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明治維新 - Wikipedia

明治維新めいじいしん

日本にっぽん明治めいじ時代じだい初期しょき近代きんだい改革かいかく
明治めいじ政府せいふから転送てんそう

明治維新めいじいしん(めいじいしん、英語えいご: Meiji RestorationMeiji Revolution[1][2]Meiji Reform[3])とは、江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)から明治めいじ時代じだい初期しょき日本にっぽん国内こくないおこなわれたまくはん体制たいせい打倒だとうして天皇てんのう頂点ちょうてんとした中央ちゅうおう集権しゅうけん統一とういつ国家こっか形成けいせい幕府ばくふ封建ほうけん社会しゃかいから資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい移行いこうした近代きんだい改革かいかく[4][5]政治せいじ中央ちゅうおう官制かんせい法制ほうせい宮廷きゅうてい軍事ぐんじ身分みぶんせい地方ちほう行政ぎょうせい金融きんゆう流通りゅうつう産業さんぎょう経済けいざい文化ぶんか教育きょういく外交がいこう宗教しゅうきょう思想しそう政策せいさく改革かいかく近代きんだい進行しんこうした。

明治天皇めいじてんのう東京とうきょう行幸ぎょうこう
聖徳せいとく記念きねん絵画かいがかん壁画へきが東京とうきょうちゃく輦」)

どう時代じだいには御一新ごいっしん(ごいっしん)とばれた[5]維新いしん革命かくめい(いしんかくめい)[2][6]明治めいじ革命かくめい(めいじかくめい)とも表現ひょうげんする[1][7][8]

名称めいしょう復古ふっこ維新いしん一新いっしん革命かくめい

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典拠てんきょ

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維新いしん詩経しきょう大雅たいがぶんおうの「しゅう雖旧くに、其命維新いしんしゅうきゅうくにといえども、そのいのちは維(これ)しん(あらた)なり)」の成句せいくからられたが、発音はつおん類似るいじから御一新ごいっしん維ヰッしん(ごいっしん)ともいわれた[2][9]

しゅう󠄀雖舊くに󠄁、其命維新いしん

しゅう󠄀きゅうくに󠄁といえども、いのちめいこれしんあらたなり
しゅうふるくにであるが、その天命てんめいあたらしいものである)
— 詩経しきょう大雅たいがぶんおう[2]

幕末ばくまつ変革期へんかくきから明治めいじ初期しょきにおける「復古ふっこ」「維新いしん」「一新いっしん」の用例ようれい

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維新いしん」の用例ようれい古代こだい以来いらい多数たすうあるが、幕末ばくまつ変革期へんかくきにおいては、水戸みとまなぶ思想家しそうか藤田ふじた東湖とうこ日記にっきかのえとらろく天保てんぽう元年がんねん(1830ねん)4がつ21にちじょうに「中興ちゅうこう維新いしん」、4がつ25にちじょうに「去年きょねん以来いらい国事こくじ維新いしんひゃくはたふく」とある。また、よしみひさし3ねん(1850ねん)6がつ19にち藤田ふじた東湖とうこあて横井よこい小楠しょうなん書簡しょかんに「きん年来ねんらいみことはん維新いしん政事せいじ赫赫かくかく天下てんかひびき聞仕」とあり[10]幕府ばくふがわ公文書こうぶんしょでも、よしみなが6ねん(1853ねん)10がつ15にちロシア宰相さいしょうあて老中ろうじゅう奉書ほうしょ君主くんしゅしん嗣位、ひゃく維新いしん、如斯とう重大じゅうだい事項じこう」とある[11][12]

長州ちょうしゅうはん吉田よしだみのる麿まろけがれおお非人ひにんほふいさみなどの差別さべつ部落ぶらくみん兵士へいしてを献策けんさくし、元治もとはる元年がんねん(1864ねん)に「一新いっしんぐみ」が、慶応けいおう2ねん(1866ねん)に「維新いしんだん」が結成けっせいされた[13][14]

慶応けいおう2ねん1866ねん)(または慶応けいおう3ねん)、国学こくがくしゃたままつみさおによる岩倉いわくら具視ともみへの返答へんとうに「維新いしん」がてくる。『岩倉いわくらこう実記じっき』によれば、岩倉いわくら具視ともみ意見いけんもとめられたたままつみさおつぎのように回答かいとうした。

王政おうせい復古ふっこつとめて度量どりょうひろしくし規模きぼだいにせんことをよう󠄁す。ゆえ官職かんしょく制度せいどけん󠄁じょうせんには、とうかみ󠄀たけみかど󠄁のはじめ󠄁もとはらづき、寰宇の統一とういつはかり、まん維新いしんしたがえふをもっ規準きじゅんすべし — 慶応けいおう2ねん1866ねん)(または慶応けいおう3ねん)、たままつみさお発言はつげん[2]

たままつにおいては、きゅう江戸えど幕府ばくふ政権せいけんからの権力けんりょく移譲いじょうは、「征夷大将軍せいいたいしょうぐん」という官位かんいを「禁裡様きんりさま」(天皇てんのう)へ返上へんじょうするというかたちおこなわれたもので、これは易姓革命えきせいかくめいでいう王朝おうちょう交代こうたいではなかったため、「革命かくめい」でなく「維新いしん」の表現ひょうげんえらばれた[2]明治めいじ政府せいふもこれを踏襲とうしゅうした[2]

慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち)の王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいにおいて「みん王者おうじゃ大寶たいほう百事ひゃくじ御一新ごいっしん」と表記ひょうきされた[15]

佐竹さたけたけしによれば、しん政府せいふ王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいにおいては「王政おうせい復古ふっこ国威こくい挽回ばんかい」をべ、根本こんぽんてきだい改造かいぞうという意味いみで「百事ひゃくじ御一新ごいっしん」と宣伝せんでんしたが、この「御一新ごいっしん」が「維新いしん」というかたりになり、はじめは「王政おうせい維新いしん」とっていた[16]。「明治維新めいじいしん」のかたりあらわれたのは1890ねん憲法けんぽう公布こうふされるすうねんまえのこととられ[17]、「王政おうせい維新いしん」のかたり戦後せんご使用しようされている。

革命かくめい初期しょき公文書こうぶんしょには政体せいたい復古ふっこ天下てんか一新いっしん朝政ちょうせい一新いっしんという表記ひょうきがなされた。『太政官だじょうかん日誌にっし』は慶応けいおう4ねん2がつ14にち(1868ねん3がつ7にち)から記録きろくされているが、同日どうじつひがし久世くせどおり各国かっこく公使こうしに「政体せいたい復古ふっこ」を報告ほうこくしている[18]

がつじゅうよんにち うまはん󠄁こくよりさるこくまでに 大坂おおさか西本願寺にしほんがんじに於󠄁て

醍醐だいご大納おおの󠄁げん殿しんがり ひがし久世くぜぜん少將しょうしょう殿どの 宇和うわしま少將しょうしょう殿どの 各國かっこくこう󠄁使つかい󠄁と應接おうせつ始末しまつ ひだりごと

ただし 外國がいこく事務じむがかり 及󠄁び しょ󠄀はん家老がろう列座れつざ

ひがし久世くぜ殿どの發話はつわ わが日本にっぽん 政體せいたい復古ふっこ

みかど󠄁みずか政權せいけんにぎし 外國がいこくの交󠄁きわも 一切いっさい朝廷ちょうてい󠄁にて曳請󠄁 裁判さいばん󠄁致可 … 
— 『太政官だじょうかん日誌にっしだいいち

慶應けいおう4ねん2がつ28にちの「幕府ばくふおやせいみことのり」では「天下てんか一新いっしん」とある[19]慶應けいおう4ねん3がつ14にち(1868ねん4がつ6にち)の億兆おくちょうやすなで国威こくい宣揚せんよう宸翰しんかんでは「朝政ちょうせい一新いっしん」とある。旧暦きゅうれき9がつ8にち(10がつ23にち)に改元かいげんおこなわれ、明治めいじ元年がんねん12がつ23にち(1869ねん2がつ4にち)のひがし久世くぜ中将ちゅうじょうからイギリス公使こうしハリー・パークスてた公文書こうぶんしょつづりでは「朝政ちょうせい一新いっしん」とある[20]

明治めいじ2ねん(1869ねん正月しょうがつには、木戸きど孝允たかよし大村おおむら益次郎えきじろうあて書簡しょかんで「大政たいせい一新いっしん」とき、岩倉いわくら具視ともみは「大政たいせい維新いしん」といた[12][21]

公文書こうぶんしょにおける「維新いしん」の用例ようれいとしては、明治めいじ3ねん1がつ3にち宣布せんぷだいきょうみことのりに「いま天運てんうん循環じゅんかんし、ひゃく維新いしん(これあらた)なり、よろしくきょうあきらかにし、もっ惟神かんながら(かむながら)のみち宣揚せんようすべきなり」とある[22]

明治めいじ5ねん(1872ねん)9がつ刊行かんこうおきこころざしろう主人しゅじん維新いしん布告ふこく往来おうらい : 童蒙どうもう必読ひつどく』には「すめらぎせい復古ふっこ綱紀こうき維新いしん(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。

英語えいごでの翻訳ほんやくrestorationrevolution

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英語えいご表記ひょうきMeiji restoration [23]おおく、「明治めいじの(王政おうせい復古ふっこ」の意味いみになる。Meiji Ishin[24]Meiji restoration and revolution[3]Meiji Revolution明治めいじ革命かくめい[25][1]Meiji Renovation[26] などがられる。

維新いしん英語えいご王政おうせい復古ふっこ意味いみする Restoration表記ひょうきされることがおおいが、これは慶應けいおう3ねん12月9にち1868ねん1がつ3にち)に岩倉いわくら具視ともみらが上程じょうていしただいれい(いわゆる王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい)のなか王政おうせい復古ふっこ英語えいごやくであるとされる[2]

先帝せんてい孝明天皇こうめいてんのうしきとし宸襟しんきん(しんきん)こう次第しだいしゅう庶之ところこうこれ叡慮えいりょけっせられ、王政おうせい復古ふっこ国威こくい挽回ばんかいもと(もとい)てさせられこうあいだ自今じこん摂関せっかん幕府ばくふとう廢絕はいぜつし… — だいれい(王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい)[2][27]慶應けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち

英国えいこく外交がいこうかんフランシス・O・アダムスの『日本にっぽん』(1874-75)ではこのだいれいを「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity」と説明せつめいされた[28]。この場合ばあいrestoration は「王政おうせい復古ふっこ」ではなく、「国威こくい挽回ばんかい」の訳語やくごとしてもちいられたが、日本にっぽん政治せいじ思想しそう研究けんきゅうしゃ苅部かりべただしは、日本にっぽん開国かいこく出版しゅっぱんされた西欧せいおうじんによるはじめての日本にっぽん紹介しょうかいであるアダムスの『日本にっぽん』から、慶応けいおうさんねん改革かいかくrestoration用法ようほう定着ていちゃくしていったのだろうと指摘してきする[2]

他方たほうウィリアム・グリフィスThe Mikado's Empire (『ミカドの帝国ていこく』、1876ねん)では、将軍しょうぐん政権せいけん崩壊ほうかいとミカド(天皇てんのう)の最高さいこう権力けんりょくへの復帰ふっきrestoration)が目撃もくげきされたとし、最近さいきん日本にっぽんでは、対外たいがい政策せいさく転換てんかん社会しゃかい改革かいかく西洋せいよう文明ぶんめい受容じゅよう三重みえ政治せいじ革命かくめい (a three-fold political revolution) が進行しんこうしていたと認識にんしきしていた[2][29]苅部かりべによれば、幕末ばくまつから明治めいじにかけての体制たいせい転換てんかんは、徳川とくがわ公方くぼうから京都きょうと天皇てんのうへのたんなる政権せいけん交代こうたいというだけでなく、公儀こうぎまたは幕府ばくふ大名だいみょう朝廷ちょうてい統制とうせいするそれまでの国家こっか全体ぜんたい体制たいせいあらためることであり、様々さまざま制度せいど改革かいかくつうじて、身分みぶんもとづく支配しはいなどが廃止はいしされ、西洋せいよう文明ぶんめいへの受容じゅようへとおおきくかじられたような、社会しゃかい急激きゅうげき変化へんかであり、また、当時とうじ日本にっぽん国内こくないではこのようななか根本こんぽんからなおそうとするうごきは「御一新ごいっしん」として歓迎かんげいされたことなどからも、このような体制たいせい転換てんかんにふさわしい英語えいごrevolution であり、これはどう時代じだい日本人にっぽんじんいた実感じっかんでもあったという[2]。また、明治めいじ政府せいふが「維新いしん」でなく「革命かくめい」と表現ひょうげんしていたら、「明治めいじ革命かくめい」とった名称めいしょう定着ていちゃくしていた可能かのうせいもあったという[2]

なお、徳富とくとみ蘇峰そほう竹越たけこし與三郎よさぶろう[2]や、きた一輝いっきらは[6]、「維新いしん革命かくめい」という呼称こしょうもちいた。

中村なかむら政則まさのりは、明治維新めいじいしん復古ふっこ(Restoration)、改革かいかく(Reform)、革命かくめいみっつの側面そくめんち、どの側面そくめん強調きょうちょうするかで評価ひょうかことなってくると1986ねん指摘してきした[30]

21世紀せいきはいると「明治めいじ革命かくめい」を使用しようする研究けんきゅうしゃおおくなり、日本にっぽん政治せいじ研究けんきゅう坂野さかのじゅん[7]日本にっぽん近代きんだい研究けんきゅう三谷みたにひろし[1]日本にっぽん政治せいじ思想しそう研究けんきゅう渡辺わたなべひろし[8]歴史れきし学者がくしゃマリウス・バーサス・ジャンセン[31]アンドルー・ゴードン[32][33]らは「明治めいじ革命かくめい・Meiji Revolution」という呼称こしょうもちいる。

なお、三谷みたにひろしは、Restorationを訳語やくご使つかうと、天皇てんのう国家こっか頂点ちょうてんへの復帰ふっきだけに注意ちゅういあつめ、維新いしん世襲せしゅう身分みぶんせいのほとんどを廃棄はいきしただい規模きぼ革命かくめいであった事実じじつをおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解ごかいもあるのなら、regeneration(再生さいせい改革かいかく刷新さっしんなどの意味いみ)という訳語やくご提案ていあんした[34][* 1]

改革かいかく時期じき

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維新いしん時期じきについては諸説しょせつある。明治維新めいじいしん始期しきとして、天保てんぽう年間ねんかん(1831 - 1845ねん)にかんがえがある[5]天保てんぽう年間ねんかんには、天保てんぽうだい飢饉ききん天保てんぽう4 - 10ねん、1833 - 1839ねん)によって100まんにん以上いじょう犠牲ぎせいとなり、天保てんぽう騒動そうどうなどの百姓ひゃくしょう一揆いっきや、大塩おおしお平八郎へいはちろうらん(1837ねん)が発生はっせいした[5][36]

また鎖国さこく批判ひはんした渡辺わたなべ崋山かざん高野たかの長英ちょうえい弾圧だんあつする蛮社のごくがあり、天保てんぽう改革かいかくでも飢饉ききん対策たいさく成果せいかはなかった[5][36]天保てんぽう13ねん(1842ねん)にはアヘン戦争せんそうきよしやぶれ、イギリスだいえい帝国ていこく)のつよさをった幕府ばくふ異国いこくせんはらいれい廃止はいしし、遭難そうなんせん救済きゅうさいする薪水しんすい給与きゅうよれいさだめた[36]

始期しきとして、黒船くろふね来航らいこうよしみひさし6ねん、1853ねん)または不平等ふびょうどう条約じょうやくであった安政あんせい通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ(1858ねん)に見方みかたもある[5]

1889ねん明治めいじ22ねん)に完成かんせいした官選かんせん史料しりょうしゅう復古ふっこ』では、慶応けいおう3ねん1867ねん)の大政奉還たいせいほうかんから明治めいじ元年がんねん10月28にち1868ねん12月11にち)の東征とうせいだい総督そうとく解任かいにんまでがあつかわれた。当初とうしょ復古ふっこ編纂へんさんあんでは、よしみなが7ねん(1853ねん)のペリー来航らいこうから大政奉還たいせいほうかんまでを前記ぜんき大政奉還たいせいほうかんから東征とうせいだい総督そうとく解任かいにんまでを正記まさき戊辰戦争ぼしんせんそうそと区分くぶんしていた[37]

文部省もんぶしょう東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ編纂へんさんだい日本にっぽん維新いしん史料しりょう』では、ひろし3ねん(1846ねん)2がつ孝明天皇こうめいてんのう践祚せんそから明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんいたる25年間ねんかん維新いしん資料しりょうとしてまとめられた[38]

狭義きょうぎでは明治めいじ改元かいげんたる明治めいじ元年がんねんきゅう9がつ8にち1868ねん10月23にち)となる。しかし、一般いっぱんてきにはその前年ぜんねんたる慶応けいおう3ねん1867ねん)の大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこ以降いこう改革かいかくすことがおお[よう出典しゅってん]

終了しゅうりょう時期じきについても、廃藩置県はいはんちけん明治めいじ4ねん1871ねん)、封建ほうけん復帰ふっきざす士族しぞくはん政府せいふ運動うんどうわった西南せいなん戦争せんそう明治めいじ10ねん1877ねん)や[5]内閣ないかく制度せいど発足ほっそく明治めいじ18ねん1885ねん)、立憲りっけん体制たいせい確立かくりつ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ明治めいじ22ねん1889ねん[5]までとするなど諸説しょせつある。

この期間きかん政府せいふ一般いっぱんてきには慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち)の王政おうせい復古ふっこ以後いご成立せいりつした政権せいけん維新いしん政権せいけん[39])を明治めいじ政府せいふ(めいじせいふ)、しん政府せいふ(しんせいふ)、維新いしん政府せいふ(いしんせいふ)ともいう。

幕末ばくまつ情勢じょうせい江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかい

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政治せいじ状況じょうきょう

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戊辰戦争ぼしんせんそうちゅう薩摩さつまはん藩士はんし着色ちゃくしょく写真しゃしん)。フェリーチェ・ベアト撮影さつえい
 
四国しこく連合れんごう艦隊かんたいによる下関しものせき砲撃ほうげきうませき戦争せんそう

一般いっぱんてきに、明治維新めいじいしんはじまりは黒船くろふね来航らいこう象徴しょうちょうされる欧米おうべい列強れっきょう経済けいざいてき軍事ぐんじてき拡大かくだい政策せいさくたいする抵抗ていこう運動うんどう攘夷じょうい運動うんどう)に起源きげんつとされる。

19世紀せいき江戸えど幕府ばくふ支配しはい体制たいせいほころびがはじめていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国がいこくせん来航らいこう通商つうしょう要求ようきゅうや、フェートンごう事件じけんモリソンごう事件じけんなどの外圧がいあつたかまりにくわえて、たかられき事件じけん明和めいわ事件じけん大塩おおしお平八郎へいはちろうらんといった内紛ないふん内乱ないらん民衆みんしゅう運動うんどうであるちこわしさかんになった。老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶ国学こくがくものほんきょ宣長のりながなどは大政たいせい委任いにんろんとなえ、幕府ばくふ政治せいじ天皇てんのうから委任いにんされたものとかんがえる見方みかた主流しゅりゅうし、国学こくがくしゃ水戸みとまなぶ中心ちゅうしん尊皇そんのう思想しそう尊王そんのうろんひろまっていった。

19世紀せいきなかばのアヘン戦争せんそう以後いご欧米おうべいによる帝国ていこく主義しゅぎ政策せいさく影響えいきょうひがしアジア浸透しんとうするにつれ、水戸みとまなぶひとし国学こくがく基盤きばんとして、外国がいこく勢力せいりょく排斥はいせきして江戸えど幕府ばくふ開闢かいびゃく以来いらい基本きほん政策せいさくである鎖国さこく政策せいさくまくはん体制たいせい維持いじしようとする攘夷じょうい思想しそうあらわれた。しかし江戸えど幕府ばくふ開国かいこく通商つうしょう路線ろせん選択せんたくしたため、攘夷じょうい思想しそう尊王そんのうろんむすびつき、朝廷ちょうてい権威けんいのもと幕政ばくせい改革かいかく攘夷じょうい実行じっこうもとめる尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどうとして、武士ぶし階層かいそう中心ちゅうしんひろ普及ふきゅうしていった。

一方いっぽう幕府ばくふがわ開国かいこく通商つうしょう路線ろせん是認ぜにんするしょはんなかにも、いわゆる雄藩ゆうはん中心ちゅうしんに、幕府ばくふによる対外たいがい貿易ぼうえき独占どくせん反対はんたいし、あるいは欧米おうべい列強れっきょう対抗たいこうすべく旧来きゅうらいまくはん体制たいせい変革へんかくうったえる勢力せいりょくあらわれた。これらの勢力せいりょくもまた朝廷ちょうていほうじてその要求ようきゅう実現じつげんさせようとしたため、京都きょうと舞台ぶたい朝廷ちょうていめぐ複雑ふくざつ政争せいそう展開てんかいされることとなった。そのような風潮ふうちょうなか薩英戦争せんそう下関しものせき戦争せんそうなどにおいて欧米おうべい列強れっきょうとの軍事ぐんじりょくあらためて認識にんしきされたことで、観念かんねんてき攘夷じょういろん克服こくふくし、国内こくない政治せいじ権力けんりょく統一とういつ体制たいせい改革かいかく近代きんだい)をすすめ、外国がいこくとの交易こうえきによって富国強兵ふこくきょうへいはかり、欧米おうべい対抗たいこうできるちからをつけるべきだとする「だい攘夷じょういろん台頭たいとうし、尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう盟主めいしゅてき存在そんざいだった長州ちょうしゅうはん開国かいこくろんへと転向てんこうしていくことになった。イギリス外交がいこうかんアーネスト・サトウ論文ろんぶん英国えいこくさくろん』の和訳わやく横浜よこはまのジャパン・タイムズに掲載けいさいされ、天子てんし主権しゅけんろん討幕とうばく理論りろんづけた。ただこのしょ内容ないようは、英国えいこく留学りゅうがくちゅう薩摩さつま藩士はんし松木まつき弘安ひろやす英国えいこく外務がいむ大臣だいじん提出ていしゅつしたものとの類似るいじせい指摘してきされている[40]

 
明治天皇めいじてんのう明治めいじ6ねん〈1873ねん〉10がつ内田うちだきゅういち撮影さつえい

幕府ばくふ公武こうぶ合体がったい政策せいさくかかげ、尊王そんのう攘夷じょうい攘夷じょうい要求ようきゅう妥協だきょうしつつきゅう体制たいせい存続そんぞく模索もさくしたため、外国がいこく勢力せいりょく脅威きょうい直面ちょくめんしていた急進きゅうしんてき雄藩ゆうはん支持しじうしなっていった。またこの時期じき黒船くろふね来航らいこう以来いらい幕府ばくふ威信いしん低下ていか世情せじょう不安ふあんたかまりを背景はいけいとして農民のうみん一揆いっき多発たはつするようになった。このような情勢じょうせいなか諸侯しょこう連合れんごう政権せいけん志向しこうする土佐とさはん越前えちぜんはんらの主張しゅちょうおおやけ政体せいたいろん)や、より寡頭てき政権せいけん志向しこうする薩摩さつまはん主張しゅちょうなど、国政こくせい改革かいかくのために幕府ばくふはいして朝廷ちょうていした中央ちゅうおう集権しゅうけんてき政治せいじ体制たいせい樹立じゅりつしようとする構想こうそう幕政ばくせいにおいて急速きゅうそく支持しじあつめていった。結果けっかとしてこれらの改革かいかく勢力せいりょく協力きょうりょくした王政おうせい復古ふっこ宣言せんげんされ、古代こだい律令制りつりょうせい中世ちゅうせいたてたけし新政しんせい中央ちゅうおう集権しゅうけんてき王権おうけん統治とうち先例せんれいもとめつつも、天皇てんのう欧米おうべい列強れっきょう諸国しょこく君主くんしゅ同様どうよう近代きんだい国家こっか主権しゅけんしゃとして統治とうちする体制たいせい明治めいじ政府せいふ誕生たんじょうした。戊辰戦争ぼしんせんそうによるきゅう幕府ばくふ勢力せいりょく排除はいじょ権力けんりょく確立かくりつしたこのしん政府せいふは、薩摩さつま長州ちょうしゅうりょうはん出身しゅっしん官僚かんりょうそう中心ちゅうしん急進きゅうしんてき近代きんだい政策せいさく推進すいしんしていくこととなった。

自然しぜん災害さいがい疫病えきびょう

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安政あんせい2ねん(1855ねん安政あんせい江戸えど地震じしん直後ちょくごなまず地震じしんこすとされただいなまずらしめる。

