがわゆたかからうばるなど功績こうせきげた。

近世きんせい

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おけ狭間はざま古戦場こせんじょう伝説でんせつ豊明とよあけ
 
小牧こまき山城やましろ小牧おまき
 
犬山いぬやましろ犬山いぬやま
 
長久手ながくて古戦場こせんじょう公園こうえん長久手ながくて

安土あづち桃山ももやま時代じだい

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信秀のぶひで死後しご家督かとく相続そうぞくめぐって大和やまともりから干渉かんしょうがあったものの、織田おだ信長のぶなが家督かとくぐ。 信長のぶなが斯波しば後援こうえんし、大和やまともり伊勢いせまもる排除はいじょさら斯波しば信長のぶなが追放ついほうくわだてると斯波しば追放ついほう伊勢いせ長島ながしま占拠せんきょしていた一向いっこうそうほろぼして尾張おわり統一とういつげた。

ところが安土あづち入城にゅうじょうして信長のぶなが実質じっしつてき後継こうけいしゃ宣言せんげんしようとした信雄のぶお秀吉ひでよし退去たいきょさせられたことで関係かんけい悪化あっか隣国りんごく三河みかわこく徳川とくがわ家康いえやす同盟どうめいむすぶ。

しかし様々さまざま計略けいりゃく信雄のぶお単独たんどく講和こうわ成功せいこうし、大義名分たいぎめいぶんうしなった家康いえやす撤兵てっぺいする。豊臣とよとみ政権せいけん尾張おわりこく当初とうしょ織田おだ信雄のぶお統治とうちされた。

そして、関ヶ原せきがはら戦功せんこうにより徳川とくがわ家康いえやすよんなん松平まつだいら忠吉ただよし領主りょうしゅとなり、尾張おわりこく全域ぜんいき美濃みの一部いちぶ領地りょうちとする清洲きよすはん成立せいりつした。しかし忠吉ただよし1607ねん慶長けいちょう12ねん)に28さい死去しきょ断絶だんぜつとなる。家康いえやすきゅうなん忠吉ただよしおとうとにあたる甲斐かい甲府こうふはんおも徳川とくがわ義直よしなおうたてふうじして清洲きよすはん継承けいしょうした。

尾張おわりこくみなもと頼朝よりとも織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしというさんにん天下てんかじん輩出はいしゅつ。このほか尾張おわりこく出身しゅっしん武将ぶしょうとしては、柴田しばた勝家かついえ丹羽にわ長秀ながひで前田まえだ利家としいえ池田いけだ輝政てるまさ山内やまうち一豊かずとよ加藤かとう清正きよまさ福島ふくしま正則まさのり蜂須賀はちすか正勝まさかつ佐久間さくましんもり佐久間さくまもりまさし佐々ささしげるせい堀尾ほりお吉晴よしはる浅野あさの長政ながまさなどが有名ゆうめいである。

