名称 めいしょう :復古 ふっこ ・維新 いしん ・一新 いっしん ・革命 かくめい
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維新 いしん は詩経 しきょう 大雅 たいが ・文 ぶん 王 おう の「周 しゅう 雖旧邦 くに 、其命維新 いしん (周 しゅう は旧 きゅう 邦 くに といえども、その命 いのち は維(これ)新 しん (あらた)なり)」の成句 せいく から採 と られたが、発音 はつおん の類似 るいじ から御一新 ごいっしん ・御 ご 維ヰッ新 しん (ごいっしん)ともいわれた[2] [9] 。
周 しゅう 󠄀雖舊邦 くに 󠄁、其命維新 いしん
(周 しゅう 󠄀 は舊 きゅう 邦 くに 󠄁と雖 ( いえど ) も、其 ( そ ) の命 いのち ( めい ) は維 ( これ ) 新 しん ( あらた ) なり )
(周 しゅう は旧 ふる い国 くに であるが、その天命 てんめい は新 あたら しいものである)
— 詩経 しきょう 大雅 たいが ・文 ぶん 王 おう [2]
幕末 ばくまつ 変革期 へんかくき から明治 めいじ 初期 しょき における「復古 ふっこ 」「維新 いしん 」「一新 いっしん 」の用例 ようれい
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「維新 いしん 」の用例 ようれい は古代 こだい 以来 いらい 多数 たすう あるが、幕末 ばくまつ 変革期 へんかくき においては、水戸 みと 学 まなぶ の思想家 しそうか 藤田 ふじた 東湖 とうこ の日記 にっき 『庚 かのえ 寅 とら 日 び 録 ろく 』天保 てんぽう 元年 がんねん (1830年 ねん )4月 がつ 21日 にち 条 じょう に「中興 ちゅうこう 維新 いしん 」、4月 がつ 25日 にち 条 じょう に「去年 きょねん 以来 いらい 国事 こくじ 維新 いしん 百 ひゃく 度 ど 将 はた 復 ふく 」とある。また、嘉 よしみ 永 ひさし 3年 ねん (1850年 ねん )6月 がつ 19日 にち の藤田 ふじた 東湖 とうこ 宛 あて 横井 よこい 小楠 しょうなん 書簡 しょかん に「近 きん 年来 ねんらい 尊 みこと 藩 はん 御 ご 維新 いしん 之 の 御 ご 政事 せいじ 赫赫 かくかく と天下 てんか に響 ひびき 聞仕」とあり[10] 、幕府 ばくふ 側 がわ の公文書 こうぶんしょ でも、嘉 よしみ 永 なが 6年 ねん (1853年 ねん )10月 がつ 15日 にち ロシア宰相 さいしょう 宛 あて 老中 ろうじゅう 奉書 ほうしょ 「君主 くんしゅ 新 しん 嗣位、百 ひゃく 度 ど 維新 いしん 、如斯等 とう 重大 じゅうだい 事項 じこう 」とある[11] [12] 。
長州 ちょうしゅう 藩 はん の吉田 よしだ 稔 みのる 麿 まろ は穢 けがれ 多 おお ・非人 ひにん ・屠 ほふ 勇 いさみ などの被 ひ 差別 さべつ 部落 ぶらく 民 みん の兵士 へいし 取 と り立 た てを献策 けんさく し、元治 もとはる 元年 がんねん (1864年 ねん )に「一新 いっしん 組 ぐみ 」が、慶応 けいおう 2年 ねん (1866年 ねん )に「維新 いしん 団 だん 」が結成 けっせい された[13] [14] 。
慶応 けいおう 2年 ねん (1866年 ねん )(または慶応 けいおう 3年 ねん )、国学 こくがく 者 しゃ の玉 たま 松 まつ 操 みさお による岩倉 いわくら 具視 ともみ への返答 へんとう に「維新 いしん 」が出 で てくる。『岩倉 いわくら 公 こう 実記 じっき 』によれば、岩倉 いわくら 具視 ともみ に意見 いけん を求 もと められた玉 たま 松 まつ 操 みさお は次 つぎ のように回答 かいとう した。
王政 おうせい 復古 ふっこ は務 つと めて度量 どりょう を宏 ひろし くし規模 きぼ を大 だい にせんことを要 よう 󠄁す。故 ゆえ に官職 かんしょく 制度 せいど を建 けん 󠄁定 じょう せんには、當 とう に神 かみ 󠄀武 たけ 帝 みかど 󠄁の肇 はじめ 󠄁基 もと に原 はら づき、寰宇の統一 とういつ を圖 はか り、萬 まん 機 き の維新 いしん に從 したがえ ふを以 もっ て規準 きじゅん と爲 な すべし — 慶応 けいおう 2年 ねん (1866年 ねん )(または慶応 けいおう 3年 ねん )、玉 たま 松 まつ 操 みさお 発言 はつげん [2]
玉 たま 松 まつ においては、旧 きゅう 江戸 えど 幕府 ばくふ 政権 せいけん からの権力 けんりょく の移譲 いじょう は、「征夷大将軍 せいいたいしょうぐん 」という官位 かんい を「禁裡様 きんりさま 」(天皇 てんのう )へ返上 へんじょう するという形 かたち で行 おこな われたもので、これは易姓革命 えきせいかくめい でいう王朝 おうちょう 交代 こうたい ではなかったため、「革命 かくめい 」でなく「維新 いしん 」の表現 ひょうげん が選 えら ばれた[2] 。明治 めいじ 政府 せいふ もこれを踏襲 とうしゅう した[2] 。
慶応 けいおう 3年 ねん 12月9日 にち (1868年 ねん 1月 がつ 3日 にち )の王政 おうせい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい において「民 みん ハ王者 おうじゃ 之 の 大寶 たいほう 百事 ひゃくじ 御一新 ごいっしん 」と表記 ひょうき された[15] 。
尾 お 佐竹 さたけ 猛 たけし によれば、新 しん 政府 せいふ は王政 おうせい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい においては「王政 おうせい 復古 ふっこ 、国威 こくい 挽回 ばんかい 」を述 の べ、根本 こんぽん 的 てき 大 だい 改造 かいぞう という意味 いみ で「百事 ひゃくじ 御一新 ごいっしん 」と宣伝 せんでん したが、この「御一新 ごいっしん 」が「維新 いしん 」という語 かたり になり、初 はじ めは「王政 おうせい 維新 いしん 」と言 い っていた[16] 。「明治維新 めいじいしん 」の語 かたり が現 あらわ れたのは1890年 ねん に憲法 けんぽう が公布 こうふ される数 すう 年 ねん 前 まえ のことと見 み られ[17] 、「王政 おうせい 維新 いしん 」の語 かたり は戦後 せんご も使用 しよう されている。
革命 かくめい 初期 しょき の公文書 こうぶんしょ には政体 せいたい 復古 ふっこ ・天下 てんか 一新 いっしん ・朝政 ちょうせい 一新 いっしん という表記 ひょうき がなされた。『太政官 だじょうかん 日誌 にっし 』は慶応 けいおう 4年 ねん 2月 がつ 14日 にち (1868年 ねん 3月 がつ 7日 にち )から記録 きろく されているが、同日 どうじつ 東 ひがし 久世 くせ 通 どおり 禧 は各国 かっこく 公使 こうし に「政体 せいたい 復古 ふっこ 」を報告 ほうこく している[18] 。
二 に 月 がつ 十 じゅう 四 よん 日 にち 午 うま の半 はん 󠄁刻 こく より申 さる の刻 こく までに 大坂 おおさか 西本願寺 にしほんがんじ に於󠄁て
醍醐 だいご 大納 おおの 󠄁言 げん 殿 しんがり 東 ひがし 久世 くぜ 前 ぜん 少將 しょうしょう 殿 どの 宇和 うわ 嶋 しま 少將 しょうしょう 殿 どの 各國 かっこく 公 こう 󠄁使 つかい 󠄁と應接 おうせつ の始末 しまつ 左 ひだり の如 ごと し
但 ただし 外國 がいこく 事務 じむ 係 がかり 及󠄁び 諸 しょ 󠄀藩 はん 家老 がろう 列座 れつざ
東 ひがし 久世 くぜ 殿 どの 發話 はつわ 我 わが 日本 にっぽん 政體 せいたい 復古 ふっこ
帝 みかど 󠄁自 みずか ら政權 せいけん を握 にぎ し 外國 がいこく の交󠄁際 きわ も 一切 いっさい 朝廷 ちょうてい 󠄁にて曳請󠄁 裁判 さいばん 󠄁致可 … — 『太政官 だじょうかん 日誌 にっし 』第 だい 一 いち
慶應 けいおう 4年 ねん 2月 がつ 28日 にち の「幕府 ばくふ 御 ご 親 おや 征 せい の詔 みことのり 」では「天下 てんか 一新 いっしん 」とある[19] 。慶應 けいおう 4年 ねん 3月 がつ 14日 にち (1868年 ねん 4月 がつ 6日 にち )の億兆 おくちょう 安 やす 撫 なで 国威 こくい 宣揚 せんよう の御 ご 宸翰 しんかん では「朝政 ちょうせい 一新 いっしん 」とある。旧暦 きゅうれき 9月 がつ 8日 にち (10月 がつ 23日 にち )に改元 かいげん が行 おこな われ、明治 めいじ 元年 がんねん 12月 がつ 23日 にち (1869年 ねん 2月 がつ 4日 にち )の東 ひがし 久世 くぜ 中将 ちゅうじょう からイギリス公使 こうし ハリー・パークス に宛 あ てた公文書 こうぶんしょ 綴 つづり では「朝政 ちょうせい 一新 いっしん 」とある[20] 。
明治 めいじ 2年 ねん (1869年 ねん )正月 しょうがつ には、木戸 きど 孝允 たかよし が大村 おおむら 益次郎 えきじろう 宛 あて 書簡 しょかん で「大政 たいせい 一新 いっしん 」と書 か き、岩倉 いわくら 具視 ともみ は「大政 たいせい 維新 いしん 」と書 か いた[12] [21]
公文書 こうぶんしょ における「維新 いしん 」の用例 ようれい としては、明治 めいじ 3年 ねん 1月 がつ 3日 にち の宣布 せんぷ 大 だい 教 きょう の詔 みことのり に「今 いま や天運 てんうん 循環 じゅんかん し、百 ひゃく 度 ど 維新 いしん (これあらた)なり、宜 よろ しく治 ち 教 きょう を明 あき らかにし、以 もっ て惟神 かんながら (かむながら)の道 みち を宣揚 せんよう すべきなり」とある[22] 。
明治 めいじ 5年 ねん (1872年 ねん )9月 がつ 刊行 かんこう の沖 おき 志 こころざし 楼 ろう 主人 しゅじん 『維新 いしん 御 ご 布告 ふこく 往来 おうらい : 童蒙 どうもう 必読 ひつどく 』には「皇 すめらぎ 政 せい 復古 ふっこ 、綱紀 こうき 御 ご 維新 いしん (ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。
英語 えいご での翻訳 ほんやく :restoration と revolution
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英語 えいご 表記 ひょうき は Meiji restoration [23] が多 おお く、「明治 めいじ の(王政 おうせい )復古 ふっこ 」の意味 いみ になる。他 た に Meiji Ishin [24] 、Meiji restoration and revolution [3] 、Meiji Revolution (明治 めいじ 革命 かくめい )[25] [1] 、Meiji Renovation [26]
などが見 み られる。
維新 いしん は英語 えいご で王政 おうせい 復古 ふっこ を意味 いみ する Restoration と表記 ひょうき されることが多 おお いが、これは慶應 けいおう 3年 ねん 12月9日 にち (1868年 ねん 1月 がつ 3日 にち )に岩倉 いわくら 具視 ともみ らが上程 じょうてい した大 だい 令 れい (いわゆる王政 おうせい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい )の中 なか の王政 おうせい 復古 ふっこ の英語 えいご 訳 やく であるとされる[2] 。
先帝 せんてい (
孝明天皇 こうめいてんのう )
頻 しき 年 とし 被 ひ 惱
宸襟 しんきん (しんきん)
候 こう 御 ご 次第 しだい 、
衆 しゅう 庶之
知 し る
所 ところ に
候 こう 。
依 よ 之 これ 叡慮 えいりょ を
決 けっ せられ、
王政 おうせい 復古 ふっこ 、
国威 こくい 挽回 ばんかい ノ
御 ご 基 もと (もとい)
立 た てさせられ
候 こう 間 あいだ 、
自今 じこん 、
摂関 せっかん 幕府 ばくふ 等 とう 廢絕 はいぜつ し…
— 大 だい 令 れい (王政 おうせい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい )[2] [27] 、慶應 けいおう 3年 ねん 12月9日 にち (1868年 ねん 1月 がつ 3日 にち )
英国 えいこく 外交 がいこう 官 かん フランシス・O・アダムスの『日本 にっぽん 史 し 』(1874-75)ではこの大 だい 令 れい を「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity 」と説明 せつめい された[28] 。この場合 ばあい 、restoration は「王政 おうせい 復古 ふっこ 」ではなく、「国威 こくい 挽回 ばんかい 」の訳語 やくご として用 もち いられたが、日本 にっぽん 政治 せいじ 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ の苅部 かりべ 直 ただし は、日本 にっぽん の開国 かいこく 後 ご 出版 しゅっぱん された西欧 せいおう 人 じん による初 はじ めての日本 にっぽん 紹介 しょうかい であるアダムスの『日本 にっぽん 史 し 』から、慶応 けいおう 三 さん 年 ねん の改革 かいかく を restoration と呼 よ ぶ用法 ようほう が定着 ていちゃく していったのだろうと指摘 してき する[2] 。
他方 たほう 、ウィリアム・グリフィス の The Mikado's Empire (『ミカドの帝国 ていこく 』、1876年 ねん )では、将軍 しょうぐん 政権 せいけん の崩壊 ほうかい とミカド(天皇 てんのう )の最高 さいこう 権力 けんりょく への復帰 ふっき (restoration )が目撃 もくげき されたとし、最近 さいきん の日本 にっぽん では、対外 たいがい 政策 せいさく の転換 てんかん 、社会 しゃかい 改革 かいかく 、西洋 せいよう 文明 ぶんめい の受容 じゅよう の三重 みえ の政治 せいじ 革命 かくめい (a three-fold political revolution ) が進行 しんこう していたと認識 にんしき していた[2] [29] 。苅部 かりべ によれば、幕末 ばくまつ から明治 めいじ にかけての体制 たいせい 転換 てんかん は、徳川 とくがわ 公方 くぼう から京都 きょうと の天皇 てんのう への単 たん なる政権 せいけん 交代 こうたい というだけでなく、公儀 こうぎ または幕府 ばくふ が大名 だいみょう と朝廷 ちょうてい を統制 とうせい するそれまでの国家 こっか 全体 ぜんたい の体制 たいせい を改 あらた めることであり、様々 さまざま な制度 せいど 改革 かいかく を通 つう じて、身分 みぶん に基 もと づく支配 しはい などが廃止 はいし され、西洋 せいよう 文明 ぶんめい への受容 じゅよう へと大 おお きく舵 かじ が切 き られたような、社会 しゃかい の急激 きゅうげき な変化 へんか であり、また、当時 とうじ の日本 にっぽん 国内 こくない ではこのような世 よ の中 なか を根本 こんぽん から立 た て直 なお そうとする動 うご きは「御一新 ごいっしん 」として歓迎 かんげい されたことなどからも、このような体制 たいせい 転換 てんかん にふさわしい英語 えいご は revolution であり、これは同 どう 時代 じだい の日本人 にっぽんじん が抱 だ いた実感 じっかん でもあったという[2] 。また、明治 めいじ 政府 せいふ が「維新 いしん 」でなく「革命 かくめい 」と表現 ひょうげん していたら、「明治 めいじ 革命 かくめい 」と言 い った名称 めいしょう も定着 ていちゃく していた可能 かのう 性 せい もあったという[2] 。
なお、徳富 とくとみ 蘇峰 そほう や竹越 たけこし 與三郎 よさぶろう [2] や、北 きた 一輝 いっき らは[6] 、「維新 いしん 革命 かくめい 」という呼称 こしょう を用 もち いた。
中村 なかむら 政則 まさのり は、明治維新 めいじいしん は復古 ふっこ (Restoration)、改革 かいかく (Reform)、革命 かくめい の三 みっ つの側面 そくめん を持 も ち、どの側面 そくめん を強調 きょうちょう するかで評価 ひょうか が異 こと なってくると1986年 ねん に指摘 してき した[30] 。
21世紀 せいき に入 はい ると「明治 めいじ 革命 かくめい 」を使用 しよう する研究 けんきゅう 者 しゃ が多 おお くなり、日本 にっぽん 政治 せいじ 史 し 研究 けんきゅう の坂野 さかの 潤 じゅん 治 ち や[7] 日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し 研究 けんきゅう の三谷 みたに 博 ひろし [1] 、日本 にっぽん 政治 せいじ 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう の渡辺 わたなべ 浩 ひろし [8] 、歴史 れきし 学者 がくしゃ マリウス・バーサス・ジャンセン [31] やアンドルー・ゴードン [32] [33] らは「明治 めいじ 革命 かくめい ・Meiji Revolution 」という呼称 こしょう を用 もち いる。
なお、三谷 みたに 博 ひろし は、Restorationを訳語 やくご に使 つか うと、天皇 てんのう の国家 こっか の頂点 ちょうてん への復帰 ふっき だけに注意 ちゅうい を集 あつ め、維新 いしん が世襲 せしゅう 身分 みぶん 制 せい のほとんどを廃棄 はいき した大 だい 規模 きぼ な革命 かくめい であった事実 じじつ をおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解 ごかい もあるのなら、regeneration(再生 さいせい 、改革 かいかく 、刷新 さっしん などの意味 いみ )という訳語 やくご を提案 ていあん した[34] [* 1] 。
幕末 ばくまつ の情勢 じょうせい と江戸 えど 幕府 ばくふ の崩壊 ほうかい
編集 へんしゅう
幟 のぼり 仁 じん 親王 しんのう が揮毫 きごう した御 ご 誓文 せいもん の原本 げんぽん
「大政奉還 たいせいほうかん 図 ず 」 邨田丹 に 陵 りょう 筆 ふで
江戸 えど 幕府 ばくふ による大政奉還 たいせいほうかん を受 う け、王政 おうせい 復古 ふっこ によって発足 ほっそく した明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ の方針 ほうしん は、天皇 てんのう 親政 しんせい (旧来 きゅうらい の幕府 ばくふ ・摂関 せっかん などの廃止 はいし )を基本 きほん とし、諸 しょ 外国 がいこく (主 おも に欧米 おうべい 列強 れっきょう 国 こく を指 さ す)に追 お いつくための改革 かいかく を模索 もさく することであった。その方針 ほうしん は、翌 よく 慶応 けいおう 4年 ねん (1868年 ねん )3月 がつ 14日 にち に公布 こうふ された五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん で具体 ぐたい 的 てき に明文化 めいぶんか されることになる。合議 ごうぎ 体制 たいせい 、官民 かんみん 一体 いったい での国家 こっか 形成 けいせい 、旧習 きゅうしゅう の打破 だは 、世界 せかい 列国 れっこく と伍 ご する実力 じつりょく の涵養 かんよう などである。なお、この『五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん 』の起草 きそう 者 しゃ ・監修 かんしゅう 者 しゃ は「旧来 きゅうらい ノ陋習ヲ破 やぶ リ天地 てんち ノ公道 こうどう ニ基 もと クヘシ 」を全 まった く新 あら たに入 い れた総裁 そうさい 局 きょく 顧問 こもん ・木戸 きど 孝允 たかよし (長州 ちょうしゅう 藩 はん )であるが、その前 ぜん 段階 だんかい の『会 かい 盟 めい 』五 ご 箇条 かじょう の起草 きそう 者 しゃ は参与 さんよ ・福岡 ふくおか 孝弟 こうてい (土佐 とさ 藩 はん )であり、更 さら にその前 ぜん 段階 だんかい の『議事 ぎじ 之 の 体 からだ 大意 たいい 』五 ご 箇条 かじょう の起草 きそう 者 しゃ は参与 さんよ ・由利 ゆり 公正 きみまさ (越前 えちぜん 藩 はん )である。
その当時 とうじ はまだ戊辰戦争 ぼしんせんそう のさなかであり、新 しん 政府 せいふ は日本 にっぽん 統一 とういつ 後 ご の国是 こくぜ を内外 ないがい に呈示 ていじ する必要 ひつよう があった。そのため、御 ご 誓文 せいもん が、諸 しょ 大名 だいみょう や、諸 しょ 外国 がいこく を意識 いしき して明治天皇 めいじてんのう が百官 ひゃっかん を率 ひき いて、皇祖 こうそ 神 しん に誓 ちか いを立 た てるという形式 けいしき で出 だ されたのである。さらに国民 こくみん に対 たい しては、同日 どうじつ に天皇 てんのう の御名 ぎょめい で「億兆 おくちょう 安 やす 撫 なで 国威 こくい 宣揚 せんよう の御 ご 宸翰 しんかん 」が告示 こくじ され、天皇 てんのう 自身 じしん が今後 こんご 善政 ぜんせい をしき、大 おお いに国威 こくい を輝 かがや かすので、国民 こくみん も旧来 きゅうらい の陋習から脱却 だっきゃく するように説 と かれている。