幕末ばくまつしょ外国がいこくからの開国かいこく圧力あつりょくつよまるなかだい地震じしん続発ぞくはつした。ひろし4ねん1847ねん)には長野ながの善光寺ぜんこうじ地震じしんき、山崩やまくずでせきみずうみ決壊けっかいなどのため、1まんにん犠牲ぎせいしゃ[36]ペリー来航らいこう直前ちょくぜんよしみひさし6ねん(1853ねん)3がつ小田原おだわら地震じしんM6.7、震度しんど7、江戸えど震度しんど4-5)がきた。翌年よくねん日米にちべい和親わしん条約じょうやく締結ていけつされると、伊賀上野いがうえの地震じしん(M7.3)が発生はっせいし、以降いこう、13かい地震じしん連発れんぱつする安政あんせいだい地震じしん発生はっせいした[36]よしみなが7ねんには、南海なんかいトラフ巨大きょだい地震じしんである安政あんせい東海とうかい地震じしん安政あんせい南海なんかい地震じしん(M8.4、震度しんど7)、豊予海峡ほうよかいきょう地震じしん(M7.4、震度しんど6)が発生はっせいし、幕府ばくふわざわい改元かいげん安政あんせい改元かいげんするが、安政あんせい2ねん飛騨ひだ地震じしんM7.5)、陸前りくぜん地震じしん安政あんせい江戸えど地震じしん(M6.9-7.4、推定すいてい死者ししゃ1まんにん)が発生はっせいした[36]安政あんせい3ねんにも安政あんせい3ねんだい風災ふうさい台風たいふう高潮こうちょう江戸えどおそい(推定すいてい死者ししゃ10まんにん[36]安政あんせい八戸はちのへおき地震じしん(M6.9-8.0)が発生はっせいした。安政あんせい4ねんげい地震じしん(M7.3)が発生はっせい安政あんせい5ねん(1858ねん)の飛越とびこし地震じしん(M7.1、震度しんど7)ではとんび山崩やまくず併発へいはつし、常願寺川じょうがんじがわのせきみずうみ決壊けっかいして下流かりゅうだい被害ひがいした[36]

安政あんせい5ねんにはコレラ流行りゅうこうし、江戸えどだけで死者ししゃが3まんにん[36]から30まんにんおよんだ[41]。さらに文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)のコレラ流行りゅうこうでは安政あんせい5ねんすうばい死者ししゃ[42]文久ぶんきゅう2ねんにははしかだい流行りゅうこうし、江戸えどだけで239,862にん死者ししゃ[43]。こうした度重たびかさなる疫病えきびょうによる社会しゃかい不安ふあん徳川とくがわ幕府ばくふ崩壊ほうかい要因よういんひとつともなった[43]

りゃく年表ねんぴょう

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明治めいじ5ねん(1872)のグレゴリオれきへの改暦かいれきまでの日本にっぽん太陰たいいん太陽暦たいようれき(天保てんぽうれき)を採用さいようしていたため、西暦せいれきとはずれがあることに留意りゅうい。また、慶応けいおう4ねん一世一元いっせいいちげんせいによる明治めいじへの改元かいげんまではわざわい改元かいげんたてとし改元かいげん(改元かいげんねん元旦がんたん遡及そきゅうしてしん元号げんごう使用しよう)などもある[44][45]

御一新ごいっしん」の理念りねん

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箇条かじょう誓文せいもん

編集へんしゅう
 
のぼりじん親王しんのう揮毫きごうした誓文せいもん原本げんぽん
 
大政奉還たいせいほうかん邨田りょう ふで

江戸えど幕府ばくふによる大政奉還たいせいほうかんけ、王政おうせい復古ふっこによって発足ほっそくした明治めいじしん政府せいふ方針ほうしんは、天皇てんのう親政しんせい旧来きゅうらい幕府ばくふ摂関せっかんなどの廃止はいし)を基本きほんとし、しょ外国がいこくおも欧米おうべい列強れっきょうこくす)にいつくための改革かいかく模索もさくすることであった。その方針ほうしんは、よく慶応けいおう4ねん1868ねん)3がつ14にち公布こうふされた箇条かじょう誓文せいもん具体ぐたいてき明文化めいぶんかされることになる。合議ごうぎ体制たいせい官民かんみん一体いったいでの国家こっか形成けいせい旧習きゅうしゅう打破だは世界せかい列国れっこくする実力じつりょく涵養かんようなどである。なお、この『箇条かじょう誓文せいもん』の起草きそうしゃ監修かんしゅうしゃは「旧来きゅうらいノ陋習ヲやぶ天地てんち公道こうどうもとクヘシ」をまったあらたにれた総裁そうさいきょく顧問こもん木戸きど孝允たかよし長州ちょうしゅうはん)であるが、そのぜん段階だんかいの『かいめい箇条かじょう起草きそうしゃ参与さんよ福岡ふくおか孝弟こうてい土佐とさはん)であり、さらにそのぜん段階だんかいの『議事ぎじからだ大意たいい箇条かじょう起草きそうしゃ参与さんよ由利ゆり公正きみまさ越前えちぜんはん)である。

その当時とうじはまだ戊辰戦争ぼしんせんそうのさなかであり、しん政府せいふ日本にっぽん統一とういつ国是こくぜ内外ないがい呈示ていじする必要ひつようがあった。そのため、誓文せいもんが、しょ大名だいみょうや、しょ外国がいこく意識いしきして明治天皇めいじてんのう百官ひゃっかんひきいて、皇祖こうそしんちかいをてるという形式けいしきされたのである。さらに国民こくみんたいしては、同日どうじつ天皇てんのう御名ぎょめいで「億兆おくちょうやすなで国威こくい宣揚せんよう宸翰しんかん」が告示こくじされ、天皇てんのう自身じしん今後こんご善政ぜんせいをしき、おおいに国威こくいかがやかすので、国民こくみん旧来きゅうらいの陋習から脱却だっきゃくするようにかれている。

これらの内容ないようは、しん政府せいふ内政ないせい外交がいこう反映はんえいされて具体ぐたいされていくとともに、思想しそうてきには自由じゆう民権みんけん運動うんどう理想りそうとされていく。

また、この目的もくてきたっするための具体ぐたいてきなスローガンとして「富国強兵ふこくきょうへい」「殖産しょくさん興業こうぎょう」が頻用ひんようされた。

榜の掲示けいじ

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箇条かじょう誓文せいもん公布こうふした翌日よくじつ幕府ばくふ高札こうさつ撤去てっきょされ、つじ々には暫定ざんていてき江戸えど幕府ばくふ統治とうち政策せいさく踏襲とうしゅうする「榜の掲示けいじ」がてられた。儒教じゅきょう道徳どうとく遵守じゅんしゅ徒党ととう強訴ごうそ禁止きんしキリスト教きりすときょう禁止きんし国外こくがい逃亡とうぼう禁止きんしなどをいだ内容ないよう掲示けいじされた。これら条項じょうこうは、その政策せいさくなか撤廃てっぱいされたり、自然しぜん消滅しょうめつして効力こうりょくうしなうにいたる。

しん政府せいふ編成へんせい

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明治めいじ政府せいふ

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東京とうきょう奠都てんと

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首都しゅとについては、当初とうしょ京都きょうとでは旧弊きゅうへい京都きょうと歴史れきしじょうのしがらみ)がおおいとして、大阪おおさか遷都せんとろん大久保おおくぼ利通としみち中心ちゅうしんとしてとなえられた。

しかし、大阪おおさか遷都せんとろんには反対はんたいおおく、江戸城えどじょうわたしもあり、江戸えど東京とうきょうとすることでちついた。1868ねん7がつ17にち江戸えどたたえシテ東京とうきょうためスノ詔書しょうしょ発布はっぷされたが、遷都せんとについては正式せいしき布告ふこくがあったわけではなく、明治天皇めいじてんのうの2東京とうきょう行幸ぎょうこうにより太政官だじょうかん東京とうきょううつされ、東京とうきょう事実じじつじょう首都しゅとなされるようになった。

奠都てんとからやく30ねんになる1897ねんには、財閥ざいばつ新聞しんぶんしゃ通信つうしんしゃ委員いいんかい編成へんせいして開催かいさいした「奠都てんとさんねん祝賀会しゅくがかい」が開催かいさいされた[48][49]

行政ぎょうせい

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形式けいしきてきには、明治維新めいじいしん律令制りつりょうせい復活ふっかつげきでもあった。まくはん体制たいせい崩壊ほうかいともない、中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか確立かくりついそ必要ひつようがあったしん政府せいふは、律令制りつりょうせいはんとした名称めいしょう復活ふっかつさせた[* 2]

王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいにおいて、幕府ばくふ摂政せっしょう関白かんぱく廃止はいし天皇てんのう親政しんせいさだめられ、天皇てんのうした総裁そうさい議定ぎてい参与さんよさんしょくからなる官制かんせい施行しこうされた。総裁そうさいには有栖川ありすがわみや親王しんのう議定ぎていには皇族こうぞく公卿くぎょう薩摩さつま長州ちょうしゅう土佐とさ越前えちぜんなどの藩主はんしゅが、参与さんよには公家くげ議定ぎていについた藩主はんしゅ家臣かしん就任しゅうにんした。しかし、明治天皇めいじてんのうはまだ年少ねんしょうであるため[* 3]、それを補佐ほさする体制たいせいがすぐに必要ひつようとなった。

そこで、慶応けいおう4ねんうるう4がつ21にち政体せいたいしょ公布こうふにより、太政官だじょうかん中心ちゅうしん三権分立さんけんぶんりつせいをとる太政官だじょうかんせいられ[* 4]、さらに翌年よくねん7がつには、版籍はんせき奉還ほうかんにより律令制りつりょうせいかんはちしょうしたかんろくしょうせい発足ほっそくした。明治めいじ2ねんおも組織そしき役職やくしょくしゃつぎとおりである[50]

  1. 輔相 三条さんじょう実美みみ
  2. 議定ぎてい 岩倉いわくら具視ともみ徳大寺とくだいじ実則さねつね鍋島なべしま直正なおまさ
  3. 参与さんよ ひがし久世くせどおり木戸きど孝允たかよし大久保おおくぼ利通としみち後藤ごとう象二しょうじろう副島そえじま種臣たねおみ板垣いたがき退助たいすけ

そして、明治めいじ4ねん7がつ廃藩置県はいはんちけんのちには正院しょういんひだりいんみぎいんによるさんいんせいられた。

具体ぐたいてき行政ぎょうせい機構きこうとしては、太政官だじょうかん神祇官じんぎかんき、太政官だじょうかんした各省かくしょう律令制りつりょうせい模写もしゃされたものの、そのみんしょうからこうしょう分離ぶんりしたり、刑部おさかべしょうから司法省しほうしょう改組かいそしたりする幾多いくた改変かいへん必要ひつようとし、安定あんていしなかった。また立法府りっぽうふであるひだりいんみぎいん地方ちほうかん会議かいぎなども設置せっち廃止はいしかえされた。明治めいじ中央ちゅうおう官制かんせい改革かいかく明治めいじ18ねん1885ねん)の内閣ないかく制度せいど発足ほっそくをもってようやく安定あんていする。

立法りっぽう

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憲法けんぽう発布はっぷしき和田わだ英作えいさく ふで

また、立法府りっぽうふかんしては木戸きど孝允たかよしらが明治めいじ初年しょねんから議会ぎかい開設かいせつとなえていたが、議会ぎかい制度せいど発足ほっそくさせるためには、官制かんせい改革かいかく民度みんど国民こくみん教育きょういくなどが成熟せいじゅくであり、時期じき尚早しょうそうであったため、大久保おおくぼ利通としみち中心ちゅうしんに「有司ゆうし専制せんせい」とばれる薩長さっちょう藩閥はんばつによる官僚かんりょう中心ちゅうしんとした改革かいかく体制たいせい維持いじされた。1875ねん明治めいじ8ねん)には大阪おおさか会議かいぎでの合意ごうい立憲政体りっけんせいたい詔書しょうしょにより、立法りっぽう機関きかんとして元老げんろういん設置せっちされた。

のち、自由じゆう民権みんけん運動うんどうたかまりや、しょ制度せいど整備せいびによる改革かいかく成熟せいじゅく不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱい条件じょうけんなどもあり、明治めいじ14ねん1881ねん)に明治天皇めいじてんのうは「国会こっかい開設かいせつみことのり」をし、同時どうじ議会ぎかい制度せいど前提ぜんていとして伊藤いとう博文ひろぶみらによる憲法けんぽう制定せいていうごきが本格ほんかくし、憲法けんぽう審議しんぎのため枢密院すうみついん設置せっちされた。明治めいじ22ねん1889ねん)に大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう公布こうふ翌年よくねん帝国ていこく議会ぎかい発足ほっそくし、アジアでははつ本格ほんかくてき立憲りっけん君主くんしゅせい議会ぎかいせい国家こっか完成かんせいした[* 5]

地方ちほう行政ぎょうせい

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琉球りゅうきゅう王国おうこく最後さいご国王こくおうなおたいおう

明治めいじしん政府せいふは、幕府ばくふからいだ天領てんりょうと「朝敵ちょうてき」となったしょはんからの没収ぼっしゅう行政ぎょうせいかん派遣はけんして直轄ちょっかつとした。つまり、地方ちほう行政ぎょうせいとしては、徳川とくがわ駿府すんぷはんうつりふうし、京都きょうと長崎ながさき函館はこだて政府せいふ直轄ちょっかつの「」とした以外いがいは、原則げんそくとして以前いぜんはん体制たいせい維持いじされていた。しかし、富国強兵ふこくきょうへい目的もくてきとする近代きんだい国家こっか建設けんせつ推進すいしんするためには、中央ちゅうおう集権しゅうけんによる政府せいふ地方ちほう支配しはい強化きょうか是非ぜひとも必要ひつようなことであった。

まず、明治めいじ元年がんねん姫路ひめじはんあるじ酒井さかい忠邦ただくに版籍はんせき奉還ほうかん建白けんぱくしょ提出ていしゅつつづいて明治めいじ2ねん1がつ20日はつか薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん土佐とさはん肥前ひぜんはん薩長さっちょう土肥どい)の藩主はんしゅらが、版籍はんせき奉還ほうかん上表じょうひょうぶんしん政府せいふ提出ていしゅつした。これにかくはん藩主はんしゅたちがつづき、6がつ返上へんじょう申請しんせい一段落いちだんらくむかえると、ぜんはん版籍はんせき奉還ほうかんめいじた。この版籍はんせき奉還ほうかんによりきゅう藩主はんしゅたちが自発じはつてきはん土地とち)・せき人民じんみん)を天皇てんのう返上へんじょうし、あらためてはんごと任命にんめいされることで、はん領主りょうしゅ分離ぶんりはかられ、重要じゅうようきゅう幕府ばくふ直轄ちょっかつかれたけんとともに「はんけん体制たいせい」となる。

しかし、中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめ、改革かいかく全国ぜんこくてき網羅もうらする必要ひつようがあることから、はん存在そんざい邪魔じゃまとなり、またはんがわでも財政ざいせい逼迫ひっぱくつづいたことから自発じはつてきはいはんもうはん相次あいついだ。明治めいじ4ねんきゅう7がつ14にち(1871ねん8がつ29にち)に、倒幕とうばく中心ちゅうしんであった薩摩さつま長州ちょうしゅうはん出身しゅっしん指導しどうしゃである大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよしらにより廃藩置県はいはんちけん実施じっしされ、府県ふけん制度せいどとなり(当初とうしょは3302けん直後ちょくご整理せいりされ372けん)、中央ちゅうおう政府せいふから知事ちじ派遣はけんする制度せいど実施じっしされた。このとき、はんことたちは東京とうきょうへの居住きょじゅう義務付ぎむづけられた。なお、れいせいこく地名ちめいもちいなかったために、都市としめい府県ふけんめいとなったところすくなくない。

薩摩さつまはん島津しまつ久光ひさみつ不満ふまんべた以外いがい目立めだった反撥はんぱつはなく(すでに中央ちゅうおう軍制ぐんせいととのい、個別こべつはん対抗たいこうしにくくなっていたこと、はん財政ざいせい危機ききてき状況じょうきょうおちいり、はんごとえなくなったこと、きゅう藩主はんしゅ華族かぞくとして身分みぶん財産ざいさん保証ほしょうされること、などが理由りゆうとされる)、国家こっか支配しはい体制たいせいがこのように電撃でんげきてき、かつ画期的かっきてき改変かいへんされたのは明治維新めいじいしんにおける奇蹟きせきともいえる。

なお、きゅう幕府ばくふ時代じだい名目めいもくじょう独立どくりつこくでありながら実質じっしつじょう薩摩さつまはん支配しはいにあった琉球りゅうきゅう王国おうこくかんしては、廃藩置県はいはんちけんさいに「琉球りゅうきゅうはん」が設置せっちされて日本にっぽん国家こっかないまれることとなり、明治めいじ12ねん1879ねん)に沖縄おきなわけんとして正式せいしきけん編入へんにゅうされた(このあいだ経緯けいい一般いっぱん琉球りゅうきゅう処分しょぶんしょうされる。きゅう琉球りゅうきゅう国王こくおうなおきゅう藩主はんしゅ同様どうよう華族かぞくとなった)。(→ 沖縄おきなわけん歴史れきし

しん国家こっか建設けんせつ

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岩倉いわくら使節しせつだん影響えいきょう

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ひだりから木戸きど孝允たかよし山口やまぐちしょうかおる岩倉いわくら具視ともみ伊藤いとう博文ひろぶみ大久保おおくぼ利通としみち

1871ねん12月23にちから1873ねん9月13にちにかけて[51]維新いしん政府せいふ不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせいならびに西洋せいようしょ制度せいど研究けんきゅうをするため岩倉いわくら具視ともみ正使せいし大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよし伊藤いとう博文ひろぶみらを副使ふくしとする岩倉いわくら使節しせつだん欧米おうべい派遣はけんした。使節しせつだん条約じょうやく改正かいせいには失敗しっぱいするものの、西洋せいようしょ制度せいど研究けんきゅう吸収きゅうしゅうには成功せいこうし、こののち維新いしんうごきにおおきな影響えいきょうあたえた。

一方いっぽう日本にっぽん国内こくないにおいては「留守るす政府せいふ」とばれた日本にっぽん残留ざんりゅうぐみ西郷さいごう隆盛たかもり井上いのうえかおる大隈おおくま重信しげのぶ板垣いたがき退助たいすけ江藤えとう新平しんぺい大木おおき喬任たかとうらのによって、次々つぎつぎ改革かいかくすすんでいった。このような改革かいかくには積極せっきょくてき西洋せいよう文明ぶんめい先進せんしん制度せいどれられ、その過程かていで、「やと外国がいこくじん」とばれる外国がいこくじんが、技術ぎじゅつ指導しどう教育きょういく分野ぶんや官制かんせい軍制ぐんせい整備せいびなど様々さまざま分野ぶんや雇用こようされ、近代きんだい国家こっか建設けんせつたすけた。

改革かいかくされたしょ制度せいど

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留守るす政府せいふおこなったおも改革かいかくとしては、学制がくせい改革かいかく地租ちそ改正かいせい徴兵ちょうへいれい太陽暦たいようれき採用さいよう司法しほう制度せいど整備せいび断髪だんぱつれいなどがある。ただし、これらの改革かいかく急激きゅうげきおこなわれたため矛盾むじゅんすくなくなく、士族しぞく農民のうみん不満ふまんまねいたため、せいかんろんにつながったともいわれる。欧米おうべい使節しせつから帰国きこくした岩倉いわくら大久保おおくぼ明治めいじろくねん政変せいへんによってせいかんろん退しりぞけ、さらに大久保おおくぼした内務省ないむしょう設立せつりつされたことでしょ改革かいかく整理せいりおこなわれることになる。ただし留守るす政府せいふおこなった改革かいかくのほとんどは政変せいへん存続そんぞくし、明治維新めいじいしん根幹こんかん政策せいさくとなっていった。

軍隊ぐんたい

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1930年代ねんだい海軍かいぐんしょう

徴兵ちょうへいれい導入どうにゅうし、近代きんだいてき常備じょうびぐん最初さいしょつくろうとしたのは大村おおむら益次郎えきじろうであったが、かれ暗殺あんさつされてしまったため、山縣やまがた有朋ありともがれた。明治めいじ3ねん徴兵ちょうへい規則きそくつくられ、翌年よくねん明治めいじ4ねんはいはんにより兵部ひょうぶしょう全国ぜんこく軍事ぐんじりょくにぎることとなり、明治めいじ5ねんには徴兵ちょうへいれい施行しこうされ、陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう設置せっちされる。こうして近代きんだいてき常備じょうびぐん創設そうせつされた。

身分みぶん制度せいど

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最大さいだい士族しぞく反乱はんらん西南せいなん戦争せんそうえがいた『鹿児島かごしま暴徒ぼうと出陣しゅつじん月岡つきおか芳年よしとし

江戸えど幕府ばくふ武士ぶし百姓ひゃくしょう町人ちょうにん(いわゆる士農工商しのうこうしょう)のべつ廃止はいしし、「四民しみん平等びょうどう」をうたったが形式けいしきてきなものにとどまった。しかし、明治めいじ4ねん制定せいていされた戸籍こせきほうもとづき翌年よくねん編纂へんさんされたみずのえさる戸籍こせきでは、きゅう武士ぶし階級かいきゅう士族しぞく、それ以外いがい平民へいみんとし、きゅう公家くげ大名だいみょう一部いちぶ僧侶そうりょなどをあらたに華族かぞくとして特権とっけんてき階級かいきゅうとすると同時どうじに、みや内省ないせい支配しはいしたくことになった。

華族かぞく士族しぞくには政府せいふからいえろくあたえられ、明治めいじ9ねん秩禄処分しょぶんまで支給しきゅうされた。同年どうねん廃刀はいとうれいされ、これにより士族しぞく特権とっけんはなくなり、のちの不平ふへい士族しぞく反乱はんらん佐賀さがらんはぎらん秋月しゅうげつらんかみ風連ふうれんらん)につながる。しかしこれらの反乱はんらんはいずれもほどなくして鎮圧ちんあつされ、1877ねん維新いしん元勲げんくん一人ひとりである西郷さいごう隆盛たかもりひきいた最大さいだい士族しぞく反乱はんらんであった西南せいなん戦争せんそう鎮圧ちんあつされると、士族しぞくによる反乱はんらんった。

経済けいざい産業さんぎょう

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浮世絵うきよええがかれた横浜よこはま鉄道てつどうふね

維新いしんすすめるにたり、おおきな問題もんだいとなったのが税収ぜいしゅう確保かくほであった。それまでの年貢ねんぐ収量しゅうりょう基本きほんとする物納ぶつのうであり、またかくはんりょうにおいて税率ぜいりつ均衡きんこうがあったことから、土地とち基本きほんとするあらたな税制ぜいせい構想こうそうされた。1871ねんには田畑たばた永代えいたい売買ばいばい禁止きんしれい廃止はいしされて土地とち売買ばいばい可能かのうとなり、さらに1874ねん地租ちそ改正かいせい条例じょうれい布告ふこくされることで土地とち私有しゆうとなり、土地とち所有しょゆうしゃけん発行はっこうされることとなって、所有しょゆうする土地とちたい地租ちそせられることとなった。これにより、土地とち所有しょゆうけんはじめて法的ほうてきみとめられたことによって土地とち売買ばいばい担保たんぽ容易よういになり、私有しゆう財産ざいさんけん完全かんぜん確立かくりつすることで資本しほん主義しゅぎ発展はってん基礎きそ条件じょうけん成立せいりつした。また経済けいざいささえるインフラ整備せいびおこなわれた。

貿易ぼうえき分野ぶんやでは、1859ねん安政あんせい6ねん)には横浜よこはまにすでに、イギリス帝国ていこくジャーディン・マセソン商会しょうかい支店してん通称つうしょうえいいちばんかん」(ウィリアム・ケズウィック)が設置せっちされており、1861ねん万延まんえん2ねん)には長崎ながさきに、ジャーディン・マセソン商会しょうかい代理だいりてんの「グラバー商会しょうかい」が設立せつりつされた。外国がいこくじん居留きょりゅうとしては、1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)に横浜よこはま山下やました居留きょりゅう、1868ねん明治めいじ元年がんねん)には神戸こうべ居留きょりゅう大阪おおさか川口かわぐち居留きょりゅう、1869ねん明治めいじ2ねん)には東京とうきょう築地つきじ居留きょりゅう、1870ねん明治めいじ3ねん)に長崎ながさき居留きょりゅう完成かんせいした。

