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攘夷論 - Wikipedia

攘夷じょういろん

日本にっぽんにおいて幕末ばくまつひろまった排外はいがい思想しそう

攘夷じょういろん(じょういろん)は、日本にっぽんにおいては幕末ばくまつひろまった、外国がいこくとの通商つうしょう反対はんたい外国がいこく撃退げきたいして鎖国さこくとおそうとしたりする排外はいがい思想しそうである[1]もと中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう時代じだい言葉ことばで、西欧せいおうしょ外国がいこく日本にっぽん進出しんしゅつともない、えびすじん(いじん)を夷狄いてき (いてき) し攘(はら)おう、つまり実力じつりょく行使こうし外国がいこくじん排撃はいげきしようというかんがえであり、はなえびす思想しそうによる日本にっぽん独善どくぜんてき観念かんねん国学こくがくもとづいた国家こっか意識いしきみなもととなっている[2]

攘夷じょういろん風刺ふうし開港かいこう直後ちょくご横浜よこはまおこなわれた相撲すもう模様もようえがいている)

概要がいよう

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攘夷じょういろんは、江戸えど時代じだい後半こうはん日本にっぽんにおいて、西洋せいよう諸国しょこく接近せっきん対応たいおうして海防かいぼうろん一環いっかんとしてまれ、展開てんかいした排外はいがい思想しそう[3]江戸えど時代じだいにあっては、西洋せいよう列強れっきょうひがしアジア接近せっきん以前いぜんより、対外たいがい貿易ぼうえき日本にっぽんにおける有益ゆうえき品々しなじな外国がいこくさん無用むよう品々しなじな交換こうかんするものにすぎないという貿易ぼうえき有害ゆうがい無益むえきろんがあり、キリスト教きりすときょう排斥はいせきとともに、いわば前提ぜんていされていた[4]

水戸みとはん中心ちゅうしん朱子学しゅしがく影響えいきょうつよけた水戸みとまなぶ隆盛りゅうせいし、1820年代ねんだいから1830年代ねんだいにかけては水戸みとがくにおける攘夷じょういろん確立かくりつした[4]。これは、儒学じゅがくにおけるはなえびす思想しそう素地そじとしており、欧米おうべい諸国しょこくいやしむべき夷狄いてきであるから、日本にっぽん列島れっとうにそのちからおよんだ場合ばあいただちにはらうべきだとするかんがえであるが、こうしたかんがえの根底こんていにあったのは、西洋せいよう諸国しょこくとのまじわりはキリスト教きりすときょうその有害ゆうがい思想しそう浸透しんとうにつながるという、一種いっしゅ文化ぶんか侵略しんりゃくたいする危機ききかんであった[4]水戸みとはん領地りょうち沿岸えんがんには大津おおつはま事件じけん以外いがいにもイギリスの捕鯨ほげいせんがたびたび接近せっきんし、幕府ばくふおよはん禁令きんれい無視むしして漁民ぎょみんたちと交流こうりゅうおよび物資ぶっし交換こうかんなどをおこなっていたことも、水戸みとはんにおける攘夷じょういろんたかまりの遠因えんいんとなっている[5]江戸えど幕府ばくふ文政ぶんせい8ねん1825ねん)にはっした異国いこくせんはらいれいも、こうした危機ききかんあらわれであった[注釈ちゅうしゃく 1]

一方いっぽう国学こくがく発展はってんによって、日本にっぽん神国しんこくであるというナショナリズム神国しんこく思想しそう)が次第しだいちからし、勤皇きんのう思想しそう尊王そんのうろん)もまたちからていたが、これが現実げんじつ外国がいこく勢力せいりょく脅威きょうい攘夷じょういろんむすびついて尊王そんのう攘夷じょういろん形作かたちづくられた。尊王そんのう攘夷じょうい思想しそうは、とくよしみひさし6ねん1853ねん)の黒船くろふね来航らいこうマシュー・ペリー来航らいこう)によって開港かいこうされたのち日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ反対はんたい主張しゅちょうするはんまく勢力せいりょく思想しそうてき支柱しちゅうとなり、鎖国さこく維持いじしようとするしょはん下級かきゅう志士しし公卿くぎょうたちによって支持しじされた。老中ろうじゅう首座しゅざ阿部あべ正弘まさひろ要請ようせいにより海防かいぼう参与さんよとして幕政ばくせいかかわった徳川とくがわ斉昭なりあきは、水戸みとがく立場たちばから強硬きょうこう攘夷じょういろん主張しゅちょうした。そして、開国かいこくから明治維新めいじいしん直後ちょくごにかけて攘夷じょうい思想しそうによる外国がいこくじん襲撃しゅうげき殺害さつがい事件じけん頻発ひんぱつする。