これらの内容 ないよう は、新 しん 政府 せいふ の内政 ないせい や外交 がいこう に反映 はんえい されて具体 ぐたい 化 か されていくとともに、思想 しそう 的 てき には自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の理想 りそう とされていく。
また、この目的 もくてき を達 たっ するための具体 ぐたい 的 てき なスローガンとして「富国強兵 ふこくきょうへい 」「殖産 しょくさん 興業 こうぎょう 」が頻用 ひんよう された。
五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん を公布 こうふ した翌日 よくじつ 、幕府 ばくふ の高札 こうさつ が撤去 てっきょ され、辻 つじ 々には暫定 ざんてい 的 てき に江戸 えど 幕府 ばくふ の統治 とうち 政策 せいさく を踏襲 とうしゅう する「五 ご 榜の掲示 けいじ 」が立 た てられた。儒教 じゅきょう 道徳 どうとく の遵守 じゅんしゅ 、徒党 ととう や強訴 ごうそ の禁止 きんし 、キリスト教 きりすときょう の禁止 きんし 、国外 こくがい 逃亡 とうぼう の禁止 きんし などを引 ひ き継 つ いだ内容 ないよう が掲示 けいじ された。これら条項 じょうこう は、その後 ご の政策 せいさく の中 なか で撤廃 てっぱい されたり、自然 しぜん 消滅 しょうめつ して効力 こうりょく を失 うしな うに至 いた る。
維新 いしん 史 し で最初 さいしょ 期 き のものは、越前 えちぜん 松平 まつへい 家 か によるものとされる[64] 。福井 ふくい 藩 はん の中根 なかね 雪江 ゆきえ は、1859年 ねん 、幕府 ばくふ によって処罰 しょばつ された主君 しゅくん の冤を雪 そそ ぐため、黒船 くろふね 以降 いこう の越前 えちぜん 家 か の幕末 ばくまつ 史 し を書 か き始 はじ め、さらに越前 えちぜん 家 か は1890-1892年 ねん に続編 ぞくへん を編集 へんしゅう した(『昨 さく 夢 ゆめ 紀 き 事 ごと 』『再 さい 夢 ゆめ 紀 き 事 ごと 丁 ちょう 卯 しげる 日記 にっき 』)。越前 えちぜん 松平 まつへい 家 か は公 おおやけ 議 ぎ 派 は であり、明治 めいじ 政府 せいふ が正統 せいとう 視 し した王政 おうせい 復古 ふっこ 史観 しかん とは異 こと なる史料 しりょう として重視 じゅうし される[64] 。
徳川 とくがわ 幕府 ばくふ 外国 がいこく 方 かた も1859年 ねん (安政 あんせい 6年 ねん )と1860年 ねん (万延 まんえん 元年 がんねん )の外交 がいこう 記録 きろく 『通信 つうしん 全 ぜん 覧 らん 』(320巻 かん )があり、明治 めいじ 政府 せいふ の外務省 がいむしょう が引 ひ き継 つ ぎ『続 ぞく 通信 つうしん 全 ぜん 覧 らん 』(1784巻 かん )を編纂 へんさん した[64] 。
明治 めいじ 政府 せいふ は戊辰戦争 ぼしんせんそう 史 し 『復古 ふっこ 記 き 』(1872-1889年 ねん )を編纂 へんさん したが、功名 こうみょう 争 あらそ いを避 さ けたためか、強 つよ い積極 せっきょく 的 てき な解釈 かいしゃく は持 も ち込 こ まれなかった[64] 。
1888年 ねん 、薩摩 さつま ・長州 ちょうしゅう ・土佐 とさ [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] ・水戸 みと の4大名 だいみょう 家 か が「国事 こくじ 詇掌録 ろく 」編纂 へんさん 開始 かいし 、翌年 よくねん 、公家 くげ の三条 さんじょう ・岩倉 いわくら ・中山 なかやま 3家 いえ と「史談 しだん 会 かい 」が結成 けっせい され、旧 きゅう 将軍家 しょうぐんけ ・会津 あいづ 家 か ・桑名 くわな 家 か 、尾張 おわり 徳川 とくがわ 家 か ・浅野 あさの 家 か 、琉球 りゅうきゅう 尚 なお 家 いえ を含 ふく む255家 いえ に史料 しりょう の提出 ていしゅつ を命 めい じた[64] 。近世 きんせい の政体 せいたい が二 に 百 ひゃく 数 すう 十 じゅう の大名 だいみょう 家 か の連合体 れんごうたい であり、明治 めいじ の改革 かいかく も大名 だいみょう 家 か の協力 きょうりょく なしには不可能 ふかのう であったことなどから、大名 だいみょう 家 か と公家 くげ による維新 いしん 史 し は薩長 さっちょう 中心 ちゅうしん でなく、史料 しりょう の収集 しゅうしゅう と羅列 られつ に落 お ち着 つ いた[64] 。史談 しだん 会 かい の事業 じぎょう は文部省 もんぶしょう に引 ひ き継 つ がれ、1911年 ねん 維新 いしん 史料 しりょう 編纂 へんさん 会 かい が設置 せっち され、1931年 ねん に『大 だい 日本 にっぽん 維新 いしん 史料 しりょう 稿本 こうほん 』が一応 いちおう 完成 かんせい し、維新 いしん 政治 せいじ 史 し の到達 とうたつ 点 てん として維新 いしん 史料 しりょう 編纂 へんさん 事務 じむ 局 きょく 『維新 いしん 史 し 』全 ぜん 6巻 かん (本編 ほんぺん 5、付録 ふろく 1、1939―1941年 ねん )が編纂 へんさん された[64] 。
ほか、宮内庁 くないちょう 図書 としょ 寮 りょう 編 へん 『三条 さんじょう 実美 みみ 公 おおやけ 年譜 ねんぷ 』(1901)、多田 ただ 好 こう 問 とい 編 へん 『岩倉 いわくら 公 こう 実記 じっき 』(1903)、勝田 かつた 孫 まご 也『大久保 おおくぼ 利通 としみち 伝 でん 』(1910)、妻木 つまき 忠太 ちゅうた 『松 まつ 菊 きく 木戸 きど 公 こう 伝 でん 』(1922)、会津 あいづ 松平 まつへい 家 か に関 かか わる北原 きたはら 雅 みやび 長 ちょう 『七 なな 年 ねん 史 し 』(1904)、山川 やまかわ 浩 ひろし 『京都 きょうと 守護 しゅご 職 しょく 始末 しまつ 』(1911)、中村 なかむら 勝 まさる 麻呂 まろ 『井伊 いい 大老 たいろう と開港 かいこう 』(1909)、渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち 『徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ 公 おおやけ 伝 でん 』(全 ぜん 8巻 かん 、大正 たいしょう 7年 ねん (1918年 ねん ))、末松 すえまつ 謙澄 けんちょう 『防 ぼう 長 ちょう 回天 かいてん 史 し 』全 ぜん 12巻 かん (修訂 しゅうてい 版 ばん 、1921年 ねん )が編纂 へんさん 刊行 かんこう された[64] 。
維新 いしん 政府 せいふ はみずからの正当 せいとう 性 せい として「王政 おうせい 復古 ふっこ 」論 ろん を主張 しゅちょう し、『大政 たいせい 紀要 きよう 』(宮 みや 内省 ないせい 系 けい )や『復古 ふっこ 記 き 』(太政官 だじょうかん 系 けい )という形 かたち で公表 こうひょう した[13] 。
これに対 たい して、戊辰戦争 ぼしんせんそう のさなかの1868年 ねん 8月 がつ に出 だ された小 しょう 洲 しゅう 処士 しょし の《復古 ふっこ 論 ろん 》は、維新 いしん の変革 へんかく は草莽 そうもう (民間 みんかん )から起 おこ ったとする「草莽 そうもう 復古 ふっこ 」を論 ろん じた[65] 。
明 あかり 六 ろく 社 しゃ の明治 めいじ 啓蒙 けいもう 思想家 しそうか は維新 いしん の開明 かいめい 性 せい ・進歩 しんぽ 性 せい を強調 きょうちょう した[13] 。
福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち は『文明 ぶんめい 論 ろん 之 の 概略 がいりゃく 』(明治 めいじ 8年 ねん 、1875年 ねん )において、幕末 ばくまつ から明治 めいじ の改革 かいかく を「王政 おうせい 一新 いっしん 」と呼 よ び、尊王 そんのう や攘夷 じょうい が幕 まく 藩 はん 体制 たいせい を倒 たお したという俗論 ぞくろん を批判 ひはん し、江戸 えど 幕府 ばくふ 下 か における「門閥 もんばつ 」を基盤 きばん とした「専制 せんせい の暴政 ぼうせい 」に対 たい する人々 ひとびと の不満 ふまん が内実 ないじつ にあったからこそ、単 たん に政権 せいけん が交替 こうたい するだけではなく、武士 ぶし 身分 みぶん の解体 かいたい としての廃藩置県 はいはんちけん まで到達 とうたつ したとして、人々 ひとびと の智徳 ちとく (知識 ちしき と道徳 どうとく )の進歩 しんぽ によって歴史 れきし が動 うご いたと評 ひょう し。
旧 きゅう 幕臣 ばくしん 出身 しゅっしん の在野 ざいや 史家 しか 田口 たぐち 卯吉 うきち は22歳 さい で『日本 にっぽん 開化 かいか 小史 しょうし 』(明治 めいじ 10-15)を自費 じひ 出版 しゅっぱん し、勤王 きんのう 史観 しかん から離 はな れて維新 いしん を評価 ひょうか した[67] 。
イタリアでジュゼッペ・ガリバルディ 軍 ぐん のスラヴ義勇軍 ぎゆうぐん 副官 ふっかん として転戦 てんせん したり、バクーニン の支援 しえん 者 しゃ でもあったロシア人 じん 革命 かくめい 家 か レフ・メーチニコフ は、パリ・コミューン 敗北 はいぼく 後 ご のパリで日本 にっぽん に革命 かくめい が起 お こったという報 ほう に接 せっ し、在 ざい 仏 ほとけ していた大山 おおやま 巌 いわお の紹介 しょうかい で1874年 ねん に日本 にっぽん に赴任 ふにん したあと1881年 ねん (明治 めいじ 14)に執筆 しっぴつ した著書 ちょしょ で明治維新 めいじいしん を「歴史 れきし 上 じょう 我々 われわれ が知 し りうる最 もっと も完全 かんぜん かつラジカルな革命 かくめい 」と評価 ひょうか した[68] [69] 。しかし、列強 れっきょう の偽善 ぎぜん 的 てき 政策 せいさく と国内 こくない の支配 しはい 者 しゃ 集団 しゅうだん の権勢 けんせい 欲 よく のために道 みち は険 けわ しいと警鐘 けいしょう を鳴 な らした[69] 。
藤田 ふじた 茂吉 しげよし 『文明 ぶんめい 東漸 とうぜん 史 し 』(1884年 ねん )は、蛮社の獄 ごく を詳述 しょうじゅつ し、1887年 ねん には島田 しまだ 三郎 さぶろう の井伊 いい 直弼 なおすけ 伝 でん 『開国 かいこく 始末 しまつ 』が刊行 かんこう された[64] 。
小中村 こなかむら 義象 よしたか は『大政 たいせい 三 さん 遷史 』明治 めいじ 21年 ねん (1888年 ねん )で、大化 たいか 改新 かいしん 、建 たて 武 たけし の新政 しんせい 、明治維新 めいじいしん を大政 たいせい 三 さん 遷とする[70] 。
勝 かつ 海舟 かいしゅう の『海軍 かいぐん 歴史 れきし 』『陸軍 りくぐん 歴史 れきし 』(1889)を、野口 のぐち 勝一 かついち が『維新 いしん 史料 しりょう 』(1887―1896)を刊行 かんこう 。明治 めいじ 20年代 ねんだい 初頭 しょとう に維新 いしん 史 し ブームが生 う まれた[64] 。
徳富 とくとみ 蘇峰 そほう の民 みん 友 とも 社 しゃ では、竹越 たけこし 与三郎 よさぶろう が『新 しん 日本 にっぽん 史 し 』(明治 めいじ 24年 ねん -明治 めいじ 25年 ねん [71] )を刊行 かんこう し、明治維新 めいじいしん の原因 げんいん を勤王 きんのう 論 ろん による政治 せいじ 運動 うんどう と説 と く歴史 れきし 観 かん や、外国 がいこく の圧力 あつりょく を維新 いしん の原因 げんいん とみる歴史 れきし 観 かん を批判 ひはん し、徳川 とくがわ 時代 じだい に芽生 めば えていた社会 しゃかい 全体 ぜんたい の潮流 ちょうりゅう 、社会 しゃかい 的 てき 革命 かくめい があったからこそ、「代 だい 朝 あさ 革命 かくめい 」が起 お こったと論 ろん じた[72] 。竹越 たけこし は、明治維新 めいじいしん を、イギリスのような「復古 ふっこ 的 てき 革命 かくめい 」、フランスやアメリカのような「理想 りそう 的 てき 革命 かくめい 」とも異 こと なる「乱世 らんせい 的 てき 革命 かくめい (アナルキカル・レボリューション)」と位置 いち づけながら、新 しん 政府 せいふ について「維新 いしん の大 だい 目的 もくてき を失 しつ 忘 ぼう して、邪 よこしま 径 みち に走 はし らんとす」と批判 ひはん した[72] [73] 。
徳富 とくとみ 蘇峰 そほう も自 みずか ら『吉田 よしだ 松陰 しょういん 』(1893年 ねん )を、さらに『近世 きんせい 日本 にっぽん 国民 こくみん 史 し 』で明治維新 めいじいしん を論 ろん じた[64] 。蘇峰 そほう は、旧幕 きゅうばく の外国 がいこく 方 かた で働 はたら いた福地 ふくち 源一郎 げんいちろう に『幕府 ばくふ 衰亡 すいぼう 論 ろん 』(1892) 『幕末 ばくまつ 政治 せいじ 家 か 』(1898)を依頼 いらい した[64] 。
日本 にっぽん を社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の国 くに とすることを夢見 ゆめみ ていた若 わか い頃 ころ の北 きた 一輝 いっき は、明治 めいじ 39年 ねん (1906年 ねん )の『国体 こくたい 論 ろん 及 およ び純正 じゅんせい 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 』で、ヨーロッパの革命 かくめい が新 しん 社会 しゃかい の理想 りそう を描 えが いた計画 けいかく 的 てき 革命 かくめい であったのに対 たい して、「維新 いしん 革命 かくめい の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」は「無計画 むけいかく の暴発 ぼうはつ 」であり、「維新 いしん 革命 かくめい は戊 つちのえ 辰 たつ 戦役 せんえき において貴族 きぞく 主義 しゅぎ に対 たい する破壊 はかい を為 な したるのみ」と批判 ひはん し[74] 、つまり、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の23年間 ねんかん の運動 うんどう が維新 いしん 後 ご に民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の建設 けんせつ を行 おこな ったのは自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう であると論 ろん じた[6] 。また、北 きた は竹越 たけこし 與三郎 よさぶろう から影響 えいきょう を受 う けており、特 とく に竹越 たけこし の『二 に 千 せん 五 ご 百 ひゃく 年 ねん 史 し 』(1896)における大化 たいか の改新 かいしん を範 はん 型 がた とした維新 いしん 観 かん に深 ふか い影響 えいきょう を受 う けた[75] 。竹越 たけこし は、大化 たいか の改新 かいしん を「空前絶後 くうぜんぜつご の国体 こくたい 変革 へんかく 」として、それ以前 いぜん の社会 しゃかい は天皇 てんのう の一族 いちぞく が、中 ちゅう 臣 しん 氏 し 、忌 き 部 ぶ 氏 し 、物部 ものべ 氏 し 、大伴 おおとも 氏 し 、蘇我 そが 氏 し などの諸 しょ 族 ぞく を統治 とうち する族長 ぞくちょう であり、直接 ちょくせつ 民 みん を統治 とうち していたわけではなく、「国家 こっか 」や「国民 こくみん 」はなく、「天皇 てんのう は国家 こっか の君主 くんしゅ にあらずして、諸 しょ 族 ぞく の長 ちょう たるに過 す ぎず」という状態 じょうたい であった[76] 。大化 たいか の改新 かいしん によって、貴族 きぞく 豪族 ごうぞく の私 わたし 民 みん 私 わたし 領 りょう が廃 はい され、奴隷 どれい 、公民 こうみん 、土地 とち すべてが国家 こっか に属 ぞく すると定 さだ められ、族長 ぞくちょう の集 しゅう 議 ぎ 所 しょ は政府 せいふ となり、族長 ぞくちょう 政体 せいたい を官制 かんせい 組織 そしき となり、天皇 てんのう は人民 じんみん を統治 とうち する君主 くんしゅ となったとし、「神武 じんむ 以来 いらい 一 いち 千 せん 三 さん 百 ひゃく 年 ねん 、日本 にっぽん の国民 こくみん 初 はじ めて成 な り、王制 おうせい 初 はじ めて生 しょう じ、国家 こっか 初 はじ めて現出 げんしゅつ したるなり」と論 ろん じた[75] [76] 。北 きた は、「維新 いしん 革命 かくめい は大化 たいか の王制 おうせい に復古 ふっこ したるものにあらず。大化 たいか の革命 かくめい に於 おい て理想 りそう たりし儒教 じゅきょう の公民 こうみん 国家 こっか が一 いち 千 せん 三 さん 百 ひゃく 年 ねん の長 なが き進化 しんか の後 のち に於 おい て漸 ようや くに実現 じつげん せられたるものなり」と評 ひょう した[75] 。しかし、天智天皇 てんぢてんのう の死 し とともに公民 こうみん 国家 こっか の理想 りそう は去 さ り、家長 かちょう 国 こく となったと批判 ひはん した[75] 。北 きた は君主 くんしゅ 主権 しゅけん でなく、国家 こっか 主権 しゅけん の国家 こっか を理想 りそう とした[75] 。北 きた はその後 ご 、中国 ちゅうごく の辛 からし 亥 い 革命 かくめい に身 み を投 とう じ、『日本 にっぽん 改造 かいぞう 法案 ほうあん 大綱 たいこう 』(大正 たいしょう 12年 ねん (1923))を書 か いて昭和 しょうわ 維新 いしん に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
ジャーナリスト の石橋 いしばし 湛山 たんざん は、明治 めいじ 時代 じだい を帝国 ていこく 主義 しゅぎ 的 てき 発展 はってん の時代 じだい と見 み られがちだが、日 にち 清 しん 日 にち 露 ろ 等 とう の戦争 せんそう はやむを得 え ず行 い ったもので、明治 めいじ の最大 さいだい の事業 じぎょう は戦争 せんそう でも植民 しょくみん 地 ち の発展 はってん でもなく、政治 せいじ 、法律 ほうりつ 、社会 しゃかい の制度 せいど と思想 しそう においてデモクラチック(民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき ) の改革 かいかく を行 おこ なったことにあると論 ろん じた[67] [77] 。
維新 いしん の政治 せいじ 史 し は、藤井 ふじい 甚太郎 じんたろう 、井 い 野辺 のべ 茂雄 しげお らによって実証 じっしょう 研究 けんきゅう が進展 しんてん し、維新 いしん 史料 しりょう 編纂 へんさん 会 かい の『維新 いしん 史 し 』 (5巻 かん )などで集大成 しゅうたいせい が図 はか られたほか、維新 いしん の社会 しゃかい 経済 けいざい 史 し は1920年代 ねんだい より、幸田 こうだ 成友 しげとも 、本庄 ほんじょう 栄治郎 えいじろう 、土屋 つちや 喬 たかし 雄 ゆう らが実証 じっしょう 研究 けんきゅう をなした[83] 。
昭和 しょうわ 初期 しょき の代表 だいひょう 的 てき な維新 いしん 論 ろん として、マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 もの によるものがある。野呂 のろ 栄太郎 えいたろう は「日本 にっぽん 資本 しほん 主義 しゅぎ 発達 はったつ 史 し 」(1927年 ねん )で明治維新 めいじいしん を「ブルジョワ革命 かくめい としての明治 めいじ 革命 かくめい 」とし、「資本 しほん 家 か と資本 しほん 家 か 的 てき 地主 じぬし とを支配 しはい 者 しゃ たる地位 ちい に即 そく かしむるための強力 きょうりょく 的 てき 社会 しゃかい 変革 へんかく 」と規定 きてい したが、コミンテルン の「日本 にっぽん 問題 もんだい に関 かん する決議 けつぎ 」により野呂 のろ はこの説 せつ を放棄 ほうき した[72] 。しかし、その後 ご 山田 やまだ 盛 もり 太郎 たろう 、野呂 のろ 栄太郎 えいたろう 、服部 はっとり 之総 しそう 、羽仁 はに 五郎 ごろう らは『日本 にっぽん 資本 しほん 主義 しゅぎ 発達 はったつ 史 し 講座 こうざ 』(1932-1933年 ねん 、岩波書店 いわなみしょてん )をまとめた。これに対 たい して、労農 ろうのう 派 は が批判 ひはん し、同 どう 講座 こうざ の執筆 しっぴつ 陣 じん が講座 こうざ 派 は とされて、日本 にっぽん 資本 しほん 主義 しゅぎ 論争 ろんそう (1933年 ねん -1937年 ねん )が起 お こった[84] 。