富国強兵ふこくきょうへい殖産しょくさん興業こうぎょうのスローガンのしたこうしょう(のちに内務省ないむしょう)ややと外国がいこくじん中心ちゅうしんとなり、政府せいふ主導しゅどう産業さんぎょう育成いくせいはじまる。1872ねん明治めいじ5ねん)の富岡とみおか製糸せいしじょうポール・ブリューナ協力きょうりょく)をはじめとする官営かんえい模範もはん工場こうじょうつくられるなど、西洋せいようしき工業こうぎょう技術ぎじゅつ導入どうにゅうされた。しかし西南せいなん戦争せんそう財政難ざいせいなんのため、1880ねんには「官営かんえい工場こうじょうはらいがいそく」が制定せいていされ、造幣局ぞうへいきょく通信つうしん軍事ぐんじ関係かんけいのぞ官営かんえい工場こうじょう鉱山こうざん民間みんかんはらげられていった。これによって民間みんかん工業こうぎょうおおきく発展はってんすることとなり、1890ねんごろから産業さんぎょう革命かくめい進行しんこうし、工業こうぎょう進展しんてんしていくこととなった。

金融きんゆう分野ぶんやでは、きゅう幕府ばくふ時代じだい貨幣かへい制度せいどあらためて、通貨つうか単位たんいとして「えん導入どうにゅう決定けっていした。戊辰戦争ぼしんせんそうわった1869ねん明治めいじ2ねん)にオリエンタル・バンク貨幣かへい鋳造ちゅうぞう条約じょうやく締結ていけつしたが、ほどなくプロイセン帝国ていこく連合れんごうしたきたドイツ連邦れんぽうドンドルフ・ナウマンしゃえた[* 6]。1871ねん明治めいじ4ねん)のしん貨条れいもとづき、 1872ねん明治めいじ5ねん)にはドイツで印刷いんさつされた明治めいじ通宝つうほう流通りゅうつう開始かいし。また1874ねん明治めいじ7ねん)の国立こくりつ銀行ぎんこう条例じょうれいにより、国立こくりつ銀行ぎんこう(ナショナルバンク)が設立せつりつ。1874ねん明治めいじ7ねん)にはドンドルフ・ナウマンしゃから紙幣しへい原版げんばんり、紙幣しへい国産こくさん。1878ねん明治めいじ11ねん)5がつには東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ前身ぜんしんである東京とうきょう株式かぶしき取引とりひきしょが、6がつ大阪おおさか取引とりひきしょ前身ぜんしんである大阪おおさか株式かぶしき取引とりひきしょ設立せつりつされ、1880ねん明治めいじ13ねん)には海外かいがい送金そうきん横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう設立せつりつ。その通貨つうか発行はっこうけん独占どくせんする中央ちゅうおう銀行ぎんこうとしての日本銀行にっぽんぎんこう設立せつりつ明治めいじ15ねん1882ねん)など、資本しほん主義しゅぎてき金融きんゆう制度せいど整備せいびおこなわれた。

国土こくど分野ぶんやでは、きゅう幕府ばくふ時代じだいにすでに横浜よこはま製鉄せいてつしょ横須賀よこすか製鉄せいてつしょ長崎ながさき鎔鉄しょ造営ぞうえいされており[52][53]、これをいだしん政府せいふこうしょう1871ねん明治めいじ4ねん)、これらを横浜よこはま造船ぞうせんしょ横須賀造船所よこすかぞうせんじょ長崎ながさき造船ぞうせんきょく改称かいしょうして造船ぞうせん開始かいしし、また、前島まえじまひそかにより郵便ゆうびん制度せいど創設そうせつされた。1872ねん明治めいじ5ねん)には新橋しんばしえきから横浜よこはまえきあいだにおいて蒸気じょうき機関きかんしゃによる日本にっぽんはつ鉄道てつどう開通かいつうし、また、皇居こうきょまえには東京とうきょうはじめての西洋せいよう料理りょうりてんでありホテルの築地つきじ精養軒せいようけん開業かいぎょうした。電信でんしんもう整備せいび船舶せんぱく運輸うんゆ民間みんかん郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ国策こくさく会社かいしゃ共同きょうどう運輸うんゆ会社かいしゃ競合きょうごう日本郵船にっぽんゆうせん会社かいしゃ)などの整備せいびおこなわれた。これらの資本しほん活動かつどうには、しょくうしなったわりに秩禄を華族かぞく資産しさんによる投資とうし活動かつどう背景はいけいにあった。1886ねん明治めいじ19ねん)にははらげの官営かんえい製鉄せいてつしょ経営けいえいしていた岩手いわてけん釜石かまいし鉱山こうざん田中たなか製鉄せいてつしょが、日本にっぽん最初さいしょ高炉こうろによる製鉄せいてつ軌道きどうせた。水道すいどう依然いぜんとして上水じょうすい井戸いどみず飲料いんりょうすい生活せいかつ用水ようすいとして使用しようされていたが、明治めいじ21(1888)ねん政府せいふ水道局すいどうきょく創設そうせつ具体ぐたいてき調査ちょうさ設計せっけい開始かいしし、東京とうきょうは1898(明治めいじ31ねんねん神田かんだ日本橋にほんばし方面ほうめんつうすい開始かいしし、1911ねん明治めいじ44ねん)には全面ぜんめんてき完成かんせい[54]

エネルギー分野ぶんやでは、ガス事業じぎょうはじめとしては1869ねん明治めいじ2ねん)に、やと外国がいこくじん技術ぎじゅつしゃであるアンリ・プレグラン横浜よこはま瓦斯がす構想こうそうつくった。横浜よこはまガス灯がすとうについてはドイツやイギリスの事業じぎょうしゃからも出願しゅつがんがあったが、高島たかしま嘉右衛門かえもん建設けんせつ許可きょかされた[55]。また1871ねん明治めいじ4ねん)には大阪おおさか大阪おおさか機械きかい燃料ねんりょうのガスを使用しようして工場こうじょう街路がいろガス灯がすとう点灯てんとうされた。1872ねん明治めいじ5ねん横浜よこはま横浜よこはま瓦斯がす(プレグラン協力きょうりょく)が設立せつりつされ[56]東京とうきょう電燈でんとう前身ぜんしん会社かいしゃが、馬車ばしゃどうガス灯がすとうじゅうすう点灯てんとうさせるデモンストレーションをおこなった。横浜よこはまには1884ねん明治めいじ17ねん)、米国べいこくスタンダード・オイル支社ししゃ設立せつりつ。1885ねん明治めいじ18ねん)は東京瓦斯とうきょうがす設立せつりつ。1887ねん明治めいじ20ねん)、東京とうきょう電燈でんとうだい電灯でんとうきょく完成かんせいし、日本にっぽんはつ商用しょうよう火力かりょく発電はつでんしょ出力しゅつりょく25kW)となり、家庭かてい配電はいでん(210V直流ちょくりゅう)が開始かいし同年どうねん日本にっぽんはつ石炭せきたん火力かりょく発電はつでんしょも、東京とうきょう茅場かやばまち建設けんせつ。1888ねん明治めいじ21ねん)には宮城みやぎけん水力すいりょく発電はつでんしょとしてはじめてさんきょさわ発電はつでんしょ設立せつりつ

年金ねんきん制度せいど

編集へんしゅう

木戸きど孝允たかよしとアメリカじん金融きんゆう顧問こもんパウル・マイエットは、年間ねんかん400まんせきやく720まんヘクタールぶん)のべいにあたる資金しきんを40まんにん官吏かんり華族かぞく恩給おんきゅうとする計画けいかく推進すいしんし、最終さいしゅうてきに7500まんえんぶんげん1.5ちょうえんぶん)の償還しょうかん可能かのう国債こくさい発行はっこうされ分配ぶんぱいされた[57][58][注釈ちゅうしゃく 1]

1875ねん海軍かいぐん退すさかくれれい、1876ねん陸軍りくぐん恩給おんきゅうれい発布はっぷされ、その官吏かんり種別しゅべつごとに恩給おんきゅう規定きてい出来できたが、官吏かんり処遇しょぐうめぐっては暴動ぼうどう発生はっせいしたこともあった。

幕末ばくまつから活発かっぱつになっていた佐久間さくま象山ぞうさんなどの「倫理りんり中核ちゅうかくとする実学じつがく」から「物理ぶつり中核ちゅうかくとする実学じつがく」への転回てんかいおこなわれ[59]横井よこい小楠しょうなん実学じつがくから物理ぶつり中核ちゅうかくとする福澤ふくさわ諭吉ゆきち文明ぶんめいろんへの転回てんかいといった思想しそう転換てんかんおこなわれた。これに民間みんかん知識ちしきじんやジャーナリズムが連動れんどうし、文明開化ぶんめいかいかうごきが加速かそくする。

明治めいじしん政府せいふ国民こくみん生活せいかつ思想しそう近代きんだいすすめ、具体ぐたいてきには、福澤ふくさわ諭吉ゆきちもり有礼ありのり西にしあまね西村にしむら茂樹しげき加藤かとう弘之ひろゆきらによるあかりろくしゃ結成けっせいと『あかりろく雑誌ざっし』、福沢ふくさわ諭吉ゆきちの『学問がくもんのすゝめ』や中村なかむら正直まさなおの『西国さいごく立志りっしへん』『自由じゆう』が刊行かんこうされ、啓蒙けいもう活動かつどう活発かっぱつになった。また土佐とさはん自由じゆう民権みんけん運動うんどううごきと連動れんどうして中江なかえ兆民ちょうみん植木うえき枝盛えもり馬場ばば辰猪たついといった革新かくしんてき勢力せいりょくと、佐々木ささき高行たかゆき元田もとだえいまこと井上いのうえあつし品川しながわ弥二郎やじろうといった官吏かんり保守ほしゅてき勢力せいりょくとの対立たいりつ鮮明せんめいになってきた。

教育きょういく機関きかん整備せいびでは、はじめはだい学寮がくりょうをモデルにした「学舎がくしゃせいあんたままつみさお平田ひらたてつたね矢野やの玄道げんどう渡辺わたなべしげる石丸いしまるらの神道しんとう学者がくしゃめいじて起草きそうさせたが、大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよし意向いこうした明治めいじ中期ちゅうきからは方針ほうしんえて近代きんだいてき教育きょういく機関きかん整備せいびおこなわれるようになり、幕末ばくまつ以来いらい蘭学らんがくじゅく漢学かんがくじゅく、それに幕府ばくふ自身じしんつくった洋学ようがく教育きょういく機関きかんである開成かいせいしょしげるしょ調ちょうしょ直接ちょくせつ誘因ゆういんとなって、明治めいじ高等こうとう教育きょういく出発しゅっぱつした。

維新いしんまで松前まさきはんによる支配しはいにあり開発かいはつすすんでいなかった北海道ほっかいどう開発かいはつにも明治めいじ政府せいふ着手ちゃくしゅし、1869ねんにはそれまでの蝦夷えぞから北海道ほっかいどう改名かいめいし、同年どうねん開拓かいたく使かれて、積極せっきょくてき開発かいはつすすめられた。札幌さっぽろのう学校がっこうげん北海道大学ほっかいどうだいがく)などの教育きょういく機関きかん相次あいついで設置せっちされた。

それまで江戸えど幕府ばくふ寺社じしゃ徹底てっていしていた女人にょにん禁制きんせいを、「近代きんだい国家こっかにとって論外ろんがい差別さべつ(陋習)のひとつである」として太政官だじょうかん布告ふこくだい98ごう神社じんじゃ仏閣ぶっかく女人にょにん結界けっかい場所ばしょはい登山とざん参詣さんけい随意ずいいトス」によりで禁止きんしした。関所せきしょ廃止はいしわせ、外国がいこくじん女性じょせいでも自由じゆう旅行りょこうできるようになったことから、各地かくちつたわる日本にっぽん古来こらい神事しんじ多数たすう記録きろくされることとなった。

宗教しゅうきょう

編集へんしゅう
 
廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより破壊はかいされた石仏いしぼとけ川崎かわさき麻生あそう黒川くろかわ

宗教しゅうきょうてきには祭政さいせい一致いっち古代こだいふく改革かいかくであったが、宗教しゅうきょうかい思惑おもわく民衆みんしゅう反発はんぱつ、キリストきょうけんである欧米おうべいからの外圧がいあつしん政府せいふ内部ないぶでの保守ほしゅ改革かいかく対立たいりつにより、紆余曲折うよきょくせつがあった。

慶応けいおう3ねん1867ねん旧暦きゅうれき正月しょうがつ17にち制定せいていされた職制しょくせいには神祇じんぎなな筆頭ひっとうき、3月(旧暦きゅうれきには神仏しんぶつ習合しゅうごうはいする神仏しんぶつ分離ぶんりれいかれた。そして当時とうじ復古ふっこてき機運きうん特権とっけんてき階級かいきゅうであった寺院じいんから搾取さくしゅけているとかんじていた民衆みんしゅうによって、仏教ぶっきょう外来がいらい宗教しゅうきょうとしてはげしく排斥はいせきする廃仏毀釈はいぶつきしゃくへとかった。かずひゃく年間ねんかんつづいていた永平寺えいへいじ總持寺そうじじ曹洞宗そうとうしゅう内紛ないふんかんしては明治めいじ元年がんねん1868ねん)6がつしん政府せいふ沙汰さたしょ発給はっきゅうして調停ちょうてい成立せいりつさせるなど、仏教ぶっきょうかい問題もんだいについても干渉かんしょうおこなった。

慶応けいおう4ねん4がつ21にち勅命ちょくめいにより湊川みなとがわ神社じんじゃ楠木くすのき正成まさしげまつったのをはじめとして、それまでは賊軍ぞくぐんとされ、かえりみられることがすくなかった新田にった義貞よしさだ菊池きくちたけしとき名和なわ長年ながとし北畠きたばたけ親房ちかふさ北畠きたばたけ顕家あきいえ南朝なんちょう忠臣ちゅうしん次々つぎつぎまつっていった。また、明治めいじ元年がんねんうるう4がつには 明治天皇めいじてんのうにより、大阪おおさか裁判所さいばんしょ大阪おおさか前身ぜんしん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしまつる「豊國とよくに神社じんじゃ建立こんりゅう御沙汰ごさたがあり、1880ねん明治めいじ13ねん)11月 には再建さいけんされた京都きょうと豊国とよくに神社じんじゃ大阪おおさかべつしゃ創建そうけんされるなど、江戸えど時代じだいちゅう徳川とくがわ政権せいけんによっておおやけには逆賊ぎゃくぞくとされていた豊臣とよとみさい評価ひょうかもなされるようになった。

陰陽いんようどう迷信めいしんとみなされ、てんしゃ禁止きんしれいにより陰陽いんよう免許めんきょ禁止きんしされた。また陰陽いんよう統制とうせいするために存在そんざいした陰陽いんようりょう廃止はいしされ、天体てんたい観測かんそくこよみ編纂へんさんなど一部いちぶ業務ぎょうむ新設しんせつされた省庁しょうちょう移管いかんされた。

キリスト教きりすときょうは、しん政府せいふによってつづ厳禁げんきんされた。キリストきょう指導しどうしゃ総数そうすう140にんは、はぎ(66にん)、津和野つわの(28にん)、福山ふくやま(20にん)にけて強制きょうせいてき移住いじゅうさせた。明治めいじ2ねん1869ねん12月7にちには、キリストきょう信者しんじゃやく3,000にんを、金沢かなざわ以下いか10はん分散ぶんさん移住いじゅうさせたが、明治めいじ4ねん1871ねんきゅう11がつ岩倉いわくら具視ともみ特命とくめい全権ぜんけん大使たいしいちぎょう欧米おうべい各国かっこく歴訪れきほうしたおり耶蘇教やそきょう禁止きんしれいこと浦上うらかみよんばんくずをはじめとする弾圧だんあつが、当時とうじアメリカ大統領だいとうりょうユリシーズ・S・グラントイギリス女王じょおうヴィクトリアデンマークおうクリスチャン9せい欧州おうしゅう各国かっこくからはげしい非難ひなんび、条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょうじょう障碍しょうがいになるとの報告ほうこくにより、明治めいじ5ねん1872ねん)に大蔵おおくら大輔だいすけしょくにあった井上いのうえかおるは、長崎ながさき府庁ふちょう在任ざいにんかかわったことから、明治めいじ5ねん正月しょうがつ教徒きょうと赦免しゃめん建議けんぎをした。神道しんとう国教こっきょう政策せいさくとのがらみや、キリストきょう解禁かいきんしてもただちに欧米おうべい条約じょうやく改正かいせいにはおうじないとする懐疑かいぎてき姿勢しせいからる、政府せいふない保守ほしゅ反対はんたいのみばかりでなく、おもにキリシタン弾圧だんあつ利用りようして、神道しんとうとの関係かんけい改善かいぜんさせる思惑おもわくがあった仏教ぶっきょうをはじめとした宗教しゅうきょうかい一般いっぱん民衆みんしゅうからも「邪宗門じゃしゅうもん解禁かいきん反対はんたいするこえつよ紛糾ふんきゅうしたものの、明治めいじ6ねん1873ねん2がつ24にち禁制きんせい高札こうさつ除去じょきょし、そのむね各国かっこく通告つうこくした。かくはん移住いじゅうさせられた教徒きょうとむらさせ、ようやく終結しゅうけつした。

法律ほうりつ

編集へんしゅう

ほう支配しはい実現じつげんのため、初代しょだい司法しほうきょう江藤えとう新平しんぺい推進すいしんした司法しほう制度せいど整備せいびにより、いちはやく、1872ねん証書しょうしょじん代書だいしょじん代言だいげんじん創設そうせつされた。明治めいじ初期しょき日本にっぽんは、不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱいという外交がいこうじょう目的もくてきもあり、民法みんぽう刑法けいほう商法しょうほうなどの基本きほん法典ほうてん整備せいびし、近代きんだい国家こっかとしての体裁ていさいととのえることが急務きゅうむであったことから、法学ほうがく研究けんきゅう目的もくてきでの海外かいがい留学りゅうがく積極せっきょくてきすすめたほか、いわゆるやと外国がいこくじんとしてフランス法学ほうがくしゃギュスターヴ・エミール・ボアソナード起用きようするなどし、フランスほうおよびドイツほう基礎きそに、日本にっぽん特有とくゆう慣習かんしゅう国情こくじょうにも配慮はいりょしつつ、法典ほうてん整備せいびすすめた。刑法けいほうは1880ねん明治めいじ13ねん)に制定せいてい、2ねん施行しこうされ、民法みんぽうは1896ねん明治めいじ29ねん)に制定せいてい、1898ねん明治めいじ31ねん)に施行しこうされた。日本にっぽんは、アジアはじめて近代きんだいほう整備せいび成功せいこうしたくにとなり、不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱい実現じつげんしたが、近年きんねんグローバル進展しんてんなかで、アジア各国かっこく日本にっぽんほう整備せいび支援しえんもとめていることには、このような歴史れきしてき背景はいけいがあるともいわれている[60]

 
1879ねん6月7にち紙面しめん朝野あさの新聞しんぶん

しん時代じだい明治めいじ」の雰囲気ふんいき醸成じょうせいされたことで、人力車じんりきしゃ馬車ばしゃ鉄道てつどう開通かいつうシルクハット燕尾服えんびふく革靴かわぐつこうもりがさなどの洋装ようそうザンギリあたまパン牛乳ぎゅうにゅう牛鍋ぎゅうなべビールなど洋食ようしょく流行りゅうこうガス灯がすとう設置せっち煉瓦れんがづくりの西洋せいよう建築けんちくなどが普及ふきゅうしていった。

開国かいこく大量たいりょうはいってきた舶来はくらいひん概念がいねんれるため、おおくの和製わせい漢語かんごつくられた。

自由じゆう民権みんけん運動うんどう次第しだい活発かっぱつとなり、徳富とくとみ蘇峰そほう平民へいみん主義しゅぎ欧化おうか主義しゅぎとなえ、みんともしゃ設立せつりつし、『国民こくみんとも』を創刊そうかんし、それにたいして三宅みやけ雪嶺せつれい国粋こくすい保存ほぞん主義しゅぎとなえて政教せいきょうしゃ設立せつりつし『日本人にっぽんじん』を発刊はっかん志賀しが重昂しげたからが参加さんかした。りく羯南かつなん日刊にっかん新聞しんぶん日本にっぽん』で国民こくみん主義しゅぎとなえ、近代きんだい俳句はいくである正岡子規まさおかしきらが記者きしゃつとめた。

この『日本にっぽん』のような新聞しんぶんが、徐々じょじょ様々さまざま人々ひとびとによって発刊はっかんされていくことになる。民間みんかん新聞しんぶんはじめは幕末ばくまつ創刊そうかんされた浜田はまだ彦蔵の『海外かいがい新聞しんぶん』であり、沼間ぬまま守一しゅいちの『横浜よこはま毎日新聞まいにちしんぶん』、福地ふくち源一郎げんいちろうの『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』、栗本くりもと鋤雲じょううんの『郵便ゆうびん報知ほうち新聞しんぶん』、末広すえひろ重恭しげやすの『朝野あさの新聞しんぶん』などがつづく。

教育きょういく

編集へんしゅう
 
岩倉いわくら使節しせつだん米国べいこく留学りゅうがく女学生じょがくせいひだりから、永井ながいしげ (10)、上田うえだてい (16)、吉益よしますりょう (16)、津田つだ梅子うめこ (9)、山川やまかわ捨松すてまつ (12)。明治めいじ4ねん姓名せいめいはいずれも当時とうじのもの、数字すうじはかぞえとし

江戸えど時代じだい後期こうき日本にっぽん識字しきじりつ西欧せいおうよりたかかったが、明治めいじ政府せいふはさらに教育きょういく政策せいさく充実じゅうじつはかった[61]。それまではかくはんごとに独自どくじ教育きょういく制度せいど藩校はんこうなど)があったが地域ちいきおおきかった。また寺子屋てらこやかず不十分ふじゅうぶんであり、庶民しょみんそうけられる教育きょういくことなっていたなど身分みぶんでも教育きょういくかたよりが一部いちぶ存在そんざいしていた。

明治めいじ政府せいふでは欧米おうべい諸国しょこくにならい印章いんしょうはいして署名しょめい制度せいど導入どうにゅうしようとこころみたが[62][63]事務じむ繁雑はんざつさのほかにも当時とうじ識字しきじりつひくさを理由りゆう反対はんたい意見いけん相次あいつ断念だんねんしている。なお1899ねん時点じてんでも20さい男子だんし識字しきじりつは76.6%という調査ちょうさ結果けっかであった。

明治めいじ政府せいふ日本にっぽん強国きょうこくにするためには、西洋せいようおなじく一般いっぱん国民こくみんたい全国ぜんこくいちりつ基礎きそ教育きょういくほどこ制度せいど必要ひつようとの認識にんしきち、義務ぎむ教育きょういく開始かいしされた。また欧米おうべい列強れっきょう比類ひるいする産業さんぎょう育成いくせいのためには高等こうとう教育きょういく研究けんきゅう開発かいはつ必要ひつようとなるため、帝国ていこく大学だいがく試験しけん施設しせつ三田みた育種いくしゅじょうなど)が整備せいびされた。

1872ねん明治めいじ5ねん)に学制がくせい公布こうふされ、1886ねん明治めいじ19ねん)には小学校しょうがっこうれい帝国ていこく大学だいがくれい発布はっぷされた結果けっか全国ぜんこく尋常じんじょう小学校しょうがっこう高等こうとう小学校しょうがっこう大学だいがく設立せつりつされ、徐々じょじょ一般いっぱん民衆みんしゅう高度こうど教育きょういくけられる環境かんきょうととのった。

明治めいじになると女子じょし教育きょういく必要ひつようせいさけばれるようになった。とく海外かいがい渡航とこう経験けいけんがあって、欧米おうべい女子じょし教育きょういくたりにした渋沢しぶさわ栄一えいいち伊藤いとう博文ひろぶみたちは、その必要ひつようせい痛感つうかんしており、かれらによって女子じょし教育きょういく奨励しょうれいかい設立せつりつされた。おなじく女子じょし教育きょういく理解りかいのあった黒田くろだ清隆きよたかは、欧米おうべいに10ねん単位たんい長期間ちょうきかん留学生りゅうがくせい海外かいがい派遣はけんする岩倉いわくら使節しせつだんに、女子じょし留学生りゅうがくせいくわえさせた。このとき留学生りゅうがくせい永井ながいしげ津田つだうめのち津田塾大学つだじゅくだいがく関係かんけいしゃとなる)、大山おおやま捨松すてまつは、日本にっぽん女子じょし教育きょういくおおきな功績こうせきのこすこととなる。

1874ねん明治めいじ7ねん)に女子じょし師範しはん学校がっこう設立せつりつされた。女子じょしへの教育きょういくは、老若男女ろうにゃくなんにょわず、学問がくもんたいする批評ひひょう根強ねづよかったため、男子だんしへの教育きょういくくらべるとそのあゆみは遅々ちちとしていた。しかし、徐々じょじょ女性じょせいへの教育きょういく必要ひつようせいひろ浸透しんとうしていき、女子じょし義務ぎむ教育きょういく高等こうとう教育きょういくけられるようになっていった。

