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上田秋成 - Wikipedia

上田うえだ秋成あきなり

1734-1809, 江戸えど時代じだい後期こうき読本とくほん作者さくしゃ歌人かじん茶人ちゃじん国学こくがくしゃ

上田うえだ 秋成あきなり(うえだ あきなり、とおる19ねん6月25にち1734ねん7がつ25にち) - 文化ぶんか6ねん6月27にち1809ねん8がつ8にち))は、江戸えど時代じだい後期こうき読本とくほん作者さくしゃ歌人かじん茶人ちゃじん国学こくがくしゃ俳人はいじん本名ほんみょう上田うえだ東作とうさく[1]べつごうちょう[ちゅう 1]あまりときりょう焉・うずらきょなど、おどけごう和訳わやく太郎たろう・剪枝畸人きじん[ちゅう 2]洛外らくがいはん狂人きょうじんなど[1][2]怪異かいい小説しょうせつ雨月物語うげつものがたり』の作者さくしゃとしてとくられる。

上田うえだ 秋成あきなり
上田うえだ秋成あきなり肖像しょうぞうふで甲賀こうがぶんうらら
人物じんぶつ情報じょうほう
別名べつめい べつごうちょうあまりときりょう焉・うずらきょなど
おどけごう和訳わやく太郎たろう・剪枝畸人きじん洛外らくがいはん狂人きょうじんなど
生誕せいたん とおる19ねん6月25にち (1734-07-25) 1734ねん7がつ25にち
日本の旗 日本にっぽん大坂おおさか
死没しぼつ 文化ぶんか6ねん6月27にち (1809-08-08) 1809ねん8がつ8にち(75さいぼつ))
日本の旗 日本にっぽん大坂おおさか
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
配偶はいぐうしゃ 植山うえやまたま
学問がくもん
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
活動かつどう地域ちいき 大坂おおさか
研究けんきゅう分野ぶんや 国学こくがく
おも業績ぎょうせき 京阪けいはん地域ちいきにおけるけんきょ浸透しんとう
主要しゅよう作品さくひん雨月物語うげつものがたり
春雨はるさめ物語ものがたり
かんむり続貂ぞくちょう
れいどおり』など多数たすう
影響えいきょうけた人物じんぶつ 賀茂真淵かものまぶち
藤宇ふじゆうまん
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

とおる19ねん1734ねん大坂おおさか曾根崎そねざきに、松尾まつおヲサキの私生児しせいじとしてまれた。かつて小堀こぼりただしほうちちとするせつがあったが、ほぼ否定ひていされており[1]ちちについてはたしかでない[1][ちゅう 3]

もとぶん2ねん1737ねん堂島どうじまひさしらいまちげん大阪おおさかきた堂島どうじま1丁目ちょうめ)のかみしょう嶋屋しまや上田うえだ茂助もすけ養子ようしとなり[1]せんろうばれた。翌年よくねん疱瘡ほうそう[1]養父やぶ茂助もすけは、加島かしまむらげん大阪おおさか淀川よどがわ加島かしま)の加島かしま稲荷いなりげん香具こうぐこころざし神社じんじゃ)にせんろう本復ほんぷく祈願きがんし、68さいまでの存命ぞんめいげられ、以後いご秋成あきなり同社どうしゃへの参詣さんけいおこたらなかった。せん太郎たろう病気びょうき快癒かいゆしたが、ゆび不自由ふじゆうになった[1]。このとし茂助もすけつまうしな[1]翌年よくねん再婚さいこんせんろうはそのだい2の養母ようぼのもとでそだった。幼少ようしょうふところとくどうまなんだと推測すいそくされる[1]

たかられき元年がんねん1751ねん遊蕩ゆうとうおぼえ、このころから俳諧はいかいあそぶ。ほかにも戯作げさく耽読たんどくし、和漢わかん古典こてんさぐるなど、基礎きそやしなった。感化かんかけた師友しゆうには高井たかい几圭、小島こじましげる富士ふじたに成章しげあき勝部かつべあおぎょらがあった。