日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう の活動 かつどう 方針 ほうしん を巡 めぐ って講座 こうざ 派 は と労農 ろうのう 派 は はそれぞれ二 に 段階 だんかい 革命 かくめい 論 ろん 、一 いち 段階 だんかい 革命 かくめい 論 ろん を唱 とな えた。労農 ろうのう 派 は は明治維新 めいじいしん により日本 にっぽん は資本 しほん 主義 しゅぎ 段階 だんかい に突入 とつにゅう したと考 かんが え、マルクス主義 まるくすしゅぎ の唯物 ゆいぶつ 史観 しかん の公式 こうしき 通 どお りただちに社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい を目指 めざ すべきだと主張 しゅちょう したのに対 たい して、講座 こうざ 派 は は明治維新 めいじいしん は不完全 ふかんぜん な民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 革命 かくめい であり、日本 にっぽん は未 いま だ半 はん 封建 ほうけん 的 てき な段階 だんかい にあるとし、まずブルジョワ 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 革命 かくめい を目指 めざ し、その先 さき に社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい はあるという二 に 段階 だんかい 革命 かくめい 論 ろん を主張 しゅちょう した。1934年 ねん に特別 とくべつ 高等 こうとう 警察 けいさつ による野呂 のろ 栄太郎 えいたろう が拷問 ごうもん 死 し し、さらに1936年 ねん にコム・アカデミー事件 じけん での講座 こうざ 派 は 一斉 いっせい 検挙 けんきょ により壊滅 かいめつ した。1937年 ねん 人民戦線 じんみんせんせん 事件 じけん で労農 ろうのう 派 は も一斉 いっせい 検挙 けんきょ された。
終戦 しゅうせん 後 ご 講座 こうざ 派 は は復活 ふっかつ し、羽仁 はに 五郎 ごろう は『明治維新 めいじいしん 』(岩波 いわなみ 新書 しんしょ )、『明治維新 めいじいしん 之 の 研究 けんきゅう 』(岩波書店 いわなみしょてん )を刊行 かんこう した。
羽仁 はに と親 した しくしていたカナダ 外交 がいこう 官 かん ・日本 にっぽん 史 し 学者 がくしゃ (戦時 せんじ 中 ちゅう は太平洋 たいへいよう 問題 もんだい 調査 ちょうさ 会 かい 研究 けんきゅう 員 いん [85] )のハーバート・ノーマン は、講座 こうざ 派 は の影響 えいきょう を受 う けており、『日本 にっぽん における近代 きんだい 国家 こっか の成立 せいりつ 』(1940、邦訳 ほうやく 1947年 ねん )で、明治維新 めいじいしん の主体 しゅたい は下級 かきゅう 武士 ぶし とブルジョワ的 てき 豪農 ごうのう の同盟 どうめい であったが、維新 いしん 後 ご 、武士 ぶし は豪農 ごうのう を裏切 うらぎ り、工業 こうぎょう 化 か のために課税 かぜい を強化 きょうか したとした[86] 。ノーマンによれば、明治維新 めいじいしん は農民 のうみん を犠牲 ぎせい にして資本 しほん の蓄積 ちくせき と集中 しゅうちゅう が遂行 すいこう された「上 うえ からの変革 へんかく 」であり、これは「絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 国家 こっか の力 ちから 」によるもので、新 しん 政府 せいふ の「武断 ぶだん 官僚 かんりょう 」は専制 せんせい 権力 けんりょく を手際 てぎわ 良 よ く利用 りよう したと説明 せつめい した[87] 。ノーマンは、徳川 とくがわ 幕府 ばくふ が封建 ほうけん 制 せい の廃止 はいし や政治 せいじ 改革 かいかく を実現 じつげん できなかったのに対 たい して、明治 めいじ 政府 せいふ は、工業 こうぎょう 、法典 ほうてん 、教育 きょういく などの分野 ぶんや で近代 きんだい 化 か を成 な し遂 と げたが、そうした近代 きんだい 化 か と、その政府 せいふ が権威 けんい 主義 しゅぎ 体制 たいせい であったことととは矛盾 むじゅん するわけではないという[88] 。ノーマンは1953年 ねん の序文 じょぶん で、「明治 めいじ 政府 せいふ をむき出 だ しの絶対 ぜったい 主義 しゅぎ と規定 きてい することはたしかに過度 かど の単純 たんじゅん 化 か であり、あるいは歪曲 わいきょく である」が、明治 めいじ 政府 せいふ は廷臣 ていしん 、官僚 かんりょう 、軍人 ぐんじん 、特権 とっけん 的 てき 企業 きぎょう 家 か からなる寡頭権力 けんりょく 者 しゃ による、「立憲 りっけん 制度 せいど の大 だい 礼服 れいふく に飾 かざ られた絶対 ぜったい 主義 しゅぎ であった」と主張 しゅちょう した[88] 。同書 どうしょ は日本 にっぽん で大 おお きな反響 はんきょう を呼 よ んだ[89] 。
マルクス主義 まるくすしゅぎ 歴史 れきし 学 がく の立場 たちば から、長州 ちょうしゅう 藩 はん を維新 いしん の主体 しゅたい の典型 てんけい とみなした上 うえ で明治維新 めいじいしん を天皇 てんのう 制 せい 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ の成立 せいりつ とみなす遠山 とおやま 茂樹 しげき 『明治維新 めいじいしん 』(1951年 ねん 、岩波書店 いわなみしょてん )が主流 しゅりゅう の地位 ちい を占 し めた[90] 。
遠山 とおやま 茂樹 しげき は以下 いか のように明治維新 めいじいしん を説明 せつめい する[83] 。
江戸 えど 幕 まく 藩 はん 体制 たいせい は、武士 ぶし 階級 かいきゅう という「封建 ほうけん 権力 けんりょく 」が、上層 じょうそう 農 のう 商 しょう 層 そう を抱 だ きこんで、耕作 こうさく 農民 のうみん を抑圧 よくあつ して、天保 てんぽう の改革 かいかく に失敗 しっぱい したのに対 たい して、雄藩 ゆうはん は藩政 はんせい 改革 かいかく を成功 せいこう させた[83] 。
外圧 がいあつ については、中国 ちゅうごく が西欧 せいおう の半 はん 植民 しょくみん 地 ち となったのに対 たい して日本 にっぽん が一応 いちおう の政治 せいじ 的 てき 独立 どくりつ を維持 いじ できたのは、幕末 ばくまつ の民衆 みんしゅう 運動 うんどう が直接 ちょくせつ 排外 はいがい 運動 うんどう に赴 おもむ かず、反 はん 封建 ほうけん 闘争 とうそう に集中 しゅうちゅう するなど、日本 にっぽん の階級 かいきゅう 闘争 とうそう が発展 はってん しており、「日本 にっぽん の民衆 みんしゅう の近代 きんだい 化 か の力 ちから 」が中国 ちゅうごく より勝 か っていたからであった[83] 。
尊王 そんのう 論 ろん は「反 はん 幕府 ばくふ 」でも「反 はん 封建 ほうけん 」でもなく、また国体 こくたい を強調 きょうちょう するものでもなく、世界 せかい に普遍 ふへん 的 てき にみられる権力 けんりょく の正統 せいとう 化 か 方式 ほうしき の一種 いっしゅ とし、攘夷 じょうい 論 ろん は近代 きんだい 的 てき ナショナリズムとは無縁 むえん なものとした[83] 。
幕府 ばくふ の外交 がいこう 政策 せいさく は消極 しょうきょく 的 てき で退嬰 たいえい 的 てき であり、混迷 こんめい を深 ふか めたことから、尊王 そんのう 攘夷 じょうい 派 は は「攘夷 じょうい のための尊王 そんのう 」から「尊王 そんのう 反 はん 幕 まく のための攘夷 じょうい 」へと変化 へんか し、合理 ごうり 的 てき 判断 はんだん を失 うしな い、絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 成立 せいりつ への見透 みとお しを掴 つか めなかった[83] 。これに対 たい して長州 ちょうしゅう は英 えい 米 べい 仏 ふつ 蘭 らん の四国 しこく 連合 れんごう 艦隊 かんたい との攘夷 じょうい 戦争 せんそう で惨敗 ざんぱい したことで、下級 かきゅう 武士 ぶし が名分 めいぶん 論 ろん を超 こ える実践 じっせん 力 りょく を獲得 かくとく し、さらに藩 はん 権力 けんりょく を奪取 だっしゅ したことで「開明 かいめい 的 てき 軍事 ぐんじ 官僚 かんりょう 」「絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 的 てき 官僚 かんりょう 」へと変貌 へんぼう した[83] 。英 えい 仏 ふつ は攘夷 じょうい 運動 うんどう に止 と めを刺 さ し、日本 にっぽん を半 はん 植民 しょくみん 地 ち 的 てき 市場 いちば として確定 かくてい させたが、攘夷 じょうい 派 は も佐幕 さばく 派 は も英 えい 仏 ふつ 外交 がいこう 官 かん の指導 しどう で絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 的 てき 改革 かいかく を意識 いしき するようになった[83] 。
1866年 ねん 、幕府 ばくふ が長州 ちょうしゅう 征伐 せいばつ に失敗 しっぱい した頃 ころ 、全国 ぜんこく で打 う ちこわし や一揆 いっき が頻発 ひんぱつ したことで、公 おおやけ 議 ぎ 政体 せいたい 論 ろん が浮上 ふじょう し、これにより封建 ほうけん 権力 けんりょく が崩壊 ほうかい せずに権力 けんりょく を集中 しゅうちゅう 強化 きょうか させる絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 運動 うんどう が生 しょう じた[83] 。民衆 みんしゅう 運動 うんどう はええじゃないか という非 ひ 政治 せいじ 的 てき なものに逸脱 いつだつ し、「下 した からの革命 かくめい 」は瓦解 がかい した[83] 。こうして明治維新 めいじいしん は王政 おうせい 復古 ふっこ という矮小 わいしょう な政権 せいけん 移動 いどう にとどまり、「天皇 てんのう 奪 うば い合 あ いの宮廷 きゅうてい 陰謀 いんぼう 」となった[83] 。
新 しん 政府 せいふ は御 ご 誓文 せいもん で公 おおやけ 議 ぎ 世論 せろん や仁政 じんせい を宣伝 せんでん したが、版籍 はんせき 奉還 ほうかん 後 ご の廃藩置県 はいはんちけん という「第 だい 二 に の王政 おうせい 復古 ふっこ クーデター」を起 お こし、「啓蒙 けいもう 専制 せんせい 政治 せいじ 」を基調 きちょう とした[83] 。地租 ちそ 改正 かいせい では税 ぜい 負担 ふたん が軽減 けいげん されず、租税 そぜい の近代 きんだい 化 か でなく、封建 ほうけん 的 てき 貢 みつぎ 租の継承 けいしょう にとどまったが、徴兵 ちょうへい 令 れい は封建 ほうけん 武士 ぶし 団 だん を粉砕 ふんさい した[83] 。学制 がくせい は、徳川 とくがわ 家 か が「由 よ らしむべし知 し らしむべからず」と愚民 ぐみん 政策 せいさく をとっていたのに対 たい して、「人民 じんみん 」に変 か える開明 かいめい 政策 せいさく であった[83] 。福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち の思想 しそう の本質 ほんしつ は近代 きんだい 市民 しみん 革命 かくめい でなく、啓蒙 けいもう 専制 せんせい 主義 しゅぎ にあった。征 せい 韓 かん 論 ろん 政変 せいへん 以後 いご は、下野 げや グループの民権 みんけん 論 ろん は国権 こっけん 論 ろん に従属 じゅうぞく するものであったが、「下 した からの自主 じしゅ 」の動 うご きが見 み られた[83] 。
三谷 みたに 博 ひろし によれば、遠山 とおやま 説 せつ では、天皇 てんのう と幕府 ばくふ の対立 たいりつ が大 だい 変動 へんどう の発端 ほったん であったことが黙過 もっか され、国際 こくさい 環境 かんきょう よりも国内 こくない 条件 じょうけん が重視 じゅうし され、また、昭和 しょうわ 史 し のイメージを維新 いしん 史 し に投影 とうえい して、ファシズム が維新 いしん 当初 とうしょ から存在 そんざい していたように語 かた り、政治 せいじ 運動 うんどう においては長州 ちょうしゅう を維新 いしん の主体 しゅたい として着目 ちゃくもく する一方 いっぽう で、薩摩 さつま 、越前 えちぜん 藩 はん などの公 おおやけ 議 ぎ 政体 せいたい 論 ろん を軽視 けいし または無視 むし し、外国 がいこく 勢力 せいりょく ではイギリスを排他 はいた 的 てき に重視 じゅうし するなど、階級 かいきゅう 闘争 とうそう 史観 しかん の影響 えいきょう で一元論 いちげんろん や二元 にげん 対立 たいりつ に傾 かたむ いた過度 かど に単純 たんじゅん 化 か された政治 せいじ 史 し となった[83] 。遠山 とおやま 説 せつ は、仮説 かせつ を述 の べ、実証 じっしょう 研究 けんきゅう を促 うなが す宣言 せんげん の書 しょ であり、以後 いご 継承 けいしょう された研究 けんきゅう の潮流 ちょうりゅう では、徳川 とくがわ 将軍 しょうぐん 、旧 きゅう 幕臣 ばくしん の開明 かいめい 派 は 、譜代 ふだい 大名 だいみょう の研究 けんきゅう が軽視 けいし されたり、政治 せいじ 史 し と経済 けいざい 史 し が乖離 かいり するといった研究 けんきゅう の偏 かたよ りを生 う んだ[83] 。遠山 とおやま は、体制 たいせい 権力 けんりょく と下層 かそう 階級 かいきゅう の全面 ぜんめん 対立 たいりつ を好 この み、それが見 み られないことを不満 ふまん げに説明 せつめい するが、明治維新 めいじいしん の持 も つ複雑 ふくざつ 性 せい の説明 せつめい としては不 ふ 適当 てきとう で、支配 しはい 身分 みぶん (武士 ぶし )の消滅 しょうめつ は世界 せかい 史上 しじょう でも際立 きわだ つ特徴 とくちょう であるがまだ解明 かいめい は十分 じゅうぶん でなく、また世界 せかい 革命 かくめい 史 し において維新 いしん は著 いちじる しく犠牲 ぎせい 者 しゃ が少 すく ないこと、また「復古 ふっこ 」象徴 しょうちょう の利用 りよう はフランス革命 かくめい にも認 みと められることで日本 にっぽん 特殊 とくしゅ ではないこと、また「復古 ふっこ 」の参照 さんしょう 先 さき が律令 りつりょう 時代 じだい でなく神話 しんわ であったことは復古 ふっこ の名 な の改革 かいかく に自由 じゆう 度 ど を与 あた えたこと、などを三谷 みたに は指摘 してき した上 うえ で、遠山 とおやま の大振 おおぶ りな思考 しこう の展開 てんかい には感銘 かんめい を受 う けたと評 ひょう した[83] 。
遠山 とおやま 以降 いこう 、田中 たなか 彰 あきら 『明治維新 めいじいしん 政治 せいじ 史 し 研究 けんきゅう 』(1963年 ねん )も標準 ひょうじゅん 的 てき な研究 けんきゅう となった[90] 。
長州 ちょうしゅう 藩 はん を維新 いしん の主体 しゅたい の典型 てんけい とみなす見方 みかた に対 たい して、公武 こうぶ 合体 がったい 派 は の薩摩 さつま 藩 はん を重視 じゅうし する毛利 もうり 敏彦 としひこ 『明治維新 めいじいしん 政治 せいじ 史 し 序説 じょせつ 』(1967年 ねん )も登場 とうじょう したが、この時期 じき までの研究 けんきゅう は、倒幕 とうばく 派 は に敗 やぶ れた東北 とうほく 諸 しょ 藩 はん 、倒幕 とうばく 派 は でも佐幕 さばく 派 は でもない中 なか 間 あいだ 的 てき な立場 たちば の諸 しょ 藩 はん の役割 やくわり が軽視 けいし していると後 のち に批判 ひはん された[90] 。
吉野 よしの 作造 さくぞう の継承 けいしょう 者 しゃ でもある政治 せいじ 学者 がくしゃ 岡 おか 義武 よしたけ は、『近代 きんだい 日本 にっぽん の形成 けいせい 』(1947年 ねん )およびその改訂 かいてい 『近代 きんだい 日本 にっぽん 政治 せいじ 史 し I』(1962年 ねん )において、明治維新 めいじいしん は、西洋 せいよう の脅威 きょうい に直面 ちょくめん した国 くに が近代 きんだい 化 か しなければ独立 どくりつ が保 たも てないという、マルクス主義 まるくすしゅぎ のカテゴリーには入 はい らない民族 みんぞく 革命 かくめい であると論 ろん じた[67] [91] 。岡 おか によれば、幕 まく 藩 はん 体制 たいせい が内部 ないぶ 矛盾 むじゅん で不安定 ふあんてい になっていたところへ外圧 がいあつ があり、国内 こくない に激 はげ しい民族 みんぞく 的 てき 反発 はんぱつ 感 かん と民族 みんぞく 的 てき 危機 きき 感 かん が生 う まれ、さらに朝廷 ちょうてい と幕府 ばくふ の対立 たいりつ は国家 こっか 権力 けんりょく の二元 にげん 化 か を生 う んだが、これを精算 せいさん して国家 こっか 的 てき 統一 とういつ を強固 きょうこ にし、民族 みんぞく 独立 どくりつ の確保 かくほ が目指 めざ された[92] 。幕 まく 藩 はん 体制 たいせい に回帰 かいき するか、朝廷 ちょうてい を中心 ちゅうしん とした新 しん 体制 たいせい かで紛糾 ふんきゅう したが、後者 こうしゃ が選 えら ばれた。岩倉 いわくら 具視 ともみ は慶応 けいおう 3年 ねん 4月 がつ に「天 てん に二日 ふつか なく、地 ち に二王 におう なし。政令 せいれい 一途 いっと に出 で でずして何 いず れの国 こっ か立 だ ち可 か 申 さる や。」といい、徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ も大政奉還 たいせいほうかん 上表 じょうひょう に「朝權 ちょうけん 一途 いっと ニ出 で 不 ふ 申 さる 候 こう 而者、綱紀 こうき 難 なん 立 たて 候 こう 間 あいだ 、從來 じゅうらい 之 の 舊習 きゅうしゅう ヲ改 あらため メ、政權 せいけん ヲ朝廷 ちょうてい ニ奉 たてまつ 歸 き 、廣 こう ク天下 でんか 之 の 公儀 こうぎ ヲ盡 つき シ、聖斷 せいだん ヲ仰 おおせ キ、同心 どうしん 協力 きょうりょく 、共 きょう ニ皇國 こうこく ヲ保護 ほご 仕 つかまつ 候 こう 得 とく ハ、必ス海外 かいがい 萬國 ばんこく ト可 か 竝立 へいりつ 候 こう (朝廷 ちょうてい に権力 けんりょく を一 ひと つとしなければ統治 とうち が難 むずか しく、従来 じゅうらい の旧習 きゅうしゅう を改 あらた め、政権 せいけん を朝廷 ちょうてい に帰 かえ し奉 まつ り、広 ひろ く天下 てんか の公 おおやけ 議 ぎ を尽 つ くし、聖断 せいだん を仰 あお ぎ、心 しん を一 ひと つに協力 きょうりょく し、共 とも に皇国 こうこく を保護 ほご していけば、必 かなら ず海外 かいがい 万国 ばんこく と並 なら び立 た ちうる)」と述 の べ、国家 こっか 権力 けんりょく の一元化 いちげんか を図 はか った[92] 。こうして、幕末 ばくまつ 明治 めいじ の変革 へんかく とは、「民族 みんぞく の独立 どくりつ 確保 かくほ あるいは民族 みんぞく の対外 たいがい 的 てき 勢力 せいりょく 拡大 かくだい を目的 もくてき としてなされる国内 こくない 政治 せいじ 体制 たいせい の変革 へんかく 」、すなわち民族 みんぞく 革命 かくめい であったとした[92] 。
比較 ひかく 文化 ぶんか 研究 けんきゅう の桑原 くわばら 武夫 たけお は1956年 ねん の「明治 めいじ の再 さい 評価 ひょうか 」[93] で、マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ は明治維新 めいじいしん を「天皇 てんのう 制 せい 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 」の成立 せいりつ とみなすが、維新 いしん によって身分 みぶん 制 せい がなくなり、国民 こくみん の自由 じゆう は大幅 おおはば に増大 ぞうだい するなど画期的 かっきてき 変革 へんかく であったことは否定 ひてい できず、欠点 けってん と矛盾 むじゅん はあったが、「明治 めいじ の革命 かくめい は巨視的 きょしてき にみて、一 ひと つの偉大 いだい な民族 みんぞく 的 てき 達成 たっせい であった」と論 ろん じ、1961年 ねん にはマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ らが、明治 めいじ のナショナリズムを「できそこない」と低 てい 評価 ひょうか する一方 いっぽう で同 どう 時代 じだい のアジア・アフリカのナショナリズムを高 たか く評価 ひょうか するのは政治 せいじ 的 てき 配慮 はいりょ ないしセンチメンタリズム だと批判 ひはん した[94] [95] 。(以降 いこう の桑原 くわばら の発言 はつげん については後述 こうじゅつ )
井上 いのうえ 清 きよし は1966年 ねん に、明治維新 めいじいしん は血 ち を流 なが さずに成就 じょうじゅ したとの評価 ひょうか に対 たい して、戊辰戦争 ぼしんせんそう での戦死 せんし 者 しゃ 数 すう は新 しん 政府 せいふ 軍 ぐん が3556人 にん (負傷 ふしょう 3804人 にん )、旧 きゅう 幕府 ばくふ 軍 ぐん が4707人 にん (負傷 ふしょう 1518人 にん )であったと反論 はんろん したうえで、こうした犠牲 ぎせい があってはじめて、幕 まく 藩 はん 体制 たいせい が早期 そうき に打倒 うちたお され、人民 じんみん の封建 ほうけん 制 せい からの解放 かいほう と日本 にっぽん 民族 みんぞく の国家 こっか 的 てき 統一 とういつ 、そして欧米 おうべい から植民 しょくみん 地 ち 化 か される危険 きけん から脱出 だっしゅつ する一 いち 歩 ほ がふみだされたとした[96] 。