江戸えど時代じだい

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名古屋なごやじょう
 
有松ありまつまち名古屋なごやみどり
 
陶栄とうえいかま常滑とこなめ
 
亀崎かめざき潮干しおひさい半田はんだ
江戸えど時代じだい初期しょきから後期こうき

徳川とくがわ義直よしなお入府にゅうふ東海道とうかいどうすじ重要じゅうよう拠点きょてんとしてさい整備せいびおこなわれる。

築城ちくじょうにあたり清洲きよす城下町じょうかまちがそっくり移転いてんされ、清洲きよすじょう資材しざい名古屋なごや築城ちくじょうさい利用りようされた(清洲きよす)。こうしてながらく尾張おわり支配しはい象徴しょうちょうだった清洲きよすしろやぶ却となり、かわって名古屋なごやじょう中心ちゅうしんとなる。この決定けっていについては、清洲きよす城址じょうし発掘はっくつ調査ちょうさ1586ねん1がつ18にち天正てんしょう13ねん)に発生はっせいした天正てんしょう地震じしん深刻しんこく液状えきじょう現象げんしょう発生はっせいし、当時とうじ清洲きよす城主じょうしゅ織田おだ信雄のぶおだい規模きぼ改修かいしゅうおこなったが根本こんぽんてき解決かいけついたらなかったためとかんがえられている。また名古屋なごや移転いてんともない、呼称こしょう清洲きよすはんから尾張おわりはんあらためられた。家格かかく徳川とくがわ御三家ごさんけ筆頭ひっとうという将軍家しょうぐんけ格別かくべつ位置いちかれ、その城下町じょうかまちたる名古屋なごや江戸えど時代じだい中期ちゅうきごろにはさん大都市だいとしとなった。

当時とうじは、徳川とくがわ吉宗よしむねによるとおる改革かいかく只中ただなか規制きせいいかめしかったため、全国ぜんこくから文化ぶんかじん名古屋なごやあつまり、今日きょうげいどころ名古屋なごや基礎きそきずかれていった[8]

  • 産業さんぎょうめんでは、徳川とくがわ家康いえやすから義直よしなお婚礼こんれいいわいとして木曽きそ山々やまやまあたえられていたことにより、木曽川きそがわくだって良質りょうしつ大量たいりょう木材もくざい名古屋なごや集積しゅうせきされ、名古屋なごやきり箪笥だんす名古屋なごや仏壇ぶつだんおけなど、木工もっこう産業さんぎょうさかんになった。また、家康いえやす機械きかいしき時計とけい修理しゅうりした津田つだ助左衛門すけざえもん尾張おわりはんかか時計とけいとなり、その技術ぎじゅつかず時計とけいからくり人形にんぎょうかされた。

こうした木工もっこう時計とけい技術ぎじゅつのち鉄道てつどう車両しゃりょう飛行機ひこうき自動車じどうしゃなどに利用りようされ、名古屋なごやものづくり産業さんぎょう原点げんてんとなっている[8]。 その尾張おわりはん陶磁器とうじき独占どくせん産業さんぎょうとして位置付いちづけたため、戦国せんごく時代じだい末期まっきには衰退すいたいしていた瀬戸せと陶磁器とうじきまちとして復興ふっこうしている。

  • 知多半島ちたはんとうでは、醸造じょうぞうぎょうがさかんになり、なださけ生産せいさんであったという[9]同時どうじ海運かいうんぎょう発展はってんし、しゅう廻船かいせん活躍かつやくした。さけ味噌みそ常滑とこなめしょうなどをはこぶほか、遠隔えんかく仕入しいれた荷物にもつ売買ばいばいする「かいせき方式ほうしき莫大ばくだい利益りえきかせいだ[9]

文化ぶんかめんでは、このときたくわえられた財力ざいりょく建造けんぞうされたとされるからくり人形にんぎょう搭載とうさいされた豪華ごうか山車だしをひくまつりが、現在げんざいでも知多半島ちたはんとう各地かくちおこなわれている[10]

  • 現在げんざいいたしょく文化ぶんかもこの時代じだい形成けいせいされた。義直よしなお徳川とくがわそう本拠ほんきょたる岡崎おかざきから職人しょくにんまねいて八丁はっちょう味噌みそつくらせた。現代げんだいでも「名古屋なごやえばミソ文化ぶんか」とされ、味噌みそ煮込にこみうどん味噌みそカツ味噌みそおでんといったほか地方ちほうにはない独特どくとくしょく文化ぶんかとして認知にんちされている。三河みかわ芋川いもかわ発祥はっしょうとされる「いもかわうどん」が名古屋なごやきしめんとして人々ひとびとあいされ、現代げんだいいたっている。
  • 尾張おわりはん表向おもてむきのろくだかやく62まんせき尾張おわりこくで47まんせきだが広範囲こうはんいがあった)だが、殖産しょくさん奨励しょうれいにより実質じっしつてきろくだかは100まんせき以上いじょうあったとされ、全国ぜんこくてきにみても非常ひじょう裕福ゆうふくはんであった。このためよんおおやけろくみんという全国ぜんこくてきにみてもひく税率ぜいりつであった。