たかられき10ねん1760ねん)、京都きょうとまれの植山うえやまたまと結婚けっこんした[1]はできなかった。翌年よくねん茂助もすけぼっし、嶋屋しまやいだ[1]明和めいわ元年がんねん1764ねん)、大阪おおさか朝鮮ちょうせん通信使つうしんしいちぎょうとの筆談ひつだん参加さんかした。漢学かんがくにもつうじていた。

明和めいわ3ねん1766ねん)、浮世草子うきよぞうし諸道しょどう聴耳世間せけんざる』(しょどうきゝみゝせけんざる)上梓じょうし[1]明和めいわ4ねん1767ねん)、「かずやく太郎たろう」のしのび、『世間せけんわらわがた』(せけんてかけかたぎ)上梓じょうし[1]。このころ天満てんまの儒医都賀つが庭鐘ていしょう白話はくわ小説しょうせつおしえられた。明和めいわ5ねん1768ねん)『雨月物語うげつものがたり初稿しょこう成立せいりつする[1]同年どうねん実母じつぼ死去しきょ[1]

明和めいわ8ねん1771ねん)、嶋屋しまや火災かさい破産はさん[1]加島かしま稲荷いなり神職しんしょくかた寄寓きぐうして、友人ゆうじん木村きむら蒹葭どうらにたすけられながら、まなんだ。都賀つが庭鐘ていしょうであったという[1]同年どうねん賀茂真淵かものまぶち一門いちもん国学こくがくしゃ藤宇ふじゆうまん師事しじした[1]安永やすなが2ねん1773ねん)、加島かしまむら医者いしゃはじめた。通称つうしょうに「東作とうさく」、に「秋成あきなり」をもちいた。このころから与謝よさ蕪村ぶそん高井たかい几董高井たかい几圭の)らとった。

安永やすなが5ねん1776ねん)、大坂おおさか尼崎あまがさき現在げんざい大阪おおさか中央ちゅうおう高麗橋こうらいばし付近ふきん)で医師いしとして開業かいぎょう[1]。『雨月物語うげつものがたり上梓じょうし[1]。このころから国学こくがく研究けんきゅう熱中ねっちゅうし、安永やすなが8ねん1779ねん)『源氏物語げんじものがたり』の注釈ちゅうしゃくしょ『ぬばたままき』などを執筆しっぴつする[1]安永やすなが9ねん1780ねん)、淡路あわじ町切ちょうぎりひのと現在げんざい大阪おおさか中央ちゅうおう淡路あわじまち1丁目ちょうめ)にもとめたいえ改築かいちくし、翌年よくねんよりまった。このころほそあいはんとき江田えだきょうらとまじわった。

天明てんめい4ねん1784ねん)に考証こうしょうかんやつ国王こくおうきんしるしこう」を発表はっぴょう天明てんめい5ねん1785ねん)に『万葉集まんようしゅう研究けんきゅう歌聖かせいでん」を発表はっぴょうし、賀茂真淵かものまぶちじゅつ古今ここん和歌集わかしゅう聴(うちぎぎ)』を校訂こうてい天明てんめい6ねん1786ねん)、思想しそう古代こだい音韻おんいん仮名遣かなづかいなどで、ほんきょ宣長のりなが論争ろんそうした(いわゆるにちかみ論争ろんそう次項じこう参照さんしょう[1]

天明てんめい7ねん1787ねん)、大坂おおさか北郊ほっこう淡路あわじ庄村しょうむら現在げんざい阪急電鉄はんきゅうでんてつ淡路あわじえき付近ふきん)に隠退いんたいした[1]戯作げさくしょはつ機嫌きげんうみ』(かきぞめきげんかい)、俳文はいぶんほうしょ『也哉鈔』(やかなしょう)を上梓じょうし

寛政かんせい元年がんねん1789ねん)、しゅうと養母ようぼ淡路あわじ庄村しょうむらでみとった。寛政かんせい2ねん1790ねん)、ひだり失明しつめいつま剃髪ていはつして瑚璉あましょうした。寛政かんせい3ねん1791ねん)に随筆ずいひつしゅう癇癖かんぺきだん』(くせものがたり)執筆しっぴつふちの『あがたきょ歌集かしゅう』と宇まん伎の『しず歌集かしゅう』を校訂こうてい上梓じょうし寛政かんせい4ねん1792ねん)、評論ひょうろんしゅうやすげん』(やすみごと)を執筆しっぴつ

