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常願寺川 - Wikipedia

常願寺川じょうがんじがわ

日本にっぽん河川かせん

常願寺川じょうがんじがわ(じょうがんじがわ)は、富山とやまけん中新川なかにいかわぐん立山たてやままち および富山とやまなが富山湾とやまわんそそ一級いっきゅう河川かせん。「常願寺川じょうがんじがわ」の名称めいしょう鎌倉かまくら時代ときよになって文献ぶんけんあらわれる[1]

常願寺川じょうがんじがわ
常願寺川 2006年3月15日撮影
富山とやまわんそそ常願寺川じょうがんじがわ
水系すいけい 一級いっきゅう水系すいけい 常願寺川じょうがんじがわ
種別しゅべつ 一級いっきゅう河川かせん
延長えんちょう 56 km
平均へいきん流量りゅうりょう 15 m³/s
びんがん観測かんそくしょ2002ねん
流域りゅういき面積めんせき 368 km²
水源すいげん 北ノ俣岳きたのまただけ
水源すいげん標高ひょうこう 2,661 m
河口かこう合流ごうりゅうさき 富山湾とやまわん
流域りゅういき 日本の旗 日本にっぽん 富山とやまけん
地図
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富山とやまけん富山とやま小見おみにて(芳見よしみきょう
立山たてやま連峰れんぽう常願寺川じょうがんじがわそらつまみ

ふるくは新川しんかわ(ニヒがわ、にいかわ)とばれたり、上流じょうりゅう下流かりゅうでそれぞれ様々さまざま呼称こしょうもちいられた[1]新川しんかわ新川しんかわぐん由来ゆらいともなっている)。流域りゅういき地名ちめいって大森川おおもりかわ(おおもりがわ)・水橋みずはしがわ(みずはしがわ)・いわ峅川(いわくらがわ)・あし峅川(あしくらがわ)ともばれた。

古代こだいから洪水こうずいおおかったため、かわ名前なまえは「出水しゅっすい氾濫はんらん)なきをつねねがう」という沿岸えんがん住民じゅうみん気持きもちをこめた瑞祥ずいしょう名称めいしょうである[2]。また、立山たてやま山中さんちゅうにある「常願寺じょうがんじ」、下流かりゅうかわ沿いにある「常願寺じょうがんじむら」、上流じょうりゅうにある大岩おおいわつねねがいいわ」から名付なづけられたせつもある[3]

富山とやまけんななだい河川かせん黒部川くろべがわ片貝川かたかいかわ早月川はやつきがわ常願寺川じょうがんじがわ神通川じんづうがわ庄川しょうがわ小矢部川おやべがわ)のひとつである。

なお、ほん項目こうもくでは上流じょうりゅう真川まかわ(まがわ)と湯川ゆかわ(ゆかわ)もわせて説明せつめいする。

地理ちり 編集へんしゅう

富山とやまけん富山とやま南東なんとう立山たてやま連峰れんぽう北ノ俣岳きたのまただけみなもとはっする真川まかわ浄土山じょうどさんみなもとにし立山たてやまカルデラをながれる湯川ゆかわかばひらめ(かんばだいら)付近ふきん合流ごうりゅうして常願寺川じょうがんじがわえる。その称名川しょうみょうがわ和田川わだがわ小口川こくちがわわせ流下りゅうかする。うえ流域りゅういきはきわめて急峻きゅうしゅん地形ちけいで、標高ひょうこう1,000m 以上いじょう高地こうち流域りゅういきやく73%におよ[4]

中新川なかにいかわぐん立山たてやままちとの境界きょうかい沿って北西ほくせいながれ、富山とやま高来たかき富山とやま水橋みずはしつじどう境界きょうかい富山湾とやまわんそそぐ。した流域りゅういきでは富山とやま上滝かみたきおうぎいただきとする常願寺川じょうがんじがわ扇状地せんじょうち形成けいせい富山平野とやまへいや一部いちぶをなしている。