米国 べいこく における日本 にっぽん 近代 きんだい 化 か 論 ろん
編集 へんしゅう
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく での歴史 れきし 学 がく では日本 にっぽん 近代 きんだい 化 か 論 ろん の研究 けんきゅう が進 すす められた。1960年代 ねんだい のアメリカの東洋 とうよう 史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ エドウィン・O・ライシャワー や日本 にっぽん 研究 けんきゅう 者 しゃ マリウス・バーサス・ジャンセン は、明治維新 めいじいしん による近代 きんだい 化 か を評価 ひょうか した[67] 。
ジャンセンが、ジョン・ホイットニー・ホール 、ドナルド・H・シャイブリー 、トマス・C・スミスらとともに設立 せつりつ した近代 きんだい 日本 にっぽん 研究 けんきゅう 会議 かいぎ (Conference on Modern Japan)は1960年 ねん に日米 にちべい の学者 がくしゃ を集 あつ めて箱根 はこね 会議 かいぎ を開 ひら いた[86] [97] 。ホールらが「近代 きんだい 化 か 」を、近代 きんだい を特徴 とくちょう づける諸 しょ 変化 へんか を包括 ほうかつ し、他 た の地域 ちいき との比較 ひかく を可能 かのう とする概念 がいねん とみなしたのに対 たい して、日本 にっぽん の学者 がくしゃ らは「近代 きんだい 化 か 」を「歴史 れきし の中 なか で実現 じつげん すべき価値 かち 理念 りねん 」とみなし、遠山 とおやま 茂樹 しげき は「近代 きんだい 」をマルクス主義 まるくすしゅぎ と違 ちが う意味 いみ で用 もち いることの意図 いと を疑 うたが い、川島 かわしま 武 たけし 宜 よろし も「民主 みんしゅ 化 か 」を主軸 しゅじく に据 す えていないと批判 ひはん した[86] 。ホールは、イデオロギーの構築 こうちく でなく、あらかじめ決 き まった結論 けつろん を前提 ぜんてい としないオープン・エンド・アプローチを用 もち いた[86] 。
雑誌 ざっし 『中央公論 ちゅうおうこうろん 』では、1961年 ねん 5月 がつ 号 ごう から8月 がつ 号 ごう にかけてクラーク・ケェア、労働 ろうどう 経済 けいざい 学者 がくしゃ のフレデリック ・H・ハービソン、ジョン・トーマス・ダンロップ、チャールズ・アンドリュー・マイヤーズ、中山 なかやま 伊知郎 いちろう 、尾高 おだか 邦雄 くにお 、蝋 ろう 山 やま 政道 せいどう らが日本 にっぽん の経済 けいざい 的 てき 近代 きんだい 化 か 、産業 さんぎょう 化 か と民主 みんしゅ 化 か について議論 ぎろん をしており、その中 なか でライシャワーは日本 にっぽん の近代 きんだい 化 か の成功 せいこう は、低 てい 開発 かいはつ 諸国 しょこく の手本 てほん になると発言 はつげん した[97] [98] 。
近代 きんだい 日本 にっぽん 研究 けんきゅう 会議 かいぎ が「日本 にっぽん における近代 きんだい 化 か の問題 もんだい 」(1965、邦訳 ほうやく 1968)を刊行 かんこう すると、多 おお くの反響 はんきょう を呼 よ んだ[86] [99] 。米国 べいこく ではベトナム戦争 せんそう に反対 はんたい するニューレフト の歴史 れきし 学者 がくしゃ ジョン・ダワー 、ハーバート・ビックス らの“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮 ゆうりょ するアジア研究 けんきゅう 者 しゃ 委員 いいん 会 かい )は、駐 ちゅう 日 にち アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大使 たいし を務 つと めたライシャワーや、ジャンセン、ホールらの近代 きんだい 化 か 研究 けんきゅう を、中立 ちゅうりつ を装 よそお って日本 にっぽん の近代 きんだい 化 か の成功 せいこう を強調 きょうちょう するイデオロギーであると批判 ひはん した[86] [97] 。ダワーらは、赤狩 あかが り で共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ と断定 だんてい されて自殺 じさつ したハーバート・ノーマン (前述 ぜんじゅつ )を称 とな えた[86] 。日本 にっぽん でも明治 めいじ 百 ひゃく 年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん (1968)に関連 かんれん して「近代 きんだい 化 か 論 ろん 」を批判 ひはん するなどの論争 ろんそう も発生 はっせい した(後述 こうじゅつ )。歴史 れきし 学者 がくしゃ 安丸 やすまる 良夫 よしお は日本 にっぽん 近代 きんだい 化 か 論 ろん を「新 あら たな支配 しはい イデオロギー」と批判 ひはん し[100] 、社会 しゃかい 学者 がくしゃ の金原 かなはら 左門 さもん は近代 きんだい 日本 にっぽん 研究 けんきゅう 会議 かいぎ がフォード財団 ざいだん から多額 たがく の補助 ほじょ 金 きん を受 う けたことを問題 もんだい 視 し した[97] [101] 。近年 きんねん でもヴィクター・コシュマン は2003年 ねん の論文 ろんぶん で、日本 にっぽん 近代 きんだい 化 か 論 ろん は冷戦 れいせん 下 した の日本 にっぽん が共産 きょうさん 主義 しゅぎ 化 か しないための施策 しさく であったと主張 しゅちょう した[97] [102] 。
こうした批判 ひはん に対 たい して、箱根 はこね 会議 かいぎ に参加 さんか した丸山 まるやま 眞男 まさお は、近代 きんだい 化 か 論 ろん は西欧 せいおう の近代 きんだい 化 か を絶対 ぜったい として非 ひ 西欧 せいおう を図 はか るとして批判 ひはん されたが、これは誤解 ごかい であり、ジャンセン、ホールらの近代 きんだい 化 か 論 ろん は、近代 きんだい 化 か の道 みち が多様 たよう で複数 ふくすう であることを当初 とうしょ から言 い っていたと語 かた っている[97] 。
マリウス・バーサス・ジャンセン は『坂本 さかもと 龍馬 りょうま と明治維新 めいじいしん 』(1961年 ねん )で坂本 さかもと 龍馬 りょうま と土佐 とさ 藩 はん が維新 いしん で果 は たした役割 やくわり を取 と り上 あ げた[103] 。ジャンセンは、19世紀 せいき にはアメリカで奴隷 どれい 解放 かいほう 、ロシアで農奴 のうど 解放 かいほう が起 お きる一方 いっぽう で、アジアは欧米 おうべい の干渉 かんしょう によって変革 へんかく あるいは反発 はんぱつ が起 お きた[104] 。インドではセポイの反乱 はんらん の結果 けっか 、大 だい 英 えい 帝国 ていこく の支配 しはい 下 か に置 お かれ、中国 ちゅうごく ではアヘン戦争 せんそう と太平 たいへい 天国 てんごく の乱 らん が起 お きたた[104] 。日本 にっぽん でも外圧 がいあつ のなか政治 せいじ 的 てき ・知的 ちてき な激動 げきどう が変革 へんかく を醸成 じょうせい した結果 けっか 、民族 みんぞく 的 てき に統一 とういつ された国家 こっか が誕生 たんじょう した[104] 。この「日本 にっぽん 革命 かくめい 」の成功 せいこう は、フランス革命 かくめい が当時 とうじ の周辺 しゅうへん 国 こく に影響 えいきょう を与 あた えたように、中国 ちゅうごく の革命 かくめい 家 か 孫 まご 文 ぶん 、康有為 こうゆうい 、朝鮮 ちょうせん の金玉 きんぎょく 均 ひとし 、フィリピン の革命 かくめい 家 か エミリオ・アギナルド 、インド の独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か スバス・チャンドラ・ボース らを刺激 しげき し、特 とく に孫 まご 文 ぶん は自身 じしん を維新 いしん の英雄 えいゆう になぞらえていたという[104] 。同書 どうしょ は、小説 しょうせつ 家 か の司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。その後 ご 、ジャンセンは1986年 ねん に、明治維新 めいじいしん は「単 たん なる復古 ふっこ でなくて、革命 かくめい 」とし[105] [106] 、2000年 ねん の大著 たいちょ The Making of Modern Japanでも、幕末 ばくまつ から明治 めいじ にかけての大 だい 変革 へんかく は、「日本 にっぽん の制度 せいど へ恒久 こうきゅう 的 てき な変化 へんか をもたらしたので、革命 かくめい と呼 よ ぶに直 じき する」と述 の べる[107] [108] 。
経済 けいざい 学者 がくしゃ ・哲学 てつがく 者 しゃ のアマルティア・セン は2006年 ねん の著書 ちょしょ で、米国 べいこく の蒸気 じょうき 船 せん などの技術 ぎじゅつ 力 りょく に驚 おどろ いた日本 にっぽん は、それまでの外交 がいこう 政策 せいさく を見直 みなお すとともに、教育 きょういく 政策 せいさく を見直 みなお し、御 ご 誓文 せいもん では知識 ちしき を世界 せかい に求 もと めることが宣言 せんげん され、1872年 ねん の学制 がくせい では、「不学 ふがく の戸 と ・不学 ふがく の人 ひと 」をなくすことが目指 めざ され、1910年 ねん には小学校 しょうがっこう 教育 きょういく が普及 ふきゅう し、1913年 ねん にはイギリスやアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく よりも多 おお くの書籍 しょせき が刊行 かんこう された[61] 。木戸 きど 孝允 たかよし は「決 けっ して今日 きょう の人 ひと 、米 べい 欧 おう 諸 もろ 州 しゅう の人 ひと と異 こと なることなし。ただ学 がく 不学 ふがく にあるのみ」と述 の べ、欧米 おうべい 人 じん もアジア人 じん も同 おな じ人間 にんげん であり、教育 きょういく 水準 すいじゅん をあげればアジア人 じん も欧米 おうべい に追 お いつくことができると考 かんが えた[109] 。センは、日本 にっぽん における近代 きんだい 化 か の成功 せいこう は、ケイパビリティ (潜在 せんざい 能力 のうりょく ) の形成 けいせい によって成 な し遂 と げられたとし[61] 、日本 にっぽん は、国民 こくみん の教育 きょういく 水準 すいじゅん ・識字 しきじ 率 りつ を高 たか めれば、社会 しゃかい や経済 けいざい を改善 かいぜん させ、短期間 たんきかん でも近代 きんだい 化 か と経済 けいざい 発展 はってん を実現 じつげん できるということを証明 しょうめい し、アジア諸国 しょこく の模範 もはん となり[109] 、東 ひがし アジアの奇跡 きせき は日本 にっぽん の経験 けいけん によって鼓舞 こぶ されたものであったとする[61] 。
このほか、ソ連 それん の日本 にっぽん 学者 がくしゃ は、明治維新 めいじいしん は、1867-8年 ねん の政治 せいじ クーデター、1868年 ねん から1873年 ねん の200回 かい にもわたる百姓 ひゃくしょう 一揆 いっき 、ええじゃないかなどの民衆 みんしゅう 運動 うんどう などが相互 そうご に関連 かんれん する不可分 ふかぶん の複 ふく 合体 がったい を成 な している革命 かくめい であったと規定 きてい した[110] 。ソ連 それん の日本 にっぽん 研究 けんきゅう 家 か イゴール・ラティシェフ は明治維新 めいじいしん は「未完 みかん のブルジョワ革命 かくめい 」であるとする[110] 。P.フェドセイエフは「ブルジョワ民族 みんぞく 主義 しゅぎ 革命 かくめい 」であるとする[106] 。
中国 ちゅうごく 文学 ぶんがく 者 しゃ の竹内 たけうち 好 よしみ は1960年 ねん 2月 がつ 「民族 みんぞく 的 てき なものと思想 しそう 」において、民族 みんぞく 的 てき (ナショナル)なものを大事 だいじ にしないと,逆 ぎゃく に過激 かげき なナショナリズムを成立 せいりつ させる危険 きけん があるとした上 うえ で、革命 かくめい の未来 みらい を描 えが く手 て がかりとして「明治維新 めいじいしん 百 ひゃく 年 ねん 祭 さい 」とその是非 ぜひ を議論 ぎろん することを提案 ていあん した(のち政府 せいふ 主催 しゅさい となって以降 いこう は撤回 てっかい )[95] [111] 。また竹内 たけうち は「明治維新 めいじいしん と中国 ちゅうごく 革命 かくめい 」(1968年 ねん )において[112] 、「明治維新 めいじいしん は未曾有 みぞう の変革 へんかく を意図 いと し、また実現 じつげん したものであるが、明治 めいじ 国家 こっか は一 ひと つの選択 せんたく にしか過 す ぎず、もっと多様 たよう な可能 かのう 性 せい をはらんでいた」と述 の べた上 うえ で、孫 まご 文 ぶん の中国 ちゅうごく 革命 かくめい と比較 ひかく する[95] 。孫 まご 文 ぶん は「日本 にっぽん 維新 いしん は中国 ちゅうごく 革命 かくめい の第一歩 だいいっぽ 、中国 ちゅうごく 革命 かくめい は日本 にっぽん 維新 いしん の第 だい 二 に 歩 ほ 」と述 の べたが、これは日本 にっぽん 維新 いしん を純化 じゅんか させ、「維新 いしん 」を帝国 ていこく 主義 しゅぎ の対極 たいきょく とみなし、中国 ちゅうごく 革命 かくめい を世界 せかい から不平等 ふびょうどう が除 のぞ かれることを目標 もくひょう とした永遠 えいえん の過程 かてい であると考 かんが えた、と竹内 たけうち はいう[95] 。竹内 たけうち は、近代 きんだい 日本 にっぽん は「維新 いしん 」の意義 いぎ を矮小 わいしょう 化 か させてしまったとし、未完 みかん の明治維新 めいじいしん を重視 じゅうし した[95] 。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )10月23日 にち 、佐藤 さとう 栄作 えいさく 政権 せいけん で明治 めいじ 百 ひゃく 年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん が開 ひら かれた。木村毅 きむらき ・林 はやし 房雄 ふさお ・安岡 やすおか 正篤 まさあつ ・池島 いけじま 信平 しんぺい らの広報 こうほう 部会 ぶかい では、戦後 せんご 日本 にっぽん の復興 ふっこう をなした基盤 きばん としての明治 めいじ が讃 たた えられ、また、ライシャワーの近代 きんだい 化 か 論 ろん や、徳川 とくがわ 時代 じだい の再 さい 評価 ひょうか も行 おこな われた[95] 。同年 どうねん 、司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう の『坂 さか の上 うえ の雲 くも 』が連載 れんさい を開始 かいし した[95] 。
他方 たほう 、歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい ・歴史 れきし 科学 かがく 協議 きょうぎ 会 かい ・歴史 れきし 教育 きょういく 者 しゃ 協議 きょうぎ 会 かい は、明治 めいじ 百 ひゃく 年 ねん 祭 さい は1940年 ねん の紀元 きげん 二 に 千 せん 六 ろく 百 ひゃく 年 ねん 記念 きねん 行事 ぎょうじ と似 に た危険 きけん があると反対 はんたい した[95] 。1968年 ねん 7月 がつ には、家永 いえなが 三郎 さぶろう ・板垣 いたがき 雄三 ゆうぞう •井上 いのうえ 清 きよし • 江口 えぐち 朴 ほお 郎 ろう ・遠山 とおやま 茂樹 しげき ・永原 ながはら 慶 けい 二 に •野原 のはら 四郎 しろう ・旗 はた 田 でん 巍 たかし •松島 まつしま 栄一 えいいち らが「明治 めいじ 百 ひゃく 年 ねん に反対 はんたい する声明 せいめい 」を起草 きそう し、3675人 にん の署名 しょめい を得 え た[95] [113] 。反対 はんたい 声明 せいめい では、明治 めいじ は「天皇 てんのう 制 せい 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 」を生 う み出 だ した日本 にっぽん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ の形成 けいせい 期 き であり、女性 じょせい 、被 ひ 差別 さべつ 民 みん 、沖縄 おきなわ 人 じん 、朝鮮 ちょうせん 人 じん にとって差別 さべつ と抑圧 よくあつ の歴史 れきし であり、「近代 きんだい 化 か 論 ろん 」は近代 きんだい 日本 にっぽん がアジアの犠牲 ぎせい の上 うえ に成 な り立 た ったことを覆 おお い隠 かく すものだと批判 ひはん した[95] 。学界 がっかい では、大江 おおえ 志乃 しの 夫 おっと が歴史 れきし 研究 けんきゅう において明治維新 めいじいしん の可能 かのう 性 せい と現実 げんじつ の近代 きんだい 日本 にっぽん との落差 らくさ の評価 ひょうか を行 おこな うべきではないかと提言 ていげん すると、井上 いのうえ 清 きよし がこれを「何 なに をいっているのか分 わ からない」と批判 ひはん し[114] 、佐藤 さとう 誠 まこと 三郎 さぶろう が戦前 せんぜん の講座 こうざ 派 は よりも戦後 せんご 歴史 れきし 学 がく は硬直 こうちょく していると表明 ひょうめい すると、遠山 とおやま 茂樹 しげき がこれを「主観 しゅかん 的 てき だ」と批判 ひはん した[95] 。
元 もと 総理 そうり 大臣 だいじん の石橋 いしばし 湛山 たんざん は、明治 めいじ 時代 じだい の遺産 いさん とは、日本 にっぽん が帝国 ていこく になったことではなく、五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん によって日本 にっぽん が民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と言論 げんろん の自由 じゆう を重視 じゅうし するようになったことだ、と論 ろん じ、1968年 ねん の反戦 はんせん デモに明治 めいじ の遺産 いさん が生 い きている、とみなした[115] 。
幕末 ばくまつ 過渡 かと 期 き 国家 こっか 論 ろん から公 おおやけ 議 ぎ 研究 けんきゅう まで
編集 へんしゅう
維新 いしん 政権 せいけん の研究 けんきゅう は原口 はらぐち 清 きよし 「戊辰戦争 ぼしんせんそう 」(1963)や下山 しもやま 三郎 さぶろう 「近代 きんだい 天皇 てんのう 制 せい 研究 けんきゅう 序説 じょせつ 」(1976)によって本格 ほんかく 的 てき に着手 ちゃくしゅ された[90] 。宮地 みやじ 正人 まさと は、幕府 ばくふ 、朝廷 ちょうてい 、諸 しょ 藩 はん の動向 どうこう を総体 そうたい 的 てき に捉 とら えようとして幕末 ばくまつ 過渡 かと 期 き 国家 こっか 論 ろん を提唱 ていしょう し、それまで見落 みお とされていた天皇 てんのう 、朝廷 ちょうてい の動向 どうこう を視野 しや に入 い れ、斬新 ざんしん 的 てき な研究 けんきゅう となった[90] [116] 。これに続 つづ いて、原口 はらぐち 清 きよし は国是 こくぜ (最高 さいこう 国家 こっか 意志 いし )樹立 じゅりつ をめぐる諸 しょ 勢力 せいりょく の運動 うんどう ・対立 たいりつ という視座 しざ を設定 せってい し、慶応 けいおう 3年 ねん の五 ご 箇条 かじょう 誓文 せいもん を国是 こくぜ 樹立 じゅりつ 運動 うんどう の帰結 きけつ とした[90] [117] 。宮地 みやじ や原口 はらぐち のダイナミックな関係 かんけい 史 し の研究 けんきゅう によって、長州 ちょうしゅう 藩 はん と会津 あいづ 藩 はん のように政治 せいじ 状況 じょうきょう によって「勝者 しょうしゃ 」「敗者 はいしゃ 」が刻々 こくこく と変 か わるなか、当時 とうじ の政治 せいじ 家 か の個性 こせい が描 えが き出 だ されるようになり、その後 ご の研究 けんきゅう 潮流 ちょうりゅう の源流 げんりゅう となった[90] 。
明治維新 めいじいしん では幕府 ばくふ が廃止 はいし されると同時 どうじ に摂関 せっかん 制度 せいど も廃止 はいし されるなど、天皇 てんのう や朝廷 ちょうてい の研究 けんきゅう も重要 じゅうよう であるが、戦前 せんぜん には皇国 こうこく 史観 しかん でタブー視 し され、戦後 せんご も戦前 せんぜん への忌避 きひ 感 かん から研究 けんきゅう が遅 おく れていた[90] 。井上 いのうえ 勝 まさる 生 せい [118] や藤田 ふじた 覚 さとし [119] の研究 けんきゅう によって、文久 ぶんきゅう 3年 ねん の八 はち 月 がつ 十 じゅう 八 はち 日 にち の政変 せいへん の主役 しゅやく を孝明天皇 こうめいてんのう とする見解 けんかい などが提出 ていしゅつ され、武家 ぶけ に操 あやつ られる天皇 てんのう というイメージが一新 いっしん され、以後 いご の幕末 ばくまつ 維新 いしん 期 き の天皇 てんのう 研究 けんきゅう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた[90] 。
