大御所おおごしょ(おおごしょ)は、隠居いんきょした親王しんのう、摂政せっしょう・関白かんぱくの実父じっぷ、武家ぶけ政権せいけん期きにおける隠居いんきょした征夷大将軍せいいたいしょうぐんや、現職げんしょく将軍しょうぐんの実父じっぷに対たいする尊称そんしょう。
古ふるくは天皇てんのうの居所きょしょである「おほみもと」を指さす言葉ことばであり、さらに親王しんのうの隠居いんきょ所しょである御所ごしょを指さすようになり、やがては隠居いんきょした親王しんのうその者ものを呼よぶ際さいの尊称そんしょうとして用もちいられた。『康かん富とみ記き』嘉吉よしきち二に年ねん(1442)十じゅう一いち月がつ二に六ろく日にち条じょうにその用例ようれいがある。後のちには摂政せっしょう・関白かんぱくの実父じっぷを呼よぶ際さいにも用もちいられている。
鎌倉かまくら時代ときよの編纂へんさん物ぶつ『吾妻あづま鏡きょう』建たて仁ひとし三さん年ねん九きゅう月がつ六ろく日にち条じょうには、江間えま殿どの(北条ほうじょう義よし時とき)が、前ぜん将軍しょうぐんである源みなもと頼朝よりともの御所ごしょ、「大御所おおごしょ(大倉おおくら御所ごしょ)」にいる北条ほうじょう政子まさこのもとに伺候しこうしたという記述きじゅつがあり、吾妻あづま鏡きょうが編纂へんさんされた時期じきには前ぜん将軍しょうぐんの居所きょしょに対たいして「大御所おおごしょ」を用もちいることが行おこなわれていた。一方いっぽう、実際じっさいに息子むすこに将軍しょうぐん職しょくを譲ゆずった藤原ふじわら頼よりゆき経けいは「大殿おおいどの」と称しょうされていた(初出しょしゅつは『吾妻あづま鏡きょう』寛ひろし元もと二に年ねん五ご月がつ廿にじゅう日び条じょう)。
室町むろまち時代ときよには足利あしかが幕府ばくふの将軍しょうぐん職しょくにある者ものの実父じっぷ、足利あしかが義満よしみつ・足利あしかが義政よしまさ・足利あしかが義視よしみ・足利あしかが義晴よしはるが大御所おおごしょと尊称そんしょうされている。
江戸えど時代じだいになり、徳川とくがわ幕府ばくふの初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやすは将軍しょうぐん職しょくを徳川とくがわ秀忠ひでただに譲ゆずり、大御所おおごしょとなった。家康いえやすは駿府すんぷ城じょうに移うつり、一種いっしゅの二に頭とう政治せいじを敷しいた。秀忠ひでただも徳川とくがわ家光いえみつに将軍しょうぐん職しょくを譲ゆずった後のちは江戸城えどじょう西にしの丸まるに入はいり、大御所おおごしょとして政務せいむをとった。以降いこう8代だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね、9代だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげ、11代だい将軍しょうぐんの徳川とくがわ家斉いえなりが大御所おおごしょとなっている。家斉いえなりは将軍しょうぐん職しょくを50年ねん務つとめ、その職しょくを嫡子ちゃくし家慶いえよしに譲ゆずった後のちも大御所おおごしょとして実権じっけんを握にぎった為ため、その期間きかんは大御所おおごしょ時代じだいと呼よばれている。
江戸えど幕府ばくふの大御所おおごしょは将軍しょうぐん職しょく経験けいけん者しゃのみであり、家斉いえなりは実父じっぷ徳川とくがわ治済はるさだを大御所おおごしょとしようとしたが、松平まつだいら定信さだのぶの反対はんたいにより実現じつげんしなかった。
現代げんだいでも、「大御所おおごしょ」は俗語ぞくごとして使用しようされている。ある分野ぶんやにおける長老ちょうろうや権威けんい、または過去かこに大おおきな功労こうろうがあった者ものやその分野ぶんやの草分くさわけ的てき存在そんざいの者もののうち、第だい一線いっせんを退しりぞいても大おおきな存在そんざい感かんを示しめし続つづけている者ものを、「政界せいかいの大御所おおごしょ」「芸能げいのう界かいの大御所おおごしょ」などと呼よぶのがそれである。この用例ようれいの類義語るいぎごとして「元老げんろう」もある。