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茶道 - Wikipedia

茶道さどう

かし、ちゃて、ちゃ行為こうい

茶道さどう(さどう、ちゃどう)は、かし、ちゃねり(ね)るかてん(た)てる、あるいはれ、ちゃ日本にっぽん伝統でんとう行為こういちゃ儀式ぎしき)。また、それを基本きほんとした様式ようしき芸道げいどう

ちゃてる様子ようす写真しゃしんは、ぼん鉄瓶てつびん使つかった簡略かんりゃくてき点茶てんちゃれい

元来がんらいちゃ(さのゆ、ちゃのゆ)」といった。千利休せんのりきゅうは「数寄すきどう」、古田ふるた織部おりべは「ちゃ」、小堀こぼりとおしゅうは「ちゃみち」というかたり使つかっていたが、江戸えど時代じだい前期ぜんきには茶道さどう(さどう)ともばれるようになった(『茶話ちゃばなしゆびがつしゅう』『南方なんぽうろく』など)。表千家おもてせんけでは「さどう」、裏千家うらせんけでは「ちゃどう」とむ。「茶道さどう」の英語えいごやくとしては tea ceremony (ティーセレモニー) [1]のほか、茶道さどう表千家おもてせんけ裏千家うらせんけではそれぞれ the way of tea(ザ ウェイ オブ ティー)[2]、chanoyu [3]もちいている。岡倉おかくら覚三かくぞう天心てんしん)は英文えいぶん著書ちょしょ The Book of Tea(『ちゃほん』)において、Teaism と tea ceremony という用語ようご使つかけている。

主客しゅかく一体いったいかんむねとし、茶碗ちゃわんはじまる茶道具ちゃどうぐ茶室ちゃしつゆかあいだにかけるぜんかたりなどのもの個々ここ美術びじゅつひんである以上いじょう全体ぜんたい構成こうせいする要素ようそとして一体いったいとなり、茶事ちゃじとして進行しんこうするその時間じかん自体じたい総合そうごう芸術げいじゅつとされる。

現在げんざい一般いっぱんに、茶道さどうといえば抹茶まっちゃもちいる茶道さどうのことだが、江戸えど成立せいりつした煎茶せんちゃもちいる煎茶せんちゃどうふくむ。

広間ひろま茶室ちゃしつれい 道具どうぐひだりから風炉ふろがま建水けんすい柄杓ひしゃくりつ柄杓ひしゃくみずゆび煙草たばこぼん火入ひいれ灰吹はいふきゆかあいだには掛物かけものいちぎょうしょ明月めいげつ和水わすいりゅう」)とはないれ香合こうごうかざる。
草庵そうあんふう茶室ちゃしつれい高台寺こうだいじのこよしあん
草庵そうあんふう茶室ちゃしつれい如庵

歴史れきし 編集へんしゅう

はじめて中国ちゅうごくから体系たいけいてきちゃ知識ちしきんだ書物しょもつとうりく(733ねん - 804ねん)のいた『ちゃけい』とわれている。このほんには、ちゃそだかた収穫しゅうかく方法ほうほう道具どうぐ、たてかた、かた歴史れきしなどがくわしくかれ、奈良なら時代じだい729ねん749ねんには宮廷きゅうてい東大寺とうだいじくだりちゃおこなわれたとされている。

諸説しょせつはあるもののちゃ習慣しゅうかん奈良なら時代じだいから平安へいあん時代じだいまでにははじまったとされ、当時とうじ中国ちゅうごくちゃ現代げんだい烏龍茶うーろんちゃだんごじょうほろ発酵はっこうちゃかんがえられている。このちゃいろこそが現代げんだい日本人にっぽんじんのいうところの茶色ちゃいろである。 当時とうじ日本人にっぽんじんは、ちゃ嗜好しこうひんとしてよりもくすりとしてとらえており、必要ひつようりょうのみをせんじてんだとかんがえられている。従来じゅうらいこの飲茶やむちゃ習慣しゅうかん根付ねつかずすたれてしまったとかんがえられていたが、最近さいきんでは貴族きぞくそうあいだ継続けいぞくてき愛好あいこうされていたとかんがえられている。