また、一 いち 橋 きょう 徳川 とくがわ 家 か の徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ 、京都 きょうと 守護 しゅご 職 しょく ・会津 あいづ 藩主 はんしゅ の松平 まつだいら 容保 かたもり 、京都 きょうと 所司代 しょしだい ・桑名 くわな 藩主 はんしゅ 松平 まつだいら 定 じょう 敬 けい の三 さん 者 しゃ により構成 こうせい された一 いち 会 かい 桑 くわ 勢力 せいりょく が重視 じゅうし され、従来 じゅうらい の「幕府 ばくふ 対 たい 薩長 さっちょう 」という単純 たんじゅん な図式 ずしき に大 おお きな変化 へんか がもたらされた[90] 。家 いえ 近 きん 良樹 よしき の「幕末 ばくまつ 政治 せいじ と倒幕 とうばく 運動 うんどう 」(1995)では、それまで「敗者 はいしゃ 」として悲劇 ひげき 的 てき に捉 とら えられがちだった会津 あいづ 藩 はん の存在 そんざい を高 たか く評価 ひょうか した[90] 。宮地 みやじ 正人 まさと は、歴史 れきし ファンやマニアの研究 けんきゅう 対象 たいしょう 出会 であ った新選 しんせん 組 ぐみ が一 いち 会 かい 桑 くわ との役割 やくわり から研究 けんきゅう した[90] [120] 。この他 ほか 、久住 ひさずみ 真 しん 也 「長州 ちょうしゅう 戦争 せんそう と徳川 とくがわ 将軍 しょうぐん 」(2005)では幕府 ばくふ の新仏 あらぼとけ 派 は の研究 けんきゅう も行 おこな われた[90] 。
開国 かいこく 研究 けんきゅう としては、三谷 みたに 博 ひろし 「ペリー来航 らいこう 」(2003)や荒野 あらの 泰典 やすのり 「日本 にっぽん の対外 たいがい 関係 かんけい 7 近代 きんだい 化 か する日本 にっぽん 」(2012)などで従来 じゅうらい の「不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく 」「鎖国 さこく 」「開国 かいこく 」の見直 みなお しを再 さい 評価 ひょうか がなされている[90] 。
高橋 たかはし 秀直 ひでなお [121] や、家 いえ 近 きん 良樹 よしき の研究 けんきゅう [122] では、王政 おうせい 復古 ふっこ クーデタ は倒幕 とうばく を目指 めざ していなかったことが明 あき らかにされ、また王政 おうせい 復古 ふっこ で成立 せいりつ した新 しん 政府 せいふ は、天皇 てんのう より公 おおやけ 議 ぎ 原理 げんり が優位 ゆうい にたつ(天皇 てんのう 親政 しんせい ではない)政府 せいふ であったことが明 あき らかにされた[90] 。三谷 みたに 博 ひろし も「維新 いしん 史 し 再考 さいこう 」(2017)で公 おおやけ 議 ぎ 研究 けんきゅう を進 すす めた[90] 。
日本 にっぽん 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう の子安 こやす 宣 せん 邦 くに は、明治維新 めいじいしん は民衆 みんしゅう にとっては明治 めいじ 5年 ねん の徴兵 ちょうへい 告諭 こくゆ における兵役 へいえき の義務 ぎむ であり、国民 こくみん にさせられていく過程 かてい であり、畏怖 いふ すべき国家 こっか の現前 げんぜん だったと言 い う[123] 。
明治維新 めいじいしん 150周年 しゅうねん (2018)以降 いこう
編集 へんしゅう
2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )10月 がつ 23日 にち 、明治維新 めいじいしん 150周年 しゅうねん を記念 きねん して政府 せいふ は式典 しきてん を憲政記念館 けんせいきねんかん で開 ひら いた[124] 。10月23日 にち は明治 めいじ へ改元 かいげん された日 ひ であり、1968年 ねん の明治 めいじ 百 ひゃく 年 ねん 祭 さい も同日 どうじつ に開催 かいさい された。安倍晋三 あべしんぞう 首相 しゅしょう (当時 とうじ )は式辞 しきじ で「明治 めいじ の人々 ひとびと が勇気 ゆうき と英断 えいだん 、たゆまぬ努力 どりょく 、奮闘 ふんとう によって、世界 せかい に向 む けて大 おお きく胸 むね を開 ひら き、新 あたら しい時代 じだい の扉 とびら を開 あ けた」「若 わか い世代 せだい の方々 かたがた にはこの機会 きかい に、我 わ が国 くに の近代 きんだい 化 か に向 む けて生 しょう じた出来事 できごと に触 ふ れ、光 ひかり と影 かげ 、様々 さまざま な側面 そくめん を貴重 きちょう な経験 けいけん として学 まな びとって欲 ほ しい」と述 の べた[124] 。明仁 あきひと 天皇 てんのう (現 げん 上皇 じょうこう )と美智子 みちこ 皇后 こうごう (現 げん 上 うえ 皇后 こうごう )は、政府 せいふ が招待 しょうたい せず、参列 さんれつ しなかった[124] 。
2017年 ねん から2018年 ねん にかけて多 おお くの研究 けんきゅう 書 しょ や一般 いっぱん 書 しょ が上梓 じょうし された。歴史 れきし 学者 がくしゃ の著作 ちょさく としては、三谷 みたに 博 ひろし 『維新 いしん 史 し 再考 さいこう 』、三谷 みたに 太一郎 たいちろう 『日本 にっぽん の近代 きんだい とは何 なに であったか』などがある。
経営 けいえい 学者 がくしゃ 米倉 よねくら 誠一郎 せいいちろう は『イノベーターたちの日本 にっぽん 史 し 近代 きんだい 日本 にっぽん の創造 そうぞう 的 てき 対応 たいおう 』(東洋経済新報社 とうようけいざいしんぽうしゃ 、2017年 ねん )で激動 げきどう の維新 いしん において創造 そうぞう 的 てき 対応 たいおう をなした人物 じんぶつ に注目 ちゅうもく し、高島 たかしま 秋帆 しゅうはん がアヘン戦争 せんそう で危機 きき 感 かん を高 たか めて、西洋 せいよう 砲術 ほうじゅつ の研究 けんきゅう をし、モルチール砲 ほう を輸入 ゆにゅう し分解 ぶんかい 模造 もぞう (リバースエンジニアリング) を行 おこな ったことや、大隈 おおくま 重信 しげのぶ が秩禄処分 しょぶん において、士族 しぞく の俸禄を数 すう 年 ねん 分 ぶん の合算 がっさん 総額 そうがく に7%の利子 りし を付 つ けた公債 こうさい を発行 はっこう (バウチャー 制度 せいど )を生 う み出 だ して生活 せいかつ を保障 ほしょう 、同時 どうじ に旧 きゅう 士族 しぞく が起業 きぎょう や農工 のうこう 商 しょう への転職 てんしょく できるように士族 しぞく 授産 じゅさん 政策 せいさく も実施 じっし したこと[125] 、笠井 かさい 順 じゅん 八 はち が日本 にっぽん に存在 そんざい しなかったセメント 製造 せいぞう をベンチャー事業 じぎょう として行 い ったこと、三野村 みのむら 利左衛門 りざえもん が三井 みつい 家 か に外部 がいぶ から入 はい り、祖業 そぎょう の呉服 ごふく 商 しょう を三越 みつこし 家 か に分割 ぶんかつ し、三井 みつい 銀行 ぎんこう を設立 せつりつ し、三井 みつい 財閥 ざいばつ を中興 ちゅうこう させたこと、また同 おな じく外部 がいぶ から登用 とうよう された益田 ますだ 孝 たかし が三井物産 みついぶっさん を設立 せつりつ したこと、岩崎 いわさき 彌太郎 やたろう が三菱 みつびし 商船 しょうせん 学校 がっこう や三菱 みつびし 商業 しょうぎょう 学校 がっこう を設立 せつりつ し、人的 じんてき 資源 しげん を確保 かくほ するなど多角 たかく 的 てき 事業 じぎょう 体 たい の三菱 みつびし 財閥 ざいばつ を発展 はってん させたことなどを讃 たた えた[126] 。
明治維新 めいじいしん 150周年 しゅうねん については批判 ひはん 的 てき な意見 いけん を言 い う者 もの もおり、歴史 れきし 学者 がくしゃ 奈良 なら 勝司 しょうじ は、明治 めいじ 日本 にっぽん では、武力 ぶりょく (国力 こくりょく )の底上 そこあ げへの奉仕 ほうし を国民 こくみん が強 し いられたと総括 そうかつ し、『明治 めいじ の精神 せいしん 』への回帰 かいき とは、日本 にっぽん 賛美 さんび による癒 い やし であり、「アトラクション化 か させた過去 かこ の消費 しょうひ 」やご都合主義 つごうしゅぎ 的 てき に加工 かこう した歴史 れきし への逃避 とうひ では、未来 みらい の展望 てんぼう につながらないと警告 けいこく した[127] 。平和 へいわ 学者 がくしゃ 木村 きむら 朗 あきら は「明治 めいじ 翼賛 よくさん の最大 さいだい の問題 もんだい は、自国 じこく に不都合 ふつごう な歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ の忘却 ぼうきゃく 」にあるとし、近代 きんだい 日本 にっぽん は「アジアで唯一 ゆいいつ の帝国 ていこく 主義 しゅぎ 国家 こっか 」となり、アジア諸国 しょこく への侵略 しんりゃく 、会津 あいづ 藩 はん の悲劇 ひげき や、アイヌ・琉球 りゅうきゅう への差別 さべつ は明治維新 めいじいしん の歪 ゆが みだとする[127] 。女性 じょせい 史 し 研究 けんきゅう 家 か 加納 かのう 実紀 みき 代 だい は、明治 めいじ 日本 にっぽん は女性 じょせい の抑圧 よくあつ を国家 こっか の制度 せいど として確立 かくりつ したとし、民法 みんぽう で女性 じょせい を準 じゅん 禁治産者 きんちさんしゃ 扱 あつか いし[128] 、高等 こうとう 教育 きょういく [129] や政治 せいじ 参加 さんか を禁 きん じたと指摘 してき し、明治 めいじ 150年 ねん 記念 きねん 行事 ぎょうじ は、明治 めいじ 以後 いご の歴史 れきし を肯定 こうてい 一辺倒 いっぺんとう に染 そ める恐 おそ れがあり、一方 いっぽう 的 てき な歴史 れきし 認識 にんしき が定着 ていちゃく しないよう注視 ちゅうし する必要 ひつよう があると警告 けいこく した[127] 。元 もと 学生 がくせい 運動 うんどう 家 か で科学 かがく 史家 しか の山本 やまもと 義隆 よしたか は『近代 きんだい 日本 にっぽん 150年 ねん 』(2018年 ねん )で「科学 かがく 技術 ぎじゅつ 総 そう 力戦 りきせん 」という角度 かくど から日本 にっぽん の近代 きんだい を論 ろん じた。ジャーナリストの斎藤 さいとう 貴男 たかお は、政府 せいふ 主導 しゅどう の明治維新 めいじいしん 記念 きねん 行事 ぎょうじ は、時 とき の政府 せいふ (長州 ちょうしゅう 藩 はん につながる第 だい 4次 じ 安倍 あべ 内閣 ないかく )礼賛 らいさん に繋 つな げようとしていると疑念 ぎねん を表明 ひょうめい している[130] 。
記者 きしゃ リチャード・カッツは、「明治維新 めいじいしん は米国 べいこく の独立 どくりつ 記念 きねん 日 び やフランスの革命 かくめい 記念 きねん 日 び のようなものなのに、現代 げんだい の日本人 にっぽんじん はなぜ、維新 いしん 150周年 しゅうねん を祝賀 しゅくが しないのか」と疑問 ぎもん に思 おも い、調査 ちょうさ すると、明治維新 めいじいしん を戦争 せんそう 時代 じだい の暗 くら い歴史 れきし と結 むす び付 つ けて考 かんが えている日本人 にっぽんじん が少 すく なくなかったという[115] 。日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し 研究 けんきゅう のピーター・ドウス は、明治維新 めいじいしん が「民主 みんしゅ 主義 しゅぎ や経済 けいざい 的 てき 繁栄 はんえい ではなく、日本 にっぽん を超 ちょう 国家 こっか 主義 しゅぎ や植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の拡大 かくだい 、すなわち破滅 はめつ へと導 みちび いていったと考 かんが えている日本人 にっぽんじん は多 おお い」と指摘 してき する[115] 。
日本 にっぽん 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう の苅部 かりべ 直 ただし は(『「維新 いしん 革命 かくめい 」への道 みち 』 )(2017年 ねん )において、マルクス主義 まるくすしゅぎ 歴史 れきし 学 がく の遠山 とおやま 茂樹 しげき などのような、明治維新 めいじいしん による文明開化 ぶんめいかいか を政府 せいふ が上 うえ から強引 ごういん に西洋 せいよう 化 か を進 すす め、庶民 しょみん にとっては迷惑 めいわく であったとするような評価 ひょうか は、事態 じたい の一部 いちぶ しか捉 とら えていないと批判 ひはん し、公儀 こうぎ の瓦解 がかい と新 しん 政府 せいふ の発足 ほっそく は、人々 ひとびと にとって生活 せいかつ 全体 ぜんたい に及 およ ぶ束縛 そくばく からの解放 かいほう と感 かん じられ、また西洋 せいよう 化 か もその動 うご きの一環 いっかん として歓迎 かんげい されたと述 の べている。苅部 かりべ によれば、人民 じんみん の側 がわ に立 た つ歴史 れきし 学 がく を標榜 ひょうぼう する遠山 とおやま 茂樹 しげき は、庶民 しょみん が文明開化 ぶんめいかいか を求 もと め、楽 たの しんだ実態 じったい には触 ふ れようとしないが、それは、遠山 とおやま が戦時 せんじ 中 ちゅう の1944年 ねん の論文 ろんぶん 「水戸 みと 学 がく の性格 せいかく 」で、孝明天皇 こうめいてんのう による「仁慈 じんじ 限 かぎ りなき御 ご 叡慮 えいりょ 」による幕 まく 藩 はん 封建 ほうけん 体制 たいせい の改革 かいかく で、「一 いち 君 くん 万民 ばんみん の我 わ が国体 こくたい の精華 せいか 」が「革新 かくしん 力 りょく 」となると論 ろん じたことへの苦 にが い反省 はんせい があったのではないかと指摘 してき している[132] 。また、文明開化 ぶんめいかいか 以前 いぜん の古 ふる い日本 にっぽん に憧 あこが れるロマンティシズムや、薩長 さっちょう の暴虐 ぼうぎゃく を強調 きょうちょう する幕臣 ばくしん びいき・江戸 えど っ子 こ びいきの歴史 れきし 観 かん も、遠山 とおやま と同様 どうよう に、民衆 みんしゅう に共感 きょうかん することを標榜 ひょうぼう しながらも、当時 とうじ の民衆 みんしゅう が文明開化 ぶんめいかいか を楽 たの しみ、欲望 よくぼう の発散 はっさん の機会 きかい が多 おお くなることを願 ねが ったという実態 じったい について書 か かないような「民衆 みんしゅう 不在 ふざい 」の罠 わな にはまっていると苅部 かりべ は批判 ひはん する[132] 。
政治 せいじ 史 し 研究 けんきゅう の北岡 きたおか 伸一 しんいち は『明治維新 めいじいしん の意味 いみ 』(2020年 ねん )で、明治維新 めいじいしん は既得 きとく 権益 けんえき を持 も つ特権 とっけん 層 そう を打破 だは し、様々 さまざま な制約 せいやく を取 と り除 のぞ いた民主 みんしゅ 化 か 革命 かくめい 、自由 じゆう 化 か 革命 かくめい 、人材 じんざい 登用 とうよう 革命 かくめい であったとする[67] 。北岡 きたおか によれば、江戸 えど 時代 じだい に国政 こくせい に参加 さんか できたのは、将軍 しょうぐん と譜代 ふだい 大名 だいみょう で構成 こうせい された幕 まく 閣 かく であり、親藩 しんぱん と外様 とざま 大名 だいみょう は排除 はいじょ されていたが、黒船 くろふね 来航 らいこう 以降 いこう 、雄藩 ゆうはん や朝廷 ちょうてい も国政 こくせい に参加 さんか するようになり、特 とく に下級 かきゅう 武士 ぶし を登用 とうよう した薩長 さっちょう が台頭 たいとう した[67] 。その後 ご の維新 いしん でこれらの下士 かし 出身 しゅっしん の官僚 かんりょう らは、自 じ 藩 はん を含 ふく む藩 はん を全廃 ぜんぱい し、武士 ぶし を含 ふく む身分 みぶん 制度 せいど さえも廃止 はいし した。初代 しょだい 内 ない 閣 かく 総理 そうり 大臣 だいじん になった伊藤 いとう 博文 ひろぶみ は農民 のうみん (足軽 あしがる )の出自 しゅつじ であったが、江戸 えど 時代 じだい には政治 せいじ への発言 はつげん も許 ゆる されない身分 みぶん であった[67] 。さらに西南 せいなん 戦争 せんそう 以後 いご の自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう を経 へ て、内閣 ないかく 制度 せいど が確立 かくりつ すると、豪農 ごうのう や内戦 ないせん 中 ちゅう は朝敵 ちょうてき とされた東北 とうほく 出身 しゅっしん 者 しゃ の政治 せいじ 参加 さんか も盛 さか んになり、1890年 ねん には信越 しんえつ 東北 とうほく の国会 こっかい 議員 ぎいん が誕生 たんじょう し、1918年 ねん には盛岡 もりおか 藩 はん 出身 しゅっしん の原 はら 敬 たかし が総理 そうり 大臣 だいじん になった[67] 。地租 ちそ 改正 かいせい によって中世 ちゅうせい 以来 いらい の石高 こくだか 制 せい も廃止 はいし 、田畑 たはた の売買 ばいばい も自由 じゆう になった。職業 しょくぎょう 選択 せんたく も自由 じゆう とされ、身分 みぶん を超 こ えた教育 きょういく 精度 せいど も導入 どうにゅう された[67] 。
日本 にっぽん 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう の子安 こやす 宣 せん 邦 くに は『「維新 いしん 」的 てき 近代 きんだい の幻想 げんそう 』(2020年 ねん )で明治維新 めいじいしん に端 はし を発 はっ する日本 にっぽん 近代 きんだい のあり方 かた を批判 ひはん した。
薩長 さっちょう 土肥 どい 中心 ちゅうしん に語 かた られてきた明治維新 めいじいしん を批判 ひはん する立場 たちば として、明治維新 めいじいしん の「敗者 はいしゃ 」、特 とく に戊辰戦争 ぼしんせんそう における会津 あいづ 藩 はん や奥羽 おうう 越 えつ 列藩 れっぱん 同盟 どうめい などの「敗者 はいしゃ 」視点 してん から書 か かれたものも多数 たすう ある。戊辰戦争 ぼしんせんそう 、新選 しんせん 組 ぐみ 、小栗 おぐり 忠順 ただまさ 、上野 うえの 戦争 せんそう 、会津 あいづ 戦争 せんそう 、箱 はこ 館 かん 戦争 せんそう の各 かく 項目 こうもく を参照 さんしょう 。
会津 あいづ 藩 はん については、司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう が小説 しょうせつ 「王城 おうじょう の守護 しゅご 者 しゃ 」(1965年 ねん 、別冊 べっさつ 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう )で会津 あいづ 藩主 はんしゅ 松平 まつだいら 容保 かたもり の孝明天皇 こうめいてんのう への忠誠 ちゅうせい を中心 ちゅうしん に会津 あいづ 藩 はん の悲劇 ひげき が強調 きょうちょう されたあと、多数 たすう の《会津 あいづ もの》小説 しょうせつ が続 つづ いた[133] 。司馬 しば をはじめ、長州 ちょうしゅう への敵意 てきい が繰 く り返 かえ し説 と かれた早乙女 さおとめ 貢 みつぐ の『會津 あいづ 士魂 しこん 』(1970-1988)、綱 つな 淵 ふち 謙 けん 錠 じょう 『戊 つちのえ 辰 たつ 落日 らくじつ 』(1978)、中村 なかむら 彰彦 あきひこ らの《会津 あいづ もの》小説 しょうせつ は、「怨念 おんねん 史観 しかん 」の源泉 げんせん を提供 ていきょう していった[133] 。石光 いしみつ 真人 まさと 編 へん 『ある明治 めいじ 人 じん の記録 きろく -会津 あいづ 人 じん 柴 しば 五郎 ごろう の遺書 いしょ 』(1974年 ねん , 改版 かいはん 2017年 ねん )も出 で た。会津 あいづ の郷土 きょうど 史家 しか 宮崎 みやざき 十 じゅう 三 さん 八 はち は、「長州 ちょうしゅう への怨恨 えんこん 」を基盤 きばん として、「会津 あいづ は明治 めいじ 政府 せいふ から徹底的 てっていてき にいじめられてきた」とする「観光 かんこう 史学 しがく 」を提唱 ていしょう した[133] 。宮崎 みやざき が新 しん 潮 しお 45 1992年 ねん 10月 がつ 号 ごう に発表 はっぴょう した「会津 あいづ 人 じん の書 か く戊辰戦争 ぼしんせんそう ヒロシマのピカドンと同 おな じ惨劇 さんげき 」では、会津 あいづ への長州 ちょうしゅう の砲撃 ほうげき とアメリカによる原爆 げんばく 投下 とうか とは、「一般 いっぱん 住民 じゅうみん を全 まった く無 む 差別 さべつ に暴力 ぼうりょく でぶっ殺 ころ したのは、全 まった く同 おな じだった」[134] とし、「会津 あいづ 戦争 せんそう の悲劇 ひげき を日本人 にっぽんじん が知 し っていたならば、太平洋戦争 たいへいようせんそう の悲劇 ひげき は防 ふせ げたかもしれない」と主張 しゅちょう した[133] 。こうした宮崎 みやざき の「怨念 おんねん 史観 しかん 」に対 たい しては、宮崎 みやざき の同級生 どうきゅうせい だった畑 はた 敬之助 けいのすけ や牧野 まきの 登 のぼる らによる批判 ひはん がある[133] [135] 。