常願寺川じょうがんじがわ本線ほんせんりゅう延長えんちょうやく56km、流域りゅういき面積めんせきは368m2である[1]

明治めいじ時代じだい常願寺川じょうがんじがわ改修かいしゅう工事こうじのために政府せいふから派遣はけんされたオランダじん技師ぎしヨハネス・デ・レーケが、「これはかわではない。たきである」とったとつたえられている。この言葉ことばは、実際じっさいには「とても急流きゅうりゅうだ」というような意味いみのことをったのが誇張こちょうされて(または誤訳ごやくされて)報告ほうこくされたものであるが、常願寺川じょうがんじがわ急流きゅうりゅうすごさを表現ひょうげんする言葉ことばとしてよく引用いんようされている。内務ないむ大臣だいじん提出ていしゅつした県知事けんちじ上申じょうしんしょに「かわといわんよりはむしろ瀑としょうするを充当じゅうとうすべし」とあり、これをデ・レーケの発言はつげんとするせつもある[5]が、どれも明確めいかくではない。また、常願寺川じょうがんじがわ改修かいしゅうたずさわった富山とやまけん土木どぼく技師ぎし高田たかだゆき太郎たろう発言はつげんとするせつ有力ゆうりょくされていた[6]

しかし、2020ねんはいると、実際じっさいローウェンホルスト・ムルデル早月川はやつきがわして発言はつげんしたということが、過去かこ富山とやまけん会議かいぎごとろくによって裏付うらづけられることになった。発言はつげんしゃかわ名前なまえあやまってつたわったのは、デ・レーケの業績ぎょうせきがあまりにおおきすぎたため、すりわった可能かのうせいがあるとしている[6]

流域りゅういき自治体じちたい 編集へんしゅう

  • 富山とやまけん
富山とやま立山たてやままち

支流しりゅう 編集へんしゅう

分流ぶんりゅう 編集へんしゅう

歴史れきし 編集へんしゅう

日本にっぽん屈指くっし急流きゅうりゅうであり、降水こうすいりょうおお地域ちいきであることから、流域りゅういきではむかしから水害すいがいなやまされてきたあばかわである。

縄文じょうもん時代じだいにおける常願寺川じょうがんじがわ流域りゅういきでは白岩川しらいわがわ神通川じんづうがわとのあいだ大小だいしょう支流しりゅう多数たすうながれており、奈良なら時代じだいにはいたちかわ現在げんざいかわどうとのあいだながれ、平安へいあん時代じだいにはいたちがわ熊野川くまのがわとのあいだを、つづいて鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち中期ちゅうきにはいたちかわ付近ふきん室町むろまち末期まっきには現在げんざいかわどう東側ひがしがわながれ、江戸えど時代じだい以降いこう現在げんざいおな位置いちながれているとかんがえられている[7]

近世きんせい治水ちすい対策たいさく 編集へんしゅう

常願寺川じょうがんじがわ治水ちすい本格ほんかくてきはじまりは、天正てんしょう8ねん1580ねん)、佐々ささしげるせい人海じんかい工法こうほうによって巨石きょせきあつめ、馬瀬口ませぐち上流じょうりゅう底辺ていへん40メートル、ながさ150メートルにおよぶかまぼこがたかすみつつみきずいたこととされる[1][8]。この堤防ていぼう佐々ささつつみ(さっさてい)とばれ現存げんそんする[1]河底かわぞこめた巨岩きょがん基礎きそとする三面さんめん玉石ぎょくせきりのかすみつつみで、当時とうじとしては画期的かっきてき規模きぼ強度きょうどであった[9]

富山とやまはん藩政はんせい時代じだい安政あんせい5ねん1858ねん)には土石流どせきりゅう従来じゅうらい堤防ていぼうまってしまったため、常願寺川じょうがんじがわ左岸さがん富山とやま西にしばんあらためて堤防ていぼうきずかれ「すみみんつつみ」と名付なづけられた[1]