儀礼ぎれいちゃもちいたはやれいは、天台てんだい大師だいしさとし忌日きじつおこなう「比叡ひえい霜月しもつきかい(ひえいしもつきえ)」である。みなもとためけんの『三宝さんぽう絵詞えことば』は、のべれき17ねん(798)に最澄さいちょう比叡山ひえいざん天台てんだい大師だいしさとししのんでじゅう日間にちかんわた法華経ほけきょう講説こうせつおこない、こうえた11月24にち天台てんだい大師だいしきょうではさとし顗の「れいおう」をけ、そのまえちゃ菓子かしそなえた、という。[4]

鎌倉かまくら時代ときよ日本にっぽん禅宗ぜんしゅうつたえた栄西えいさいは、中国ちゅうごくからかえったちゃ九州きゅうしゅう筑肥背振せふりやまえた。また、宇治うじ明恵あきえ上人しょうにんにもちゃたねおくり、それが宇治うじちゃ起源きげんともわれる。ちゃ栽培さいばい普及ふきゅうするとちゃ習慣しゅうかん一般いっぱん普及ふきゅうしていった。栄西えいさいは1214ねんちゃとともに『喫茶きっさ養生ようじょう』を源実朝みなもとのさねとも献上けんじょうし、武士ぶし階級かいきゅうちゃひろまるあしがかりとなった。また、道元どうげん中国ちゅうごくぜんてら清規しんぎもとに『えいひら清規しんぎ』をあらわしたが、そのなかには「ちゃれい」というちゃきょうするさい儀礼ぎれい作法さほうかれている。1223ねんには加藤かとう四郎しろう左衛門さえもんそう陶器とうき技術ぎじゅつまなび、帰国きこく尾張おわり藤四郎とうしろうしょうかまひらいた。また、1267ねんには南浦みなみうら紹明中国ちゅうごく径山寺きんざんじから日本にっぽんはじめて台子だいすかえった。

鎌倉かまくら時代ときよさい末期まっき後醍醐天皇ごだいごてんのうひかりげん天皇てんのう宮廷きゅうていで、んだちゃ産地さんちてるたたかえすいという遊戯ゆうぎから、たたかえちゃという、んだちゃ銘柄めいがらてる一種いっしゅ博打ばくちもよおされ、たてたけし新政しんせい南北なんぼくあさ時代じだい室町むろまち時代ときよには庶民しょみん武士ぶしあいだでも流行りゅうこうし(『じょう河原かわはら落書らくがき』)、あまりの流行りゅうこう武家ぶけほうきんじられるほどだった(『たてたけし式目しきもく』)。また、本場ほんば中国ちゅうごく茶器ちゃき唐物とうぶつ」がもてはやされ、大金たいきん使つかって蒐集しゅうしゅうし、これを使用しようして盛大せいだい茶会ちゃかいもよおすことが大名だいみょうあいだ流行りゅうこうした(これを「唐物とうぶつ数寄すき」とぶ)。この流行りゅうこう応仁おうにんらん茶会ちゃかいどころではなくなる15世紀せいき後半こうはんまでつづいた。これにたいし、足利あしかが義政よしまさちゃ師匠ししょうである村田むらたたまこう茶会ちゃかいでの博打ばくち飲酒いんしゅ禁止きんしし、亭主ていしゅきゃくとの精神せいしん交流こうりゅう重視じゅうしする茶会ちゃかいのありかたいた。これがわびちゃ源流げんりゅうとなっていく。