なお、こうした「怨念 おんねん 史観 しかん 」の一 ひと つとして、新 しん 政府 せいふ 軍 ぐん が遺体 いたい の埋葬 まいそう を禁 きん じ、会津 あいづ 藩士 はんし の遺体 いたい が半年 はんとし 間 あいだ 野 の ざらしにされたという「埋葬 まいそう 禁止 きんし 説 せつ 」が1960年代 ねんだい 以降 いこう 現在 げんざい まで流布 るふ されてきた[136] 。しかし、2016年 ねん 12月に、戦死 せんし した藩士 はんし らの埋葬 まいそう が記録 きろく されていた史料 しりょう 『戦死 せんし 屍 かばね 取 と 仕 つかまつ 末 まつ (せんしかばねとりしまつ)金銭 きんせん 入用 にゅうよう 帳 ちょう 』が会津若松 あいづわかまつ 市 し で発見 はっけん され、新 しん 政府 せいふ は会津 あいづ 藩 はん 降伏 ごうぶく の10日 とおか 後 ご の旧暦 きゅうれき 10月 がつ 2日 にち に埋葬 まいそう を命令 めいれい し、翌 よく 10月3日 にち から同 どう 17日 にち にかけ、会津 あいづ 藩士 はんし 4人 にん が指揮 しき し、567体 たい の遺体 いたい を埋葬 まいそう したことがわかった[136] [137] 。「埋葬 まいそう 禁止 きんし 説 せつ 」について、会津若松 あいづわかまつ 市 し 史 し 研究 けんきゅう 会 かい の野口 のぐち 信一 しんいち は、会津 あいづ 戦争 せんそう から半年 はんとし 後 ご の1869年 ねん 2月 がつ に阿弥陀寺 あみだじ に遺体 いたい を改葬 かいそう したことが『半年 はんとし 間 あいだ も放置 ほうち した』と誤認 ごにん された要因 よういん とみて[136] 、「歴史 れきし の話 はなし を聞 き くと、悲劇 ひげき 的 てき な部分 ぶぶん が頭 あたま に残 のこ りやすい。歴史 れきし は、耳学問 みみがくもん ではなく自 みずか ら学 まな ぶ姿勢 しせい が必要 ひつよう 」と話 はな す[138] 。
司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう は『「明治 めいじ 」という国家 こっか 』(1989)で、明治維新 めいじいしん 最大 さいだい の功績 こうせき 者 しゃ は、権力 けんりょく を放棄 ほうき した徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ と勝 かつ 海舟 かいしゅう であり、それに比 くら べて薩長 さっちょう は力 ちから にすぎないが、新 しん 政府 せいふ 側 がわ の士族 しぞく にしても戊辰戦争 ぼしんせんそう の恩賞 おんしょう もないどころか、廃藩置県 はいはんちけん や秩禄処分 しょぶん による士族 しぞく 解体 かいたい に大名 だいみょう 側 がわ で反乱 はんらん がなかったのは不思議 ふしぎ だという[139] [140] 。司馬 しば は、江戸 えど 時代 じだい の日本 にっぽん は「自立 じりつ 、自助 じじょ 、勤勉 きんべん 」でプロテスタンティズム に似 に ており、明治 めいじ 政府 せいふ もこれを踏襲 とうしゅう したが、ヨーロッパの合理 ごうり 主義 しゅぎ を買 か い続 つづ けて、江戸 えど の合理 ごうり 思想 しそう を捨 す てた結果 けっか が昭和 しょうわ の没落 ぼつらく ではないかと論 ろん じた[140] 。
文化 ぶんか 人類 じんるい 学者 がくしゃ 山口 やまぐち 昌男 まさお の『「敗者 はいしゃ 」の精神 せいしん 史 し 』(岩波書店 いわなみしょてん 、1995年 ねん )では、維新 いしん 以後 いご の薩長 さっちょう 中心 ちゅうしん の階層 かいそう 秩序 ちつじょ から離 はな れた文化 ぶんか 活動 かつどう を行 おこな ったとして、淡島 あわしま 椿岳 ちんがく ・淡島 あわしま 寒月 かんげつ 、大槻 おおつき 如電 じょでん 、山本 やまもと 覚 さとし 馬 ば 、大橋 おおはし 佐平 さへい 、土田 つちた 杏村 きょうそん 、吉野 よしの 作造 さくぞう や、旧 きゅう 幕臣 ばくしん らの事績 じせき が扱 あつか われた。
比較 ひかく 革命 かくめい 史 し で見 み る明治維新 めいじいしん
編集 へんしゅう
フランス革命 かくめい 、イギリス革命 かくめい 、アメリカ独立 どくりつ 革命 かくめい 等 とう との比較 ひかく
編集 へんしゅう
西洋 せいよう 史学 しがく の河野 こうの 健二 けんじ は「明治維新 めいじいしん と「西洋 せいよう 」」(1964)[141] において、明治維新 めいじいしん は経済 けいざい 的 てき にはブルジョワ革命 かくめい であり、政治 せいじ 的 てき には不徹底 ふてってい な革命 かくめい であったとする。ただし、徹底 てってい 不徹底 ふてってい は程度 ていど 問題 もんだい でもあり、イギリス革命 かくめい はフランス革命 かくめい よりも不徹底 ふてってい であったし、ジョルジュ・ルフェーブル がいうようにフランス革命 かくめい も「農民 のうみん 革命 かくめい 」という点 てん においては不徹底 ふてってい であった[142] という。河野 こうの によれば、明治 めいじ 政府 せいふ は、自由 じゆう 民権 みんけん 派 は による国会 こっかい 開設 かいせつ 請願 せいがん 運動 うんどう に対 たい して憲法 けんぽう 制定 せいてい ・国会 こっかい 開設 かいせつ を約束 やくそく するという先手 せんて を打 う つことによって革命 かくめい の矛先 ほこさき を巧 たく みにそらしたことができた革命 かくめい 政権 せいけん であった[141] 。河野 こうの 健 けん 二 に 編 へん 『近代 きんだい 革命 かくめい とアジア』名古屋大学出版会 なごやだいがくしゅっぱんかい 1987では、西欧 せいおう の革命 かくめい と明治維新 めいじいしん が対比 たいひ されながら、明治維新 めいじいしん の変革 へんかく 性 せい がクローズアップされ、明治維新 めいじいしん を絶対 ぜったい 主義 しゅぎ の成立 せいりつ とする見方 みかた はもはや見 み られなくなった[106] 。
フランス文化 ぶんか 研究 けんきゅう の桑原 くわばら 武夫 たけお は1956年 ねん には明治維新 めいじいしん を「後進 こうしん 国 こく 型 がた のブルジョワ革命 かくめい 」と評価 ひょうか していたが[143] 、1974年 ねん には明治維新 めいじいしん は「文化 ぶんか 革命 かくめい 」として徹底 てってい 性 せい があったとし、1986年 ねん には「ナショナリズム に立 た つ文化 ぶんか 革命 かくめい 」と評価 ひょうか した[106] [144] 。桑原 くわばら は「社会 しゃかい における巨大 きょだい な変化 へんか を革命 かくめい と呼 よ ぶこととすれば、維新 いしん こそ革命 かくめい と呼 よ ぶべき」で、「明治維新 めいじいしん を革命 かくめい と呼 よ ばずして、七 なな 月 がつ 革命 かくめい とか二 に 月 がつ 革命 かくめい などという名称 めいしょう を平気 へいき で使 つか っているのは滑稽 こっけい であります。最後 さいご の将軍 しょうぐん は殺 ころ されなかったのですが、これはいわば日本人 にっぽんじん の英知 えいち であって、流血 りゅうけつ が少 すく ないからダメとは言 い えません」と述 の べ、かつて自分 じぶん もブルジョワ革命 かくめい とも言 い ったことがあるが、もうその用語 ようご は使 つか わない、マルクス主義 まるくすしゅぎ 風 ふう の発展 はってん 段階 だんかい 説 せつ では解 と けないところが維新 いしん にはある、たとえば自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ だった中江 なかえ 兆民 ちょうみん が帝国 ていこく 憲法 けんぽう を設計 せっけい した井上 いのうえ 毅 あつし を敬愛 けいあい した矛盾 むじゅん が説明 せつめい できないし、天皇 てんのう も絶対 ぜったい 専制 せんせい 君主 くんしゅ ではなかったといい、また、新 しん 国家 こっか の軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ の侵略 しんりゃく 行為 こうい も「罵倒 ばとう から始 はじ めるのではなく、西欧 せいおう 先進 せんしん 国 こく の場合 ばあい をも併 あわ せ考 かんが え、冷静 れいせい に研究 けんきゅう すべき」と述 の べた[144] 。
西洋 せいよう 史学 しがく の遅塚 ちづか 忠 ただし 躬 によれば、イギリス革命 かくめい では革命 かくめい の担 にな い手 て がジェントリ に限定 げんてい されていたため、共通 きょうつう の利害 りがい を見出 みいだ すことができたが、フランス革命 かくめい では、ブルジョワジーと大衆 たいしゅう との間 あいだ に共通 きょうつう の利害 りがい を見出 みいだ すことが困難 こんなん であり、革命 かくめい の路線 ろせん に対 たい して党派 とうは 対立 たいりつ が激化 げきか したがゆえに粛清 しゅくせい にいたったとし、こうして独裁 どくさい とテロル、流血 りゅうけつ のコストを払 はら ったのはフランス革命 かくめい が社会 しゃかい 革命 かくめい であったからとする[145] 。遅塚 ちづか は、明治維新 めいじいしん はフランス革命 かくめい よりも流血 りゅうけつ が少 すく ないと強調 きょうちょう されるが、フランスが市民 しみん 社会 しゃかい を創出 そうしゅつ し、社会 しゃかい 的 てき デモクラシーを提示 ていじ し、近代 きんだい 化 か を進 すす めたのであり、「明治維新 めいじいしん が世界 せかい にどういう貢献 こうけん をしたかを考 かんが えるとともに、世界 せかい が血 ち まみれのフランス革命 かくめい に負 お っているものが何 なに であるかをも考慮 こうりょ すべきであろう」と指摘 してき する[145] 。
トマス・C ・スミスは1967年 ねん に、明治維新 めいじいしん は「1789年 ねん の大 だい 革命 かくめい がフランスにもたらした以上 いじょう の大 おお きな変革 へんかく を日本 にっぽん にもたらした」と評 ひょう した[146] 。
経済 けいざい 学者 がくしゃ ケネス・E・ボールディング は1970年 ねん に、コストが小 ちい さく持続 じぞく 的 てき な成長 せいちょう をもたらした成功 せいこう した革命 かくめい はアメリカ独立 どくりつ と明治維新 めいじいしん であるとした[67] [147] 。
他方 たほう 、イェール大学 だいがく 歴史 れきし 学 がく 教授 きょうじゅ で日本 にっぽん 近代 きんだい 化 か 論者 ろんしゃ のジョン・ホイットニー・ホール は1971年 ねん に、日本 にっぽん にはフランス革命 かくめい やロシア革命 かくめい のような政治 せいじ 的 てき イデオロギーがなく、明治維新 めいじいしん はブルジョワ革命 かくめい でも農民 のうみん 革命 かくめい でもなかったと評 ひょう した[110] [148] 。
作家 さっか フランク・ギブニーは、明治維新 めいじいしん を、アメリカ独立 どくりつ 革命 かくめい 、フランス革命 かくめい 、ロシア革命 かくめい 、中国 ちゅうごく 革命 かくめい と同列 どうれつ の、五大 ごだい 革命 かくめい の一 ひと つとし、明治維新 めいじいしん は近代 きんだい 世界 せかい における最初 さいしょ の大 だい 文化 ぶんか 革命 かくめい であったとする[149] 。ギブニーは、明治 めいじ 文化 ぶんか 革命 かくめい は、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の指導 しどう 者 しゃ が自己 じこ の権力 けんりょく の座 ざ を守 まも るために扇動 せんどう した文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい とは違 ちが うという[149] 。明治 めいじ 革命 かくめい は、中 ちゅう 下級 かきゅう 武士 ぶし が指導 しどう したが、知識 ちしき 人 じん 、豪商 ごうしょう 、町人 ちょうにん 階級 かいきゅう 、農民 のうみん も参加 さんか し、主 しゅ として国民 こくみん の合意 ごうい によるもので、または、国民 こくみん の期待 きたい 感 かん の高揚 こうよう があり、下層 かそう の身分 みぶん であっても能力 のうりょく があれば権威 けんい になれたことを民衆 みんしゅう が目 ま の当 あ たりにするにつれ、「多 おお くの人々 ひとびと にとってー幕 まく 藩 はん 体制 たいせい の支持 しじ 者 しゃ にとってさえー、革命 かくめい の具体 ぐたい 的 てき 成果 せいか の正当 せいとう 性 せい は明 あき らかであった。それ以上 いじょう に、新 あたら しい慣習 かんしゅう 、新 あたら しい思想 しそう 、新 あたら しい技術 ぎじゅつ 、新 あたら しい知識 ちしき には国民 こくみん の心 しん を魅了 みりょう する力 ちから があった」と指摘 してき する[149] 。さらに、アメリカとフランスの革命 かくめい が政治 せいじ 的 てき 革命 かくめい であり、ロシアと中国 ちゅうごく の革命 かくめい がイデオロギーの革命 かくめい であったのに対 たい して、明治 めいじ 革命 かくめい は近代 きんだい 史 し のなかで試 こころ みられた最初 さいしょ のトータル・レボリューション(Total Revolution)全面 ぜんめん 革命 かくめい であったという[149] 。また、ギブニーは、2000年 ねん の書評 しょひょう でも、明治維新 めいじいしん はフランス革命 かくめい やロシア革命 かくめい の多大 ただい な流血 りゅうけつ とは対照 たいしょう 的 てき であったと評 ひょう する[108] 。
歴史 れきし 学者 がくしゃ Thomas M.Huberは、1981年 ねん の著書 ちょしょ Revolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新 めいじいしん を担 にな ったのは、層 そう ・下層 かそう 武士 ぶし を中心 ちゅうしん とした、神官 しんかん ・僧侶 そうりょ 、医師 いし 、教員 きょういん 、名主 なぬし などのサービス・インテリゲンチャであり[150]
[151] 、明治維新 めいじいしん とは、封建 ほうけん 制度 せいど において抑圧 よくあつ されていたこれらの社会 しゃかい 階層 かいそう によって起 お こされた革命 かくめい であったとした[152] 。
ハーバード大学 だいがく 教授 きょうじゅ アンドルー・ゴードン は2003年 ねん の著書 ちょしょ 『日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し (邦題 ほうだい :日本 にっぽん の200年 ねん )』で、1868年 ねん 前後 ぜんこう に日本 にっぽん で起 お きた明治 めいじ 革命 かくめい では、政治 せいじ 統一 とういつ と中央 ちゅうおう 官僚 かんりょう 制 せい 、身分 みぶん 制 せい の廃止 はいし 、軍制 ぐんせい ・教育 きょういく ・税制 ぜいせい 改革 かいかく など広範 こうはん な改革 かいかく が実現 じつげん したのであり、これは「政治 せいじ 、経済 けいざい 、社会 しゃかい 、文化 ぶんか のどの側面 そくめん からとらえても、息 いき を呑 の むほど壮絶 そうぜつ であり、まさに革命 かくめい にふさわしいものだった」とし、19世紀 せいき から20世紀 せいき にかけて世界 せかい 各国 かっこく で起 お きた近代 きんだい 革命 かくめい の日本 にっぽん 的 てき な展開 てんかい であったとする[32] 。ゴードンによれば、この日本 にっぽん の近代 きんだい 革命 かくめい は先行 せんこう する西欧 せいおう の革命 かくめい とは対照 たいしょう 的 てき であったが、それ以後 いご に起 お きた諸 しょ 革命 かくめい と類似 るいじ していた[32] 。西欧 せいおう の革命 かくめい では新興 しんこう 階級 かいきゅう である都市 とし ブルジョワジーが貴族 きぞく 階級 かいきゅう の特権 とっけん に異議 いぎ を唱 とな えたが、日本 にっぽん では武士 ぶし 階級 かいきゅう が革命 かくめい を担 にな ったため、「貴族 きぞく 的 てき 革命 かくめい 」ともいわれる[32] 。日本 にっぽん の武士 ぶし は、主君 しゅくん に雇 やと われた「給与 きゅうよ 生活 せいかつ 者 しゃ ・従業 じゅうぎょう 員 いん 」であったため、西欧 せいおう の封土 ほうど や、中国 ちゅうごく の貴族 きぞく 階級 かいきゅう の領土 りょうど 制 せい や朝鮮 ちょうせん の両 りょう 班 はん よりも土地 とち との結 むす びつきが弱 よわ く、身分 みぶん が不安定 ふあんてい であった[32] 。ゴードンは、明治 めいじ 革命 かくめい をフランス革命 かくめい と比 くら べて不完全 ふかんぜん な革命 かくめい とするようなこれまでの評価 ひょうか は、ヨーロッパ中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ 的 てき な評価 ひょうか にすぎず、非 ひ 西欧 せいおう 地域 ちいき の歴史 れきし をその固有 こゆう な条件 じょうけん に即 そく して理解 りかい しようとするものではないため有用 ゆうよう でないとし、西欧 せいおう を基準 きじゅん とせず、同時 どうじ に、明治 めいじ 革命 かくめい が世界 せかい の近代 きんだい 革命 かくめい と同様 どうよう に持続 じぞく 的 てき な激動 げきどう のプロセスであったことを認識 にんしき することが肝要 かんよう であるという[32] 。
日本 にっぽん 政治 せいじ 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう の渡辺 わたなべ 浩 ひろし は、「明治 めいじ 革命 かくめい ・性 せい ・文明 ぶんめい 」(2021年 ねん )で、明治 めいじ 革命 かくめい とフランス革命 かくめい は、身分 みぶん 制 せい を壊 こわ して中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい をつくった点 てん で共通 きょうつう すると評価 ひょうか する[153] 。渡辺 わたなべ は「あれほどの大 だい 変革 へんかく が革命 かくめい でないとしたら、何 なに が「革命 かくめい 」なのでしょう? かつて、「皇国 こうこく 史観 しかん 」派 は は、日本 にっぽん に「革命 かくめい 」があったとは認 みと めたくなかった(この語 かたり の元来 がんらい の意味 いみ は、「王朝 おうちょう 交代 こうたい 」ですから)。マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ の多 おお くは、真 しん の「ブルジョア革命 かくめい 」ではなかったと考 かんが えた。こうして左右 さゆう の意見 いけん が一致 いっち して、革命 かくめい ではなく、単 たん に「維新 いしん 」だ、ということになり、今 いま に至 いた っているのです。でも、「維新 いしん 」は単 たん に新 あたら しくなることです。そこで、徳川 とくがわ の世 よ には、今 いま いう「寛政 かんせい の改革 かいかく 」を「寛政 かんせい 維新 いしん 」とも言 い います。「ブルジョア革命 かくめい 」であろうとなかろうと、あの不 ふ 可逆 かぎゃく 的 てき な大 だい 変革 へんかく を、たかが「維新 いしん 」などと呼 よ ぶ方 ほう がおかしくないでしょうか。」と説明 せつめい する[154] 。
ウェイクフォレスト大学 だいがく のR.ヘルヤーとハイデルベルク大学 だいがく のH.フュースも、明治維新 めいじいしん はアメリカ革命 かくめい やフランス革命 かくめい と同等 どうとう の革命 かくめい 的 てき 分水嶺 ぶんすいれい として位置付 いちづ けられるという[155] 。
日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ で東京大学 とうきょうだいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ の三谷 みたに 博 ひろし は、明治 めいじ 革命 かくめい は「君主 くんしゅ 制 せい をピヴォット とする世襲 せしゅう 身分 みぶん 制 せい の解体 かいたい という近代 きんだい 世界 せかい 史上 しじょう でも有数 ゆうすう の革命 かくめい 」とする[156] 。比較 ひかく 革命 かくめい 史 し で見 み ると明治維新 めいじいしん による犠牲 ぎせい 者 しゃ は極 きわ めて少 すく なく、その要因 よういん に、「公論 こうろん 」による政治 せいじ の決定 けってい や、長期 ちょうき 的 てき 危機 きき を予測 よそく し、その対応 たいおう に成功 せいこう したことなどが挙 あ げられるという[157] 。三谷 みたに は以下 いか のように考察 こうさつ する。