ところが、相次あいつ飢饉ききん災害さいがいなどの天災てんさいにより赤字あかじ体質たいしつとなっていく。

 
名古屋なごや市役所しやくしょ愛知あいちけん庁舎ちょうしゃ
 
名古屋なごやちゅう
 
戦災せんさい焼失しょうしつした名古屋なごやじょう天守てんしゅかねしゃち
 
長久手ながくて
江戸えど時代じだい末期まっき

近代きんだい

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明治めいじ時代じだい

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明治維新めいじいしん中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか形成けいせいされると、名古屋なごや明治めいじ政府せいふによる地方ちほう支配しはい拠点きょてん都市としとなり、現在げんざいいたっている。

明治維新めいじいしん

なお名古屋なごやじょうは、慶勝よしかつ提案ていあんやぶ却およびきむしゃち献上けんじょう申請しんせいされた。

その名古屋なごや離宮りきゅう1930ねん昭和しょうわ5ねん)に廃止はいしされることになり、宮内くないしょうから名古屋なごや下賜かしされた。その一方いっぽう城内きうち1872ねん明治めいじ5ねん東京とうきょう鎮台ちんだいだいさんふん営がかれた。1873ねん明治めいじ6ねん)には名古屋なごや鎮台ちんだいとなり、1888ねん明治めいじ21ねん)にだいさん師団しだん改組かいそされ、太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんいたるまでおも兵器へいきとして活用かつようされた。このためべいぐん名古屋大なごやだい空襲くうしゅう焼夷弾しょういだん直撃ちょくげき焼失しょうしつした。天守てんしゅは、地元じもと商店しょうてんがい尽力じんりょく全国ぜんこくからの寄付きふにより1959ねん昭和しょうわ34ねん)に再建さいけんされて、復元ふくげんされたきむしゃちとともに名古屋なごやのシンボルとなり、現在げんざいいたっている。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML
 
尾張おわり国衙こくが稲沢いなざわ松下まつした
尾張おわり国衙こくが推定すいてい
 
尾張おわり大国たいこく霊神れいじんしゃ稲沢いなざわ

国府こくふ中島なかじまぐん所在しょざいした。地名ちめいがかりに、つぎの2箇所かしょ候補こうほにあがっている。

天保てんぽう15ねん松下まつしたむら絵図えずは「中嶋なかじまぐん国衙こくが庄松しょうまつ原郷はらごう松下まつしたむら絵図えず」としょうし、中央ちゅうおうに「赤染あかぞめ衛門えもん城跡じょうせきなり、いま国衙こくが屋敷やしきみやト唱」としるされる[11]

  • 稲沢いなざわ下津しもつまち
    ひがし国府こくふ」「西にし国府こくふ」の小字こあざがあり、近辺きんぺん所在しょざい推定すいていされている。発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれていない。

げん段階だんかいでは、発掘はっくつ調査ちょうさ不十分ふじゅうぶんであるため所在地しょざいちあきらかでない[12]考古学こうこがく古代こだい学的がくてきには松下まつしたせつ有力ゆうりょくされるが、中世ちゅうせいごろ洪水こうずいにより松下まつしたから下津しもつ室町むろまちには守護しゅごしょ所在しょざい)に移転いてんしたと推測すいそくするせつもある[12]

なお『節用せつようしゅうえきりんほんでは海部かいふぐんに「」と記載きさいされている。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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尾張おわり国分寺こくぶんじあと稲沢いなざわ矢合やわせまち