1472ねん義政よしまさ息子むすこ将軍しょうぐんゆず東山ひがしやま隠棲いんせいした。その隠居いんきょしょてられたあずまもとむどうに、どう仁斎じんさいばれる日本にっぽん最古さいこ書院しょいんちゃ形式けいしき茶室ちゃしつがある。この四畳半よじょうはん簡素かんそしょう部屋へや禁欲きんよくてきちゃれいと、同朋どうほうしゅとしてられる唐物とうぶつ数寄すき人々ひとびとのによる中国ちゅうごく渡来とらい美術びじゅつひんかんひょうかい融合ゆうごうし、書院しょいんちゃとして展開てんかいした[5]

一方いっぽう平安へいあん初期しょき以来いらいだんちゃ系統けいとうちゃてらあいだではつづいていたとかんがえられ、これがやがて煎茶せんちゃ勃興ぼっこうにいたる。

わびちゃはそのさかい町衆まちしゅうである武野むの紹鷗、その弟子でし千利休せんのりきゅうによって安土あづち桃山ももやま時代じだい完成かんせいされるにいたった。利休りきゅうのわびちゃ武士ぶし階層かいそうにもひろまり、蒲生がもうきょう細川ほそかわさんとき牧村まきむら兵部ひょうぶ瀬田せた掃部古田ふるた織部おりべ芝山しばやまかんぶつ高山たかやま右近うこんら「利休りきゅうななあきら」とばれる弟子でしたちをんでいく。さらにはわびちゃから発展はってんし、古田ふるた織部おりべ織田おだゆうらく小堀こぼりとおしゅう片桐かたぎりいししゅう流派りゅうはをなす大名だいみょうあらわれた。現代げんだいではとく武家ぶけ茶道さどう、あるいは大名だいみょうちゃなどとんで区別くべつする場合ばあいもある。江戸えど時代じだい将軍しょうぐんのもとでおこなわれた茶道さどうを「柳営りゅうえい茶道さどう」という。

江戸えど時代じだい前期ぜんきまでのちゃ人口じんこうは、おも大名だいみょう豪商ごうしょうなどが中心ちゅうしんのごくかぎられたものであり、おもに、織部おりべりゅうとおしゅうりゅういししゅうりゅうであったが、江戸えど中期ちゅうき町人ちょうにん階級かいきゅう経済けいざいてき勃興ぼっこうするとともに飛躍ひやくてき増加ぞうかした。これらの町人ちょうにん階級かいきゅうおもとするあらたなちゃ参入さんにゅうしゃむかれたのが、元々もともと町方まちかた出自しゅつじであるさんせんいえ中心ちゅうしんとする千家せんげけい流派りゅうはである。このとき大量たいりょう門弟もんていをまとめるために、現在げんざいでは伝統でんとう芸能げいのうにおいて一般いっぱんられる組織そしき形態けいたい家元いえもと制度せいど確立かくりつした。また、表千家おもてせんけ7だい如心とき天然てんねん裏千家うらせんけ8だいまたげんときいちとう、如心とき高弟こうてい江戸えどせんいえ初代しょだい川上かわかみしろなどによって、大勢おおぜい門弟もんてい対処たいしょするためのあらたな稽古けいこ方法ほうほうとして、ななことしき考案こうあんされた。これらの努力どりょくによってちゃは、庄屋しょうや名主なぬし商人しょうにんなどのならごととして日本にっぽん全国ぜんこくひろ普及ふきゅうしたのである。ただ、同時どうじちゃ大衆たいしゅう拍車はくしゃがかかり、遊芸ゆうげいすすんでいったという弊害へいがいもある。「わび・さび」にたいする理解りかい次第しだい変質へんしつし、うつくしいいし灯籠どうろうを「完璧かんぺきすぎる」とわざといたり、れていだ茶碗ちゃわん珍重ちんちょうするなど、大衆たいしゅうには理解りかいがたいもあって、庶民しょみんあいだで「茶人ちゃじん」が「変人へんじん」の隠語いんごとなる事態じたいまねいた(ぜん極端きょくたんにも共通きょうつうする過度かど精神せいしん主義しゅぎであるし、「いき自分じぶん」を誇示こじする、本来ほんらい茶道さどうとははずれた行為こういでもある)。