1906ねんから1911ねんまでに市町村しちょうそん予算よさんの43パーセントが教育きょういくついやされた[61]。このような教育きょういく行政ぎょうせい強化きょうかにより、1925ねんには20さい識字しきじりつは0.9%まで減少げんしょうし、帝国ていこく大学だいがくからは一般いっぱん庶民しょみん出身しゅっしん官僚かんりょう学者がくしゃ輩出はいしゅつされた。

外交がいこう政策せいさく

編集へんしゅう
 
だい 8だい外務がいむ大臣だいじん陸奥むつ宗光むねみつ
 
にちちょう修好しゅうこう条規じょうき締結ていけつ情景じょうけい写真しゃしん

しん政府せいふにとっての最大さいだい目標もくひょう欧米おうべい列強れっきょういつくことであり、そのためにもきゅう幕府ばくふ時代じだい締結ていけつされた不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせい急務きゅうむとされた。上記じょうき岩倉いわくら使節しせつだん西欧せいおうしょ制度せいど調査ちょうさ目的もくてきであったが、条約じょうやく改正かいせいのためのしも準備じゅんびというめんもあり、実際じっさい交渉こうしょう準備じゅんびされたが、日本にっぽん近代きんだい国家こっかなしていない欧米おうべい諸国しょこくからは相手あいてにされず、時期じき尚早しょうそうであった。そのため、欧化おうか政策せいさくなど日本にっぽん西洋せいよう対等たいとうたらんとする様々さまざま政策せいさくおこなわれたが、条約じょうやく改正かいせい自体じたいはん世紀せいきおよ不断ふだん努力どりょく必要ひつようとした(→条約じょうやく改正かいせい)。

一方いっぽう不平等ふびょうどう条約じょうやく失敗しっぱいかんとした政府せいふは、アジア諸国しょこくたいしては、平等びょうどう以上いじょう立場たちば確保かくほすることをむねとした。きよしとのあいだには明治めいじ4ねん(1871ねん対等たいとう条約じょうやくであるにちしん修好しゅうこう条規じょうき締結ていけつされる。明治めいじ7ねん1874ねん)には台湾たいわんにおける宮古みやこ島民とうみん殺害さつがい事件じけんをきっかけに台湾たいわん出兵しゅっぺいおこなわれ、両国りょうこくあいだ台湾たいわん沖縄おきなわ帰属きぞく決定けっていされることになった。

朝鮮ちょうせんとのあいだでは国書こくしょれをめぐって紛争ふんそうこり、明治めいじ6ねん1873ねん)には政府せいふ二分にぶんする論争ろんそう(いわゆるせいかんろん)となったが、明治めいじ8ねん1875ねん)にきた江華島こうかとう事件じけん契機けいきとしてにちちょう修好しゅうこう条規じょうき江華島こうかとう条約じょうやく)を締結ていけつし、朝鮮ちょうせん自主じしゅこくとしてみとめ、開国かいこくさせるにいたる。

琉球りゅうきゅうたいしては、明治めいじ5ねん1872ねん)に琉球りゅうきゅうはん設置せっちし、明治めいじ12ねん1879ねん)には琉球りゅうきゅう処分しょぶんおこなわれる。

また、ロシア帝国ていこくとのあいだでは明治めいじ8ねん1875ねん)に、千島ちしま樺太からふと交換こうかん条約じょうやく締結ていけつされ、それまでにち雑居ざっきょとされた樺太からふとおよび千島ちしま列島れっとうにおけるにち国境こっきょう確定かくていした。

維新いしん修史しゅうし事業じぎょう

編集へんしゅう

維新いしん最初さいしょのものは、越前えちぜん松平まつへいによるものとされる[64]福井ふくいはん中根なかね雪江ゆきえは、1859ねん幕府ばくふによって処罰しょばつされた主君しゅくんの冤をそそぐため、黒船くろふね以降いこう越前えちぜん幕末ばくまつはじめ、さらに越前えちぜんは1890-1892ねん続編ぞくへん編集へんしゅうした(『さくゆめごと』『さいゆめごと ちょうしげる日記にっき』)。越前えちぜん松平まつへいおおやけであり、明治めいじ政府せいふ正統せいとうした王政おうせい復古ふっこ史観しかんとはことなる史料しりょうとして重視じゅうしされる[64]

徳川とくがわ幕府ばくふ外国がいこくかたも1859ねん安政あんせい6ねん)と1860ねん万延まんえん元年がんねん)の外交がいこう記録きろく通信つうしんぜんらん』(320かん)があり、明治めいじ政府せいふ外務省がいむしょうぎ『ぞく通信つうしんぜんらん』(1784かん)を編纂へんさんした[64]

明治めいじ政府せいふ戊辰戦争ぼしんせんそう復古ふっこ』(1872-1889ねん)を編纂へんさんしたが、功名こうみょうあらそいをけたためか、つよ積極せっきょくてき解釈かいしゃくまれなかった[64]

1888ねん薩摩さつま長州ちょうしゅう土佐とさ[よう曖昧あいまい回避かいひ]水戸みとの4大名だいみょうが「国事こくじ詇掌ろく編纂へんさん開始かいし翌年よくねん公家くげ三条さんじょう岩倉いわくら中山なかやま3いえと「史談しだんかい」が結成けっせいされ、きゅう将軍家しょうぐんけ会津あいづ桑名くわな尾張おわり徳川とくがわ浅野あさの琉球りゅうきゅうなおいえふくむ255いえ史料しりょう提出ていしゅつめいじた[64]近世きんせい政体せいたいひゃくすうじゅう大名だいみょう連合体れんごうたいであり、明治めいじ改革かいかく大名だいみょう協力きょうりょくなしには不可能ふかのうであったことなどから、大名だいみょう公家くげによる維新いしん薩長さっちょう中心ちゅうしんでなく、史料しりょう収集しゅうしゅう羅列られついた[64]史談しだんかい事業じぎょう文部省もんぶしょうがれ、1911ねん維新いしん史料しりょう編纂へんさんかい設置せっちされ、1931ねんに『だい日本にっぽん維新いしん史料しりょう稿本こうほん』が一応いちおう完成かんせいし、維新いしん政治せいじ到達とうたつてんとして維新いしん史料しりょう編纂へんさん事務じむきょく維新いしんぜん6かん(本編ほんぺん5、付録ふろく1、1939―1941ねん)が編纂へんさんされた[64]

ほか、宮内庁くないちょう図書としょりょうへん三条さんじょう実美みみおおやけ年譜ねんぷ』(1901)、多田ただこうといへん岩倉いわくらこう実記じっき』(1903)、勝田かつたまご也『大久保おおくぼ利通としみちでん』(1910)、妻木つまき忠太ちゅうたまつきく木戸きどこうでん』(1922)、会津あいづ松平まつへいかかわる北原きたはらみやびちょうななねん』(1904)、山川やまかわひろし京都きょうと守護しゅごしょく始末しまつ』(1911)、中村なかむらまさる麻呂まろ井伊いい大老たいろう開港かいこう』(1909)、渋沢しぶさわ栄一えいいち徳川とくがわ慶喜よしのぶおおやけでん』(ぜん8かん大正たいしょう7ねん(1918ねん))、末松すえまつ謙澄けんちょうぼうちょう回天かいてんぜん12かん(修訂しゅうていばん、1921ねん)が編纂へんさん刊行かんこうされた[64]

明治めいじ維新いしんろん

編集へんしゅう

維新いしん政府せいふはみずからの正当せいとうせいとして「王政おうせい復古ふっころん主張しゅちょうし、『大政たいせい紀要きよう』(みや内省ないせいけい)や『復古ふっこ』(太政官だじょうかんけい)というかたち公表こうひょうした[13]

これにたいして、戊辰戦争ぼしんせんそうのさなかの1868ねん8がつされたしょうしゅう処士しょしの《復古ふっころん》は、維新いしん変革へんかく草莽そうもう(民間みんかん)からおこったとする「草莽そうもう復古ふっこ」をろんじた[65]

あかりろくしゃ明治めいじ啓蒙けいもう思想家しそうか維新いしん開明かいめいせい進歩しんぽせい強調きょうちょうした[13]

福沢ふくさわ諭吉ゆきちは『文明ぶんめいろん概略がいりゃく』(明治めいじ8ねん、1875ねん)において、幕末ばくまつから明治めいじ改革かいかくを「王政おうせい一新いっしん」とび、尊王そんのう攘夷じょういまくはん体制たいせいたおしたという俗論ぞくろん批判ひはんし、江戸えど幕府ばくふにおける「門閥もんばつ」を基盤きばんとした「専制せんせい暴政ぼうせい」にたいする人々ひとびと不満ふまん内実ないじつにあったからこそ、たん政権せいけん交替こうたいするだけではなく、武士ぶし身分みぶん解体かいたいとしての廃藩置県はいはんちけんまで到達とうたつしたとして、人々ひとびと智徳ちとく知識ちしき道徳どうとく)の進歩しんぽによって歴史れきしうごいたとひょう[66]

きゅう幕臣ばくしん出身しゅっしん在野ざいや史家しか田口たぐち卯吉うきちは22さいで『日本にっぽん開化かいか小史しょうし』(明治めいじ10-15)を自費じひ出版しゅっぱんし、勤王きんのう史観しかんからはなれて維新いしん評価ひょうかした[67]

イタリアでジュゼッペ・ガリバルディぐんのスラヴ義勇軍ぎゆうぐん副官ふっかんとして転戦てんせんしたり、バクーニン支援しえんしゃでもあったロシアじん革命かくめいレフ・メーチニコフは、パリ・コミューン敗北はいぼくのパリで日本にっぽん革命かくめいこったというほうせっし、ざいほとけしていた大山おおやまいわお紹介しょうかいで1874ねん日本にっぽん赴任ふにんしたあと1881ねん(明治めいじ14)に執筆しっぴつした著書ちょしょ明治維新めいじいしんを「歴史れきしじょう我々われわれりうるもっと完全かんぜんかつラジカルな革命かくめい」と評価ひょうかした[68][69]。しかし、列強れっきょう偽善ぎぜんてき政策せいさく国内こくない支配しはいしゃ集団しゅうだん権勢けんせいよくのためにみちけわしいと警鐘けいしょうらした[69]

藤田ふじた茂吉しげよし文明ぶんめい東漸とうぜん』(1884ねん)は、蛮社のごく詳述しょうじゅつし、1887ねんには島田しまだ三郎さぶろう井伊いい直弼なおすけでん開国かいこく始末しまつ』が刊行かんこうされた[64]

小中村こなかむら義象よしたかは『大政たいせいさん遷史明治めいじ21ねん(1888ねん)で、大化たいか改新かいしんたてたけし新政しんせい明治維新めいじいしん大政たいせいさん遷とする[70]

かつ海舟かいしゅうの『海軍かいぐん歴史れきし』『陸軍りくぐん歴史れきし』(1889)を、野口のぐち勝一かついちが『維新いしん史料しりょう』(1887―1896)を刊行かんこう明治めいじ20年代ねんだい初頭しょとう維新いしんブームがまれた[64]

徳富とくとみ蘇峰そほうみんともしゃでは、竹越たけこし与三郎よさぶろうが『しん日本にっぽん』(明治めいじ24ねん-明治めいじ25ねん[71])を刊行かんこうし、明治維新めいじいしん原因げんいん勤王きんのうろんによる政治せいじ運動うんどう歴史れきしかんや、外国がいこく圧力あつりょく維新いしん原因げんいんとみる歴史れきしかん批判ひはんし、徳川とくがわ時代じだい芽生めばえていた社会しゃかい全体ぜんたい潮流ちょうりゅう社会しゃかいてき革命かくめいがあったからこそ、「だいあさ革命かくめい」がこったとろんじた[72]竹越たけこしは、明治維新めいじいしんを、イギリスのような「復古ふっこてき革命かくめい」、フランスやアメリカのような「理想りそうてき革命かくめい」ともことなる「乱世らんせいてき革命かくめい(アナルキカル・レボリューション)」と位置いちづけながら、しん政府せいふについて「維新いしんだい目的もくてきしつぼうして、よこしまみちはしらんとす」と批判ひはんした[72][73]

徳富とくとみ蘇峰そほうみずから『吉田よしだ松陰しょういん』(1893ねん)を、さらに『近世きんせい日本にっぽん国民こくみん』で明治維新めいじいしんろんじた[64]蘇峰そほうは、旧幕きゅうばく外国がいこくかたはたらいた福地ふくち源一郎げんいちろうに『幕府ばくふ衰亡すいぼうろん』(1892) 『幕末ばくまつ政治せいじ』(1898)を依頼いらいした[64]

日本にっぽん社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎくにとすることを夢見ゆめみていたわかころきた一輝いっきは、明治めいじ39ねん(1906ねん)の『国体こくたいろんおよ純正じゅんせい社会しゃかい主義しゅぎ』で、ヨーロッパの革命かくめいしん社会しゃかい理想りそうえがいた計画けいかくてき革命かくめいであったのにたいして、「維新いしん革命かくめい民主みんしゅ主義しゅぎ」は「無計画むけいかく暴発ぼうはつ」であり、「維新いしん革命かくめいつちのえたつ戦役せんえきにおいて貴族きぞく主義しゅぎたいする破壊はかいしたるのみ」と批判ひはん[74]、つまり、自由じゆう民権みんけん運動うんどうの23年間ねんかん運動うんどう維新いしん民主みんしゅ主義しゅぎ建設けんせつおこなったのは自由じゆう民権みんけん運動うんどうであるとろんじた[6]。また、きた竹越たけこし與三郎よさぶろうから影響えいきょうけており、とく竹越たけこしの『せんひゃくねん』(1896)における大化たいか改新かいしんはんがたとした維新いしんかんふか影響えいきょうけた[75]竹越たけこしは、大化たいか改新かいしんを「空前絶後くうぜんぜつご国体こくたい変革へんかく」として、それ以前いぜん社会しゃかい天皇てんのう一族いちぞくが、ちゅうしん物部ものべ大伴おおとも蘇我そがなどのしょぞく統治とうちする族長ぞくちょうであり、直接ちょくせつみん統治とうちしていたわけではなく、「国家こっか」や「国民こくみん」はなく、「天皇てんのう国家こっか君主くんしゅにあらずして、しょぞくちょうたるにぎず」という状態じょうたいであった[76]大化たいか改新かいしんによって、貴族きぞく豪族ごうぞくわたしみんわたしりょうはいされ、奴隷どれい公民こうみん土地とちすべてが国家こっかぞくするとさだめられ、族長ぞくちょうしゅうしょ政府せいふとなり、族長ぞくちょう政体せいたい官制かんせい組織そしきとなり、天皇てんのう人民じんみん統治とうちする君主くんしゅとなったとし、「神武じんむ以来いらいいちせんさんひゃくねん日本にっぽん国民こくみんはじめてり、王制おうせいはじめてしょうじ、国家こっかはじめて現出げんしゅつしたるなり」とろんじた[75][76]きたは、「維新いしん革命かくめい大化たいか王制おうせい復古ふっこしたるものにあらず。大化たいか革命かくめいおい理想りそうたりし儒教じゅきょう公民こうみん国家こっかいちせんさんひゃくねんなが進化しんかのちおいようやくに実現じつげんせられたるものなり」とひょうした[75]。しかし、天智天皇てんぢてんのうとともに公民こうみん国家こっか理想りそうり、家長かちょうこくとなったと批判ひはんした[75]きた君主くんしゅ主権しゅけんでなく、国家こっか主権しゅけん国家こっか理想りそうとした[75]きたはその中国ちゅうごくからし革命かくめいとうじ、『日本にっぽん改造かいぞう法案ほうあん大綱たいこう』(大正たいしょう12ねん(1923))をいて昭和しょうわ維新いしんおおきな影響えいきょうあたえた。

ジャーナリスト石橋いしばし湛山たんざんは、明治めいじ時代じだい帝国ていこく主義しゅぎてき発展はってん時代じだいられがちだが、にちしんにちとう戦争せんそうはやむをったもので、明治めいじ最大さいだい事業じぎょう戦争せんそうでも植民しょくみん発展はってんでもなく、政治せいじ法律ほうりつ社会しゃかい制度せいど思想しそうにおいてデモクラチック(民主みんしゅ主義しゅぎてき改革かいかくおこなったことにあるとろんじた[67][77]

だい維新いしん

編集へんしゅう

自由じゆう民権みんけん運動うんどうは、箇条かじょう誓文せいもんいちヵ条かじょう論拠ろんきょにして国会こっかい開設かいせつ主張しゅちょうし、維新いしんは「自由じゆう」へのいちであり、その精神せいしんいだ民権みんけん陣営じんえいこそが「維新いしん革命かくめい」の正統せいとう後継こうけいしゃであり、民権みんけん運動うんどうは「だい維新いしん」だと主唱しゅしょうし、これはみんともしゃ平民へいみん主義しゅぎにもがれた[13]

みんともしゃ人見ひとみ一太郎いちたろうが『だいこれ維新いしん』(明治めいじ26ねん、1893ねん)で明治めいじ藩閥はんばつ政府せいふ批判ひはんした[78]人見ひとみは「おおやけ輿論よろん」を「維新いしんだい精神せいしん」とみなし、明治めいじ2ねん版籍はんせき奉還ほうかんころおおやけしょからしゅう議院ぎいんわるころには、「維新いしんだい精神せいしん」が尊重そんちょうされなくなり、立憲りっけん君主くんしゅせい誕生たんじょうしていったものの、維新いしん理念りねんうしなわれていったと明治めいじ政府せいふ批判ひはんした[79]

大正たいしょうデモクラシーでも護憲ごけん運動うんどう背景はいけいに、「だい維新いしん」としての「大正たいしょう維新いしん」が唱導しょうどうされた[13]医者いしゃ加治かじ時次郎ときじろうは『だい維新いしん』(大正たいしょう15ねん生活せいかつしゃ)という書籍しょせき刊行かんこうした。

軍部ぐんぶ右翼うよくらがとなえた昭和しょうわ維新いしんでは、君臣くんしん本義ほんぎ忠孝ちゅうこうみちによって、絶対ぜったいされた天皇てんのうへの回帰かいき維新いしん原理げんりはあるとする皇国こうこく史観しかんによる維新いしんろんこった[13]。やがてこれは「東亜とうあ維新いしん」でもあるとされた[13]他方たほう政治せいじ思想しそう研究けんきゅうしゃ橋川はしかわ文三ぶんぞう[80]思想しそう史家しか渡辺わたなべきょう[81]は、西郷さいごう隆盛たかもりらの反乱はんらんを「だい維新いしん革命かくめい」の遂行すいこう挫折ざせつであったと位置いちづけ、昭和しょうわ維新いしん首唱しゅしょうしゃであるきた一輝いっき挫折ざせつした維新いしん革命かくめい継承けいしょうしゃであるとみなした[75]

昭和しょうわ初期しょきには、大衆たいしゅう小説しょうせつ古老ころう体験たいけんだん回顧かいこだんなどの「明治維新めいじいしんぶつ」ブームもおこった[13]

昭和しょうわ維新いしん

編集へんしゅう

1920-30年代ねんだいには、政党せいとう財閥ざいばつ批判ひはんして天皇てんのう親政しんせい主張しゅちょうする国家こっか革新かくしん運動うんどう昭和しょうわ維新いしんすめらぎどう維新いしん)」がこった[82]昭和しょうわ維新いしん主張しゅちょうしゃは、明治維新めいじいしん継承けいしょうとなえた[82]たとえば1928ねん昭和しょうわ3)の海軍かいぐん青年せいねん将校しょうこう藤井ふじいひとしらの王師おうしかい綱領こうりょうに「明治維新めいじいしん完成かんせいシ」とみえ、いち事件じけん(1932)の檄文げきぶんにも「維新いしん日本にっぽん建設けんせつセヨ」とかれた[82]1936ねんには二・二六事件ににろくじけんこった。

評価ひょうか研究けんきゅう

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大正たいしょう昭和しょうわ

編集へんしゅう

維新いしん政治せいじは、藤井ふじい甚太郎じんたろう野辺のべ茂雄しげおらによって実証じっしょう研究けんきゅう進展しんてんし、維新いしん史料しりょう編纂へんさんかいの『維新いしん』 (5かん)などで集大成しゅうたいせいはかられたほか、維新いしん社会しゃかい経済けいざいは1920年代ねんだいより、幸田こうだ成友しげとも本庄ほんじょう栄治郎えいじろう土屋つちやたかしゆうらが実証じっしょう研究けんきゅうをなした[83]

マルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがく

編集へんしゅう
日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう
編集へんしゅう

昭和しょうわ初期しょき代表だいひょうてき維新いしんろんとして、マルクス主義まるくすしゅぎものによるものがある。野呂のろ栄太郎えいたろうは「日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ発達はったつ」(1927ねん)で明治維新めいじいしんを「ブルジョワ革命かくめいとしての明治めいじ革命かくめい」とし、「資本しほん資本しほんてき地主じぬしとを支配しはいしゃたる地位ちいそくかしむるための強力きょうりょくてき社会しゃかい変革へんかく」と規定きていしたが、コミンテルンの「日本にっぽん問題もんだいかんする決議けつぎ」により野呂のろはこのせつ放棄ほうきした[72]。しかし、その山田やまだもり太郎たろう野呂のろ栄太郎えいたろう服部はっとり之総しそう羽仁はに五郎ごろうらは『日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ発達はったつ講座こうざ』(1932-1933ねん岩波書店いわなみしょてん)をまとめた。これにたいして、労農ろうのう批判ひはんし、どう講座こうざ執筆しっぴつじん講座こうざとされて、日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう(1933ねん-1937ねん)がこった[84]

日本にっぽん共産党きょうさんとう活動かつどう方針ほうしんめぐって講座こうざ労農ろうのうはそれぞれ段階だんかい革命かくめいろんいち段階だんかい革命かくめいろんとなえた。労農ろうのう明治維新めいじいしんにより日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ段階だんかい突入とつにゅうしたとかんがえ、マルクス主義まるくすしゅぎ唯物ゆいぶつ史観しかん公式こうしきどおりただちに社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい目指めざすべきだと主張しゅちょうしたのにたいして、講座こうざ明治維新めいじいしん不完全ふかんぜん民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめいであり、日本にっぽんいまはん封建ほうけんてき段階だんかいにあるとし、まずブルジョワ民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめい目指めざし、そのさき社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいはあるという段階だんかい革命かくめいろん主張しゅちょうした。1934ねん特別とくべつ高等こうとう警察けいさつによる野呂のろ栄太郎えいたろう拷問ごうもんし、さらに1936ねんコム・アカデミー事件じけんでの講座こうざ一斉いっせい検挙けんきょにより壊滅かいめつした。1937ねん人民戦線じんみんせんせん事件じけん労農ろうのう一斉いっせい検挙けんきょされた。

終戦しゅうせん講座こうざ復活ふっかつし、羽仁はに五郎ごろうは『明治維新めいじいしん』(岩波いわなみ新書しんしょ)、『明治維新めいじいしん研究けんきゅう』(岩波書店いわなみしょてん)を刊行かんこうした。

ハーバート・ノーマン
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羽仁はにしたしくしていたカナダ外交がいこうかん日本にっぽん学者がくしゃ戦時せんじちゅう太平洋たいへいよう問題もんだい調査ちょうさかい研究けんきゅういん[85])のハーバート・ノーマンは、講座こうざ影響えいきょうけており、『日本にっぽんにおける近代きんだい国家こっか成立せいりつ』(1940、邦訳ほうやく1947ねん)で、明治維新めいじいしん主体しゅたい下級かきゅう武士ぶしとブルジョワてき豪農ごうのう同盟どうめいであったが、維新いしん武士ぶし豪農ごうのう裏切うらぎり、工業こうぎょうのために課税かぜい強化きょうかしたとした[86]。ノーマンによれば、明治維新めいじいしん農民のうみん犠牲ぎせいにして資本しほん蓄積ちくせき集中しゅうちゅう遂行すいこうされた「うえからの変革へんかく」であり、これは「絶対ぜったい主義しゅぎ国家こっかちから」によるもので、しん政府せいふの「武断ぶだん官僚かんりょう」は専制せんせい権力けんりょく手際てぎわ利用りようしたと説明せつめいした[87]。ノーマンは、徳川とくがわ幕府ばくふ封建ほうけんせい廃止はいし政治せいじ改革かいかく実現じつげんできなかったのにたいして、明治めいじ政府せいふは、工業こうぎょう法典ほうてん教育きょういくなどの分野ぶんや近代きんだいげたが、そうした近代きんだいと、その政府せいふ権威けんい主義しゅぎ体制たいせいであったことととは矛盾むじゅんするわけではないという[88]。ノーマンは1953ねん序文じょぶんで、「明治めいじ政府せいふをむきしの絶対ぜったい主義しゅぎ規定きていすることはたしかに過度かど単純たんじゅんであり、あるいは歪曲わいきょくである」が、明治めいじ政府せいふ廷臣ていしん官僚かんりょう軍人ぐんじん特権とっけんてき企業きぎょうからなる寡頭権力けんりょくしゃによる、「立憲りっけん制度せいどだい礼服れいふくかざられた絶対ぜったい主義しゅぎであった」と主張しゅちょうした[88]同書どうしょ日本にっぽんおおきな反響はんきょうんだ[89]