そのほかの尾張おわり古代こだい寺院じいんとしては長福寺ちょうふくじ廃寺はいじ一宮いちのみや千秋ちあきまち)、尾張おわり元興寺がんごうじ遺跡いせき名古屋なごやちゅう正木まさきまち)、東畑とうはた廃寺はいじ稲沢いなざわ東畑とうはた)、大山おおやま廃寺はいじあと小牧おまき野口のぐち)がられる。

神社じんじゃ

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真清田ますみだ神社じんじゃ一宮いちのみや

延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ88しゃ小社しょうしゃ113113しゃけい121121しゃ記載きさいされている(「尾張おわりこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ8しゃ以下いかしめすもので、すべ名神めいしん大社たいしゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[13]

守護しゅごしょ

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鎌倉かまくら時代ときよ守護しゅごしょ位置いちしょうだが、将軍しょうぐん宿泊しゅくはくかなら萱津かいづてられ、守護しゅごはその接待せったいをしたことからその近辺きんぺんだというせつがある。

いつごろからはさだかでないが、室町むろまち時代ときよには下津しもつ稲沢いなざわ)にあった。

鎌倉かまくら時代じだいは、『海道かいどう』によると「(夜陰やいんわきといふしょとまる。まえおろせば、うみさしりて、かわはくみんしおにやしなはれ。)わきをたちて津島つしまのわたりといふしょふねにてくだれば(中略ちゅうりゃくわたりはつれば尾張おわりくにうつりぬ。(中略ちゅうりゃく萱津かいづ宿やどとまりぬ。」とあり、この当時とうじ弥富やとみ津島つしまは、尾張おわりこくなされておらず、あま甚目寺じもくじ萱津かいづあたりから尾張おわりこくであったとかんがえられている。

きたとなり美濃みのこくとは現在げんざい木曽川きそがわ一部いちぶ境川さかいがわあたり、長良川ながらがわ一部いちぶ国境こっきょうとした。氾濫はんらんによりかわりゅうがしばしばわり、紛争ふんそうきることもあった。鎌倉かまくら時代ときよにはろく探題たんだい管轄かんかつ西国さいごくあつかいをけていた。鎌倉かまくら時代ときよにおきた承久じょうきゅうらんによると尾張おわりこく範囲はんい尾張おわりきゅう認識にんしきされ、ぜんわたりしるししょく墨俣すのまたなどのわたさかいとしていた。尾張おわりこく愛知あいちけんよりはきた西にしひろかった。ただし、領国りょうごく支配しはいとしては美濃みのこく土岐とき管理かんりしていたことがおおいために美濃みのこくとの記載きさいおおい。戦国せんごく時代じだいにはおおくが斉藤さいとう支配しはいであったようだが、織田おだにとっては尾張おわりがわ現在げんざい境川さかいがわ)と墨俣すのまたがわ現在げんざい長良川ながらがわ羽島はしま小熊こぐままちよりみなみ)が尾張おわり認識にんしきされており天正てんしょう14ねんまでは尾張おわりこくとしてあつかっている。木曽川きそがわは、豊臣とよとみ政権せいけん時代じだい天正てんしょう14ねん1586ねん)に氾濫はんらんしてほぼ現在げんざいどうりゅうながれるようになった。天正てんしょう14ねん1586ねん)に木曽川きそがわ氾濫はんらんしてながれをほぼ現在げんざいのものにえたことをうけて、変更へんこうされた木曽川きそがわ北岸ほくがん中洲なかす尾張おわりこくから美濃みのこくうつした。現在げんざい地図ちずにあてはめると、北岸ほくがん岐阜ぎふけんのうち境川さかいがわ木曽川きそがわにはさまれた一帯いったい中洲なかす各務原かがみはら川島かわしまにあたる。該当がいとうするのは、岐阜ぎふきゅう柳津やないづまち一部いちぶとう)、各務原かがみはらきゅういねはねまち一部いちぶきゅう川島かわじままち)と、羽島はしまぐんのほぼ全域ぜんいき岐南ぎなんまち笠松かさまつまち)、羽島はしまのほぼ全域ぜんいき海津かいづきゅう海津かいづまち平田ひらたまちだい部分ぶぶん)である。「天正てんしょうだい洪水こうずい」によって葉栗はぐりぐん中島なかじまぐんうみ西郡にしごおりあたらしい木曽川きそがわによって分断ぶんだんされ、しんりゅう西岸せいがん美濃みのこく編入へんにゅうされた。古事ふるごとるいえんによると豊臣とよとみ秀吉ひでよし意向いこうであったことが記載きさいされている。そのため、愛知あいちけんがわ岐阜ぎふけんがわおな地名ちめいいまもいくつかのこる(れい愛知あいちけん一宮いちのみやひがし加賀野井かがのい岐阜ぎふけん羽島はしま下中しもなかまち加賀野井かがのい愛知あいちけん一宮いちのみや浅井あさいまち河田かわた岐阜ぎふけん各務原かがみはら川島かわじままち河田かわたことなるが、愛知あいちけん一宮いちのみや木曽川きそがわまち三ツ法寺みつほうじ岐阜ぎふけん羽島はしま正木まさきまち光法みつのりてら。) 現在げんざい愛知あいちけん西部せいぶにありながら上記じょうき国境こっきょう変更へんこう尾張おわりこくぞくさなかった地区ちくに、現在げんざい稲沢いなざわ祖父江そぶえまち一部いちぶ一宮いちのみや東加賀野井ひがしかがのい一宮いちのみや西中野にしなかのなどがある。これはれいせいこく廃止はいしに、市町村しちょうそん境界きょうかい変遷へんせん所属しょぞくするけんうつったものである。