他方たほうでこのような遊芸ゆうげい傾向けいこうたいして、本来ほんらい茶道さどう目的もくてきである「ひとをもてなすさいあらわれるしんうつくしさ」が強調きょうちょうされるようになる。このさい大徳寺だいとくじ臨済宗りんざいしゅう寺院じいんおおきな役割やくわりたし、利休りきゅうりゅう茶道さどう根本こんぽんとされる「和敬わけいきよしさび」という標語ひょうごもこの過程かていされた。かく流派りゅうはによる点前てまえ形態けいたい茶会ちゃかい様式ようしき体系たいけいといった様式ようしき整備せいびくわえて、「ひとをもてなすこと本質ほんしつとは」とった茶道さどう本来ほんらい精神せいしん見直みなおすことによって、現在げんざい茶道さどう」とんでいるちゃ完成かんせいしたのである。

江戸えど末期まっきになると、武家ぶけ教養きょうようとして作法さほうかたまっている抹茶まっちゃちゃきらい、気軽きがるたのしめるちゃもとめるこえ町衆まちしゅうからてきた。どう時期じきに、たんなる嗜好しこうひんしてしまった煎茶せんちゃ現状げんじょううれい、煎茶せんちゃに「みち」をもとめるこえがあがった。これらのこえをくみげるかたちで、江戸えど時代じだい中期ちゅうき黄檗宗おうばくしゅう万福寺まんぷくじもとそううりちゃおうこうゆうがい)がおこなっていた煎茶せんちゃあらためて煎茶せんちゃ作法さほうさだめたのが煎茶せんちゃどうである。煎茶せんちゃどう漢詩かんし文人ぶんじん文化ぶんか中心ちゅうしんひろまり様式ようしき確立かくりつされていった。煎茶せんちゃこのんだ著名ちょめいじんとして江戸えど初期しょき石川いしかわ丈山じょうざん中期ちゅうき上田うえだ秋成あきなり後期こうきにはよりゆき山陽さんようげられる。当初とうしょは「せんじ(に)るちゃ」であった煎茶せんちゃだが中国ちゅうごくでの流行りゅうこう影響えいきょうちゃ生産せいさん改良かいりょうけて「掩(だ)しちゃ」にわっている。

明治めいじ時代じだいになると、封建ほうけん制度せいど崩壊ほうかいし、しょはん庇護ひごされていたかく流派りゅうは財政ざいせいてき困難こんなんおちいるようになった。そうしたなか裏千家うらせんけ13だいえんのうときてつちゅう一時いちじ東京とうきょうきょうつして茶道さどう再興さいこうつとめた。努力どりょく甲斐かいあって有力ゆうりょく財界ざいかいじん関心かんしんび、茶道さどう女子じょし教養きょうよう科目かもくとしてまれた。このため茶道さどうは、本来ほんらいのわびちゃとはべつの「女子じょし教養きょうよう」としての要素ようそ獲得かくとくし、いまではうつくしい着物きもの姿すがたでのはなやかな茶会ちゃかいたりまえになっている。また明治めいじどう時期じき鳥尾とりおとくあん田中たなかせんきこりのちだい日本にっぽん茶道さどう学会がっかい創設そうせつ)は、利休りきゅうせんいえさん流派りゅうはなどかく流派りゅうは茶道さどうけたのではなく元々もともとひとつのりゅうであったととなえ、おおくの流儀りゅうぎ茶人ちゃじんたち旧幕きゅうばく時代じだいからの伝承でんしょう一堂いちどうあつめて研究けんきゅうし、その成果せいか一般人いっぱんじん発表はっぴょうすることで日本にっぽん茶道さどうふたたつくそうとした。