しかし、攘夷じょうい実行じっこうした長州ちょうしゅうはんによる下関しものせき戦争せんそうだい敗北はいぼくわり、外国がいこく艦隊かんたいとのあいだ圧倒的あっとうてき軍事ぐんじりょく直面ちょくめんしたことにより、鎖国さこく政策せいさく維持いじ固執こしつした攘夷じょういろんたいする批判ひはんしょうじた。津和野つわのはん国学こくがくしゃ大国おおくに隆正たかまさらは、国内こくない統一とういつ優先ゆうせんして、外国がいこくとの交易こうえきによって富国強兵ふこくきょうへいはかったうえしょ外国がいこく対等たいとう対峙たいじするちからをつけるべきだとする「だい攘夷じょういろん主張しゅちょうし、これを長州ちょうしゅうはん尊攘そんじょうれた。従来じゅうらい攘夷じょうい運動うんどう主力しゅりょくであったひとびとが倒幕とうばくかったのである。

なお、攘夷じょういろんは「攘夷じょうい開国かいこくか」というかたち開国かいこくろん対置たいちされる場合ばあいおおいが、厳密げんみつには、現実げんじつ政策せいさくとしての開国かいこくろん対立たいりつするのは鎖国さこくろんのはずである[3]一方いっぽう国際こくさい社会しゃかいとらかたという観点かんてんでは、攘夷じょういろん(というよりも攘夷じょういろん前提ぜんていをなすはなえびす思想しそう)と対立たいりつするのは、それぞれの国家こっか独立どくりつし、平等びょうどう存在そんざいであるべきだとする主権しゅけん対等たいとう観念かんねんであるといえる[3]

大政奉還たいせいほうかん薩長さっちょうをはじめとする西南せいなん雄藩ゆうはん出身しゅっしんしゃ中心ちゅうしんとなって明治めいじ政府せいふ成立せいりつしたが、「草莽そうもう」とばれた一部いちぶひとびとは鎖国さこく固執こしつし、攘夷じょうい運動うんどう継続けいぞくしようとした。明治めいじ2ねん1869ねん)5がつ28にちしん政府せいふは、政府せいふないおおやけしょうえきょくからげられた「おおやけ輿論よろん」が、鎖国さこく立脚りっきゃくした攘夷じょうい不可能ふかのうであるというものであったことを理由りゆうに「開国かいこく和親わしん」を国是こくぜとすることを決定けっていし、以後いご鎖国さこくろん議題ぎだいとしないむね公表こうひょうした。また、「草莽そうもう志士しし」にたいしても、出稼でかせ農民のうみんとともに勝手かって本国ほんごくよりはなれたものとしてひとがえ対象たいしょうにすることを決定けっていした(榜の掲示けいじだい5さつ実際じっさい取締とりしまり規定きてい明治めいじ2ねん以後いごである)。しかし、復古ふっこてき攘夷じょういろんがこれによって一掃いっそうされたわけではなく、だいらく源太郎げんたろう反乱はんらん計画けいかくきょう事件じけん久留くるべいはんなんなど明治めいじ政府せいふたおして攘夷じょうい断行だんこうしようとする事件じけんこっている。

攘夷じょういろん鎖国さこくろんむすびついて発生はっせいしたものの、やがて西洋せいよう列強れっきょうならつための海外かいがい膨張ぼうちょうろんなどをし、やがてはなえびす思想しそう解体かいたいとともに消滅しょうめつした[3]。だが、富国強兵ふこくきょうへいのち攘夷じょういおこなだい攘夷じょうい主義しゅぎ変化へんかしていく。

攘夷じょうい運動うんどう代表だいひょうれい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 異国いこくせんはらいれいは、文化ぶんか5ねん8がつ西暦せいれき1808ねん10月)にきたフェートンごう事件じけん衝撃しょうげきけた幕府ばくふが、文政ぶんせい7ねん大津おおつはま事件じけん宝島たからじま事件じけん危険きけんして発令はつれいしたものである。

出典しゅってん

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  1. ^ 大辞泉だいじせん小学館しょうがくかん[1]
  2. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん[2]
  3. ^ a b c d 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』(1988)「攘夷じょういろん
  4. ^ a b c 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』(1988)「海防かいぼうろん
  5. ^ 尊皇そんのう攘夷じょうい水戸みとがくよんひゃくねん―、片山かたやまもりしゅう、2021ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 平凡社へいぼんしゃへんへん海防かいぼうろん」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん4 オ-カイ』平凡社へいぼんしゃ、1988ねん3がつISBN 4-582-02200-6 
  • 平凡社へいぼんしゃへんへん攘夷じょういろん」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん13 シユ-シヨエ』平凡社へいぼんしゃ、1988ねん3がつISBN 4-582-02200-6 
  • 町田まちだ明広あきひろ攘夷じょうい幕末ばくまつ講談社こうだんしゃ<講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ>、2010ねん

関連かんれん項目こうもく

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