遠山とおやま茂樹しげき
編集へんしゅう

マルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがく立場たちばから、長州ちょうしゅうはん維新いしん主体しゅたい典型てんけいとみなしたうえ明治維新めいじいしん天皇てんのうせい絶対ぜったい主義しゅぎ成立せいりつとみなす遠山とおやま茂樹しげき明治維新めいじいしん』(1951ねん岩波書店いわなみしょてん)が主流しゅりゅう地位ちいめた[90]

遠山とおやま茂樹しげき以下いかのように明治維新めいじいしん説明せつめいする[83]

  • 江戸えどまくはん体制たいせいは、武士ぶし階級かいきゅうという「封建ほうけん権力けんりょく」が、上層じょうそうのうしょうそうきこんで、耕作こうさく農民のうみん抑圧よくあつして、天保てんぽう改革かいかく失敗しっぱいしたのにたいして、雄藩ゆうはん藩政はんせい改革かいかく成功せいこうさせた[83]
  • 外圧がいあつについては、中国ちゅうごく西欧せいおうはん植民しょくみんとなったのにたいして日本にっぽん一応いちおう政治せいじてき独立どくりつ維持いじできたのは、幕末ばくまつ民衆みんしゅう運動うんどう直接ちょくせつ排外はいがい運動うんどうおもむかず、はん封建ほうけん闘争とうそう集中しゅうちゅうするなど、日本にっぽん階級かいきゅう闘争とうそう発展はってんしており、「日本にっぽん民衆みんしゅう近代きんだいちから」が中国ちゅうごくよりっていたからであった[83]
  • 尊王そんのうろんは「はん幕府ばくふ」でも「はん封建ほうけん」でもなく、また国体こくたい強調きょうちょうするものでもなく、世界せかい普遍ふへんてきにみられる権力けんりょく正統せいとう方式ほうしき一種いっしゅとし、攘夷じょういろん近代きんだいてきナショナリズムとは無縁むえんなものとした[83]
  • 幕府ばくふ外交がいこう政策せいさく消極しょうきょくてき退嬰たいえいてきであり、混迷こんめいふかめたことから、尊王そんのう攘夷じょういは「攘夷じょういのための尊王そんのう」から「尊王そんのうはんまくのための攘夷じょうい」へと変化へんかし、合理ごうりてき判断はんだんうしない、絶対ぜったい主義しゅぎ成立せいりつへの見透みとおしをつかめなかった[83]。これにたいして長州ちょうしゅうえいべいふつらん四国しこく連合れんごう艦隊かんたいとの攘夷じょうい戦争せんそう惨敗ざんぱいしたことで、下級かきゅう武士ぶし名分めいぶんろんえる実践じっせんりょく獲得かくとくし、さらにはん権力けんりょく奪取だっしゅしたことで「開明かいめいてき軍事ぐんじ官僚かんりょう」「絶対ぜったい主義しゅぎてき官僚かんりょう」へと変貌へんぼうした[83]えいふつ攘夷じょうい運動うんどうめをし、日本にっぽんはん植民しょくみんてき市場いちばとして確定かくていさせたが、攘夷じょうい佐幕さばくえいふつ外交がいこうかん指導しどう絶対ぜったい主義しゅぎてき改革かいかく意識いしきするようになった[83]
  • 1866ねん幕府ばくふ長州ちょうしゅう征伐せいばつ失敗しっぱいしたころ全国ぜんこくちこわし一揆いっき頻発ひんぱつしたことで、おおやけ政体せいたいろん浮上ふじょうし、これにより封建ほうけん権力けんりょく崩壊ほうかいせずに権力けんりょく集中しゅうちゅう強化きょうかさせる絶対ぜったい主義しゅぎ運動うんどうしょうじた[83]民衆みんしゅう運動うんどうええじゃないかという政治せいじてきなものに逸脱いつだつし、「したからの革命かくめい」は瓦解がかいした[83]。こうして明治維新めいじいしん王政おうせい復古ふっこという矮小わいしょう政権せいけん移動いどうにとどまり、「天皇てんのううばいの宮廷きゅうてい陰謀いんぼう」となった[83]
  • しん政府せいふ誓文せいもんおおやけ世論せろん仁政じんせい宣伝せんでんしたが、版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけんという「だい王政おうせい復古ふっこクーデター」をこし、「啓蒙けいもう専制せんせい政治せいじ」を基調きちょうとした[83]地租ちそ改正かいせいではぜい負担ふたん軽減けいげんされず、租税そぜい近代きんだいでなく、封建ほうけんてきみつぎ租の継承けいしょうにとどまったが、徴兵ちょうへいれい封建ほうけん武士ぶしだん粉砕ふんさいした[83]学制がくせいは、徳川とくがわが「らしむべしらしむべからず」と愚民ぐみん政策せいさくをとっていたのにたいして、「人民じんみん」にえる開明かいめい政策せいさくであった[83]福沢ふくさわ諭吉ゆきち思想しそう本質ほんしつ近代きんだい市民しみん革命かくめいでなく、啓蒙けいもう専制せんせい主義しゅぎにあった。せいかんろん政変せいへん以後いごは、下野げやグループの民権みんけんろん国権こっけんろん従属じゅうぞくするものであったが、「したからの自主じしゅ」のうごきがられた[83]

三谷みたにひろしによれば、遠山とおやませつでは、天皇てんのう幕府ばくふ対立たいりつだい変動へんどう発端ほったんであったことが黙過もっかされ、国際こくさい環境かんきょうよりも国内こくない条件じょうけん重視じゅうしされ、また、昭和しょうわのイメージを維新いしん投影とうえいして、ファシズム維新いしん当初とうしょから存在そんざいしていたようにかたり、政治せいじ運動うんどうにおいては長州ちょうしゅう維新いしん主体しゅたいとして着目ちゃくもくする一方いっぽうで、薩摩さつま越前えちぜんはんなどのおおやけ政体せいたいろん軽視けいしまたは無視むしし、外国がいこく勢力せいりょくではイギリスを排他はいたてき重視じゅうしするなど、階級かいきゅう闘争とうそう史観しかん影響えいきょう一元論いちげんろん二元にげん対立たいりつかたむいた過度かど単純たんじゅんされた政治せいじとなった[83]遠山とおやませつは、仮説かせつべ、実証じっしょう研究けんきゅううなが宣言せんげんしょであり、以後いご継承けいしょうされた研究けんきゅう潮流ちょうりゅうでは、徳川とくがわ将軍しょうぐんきゅう幕臣ばくしん開明かいめい譜代ふだい大名だいみょう研究けんきゅう軽視けいしされたり、政治せいじ経済けいざい乖離かいりするといった研究けんきゅうかたよりをんだ[83]遠山とおやまは、体制たいせい権力けんりょく下層かそう階級かいきゅう全面ぜんめん対立たいりつこのみ、それがられないことを不満ふまんげに説明せつめいするが、明治維新めいじいしん複雑ふくざつせい説明せつめいとしては適当てきとうで、支配しはい身分みぶん武士ぶし)の消滅しょうめつ世界せかい史上しじょうでも際立きわだ特徴とくちょうであるがまだ解明かいめい十分じゅうぶんでなく、また世界せかい革命かくめいにおいて維新いしんいちじるしく犠牲ぎせいしゃすくないこと、また「復古ふっこ象徴しょうちょう利用りようはフランス革命かくめいにもみとめられることで日本にっぽん特殊とくしゅではないこと、また「復古ふっこ」の参照さんしょうさき律令りつりょう時代じだいでなく神話しんわであったことは復古ふっこ改革かいかく自由じゆうあたえたこと、などを三谷みたに指摘してきしたうえで、遠山とおやま大振おおぶりな思考しこう展開てんかいには感銘かんめいけたとひょうした[83]

遠山とおやま以降いこう田中たなかあきら明治維新めいじいしん政治せいじ研究けんきゅう』(1963ねん)も標準ひょうじゅんてき研究けんきゅうとなった[90]長州ちょうしゅうはん維新いしん主体しゅたい典型てんけいとみなす見方みかたたいして、公武こうぶ合体がったい薩摩さつまはん重視じゅうしする毛利もうり敏彦としひこ明治維新めいじいしん政治せいじ序説じょせつ』(1967ねん)も登場とうじょうしたが、この時期じきまでの研究けんきゅうは、倒幕とうばくやぶれた東北とうほくしょはん倒幕とうばくでも佐幕さばくでもないなかあいだてき立場たちばしょはん役割やくわり軽視けいししているとのち批判ひはんされた[90]

民族みんぞく革命かくめい

編集へんしゅう

吉野よしの作造さくぞう継承けいしょうしゃでもある政治せいじ学者がくしゃおか義武よしたけは、『近代きんだい日本にっぽん形成けいせい』(1947ねん)およびその改訂かいてい近代きんだい日本にっぽん政治せいじI』(1962ねん)において、明治維新めいじいしんは、西洋せいよう脅威きょうい直面ちょくめんしたくに近代きんだいしなければ独立どくりつたもてないという、マルクス主義まるくすしゅぎのカテゴリーにははいらない民族みんぞく革命かくめいであるとろんじた[67][91]おかによれば、まくはん体制たいせい内部ないぶ矛盾むじゅん不安定ふあんていになっていたところへ外圧がいあつがあり、国内こくないはげしい民族みんぞくてき反発はんぱつかん民族みんぞくてき危機ききかんまれ、さらに朝廷ちょうてい幕府ばくふ対立たいりつ国家こっか権力けんりょく二元にげんんだが、これを精算せいさんして国家こっかてき統一とういつ強固きょうこにし、民族みんぞく独立どくりつ確保かくほ目指めざされた[92]まくはん体制たいせい回帰かいきするか、朝廷ちょうてい中心ちゅうしんとしたしん体制たいせいかで紛糾ふんきゅうしたが、後者こうしゃえらばれた。岩倉いわくら具視ともみ慶応けいおう3ねん4がつに「てん二日ふつかなく、二王におうなし。政令せいれい一途いっとでずしていずれのこっさるや。」といい、徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかん上表じょうひょうに「朝權ちょうけん一途いっとさるこう而者、綱紀こうきなんたてこうあいだ從來じゅうらい舊習きゅうしゅうあらためメ、政權せいけん朝廷ちょうていたてまつこう天下でんか公儀こうぎつきシ、聖斷せいだんおおせキ、同心どうしん協力きょうりょくきょう皇國こうこく保護ほごつかまつこうとくハ、必ス海外かいがい萬國ばんこく竝立へいりつこう朝廷ちょうてい権力けんりょくひとつとしなければ統治とうちむずかしく、従来じゅうらい旧習きゅうしゅうあらため、政権せいけん朝廷ちょうていかえまつり、ひろ天下てんかおおやけくし、聖断せいだんあおぎ、しんひとつに協力きょうりょくし、とも皇国こうこく保護ほごしていけば、かなら海外かいがい万国ばんこくならちうる)」とべ、国家こっか権力けんりょく一元化いちげんかはかった[92]。こうして、幕末ばくまつ明治めいじ変革へんかくとは、「民族みんぞく独立どくりつ確保かくほあるいは民族みんぞく対外たいがいてき勢力せいりょく拡大かくだい目的もくてきとしてなされる国内こくない政治せいじ体制たいせい変革へんかく」、すなわち民族みんぞく革命かくめいであったとした[92]

比較ひかく文化ぶんか研究けんきゅう桑原くわばら武夫たけおは1956ねんの「明治めいじさい評価ひょうか[93]で、マルクス主義まるくすしゅぎしゃ明治維新めいじいしんを「天皇てんのうせい絶対ぜったい主義しゅぎ」の成立せいりつとみなすが、維新いしんによって身分みぶんせいがなくなり、国民こくみん自由じゆう大幅おおはば増大ぞうだいするなど画期的かっきてき変革へんかくであったことは否定ひていできず、欠点けってん矛盾むじゅんはあったが、「明治めいじ革命かくめい巨視的きょしてきにみて、ひとつの偉大いだい民族みんぞくてき達成たっせいであった」とろんじ、1961ねんにはマルクス主義まるくすしゅぎしゃらが、明治めいじのナショナリズムを「できそこない」とてい評価ひょうかする一方いっぽうどう時代じだいのアジア・アフリカのナショナリズムをたか評価ひょうかするのは政治せいじてき配慮はいりょないしセンチメンタリズムだと批判ひはんした[94][95]。(以降いこう桑原くわばら発言はつげんについては後述こうじゅつ

井上いのうえきよしは1966ねんに、明治維新めいじいしんながさずに成就じょうじゅしたとの評価ひょうかたいして、戊辰戦争ぼしんせんそうでの戦死せんししゃすうしん政府せいふぐんが3556にん負傷ふしょう3804にん)、きゅう幕府ばくふぐんが4707にん(負傷ふしょう1518にん)であったと反論はんろんしたうえで、こうした犠牲ぎせいがあってはじめて、まくはん体制たいせい早期そうき打倒うちたおされ、人民じんみん封建ほうけんせいからの解放かいほう日本にっぽん民族みんぞく国家こっかてき統一とういつ、そして欧米おうべいから植民しょくみんされる危険きけんから脱出だっしゅつするいちがふみだされたとした[96]

米国べいこくにおける日本にっぽん近代きんだいろん

編集へんしゅう

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでの歴史れきしがくでは日本にっぽん近代きんだいろん研究けんきゅうすすめられた。1960年代ねんだいのアメリカの東洋とうよう研究けんきゅうしゃエドウィン・O・ライシャワー日本にっぽん研究けんきゅうしゃマリウス・バーサス・ジャンセンは、明治維新めいじいしんによる近代きんだい評価ひょうかした[67]

ジャンセンが、ジョン・ホイットニー・ホールドナルド・H・シャイブリー、トマス・C・スミスらとともに設立せつりつした近代きんだい日本にっぽん研究けんきゅう会議かいぎ(Conference on Modern Japan)は1960ねん日米にちべい学者がくしゃあつめて箱根はこね会議かいぎひらいた[86][97]。ホールらが「近代きんだい」を、近代きんだい特徴とくちょうづけるしょ変化へんか包括ほうかつし、地域ちいきとの比較ひかく可能かのうとする概念がいねんとみなしたのにたいして、日本にっぽん学者がくしゃらは「近代きんだい」を「歴史れきしなか実現じつげんすべき価値かち理念りねん」とみなし、遠山とおやま茂樹しげきは「近代きんだい」をマルクス主義まるくすしゅぎちが意味いみもちいることの意図いとうたがい、川島かわしまたけしよろしも「民主みんしゅ」を主軸しゅじくえていないと批判ひはんした[86]。ホールは、イデオロギーの構築こうちくでなく、あらかじめまった結論けつろん前提ぜんていとしないオープン・エンド・アプローチをもちいた[86]

雑誌ざっし中央公論ちゅうおうこうろん』では、1961ねん5がつごうから8がつごうにかけてクラーク・ケェア、労働ろうどう経済けいざい学者がくしゃのフレデリック ・H・ハービソン、ジョン・トーマス・ダンロップ、チャールズ・アンドリュー・マイヤーズ、中山なかやま伊知郎いちろう尾高おだか邦雄くにおろうやま政道せいどうらが日本にっぽん経済けいざいてき近代きんだい産業さんぎょう民主みんしゅについて議論ぎろんをしており、そのなかでライシャワーは日本にっぽん近代きんだい成功せいこうは、てい開発かいはつ諸国しょこく手本てほんになると発言はつげんした[97][98]

近代きんだい日本にっぽん研究けんきゅう会議かいぎが「日本にっぽんにおける近代きんだい問題もんだい」(1965、邦訳ほうやく1968)を刊行かんこうすると、おおくの反響はんきょうんだ[86][99]米国べいこくではベトナム戦争せんそう反対はんたいするニューレフト歴史れきし学者がくしゃジョン・ダワーハーバート・ビックスらの“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮ゆうりょするアジア研究けんきゅうしゃ委員いいんかい)は、ちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使たいしつとめたライシャワーや、ジャンセン、ホールらの近代きんだい研究けんきゅうを、中立ちゅうりつよそおって日本にっぽん近代きんだい成功せいこう強調きょうちょうするイデオロギーであると批判ひはんした[86][97]。ダワーらは、赤狩あかが共産きょうさん主義しゅぎしゃ断定だんていされて自殺じさつしたハーバート・ノーマン前述ぜんじゅつ)をとなえた[86]日本にっぽんでも明治めいじひゃくねん記念きねん式典しきてん(1968)に関連かんれんして「近代きんだいろん」を批判ひはんするなどの論争ろんそう発生はっせいした(後述こうじゅつ)。歴史れきし学者がくしゃ安丸やすまる良夫よしお日本にっぽん近代きんだいろんを「あらたな支配しはいイデオロギー」と批判ひはん[100]社会しゃかい学者がくしゃ金原かなはら左門さもん近代きんだい日本にっぽん研究けんきゅう会議かいぎフォード財団ざいだんから多額たがく補助ほじょきんけたことを問題もんだいした[97][101]近年きんねんでもヴィクター・コシュマンは2003ねん論文ろんぶんで、日本にっぽん近代きんだいろん冷戦れいせんした日本にっぽん共産きょうさん主義しゅぎしないための施策しさくであったと主張しゅちょうした[97][102]

こうした批判ひはんたいして、箱根はこね会議かいぎ参加さんかした丸山まるやま眞男まさおは、近代きんだいろん西欧せいおう近代きんだい絶対ぜったいとして西欧せいおうはかるとして批判ひはんされたが、これは誤解ごかいであり、ジャンセン、ホールらの近代きんだいろんは、近代きんだいみち多様たよう複数ふくすうであることを当初とうしょからっていたとかたっている[97]

マリウス・バーサス・ジャンセンは『坂本さかもと龍馬りょうま明治維新めいじいしん』(1961ねん)で坂本さかもと龍馬りょうま土佐とさはん維新いしんたした役割やくわりげた[103]。ジャンセンは、19世紀せいきにはアメリカで奴隷どれい解放かいほう、ロシアで農奴のうど解放かいほうきる一方いっぽうで、アジアは欧米おうべい干渉かんしょうによって変革へんかくあるいは反発はんぱつきた[104]。インドではセポイの反乱はんらん結果けっかだいえい帝国ていこく支配しはいかれ、中国ちゅうごくではアヘン戦争せんそう太平たいへい天国てんごくらんきたた[104]日本にっぽんでも外圧がいあつのなか政治せいじてき知的ちてき激動げきどう変革へんかく醸成じょうせいした結果けっか民族みんぞくてき統一とういつされた国家こっか誕生たんじょうした[104]。この「日本にっぽん革命かくめい」の成功せいこうは、フランス革命かくめい当時とうじ周辺しゅうへんこく影響えいきょうあたえたように、中国ちゅうごく革命かくめいまごぶん康有為こうゆうい朝鮮ちょうせん金玉きんぎょくひとしフィリピン革命かくめいエミリオ・アギナルドインド独立どくりつ運動うんどうスバス・チャンドラ・ボースらを刺激しげきし、とくまごぶん自身じしん維新いしん英雄えいゆうになぞらえていたという[104]同書どうしょは、小説しょうせつ司馬しばりょう太郎たろうおおきな影響えいきょうあたえた。その、ジャンセンは1986ねんに、明治維新めいじいしんは「たんなる復古ふっこでなくて、革命かくめい」とし[105][106]、2000ねん大著たいちょThe Making of Modern Japanでも、幕末ばくまつから明治めいじにかけてのだい変革へんかくは、「日本にっぽん制度せいど恒久こうきゅうてき変化へんかをもたらしたので、革命かくめいぶにじきする」とべる[107][108]

経済けいざい学者がくしゃ哲学てつがくしゃアマルティア・センは2006ねん著書ちょしょで、米国べいこく蒸気じょうきせんなどの技術ぎじゅつりょくおどろいた日本にっぽんは、それまでの外交がいこう政策せいさく見直みなおすとともに、教育きょういく政策せいさく見直みなおし、誓文せいもんでは知識ちしき世界せかいもとめることが宣言せんげんされ、1872ねん学制がくせいでは、「不学ふがく不学ふがくひと」をなくすことが目指めざされ、1910ねんには小学校しょうがっこう教育きょういく普及ふきゅうし、1913ねんにはイギリスやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくよりもおおくの書籍しょせき刊行かんこうされた[61]木戸きど孝允たかよしは「けっして今日きょうひとべいおうもろしゅうひとことなることなし。ただがく不学ふがくにあるのみ」とべ、欧米おうべいじんもアジアじんおな人間にんげんであり、教育きょういく水準すいじゅんをあげればアジアじん欧米おうべいいつくことができるとかんがえた[109]。センは、日本にっぽんにおける近代きんだい成功せいこうは、ケイパビリティ (潜在せんざい能力のうりょく)形成けいせいによってげられたとし[61]日本にっぽんは、国民こくみん教育きょういく水準すいじゅん識字しきじりつたかめれば、社会しゃかい経済けいざい改善かいぜんさせ、短期間たんきかんでも近代きんだい経済けいざい発展はってん実現じつげんできるということを証明しょうめいし、アジア諸国しょこく模範もはんとなり[109]ひがしアジアの奇跡きせき日本にっぽん経験けいけんによって鼓舞こぶされたものであったとする[61]

このほか、ソ連それん日本にっぽん学者がくしゃは、明治維新めいじいしんは、1867-8ねん政治せいじクーデター、1868ねんから1873ねんの200かいにもわたる百姓ひゃくしょう一揆いっき、ええじゃないかなどの民衆みんしゅう運動うんどうなどが相互そうご関連かんれんする不可分ふかぶんふく合体がったいしている革命かくめいであったと規定きていした[110]ソ連それん日本にっぽん研究けんきゅうイゴール・ラティシェフ明治維新めいじいしんは「未完みかんのブルジョワ革命かくめい」であるとする[110]。P.フェドセイエフは「ブルジョワ民族みんぞく主義しゅぎ革命かくめい」であるとする[106]

明治めいじひゃくねんさい

編集へんしゅう

中国ちゅうごく文学ぶんがくしゃ竹内たけうちよしみは1960ねん2がつ民族みんぞくてきなものと思想しそう」において、民族みんぞくてき(ナショナル)なものを大事だいじにしないと,ぎゃく過激かげきなナショナリズムを成立せいりつさせる危険きけんがあるとしたうえで、革命かくめい未来みらいえががかりとして「明治維新めいじいしんひゃくねんさい」とその是非ぜひ議論ぎろんすることを提案ていあんした(のち政府せいふ主催しゅさいとなって以降いこう撤回てっかい[95][111]。また竹内たけうちは「明治維新めいじいしん中国ちゅうごく革命かくめい」(1968ねん)において[112]、「明治維新めいじいしん未曾有みぞう変革へんかく意図いとし、また実現じつげんしたものであるが、明治めいじ国家こっかひとつの選択せんたくにしかぎず、もっと多様たよう可能かのうせいをはらんでいた」とべたうえで、まごぶん中国ちゅうごく革命かくめい比較ひかくする[95]まごぶんは「日本にっぽん維新いしん中国ちゅうごく革命かくめい第一歩だいいっぽ中国ちゅうごく革命かくめい日本にっぽん維新いしんだい」とべたが、これは日本にっぽん維新いしん純化じゅんかさせ、「維新いしん」を帝国ていこく主義しゅぎ対極たいきょくとみなし、中国ちゅうごく革命かくめい世界せかいから不平等ふびょうどうのぞかれることを目標もくひょうとした永遠えいえん過程かていであるとかんがえた、と竹内たけうちはいう[95]竹内たけうちは、近代きんだい日本にっぽんは「維新いしん」の意義いぎ矮小わいしょうさせてしまったとし、未完みかん明治維新めいじいしん重視じゅうしした[95]

1968ねん昭和しょうわ43ねん10月23にち佐藤さとう栄作えいさく政権せいけん明治めいじひゃくねん記念きねん式典しきてんひらかれた。木村毅きむらきはやし房雄ふさお安岡やすおか正篤まさあつ池島いけじま信平しんぺいらの広報こうほう部会ぶかいでは、戦後せんご日本にっぽん復興ふっこうをなした基盤きばんとしての明治めいじたたえられ、また、ライシャワーの近代きんだいろんや、徳川とくがわ時代じだいさい評価ひょうかおこなわれた[95]同年どうねん司馬しばりょう太郎たろうの『さかうえくも』が連載れんさい開始かいしした[95]