寛政かんせい5ねん1793ねん)、きょうふくろまち現在げんざい京都きょうと東山ひがしやまふくろまち)にうつった[1]ふちじゅつ伊勢物語いせものがたり』を校訂こうてい上梓じょうし。その南禅寺なんぜんじ山内やまうち左京さきょう)、東洞ひがしぼらいんよんじょう下京しもぎょう)、衣棚ころもたな丸太まるたまち上京かみぎょう)、ふくろまち転々てんてんしながら、寛政かんせい6ねん1794ねん)にせんじ茶道さどうしょ清風せいふう瑣言』、どう9ねん1797ねん)に仮名遣かなづか研究けんきゅうしょれいどおり』を上梓じょうし。このとしつま先立さきだたれた[1]校訂こうてい生活せいかつであった[よう出典しゅってん]

寛政かんせい10ねん1798ねん)、右目みぎめ失明しつめいするが、大阪おおさかの鍼医、谷川たにがわりょうじゅん治療ちりょうによりやや回復かいふくした。以降いこうしばしば治療ちりょうとおった。帰京ききょう門人もんじん伏見ふしみ稲荷いなり祠官しかん羽倉はぐら信美のぶよし丸太まるたまち上京かみぎょう寺町てらまち通広みちひろ小路こうじ)のやしきないうつんだ。寛政かんせい11ねん1799ねん)、『落久物語ものがたり上梓じょうし

京都きょうと時代じだいには、妙法みょうほういんみや真仁まさみ法親王ほうしんのう正親町おおぎまち三条さんじょう公則まさのり小沢おざわ蘆庵ろあん木村きむら蒹葭どうばん蒿蹊村瀬むらせたえてい初代しょだい高橋たかはし道八どうはち渡辺わたなべ南岳みなみだけ、そして江戸えど大田おおた南畝なんぽらとまじわった。

とおる元年がんねん1801ねん)、加島かしま稲荷いなりげられた68さいたっし、68しゅの『けんじしん和歌わかじょう』をんで同社どうしゃ奉納ほうのうした。万葉集まんようしゅうろんかんむり続貂ぞくちょう』(かんじぞくちょう)上梓じょうしとおる2ねん1802ねん)、みずからのはか西福寺さいふくじ左京さきょう南禅寺草川なんぜんじくさがわまち)につくった。とおる3ねん1803ねん)、『大和やまと物語ものがたり』を校訂こうてい大阪おおさかで70さいいわうの賀宴がえんひらかれた。このころ古代こだいろんとお駝延とう』(おだえごと)を執筆しっぴつ

 
上田うえだ秋成あきなりおう終焉しゅうえん京都きょうと上京かみぎょう寺町てらまちどおり広小路ひろこうじのぼる(梨木なしき神社じんじゃうち

文化ぶんか元年がんねん1804ねん)に万葉集まんようしゅう注釈ちゅうしゃく金砂きんしゃ』(こがねいさご)『金砂きんしゃあまげん』、文化ぶんか2ねん1805ねんに『ななじゅうこう』を執筆しっぴつ西福寺さいふくじうつんだ。うた文集ぶんしゅうふじ冊子さっし』(つづらぶみ)を上梓じょうし文化ぶんか3ねん1806ねん)、『ますらを物語ものがたり』を執筆しっぴつ文化ぶんか4ねん1807ねん)、草稿そうこう井戸いどてた。文化ぶんか5ねん1808ねん)、短編たんぺん小説しょうせつしゅう春雨はるさめ物語ものがたり』を執筆しっぴつ[1]書簡しょかんしゅうぶん反故ほご』(ふみほうぐ)を上梓じょうし随筆ずいひつしゅうきも大小だいしょうしんろく』『ぞう筥記』などを執筆しっぴつ

文化ぶんか6ねん1809ねん)、羽倉はねくらていきとられた。『異本いほんきも大小だいしょうしんろく』をだつ稿こう。『俳調ろん』をむ。同年どうねん6がつ27にち羽倉はねくらていぼっし、西福寺さいふくじほうむられた[4]おくは「さんあまりちょう居士こじ」。文政ぶんせい4ねん1821ねん)のじゅうさん回忌かいきてられた墓石はかいしが、いまのこっている。べつに、香具こうぐこころざし神社じんじゃ墓碑ぼひがある。