ナショナリズム の役割 やくわり 。戊辰戦争 ぼしんせんそう の死者 ししゃ 数 すう が約 やく 13600人 にん 、西南 せいなん 戦争 せんそう の死者 ししゃ 数 すう が約 やく 11500人 にん 、倒幕 とうばく 運動 うんどう 側 がわ の死者 ししゃ 数 すう が約 やく 2500人 にん で、復古 ふっこ の反対 はんたい 勢力 せいりょく の死者 ししゃ 数 すう は不明 ふめい だが、明治維新 めいじいしん における政治 せいじ 的 てき 死者 ししゃ 数 すう は、27600人 にん 〜3万 まん 人 にん と推計 すいけい できる[156] 。これに対 たい して、フランス革命 かくめい での政治 せいじ 的 てき 死者 ししゃ 数 すう は国内 こくない の死者 ししゃ は約 やく 40万 まん 人 にん 、フランス革命 かくめい 戦争 せんそう での死者 ししゃ 数 すう は約 やく 115万 まん 人 にん 、合計 ごうけい 約 やく 155万 まん 人 にん とされる[156] [158] 。また、20世紀 せいき の中国 ちゅうごく の国共 こっきょう 内戦 ないせん が175万 まん [159] や文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい での犠牲 ぎせい 者 しゃ は1000万 まん 人 にん 以上 いじょう である[156] 。明治維新 めいじいしん における政治 せいじ 的 てき 死者 ししゃ 数 すう が少 すく なかった理由 りゆう には、徳川 とくがわ 家 か と新 しん 政府 せいふ が戦争 せんそう を極小 きょくしょう に抑 おさ えたこと、特 とく に江戸 えど 開城 かいじょう による戦争 せんそう 回避 かいひ が主因 しゅいん とされ、戊辰戦争 ぼしんせんそう も抵抗 ていこう 者 しゃ が限定 げんてい され、短期間 たんきかん で終 お わった[156] 。このほか、大名 だいみょう や上級 じょうきゅう 武士 ぶし らが、「御家 おいえ (おいえ) 」に代 か えて「日本 にっぽん 」レベルのナショナリズム を持 も ったために世襲 せしゅう 的 てき 特権 とっけん の剥奪 はくだつ に抵抗 ていこう しなかったこともあげられる(幕末 ばくまつ の尊王 そんのう 攘夷 じょうい 論 ろん の目的 もくてき は鎖国 さこく を守 まも るためでなく、日本 にっぽん の根本 こんぽん 的 てき 改革 かいかく にあった[156] [160] )。フランス革命 かくめい では、革命 かくめい 派 は は、「国民 こくみん 化 か 」を阻 はば む抵抗 ていこう 勢力 せいりょく であった貴族 きぞく 、王 おう 党派 とうは 、ヴァンデーの農民 のうみん などを殺戮 さつりく し、さらに革命 かくめい 派 は は、周辺 しゅうへん の君主 くんしゅ 国 こく との戦争 せんそう を回避 かいひ せずに選択 せんたく したために[161] 、大量 たいりょう の犠牲 ぎせい が出 で た[156] 。フランスではすでに三 さん 部会 ぶかい において「国民 こくみん 」が権力 けんりょく の源泉 げんせん とされ、新 しん 秩序 ちつじょ を対等 たいとう に構成 こうせい する集合 しゅうごう 的 てき 主体 しゅたい として重視 じゅうし されていたが、日本 にっぽん では「国民 こくみん 」による秩序 ちつじょ 構想 こうそう が支持 しじ されたのは明治 めいじ 10年代 ねんだい であった[162] 。
分権 ぶんけん 制 せい ・中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 。江戸 えど 時代 じだい の幕 まく 藩 はん 体制 たいせい は連邦 れんぽう 国家 こっか であり、君主 くんしゅ が二 に 人 にん いる(徳川 とくがわ 将軍 しょうぐん と天皇 てんのう )双頭 そうとう 国家 こっか であった[156] 。清朝 せいちょう のような一 いち 極 きょく 集中 しゅうちゅう 型 がた の組織 そしき は解体 かいたい が難 むずか しいのに対 たい して、分権 ぶんけん 制 せい は解体 かいたい も再編 さいへん も容易 ようい であるが、ただし、インド やジャワ のように、分権 ぶんけん 制 せい であったがゆえにその隙 すき をついて外部 がいぶ 勢力 せいりょく が国家 こっか 統合 とうごう をなした場合 ばあい もある[156] 。近世 きんせい 日本 にっぽん は双頭 そうとう ・連邦 れんぽう 国家 こっか であったが、維新 いしん によって単一 たんいつ 国家 こっか としての「日本 にっぽん 」が創出 そうしゅつ された[162] 。フランスでは革命 かくめい 前 まえ より単一 たんいつ 国家 こっか で、封建 ほうけん 領主 りょうしゅ の連合体 れんごうたい からは脱却 だっきゃく していたが、一部 いちぶ で貴族 きぞく による支配 しはい と王権 おうけん による支配 しはい とが混在 こんざい していた[162] 。しかし、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい が完成 かんせい したのは革命 かくめい とナポレオン体制 たいせい であったことから、国家 こっか の統合 とうごう という点 てん では明治維新 めいじいしん とフランス革命 かくめい は同様 どうよう の結果 けっか を産 う んだ[162] 。
間接 かんせつ アプローチ戦略 せんりゃく 。廃 はい 藩 はん を実現 じつげん しようとした新 しん 政府 せいふ は、廃 はい 藩 はん を急激 きゅうげき に進 すす めると諸 しょ 大名 だいみょう からの抵抗 ていこう を受 う けると予想 よそう し、間接 かんせつ アプローチ戦略 せんりゃく をとって、廃藩置県 はいはんちけん より前 まえ に地 ち 均 ひとし らしとして版籍 はんせき 奉還 ほうかん を建議 けんぎ した[156] 。版籍 はんせき 奉還 ほうかん は、江戸 えど 期 き の将軍 しょうぐん 代替 だいが わりに伴 ともな う統治 とうち 許可 きょか 証 しょう 返還 へんかん の慣習 かんしゅう を拡張 かくちょう したものであったために、諸 しょ 大名 だいみょう からの抵抗 ていこう はほとんどなかった[156] 。戊辰戦争 ぼしんせんそう では、新 しん 政府 せいふ は各 かく 大名 だいみょう に銃 じゅう 隊 たい のみの編成 へんせい を命 めい じた。これにより、上級 じょうきゅう 家臣 かしん は従者 じゅうしゃ も伝統 でんとう 的 てき 武芸 ぶげい も使 つか うことができなくなった[156] 。動員 どういん で財政 ざいせい が逼迫 ひっぱく した藩 はん は統治 とうち 権 けん の返上 へんじょう を申 もう し出 で たところもあった[156] 。
君主 くんしゅ 制 せい による改革 かいかく 。維新 いしん で君主 くんしゅ 権 けん 強化 きょうか を主導 しゅどう したのは大名 だいみょう の家臣 かしん であり、いわば領主 りょうしゅ と庶民 しょみん の間 あいだ の中 なか 間 あいだ 層 そう であった。維新 いしん は君 きみ 権 けん を押 お し立 だ てた意味 いみ では「上 うえ からの改革 かいかく 」であったが、内実 ないじつ は中 ちゅう 間 あいだ 層 そう による「下 した からの改革 かいかく 」であった[156] 。新 しん 政府 せいふ は御 ご 誓文 せいもん で「広 ひろ く会議 かいぎ を興 おこ し、万 まん 機 き 公論 こうろん に決 けっ すべし」と宣言 せんげん し、これが民 みん 撰 せん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ などでも繰 く り返 かえ し引用 いんよう され、国是 こくぜ となり、立憲 りっけん 政治 せいじ が定着 ていちゃく していった[156] [* 7] 。誓文 せいもん 以前 いぜん にも安政 あんせい 期 き から「公 おおやけ 議 ぎ 」「公論 こうろん 」は重視 じゅうし されており、これが誓文 せいもん で確認 かくにん されており、ここに経路 けいろ 依存 いぞん 性 せい がある。さらに、室町 むろまち 期 き 以降 いこう には天皇 てんのう は政治 せいじ 的 てき 決定 けってい 権 けん を喪失 そうしつ していたという経路 けいろ 依存 いぞん 性 せい もあり、こうして天皇 てんのう と朝廷 ちょうてい は明治維新 めいじいしん において「公論 こうろん 」を受 う け入 い れ、憲法 けんぽう による君 きみ 権 けん の制限 せいげん も受 う け入 い れることができた[156] 。これは19世紀 せいき の朝鮮 ちょうせん や清朝 せいちょう が君 きみ 権 けん 制限 せいげん に強 つよ く抵抗 ていこう したことからみても、例外 れいがい 的 てき であった[156] 。
復古 ふっこ 。明治維新 めいじいしん は西洋 せいよう 文明 ぶんめい を取 と り入 い れながら、神武 じんむ 創業 そうぎょう という神話 しんわ 的 てき な始 はじめ 源 げん への復古 ふっこ が唱 とな えられた。一方 いっぽう 、フランス革命 かくめい でも進歩 しんぽ が提唱 ていしょう されながら、古代 こだい ローマ式 しき の誓 ちか いのポーズ や、凱旋 がいせん 門 もん 建設 けんせつ や月桂冠 げっけいかん の戴冠 たいかん など古代 こだい ローマ復古 ふっこ の象徴 しょうちょう が用 もち いられた[156] [* 8] 。また、江戸 えど 時代 じだい の役人 やくにん も政策 せいさく を提言 ていげん する際 さい には、先例 せんれい (古 こ 例 れい )を引用 いんよう するのが慣例 かんれい であり、明治維新 めいじいしん が「復古 ふっこ 」を用 もち いたのは特殊 とくしゅ でも奇異 きい でもなかった[156] 。また、西洋 せいよう での王政 おうせい 復古 ふっこ は、革命 かくめい 以前 いぜん の世襲 せしゅう 貴族 きぞく の支配 しはい を復元 ふくげん し、「国民 こくみん 」や「民主 みんしゅ 」という秩序 ちつじょ 規範 きはん を否定 ひてい しようとする「反動 はんどう 」の運動 うんどう であったのに対 たい し、明治維新 めいじいしん での「王政 おうせい 復古 ふっこ 」は、人々 ひとびと の「国民 こくみん 」化 か や「公論 こうろん 」を促進 そくしん した[163]
変革 へんかく の速度 そくど 。1863年 ねん までは尊攘 そんじょう 派 は と公 おおやけ 議 ぎ 政体 せいたい 追求 ついきゅう のふたつの運動 うんどう が拡大 かくだい し、尊攘 そんじょう 派 は は最後 さいご の局面 きょくめん で徳川 とくがわ 公儀 こうぎ 打倒 だとう を計画 けいかく したが、公然 こうぜん と「倒幕 とうばく 」を主張 しゅちょう するものは少数 しょうすう にとどまり、散発 さんぱつ 的 てき なテロルを除 のぞ けば暴力 ぼうりょく は行使 こうし されず、「倒幕 とうばく 」が急進 きゅうしん 化 か しても、中間 なかま 派 は はクーデターでこれを抑 おさ え、1868年 ねん の王政 おうせい 復古 ふっこ クーデター で軍事 ぐんじ 力 りょく は行使 こうし されなかった[162] 。長州 ちょうしゅう は公武 こうぶ 合体 がったい 体制 たいせい に挑戦 ちょうせん し、薩摩 さつま の支援 しえん を得 え て、徳川 とくがわ 軍 ぐん の撃退 げきたい に成功 せいこう した。王政 おうせい 復古 ふっこ クーデターで徳川 とくがわ 家 か による政権 せいけん 独占 どくせん は否定 ひてい された[162] 。さらに徳川 とくがわ 方 かた は武力 ぶりょく を発動 はつどう したうえで敗北 はいぼく したため、新 しん 政府 せいふ は徳川 とくがわ を排除 はいじょ し、さらに戊辰戦争 ぼしんせんそう によって中央 ちゅうおう 政権 せいけん としての地位 ちい が固 かた まった。その後 ご 、新 しん 政府 せいふ は版籍 はんせき 奉還 ほうかん 、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か 、身分 みぶん の平準 へいじゅん 化 か 、武士 ぶし や被 ひ 差別 さべつ 身分 みぶん の廃止 はいし 、公職 こうしょく 就任 しゅうにん 権利 けんり の開放 かいほう 、土地 とち 所有 しょゆう 権 けん の承認 しょうにん 、課税 かぜい の統一 とういつ 、移動 いどう の自由 じゆう 、職業 しょくぎょう 選択 せんたく の自由 じゆう 、婚姻 こんいん の自由 じゆう 、刑罰 けいばつ の均一 きんいつ 化 か などを実行 じっこう していった[162] 。フランス革命 かくめい と比 くら べると、明治維新 めいじいしん の経過 けいか は緩慢 かんまん で、理念 りねん 上 じょう の議論 ぎろん も乏 とぼ しく、制度 せいど 設計 せっけい は新 しん 政府 せいふ 成立 せいりつ 後 ご に始 はじ まった。三谷 みたに はいかにも行 ゆ き当 あ たりばったりに見 み えるが、これが維新 いしん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を少 すく なくさせた基礎 きそ 条件 じょうけん とみられる。理念 りねん 上 じょう の闘争 とうそう が欠如 けつじょ し、幕末 ばくまつ 約 やく 10年間 ねんかん の政争 せいそう において国家 こっか の進路 しんろ への合意 ごうい が形成 けいせい されたために、武力 ぶりょく 発動 はつどう が最小限 さいしょうげん で済 す まされた[162] 。フランス革命 かくめい では、いきなり旧 きゅう 体制 たいせい の全面 ぜんめん 否定 ひてい を打 う ち出 だ し、新 しん 秩序 ちつじょ の設計 せっけい 図 ず を提示 ていじ した。1789年 ねん 5月 がつ の三 さん 部会 ぶかい 直後 ちょくご の6月 がつ に国民 こくみん 議会 ぎかい が結成 けっせい 、7月 がつ バスティーユ襲撃 しゅうげき 、8月 がつ に封建 ほうけん 制 せい の廃止 はいし や人権 じんけん 宣言 せんげん を発布 はっぷ 、貴族 きぞく からの裁判 さいばん 権 けん の剥奪 はくだつ 、11月に教会 きょうかい 財産 ざいさん の国有 こくゆう 化 か 、1790年 ねん には世襲 せしゅう 貴族 きぞく 制 せい の廃止 はいし 、聖職 せいしょく 者 しゃ の市民 しみん 化 か 、1791年 ねん には同業 どうぎょう 組合 くみあい 禁止 きんし ,憲法 けんぽう 制定 せいてい 、1792年 ねん にはオーストリア に宣戦 せんせん 布告 ふこく (フランス革命 かくめい 戦争 せんそう )、1793年 ねん に国王 こくおう 処刑 しょけい と、日本 にっぽん の王政 おうせい 復古 ふっこ から廃 はい 藩 はん までの3年間 ねんかん に比 くら べてもはるかに急激 きゅうげき で、社会 しゃかい の深部 しんぶ に及 およ んだ。フランス革命 かくめい は中途 ちゅうと から漂流 ひょうりゅう を始 はじ めたのに対 たい し、日本 にっぽん では新 しん 秩序 ちつじょ がゆっくりと熟成 じゅくせい していった[162] 。
民衆 みんしゅう 運動 うんどう ・暴動 ぼうどう 。日本 にっぽん では1866年 ねん の武 たけ 州 しゅう 一揆 いっき や、ええじゃないか 、1873年 ねん の徴兵 ちょうへい 令 れい ・小学校 しょうがっこう 反対 はんたい 一揆 いっき 、地租 ちそ 改正 かいせい 反対 はんたい 一揆 いっき などの民衆 みんしゅう 騒擾 そうじょう があるが、これらは個別 こべつ の争点 そうてん をめぐるもので、同 どう 時期 じき に進行 しんこう していた武士 ぶし の政治 せいじ 運動 うんどう と連動 れんどう していなかった[162] 。フランスではバスティーユ襲撃 しゅうげき など民衆 みんしゅう 蜂起 ほうき は政治 せいじ 変動 へんどう に決定的 けっていてき であった。この背景 はいけい として、フランスの田舎 いなか 貴族 きぞく が公共 こうきょう 事務 じむ から退 しりぞ きながら、徴税 ちょうぜい 権 けん と裁判 さいばん 権 けん を維持 いじ していたため、これが庶民 しょみん による貴族 きぞく 特権 とっけん への怨恨 えんこん の基盤 きばん となり、民衆 みんしゅう は食料 しょくりょう 不安 ふあん の原因 げんいん を貴族 きぞく の陰謀 いんぼう に帰 かえ した[162] 。これに対 たい して日本 にっぽん の武家 ぶけ は日常 にちじょう 行政 ぎょうせい に携 たずさ わり、無 む 役 やく の侍 さむらい が農村 のうそん 部 ぶ に居住 きょじゅう し、課 か 役 やく 徴収 ちょうしゅう も少 すく なかった[162] 。暴動 ぼうどう を比較 ひかく しても、日本 にっぽん では破壊 はかい 対象 たいしょう が建物 たてもの や証文 しょうもん であったが、フランスでは大 だい 恐怖 きょうふ 、恐怖 きょうふ 政治 せいじ など「恐怖 きょうふ の支配 しはい 」が起 お こり、民衆 みんしゅう は得体 えたい の知 し れぬ「陰謀 いんぼう 」に怯 おび え、犯人 はんにん 探 さが しをした[162] 。日本 にっぽん では1858年 ねん の政変 せいへん において、井伊 いい 直弼 なおすけ の側近 そっきん が、水戸 みと 藩 はん 徳川 とくがわ 斉昭 なりあき が息子 むすこ を将軍 しょうぐん に建 た てる計画 けいかく があるという水戸 みと 陰謀 いんぼう 論 ろん を、一 いち 橋 きょう 派 は への弾圧 だんあつ の根拠 こんきょ としたが、以後 いご 、陰謀 いんぼう 論 ろん はあまり登場 とうじょう しなかった[162] 。
国家 こっか と君主 くんしゅ 。日本 にっぽん では政策 せいさく の決定 けってい 権 けん は君主 くんしゅ 個人 こじん でなく、重臣 じゅうしん の合議 ごうぎ 体 たい であった。中 ちゅう 下級 かきゅう 武士 ぶし による政策 せいさく 提案 ていあん 、上級 じょうきゅう 武士 ぶし による合議 ごうぎ 、君主 くんしゅ による裁可 さいか という段階 だんかい を経 へ て行 おこな われ、君主 くんしゅ の発議 はつぎ は稀 まれ で、重臣 じゅうしん 会議 かいぎ の決定 けってい をそのまま受 う け入 い れるのが通常 つうじょう であった[162] 。フランスでは、君主 くんしゅ は「国家 こっか 第 だい 一 いち の下僕 げぼく 」といわれたものの、国家 こっか の政策 せいさく の最終 さいしゅう 決定 けってい 者 しゃ であり、自 みずか らの意思 いし による決定 けってい が誇示 こじ されていた。(加藤 かとう 弘之 ひろゆき の立憲 りっけん 制 せい 論 ろん ではフランス革命 かくめい は反面 はんめん 教師 きょうし とされた。)そのため、フランス国王 こくおう の国外 こくがい 逃亡 とうぼう とその失敗 しっぱい は、王制 おうせい の致命傷 ちめいしょう となり、革命 かくめい の定着 ていちゃく と急 きゅう 進化 しんか の分水嶺 ぶんすいれい となり、「国王 こくおう はフランスの主権 しゅけん 者 しゃ でも国民 こくみん でもない」という烙印 らくいん を押 お されることとなった[162] 。
公論 こうろん ・知的 ちてき 環境 かんきょう 。日本 にっぽん では1858年 ねん 以降 いこう 、「天下 てんか の公論 こうろん 」が政府 せいふ 批判 ひはん の論拠 ろんきょ とされたが、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう 以前 いぜん には閉 と じられた空間 くうかん で行 おこな われており、街頭 がいとう での演説 えんぜつ やデモンストレーション、パンフレット配布 はいふ などは行 おこな われなかった[162] 。フランスでは、公開 こうかい の場 ば で議論 ぎろん され、三 さん 部会 ぶかい 召集 しょうしゅう も憲法 けんぽう 制定 せいてい も議論 ぎろん によって決 き められた[162] 。明治維新 めいじいしん では天皇 てんのう が持 も ち出 だ されることで徳川 とくがわ の権威 けんい が引 ひ き下 さ げられ、大名 だいみょう の統治 とうち 権 けん も解体 かいたい された。これは、三 さん 部会 ぶかい や国民 こくみん 議会 ぎかい が国王 こくおう の権威 けんい に訴 うった えて貴族 きぞく の特権 とっけん を否定 ひてい したことに似 に ている[162] 。また、18世紀 せいき フランスでは啓蒙 けいもう 思想 しそう などの知的 ちてき 環境 かんきょう が発展 はってん した。これが革命 かくめい において慣習 かんしゅう を覆 くつがえ し、抽象 ちゅうしょう 的 てき な原則 げんそく 体系 たいけい で置換 ちかん しようとしたことにつながった。しかしこのような原則 げんそく 論 ろん は互 たが いに矛盾 むじゅん し、論争 ろんそう は激烈 げきれつ となり、予想 よそう 外 がい の副作用 ふくさよう もあり、混乱 こんらん と不安定 ふあんてい が長期 ちょうき 化 か した。日本 にっぽん では、「国防 こくぼう 」「公 おおやけ 議 ぎ 」「尊王 そんのう 」といったスローガンが主 おも で、制度 せいど 論 ろん は稀 まれ だった。幕末 ばくまつ では約 やく 十 じゅう 年 ねん かけて、新 しん 秩序 ちつじょ への合意 ごうい が熟 じゅく していったため、対立 たいりつ は最小 さいしょう 化 か された[162] 。