他方たほう歴史れきしがく研究けんきゅうかい歴史れきし科学かがく協議きょうぎかい歴史れきし教育きょういくしゃ協議きょうぎかいは、明治めいじひゃくねんさいは1940ねん紀元きげんせんろくひゃくねん記念きねん行事ぎょうじ危険きけんがあると反対はんたいした[95]。1968ねん7がつには、家永いえなが三郎さぶろう板垣いたがき雄三ゆうぞう井上いのうえきよし江口えぐちほおろう遠山とおやま茂樹しげき永原ながはらけい野原のはら四郎しろうはたでんたかし松島まつしま栄一えいいちらが「明治めいじひゃくねん反対はんたいする声明せいめい」を起草きそうし、3675にん署名しょめい[95][113]反対はんたい声明せいめいでは、明治めいじは「天皇てんのうせい絶対ぜったい主義しゅぎ」をした日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ形成けいせいであり、女性じょせい差別さべつみん沖縄おきなわじん朝鮮ちょうせんじんにとって差別さべつ抑圧よくあつ歴史れきしであり、「近代きんだいろん」は近代きんだい日本にっぽんがアジアの犠牲ぎせいうえったことをおおかくすものだと批判ひはんした[95]学界がっかいでは、大江おおえ志乃しのおっと歴史れきし研究けんきゅうにおいて明治維新めいじいしん可能かのうせい現実げんじつ近代きんだい日本にっぽんとの落差らくさ評価ひょうかおこなうべきではないかと提言ていげんすると、井上いのうえきよしがこれを「なにをいっているのかからない」と批判ひはん[114]佐藤さとうまこと三郎さぶろう戦前せんぜん講座こうざよりも戦後せんご歴史れきしがく硬直こうちょくしていると表明ひょうめいすると、遠山とおやま茂樹しげきがこれを「主観しゅかんてきだ」と批判ひはんした[95]

もと総理そうり大臣だいじん石橋いしばし湛山たんざんは、明治めいじ時代じだい遺産いさんとは、日本にっぽん帝国ていこくになったことではなく、箇条かじょう誓文せいもんによって日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎ言論げんろん自由じゆう重視じゅうしするようになったことだ、とろんじ、1968ねん反戦はんせんデモに明治めいじ遺産いさんきている、とみなした[115]

幕末ばくまつ過渡かと国家こっかろんからおおやけ研究けんきゅうまで

編集へんしゅう

維新いしん政権せいけん研究けんきゅう原口はらぐちきよし戊辰戦争ぼしんせんそう」(1963)や下山しもやま三郎さぶろう近代きんだい天皇てんのうせい研究けんきゅう序説じょせつ」(1976)によって本格ほんかくてき着手ちゃくしゅされた[90]宮地みやじ正人まさとは、幕府ばくふ朝廷ちょうていしょはん動向どうこう総体そうたいてきとらえようとして幕末ばくまつ過渡かと国家こっかろん提唱ていしょうし、それまで見落みおとされていた天皇てんのう朝廷ちょうてい動向どうこう視野しやれ、斬新ざんしんてき研究けんきゅうとなった[90][116]。これにつづいて、原口はらぐちきよし国是こくぜ最高さいこう国家こっか意志いし樹立じゅりつをめぐるしょ勢力せいりょく運動うんどう対立たいりつという視座しざ設定せっていし、慶応けいおう3ねん箇条かじょう誓文せいもん国是こくぜ樹立じゅりつ運動うんどう帰結きけつとした[90][117]宮地みやじ原口はらぐちのダイナミックな関係かんけい研究けんきゅうによって、長州ちょうしゅうはん会津あいづはんのように政治せいじ状況じょうきょうによって「勝者しょうしゃ」「敗者はいしゃ」が刻々こくこくわるなか、当時とうじ政治せいじ個性こせいえがされるようになり、その研究けんきゅう潮流ちょうりゅう源流げんりゅうとなった[90]

明治維新めいじいしんでは幕府ばくふ廃止はいしされると同時どうじ摂関せっかん制度せいど廃止はいしされるなど、天皇てんのう朝廷ちょうてい研究けんきゅう重要じゅうようであるが、戦前せんぜんには皇国こうこく史観しかんでタブーされ、戦後せんご戦前せんぜんへの忌避きひかんから研究けんきゅうおくれていた[90]井上いのうえまさるせい[118]藤田ふじたさとし[119]研究けんきゅうによって、文久ぶんきゅう3ねんはちがつじゅうはちにち政変せいへん主役しゅやく孝明天皇こうめいてんのうとする見解けんかいなどが提出ていしゅつされ、武家ぶけあやつられる天皇てんのうというイメージが一新いっしんされ、以後いご幕末ばくまつ維新いしん天皇てんのう研究けんきゅうおおきな影響えいきょうあたえた[90]

また、いちきょう徳川とくがわ徳川とくがわ慶喜よしのぶ京都きょうと守護しゅごしょく会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり京都きょうと所司代しょしだい桑名くわな藩主はんしゅ松平まつだいらじょうけいさんしゃにより構成こうせいされたいちかいくわ勢力せいりょく重視じゅうしされ、従来じゅうらいの「幕府ばくふたい薩長さっちょう」という単純たんじゅん図式ずしきおおきな変化へんかがもたらされた[90]いえきん良樹よしきの「幕末ばくまつ政治せいじ倒幕とうばく運動うんどう」(1995)では、それまで「敗者はいしゃ」として悲劇ひげきてきとらえられがちだった会津あいづはん存在そんざいたか評価ひょうかした[90]宮地みやじ正人まさとは、歴史れきしファンやマニアの研究けんきゅう対象たいしょう出会であった新選しんせんぐみいちかいくわとの役割やくわりから研究けんきゅうした[90][120]。このほか久住ひさずみしん長州ちょうしゅう戦争せんそう徳川とくがわ将軍しょうぐん」(2005)では幕府ばくふ新仏あらぼとけ研究けんきゅうおこなわれた[90]

開国かいこく研究けんきゅうとしては、三谷みたにひろし「ペリー来航らいこう」(2003)や荒野あらの泰典やすのり日本にっぽん対外たいがい関係かんけい7 近代きんだいする日本にっぽん」(2012)などで従来じゅうらいの「不平等ふびょうどう条約じょうやく」「鎖国さこく」「開国かいこく」の見直みなおしをさい評価ひょうかがなされている[90]

高橋たかはし秀直ひでなお[121]や、いえきん良樹よしき研究けんきゅう[122]では、王政おうせい復古ふっこクーデタ倒幕とうばく目指めざしていなかったことがあきらかにされ、また王政おうせい復古ふっこ成立せいりつしたしん政府せいふは、天皇てんのうよりおおやけ原理げんり優位ゆういにたつ(天皇てんのう親政しんせいではない)政府せいふであったことがあきらかにされた[90]三谷みたにひろしも「維新いしん再考さいこう」(2017)でおおやけ研究けんきゅうすすめた[90]

日本にっぽん思想しそう研究けんきゅう子安こやすせんくには、明治維新めいじいしん民衆みんしゅうにとっては明治めいじ5ねん徴兵ちょうへい告諭こくゆにおける兵役へいえき義務ぎむであり、国民こくみんにさせられていく過程かていであり、畏怖いふすべき国家こっか現前げんぜんだったと[123]

明治維新めいじいしん150周年しゅうねん (2018)以降いこう

編集へんしゅう

2018ねん(平成へいせい30ねん)10がつ23にち明治維新めいじいしん150周年しゅうねん記念きねんして政府せいふ式典しきてん憲政記念館けんせいきねんかんひらいた[124]10月23にち明治めいじ改元かいげんされたであり、1968ねん明治めいじひゃくねんさい同日どうじつ開催かいさいされた。安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょう当時とうじ)は式辞しきじで「明治めいじ人々ひとびと勇気ゆうき英断えいだん、たゆまぬ努力どりょく奮闘ふんとうによって、世界せかいけておおきくむねひらき、あたらしい時代じだいとびらけた」「わか世代せだい方々かたがたにはこの機会きかいに、くに近代きんだいけてしょうじた出来事できごとれ、ひかりかげ様々さまざま側面そくめん貴重きちょう経験けいけんとしてまなびとってしい」とべた[124]明仁あきひと天皇てんのうげん上皇じょうこう)と美智子みちこ皇后こうごう(げんうえ皇后こうごう)は、政府せいふ招待しょうたいせず、参列さんれつしなかった[124]

2017ねんから2018ねんにかけておおくの研究けんきゅうしょ一般いっぱんしょ上梓じょうしされた。歴史れきし学者がくしゃ著作ちょさくとしては、三谷みたにひろし維新いしん再考さいこう』、三谷みたに太一郎たいちろう日本にっぽん近代きんだいとはなにであったか』などがある。

経営けいえい学者がくしゃ米倉よねくら誠一郎せいいちろうは『イノベーターたちの日本にっぽん 近代きんだい日本にっぽん創造そうぞうてき対応たいおう』(東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、2017ねん)で激動げきどう維新いしんにおいて創造そうぞうてき対応たいおうをなした人物じんぶつ注目ちゅうもくし、高島たかしま秋帆しゅうはんがアヘン戦争せんそう危機ききかんたかめて、西洋せいよう砲術ほうじゅつ研究けんきゅうをし、モルチールほう輸入ゆにゅう分解ぶんかい模造もぞう(リバースエンジニアリング)おこなったことや、大隈おおくま重信しげのぶ秩禄処分しょぶんにおいて、士族しぞくの俸禄をすうねんぶん合算がっさん総額そうがくに7%の利子りしけた公債こうさい発行はっこうバウチャー制度せいど)をして生活せいかつ保障ほしょう同時どうじきゅう士族しぞく起業きぎょう農工のうこうしょうへの転職てんしょくできるように士族しぞく授産じゅさん政策せいさく実施じっししたこと[125]笠井かさいじゅんはち日本にっぽん存在そんざいしなかったセメント製造せいぞうをベンチャー事業じぎょうとしてったこと、三野村みのむら利左衛門りざえもん三井みつい外部がいぶからはいり、祖業そぎょう呉服ごふくしょう三越みつこし分割ぶんかつし、三井みつい銀行ぎんこう設立せつりつし、三井みつい財閥ざいばつ中興ちゅうこうさせたこと、またおなじく外部がいぶから登用とうようされた益田ますだたかし三井物産みついぶっさん設立せつりつしたこと、岩崎いわさき彌太郎やたろう三菱みつびし商船しょうせん学校がっこう三菱みつびし商業しょうぎょう学校がっこう設立せつりつし、人的じんてき資源しげん確保かくほするなど多角たかくてき事業じぎょうたい三菱みつびし財閥ざいばつ発展はってんさせたことなどをたたえた[126]

明治維新めいじいしん150周年しゅうねんについては批判ひはんてき意見いけんものもおり、歴史れきし学者がくしゃ奈良なら勝司しょうじは、明治めいじ日本にっぽんでは、武力ぶりょく国力こくりょく)の底上そこあげへの奉仕ほうし国民こくみんいられたと総括そうかつし、『明治めいじ精神せいしん』への回帰かいきとは、日本にっぽん賛美さんびによるやしであり、「アトラクションさせた過去かこ消費しょうひ」や都合主義つごうしゅぎてき加工かこうした歴史れきしへの逃避とうひでは、未来みらい展望てんぼうにつながらないと警告けいこくした[127]平和へいわ学者がくしゃ木村きむらあきらは「明治めいじ翼賛よくさん最大さいだい問題もんだいは、自国じこく不都合ふつごう歴史れきしてき事実じじつ忘却ぼうきゃく」にあるとし、近代きんだい日本にっぽんは「アジアで唯一ゆいいつ帝国ていこく主義しゅぎ国家こっか」となり、アジア諸国しょこくへの侵略しんりゃく会津あいづはん悲劇ひげきや、アイヌ・琉球りゅうきゅうへの差別さべつ明治維新めいじいしんゆがみだとする[127]女性じょせい研究けんきゅう加納かのう実紀みきだいは、明治めいじ日本にっぽん女性じょせい抑圧よくあつ国家こっか制度せいどとして確立かくりつしたとし、民法みんぽう女性じょせいじゅん禁治産者きんちさんしゃあつかいし[128]高等こうとう教育きょういく[129]政治せいじ参加さんかきんじたと指摘してきし、明治めいじ150ねん記念きねん行事ぎょうじは、明治めいじ以後いご歴史れきし肯定こうてい一辺倒いっぺんとうめるおそれがあり、一方いっぽうてき歴史れきし認識にんしき定着ていちゃくしないよう注視ちゅうしする必要ひつようがあると警告けいこくした[127]もと学生がくせい運動うんどう科学かがく史家しか山本やまもと義隆よしたかは『近代きんだい日本にっぽん150ねん』(2018ねん)で「科学かがく技術ぎじゅつそう力戦りきせん」という角度かくどから日本にっぽん近代きんだいろんじた。ジャーナリストの斎藤さいとう貴男たかおは、政府せいふ主導しゅどう明治維新めいじいしん記念きねん行事ぎょうじは、とき政府せいふ(長州ちょうしゅうはんにつながるだい4安倍あべ内閣ないかく)礼賛らいさんつなげようとしていると疑念ぎねん表明ひょうめいしている[130]

記者きしゃリチャード・カッツは、「明治維新めいじいしん米国べいこく独立どくりつ記念きねんやフランスの革命かくめい記念きねんのようなものなのに、現代げんだい日本人にっぽんじんはなぜ、維新いしん150周年しゅうねん祝賀しゅくがしないのか」と疑問ぎもんおもい、調査ちょうさすると、明治維新めいじいしん戦争せんそう時代じだいくら歴史れきしむすけてかんがえている日本人にっぽんじんすくなくなかったという[115]日本にっぽん近代きんだい研究けんきゅうピーター・ドウスは、明治維新めいじいしんが「民主みんしゅ主義しゅぎ経済けいざいてき繁栄はんえいではなく、日本にっぽんちょう国家こっか主義しゅぎ植民しょくみん支配しはい拡大かくだい、すなわち破滅はめつへとみちびいていったとかんがえている日本人にっぽんじんおおい」と指摘してきする[115]

日本にっぽん思想しそう研究けんきゅう苅部かりべただしは(『「維新いしん革命かくめい」へのみち)(2017ねん)において、マルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがく遠山とおやま茂樹しげきなどのような、明治維新めいじいしんによる文明開化ぶんめいかいか政府せいふうえから強引ごういん西洋せいようすすめ、庶民しょみんにとっては迷惑めいわくであったとするような評価ひょうかは、事態じたい一部いちぶしかとらえていないと批判ひはんし、公儀こうぎ瓦解がかいしん政府せいふ発足ほっそくは、人々ひとびとにとって生活せいかつ全体ぜんたいおよ束縛そくばくからの解放かいほうかんじられ、また西洋せいようもそのうごきの一環いっかんとして歓迎かんげいされたとべている[131]苅部かりべによれば、人民じんみんがわ歴史れきしがく標榜ひょうぼうする遠山とおやま茂樹しげきは、庶民しょみん文明開化ぶんめいかいかもとめ、たのしんだ実態じったいにはれようとしないが、それは、遠山とおやま戦時せんじちゅうの1944ねん論文ろんぶん水戸みとがく性格せいかく」で、孝明天皇こうめいてんのうによる「仁慈じんじかぎりなき叡慮えいりょ」によるまくはん封建ほうけん体制たいせい改革かいかくで、「いちくん万民ばんみん国体こくたい精華せいか」が「革新かくしんりょく」となるとろんじたことへのにが反省はんせいがあったのではないかと指摘してきしている[132]。また、文明開化ぶんめいかいか以前いぜんふる日本にっぽんあこがれるロマンティシズムや、薩長さっちょう暴虐ぼうぎゃく強調きょうちょうする幕臣ばくしんびいき・江戸えどびいきの歴史れきしかんも、遠山とおやま同様どうように、民衆みんしゅう共感きょうかんすることを標榜ひょうぼうしながらも、当時とうじ民衆みんしゅう文明開化ぶんめいかいかたのしみ、欲望よくぼう発散はっさん機会きかいおおくなることをねがったという実態じったいについてかないような「民衆みんしゅう不在ふざい」のわなにはまっていると苅部かりべ批判ひはんする[132]

政治せいじ研究けんきゅう北岡きたおか伸一しんいちは『明治維新めいじいしん意味いみ』(2020ねん)で、明治維新めいじいしん既得きとく権益けんえき特権とっけんそう打破だはし、様々さまざま制約せいやくのぞいた民主みんしゅ革命かくめい自由じゆう革命かくめい人材じんざい登用とうよう革命かくめいであったとする[67]北岡きたおかによれば、江戸えど時代じだい国政こくせい参加さんかできたのは、将軍しょうぐん譜代ふだい大名だいみょう構成こうせいされたまくかくであり、親藩しんぱん外様とざま大名だいみょう排除はいじょされていたが、黒船くろふね来航らいこう以降いこう雄藩ゆうはん朝廷ちょうてい国政こくせい参加さんかするようになり、とく下級かきゅう武士ぶし登用とうようした薩長さっちょう台頭たいとうした[67]。その維新いしんでこれらの下士かし出身しゅっしん官僚かんりょうらは、はんふくはん全廃ぜんぱいし、武士ぶしふく身分みぶん制度せいどさえも廃止はいしした。初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじんになった伊藤いとう博文ひろぶみ農民のうみん足軽あしがる)の出自しゅつじであったが、江戸えど時代じだいには政治せいじへの発言はつげんゆるされない身分みぶんであった[67]。さらに西南せいなん戦争せんそう以後いご自由じゆう民権みんけん運動うんどうて、内閣ないかく制度せいど確立かくりつすると、豪農ごうのう内戦ないせんちゅう朝敵ちょうてきとされた東北とうほく出身しゅっしんしゃ政治せいじ参加さんかさかんになり、1890ねんには信越しんえつ東北とうほく国会こっかい議員ぎいん誕生たんじょうし、1918ねんには盛岡もりおかはん出身しゅっしんはらたかし総理そうり大臣だいじんになった[67]地租ちそ改正かいせいによって中世ちゅうせい以来いらい石高こくだかせい廃止はいし田畑たはた売買ばいばい自由じゆうになった。職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆうとされ、身分みぶんえた教育きょういく精度せいど導入どうにゅうされた[67]

日本にっぽん思想しそう研究けんきゅう子安こやすせんくには『「維新いしんてき近代きんだい幻想げんそう』(2020ねん)で明治維新めいじいしんはしはっする日本にっぽん近代きんだいのありかた批判ひはんした。

敗者はいしゃ」の視点してんから

編集へんしゅう

薩長さっちょう土肥どい中心ちゅうしんかたられてきた明治維新めいじいしん批判ひはんする立場たちばとして、明治維新めいじいしんの「敗者はいしゃ」、とく戊辰戦争ぼしんせんそうにおける会津あいづはん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいなどの「敗者はいしゃ視点してんからかれたものも多数たすうある。戊辰戦争ぼしんせんそう新選しんせんぐみ小栗おぐり忠順ただまさ上野うえの戦争せんそう会津あいづ戦争せんそうはこかん戦争せんそうかく項目こうもく参照さんしょう

会津あいづはんについては、司馬しばりょう太郎たろう小説しょうせつ王城おうじょう守護しゅごしゃ」(1965ねん別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)で会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり孝明天皇こうめいてんのうへの忠誠ちゅうせい中心ちゅうしん会津あいづはん悲劇ひげき強調きょうちょうされたあと、多数たすうの《会津あいづもの》小説しょうせつつづいた[133]司馬しばをはじめ、長州ちょうしゅうへの敵意てきいかえかれた早乙女さおとめみつぐの『會津あいづ士魂しこん』(1970-1988)、つなふちけんじょうつちのえたつ落日らくじつ』(1978)、中村なかむら彰彦あきひこらの《会津あいづもの》小説しょうせつは、「怨念おんねん史観しかん」の源泉げんせん提供ていきょうしていった[133]石光いしみつ真人まさとへん 『ある明治めいじじん記録きろく会津あいづじんしば五郎ごろう遺書いしょ』(1974ねん, 改版かいはん2017ねん)もた。会津あいづ郷土きょうど史家しか宮崎みやざきじゅうさんはちは、「長州ちょうしゅうへの怨恨えんこん」を基盤きばんとして、「会津あいづ明治めいじ政府せいふから徹底的てっていてきにいじめられてきた」とする「観光かんこう史学しがく」を提唱ていしょうした[133]宮崎みやざきしんしお451992ねん10がつごう発表はっぴょうした「会津あいづじん戊辰戦争ぼしんせんそう ヒロシマのピカドンとおな惨劇さんげき」では、会津あいづへの長州ちょうしゅう砲撃ほうげきアメリカによる原爆げんばく投下とうかとは、「一般いっぱん住民じゅうみんまった差別さべつ暴力ぼうりょくでぶっころしたのは、まったおなじだった」[134]とし、「会津あいづ戦争せんそう悲劇ひげき日本人にっぽんじんっていたならば、太平洋戦争たいへいようせんそう悲劇ひげきふせげたかもしれない」と主張しゅちょうした[133]。こうした宮崎みやざきの「怨念おんねん史観しかん」にたいしては、宮崎みやざき同級生どうきゅうせいだったはた敬之助けいのすけ牧野まきののぼるらによる批判ひはんがある[133][135]

なお、こうした「怨念おんねん史観しかん」のひとつとして、しん政府せいふぐん遺体いたい埋葬まいそうきんじ、会津あいづ藩士はんし遺体いたい半年はんとしあいだざらしにされたという「埋葬まいそう禁止きんしせつ」が1960年代ねんだい以降いこう現在げんざいまで流布るふされてきた[136]。しかし、2016ねん12月に、戦死せんしした藩士はんしらの埋葬まいそう記録きろくされていた史料しりょう戦死せんしかばねつかまつまつ(せんしかばねとりしまつ)金銭きんせん入用にゅうようちょう』が会津若松あいづわかまつ発見はっけんされ、しん政府せいふ会津あいづはん降伏ごうぶく10日とおか旧暦きゅうれき10がつ2にち埋葬まいそう命令めいれいし、よく10月3にちからどう17にちにかけ、会津あいづ藩士はんし4にん指揮しきし、567たい遺体いたい埋葬まいそうしたことがわかった[136][137]。「埋葬まいそう禁止きんしせつ」について、会津若松あいづわかまつ研究けんきゅうかい野口のぐち信一しんいちは、会津あいづ戦争せんそうから半年はんとしの1869ねん2がつ阿弥陀寺あみだじ遺体いたい改葬かいそうしたことが『半年はんとしあいだ放置ほうちした』と誤認ごにんされた要因よういんとみて[136]、「歴史れきしはなしくと、悲劇ひげきてき部分ぶぶんあたまのこりやすい。歴史れきしは、耳学問みみがくもんではなくみずかまな姿勢しせい必要ひつよう」とはな[138]

司馬しばりょう太郎たろうは『「明治めいじ」という国家こっか』(1989)で、明治維新めいじいしん最大さいだい功績こうせきしゃは、権力けんりょく放棄ほうきした徳川とくがわ慶喜よしのぶかつ海舟かいしゅうであり、それにくらべて薩長さっちょうちからにすぎないが、しん政府せいふがわ士族しぞくにしても戊辰戦争ぼしんせんそう恩賞おんしょうもないどころか、廃藩置県はいはんちけん秩禄処分しょぶんによる士族しぞく解体かいたい大名だいみょうがわ反乱はんらんがなかったのは不思議ふしぎだという[139][140]司馬しばは、江戸えど時代じだい日本にっぽんは「自立じりつ自助じじょ勤勉きんべん」でプロテスタンティズムており、明治めいじ政府せいふもこれを踏襲とうしゅうしたが、ヨーロッパの合理ごうり主義しゅぎつづけて、江戸えど合理ごうり思想しそうてた結果けっか昭和しょうわ没落ぼつらくではないかとろんじた[140]

文化ぶんか人類じんるい学者がくしゃ山口やまぐち昌男まさおの『「敗者はいしゃ」の精神せいしん』(岩波書店いわなみしょてん、1995ねん)では、維新いしん以後いご薩長さっちょう中心ちゅうしん階層かいそう秩序ちつじょからはなれた文化ぶんか活動かつどうおこなったとして、淡島あわしま椿岳ちんがく淡島あわしま寒月かんげつ大槻おおつき如電じょでん山本やまもとさとし大橋おおはし佐平さへい土田つちた杏村きょうそん吉野よしの作造さくぞうや、きゅう幕臣ばくしんらの事績じせきあつかわれた。