また江戸えど時代じだいもしくはそれ以前いぜんから水害すいがい防備ぼうびりんうえ栽がおこなわれ、とく明和めいわ6ねん(1769ねん)には富山とやまはんろくだい藩主はんしゅ前田まえだとしあずかつつみ周辺しゅうへん水防すいぼうりん整備せいびした[1]。この水防すいぼうりん太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう伐採ばっさい減少げんしょうしたが、殿様林とのさまばやしとして城西じょうさい用水ようすい沿いに100ほんほどがのこっている[1]

とんび山崩やまくずれの影響えいきょう 編集へんしゅう

安政あんせい5ねん(1858ねん)に発生はっせいした飛越とびこし地震じしんにより、上流じょうりゅう立山たてやまカルデラにある鳶山とんびやまだい鳶山とんびやましょう鳶山とんびやま)で「やまけ」とばれるだい規模きぼやまたい崩壊ほうかい発生はっせいした(とんび山崩やまくず[1]。これにより大量たいりょう土砂どしゃいわめられた湯川ゆかわたにが2にわたって決壊けっかいし、土石流どせきりゅうとなって上流じょうりゅう真川まかわ湯川ゆかわ渓谷けいこくくされた[1]

水田すいでんちかくに点在てんざいするおもすうじゅうトン以上いじょうもある巨大きょだいいしだい転石てんせきばれ、富山とやま大場おおば地区ちくかわ沿いにある巨石きょせきは、直径ちょっけいやく6.5m、おもやく400トンもある[10]。また大場おおば地区ちく西番にしのばん(にしのばん)地区ちくとうには4m以上いじょう巨石きょせきやく40以上いじょうある[11]。これらの巨石きょせきは140ねんまえこった安政あんせい土石流どせきりゅうによってはこばれたものである。古文書こもんじょによれば「こんな巨石きょせき川底かわぞこいしとぶつかり、火花ひばならしながらながれてきた」という[12]

この土石流どせきりゅうによる被害ひがいは、当時とうじ富山とやまはん領内りょうないの18ヶ村かそんおよび、死者ししゃ140にん負傷ふしょうしゃ8,945にん流出りゅうしゅつ家屋かおく1,603およんだ。とく左岸さがんむら々の被害ひがい甚大じんだいであり、これらのむら被害ひがいすくなかった右岸うがん土地とち移住いじゅうした。常願寺川じょうがんじがわ右岸うがん左岸さがんどういち地名ちめいがあるのはその名残なごりである。土石流どせきりゅうによってながれてきた直径ちょっけい5メートル以上いじょうだい転石てんせき被害ひがいつたえる地蔵じぞうぞう水神すいじんぞう犠牲ぎせいしゃ供養くようとうなどその被害ひがいつたえる数々かずかず遺物いぶつかわ沿いにのこされている。

安政あんせい地震じしん流出りゅうしゅつしたやく2おく立方りっぽうメートルの土砂どしゃによって、大日だいにちきょう付近ふきんやく8メートル、立山たてやまきょう付近ふきんで20メートルも河床かしょう上昇じょうしょうしたと推定すいていされている。その常願寺川じょうがんじがわでは明治めいじ元年がんねん明治めいじ45ねんの45年間ねんかんに41かいもの洪水こうずい土砂どしゃ災害さいがい発生はっせいし、人家じんか農作物のうさくもつ多大ただい被害ひがいをもたらしている[13]

また、水源すいげんから流出りゅうしゅつした土砂どしゃによりした流域りゅういきでは河床かしょうだか地盤じばんだかよりもたか天井川てんじょうがわ形成けいせいした。1949ねん昭和しょうわ24ねん)から1967ねん昭和しょうわ42ねん)にかけて、タワーエキスカベータによるだい規模きぼ河床かしょう掘削くっさく実施じっしした。現在げんざいでは天井川てんじょうがわはほぼ解消かいしょうされているが一部いちぶ区間くかんのこっている[14]