こうした家元いえもとひろ庶民しょみんそう対象たいしょうちゃおしひろめ、それを経済けいざい基盤きばんとして確立かくりつするのは大正たいしょう時代じだい以降いこうかんがえられるが、明治めいじ上層じょうそう階級かいきゅうにおいては、きゅう大名だいみょう近世きんせいからの豪商ごうしょうくわえてあらたに台頭たいとうした維新いしん功臣こうしん財閥ざいばつ関係かんけいしゃらの「近代きんだい数寄者すきしゃ」とよばれる人々ひとびとちゃ復興ふっこうをひと足早あしはや先導せんどうした[6]かれらのちゃは「貴紳きしんちゃ」とばれ、家元いえもとおしえにしたがって実践じっせんする「流儀りゅうぎちゃ」とおもむきことにし、みずからの趣味しゅみによって独自どくじちゃたのしむことを特徴とくちょうとした[6]

ボストン美術館びじゅつかん中国ちゅうごく日本にっぽん勤務きんむしていた岡倉おかくら覚三かくぞう天心てんしん)がアメリカで The Book of Tea(『ちゃほん』)を1906ねん明治めいじ39ねん)に出版しゅっぱん紹介しょうかいした。この出版しゅっぱん欧米おうべい文化ぶんかじん関心かんしんんだ。岡倉おかくら同書どうしょにおいて、茶道さどうを「世界せかいてきみとめられている唯一ゆいいつのアジアてき儀礼ぎれい」であると位置付いちづけ、西洋せいようにおいて「午後ごごのおちゃ」(afternoon tea)が重要じゅうよう役割やくわりたしていることを指摘してきしている[7]

戦後せんご知識ちしきそうからおおくの伝統でんとう技芸ぎげい戦前せんぜん戦中せんちゅうナショナリズム醸成じょうせい加担かたんしたとみなされ、茶道さどう家元いえもとも「権力けんりょくしゃちかづき、特配とくはいをうけていた」などと批判ひはん追及ついきゅうされた。一方いっぽう急速きゅうそくすすむ「アメリカ」による日本にっぽん文化ぶんか喪失そうしつたいして危機ききかん人々ひとびともあった。1947ねん京都大学きょうとだいがく久松ひさまつ真一しんいち茶道さどうを「喫茶きっさ契機けいきとして創造そうぞうせられた、芸術げいじゅつ道徳どうとく哲学てつがく宗教しゅうきょうなど文化ぶんかのあらゆる部面ぶめんふくんだ総合そうごう文化ぶんか体系たいけいである」とする言説げんせつとなえた。裏千家うらせんけをはじめとする茶道さどうかいはこの言説げんせつれ、日本にっぽん固有こゆう文化ぶんか保存ほぞんという存在そんざい意義いぎ茶道さどう浸透しんとうさせていった[8]戦後せんご海外かいがいにも茶道さどうひろまり、茶道さどう大衆たいしゅう世界せかいてきレベルとなっている。

1980年代ねんだいはじごろには、日本にっぽん茶道さどう所作しょさ中国ちゅうごくちゃちゃげい)にもちいられるようになった。現在げんざい中国ちゅうごくちゃちゃげい)の「茶巾ちゃきんをたたむ」所作しょさは、日本にっぽん茶道さどう影響えいきょうあらわれであるといえる。[よう出典しゅってん]

茶道さどう流派りゅうは 編集へんしゅう

 
千利休せんのりきゅうぞう長谷川はせがわ等伯とうはくふで

千利休せんのりきゅう以前いぜんしょ流派りゅうは 編集へんしゅう

流派りゅうはうべきかさだかではないが以下いかのようなならわしがあった。

この時期じき創始そうしつたえられ現存げんそんするものには以下いかがある。

千利休せんのりきゅうどう時期じき創始そうしによる流派りゅうは 編集へんしゅう

おおくは武野むの紹鷗門人もんじん千利休せんのりきゅう直弟子じきでし創始そうししゃとするものであり、利休りきゅう影響えいきょうはうけつつも「宗旦そうたんりゅう」とはことなる独自どくじちゃふう形成けいせいしている。今日きょう武家ぶけ茶道さどうばれる流派りゅうはおおくはここにることができる。