比較ひかく革命かくめい明治維新めいじいしん

編集へんしゅう

フランス革命かくめい、イギリス革命かくめい、アメリカ独立どくりつ革命かくめいとうとの比較ひかく

編集へんしゅう

西洋せいよう史学しがく河野こうの健二けんじは「明治維新めいじいしんと「西洋せいよう」」(1964)[141]において、明治維新めいじいしん経済けいざいてきにはブルジョワ革命かくめいであり、政治せいじてきには不徹底ふてってい革命かくめいであったとする。ただし、徹底てってい不徹底ふてってい程度ていど問題もんだいでもあり、イギリス革命かくめいはフランス革命かくめいよりも不徹底ふてっていであったし、ジョルジュ・ルフェーブルがいうようにフランス革命かくめいも「農民のうみん革命かくめい」というてんにおいては不徹底ふてっていであった[142]という。河野こうのによれば、明治めいじ政府せいふは、自由じゆう民権みんけんによる国会こっかい開設かいせつ請願せいがん運動うんどうたいして憲法けんぽう制定せいてい国会こっかい開設かいせつ約束やくそくするという先手せんてつことによって革命かくめい矛先ほこさきたくみにそらしたことができた革命かくめい政権せいけんであった[141]河野こうのけんへん近代きんだい革命かくめいとアジア』名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい 1987では、西欧せいおう革命かくめい明治維新めいじいしん対比たいひされながら、明治維新めいじいしん変革へんかくせいがクローズアップされ、明治維新めいじいしん絶対ぜったい主義しゅぎ成立せいりつとする見方みかたはもはやられなくなった[106]

フランス文化ぶんか研究けんきゅう桑原くわばら武夫たけおは1956ねんには明治維新めいじいしんを「後進こうしんこくがたのブルジョワ革命かくめい」と評価ひょうかしていたが[143]、1974ねんには明治維新めいじいしんは「文化ぶんか革命かくめい」として徹底てっていせいがあったとし、1986ねんには「ナショナリズム文化ぶんか革命かくめい」と評価ひょうかした[106][144]桑原くわばらは「社会しゃかいにおける巨大きょだい変化へんか革命かくめいぶこととすれば、維新いしんこそ革命かくめいぶべき」で、「明治維新めいじいしん革命かくめいばずして、なながつ革命かくめいとかがつ革命かくめいなどという名称めいしょう平気へいき使つかっているのは滑稽こっけいであります。最後さいご将軍しょうぐんころされなかったのですが、これはいわば日本人にっぽんじん英知えいちであって、流血りゅうけつすくないからダメとはえません」とべ、かつて自分じぶんもブルジョワ革命かくめいともったことがあるが、もうその用語ようご使つかわない、マルクス主義まるくすしゅぎふう発展はってん段階だんかいせつではけないところが維新いしんにはある、たとえば自由じゆう民権みんけん運動うんどう指導しどうしゃだった中江なかえ兆民ちょうみん帝国ていこく憲法けんぽう設計せっけいした井上いのうえあつし敬愛けいあいした矛盾むじゅん説明せつめいできないし、天皇てんのう絶対ぜったい専制せんせい君主くんしゅではなかったといい、また、しん国家こっか軍国ぐんこく主義しゅぎ侵略しんりゃく行為こういも「罵倒ばとうからはじめるのではなく、西欧せいおう先進せんしんこく場合ばあいをもあわかんがえ、冷静れいせい研究けんきゅうすべき」とべた[144]

西洋せいよう史学しがく遅塚ちづかただしによれば、イギリス革命かくめいでは革命かくめいになジェントリ限定げんていされていたため、共通きょうつう利害りがい見出みいだすことができたが、フランス革命かくめいでは、ブルジョワジーと大衆たいしゅうとのあいだ共通きょうつう利害りがい見出みいだすことが困難こんなんであり、革命かくめい路線ろせんたいして党派とうは対立たいりつ激化げきかしたがゆえに粛清しゅくせいにいたったとし、こうして独裁どくさいとテロル、流血りゅうけつのコストをはらったのはフランス革命かくめい社会しゃかい革命かくめいであったからとする[145]遅塚ちづかは、明治維新めいじいしんはフランス革命かくめいよりも流血りゅうけつすくないと強調きょうちょうされるが、フランスが市民しみん社会しゃかい創出そうしゅつし、社会しゃかいてきデモクラシーを提示ていじし、近代きんだいすすめたのであり、「明治維新めいじいしん世界せかいにどういう貢献こうけんをしたかをかんがえるとともに、世界せかいまみれのフランス革命かくめいっているものがなにであるかをも考慮こうりょすべきであろう」と指摘してきする[145]

トマス・C ・スミスは1967ねんに、明治維新めいじいしんは「1789ねんだい革命かくめいがフランスにもたらした以上いじょうおおきな変革へんかく日本にっぽんにもたらした」とひょうした[146]

経済けいざい学者がくしゃケネス・E・ボールディングは1970ねんに、コストがちいさく持続じぞくてき成長せいちょうをもたらした成功せいこうした革命かくめいアメリカ独立どくりつ明治維新めいじいしんであるとした[67][147]

他方たほうイェール大学だいがく歴史れきしがく教授きょうじゅ日本にっぽん近代きんだい論者ろんしゃジョン・ホイットニー・ホールは1971ねんに、日本にっぽんにはフランス革命かくめいやロシア革命かくめいのような政治せいじてきイデオロギーがなく、明治維新めいじいしんはブルジョワ革命かくめいでも農民のうみん革命かくめいでもなかったとひょうした[110][148]

作家さっかフランク・ギブニーは、明治維新めいじいしんを、アメリカ独立どくりつ革命かくめい、フランス革命かくめい、ロシア革命かくめい中国ちゅうごく革命かくめい同列どうれつの、五大ごだい革命かくめいひとつとし、明治維新めいじいしん近代きんだい世界せかいにおける最初さいしょだい文化ぶんか革命かくめいであったとする[149]。ギブニーは、明治めいじ文化ぶんか革命かくめいは、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう指導しどうしゃ自己じこ権力けんりょくまもるために扇動せんどうした文化ぶんかだい革命かくめいとはちがうという[149]明治めいじ革命かくめいは、ちゅう下級かきゅう武士ぶし指導しどうしたが、知識ちしきじん豪商ごうしょう町人ちょうにん階級かいきゅう農民のうみん参加さんかし、しゅとして国民こくみん合意ごういによるもので、または、国民こくみん期待きたいかん高揚こうようがあり、下層かそう身分みぶんであっても能力のうりょくがあれば権威けんいになれたことを民衆みんしゅうたりにするにつれ、「おおくの人々ひとびとにとってーまくはん体制たいせい支持しじしゃにとってさえー、革命かくめい具体ぐたいてき成果せいか正当せいとうせいあきらかであった。それ以上いじょうに、あたらしい慣習かんしゅうあたらしい思想しそうあたらしい技術ぎじゅつあたらしい知識ちしきには国民こくみんしん魅了みりょうするちからがあった」と指摘してきする[149]。さらに、アメリカとフランスの革命かくめい政治せいじてき革命かくめいであり、ロシアと中国ちゅうごく革命かくめいがイデオロギーの革命かくめいであったのにたいして、明治めいじ革命かくめい近代きんだいのなかでこころみられた最初さいしょのトータル・レボリューション(Total Revolution)全面ぜんめん革命かくめいであったという[149]。また、ギブニーは、2000ねん書評しょひょうでも、明治維新めいじいしんはフランス革命かくめいやロシア革命かくめい多大ただい流血りゅうけつとは対照たいしょうてきであったとひょうする[108]

歴史れきし学者がくしゃThomas M.Huberは、1981ねん著書ちょしょRevolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新めいじいしんになったのは、そう下層かそう武士ぶし中心ちゅうしんとした、神官しんかん僧侶そうりょ医師いし教員きょういん名主なぬしなどのサービス・インテリゲンチャであり[150] [151]明治維新めいじいしんとは、封建ほうけん制度せいどにおいて抑圧よくあつされていたこれらの社会しゃかい階層かいそうによってこされた革命かくめいであったとした[152]

ハーバード大学だいがく教授きょうじゅアンドルー・ゴードンは2003ねん著書ちょしょ日本にっぽん近代きんだい邦題ほうだい日本にっぽんの200ねん)』で、1868ねん前後ぜんこう日本にっぽんきた明治めいじ革命かくめいでは、政治せいじ統一とういつ中央ちゅうおう官僚かんりょうせい身分みぶんせい廃止はいし軍制ぐんせい教育きょういく税制ぜいせい改革かいかくなど広範こうはん改革かいかく実現じつげんしたのであり、これは「政治せいじ経済けいざい社会しゃかい文化ぶんかのどの側面そくめんからとらえても、いきむほど壮絶そうぜつであり、まさに革命かくめいにふさわしいものだった」とし、19世紀せいきから20世紀せいきにかけて世界せかい各国かっこくきた近代きんだい革命かくめい日本にっぽんてき展開てんかいであったとする[32]。ゴードンによれば、この日本にっぽん近代きんだい革命かくめい先行せんこうする西欧せいおう革命かくめいとは対照たいしょうてきであったが、それ以後いごきたしょ革命かくめい類似るいじしていた[32]西欧せいおう革命かくめいでは新興しんこう階級かいきゅうである都市としブルジョワジーが貴族きぞく階級かいきゅう特権とっけん異議いぎとなえたが、日本にっぽんでは武士ぶし階級かいきゅう革命かくめいになったため、「貴族きぞくてき革命かくめい」ともいわれる[32]日本にっぽん武士ぶしは、主君しゅくんやとわれた「給与きゅうよ生活せいかつしゃ従業じゅうぎょういん」であったため、西欧せいおう封土ほうどや、中国ちゅうごく貴族きぞく階級かいきゅう領土りょうどせい朝鮮ちょうせんりょうはんよりも土地とちとのむすびつきがよわく、身分みぶん不安定ふあんていであった[32]。ゴードンは、明治めいじ革命かくめいをフランス革命かくめいくらべて不完全ふかんぜん革命かくめいとするようなこれまでの評価ひょうかは、ヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎてき評価ひょうかにすぎず、西欧せいおう地域ちいき歴史れきしをその固有こゆう条件じょうけんそくして理解りかいしようとするものではないため有用ゆうようでないとし、西欧せいおう基準きじゅんとせず、同時どうじに、明治めいじ革命かくめい世界せかい近代きんだい革命かくめい同様どうよう持続じぞくてき激動げきどうのプロセスであったことを認識にんしきすることが肝要かんようであるという[32]

日本にっぽん政治せいじ思想しそう研究けんきゅう渡辺わたなべひろしは、「明治めいじ革命かくめいせい文明ぶんめい」(2021ねん)で、明治めいじ革命かくめいフランス革命かくめいは、身分みぶんせいこわして中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせいをつくったてん共通きょうつうすると評価ひょうかする[153]渡辺わたなべは「あれほどのだい変革へんかく革命かくめいでないとしたら、なにが「革命かくめい」なのでしょう? かつて、「皇国こうこく史観しかんは、日本にっぽんに「革命かくめい」があったとはみとめたくなかった(このかたり元来がんらい意味いみは、「王朝おうちょう交代こうたい」ですから)。マルクス主義まるくすしゅぎしゃおおくは、しんの「ブルジョア革命かくめい」ではなかったとかんがえた。こうして左右さゆう意見いけん一致いっちして、革命かくめいではなく、たんに「維新いしん」だ、ということになり、いまいたっているのです。でも、「維新いしん」はたんあたらしくなることです。そこで、徳川とくがわには、いまいう「寛政かんせい改革かいかく」を「寛政かんせい維新いしん」ともいます。「ブルジョア革命かくめい」であろうとなかろうと、あの可逆かぎゃくてきだい変革へんかくを、たかが「維新いしん」などとほうがおかしくないでしょうか。」と説明せつめいする[154]

ウェイクフォレスト大学だいがくのR.ヘルヤーとハイデルベルク大学だいがくのH.フュースも、明治維新めいじいしんアメリカ革命かくめいやフランス革命かくめい同等どうとう革命かくめいてき分水嶺ぶんすいれいとして位置付いちづけられるという[155]

日本にっぽん近代きんだい研究けんきゅうしゃ東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ三谷みたにひろしは、明治めいじ革命かくめいは「君主くんしゅせいピヴォットとする世襲せしゅう身分みぶんせい解体かいたいという近代きんだい世界せかい史上しじょうでも有数ゆうすう革命かくめい」とする[156]比較ひかく革命かくめいると明治維新めいじいしんによる犠牲ぎせいしゃきわめてすくなく、その要因よういんに、「公論こうろん」による政治せいじ決定けっていや、長期ちょうきてき危機きき予測よそくし、その対応たいおう成功せいこうしたことなどがげられるという[157]三谷みたに以下いかのように考察こうさつする。

  • ナショナリズム役割やくわり戊辰戦争ぼしんせんそう死者ししゃすうやく13600にん西南せいなん戦争せんそう死者ししゃすうやく11500にん倒幕とうばく運動うんどうがわ死者ししゃすうやく2500にんで、復古ふっこ反対はんたい勢力せいりょく死者ししゃすう不明ふめいだが、明治維新めいじいしんにおける政治せいじてき死者ししゃすうは、27600にん〜3まんにん推計すいけいできる[156]。これにたいして、フランス革命かくめいでの政治せいじてき死者ししゃすう国内こくない死者ししゃやく40まんにんフランス革命かくめい戦争せんそうでの死者ししゃすうやく115まんにん合計ごうけいやく155まんにんとされる[156][158]。また、20世紀せいき中国ちゅうごく国共こっきょう内戦ないせんが175まん[159]文化ぶんかだい革命かくめいでの犠牲ぎせいしゃは1000まんにん以上いじょうである[156]明治維新めいじいしんにおける政治せいじてき死者ししゃすうすくなかった理由りゆうには、徳川とくがわしん政府せいふ戦争せんそう極小きょくしょうおさえたこと、とく江戸えど開城かいじょうによる戦争せんそう回避かいひ主因しゅいんとされ、戊辰戦争ぼしんせんそう抵抗ていこうしゃ限定げんていされ、短期間たんきかんわった[156]。このほか、大名だいみょう上級じょうきゅう武士ぶしらが、「御家おいえ(おいえ)」にえて「日本にっぽん」レベルのナショナリズムったために世襲せしゅうてき特権とっけん剥奪はくだつ抵抗ていこうしなかったこともあげられる(幕末ばくまつ尊王そんのう攘夷じょういろん目的もくてき鎖国さこくまもるためでなく、日本にっぽん根本こんぽんてき改革かいかくにあった[156][160])。フランス革命かくめいでは、革命かくめいは、「国民こくみん」をはば抵抗ていこう勢力せいりょくであった貴族きぞくおう党派とうはヴァンデーの農民のうみんなどを殺戮さつりくし、さらに革命かくめいは、周辺しゅうへん君主くんしゅこくとの戦争せんそう回避かいひせずに選択せんたくしたために[161]大量たいりょう犠牲ぎせい[156]。フランスではすでにさん部会ぶかいにおいて「国民こくみん」が権力けんりょく源泉げんせんとされ、しん秩序ちつじょ対等たいとう構成こうせいする集合しゅうごうてき主体しゅたいとして重視じゅうしされていたが、日本にっぽんでは「国民こくみん」による秩序ちつじょ構想こうそう支持しじされたのは明治めいじ10年代ねんだいであった[162]
  • 分権ぶんけんせい中央ちゅうおう集権しゅうけん江戸えど時代じだいまくはん体制たいせい連邦れんぽう国家こっかであり、君主くんしゅにんいる(徳川とくがわ将軍しょうぐん天皇てんのう双頭そうとう国家こっかであった[156]清朝せいちょうのようないちきょく集中しゅうちゅうがた組織そしき解体かいたいむずかしいのにたいして、分権ぶんけんせい解体かいたい再編さいへん容易よういであるが、ただし、インドジャワのように、分権ぶんけんせいであったがゆえにそのすきをついて外部がいぶ勢力せいりょく国家こっか統合とうごうをなした場合ばあいもある[156]近世きんせい日本にっぽん双頭そうとう連邦れんぽう国家こっかであったが、維新いしんによって単一たんいつ国家こっかとしての「日本にっぽん」が創出そうしゅつされた[162]。フランスでは革命かくめいまえより単一たんいつ国家こっかで、封建ほうけん領主りょうしゅ連合体れんごうたいからは脱却だっきゃくしていたが、一部いちぶ貴族きぞくによる支配しはい王権おうけんによる支配しはいとが混在こんざいしていた[162]。しかし、中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい完成かんせいしたのは革命かくめいとナポレオン体制たいせいであったことから、国家こっか統合とうごうというてんでは明治維新めいじいしんとフランス革命かくめい同様どうよう結果けっかんだ[162]
  • 間接かんせつアプローチ戦略せんりゃくはいはん実現じつげんしようとしたしん政府せいふは、はいはん急激きゅうげきすすめるとしょ大名だいみょうからの抵抗ていこうけると予想よそうし、間接かんせつアプローチ戦略せんりゃくをとって、廃藩置県はいはんちけんよりまえひとしらしとして版籍はんせき奉還ほうかん建議けんぎした[156]版籍はんせき奉還ほうかんは、江戸えど将軍しょうぐん代替だいがわりにともな統治とうち許可きょかしょう返還へんかん慣習かんしゅう拡張かくちょうしたものであったために、しょ大名だいみょうからの抵抗ていこうはほとんどなかった[156]戊辰戦争ぼしんせんそうでは、しん政府せいふかく大名だいみょうじゅうたいのみの編成へんせいめいじた。これにより、上級じょうきゅう家臣かしん従者じゅうしゃ伝統でんとうてき武芸ぶげい使つかうことができなくなった[156]動員どういん財政ざいせい逼迫ひっぱくしたはん統治とうちけん返上へんじょうもうたところもあった[156]
  • 君主くんしゅせいによる改革かいかく維新いしん君主くんしゅけん強化きょうか主導しゅどうしたのは大名だいみょう家臣かしんであり、いわば領主りょうしゅ庶民しょみんあいだなかあいだそうであった。維新いしんきみけんてた意味いみでは「うえからの改革かいかく」であったが、内実ないじつちゅうあいだそうによる「したからの改革かいかく」であった[156]しん政府せいふ誓文せいもんで「ひろ会議かいぎおこし、まん公論こうろんけっすべし」と宣言せんげんし、これがみんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょなどでもかえ引用いんようされ、国是こくぜとなり、立憲りっけん政治せいじ定着ていちゃくしていった[156][* 7]誓文せいもん以前いぜんにも安政あんせいから「おおやけ」「公論こうろん」は重視じゅうしされており、これが誓文せいもん確認かくにんされており、ここに経路けいろ依存いぞんせいがある。さらに、室町むろまち以降いこうには天皇てんのう政治せいじてき決定けっていけん喪失そうしつしていたという経路けいろ依存いぞんせいもあり、こうして天皇てんのう朝廷ちょうてい明治維新めいじいしんにおいて「公論こうろん」をれ、憲法けんぽうによるきみけん制限せいげんれることができた[156]。これは19世紀せいき朝鮮ちょうせん清朝せいちょうきみけん制限せいげんつよ抵抗ていこうしたことからみても、例外れいがいてきであった[156]
  • 復古ふっこ明治維新めいじいしん西洋せいよう文明ぶんめいれながら、神武じんむ創業そうぎょうという神話しんわてきはじめげんへの復古ふっことなえられた。一方いっぽう、フランス革命かくめいでも進歩しんぽ提唱ていしょうされながら、古代こだいローマしきちかいのポーズや、凱旋がいせんもん建設けんせつ月桂冠げっけいかん戴冠たいかんなど古代こだいローマ復古ふっこ象徴しょうちょうもちいられた[156][* 8]。また、江戸えど時代じだい役人やくにん政策せいさく提言ていげんするさいには、先例せんれいれい)を引用いんようするのが慣例かんれいであり、明治維新めいじいしんが「復古ふっこ」をもちいたのは特殊とくしゅでも奇異きいでもなかった[156]。また、西洋せいようでの王政おうせい復古ふっこは、革命かくめい以前いぜん世襲せしゅう貴族きぞく支配しはい復元ふくげんし、「国民こくみん」や「民主みんしゅ」という秩序ちつじょ規範きはん否定ひていしようとする「反動はんどう」の運動うんどうであったのにたいし、明治維新めいじいしんでの「王政おうせい復古ふっこ」は、人々ひとびとの「国民こくみんや「公論こうろん」を促進そくしんした[163]
  • 変革へんかく速度そくど。1863ねんまでは尊攘そんじょうおおやけ政体せいたい追求ついきゅうのふたつの運動うんどう拡大かくだいし、尊攘そんじょう最後さいご局面きょくめん徳川とくがわ公儀こうぎ打倒だとう計画けいかくしたが、公然こうぜんと「倒幕とうばく」を主張しゅちょうするものは少数しょうすうにとどまり、散発さんぱつてきなテロルをのぞけば暴力ぼうりょく行使こうしされず、「倒幕とうばく」が急進きゅうしんしても、中間なかまはクーデターでこれをおさえ、1868ねん王政おうせい復古ふっこクーデター軍事ぐんじりょく行使こうしされなかった[162]長州ちょうしゅう公武こうぶ合体がったい体制たいせい挑戦ちょうせんし、薩摩さつま支援しえんて、徳川とくがわぐん撃退げきたい成功せいこうした。王政おうせい復古ふっこクーデターで徳川とくがわによる政権せいけん独占どくせん否定ひていされた[162]。さらに徳川とくがわかた武力ぶりょく発動はつどうしたうえで敗北はいぼくしたため、しん政府せいふ徳川とくがわ排除はいじょし、さらに戊辰戦争ぼしんせんそうによって中央ちゅうおう政権せいけんとしての地位ちいかたまった。そのしん政府せいふ版籍はんせき奉還ほうかん中央ちゅうおう集権しゅうけん身分みぶん平準へいじゅん武士ぶし差別さべつ身分みぶん廃止はいし公職こうしょく就任しゅうにん権利けんり開放かいほう土地とち所有しょゆうけん承認しょうにん課税かぜい統一とういつ移動いどう自由じゆう職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆう婚姻こんいん自由じゆう刑罰けいばつ均一きんいつなどを実行じっこうしていった[162]。フランス革命かくめいくらべると、明治維新めいじいしん経過けいか緩慢かんまんで、理念りねんじょう議論ぎろんとぼしく、制度せいど設計せっけいしん政府せいふ成立せいりつはじまった。三谷みたにはいかにもたりばったりにえるが、これが維新いしん犠牲ぎせいしゃすくなくさせた基礎きそ条件じょうけんとみられる。理念りねんじょう闘争とうそう欠如けつじょし、幕末ばくまつやく10年間ねんかん政争せいそうにおいて国家こっか進路しんろへの合意ごうい形成けいせいされたために、武力ぶりょく発動はつどう最小限さいしょうげんまされた[162]。フランス革命かくめいでは、いきなりきゅう体制たいせい全面ぜんめん否定ひていし、しん秩序ちつじょ設計せっけい提示ていじした。1789ねん5がつさん部会ぶかい直後ちょくごの6がつ国民こくみん議会ぎかい結成けっせい、7がつバスティーユ襲撃しゅうげき、8がつ封建ほうけんせい廃止はいし人権じんけん宣言せんげん発布はっぷ貴族きぞくからの裁判さいばんけん剥奪はくだつ、11月に教会きょうかい財産ざいさん国有こくゆう、1790ねんには世襲せしゅう貴族きぞくせい廃止はいし聖職せいしょくしゃ市民しみん、1791ねんには同業どうぎょう組合くみあい禁止きんし,憲法けんぽう制定せいてい、1792ねんにはオーストリア宣戦せんせん布告ふこくフランス革命かくめい戦争せんそう)、1793ねん国王こくおう処刑しょけいと、日本にっぽん王政おうせい復古ふっこからはいはんまでの3年間ねんかんくらべてもはるかに急激きゅうげきで、社会しゃかい深部しんぶおよんだ。フランス革命かくめい中途ちゅうとから漂流ひょうりゅうはじめたのにたいし、日本にっぽんではしん秩序ちつじょがゆっくりと熟成じゅくせいしていった[162]
  • 民衆みんしゅう運動うんどう暴動ぼうどう日本にっぽんでは1866ねんたけしゅう一揆いっきや、ええじゃないか、1873ねん徴兵ちょうへいれい小学校しょうがっこう反対はんたい一揆いっき地租ちそ改正かいせい反対はんたい一揆いっきなどの民衆みんしゅう騒擾そうじょうがあるが、これらは個別こべつ争点そうてんをめぐるもので、どう時期じき進行しんこうしていた武士ぶし政治せいじ運動うんどう連動れんどうしていなかった[162]。フランスではバスティーユ襲撃しゅうげきなど民衆みんしゅう蜂起ほうき政治せいじ変動へんどう決定的けっていてきであった。この背景はいけいとして、フランスの田舎いなか貴族きぞく公共こうきょう事務じむから退しりぞきながら、徴税ちょうぜいけん裁判さいばんけん維持いじしていたため、これが庶民しょみんによる貴族きぞく特権とっけんへの怨恨えんこん基盤きばんとなり、民衆みんしゅう食料しょくりょう不安ふあん原因げんいん貴族きぞく陰謀いんぼうかえした[162]。これにたいして日本にっぽん武家ぶけ日常にちじょう行政ぎょうせいたずさわり、やくさむらい農村のうそん居住きょじゅうし、やく徴収ちょうしゅうすくなかった[162]暴動ぼうどう比較ひかくしても、日本にっぽんでは破壊はかい対象たいしょう建物たてもの証文しょうもんであったが、フランスではだい恐怖きょうふ恐怖きょうふ政治せいじなど「恐怖きょうふ支配しはい」がこり、民衆みんしゅう得体えたいれぬ「陰謀いんぼう」におびえ、犯人はんにんさがしをした[162]日本にっぽんでは1858ねん政変せいへんにおいて、井伊いい直弼なおすけ側近そっきんが、水戸みとはん徳川とくがわ斉昭なりあき息子むすこ将軍しょうぐんてる計画けいかくがあるという水戸みと陰謀いんぼうろんを、いちきょうへの弾圧だんあつ根拠こんきょとしたが、以後いご陰謀いんぼうろんはあまり登場とうじょうしなかった[162]
  • 国家こっか君主くんしゅ日本にっぽんでは政策せいさく決定けっていけん君主くんしゅ個人こじんでなく、重臣じゅうしん合議ごうぎたいであった。ちゅう下級かきゅう武士ぶしによる政策せいさく提案ていあん上級じょうきゅう武士ぶしによる合議ごうぎ君主くんしゅによる裁可さいかという段階だんかいおこなわれ、君主くんしゅ発議はつぎまれで、重臣じゅうしん会議かいぎ決定けっていをそのままれるのが通常つうじょうであった[162]。フランスでは、君主くんしゅは「国家こっかだいいち下僕げぼく」といわれたものの、国家こっか政策せいさく最終さいしゅう決定けっていしゃであり、みずからの意思いしによる決定けってい誇示こじされていた。(加藤かとう弘之ひろゆき立憲りっけんせいろんではフランス革命かくめい反面はんめん教師きょうしとされた。)そのため、フランス国王こくおう国外こくがい逃亡とうぼうとその失敗しっぱいは、王制おうせい致命傷ちめいしょうとなり、革命かくめい定着ていちゃくきゅう進化しんか分水嶺ぶんすいれいとなり、「国王こくおうはフランスの主権しゅけんしゃでも国民こくみんでもない」という烙印らくいんされることとなった[162]
  • 公論こうろん知的ちてき環境かんきょう日本にっぽんでは1858ねん以降いこう、「天下てんか公論こうろん」が政府せいふ批判ひはん論拠ろんきょとされたが、自由じゆう民権みんけん運動うんどう以前いぜんにはじられた空間くうかんおこなわれており、街頭がいとうでの演説えんぜつやデモンストレーション、パンフレット配布はいふなどはおこなわれなかった[162]。フランスでは、公開こうかい議論ぎろんされ、さん部会ぶかい召集しょうしゅう憲法けんぽう制定せいてい議論ぎろんによってめられた[162]明治維新めいじいしんでは天皇てんのうされることで徳川とくがわ権威けんいげられ、大名だいみょう統治とうちけん解体かいたいされた。これは、さん部会ぶかい国民こくみん議会ぎかい国王こくおう権威けんいうったえて貴族きぞく特権とっけん否定ひていしたことにている[162]。また、18世紀せいきフランスでは啓蒙けいもう思想しそうなどの知的ちてき環境かんきょう発展はってんした。これが革命かくめいにおいて慣習かんしゅうくつがえし、抽象ちゅうしょうてき原則げんそく体系たいけい置換ちかんしようとしたことにつながった。しかしこのような原則げんそくろんたがいに矛盾むじゅんし、論争ろんそう激烈げきれつとなり、予想よそうがい副作用ふくさようもあり、混乱こんらん不安定ふあんてい長期ちょうきした。日本にっぽんでは、「国防こくぼう」「おおやけ」「尊王そんのう」といったスローガンがおもで、制度せいどろんまれだった。幕末ばくまつではやくじゅうねんかけて、しん秩序ちつじょへの合意ごういじゅくしていったため、対立たいりつ最小さいしょうされた[162]