江戸えど時代じだいでは尾張おわりこく美濃みのこくおおくの地域ちいきは、尾張おわりはん中心ちゅうしんとなりこまかく分割ぶんかつされて管理かんりされた。

  • 知多ちたぐん…「ちたぐん」とむ。もとは「さとしおおぐん」といた。
  • 愛知あいちぐん…「あいちぐん」とむ。もとは「あいさとしぐん」といた。
  • 春日井かすがいぐん…「かすがいぐん」とむ。もとは「春部はるべぐん(かすかべぐん)」と表記ひょうき現在げんざい春日井かすがい西春日井にしかすがいぐんなど。
  • 丹羽たんばぐん…「にわぐん」とむ。
  • 葉栗はぐりぐん…「はぐりぐん」とむ。現在げんざい一宮いちのみや北部ほくぶ江南えな北部ほくぶ
  • 中島なかじまぐん…「なかしまぐん」とむ。現在げんざい一宮いちのみや南部なんぶ稲沢いなざわ
  • うみひがしぐん…「かいとうぐん」とむ。もと海部かいふぐん(あまぐん)。大正たいしょううみ西郡にしごおり統合とうごう
  • うみ西郡にしごおり…「かいさいぐん」とむ。もと海部かいふぐん(あまぐん)。大正たいしょううみひがしぐん統合とうごう
  • 山田やまだぐん…「やまだぐん」とむ。戦国せんごく春日井かすがいぐん愛知あいちぐん分割ぶんかつ編入へんにゅうされ消滅しょうめつ