せんみちやすながれを流派りゅうは 編集へんしゅう

千家せんげ本家ほんけであるさかいせんいえ(さかいせんけ)は千利休せんのりきゅう実子じっしであるせんみちやすまましいだが、後継こうけいなく断絶だんぜつした。

せん宗旦そうたんながれを流派りゅうは 編集へんしゅう

いわゆる「宗旦そうたんりゅう(そうたんりゅう)」であり、さんせんいえほかに、宗旦そうたん四天王してんのう系譜けいふである松尾まつおりゅういさおのきりゅうそう徧流、ひろしときりゅう久田ひさたりゅうなどもふくむ。宗旦そうたんりゅうは、江戸えど時代じだい初期しょきに、しょうあんであるせん宗旦そうたんとその弟子でしたちたいしてもちいられた呼称こしょうびにてっすることをむねとする傾向けいこうつよい。

後代こうだいしん流派りゅうは 編集へんしゅう

千家せんげりゅう以外いがい上記じょうきより時代じだいあたらしい流派りゅうは。また、活動かつどう確認かくにんできるが系譜けいふ確認かくにん流派りゅうは

著名ちょめい茶人ちゃじん 編集へんしゅう

茶道さどうあかるいひとのことを(ちゃじん、さじん)という。著名ちょめい茶人ちゃじんについては茶人ちゃじん人物じんぶつ一覧いちらん参照さんしょう

茶道さどう実践じっせん 編集へんしゅう

茶事ちゃじ
茶事ちゃじとはしょう人数にんずうのあらかじめ招待しょうたいされたきゃく対象たいしょうにして亭主ていしゅおこな密接みっせつ茶会ちゃかいであり、ひとつわんおなちゃまわしてんでゆく。昼食ちゅうしょくとして懐石かいせききょうしてからちゃをふるまう正午しょうご茶事ちゃじもっと基本きほんてきかたちとされるが、おもむきによって夏場なつばすずしい時間じかんおこなう「あさ茶事ちゃじ」。秋冬あきふゆながよるをゆっくりとごす「よる咄し」などの茶事ちゃじおこなわれることもある。おもむきによって、屋外おくがい茶室ちゃしつ見立みたてる野点のだて(のだて)や、テーブル・椅子いすもちいる立礼りつれい(りゅうれい)の茶事ちゃじおこなわれる。
だい
だいせの茶会ちゃかいとは、多数たすうきゃく対象たいしょうにしておこな茶会ちゃかいである。炭手前すみてまえ懐石かいせき省略しょうりゃくされることもあり、道具どうぐ拝見はいけん省略しょうりゃくすることもおおい。催事さいじがまとしておこなわれることもあり、月例げつれい行事ぎょうじとしてつきがま開催かいさいしたり、市民しみん茶会ちゃかいだい茶会ちゃかい銘打めいうって多数たすう流派りゅうは参加さんかし、複数ふくすう茶席ちゃせきもうけて並行へいこうしてもてなすこともある。きゃくとしてはもっとも気軽きがるもよおしのひとつだが、亭主ていしゅとしてはれがましい披露ひろうでもある。
献上けんじょう茶事ちゃじ
けんじちゃともぶ。神社じんじゃ仏閣ぶっかく寺院じいん御前ごぜんおこな茶事ちゃじ貴人きじん茶碗ぢゃわん神仏しんぶつちゃほうじる。参加さんか一般いっぱんふく場合ばあいがほとんどだが、茶席ちゃせきべつ用意よういされており、おまもりやおさつわた場合ばあいもある。
口切くちき茶事ちゃじ
10がつまつ - 11月初旬しょじゅん家元いえもとおこなとしはじめの茶事ちゃじ、5月にんだちゃちゃつぼにいれ、保管ほかんしたつぼふうり、うすまわして抹茶まっちゃにする。ふるいにかけちゃ薄茶うすちゃあじをみる茶事ちゃじで、流派りゅうはの1ねんうらな重要じゅうよう茶事ちゃじとなる。