イタリア、ロシアとの比較ひかく

編集へんしゅう

最後さいご講座こうざ」とばれた中村なかむら政則まさのりは、1848ねん革命かくめいにおいてブルジョワジー民衆みんしゅう運動うんどうたいして保守ほしゅし、イギリスやフランスのブルジョワ革命かくめい終焉しゅうえんするとともに、後進こうしんこくにおいてはえいふつがたブルジョワ革命かくめい実現じつげんする条件じょうけんうしなわれたため、明治維新めいじいしんえいふつがた革命かくめい比較ひかくするよりも、近代きんだい世界せかいシステムろんでいう半周はんしゅうてき資本しほん主義しゅぎ国家こっかぐんぞくする日本にっぽんは、おな半周はんしゅう国家こっかぐんぞくするイタリアロシア比較ひかくしたほうがよいと中村なかむらはいう[30]19世紀せいきイタリアではリソルジメント(統一とういつ運動うんどうが、ロシアでは1861ねん農奴のうど解放かいほう以降いこう近代きんだい改革かいかく実施じっしされた。ロシア帝国ていこく歴史れきし#大改革だいかいかく革命かくめい胎動たいどう(1855ねん - 1881ねん参照さんしょう

ウォーラーステイン近代きんだい世界せかいシステムろんでは、つぎみっつに分類ぶんるいされる[30]

以下いかおも中村なかむら(1986)にもとづく[30]
ロシア 日本にっぽん
権力けんりょく 1861ねんのロシアの改革かいかくでは権力けんりょく移動いどうはなかった。 明治維新めいじいしんでは権力けんりょく移動いどうがあった。しん政府せいふ古代こだい以来いらい伝統でんとうてき権威けんい天皇てんのう頂点ちょうてんにした(王政おうせい復古ふっこ)ので、中村なかむらは「未完みかん政治せいじ革命かくめい」であったとする[30]
近代きんだい工業こうぎょう 1860年代ねんだいから70年代ねんだいにかけて工業こうぎょう金融きんゆう財政ざいせい改革かいかくをすすめ、ゼムストヴォ(地方ちほう自治じち機関きかん)の設立せつりつ司法しほう学制がくせい軍事ぐんじ改革かいかくなどの近代きんだいおこない、資本しほん主義しゅぎ確立かくりつした[30] 徳川とくがわ時代じだい身分みぶんせい廃止はいし四民しみん平等びょうどう)、司法しほう学制がくせい軍事ぐんじ改革かいかくなどしょ制度せいど近代きんだい工業こうぎょうによる資本しほん主義しゅぎ発展はってんした[30]
土地とち 1861ねんから1883ねんまでつづいたロシアの土地とち改革かいかく農奴のうど解放かいほう)では、解放かいほう貨幣かへい負担ふたんおおきく、耕地こうちわりがえ規制きせいのこっていた。巨大きょだい地主じぬしだい地主じぬしとで国土こくどの53%を所有しょゆうしており[164]土地とち所有しょゆう構成こうせいひょうはピラミッドがたであった[30] 廃藩置県はいはんちけん秩禄処分しょぶん、さらに地租ちそ改正かいせいによって封建ほうけんてき土地とち所有しょゆう廃止はいしした。土地とち所有しょゆう構成こうせいひょうぎゃくピラミッドがたで、しょう地主じぬしがもっともおお土地とち所有しょゆうしていた[30]地租ちそ改正かいせいでも寄生きせい地主じぬしせい維持いじされ、小作こさくじん所得しょとくひくかったが、戦後せんご1946ねんから農地のうち改革かいかく実施じっしされた[165]
財政ざいせい 人頭じんとうぜい地租ちそなどの直接ちょくせつぜい比重ひじゅうが10-20%、関税かんぜい収入しゅうにゅうが9-16%。保護ほご関税かんぜい政策せいさく実施じっしした[30]
(付記ふき:イギリスの税収ぜいしゅう消費しょうひぜい関税かんぜいで60%、地租ちそは5%)
税収ぜいしゅうの60-92%が地租ちそ依存いぞん関税かんぜい収入しゅうにゅうは4-6%。
日本にっぽんは1911ねん条約じょうやく改正かいせいまで関税かんぜい自主権じしゅけんがなかった。
外国がいこく資本しほんりつ フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどの外国がいこく資本しほんりつが1900ねんで83.7%をめた。 外国がいこく資本しほんりつは1900ねんでわずか9.5%。
日本にっぽんでは商人しょうにん資本しほん重要じゅうよう地位ちいめ、東京とうきょう-横浜よこはま鉄道てつどう経営けいえいけんポートマンからもどしたり、日本にっぽんあなほう外国がいこくじん鉱山こうざん所有しょゆうけん禁止きんしした[30]

イタリアでの改革かいかく主導しゅどうけんだい土地とち貴族きぞくだいブルジョワジーであったため、農業のうぎょう革命かくめい土地とち改革かいかく欠如けつじょしていた。また農工のうこう保護ほご関税かんぜいによって、北部ほくぶのブルジョワジーと南部なんぶだい土地とち所有しょゆう温存おんぞんされ、南北なんぼく格差かくさ構造こうぞう発生はっせいした[30]

ロシア、イタリア、日本にっぽん共通きょうつうてんとして、集権しゅうけんてきかつ権威けんい主義しゅぎてき国家こっか体制たいせいのもとで資本しほん主義しゅぎてき工業こうぎょう急速きゅうそく推進すいしんされ、先進せんしん地域ちいきおくれた地域ちいきという構造こうぞうのこしたこと、民衆みんしゅう政治せいじてき権利けんり抑圧よくあつされたことなどがある[30]

中村なかむらはイタリアのアルベルト憲法けんぽう、ロシア帝国ていこく憲法けんぽうとの比較ひかくまえ、明治めいじ日本にっぽん憲法けんぽうは、絶対ぜったい主義しゅぎてき性格せいかく立憲りっけん主義しゅぎてき性格せいかくあわつ「絶対ぜったい主義しゅぎてき立憲りっけんせい」と規定きていした[166]

ヨーロッパ地域ちいきにおける近代きんだいとの比較ひかく

編集へんしゅう

明治維新めいじいしんしょ改革かいかくは、あらたな制度せいどしょうじた矛盾むじゅんをいくらかはらみながらも、おおむね成功せいこうおさめ、短期間たんきかん立憲りっけん制度せいど達成たっせいし、富国強兵ふこくきょうへい推進すいしんされた。その評価ひょうかにちしん戦争せんそうにち戦争せんそうにおける勝利しょうりにより飛躍ひやくてきたかまり、しょ外国がいこくからも感嘆かんたん驚異きょういられるようになった。とくにアジア諸国しょこくでは明治維新めいじいしん模範もはんとして改革かいかく独立どくりつ運動うんどうおこなおうとするうごきがさかんになる。まごぶん日本にっぽん亡命ぼうめいには『明治維新めいじいしん中国ちゅうごく革命かくめい第一歩だいいっぽであり、中国ちゅうごく革命かくめい明治維新めいじいしんだいである』との言葉ことばいぬやしなえあつしおくっている[167]

ロシアをふくむアジアでの近代きんだい革命かくめいとしては、朝鮮ちょうせんにおけるみずのえうま事変じへんきのえさる政変せいへんきよしにおけるつちのえいぬへんほうオスマン帝国ていこくにおけるタンジマート失敗しっぱい長続ながつづきしなかったイランイラン立憲りっけん革命かくめいロシア帝国ていこくヴィッテ改革かいかくストルイピン改革かいかくなどが典型てんけいである(朝鮮ちょうせん改革かいかく運動うんどうについては金玉きんぎょくひとしなど、きよし改革かいかくについてはひかりいとぐちみかど遵憲なども参照さんしょう)。しかしいずれも確実かくじつ成功せいこうおさめたものとまではいえなかった。

一定いってい成功せいこうおさめたれいとしては、パラグアイカルロス・アントニオ・ロペス大統領だいとうりょうによる改革かいかくタイチャクリー改革かいかくトルコアタテュルク主義しゅぎエジプトエジプト革命かくめいメキシコベニート・フアレス改革かいかくげられる。

日本にっぽん明治維新めいじいしんによって列強れっきょうしたことにより、アジア諸国しょこくでは数少かずすくない植民しょくみんにならなかったくにとなった。明治維新めいじいしん欧米おうべい列強れっきょう抑圧よくあつされたアジア諸国しょこくにとって近代きんだい革命かくめい模範もはんともなった。やがて日本にっぽん自身じしん列強れっきょうがわ国家こっかとして、帝国ていこく主義しゅぎてき領土りょうど権益けんえき獲得かくとくおこな立場たちばとなったが、それが行使こうしされたのは台湾たいわん朝鮮ちょうせん中国ちゅうごく一部いちぶというかぎられたものにわり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土ほんどからとおはなれた植民しょくみん支配しはいくようなことはなかった。

一方いっぽう、ほとんどのアジア諸国しょこく挫折ざせつないし不可能ふかのうだった近代きんだい革命かくめいが、なぜ日本にっぽんにおいてのみ成功せいこうしたのかについても近年きんねん研究けんきゅうさかんとなっている。まごぶんスカルノマハティール・ビン・モハマド毛沢東もうたくとうをはじめ、そのアジアの指導しどうしゃはほぼ例外れいがいなく明治維新めいじいしんなんらかの関心かんしんっており、その歴史れきしてき価値かちについてのなおしがさかんとなっている。

エジプトとの比較ひかくろん

編集へんしゅう

中東ちゅうとう社会しゃかい学者がくしゃ山口やまぐち直彦なおひこは、エジプトでの比較ひかくろんじている。

エジプトの初代しょだい大統領だいとうりょうナセルは、『アラブ連合れんごう共和きょうわこく国民こくみん憲章けんしょう』のなかで「エジプトがそのねむりからめたとき近代きんだい日本にっぽん進歩しんぽかってあゆはじめた。日本にっぽん着実ちゃくじつあゆみをつづけることに成功せいこうしたのと対照たいしょうてきに、個人こじんてき冒険ぼうけんによってエジプトの覚醒かくせいさまたげられ、かなしむべき弊害へいがいともなった挫折ざせつがもたらされた」としるしている[168]

エジプトで失敗しっぱいした近代きんだい日本にっぽん成功せいこうした理由りゆうについて、明治めいじ日本にっぽん教育きょういく制度せいどととのっていたうえに、「有司ゆうし専制せんせい」などという批判ひはんもありつつも、議会ぎかい民権みんけん政党せいとう、マスコミなど政府せいふ批判ひはん勢力せいりょくつね存在そんざいして行政ぎょうせいのチェック機能きのうはたらいていたのにたいし、エジプトにはこれがなかったため、君主くんしゅ個人こじんてき私情しじょう私欲しよくすすみやすかったことがあるという。明治めいじ政府せいふ外債がいさい慎重しんちょう返済へんさい能力のうりょくえない現実げんじつてき範囲はんいめてきたが、エジプトは君主くんしゅ独走どくそう計算けいさんもなく法外ほうがい利息りそく外債がいさいたよつづけ、その結果けっか財政ざいせい破綻はたん植民しょくみんまねいたことが指摘してきされている[168]

一方いっぽうエジプト革命かくめいからはん世紀せいき以上いじょうまえオラービー革命かくめいこしたアフマド・オラービーは、近代きんだい改革かいかく日本にっぽん成功せいこうした理由りゆうについて、日本にっぽん地理ちりてき条件じょうけんさが背景はいけいにあると分析ぶんせきしていたという。具体ぐたいてきには幕末ばくまつから明治めいじ初期しょき日本にっぽん生糸きいとしか主要しゅよう産業さんぎょうがなく、イギリスやフランスにとっての日本にっぽん価値かちだい市場いちばであるきよし付属ふぞくひん、あるいは太平洋たいへいよう進出しんしゅつのための薪炭しんたんみず補給ほきゅうでしかなく、スエズ運河うんがゆうするエジプトにくらべて重要じゅうようひくかったことがあるという[169]

ひがしアジア・東南とうなんアジアの開発かいはつ独裁どくさい明治維新めいじいしんちが

編集へんしゅう

明治維新めいじいしん通説つうせつとして、天皇てんのういただいた排他はいたてき藩閥はんばつ政権せいけんが、立憲りっけん政治せいじ進展しんてんおくらせながら、経済けいざい軍事ぐんじ近代きんだい邁進まいしんしたとするような解釈かいしゃくがあるが、日本にっぽん政治せいじ研究けんきゅう坂野さかのじゅん産業さんぎょう政策せいさく研究けんきゅう大野おおの健一けんいちは、このような解釈かいしゃくは、事実じじつ相反あいはんしていると批判ひはんする[7]。このような通説つうせつでは、明治めいじ政府せいふは、台湾たいわん蔣介せき政権せいけん(1949-75)、タイサリットタノム政権せいけん(1958-73)、韓国かんこくぼく正煕せいき政権せいけん(1961-79)、シンガポールリー・クアンユー政権せいけん(1965-90)、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく鄧小ひらた政権せいけん(1976-97)、マレーシアマハティール政権せいけん(1981-)などの開発かいはつ独裁どくさいのイメージとかさねられた[7]開発かいはつ独裁どくさい特徴とくちょうは、1)内外ないがい危機ききへの対応たいおう、2)強力きょうりょく指導しどうしゃ、3)指導しどうしゃささえるエリート、4)政治せいじ改革かいかく後回あとまわしにした開発かいはつイデオロギーのさい優先ゆうせん、5)民主みんしゅてき手続てつづきではなく経済けいざい成果せいかもとづく正統せいとう、6)20-30ねんどういち体制たいせい継続けいぞくなどがあるが、これらのうち明治維新めいじいしんとの共通きょうつうこうは1)の内外ないがい危機ききへの対応たいおうくらいであると坂野さかの-大野おおの指摘してきする[7]

坂野さかの-大野おおのによれば、明治めいじ政権せいけんは、単純たんじゅん独裁どくさい体制たいせいなんじゅうねん存続そんぞくしたわけではなく、カリスマてき指導しどうしゃ上意下達じょういかたつ命令めいれいくだしたわけでもなく、経済けいざい近代きんだいさい優先ゆうせんしたわけでもなく、政権せいけん正統せいとうせい天皇てんのう権威けんいのみに依存いぞんしたわけでもなかった[7]明治維新めいじいしんは、「富国強兵ふこくきょうへい」と「おおやけ輿論よろん」の複数ふくすう目標もくひょうこまかくければ、「富国ふこく」と「強兵きょうへい」と「議会ぎかい」と「憲法けんぽう」のよん目標もくひょう並列へいれつてき競合きょうごうつうじて、それに指導しどうしゃあいだ合従連衡がっしょうれんこう、また指導しどうしゃらによる目標もくひょう優先ゆうせん順位じゅんい自由じゆう変更へんこうつうじて達成たっせいされた[7]明治めいじ変革期へんかくきにおいては、指導しどうしゃ固定こていてきではなく、優先ゆうせんされる路線ろせんすうねんごとにわり、勝利しょうりした集団しゅうだん敗退はいたいした集団しゅうだん永続えいぞくてきにその地位ちいにいたわけではなく、これは開発かいはつ独裁どくさいのような単一たんいつ目標もくひょう追及ついきゅう単純たんじゅん政治せいじ構造こうぞう単線たんせんてき進行しんこうとはことなる、きわめて複雑ふくざつ局面きょくめん展開てんかいをともなうやわら構造こうぞうモデルであったという[7]

関連かんれん作品さくひん

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歴史れきし小説しょうせつ

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ドキュメンタリー

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ フランス革命かくめいでも「再生さいせい」というシンボルが多用たようされた[34][35]
  2. ^ れい太政官だじょうかん大蔵省おおくらしょうなど。ただし、当然とうぜんのことながら実態じったい律令制りつりょうせいのそれとはかなりことなる。
  3. ^ 当年とうねん16さい天皇てんのう親政しんせい建前たてまえであった。
  4. ^ 政体せいたいしょ三権分立さんけんぶんりつなど民主みんしゅてき政治せいじ制度せいどられたのは、ホイットニーの『万国ばんこく公法こうほう』やブリジメンの『連邦れんぽうりゃく』などアメリカじん著書ちょしょ参考さんこうにされ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう影響えいきょうつよけているため。
  5. ^ 正確せいかくにはオスマン帝国ていこくタンジマート改革かいかくにおける1876ねんミドハト憲法けんぽう公布こうふがアジアはつ立憲りっけんせいではあるが、同国どうこく直後ちょくご君主くんしゅ専制せんせい回帰かいきしている。
  6. ^ 当時とうじ欧州おうしゅうフランスだい帝政ていせいプロイセン帝国ていこくとのあいだで、ひろしふつ戦争せんそう(1870ねん - 1871ねん)が勃発ぼっぱつする前年ぜんねんであった。
  7. ^ 鳥海とりうみやすし日本にっぽん近代きんだい講義こうぎ 明治めいじ立憲りっけんせい形成けいせいとその理念りねん』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1988ねん参照さんしょう
  8. ^ サイモン・シャーマ「フランス革命かくめい主役しゅやくたち」ちゅう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1994,9しょう参照さんしょう
  1. ^ 1874ねんには、明治めいじ通宝つうほうなど紙幣しへい証券しょうけん印刷いんさつ設備せつびきたドイツ連邦れんぽうから日本にっぽん移転いてんしていた。

出典しゅってん

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    *Hiroshi Mitani,Japan’s Meiji Revolution in Global History: Searching for Some Generalizations out of History,06 Feb 2020,Asian Review of World Histories.
    *Hiroshi Mitani,Chapter:Japan’s Meiji Revolution: an alternative model of revolution?, The Routledge Companion to the French Revolution in World History,2015.ISBN 9781315686011
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参考さんこう文献ぶんけん

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史料しりょう資料しりょう

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参考さんこう文献ぶんけん

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比較ひかく革命かくめい
  • 河野こうの健二けんじ明治維新めいじいしんと「西洋せいよう」」(1964)=桑原くわばら武夫たけお『ブルジョワ革命かくめい比較ひかく研究けんきゅう筑摩書房ちくましょぼう、1964ねん:『幕末ばくまつ維新いしん論集ろんしゅう1世界せかいなか明治維新めいじいしん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001,p60-67
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  • 桑原くわばら武夫たけお明治維新めいじいしん日本にっぽん近代きんだい永井ながい道雄みちお、M.ウルティア共編きょうへん明治維新めいじいしん国際連合大学こくさいれんごうだいがく東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、1986、『幕末ばくまつ維新いしん論集ろんしゅう1世界せかいなか明治維新めいじいしん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001,p266-276.
  • 遅塚ちづかただし「フランス革命かくめい明治維新めいじいしん田中たなかあきらへん近代きんだい日本にっぽん軌跡きせき(1)明治維新めいじいしん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん, 1994ねん)、田中たなかあきらへん幕末ばくまつ維新いしん論集ろんしゅう1世界せかいなか明治維新めいじいしん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001,p172-4.
  • フランク・ギブニー(Frank Gibney)「文化ぶんか革命かくめいとしての明治維新めいじいしん」(永井ながい道雄みちお、M.ウルティア共編きょうへん明治維新めいじいしん国際こくさい連合れんごう大学だいがく 1986).『幕末ばくまつ維新いしん論集ろんしゅう1世界せかいなか明治維新めいじいしん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001、p277-298.
  • 中村なかむら政則まさのりだい2かい駒沢大学こまざわだいがく史学しがく大会たいかい だい13かい大学院だいがくいん史学しがく大会たいかい記念きねん講演こうえん 明治維新めいじいしん日本にっぽん近代きんだい」『駒沢大学こまざわだいがく史学しがく論集ろんしゅうだい16かん駒澤大学こまざわだいがく大学院だいがくいん学会がっかい、1986ねん、309-336ぺーじ 
  • 山口やまぐち直彦なおひこ新版しんぱん エジプトきん現代げんだい ムハンマド・アリーあさ成立せいりつからムバーラク政権せいけん崩壊ほうかいまで』明石書店あかししょてん世界せかい歴史れきし叢書そうしょ〉、2011ねん(平成へいせい23ねん)。ISBN 978-4750334707 
  • 三谷みたにひろし日本にっぽんのなかの「普遍ふへん」 比較ひかくからかんがえる「明治維新めいじいしん」』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2020ねん1がつ
  • 三浦みうら信孝のぶたか,福井ふくい憲彦のりひこ編著へんちょ『フランス革命かくめい明治維新めいじいしん』2018,白水しろみずしゃ
  • やま﨑耕いち松浦まつうら義弘よしひろへん『フランス革命かくめい現在げんざい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2013

叢書そうしょ

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単行本たんこうぼん論文ろんぶん

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  1. ^ 淺井あさいりょうあきら明治めいじむ: 維新いしん史料しりょう編纂へんさん事務じむきょくによる維新いしん史料しりょう蒐集しゅうしゅう編纂へんさんきたまる : 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんほう. (50) 2018-03
  2. ^ 明治めいじひゃくねん叢書そうしょのご案内あんない
  3. ^ 有志ゆうししゃ出版しゅっぱん目録もくろく

外部がいぶリンク

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