ほぼどう時期じき江戸えど活躍かつやくした読本とくほん作者さくしゃには曲亭馬琴きょくていばきん山東さんとう京伝きょうでんがいる[よう出典しゅってん]

ほんきょ宣長のりながとの論争ろんそう

編集へんしゅう

秋成あきなり天明てんめい6ねん(1786ねん)から翌年よくねんごろまでほんきょ宣長のりながにわたって論争ろんそうした。その経緯けいいを、宣長のりながは「しかかりかや(かがいか、あしかりよし)」の著作ちょさくで、秋成あきなりは「やすげん(やすみごと)」というかたちあらわした。前半ぜんはん議論ぎろんのテーマは、日本にっぽん古代こだい撥音はつおんの「ん」およはん濁音だくおん(ぱぎょうおと)が存在そんざいしたかどうかである。

後半こうはんは「にちかみ論争ろんそう」ともいわれ、ふじさだみきが『衝口はつ』という著作ちょさくせんちょうとがめたことにたいして、宣長のりながが『鉗狂じん』をあらわして反論はんろんしたことをまえ、秋成あきなりがさらに宣長のりながさい批判ひはんした。しゅとして日本にっぽん神話しんわ解釈かいしゃくをめぐる論争ろんそうである[5][6]

後世こうせい評価ひょうか

編集へんしゅう

江藤えとうあつしは、上田うえだ秋成あきなりを「ソフィストのようなひと」とひょうしている[よう出典しゅってん]小林こばやし秀雄ひでおは、「ほんきょ宣長のりながとはそだちも気質きしつもまるでちが人間にんげんであり、秋成あきなり一種いっしゅ文人ぶんじんで、学者がくしゃではない」とひょうしている[7]

全集ぜんしゅう

編集へんしゅう
だい1かん国学こくがくへん)1990/11/1 ISBN 4124029411 978-4124029413
だい2かん万葉集まんようしゅう研究けんきゅうへん1)1991/2/1 ISBN 412402942X、978-4124029420
だい3かん万葉集まんようしゅう研究けんきゅうへん2)1991/5/1 ISBN 4124029438 978-4124029437
だい4かん万葉集まんようしゅう研究けんきゅうへん3)1993/2/1 ISBN 4124029446 978-4124029444
だい5かん王朝おうちょう文学ぶんがく研究けんきゅうへん)1992/5/1 ISBN 4124029454 978-4124029451
だい6かん国語こくごへん)1991/8/1 ISBN 4124029462 978-4124029468
だい7かん小説しょうせつへん1)1990/8/1 ISBN 4124029470 978-4124029475
だい8かん小説しょうせつへん2)1993/8/1 ISBN 4124029489 978-4124029482
だい9かん随筆ずいひつへん)1992/10/1 ISBN 4124029497 978-4124029499
だい10かんうたぶんへん1)1991/11/1 ISBN 4124029500 978-4124029505
だい11かんうたぶんへん2)1994/2/1 ISBN 4124029519 978-4124029512
だい12かんうたぶんへん3)1995/9/1 ISBN 4124029527 978-4124029529
  • 上田うえだ秋成あきなり全集ぜんしゅう』(ぜん2かん 国書刊行会こくしょかんこうかい 1917-18)
  • 上田うえだ秋成あきなり全集ぜんしゅう』(ぜん2かん 国書刊行会こくしょかんこうかい 1974)
    上記じょうき大正たいしょう6-7(1917-18)年刊ねんかん再版さいはん
  • 上田うえだ秋成あきなり全集ぜんしゅう』(きゅう冨山とやまぼう百科ひゃっか文庫ぶんこ44、1939)
    三島みしま由紀夫ゆきお愛読あいどくしたはんである。(1さつのみ)