茶道さどう関係かんけいする音楽おんがく作品さくひん 編集へんしゅう

宇治うじめぐり」(地歌じうた箏曲そうきょく
文化ぶんか文政ぶんせいころ京都きょうと活躍かつやくした盲人もうじん音楽家おんがくか松浦まつうら検校けんぎょう作曲さっきょくした手事てごと(てごと)もの地歌じうたきょくそう手付てつきはちじゅうさき検校けんぎょう。「せん」「かり」など、多数たすうちゃめい四季しきじゅん配列はいれつしつつ、春夏秋冬しゅんかしゅうとうちゃ名産めいさん宇治うじめぐあるくという風流ふうりゅう趣向しゅこうきょく大曲おおまがり箇所かしょ手事てごと楽器がっきだけでそうされる器楽きがく間奏かんそう)も音楽おんがくてきったもので、転調てんちょう頻繁ひんぱんあらわれ、技術ぎじゅつてきにもなかなかむずかしいきょく。「松浦まつうらよっぶつよん大名だいみょうきょく)」のひとつとされている。
ちゃ音頭おんど」 (地歌じうた箏曲そうきょく
文化ぶんか文政ぶんせい時代じだい京都きょうと活躍かつやくした盲人もうじん音楽家おんがくか菊岡きくおか検校けんぎょう作曲さっきょく八重やえさき検校けんぎょうそう手付てつきをした手事てごともの地歌じうたきょく。「ちゃ音頭おんど」と流派りゅうはもある。「音頭おんど」は本来ほんらい雅楽ががく用語ようごであり、のち近世きんせい邦楽ほうがく全般ぜんぱんにおいてひろ使つかわれ、このきょく民謡みんようとは関係かんけいないので注意ちゅうい必要ひつよう俳人はいじん横井よこい也有やゆうの「おんな手前てまえ」から抜粋ばっすいした歌詞かしで、多数たすう茶道具ちゃどうぐみつつ男女だんじょなかがいつまでもつづくようねがった内容ないよう三味線しゃみせん調しらべつるが「ろくがり」という非常ひじょう特殊とくしゅなもので、独特どくとくひびきがこのきょく独自どくじ雰囲気ふんいきつくしており、うたふしっている一方いっぽう手事てごとながく、八重やえさき検校けんぎょうそう手付てつきだくみで合奏がっそう音楽おんがくとしてもよくできているので、現代げんだいでも演奏えんそうかいでよくげられるきょくである。お手前てまえ伴奏ばんそうとして演奏えんそうされることもある。
上方かみがたまい」(地唄じうたまい)においてもこのんでわれ、いくつかの流派りゅうはごとのけがあるが、どれも袱紗ふくさ使用しようしたり、茶道さどう所作しょさをいれたりする特徴とくちょうのあるものである。
宇治うじちゃ」(上方かみがたはしうたうたざわ