「最後 さいご の講座 こうざ 派 は 」と呼 よ ばれた中村 なかむら 政則 まさのり は、1848年 ねん 革命 かくめい においてブルジョワジー は民衆 みんしゅう 運動 うんどう に対 たい して保守 ほしゅ 化 か し、イギリスやフランスのブルジョワ革命 かくめい は終焉 しゅうえん するとともに、後進 こうしん 国 こく においては英 えい 仏 ふつ 型 がた ブルジョワ革命 かくめい の実現 じつげん する条件 じょうけん は失 うしな われたため、明治維新 めいじいしん を英 えい 仏 ふつ 型 がた 革命 かくめい と比較 ひかく するよりも、近代 きんだい 世界 せかい システム論 ろん でいう半周 はんしゅう 辺 べ 的 てき 資本 しほん 主義 しゅぎ 国家 こっか 群 ぐん に属 ぞく する日本 にっぽん は、同 おな じ半周 はんしゅう 辺 べ 国家 こっか 群 ぐん に属 ぞく するイタリア 、ロシア と比較 ひかく した方 ほう がよいと中村 なかむら はいう[30] 。19世紀 せいき イタリア ではリソルジメント(統一 とういつ )運動 うんどう が、ロシアでは1861年 ねん の農奴 のうど 解放 かいほう 以降 いこう 、近代 きんだい 化 か 改革 かいかく が実施 じっし された。ロシア帝国 ていこく の歴史 れきし #大改革 だいかいかく と革命 かくめい の胎動 たいどう (1855年 ねん - 1881年 ねん ) を参照 さんしょう 。
ウォーラーステイン の近代 きんだい 世界 せかい システム論 ろん では、次 つぎ の三 みっ つに分類 ぶんるい される[30] 。
イタリアでの改革 かいかく の主導 しゅどう 権 けん は大 だい 土地 とち 貴族 きぞく と大 だい ブルジョワジーであったため、農業 のうぎょう 革命 かくめい 、土地 とち 改革 かいかく が欠如 けつじょ していた。また農工 のうこう 保護 ほご 関税 かんぜい によって、北部 ほくぶ のブルジョワジーと南部 なんぶ の大 だい 土地 とち 所有 しょゆう が温存 おんぞん され、南北 なんぼく の格差 かくさ 構造 こうぞう も発生 はっせい した[30] 。
ロシア、イタリア、日本 にっぽん の共通 きょうつう 点 てん として、集権 しゅうけん 的 てき かつ権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき な国家 こっか 体制 たいせい のもとで資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 工業 こうぎょう 化 か が急速 きゅうそく に推進 すいしん され、先進 せんしん 地域 ちいき と遅 おく れた地域 ちいき という構造 こうぞう を残 のこ したこと、民衆 みんしゅう の政治 せいじ 的 てき 権利 けんり が抑圧 よくあつ されたことなどがある[30] 。
中村 なかむら はイタリアのアルベルト憲法 けんぽう 、ロシア帝国 ていこく 憲法 けんぽう との比較 ひかく を踏 ふ まえ、明治 めいじ 日本 にっぽん の憲法 けんぽう は、絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 的 てき 性格 せいかく と立憲 りっけん 主義 しゅぎ 的 てき 性格 せいかく を併 あわ せ持 も つ「絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 的 てき 立憲 りっけん 制 せい 」と規定 きてい した[166] 。
非 ひ ヨーロッパ地域 ちいき における近代 きんだい 化 か との比較 ひかく
編集 へんしゅう
明治維新 めいじいしん の諸 しょ 改革 かいかく は、新 あら たな制度 せいど で生 しょう じた矛盾 むじゅん をいくらか孕 はら みながらも、おおむね成功 せいこう を収 おさ め、短期間 たんきかん で立憲 りっけん 制度 せいど を達成 たっせい し、富国強兵 ふこくきょうへい が推進 すいしん された。その評価 ひょうか は日 にち 清 しん 戦争 せんそう ・日 にち 露 ろ 戦争 せんそう における勝利 しょうり により飛躍 ひやく 的 てき に高 たか まり、諸 しょ 外国 がいこく からも感嘆 かんたん ・驚異 きょうい の目 め で見 み られるようになった。特 とく にアジア諸国 しょこく では明治維新 めいじいしん を模範 もはん として改革 かいかく や独立 どくりつ 運動 うんどう を行 おこな おうとする動 うご きが盛 さか んになる。孫 まご 文 ぶん も日本 にっぽん 亡命 ぼうめい 時 じ には『明治維新 めいじいしん は中国 ちゅうごく 革命 かくめい の第一歩 だいいっぽ であり、中国 ちゅうごく 革命 かくめい は明治維新 めいじいしん の第 だい 二 に 歩 ほ である』との言葉 ことば を犬 いぬ 養 やしなえ 毅 あつし へ送 おく っている[167] 。
ロシアを含 ふく むアジアでの近代 きんだい 化 か 革命 かくめい としては、朝鮮 ちょうせん における壬 みずのえ 午 うま 事変 じへん ・甲 きのえ 申 さる 政変 せいへん や清 きよし における戊 つちのえ 戌 いぬ の変 へん 法 ほう やオスマン帝国 ていこく におけるタンジマート の失敗 しっぱい 、長続 ながつづ きしなかったイラン のイラン立憲 りっけん 革命 かくめい やロシア帝国 ていこく のヴィッテ改革 かいかく ・ストルイピン改革 かいかく などが典型 てんけい である(朝鮮 ちょうせん の改革 かいかく 運動 うんどう については金玉 きんぎょく 均 ひとし など、清 きよし の改革 かいかく については光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど 、黄 き 遵憲 なども参照 さんしょう )。しかしいずれも確実 かくじつ な成功 せいこう を収 おさ めたものとまではいえなかった。
一定 いってい の成功 せいこう を収 おさ めた例 れい としては、パラグアイ のカルロス・アントニオ・ロペス 大統領 だいとうりょう による改革 かいかく 、タイ のチャクリー改革 かいかく 、トルコ のアタテュルク主義 しゅぎ 、エジプト のエジプト革命 かくめい 、メキシコ のベニート・フアレス改革 かいかく が挙 あ げられる。
日本 にっぽん は明治維新 めいじいしん によって列強 れっきょう と化 か したことにより、アジア諸国 しょこく では数少 かずすく ない植民 しょくみん 地 ち にならなかった国 くに となった。明治維新 めいじいしん は欧米 おうべい 列強 れっきょう に抑圧 よくあつ されたアジア諸国 しょこく にとって近代 きんだい 化 か 革命 かくめい の模範 もはん ともなった。やがて日本 にっぽん 自身 じしん が列強 れっきょう 側 がわ の国家 こっか として、帝国 ていこく 主義 しゅぎ 的 てき な領土 りょうど ・権益 けんえき 獲得 かくとく を行 おこな う立場 たちば となったが、それが行使 こうし されたのは台湾 たいわん や朝鮮 ちょうせん 、中国 ちゅうごく の一部 いちぶ という限 かぎ られたものに終 お わり、イギリスやアメリカ、オランダ などのように本土 ほんど から遠 とお く離 はな れた地 ち を植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 下 か に置 お くようなことはなかった。
一方 いっぽう 、ほとんどのアジア諸国 しょこく で挫折 ざせつ ないし不可能 ふかのう だった近代 きんだい 化 か 革命 かくめい が、なぜ日本 にっぽん においてのみ成功 せいこう したのかについても近年 きんねん 研究 けんきゅう が盛 さか んとなっている。孫 まご 文 ぶん やスカルノ 、マハティール・ビン・モハマド や毛沢東 もうたくとう をはじめ、その他 た アジアの指導 しどう 者 しゃ はほぼ例外 れいがい なく明治維新 めいじいしん に何 なん らかの関心 かんしん を持 も っており、その歴史 れきし 的 てき 価値 かち についての問 と い直 なお しが盛 さか んとなっている。
中東 ちゅうとう 社会 しゃかい 学者 がくしゃ の山口 やまぐち 直彦 なおひこ は、エジプト 史 し での比較 ひかく を論 ろん じている。
エジプトの初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ナセル は、『アラブ連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 国民 こくみん 憲章 けんしょう 』の中 なか で「エジプトがその眠 ねむ りから醒 さ めた時 とき 、近代 きんだい 日本 にっぽん は進歩 しんぽ に向 む かって歩 あゆ み始 はじ めた。日本 にっぽん が着実 ちゃくじつ な歩 あゆ みを続 つづ けることに成功 せいこう したのと対照 たいしょう 的 てき に、個人 こじん 的 てき な冒険 ぼうけん によってエジプトの覚醒 かくせい は妨 さまた げられ、悲 かな しむべき弊害 へいがい を伴 ともな った挫折 ざせつ がもたらされた」と記 しる している[168] 。
エジプトで失敗 しっぱい した近代 きんだい 化 か が日本 にっぽん で成功 せいこう した理由 りゆう について、明治 めいじ の日本 にっぽん は教育 きょういく 制度 せいど が整 ととの っていた上 うえ に、「有司 ゆうし 専制 せんせい 」などという批判 ひはん もありつつも、議会 ぎかい や民権 みんけん 政党 せいとう 、マスコミなど政府 せいふ 批判 ひはん 勢力 せいりょく が常 つね に存在 そんざい して行政 ぎょうせい のチェック機能 きのう が働 はたら いていたのに対 たい し、エジプトにはこれがなかったため、君主 くんしゅ が個人 こじん 的 てき な私情 しじょう や私欲 しよく に突 つ き進 すす みやすかったことがあるという。明治 めいじ 政府 せいふ は外債 がいさい に慎重 しんちょう で返済 へんさい 能力 のうりょく を越 こ えない現実 げんじつ 的 てき な範囲 はんい に留 と めてきたが、エジプトは君主 くんしゅ の独走 どくそう で計算 けいさん もなく法外 ほうがい な利息 りそく の外債 がいさい に頼 たよ り続 つづ け、その結果 けっか 、財政 ざいせい 破綻 はたん と植民 しょくみん 地 ち 化 か を招 まね いたことが指摘 してき されている[168] 。
一方 いっぽう エジプト革命 かくめい から半 はん 世紀 せいき 以上 いじょう 前 まえ にオラービー革命 かくめい を起 お こしたアフマド・オラービー は、近代 きんだい 化 か 改革 かいかく が日本 にっぽん で成功 せいこう した理由 りゆう について、日本 にっぽん の地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん の良 よ さが背景 はいけい にあると分析 ぶんせき していたという。具体 ぐたい 的 てき には幕末 ばくまつ から明治 めいじ 初期 しょき の日本 にっぽん は生糸 きいと しか主要 しゅよう 産業 さんぎょう がなく、イギリスやフランスにとっての日本 にっぽん の価値 かち は大 だい 市場 いちば である清 きよし の付属 ふぞく 品 ひん 、あるいは太平洋 たいへいよう 進出 しんしゅつ のための薪炭 しんたん ・水 みず の補給 ほきゅう 地 ち でしかなく、スエズ運河 うんが を有 ゆう するエジプトに比 くら べて重要 じゅうよう 度 ど が低 ひく かったことがあるという[169] 。
東 ひがし アジア・東南 とうなん アジアの開発 かいはつ 独裁 どくさい と明治維新 めいじいしん の違 ちが い
編集 へんしゅう
明治維新 めいじいしん の通説 つうせつ として、天皇 てんのう を戴 いただ いた排他 はいた 的 てき な藩閥 はんばつ 政権 せいけん が、立憲 りっけん 政治 せいじ の進展 しんてん を遅 おく らせながら、経済 けいざい と軍事 ぐんじ の近代 きんだい 化 か に邁進 まいしん したとするような解釈 かいしゃく があるが、日本 にっぽん 政治 せいじ 史 し 研究 けんきゅう の坂野 さかの 潤 じゅん 治 ち と産業 さんぎょう 政策 せいさく 研究 けんきゅう の大野 おおの 健一 けんいち は、このような解釈 かいしゃく は、事実 じじつ に相反 あいはん していると批判 ひはん する[7] 。このような通説 つうせつ では、明治 めいじ 政府 せいふ は、台湾 たいわん の蔣介石 せき 政権 せいけん (1949-75)、タイ のサリット ・タノム 政権 せいけん (1958-73)、韓国 かんこく の朴 ぼく 正煕 せいき 政権 せいけん (1961-79)、シンガポール のリー・クアンユー 政権 せいけん (1965-90)、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の鄧小平 ひらた 政権 せいけん (1976-97)、マレーシア のマハティール 政権 せいけん (1981-)などの開発 かいはつ 独裁 どくさい のイメージと重 かさ ねられた[7] 。開発 かいはつ 独裁 どくさい の特徴 とくちょう は、1)内外 ないがい 危機 きき への対応 たいおう 、2)強力 きょうりょく な指導 しどう 者 しゃ 、3)指導 しどう 者 しゃ を支 ささ えるエリート、4)政治 せいじ 改革 かいかく を後回 あとまわ しにした開発 かいはつ イデオロギーの最 さい 優先 ゆうせん 、5)民主 みんしゅ 的 てき 手続 てつづ きではなく経済 けいざい 成果 せいか に基 もと づく正統 せいとう 化 か 、6)20-30年 ねん の同 どう 一 いち 体制 たいせい の継続 けいぞく などがあるが、これらのうち明治維新 めいじいしん との共通 きょうつう 項 こう は1)の内外 ないがい 危機 きき への対応 たいおう くらいであると坂野 さかの -大野 おおの は指摘 してき する[7] 。
坂野 さかの -大野 おおの によれば、明治 めいじ 政権 せいけん は、単純 たんじゅん な独裁 どくさい 体制 たいせい が何 なん 十 じゅう 年 ねん も存続 そんぞく したわけではなく、カリスマ 的 てき 指導 しどう 者 しゃ が上意下達 じょういかたつ の命令 めいれい を下 くだ したわけでもなく、経済 けいざい の近代 きんだい 化 か を最 さい 優先 ゆうせん したわけでもなく、政権 せいけん の正統 せいとう 性 せい を天皇 てんのう の権威 けんい のみに依存 いぞん したわけでもなかった[7] 。明治維新 めいじいしん は、「富国強兵 ふこくきょうへい 」と「公 おおやけ 議 ぎ 輿論 よろん 」の複数 ふくすう の目標 もくひょう 、細 こま かく分 わ ければ、「富国 ふこく 」と「強兵 きょうへい 」と「議会 ぎかい 」と「憲法 けんぽう 」の四 よん 目標 もくひょう の並列 へいれつ 的 てき 競合 きょうごう を通 つう じて、それに指導 しどう 者 しゃ 間 あいだ の合従連衡 がっしょうれんこう 、また指導 しどう 者 しゃ らによる目標 もくひょう の優先 ゆうせん 順位 じゅんい の自由 じゆう な変更 へんこう を通 つう じて達成 たっせい された[7] 。明治 めいじ の変革期 へんかくき においては、指導 しどう 者 しゃ も固定 こてい 的 てき ではなく、優先 ゆうせん される路線 ろせん は数 すう 年 ねん ごとに入 い れ替 か わり、勝利 しょうり した集団 しゅうだん も敗退 はいたい した集団 しゅうだん も永続 えいぞく 的 てき にその地位 ちい にいたわけではなく、これは開発 かいはつ 独裁 どくさい のような単一 たんいつ 目標 もくひょう の追及 ついきゅう や単純 たんじゅん な政治 せいじ 構造 こうぞう や単線 たんせん 的 てき 進行 しんこう とは異 こと なる、極 きわ めて複雑 ふくざつ な局面 きょくめん 展開 てんかい をともなう柔 やわら 構造 こうぞう モデルであったという[7] 。
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河野 こうの 健二 けんじ 「明治維新 めいじいしん と「西洋 せいよう 」」(1964)=桑原 くわばら 武夫 たけお 『ブルジョワ革命 かくめい の比較 ひかく 研究 けんきゅう 』筑摩書房 ちくましょぼう 、1964年 ねん :『幕末 ばくまつ 維新 いしん 論集 ろんしゅう 1世界 せかい の中 なか の明治維新 めいじいしん 』吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 2001,p60-67
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中村 なかむら 政則 まさのり 「第 だい 2回 かい 駒沢大学 こまざわだいがく 史学 しがく 大会 たいかい 第 だい 13回 かい 大学院 だいがくいん 史学 しがく 大会 たいかい 記念 きねん 講演 こうえん 明治維新 めいじいしん と日本 にっぽん 近代 きんだい 」『駒沢大学 こまざわだいがく 史学 しがく 論集 ろんしゅう 』第 だい 16巻 かん 、駒澤大学 こまざわだいがく 大学院 だいがくいん 史 し 学会 がっかい 、1986年 ねん 、309-336頁 ぺーじ 。
山口 やまぐち 直彦 なおひこ 『新版 しんぱん エジプト近 きん 現代 げんだい 史 し ムハンマド・アリー朝 あさ 成立 せいりつ からムバーラク政権 せいけん 崩壊 ほうかい まで』明石書店 あかししょてん 〈世界 せかい 歴史 れきし 叢書 そうしょ 〉、2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )。ISBN 978-4750334707 。
三谷 みたに 博 ひろし 『日本 にっぽん 史 し のなかの「普遍 ふへん 」 比較 ひかく から考 かんが える「明治維新 めいじいしん 」』東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 、2020年 ねん 1月 がつ
三浦 みうら 信孝 のぶたか ,福井 ふくい 憲彦 のりひこ 編著 へんちょ 『フランス革命 かくめい と明治維新 めいじいしん 』2018,白水 しろみず 社 しゃ
山 やま 﨑耕一 いち ・松浦 まつうら 義弘 よしひろ 編 へん 『フランス革命 かくめい 史 し の現在 げんざい 』 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 2013
『日本 にっぽん 資本 しほん 主義 しゅぎ 発達 はったつ 史 し 講座 こうざ 』(1932-1933年 ねん 、岩波書店 いわなみしょてん )第 だい 1-2巻 かん :明治維新 めいじいしん 史 し
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井上 いのうえ 勝 まさる 生 せい 『幕末 ばくまつ ・維新 いしん : シリーズ 日本 にっぽん 近 きん 現代 げんだい 史 し 1』 岩波 いわなみ 新書 しんしょ (2006年 ねん )
松本 まつもと 健一 けんいち 『日本 にっぽん の近代 きんだい 〈1〉1853~1871 開国 かいこく ・維新 いしん 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、1998年 ねん
坂本 さかもと 多 た 加 か 雄 ゆう 『日本 にっぽん の近代 きんだい 〈2〉1871~1890 明治 めいじ 国家 こっか の建設 けんせつ 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、1999年 ねん 、中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、2012年 ねん
御厨 みくりや 貴 たか 『日本 にっぽん の近代 きんだい 〈3〉1890-1905 明治 めいじ 国家 こっか の完成 かんせい 』(中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2001年 ねん
『日本 にっぽん 史 し 講座 こうざ 7 近世 きんせい の解体 かいたい 』(2005年 ねん )東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい
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明治維新 めいじいしん 史 し 学会 がっかい 編 へん 『講座 こうざ 明治維新 めいじいしん 』有志 ゆうし 舎 しゃ 、編集 へんしゅう 委員 いいん :佐々木 ささき 寛 ひろし 司 し ・木村 きむら 直也 なおや ・青山 あおやま 忠正 ただまさ ・松尾 まつお 正人 まさと ・勝田 かつた 政治 せいじ ・原田 はらだ 敬一 けいいち ・森田 もりた 朋子 ともこ ・奥田 おくだ 晴樹 はるき ・勝部 かつべ 眞人 まさと ・西澤 にしざわ 直子 なおこ ・小林 こばやし 丈 たけ 広 ひろ ・高木 たかぎ 博志 ひろし ・羽賀 はが 祥二 しょうじ 。全 ぜん 12巻 かん 、2010-18[3]
第 だい 1巻 かん 世界 せかい 史 し の中 なか の明治維新 めいじいしん (2010)
第 だい 2巻 かん 幕末 ばくまつ 政治 せいじ と社会 しゃかい 変動 へんどう (2011)
第 だい 3巻 かん 維新 いしん 政権 せいけん の創設 そうせつ (2011)
第 だい 4巻 かん 近代 きんだい 国家 こっか の形成 けいせい (2012)
第 だい 5巻 かん 立憲 りっけん 制 せい と帝国 ていこく への道 みち (2012)
第 だい 6巻 かん 明治維新 めいじいしん と外交 がいこう (2017)
第 だい 7巻 かん 明治維新 めいじいしん と地域 ちいき 社会 しゃかい (2014)
第 だい 8巻 かん 明治維新 めいじいしん の経済 けいざい 過程 かてい (2013)
第 だい 9巻 かん 明治維新 めいじいしん と女性 じょせい (2015)
第 だい 10巻 かん 明治維新 めいじいしん と思想 しそう ・社会 しゃかい (2016)
第 だい 11巻 かん 明治維新 めいじいしん と宗教 しゅうきょう ・文化 ぶんか (2016)
第 だい 12巻 かん 明治維新 めいじいしん 史 し 研究 けんきゅう の諸 しょ 潮流 ちょうりゅう (2018)