おも著作ちょさく

編集へんしゅう

小説しょうせつ

編集へんしゅう
  • 明和めいわ3ねん1766ねん)、『諸道しょどう聴耳世間せけんざる』(しょどうきゝみゝせけんざる) - 「武士ぶしあこがれ、さむらい恰好かっこう江戸えど見物けんぶつ上方かみがた町人ちょうにん」「男勝おとこまさりの武芸ぶげい達人たつじんあま」などがひろげる15の悲喜劇ひきげき
  • 明和めいわ4ねん1767ねん)、『世間せけんわらわがた』(せけんてかけかたぎ) - 「おとこわらわ」、「玉手箱たまてばこ老婆ろうばになったわらわ」など「わったわらわ」の物語ものがたりしゅう滑稽こっけいなものとシリアスなものがある。
  • 安永やすなが5ねん1776ねん)、『雨月物語うげつものがたり』(うげつものがたり) - 怪異かいい小説しょうせつ9へんからる。「菊花きっかやく」(きつかのちぎり)はとく有名ゆうめいで、国語こくご教科書きょうかしょへの採用さいようもある。
  • 天明てんめい7ねん(1787ねん)、『しょはつ機嫌きげんうみ』(かきぞめきげんかい) - 上中かみなかさんかんけ、「きょう江戸えど大阪おおさか」の新春しんしゅん風俗ふうぞくえがいたもの。とし主題しゅだいにした井原いはら西鶴さいかく世間せけん胸算用むなざんよう』のぎゃく登場とうじょう人物じんぶつおおくにはモデルがあるとされ、秋成あきなり論敵ろんてきだったほんきょ宣長のりながおもわせる国学こくがくしゃして、揶揄やゆする描写びょうしゃもある[8]
  • 文化ぶんか3ねん(1806ねん)、『ますらを物語ものがたり』(ますらをものがたり)[ちゅう 4] - 京都きょうと郷士ごうし恋愛れんあいのもつれからいもうと斬殺ざんさつした実話じつわ題材だいざいにしている。さきかれたおな出典しゅってん建部たけべ綾足あやたりさく西山にしやま物語ものがたり」が、史実しじつことなるてん反発はんぱつ本書ほんしょえがいたとべる。また「元禄げんろく赤穂あこう事件じけん」の浪士ろうしりも、国学こくがくしゃとしての立場たちばから批判ひはんする箇所かしょがある[ちゅう 5]
  • 文化ぶんか5ねん1808ねん)、『春雨はるさめ物語ものがたり』(はるさめものがたり) - 「かたびら」「天津てんしん処女しょじょ」「海賊かいぞく」「せいえん」「ひとつのかみ」「くびさきがお」「捨石すていしまる」「宮木みやぎづか」「うたのほまれ」「樊噲」のじゅうへん当初とうしょにあとへんあったが削除さくじょされた。
  • 文政ぶんせい5ねん1822ねん)、『癇癖かんぺきだん』(くせものがたり)[ちゅう 6]- 没後ぼつご刊行かんこう。『伊勢物語いせものがたり』のパロディのからだをとってかれ、24の小話こばなしからなる。当時とうじ俳諧はいかい高僧こうそう名医めいい儒学じゅがくしゃ歌人かじんらを連想れんそうさせる人物じんぶつ登場とうじょうさせ、痛烈つうれつ批判ひはん皮肉ひにくえがかれる。秋成あきなりいえにいるコマドリが、おとずれたウソに「このいえあるじ秋成あきなり)にはおごりがあり、国学こくがくしゃとしてまだまだ修行しゅぎょうりない」とかたる、みずからを風刺ふうしいましめた物語ものがたりめる[ちゅう 7]

国学こくがく

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  • 安永やすなが8ねん(1779ねん)、『ぬばたままき』(ぬばたまのまき) - 『源氏物語げんじものがたり』の注釈ちゅうしゃくしょ
  • 寛政かんせい4ねん(1792ねん)、『やすげん』(やすみごと) - 日本にっぽん外交がいこう史論しろんほんきょ宣長のりながとの論争ろんそうふくむ。
  • 寛政かんせい5ねん1793ねん)、『よしやあしや』 - 『伊勢物語いせものがたりろん
  • 寛政かんせい6ねん1794ねん)、『れいどおり』(れいごつう) - 日本にっぽん古代こだいからの仮名遣かなづかいの研究けんきゅうしょ
  • とおる元年がんねん1801ねん)、『かんむり続貂ぞくちょう』(かんじぞくちょう、かむりごとつぎお) - 賀茂真淵かものまぶちの「かんむりこう」の続編ぞくへんで、枕詞まくらことば329れい五十音ごじゅうおんじゅん分類ぶんるい
  • とおる2ねん1802ねん)、『とお駝延とう』(おだえごと) - 古代こだい史論しろん
  • 文化ぶんか2ねん1805ねん)、『神代かみしろかたり』(かみよかたり) - 「日本書紀にほんしょき神代かみしろ神話しんわ時代じだい)を解説かいせつしたもの。