茶道さどう雑誌ざっし手帳てちょう 編集へんしゅう

茶道さどう研究けんきゅう 編集へんしゅう

美術館びじゅつかん 編集へんしゅう

朝鮮ちょうせん韓国かんこく 編集へんしゅう

日本にっぽん統治とうち時代じだいに、日本人にっぽんじんによってちゃ生産せいさん普及ふきゅうすすめられた。1911ねん尾崎おざき市三いちぞう光州こうしゅうとうやましょうこころてら付近ふきんとう茶園ちゃえんつくり、1913ねん小川おがわ全羅北道ぜんらほくどう邑市小川おがわ茶園ちゃえんつくった[9]。また、1930年代ねんだいから高等こうとう女学校じょがっこう女子じょし専門せんもん学校がっこう日本にっぽんしき茶道さどう教育きょういくされた[10]朝鮮ちょうせん日本にっぽんしき茶道さどう普及ふきゅうちゃ消費しょうひ増加ぞうかし、ちゃ供給きょうきゅうやすために1939ねん尼崎あまがさき関西かんさいペイント株式会社かぶしきがいしゃきょうじょう化学かがく)が全羅南道ぜんらなんどうたからぐすくぐんたからじょう茶園ちゃえんつくった[9]

1960年代ねんだい以後いごちゃたいする関心かんしんあらたにおこりはじめた。1979ねん韓国かんこく茶人ちゃじんかい(한국차인회)が創立そうりつされ、1984ねん韓国かんこく茶人ちゃじん連合れんごうかい(한국차인연합회)に改編かいへんされた。また、1982ねん2がつ6にち全国ぜんこく大学だいがく茶会ちゃかい連合れんごうかい(전국대학다회연합회)が、1983ねん韓国かんこく茶道さどう協会きょうかい(한국다도협회)が、1989ねんには韓国かんこくちゃ文化ぶんか協会きょうかい(한국차문화협회)が設立せつりつされた[10]。ほとんどは日本にっぽん茶道さどう模倣もほうのようである[11]。1983ねん韓国かんこく茶道さどう協会きょうかい茶道さどう博物館はくぶつかん開館かいかんした[10]。2001ねん釜山ぷさん女子大じょしだい学校がっこう茶道さどう学科がっか新設しんせつした[10]なりひとしかんだい学校がっこうまことしん女子大じょしだい学校がっこうko:성신여자대학교)の特殊とくしゅ大学院だいがくいんには茶道さどう専攻せんこう開設かいせつされている[10]

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ 日本にっぽん政府せいふ観光かんこうきょく公式こうしきサイト
  2. ^ 裏千家うらせんけ公式こうしきサイト
  3. ^ 表千家おもてせんけ公式こうしきサイト
  4. ^ 仏教ぶっきょう儀礼ぎれいちゃ仙薬せんやくからはじまった-」茶道さどう資料しりょうかん、2017
  5. ^ ヴィクター・H・モア、アーリン・ホーちょ 忠平ちゅうへい美幸みゆきやく『おちゃ歴史れきし』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2010ねん)pp92-103
  6. ^ a b 明治めいじ前期ぜんきの「貴紳きしんちゃ」: 『のぼりじん親王しんのう日記にっき』および『ひがし久世くせどおり日記にっき』に喫茶きっさ文化ぶんか状況じょうきょう廣田ひろたよしたかし日本にっぽん研究けんきゅう、45pp.185 - 236 , 2012-03-30 , 国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター
  7. ^ 岡倉おかくら覚三かくぞう The Book of Tea(『ちゃほん』)だい1しょう
  8. ^ 加藤かとう恵津子えつこ『<おちゃ>はなぜおんなのものになったか』 紀伊国屋きのくにや書店しょてん、2004ねんISBN 4314009721、p.77-87
  9. ^ a b にしきひがし韓国かんこくにおける主要しゅよう3ちゃ産地さんち形成けいせいのリーダーの役割やくわりたからぐすくぐん河東かとうぐん済州さいしゅうどう事例じれいに-」 (『佐賀さが大学だいがく農学部のうがくぶ彙報いほうだい99ごう、 2014ねん) p.1-20
  10. ^ a b c d e ちゃ)한국민족문화대백과 (韓国かんこく民族みんぞく文化ぶんかだい百科ひゃっか事典じてん
  11. ^ 伊藤いとうじん『もっとりたい韓国かんこくだい1かん弘文こうぶんどう、1997ねん)68ページ

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう

  • ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん茶道さどう』 - コトバンク