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大御所 - Wikipedia

大御所おおごしょ

隠居いんきょした親王しんのう摂政せっしょう関白かんぱく実父じっぷ隠居いんきょした将軍しょうぐん現職げんしょく将軍しょうぐん実父じっぷたいする尊称そんしょう

大御所おおごしょ(おおごしょ)は、隠居いんきょした親王しんのう摂政せっしょう関白かんぱく実父じっぷ武家ぶけ政権せいけんにおける隠居いんきょした征夷大将軍せいいたいしょうぐんや、現職げんしょく将軍しょうぐん実父じっぷたいする尊称そんしょう

ふるくは天皇てんのう居所きょしょである「おほみもと」を言葉ことばであり、さらに親王しんのう隠居いんきょしょである御所ごしょすようになり、やがては隠居いんきょした親王しんのうそのものさい尊称そんしょうとしてもちいられた。『かんとみ嘉吉よしきちねん(1442)じゅういちがつろくにちじょうにその用例ようれいがある。のちには摂政せっしょう関白かんぱく実父じっぷさいにももちいられている。

鎌倉かまくら時代ときよ編纂へんさんぶつ吾妻あづまきょうたてひとしさんねんきゅうがつろくにちじょうには、江間えま殿どの北条ほうじょうよしとき)が、ぜん将軍しょうぐんであるみなもと頼朝よりとも御所ごしょ、「大御所おおごしょ大倉おおくら御所ごしょ)」にいる北条ほうじょう政子まさこのもとに伺候しこうしたという記述きじゅつがあり、吾妻あづまきょう編纂へんさんされた時期じきにはぜん将軍しょうぐん居所きょしょたいして「大御所おおごしょ」をもちいることがおこなわれていた。一方いっぽう実際じっさい息子むすこ将軍しょうぐんしょくゆずった藤原ふじわらよりゆきけいは「大殿おおいどの」としょうされていた(初出しょしゅつは『吾妻あづまきょうひろしもとねんがつ廿にじゅうじょう)。

室町むろまち時代ときよには足利あしかが幕府ばくふ将軍しょうぐんしょくにあるもの実父じっぷ足利あしかが義満よしみつ足利あしかが義政よしまさ足利あしかが義視よしみ足利あしかが義晴よしはる大御所おおごしょ尊称そんしょうされている。

江戸えど幕府ばくふ

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江戸えど時代じだいになり、徳川とくがわ幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやす将軍しょうぐんしょく徳川とくがわ秀忠ひでただゆずり、大御所おおごしょとなった。家康いえやす駿府すんぷじょううつり、一種いっしゅとう政治せいじいた。秀忠ひでただ徳川とくがわ家光いえみつ将軍しょうぐんしょくゆずったのち江戸城えどじょう西にしまるはいり、大御所おおごしょとして政務せいむをとった。以降いこう8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね、9だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげ、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり大御所おおごしょとなっている。家斉いえなり将軍しょうぐんしょくを50ねんつとめ、そのしょく嫡子ちゃくし家慶いえよしゆずったのち大御所おおごしょとして実権じっけんにぎったため、その期間きかん大御所おおごしょ時代じだいばれている。

江戸えど幕府ばくふ大御所おおごしょ将軍しょうぐんしょく経験けいけんしゃのみであり、家斉いえなり実父じっぷ徳川とくがわ治済はるさだ大御所おおごしょとしようとしたが、松平まつだいら定信さだのぶ反対はんたいにより実現じつげんしなかった。

現代げんだいでも、「大御所おおごしょ」は俗語ぞくごとして使用しようされている。ある分野ぶんやにおける長老ちょうろう権威けんい、または過去かこおおきな功労こうろうがあったものやその分野ぶんや草分くさわてき存在そんざいもののうち、だい一線いっせん退しりぞいてもおおきな存在そんざいかんしめつづけているものを、「政界せいかい大御所おおごしょ」「芸能げいのうかい大御所おおごしょ」などとぶのがそれである。この用例ようれい類義語るいぎごとして「元老げんろう」もある。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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