古事ふるごとるいえん』では、尾張おわり国内こくないには69さと存在そんざいすることがしるされている。

  • 中嶋なかじまぐん美和みわ神戸こうべ拜師はやししょうふさが三宅みやけ茜部あかなべ石作いしづくり日野ひのかわ
  • 葉栗はぐりぐん葉栗はぐり河沼かわぬま大毛おおけ村國むらくに若栗わかぐり
  • 海部かいふぐん新屋あらや中島なかじま津積つつみ志摩しま伊福いふく島田しまだ海部かいふ日置ひおきさんがたな物忌ものいみ三宅みやけ八田はった
  • 丹羽たんばぐんかずら稻木いなぎうえはる丹羽にわ穗積ほづみ大桑おおくわ下沼しもぬま上沼かみぬまぜんかたなしょうゆみ小野おの小口おぐち
  • あいさとしぐん中村なかむらせんかまどにちふとし物部ものべ熱田あつたさくりょう成海なるみ驛家えきや神戸こうべ
  • 春部はるべぐん池田いけだ柏井かしわい安食あじき山村さんそんこうえん餘戸ようご
  • 知多ちたぐんばんにえだいとみ但馬たじまえい
  • 山田やまだぐん船木ふなきしゅめぐみ石作いしづくりこころざしあやま山口やまぐちりょうむら餘戸ようご驛家えきや神戸こうべ

江戸えど時代じだいはん

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尾張おわりこくはん一覧いちらん
はんめい 居城いじろ 藩主はんしゅ
清洲きよすはん 清洲きよすしろ
尾張おわりはん 清洲きよすしろ
1607ねん - 1612ねん
名古屋なごやじょう
1612ねん - 1871ねん
犬山いぬやまはん
尾張おわりはん家老がろう
犬山いぬやましろ
緒川おがわはん 緒川おがわじょう

人物じんぶつ

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尾張おわりもり

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく時代じだい

編集へんしゅう

武家ぶけ官位かんいとしての尾張おわりもり

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい以前いぜん

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江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいには尾張おわりもりしょうしたれいい。理由りゆうとしては、尾張おわりもりしょうしたとう晴賢はるかた大内おおうち家臣かしん)や松田まつだけんしゅうこう北条ほうじょう家臣かしん)が主家しゅかほろぼしたため忌避きひされたというせつ御三家ごさんけ筆頭ひっとうである尾張おわり徳川とくがわ遠慮えんりょをしたというせつみが「わり」とおなじで縁起えんぎわるいとのせつ、などがある。

尾張おわりこく合戦かっせん

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現代げんだい尾張おわり地方ちほう

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尾張おわり地方ちほうのデータ
くに 日本にっぽん
地方ちほう 中部ちゅうぶ地方ちほう東海とうかい地方ちほう
面積めんせき 1,686.53km2
推計すいけい人口じんこう 5,138,735ひと
(2024ねん7がつ1にち
尾張おわりこく愛知あいちけん西部せいぶ全域ぜんいき
 
名古屋なごや(政令せいれい指定してい都市とし)
 
一宮いちのみや中核ちゅうかく
 
春日井かすがい特例とくれい
 
半田はんだ計量けいりょう特定とくてい

自治体じちたい

編集へんしゅう
政令せいれい指定してい都市とし
中核ちゅうかく
特例とくれい
計量けいりょう特定とくてい
その

瀬戸せと尾張旭おわりあさひ日進にっしん豊明とよあけ大府おおぶ東海とうかい知多ちた常滑とこなめ小牧おまき犬山いぬやま江南えな岩倉いわくら稲沢いなざわ祖父江そぶえまち一部いちぶのぞく)、津島つしまあい西市さいち木曽川きそがわ西岸せいがん一部いちぶのぞく)、弥富やとみ鍋田なべたがわ流域りゅういき一部いちぶのぞく)、あまきた名古屋なごや清須きよす長久手ながくて愛知あいちぐん東郷とうごうまち知多ちたぐん東浦ひがしうらまち阿久比あぐいまち武豊たけとよまち美浜みはままち南知多みなみちたまち丹羽たんばぐん大口おおぐちまち扶桑ふそうまち西春日井にしかすがいぐん豊山とよやままち海部かいふぐん飛島とびしまむら大治おおはるまち蟹江かにえまち

呼称こしょう

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現代げんだいでも、「尾張おわり」を地域ちいきめいとしてもちいることがあり、その場合ばあい以下いかのようなことなる範囲はんい参照さんしょうされる。