随筆ずいひつ

編集へんしゅう
  • 寛政かんせい11ねん(1799ねん)、『御嶽おんたけさうじ』(みたけそうじ) - 霊山りょうぜん大峰たいほうまい紀行きこうぶん朝廷ちょうてい幕府ばくふ双方そうほう国家こっか護持ごじ祈祷きとうおこなわれる「小笹おざさ行場いきば」など。
  • 文化ぶんか5ねん(1808ねん)、『ぞう筥記』(じしょうきょき) - 幼少ようしょうからの自伝じでん
  • 文化ぶんか6ねん1809ねん)、『きも大小だいしょうしんろく』(たんだいしょうしんろく) - 「子供こどもしろへびきずつけたらたたりがあった」「あのからくなったつまからの手紙てがみがきた」などの奇談きだん掌編しょうへん、「くろガラスで太陽たいよう観測かんそくし、望遠鏡ぼうえんきょうつきた」などの随筆ずいひつ、「ちまた間違まちがった国学こくがく横行おうこうしているのは、天皇陛下てんのうへいかたいまつ国学こくがくしゃとしてもうけない」といきどお国学こくがくじょう考証こうしょう、さらに未完みかん小説しょうせつ断片だんぺん構想こうそうふくぜん3かん異本いほんすうしゅがある。
  • とおる元年がんねん(1801ねん)、『けんじしん和歌わかじょう』(けんしんわかちょう) - おげの68さいたっし、68しゅんで加島かしま稲荷いなり奉納ほうのうした歌集かしゅう
  • 文化ぶんか2ねん(1805ねん)、『ふじ冊子さっし』(つづらぶみ) - 自撰じせん短歌たんかしゅうななひゃくしゅあまりがおさめられる。「よいのまにはかなのつきいれにけりねためるくもこいしながらに」(きりつぼ)など、源氏物語げんじものがたり各巻かくかん講釈こうしゃくしたうたふくむ。
  • 文化ぶんか3ねん1806ねん)、『うずらつげ哥集』(しゅんこくわかしゅう) - 自撰じせん長歌ながうたしゅう。「詩経しきょう」の内容ないよう和歌わかあらわした「天保てんぽう」など。

狂歌きょうか

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  • 文化ぶんか3ねん(1806ねん)、『まんにおいしゅう』(まにおうしゅう) - 「万葉集まんようしゅう」のもじりだが、狂歌きょうかというより和歌わかちか風雅ふうが作品さくひんおおい。ほかに漢詩かんし故事こじ成語せいごくすりりによる客寄きゃくよせ「口上こうじょう」などを、そのままうた形式けいしき翻訳ほんやくした趣向しゅこう作品さくひんがある。
  • 文化ぶんか8ねん(1811ねん)、『街道かいどうきょう歌合うたあわせ』(かいどうきょうかあわせ) - 没後ぼつご刊行かんこう

俳諧はいかい

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  • 天明てんめい7ねん(1787ねん)、『也哉鈔』(やかなしょう) - 俳文はいぶんしゅう俳句はいくの「」をろんじる。
  • 文化ぶんか6ねん(1809ねん)、『俳調ろん』(はいちょうぎろん) - 自選じせん句集くしゅう。「よるをひとよおしだまりたりゆきまつ」など晩年ばんねんおおい。途中とちゅうで、松尾まつお芭蕉ばしょう批判ひはん推敲すいこうしている箇所かしょがある。
  • 寛政かんせい6ねん(1794ねん)、『清風せいふう瑣言』(せいふうさげん) - さじちゃ指導しどうしょちゃ歴史れきしから、種類しゅるい作法さほう道具どうぐなど。とくに「煎茶せんちゃ」の茶道さどうとくした教本きょうほん
  • 文化ぶんか4ねん(1807ねん)、『ちゃ瘕酔げん』(ちゃかすいげん、さかすいげん) - 『清風せいふう瑣言』の続篇ぞくへん