近代きんだい以降いこう治水ちすい対策たいさく 編集へんしゅう

かつては河口かこう付近ふきんおおきくひがし屈曲くっきょく白岩川しらいわがわ合流ごうりゅうしていて、合流ごうりゅうは『水橋みずはしがわ』としょうしていた。

安政あんせいだい地震じしん以降いこう洪水こうずい多発たはつ明治めいじ以降いこう施策しさくにも影響えいきょうし、廃藩置県はいはんちけんのちいち石川いしかわけん編入へんにゅうされていた富山とやまけんが1883ねん明治めいじ16ねん)にさいおけされた要因よういんひとつに土木どぼく事業じぎょう方向ほうこうせいがあった[1]水害すいがいおおかったきゅうえつ中国ちゅうごく地域ちいきでは堤防ていぼう建設けんせつさい重要じゅうよう項目こうもくとされたが、きゅう加賀かがこく能登のとこくでは道路どうろ建設けんせつ優先ゆうせんするよう主張しゅちょう対立たいりつしていたことが背景はいけいにあるとされる[1]

1891ねん明治めいじ24ねん)7がつ19にちから20日はつかにかけて、常願寺川じょうがんじがわではりょうきし堤防ていぼう決壊けっかいする豪雨ごうう災害さいがい発生はっせいした[1]富山とやま県知事けんちじ森山もりやましげるくに専門せんもん技師ぎし派遣はけん要請ようせいし、同年どうねん8がつ6にちにヨハニス・デ・レーケが富山とやま到着とうちゃくした[1]

デ・レーケは、取水しゅすいこうひとつにまとめて新規しんき用水路ようすいろ開削かいさくすること、しん堤防ていぼう築造ちくぞう下流かりゅうりゅう変更へんこう白岩川しらいわがわとの分離ぶんり)、川幅かわはば拡張かくちょう提案ていあんした[1]。これをけて1892ねん明治めいじ25ねん)2がつから本格ほんかくてき改修かいしゅう工事こうじ着手ちゃくしゅし、1ねん4カ月かげつ工期こうき完成かんせいした[1]。これ以降いこう合流ごうりゅう川幅かわはば白岩川しらいわがわのみとなったことでせまくなったため、のちてたうえ商店しょうてんがい立山たてやままち商栄しょうえいかい)や住宅じゅうたくとなった。また、東西とうざいきょう左岸さがん100mには、水橋みずはしがわ時代じだい名残なごり用水路ようすいろのこっている[15]。また、1893ねん(明治めいじ26ねん) に12の用水ようすい統合とうごうしたつね西にし合口あいくち用水ようすい完成かんせいした[1]

一方いっぽう、1891ねん明治めいじ24ねん)の河川かせん改修かいしゅう工事こうじ開始かいし毎年まいとし洪水こうずい発生はっせいし、住民じゅうみんからは上流じょうりゅう山地さんち砂防さぼう工事こうじもとめられるようになった[1]1906ねん明治めいじ39ねん)から県営けんえい事業じぎょうとしておこなわれていたが、1922ねん大正たいしょう11ねん)の豪雨ごうう水源すいげん地域ちいき建設けんせつちゅう堰堤えんてい被害ひがいけたため、1926ねん大正たいしょう15ねん)からはくに直轄ちょっかつ事業じぎょうとしておこなわれている[1]立山たてやま砂防さぼう工事こうじ事務所じむしょ所長しょちょうだった赤木あかぎ正雄まさお砂防さぼう計画けいかくもとづきどろたに砂防さぼう堰堤えんていぐん建設けんせつされ、とく白岩しらいわ砂防さぼう堰堤えんていなどの施設しせつ2009ねん平成へいせい21ねん)に「白岩しらいわ堰堤えんてい砂防さぼう施設しせつ」としてくに重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい指定していされた[1]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)には立山たてやまカルデラをふく上流じょうりゅう中部ちゅうぶ山岳さんがく国立こくりつ公園こうえん指定していされている。

自然しぜん環境かんきょう 編集へんしゅう

うえ流域りゅういきではおもイワナ生息せいそくする。した流域りゅういきではカジカあゆウグイメダカトミヨなどが生息せいそくする。河床かしょうない越冬えっとう産卵さんらんするアジメドジョウだい河川かせんではめずらしく広範こうはん生息せいそくする[16]