  • 尾張おわりこくおな範囲はんいとする場合ばあい
  • 尾張おわりこく範囲はんいから、名古屋なごや県庁けんちょう所在地しょざいち)をのぞ場合ばあい
すうてき規模きぼなどのめんから、名古屋なごやけて記述きじゅつしたり、組織そしき編成へんせいしたりする場合ばあいに「名古屋なごや尾張おわり名古屋なごやのぞく)」などと区分くぶんする。
地域ちいきせい文化ぶんかなどのめんから、「名古屋なごや尾張おわり知多ちた」と区分くぶんする。
この場合ばあいいて尾張おわりこく細分さいぶんした場合ばあい地域ちいき区分くぶんかならずしも一定いっていしていないが、区分くぶん表記ひょうきたっては、尾張おわりあたま方角ほうがくけるほか、「ひがし」「尾西びさい」「きた」という表記ひょうきもある。また、知多半島ちたはんとうを「みなみ尾張おわり」とする表記ひょうきられるが、「みなみ」という表記ひょうきられない。
  • 尾張おわりこく範囲はんいから、知多半島ちたはんとうのみをのぞ場合ばあい
気象きしょう注意報ちゅういほう警報けいほう地域ちいき区分くぶん知多ちた地域ちいき案内あんないなどにられる。この場合ばあい、「尾張おわり知多ちた(愛知あいちけん西部せいぶ知多ちた)」と区分くぶんする。

交通こうつう

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現在げんざいでは、名古屋なごやから東海とうかい地方ちほう近畿きんき地方ちほう大阪おおさかなど)、関東かんとう地方ちほう東京とうきょうなど)や北陸ほくりく地方ちほう富山とやまなど)への道路どうろ鉄道てつどう路線ろせん分岐ぶんきしており、交通こうつう要衝ようしょうとなっている。

空港くうこう

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鉄道てつどう

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有料ゆうりょう道路どうろ
国道こくどう

市外しがい局番きょくばん

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  • 052(名古屋なごやMA)
  • 0561(瀬戸せとMA)
  • 0562(尾張おわり横須賀よこすかMA)
  • 0567(津島つしまMA)
  • 0568(春日井かすがいMA)
  • 0569(半田はんだMA)
  • 0586(一宮いちのみやMA)
  • 0587(一宮いちのみやMA)

自動車じどうしゃナンバープレート

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  • 名古屋なごやナンバー
  • 尾張おわり小牧おまきナンバー
  • 一宮いちのみやナンバー(ご当地とうちナンバー:一宮いちのみや
  • 春日井かすがいナンバー(ご当地とうちナンバー:春日井かすがい

参考さんこう

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和文わぶん通話つうわひょうで、「」をおくさいに「尾張おわりのヲ」という。