書簡しょかん

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  • 文化ぶんか6ねん1809ねん)、『ぶん反故ほご』(ふみほうぐ) - 書簡しょかん文集ぶんしゅう
  • 寛政かんせい6ねん(1794ねん)、『茶筅ちゃせん自画じがさん』(ちゃせんじがさん) - 茶道具ちゃどうぐえがいた日本にっぽんごう俳句はいくおなじ「ちょう」。
  • とおる3ねん1803ねん)、『海老えび自画じがさん』(えびじがさん) - 古希こきいわ自画じが自賛じさん日本にっぽん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ かにのこと。「うちやわらかいがそとかたい」「よこあるく」など、おのれの頑固がんこ狷介けんかいをこのべつごうふうした。
  2. ^ 万全ばんぜんでないゆびへのかかわりとほぐされる。
  3. ^ ちちナシ、ソノラズ。よんさいははマタ捨ツ」[3]
  4. ^ 「ますらを」は賀茂真淵かものまぶち国学こくがくしゃあいだ理想りそうとされた「おとこらしい堂々どうどうとした様子ようす」で、万葉集まんようしゅううたふうべるさいにももちいる。[よう出典しゅってん]
  5. ^ 秋成あきなり事件じけん当事とうじしゃである渡辺わたなべみなもとふとしとも面談めんだんしており、「西山にしやま物語ものがたり」が芝居しばいじみて史実しじつ乖離かいりしているてん自己じこ中心ちゅうしんてき人物じんぶつたちが、道徳どうとく無視むし享楽きょうらくにふける結末けつまつ事件じけん無関係むかんけい楠木くすのき正成まさしげ幽霊ゆうれい登場とうじょうするなど)を批判ひはん。ただし、建部たけべ綾足あやたり山鹿やまが素行そこう曾孫そうそんであり、元禄げんろく赤穂あこう事件じけんを「山鹿やまがりゅうとは対極たいきょくにある愚挙ぐきょ」(津軽つがる思想しそう)と非難ひなんしているてんでは秋成あきなりおながわぞくす。[独自どくじ研究けんきゅう?]
  6. ^ 癇癖かんぺき(かんぺき)」といて「くせ」とませる。仮名かめい草子ぞうしじんぜい物語ものがたり』(にせものかたり)のもじり。[よう出典しゅってん]
  7. ^ 癇癖かんぺきだんだいじゅうよんだん最終さいしゅうばなし)。「秋成あきなり書見しょけんをしている姿すがたを、駒鳥こまどりうそ(うそ)がにわながら批評ひひょうしている。うぐいす(うぐいす)もはなしいている」挿絵さしえけられている(国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう)。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 岡本おかもとまさる, くもえい末雄すえおへん新版しんぱん近世きんせい文学ぶんがく研究けんきゅう事典じてん』おうふう、2006ねん1がつ、120-1231ぺーじ 
  2. ^ 長島ながしま弘明ひろあき渋谷しぶやかずくにぞう上田うえだ秋成あきなり資料しりょう」『東京大学とうきょうだいがく国文学こくぶんがく論集ろんしゅうだい13かん、2018ねん、99-113ぺーじdoi:10.15083/00074397 
  3. ^ ぞう筥記、1808ねん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  4. ^ 佐藤さとう春夫はるお上田うえだ秋成あきなり」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうだい16かんだい1ごう、1938ねん、458ぺーじdoi:10.11501/3197699 
  5. ^ 上田うえだ秋成あきなり全集ぜんしゅうだいいちかん国学こくがくへん[ようページ番号ばんごう]
  6. ^ 飛鳥井あすかい雅道まさみち「テキストとしての神話しんわ:ほんきょ宣長のりなが上田うえだ秋成あきなりろんそうとその周辺しゅうへん」『人文じんぶんがくほうだい75かん、1995ねん、34-46ぺーじdoi:10.14989/48440 
  7. ^ 小林こばやしほんきょ宣長のりなが下巻げかん・395ぺーじ
  8. ^ 上田うえだ秋成あきなり文学ぶんがく (放送大学ほうそうだいがく教材きょうざい)」長島ながしま 弘明ひろあき(2016ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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