河川かせん施設しせつ一覧いちらん 編集へんしゅう

常願寺川じょうがんじがわ流域りゅういきにはやく950砂防さぼう設備せつび設置せっちされている。うずたかすなりょうやく2,300まん立方りっぽうメートルで東京とうきょうドームやく19ぶん相当そうとうする。

おも砂防さぼう治水ちすい設備せつび 編集へんしゅう

きょ大水おおみずせいぐん 編集へんしゅう

1950ねん昭和しょうわ25ねん)〜1955ねん昭和しょうわ30ねん)にかけて堤防ていぼうへの衝撃しょうげきまもるため流速りゅうそく軽減けいげんりゅうむこう是正ぜせい目的もくてきつくられた。Lがたピストルがたみずせいは、ここで発明はつめいされ、現在げんざいでは全国ぜんこく急流きゅうりゅう河川かせん利用りようされている。

ダム(支流しりゅうふくむ) 編集へんしゅう

いち
ささえ川名かわな
本川ほんがわ

ささえ川名かわな
さん
ささえ川名かわな
ダムめい つつみだか
(m)
そう貯水ちょすい
容量ようりょう
(せんm3)
型式けいしき 事業じぎょうしゃ 備考びこう
常願寺川じょうがんじがわ 岩井谷いわいたにダム 16.2 重力じゅうりょく 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 牛首うしくび谷川たにがわ 真川まかわダム 19.1 48 バットレス 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 和田川わだがわ 有峰ありみねダム 140.0 222,000 重力じゅうりょく 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 和田川わだがわ しん中地山なかちやまダム 35.0 68 重力じゅうりょく 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 小口川こぐちがわ ゆうのべダム 45.5 8,790 重力じゅうりょく 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 小口川こぐちがわ 小口川こくちがわダム 72.0 2,718 重力じゅうりょく 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 小口川こぐちがわ 小俣おまたダム 37.0 761 重力じゅうりょく 北陸電力ほくりくでんりょく
常願寺川じょうがんじがわ 小口川こぐちがわ マッタテがわ たてダム 21.8 26 バットレス 北陸電力ほくりくでんりょく

おも橋梁きょうりょう 編集へんしゅう

出典しゅってん[20]

鉄道てつどうきょう 編集へんしゅう

水道橋すいどうばし 編集へんしゅう

  • 常願寺川じょうがんじがわ沿岸えんがん用水ようすい 左岸さがん連絡れんらく水路橋すいろばし2008ねん平成へいせい20ねん)。ダブルデッキしきさんれんコンクリートアーチ構造こうぞう別名べつめい豊水ほうすいきょう」。