平成へいせいだい合併がっぺいにおいて、尾張おわり東部とうぶぞくする自治体じちたいでは市町村しちょうそん合併がっぺいおこなわれなかった。たいして、尾張おわり西部せいぶぞくする自治体じちたいでは市町村しちょうそん合併がっぺい相次あいつぎ、清須きよす弥富やとみあい西市さいちきた名古屋なごや、あまあらたに成立せいりつした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1887ねん明治めいじ20ねん)に尾張おわりこく編入へんにゅう
  2. ^ いずれも1887ねん明治めいじ20ねん)に尾張おわりこく編入へんにゅう
  3. ^ 1880ねん明治めいじ13ねん)に尾張おわりこく編入へんにゅう
  4. ^ いずれも1880ねん明治めいじ13ねん)に尾張おわりこく編入へんにゅう
  5. ^ 1887ねん明治めいじ20ねん)に美濃みのこく移管いかん
  6. ^ 願興寺がんごうじ比定ひてい尾張おわり元興寺がんごうじあと名古屋なごやなか)の発掘はっくつ調査ちょうさでは、10世紀せいき以降いこう出土しゅつどひん激減げきげんするため、このころ願興寺がんごうじ廃寺はいじいたったとられる。 一方いっぽう国分こくぶ尼寺あまでら史料しりょうじょうで11世紀せいき初頭しょとうまでの存続そんぞく確認かくにんされるため、10世紀せいき以降いこう尾張おわり国分こくぶ尼寺あまでら国分寺こくぶんじ転用てんようされたとするせつがある (中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい & 2000ねん, pp. 116–117、国分寺こくぶんじ角川かどかわ) & 1989ねん)
  7. ^ これを記念きねんして名古屋なごや城前しろまえ加藤かとう清正きよまさぞうかれている。いち城主じょうしゅになったことのない人物じんぶつ銅像どうぞうとして設置せっちされているめずらしいれい
  8. ^ 茂徳しげのり同様どうよう慶勝よしかつ実弟じってい高須たかすよん兄弟きょうだい一人ひとり
  9. ^ 幼少ようしょう徳川とくがわ家康いえやすあずかったあつ名家めいか東加藤ひがしかとう)。
  10. ^ 当初とうしょ伊勢いせこくにおける伊勢神宮いせじんぐう同様どうよう別格べっかく一宮いちのみやとされなかったが、一宮いちのみや二宮にのみやさだめられたのちさんみやとして追加ついかされたというせつたん国府こくふからとおかったためとするせつ真清田ますみだ神社じんじゃ積極せっきょくてき運動うんどうによって一宮いちのみやになったとするせつ一宮いちのみや制度せいど導入どうにゅう国司こくし熱田あつた神宮じんぐう対立たいりつしていたせつなど。
  11. ^ きゅう中島なかじまぐん加賀野井かがのいむら

出典しゅってん

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  1. ^ 舘野たての和己かずみ「『古事記こじき』と木簡もっかんえる国名こくめい表記ひょうき対比たいひ」、『古代こだいがく』4ごう、2012ねん、19ぺーじ
  2. ^ 鎌田かまた元一げんいち律令制りつりょうせい国名こくめい表記ひょうき成立せいりつ」、『律令りつりょう公民こうみんせい研究けんきゅう』、はなわ書房しょぼう、2001ねん
  3. ^ 田中たなかたく尾張おわりこくはもと東山ひがしやまどうか」『田中たなかたく著作ちょさくしゅう6』(国書刊行会こくしょかんこうかい、1986ねん/はら論文ろんぶん:1980ねん
  4. ^ a b c 3しょう 尾張おわり国分寺こくぶんじあと概要がいよう稲沢いなざわ) & 2014ねん.
  5. ^ a b 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい & 2000ねん, pp. 116–117.
  6. ^ 吾妻あづまきょう 吉川よしかわほん けんちょうよんねんさんがつ.
  7. ^ 河村かわむら昭一しょういち一色いっしょくぶんくにふんぐんにおける守護しゅご・〈ぐんぬし在職ざいしょく期間きかん」『南北なんぼくあさ室町むろまち一色いっしょく権力けんりょく構造こうぞうえびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねん
  8. ^ a b 名古屋なごや開府かいふ400ねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい尾張おわり名古屋大なごやだい百科ひゃっか』 p150-155
  9. ^ a b 廣江ひろえ安彦やすひこ/堀内ほりうちまもる知多半島ちたはんとうなんでも事典じてんしんかん出版しゅっぱん p106-107
  10. ^ 知多ちた山車だしかん
  11. ^ 稲沢いなざわ教育きょういく委員いいんかいへん近世きんせいむら絵図えず解説かいせつ』、稲沢いなざわ教育きょういく委員いいんかい、1982、p66
  12. ^ a b 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい研究けんきゅうかいへん岩田いわた書院しょいん、2000ねん、pp. 113-114。
  13. ^ 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい研究けんきゅうかいへん岩田いわた書院しょいん、2000ねん、pp. 102-113。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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