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 常願寺川じょうがんじがわ沿岸えんがん用水ようすい みずさとネット富山とやま富山とやまけん土地改良事業団体連合会とちかいりょうじぎょうだんたいれんごうかい)、2023ねん12月3にち閲覧えつらん
  2. ^ 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. “常願寺川じょうがんじがわ古名こみょう、いつから常願寺川じょうがんじがわばれるようになったか。川名かわな由来ゆらいなどをりたい。”. レファレンス協同きょうどうデータベース. 2019ねん9がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ えつくにかわみち ~つねひがしつね西にし用水ようすい 合口あいくちのあゆみ~”. 北陸ほくりく農政のうせいきょく 常願寺川じょうがんじがわ沿岸えんがん農地のうち防災ぼうさい事業じぎょうしょ. p. 1. 2019ねん9がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ 常願寺川じょうがんじがわ水系すいけい河川かせん整備せいび計画けいかく 国土こくど交通省こうつうしょう北陸ほくりく地方ちほう整備せいびきょく 2010ねん。P.5
  5. ^ 内務省ないむしょう技術ぎじゅつ顧問こもん ヨハネス・デ・レーケ農林水産省のうりんすいさんしょう
  6. ^ a b 北日本きたにっぽん新聞しんぶん』2020ねん8がつ16にちづけ1めん常願寺川じょうがんじがわ「これはかわではない、たきだ」デ・レイケ発言はつげん じつ別人べつじん けん議事ぎじろく 論争ろんそう決着けっちゃくか』より。
  7. ^ 常願寺川じょうがんじがわ水系すいけい河川かせん整備せいび計画けいかく”. だい3しょう 河川かせん現状げんじょう課題かだい だい1せつ 洪水こうずいによる災害さいがい発生はっせい防止ぼうしまた軽減けいげんかんする事項じこう. 国土こくど交通省こうつうしょう 北陸ほくりく地方ちほう整備せいびきょく 富山とやま河川かせん国道こくどう事務所じむしょ 2010ねん. 2020ねん2がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」(はなぜん盛明もりあきへん佐々ささしげるせいのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2002ねん)37ぺーじ
  9. ^ 水田すいでんつねじゅ河川かせん活動かつどう都市とし形成けいせい相互そうごあたえた影響えいきょうかんする史的してき研究けんきゅう 2014ねん、P.24
  10. ^ 往時おうじ土石流どせきりゅう被害ひがい 実感じっかん 38にん常願寺じょうがんじ神通川じんづうがわ沿めぐる』北日本きたにっぽん新聞しんぶん 2018ねん11月28にち19めん
  11. ^ 立山たてやままなぶ18 みずやま3 安政あんせいだい災害さいがい北日本きたにっぽん新聞しんぶん 2019ねん6がつ29にち26めん
  12. ^ 1858ねん4がつ9にち 飛越とびこし地震じしん その1内閣ないかく 防災ぼうさい情報じょうほうのページ)
  13. ^ 常願寺川じょうがんじがわ水系すいけい河川かせん整備せいび計画けいかく 国土こくど交通省こうつうしょう北陸ほくりく地方ちほう整備せいびきょく 2010ねん。P.17
  14. ^ 常願寺川じょうがんじがわ水系すいけい河川かせん整備せいび計画けいかく 国土こくど交通省こうつうしょう北陸ほくりく地方ちほう整備せいびきょく 2010ねん。P.5, P.17, P.22, P.28
  15. ^ 北日本きたにっぽん新聞しんぶん』2015ねん4がつ20にちづけ朝刊ちょうかん8めん『とやまのはし 40 東西とうざいきょう』より。
  16. ^ 常願寺川じょうがんじがわ水系すいけい河川かせん整備せいび計画けいかく 国土こくど交通省こうつうしょう北陸ほくりく地方ちほう整備せいびきょく 2010ねん。P.9, P.44
  17. ^ 平成へいせい29ねん11月28にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい178ごう白岩しらいわ堰堤えんてい本宮もとみや堰堤えんていどろたに堰堤えんていの3かしょわせて、指定してい名称めいしょうを「常願寺川じょうがんじがわ砂防さぼう施設しせつ」にあらためた。
  18. ^ 平成へいせい29ねん11月28にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい178ごう
  19. ^ 『「びん岩橋いわせ不通ふつう1ねんちょう 大山おおやま-立山たてやまあいだ 富山とやま予算よさん不足ふそく 見通みとおたず 地元じもと住民じゅうみん生活せいかつ支障ししょう」』北日本きたにっぽん新聞しんぶん 2016ねん12月10にち27めん
  20. ^ FR16:かわわたはし富山とやまけん(2022ねん5がつ27にち閲覧えつらん
  21. ^ 大山おおやま歴史れきし民俗みんぞく研究けんきゅうかい大山おおやま歴史れきし民俗みんぞくだい15ごう p.130
  22. ^ 大山おおやま歴史れきし民俗みんぞく研究けんきゅうかい大山おおやま歴史れきし民俗みんぞくだい15ごう p.131
  23. ^ 千垣ちがき橋梁きょうりょう 選奨せんしょう土木どぼく遺産いさん 土木どぼく学会がっかい
  24. ^ a b 富山とやま土木どぼく拾遺しゅうい P.116

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう