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四夷 - Wikipedia

よんえびす

古代こだい中国ちゅうごく中華ちゅうかたいして四方しほう居住きょじゅうしていた民族みんぞくたいする総称そうしょう蔑称べっしょう
夷狄いてきから転送てんそう

よんえびす(しい)あるいは夷狄いてき(いてき)は、古代こだい中国ちゅうごく中華ちゅうかたいして四方しほう居住きょじゅうしていた民族みんぞくたいする総称そうしょう蔑称べっしょう)である。よんえびすかん民族みんぞく漢人かんどがわから周辺しゅうへん民族みんぞくへの蔑称べっしょう)とするのが一般いっぱんてきだが、近年きんねん研究けんきゅうしゃしょうひがし遺伝子いでんし調査ちょうさふくめる)の結果けっか、これまでかんがえられてきたかん民族みんぞく定義ていぎ自体じたい名目めいもくじょう中国ちゅうごくてき正統せいとう主義しゅぎによるかんがえ)であった可能かのうせいてきている。

中華ちゅうか思想しそう世界せかいかん

分類ぶんるい

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古代こだい中国ちゅうごくにおいて、民族みんぞく支配しはいふくめ、中国ちゅうごく大陸たいりくせいした朝廷ちょうていみずからのことを「中華ちゅうか」とんだ。また、中華ちゅうか四方しほう居住きょじゅうし、朝廷ちょうてい帰順きじゅんしない周辺しゅうへん民族みんぞく

び、「よんえびす」あるいは「夷狄いてき」(いてき)と総称そうしょうした。

概要がいよう

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夷狄いてきとは中華ちゅうか思想しそうにおける支配しはい民族みんぞくかん民族みんぞく漢人かんどとはかぎらない)による民族みんぞくへの蔑称べっしょう意味いみする。夷狄いてきえびす蛮(いてきじゅうばん)やえびす(じゅうてき)、蛮夷ばんい(ばんい)ともばれた。

中華ちゅうかはななか)にたいし、夷狄いてきそと世界せかいはなそと)を言葉ことばで、未開みかい野蛮やばん意味いみする。したがって19世紀せいきになるまで中華ちゅうか中華ちゅうかである夷狄いてきとのあいだ対等たいとう外交がいこう貿易ぼうえき存在そんざいせず、朝貢ちょうこうばれる従属じゅうぞく関係かんけいのみがむすばれた。

古代こだいにおける文明ぶんめい進化しんか差異さいや、朝廷ちょうてい帰順きじゅんしない周辺しゅうへん民族みんぞくからえず攻撃こうげき略奪りゃくだつけたことから、これらの呼称こしょうさげすんだ意味いみめたが、現代げんだい中国ちゅうごくでは学術がくじゅつてき以外いがいこれらの言葉ことば死語しごになっている。

  • 周辺しゅうへん民族みんぞくからえず攻撃こうげき略奪りゃくだつけていたとする解釈かいしゃくかならずしも適切てきせつではなく、中華ちゅうか名乗なのがわかならずしもかん民族みんぞくではない)も、領土りょうど拡大かくだい目的もくてき周辺しゅうへん地域ちいきへの侵略しんりゃく行為こういかえしてきた事実じじつがある。古代こだいかん民族みんぞく支配しはいしていた「中原なかはら」とばれる地域ちいきも、現在げんざい中国ちゅうごく河南かなんしょうおよび山西さんせいしょう南部なんぶなどをふくめた範囲はんいかぎられており、農耕のうこう民族みんぞくである彼等かれらが、うばった牧草ぼくそうこすことで砂漠さばく促進そくしんされたともわれている。
  • 夷狄いてき蔑視べっしされた中華ちゅうかくに民族みんぞく独自どくじ文化ぶんかきずいており、かならずしも中華ちゅうか文明ぶんめいとに優劣ゆうれつがあったとはえない。あくまでも中華ちゅうかがわ価値かちかん区別くべつまたは差別さべつである。
  • 歴史れきしじょうおおくの民族みんぞく夷狄いてき)が進出しんしゅつして王朝おうちょうきずいたため、実際じっさいには中華ちゅうか文明ぶんめい自体じたい中華ちゅうか夷狄いてき)の影響えいきょうけている。
  • 歴史れきしてきにも稲作いなさく仏教ぶっきょう鉄器てっきあぶみえびすふくからはじまる服装ふくそうなど、様々さまざまよんえびす文化ぶんか中華ちゅうか)がまれており、文化ぶんか宗教しゅうきょう価値かちかん道教どうきょうふくむ)などをふくめておおくのめん影響えいきょうけているのも事実じじつである。

本来ほんらいよんえびす意味いみ

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 古代こだい洛陽らくよう盆地ぼんち東方とうほうひろがる黄河こうが淮河長江ながえだいデルタ地帯ちたいみ、農業のうぎょう漁業ぎょぎょう生活せいかつて、河川かせん湖沼こしょうふねをあやつって往来おうらいする人々ひとびとを『えびす』(い)といった。「えびす」は「てい」「そこ」とおなじく「低地ていちひと」という意味いみで、東方とうほう住人じゅうにんなので「東夷あずまえびす」ともいう。洛陽らくよう盆地ぼんち北方ほっぽうでは、黄土おうど高原こうげん東部とうぶ山西さんせい高原こうげんモンゴル高原こうげんからみなみして黄河こうが北岸ほくがんせっしている。山西さんせい高原こうげんは、ふるくはカエデシナノキカバチョウセンマツカシクルミニレなどの森林しんりんにおおわれ、かげやま山脈さんみゃくだいきょうやすみね山脈さんみゃく森林しんりんつらなっていた。この森林地帯しんりんちたい狩猟しゅりょうみんは、毛皮けがわ高麗こうらい人参にんじん平原ひらはら農耕のうこうみんにもたらし、農産物のうさんぶつれる交易こうえきおこなっていた。この狩猟しゅりょうみんを『狄』(てき)とった。「狄」は交易こうえきの「えき」とおな意味いみで、北方ほっぽう住民じゅうみんなので「北狄ほくてき」ともいう。洛陽らくよう盆地ぼんち西方せいほうの、甘粛かんせいしょう南部なんぶ草原そうげんんでいた遊牧民ゆうぼくみんは、平原へいげん農耕のうこうみんのところへ羊毛ようもうをもってやってた。かれらは『えびす』(じゅう)といった。「えびす」は「絨」とおなじく羊毛ようもうという意味いみで、西方せいほう住人じゅうにんなので「西戎せいじゅう」ともいう。洛陽らくよう盆地ぼんち南方なんぽう山岳さんがく地帯ちたいには、ばたたがや農耕のうこうみんんでいた。かれを『蛮』(ばん)といった。「蛮」はかれらの言葉ことばひとという意味いみで、南方なんぽう住人じゅうにんなので「南蛮なんばん」ともいう[1]。これらの生活せいかつ様式ようしきことなった人々ひとびと(『東夷あずまえびすじん』『北狄ほくてきじん』『西戎せいじゅうじん』『南蛮なんばんじん』)は、定期ていきてき交易こうえきのためにあつまり、かれらの生活せいかつけんであったさかい洛陽らくよう盆地ぼんちやその周辺しゅうへんたがいに接触せっしょくした。やがて、この人々ひとびと交易こうえきおこな場所ばしょ都市とし発生はっせいしたとされ、かれらがざりって古代こだい中国人ちゅうごくじん起源きげんになった。黄河こうが流域りゅういき最初さいしょ勢力せいりょくをふるった「くに」は『なつ』である。なつじんは、東南とうなんアジアけい文化ぶんかをもった東夷あずまえびすで、内陸ないりく水路すいろをさかのぼってやってきて、河南かなんしょう黄河こうがちゅう流域りゅういき伝説でんせつのこ最古さいこ王権おうけんてた。「なつ」は「賈」や「あたい」とおな意味いみで、なつじんは「商人しょうにん」を意味いみした。なつ征服せいふくして黄河こうが流域りゅういきあたらしい王権おうけんてたのが、北方ほっぽう森林地帯しんりんちたいから侵入しんにゅうした狩猟しゅりょうみん北狄ほくてき)のいんじんであった。いんじんとその同盟どうめい種族しゅぞく黄河こうが流域りゅういきしょ都市とし支配しはいし、その城壁じょうへきなかでは東夷あずまえびすけい北狄ほくてきけい西戎せいじゅうけい人々ひとびとじっていた。しゅうじんよりさらにおくれて、西方せいほうから隴西ぐんはいってきた遊牧民ゆうぼくみんはたじんである。これにたいして、長江ながえちゅう流域りゅういき湖北こほくしょうには、山地さんち焼畑やきばた農耕のうこうみん南蛮なんばん出身しゅっしんすわえじん王国おうこくて、長江ながえ、淮河流域りゅういき支配しはいして黄河こうが流域りゅういき諸国しょこくあらそった。かれらが中国人ちゅうごくじん先祖せんぞとなった人々ひとびとである[1]

よんえびす中華ちゅうか支配しはい

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きよしだい5だい皇帝こうていである雍正みかどは、はなえびす思想しそうによりまんしゅうじん夷狄いてきとみなし、かん民族みんぞくあきら復活ふっかつとなえる思想家しそうかたいしてはみずか論破ろんぱし、討論とうろん経緯けいいを『大義たいぎさとし迷録』という書物しょもつにまとめ、『孟子もうし』にある「しゅんしょまれてなつうつり、じょうくなった東夷あずまえびすひとである。ぶんおう岐周まれ、畢郢した西にしえびすひとだ。距離きょりはなれることせんあまりさと時代じだいにしておくれることせんねんあまりだが、こころざしてて中国ちゅうごく実行じっこうしたことはわせたように一致いっちしている。さき聖人せいじん聖人せいじんも、みないつにしているのである[2][3]」という中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい儒学じゅがくしゃである孟子もうし言葉ことばをなぞりつつ[4]、「本朝ほんちょうまんしゅうだしであるのは、中国人ちゅうごくじん原籍げんせきがあるようなものだ。しゅん東夷あずまえびすひとだったし、ぶんおう西にしえびすひとだったが、その聖徳せいとくなんそこなわれてはいない」と強調きょうちょうしている[4]

且夷狄之めい本朝ほんちょうしょいみな孟子もうこうん:“しゅん東夷あずまえびすひと也,ぶんおう西にし夷之えびすのじん也。” ほん其所せい而言,なおいまじんせきぬきみみきょう滿まんしゅうじんみなはじ於漢じんれつじゅん噶爾よび滿まんしゅうため蠻子,滿まんしゅう聞之,莫不忿恨,而逆賊ぎゃくぞく以夷狄為誚,まこと醉生夢死すいせいむし禽獸きんじゅう矣。

夷狄いてきは、本朝ほんちょういみなむところではない。孟子もうしは、「しゅん東夷あずまえびすひとであり、ぶんおう西にしえびすひとである」とっている。もとのまれたところは、なおいまじんせきぬきのようなものである。いわんやまんしゅうじんはみな漢人かんどれつすることをじている。ジュンガルまんしゅうじんを蛮子とび、まんしゅうじんはこれをいて、いきどおうらまないものはなかった。それなのに逆賊ぎゃくぞく(のせい)が夷狄いてきであることをつみとしたことは、まことに(『ほど語録ごろく』にいう)酔生夢死すいせいむしなにすことなく無自覚むじかく一生いっしょうおくる)禽獣きんじゅうである。 — 大義たいぎさとし迷録[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 岡田おかだ英弘ひでひろだれらなかった皇帝こうていたちの中国ちゅうごくワックWAC BUNKO〉、2006ねん9がつ21にちISBN 4898315534 
  2. ^
    孟子もうし曰:「しゅんなま於諸馮,遷於なつそつ於鳴じょう東夷あずまえびすひと也。ぶんおうせい於岐しゅうそつ於畢郢,西にし夷之えびすのじん也。相去あいさり也,せん有餘ゆうよさとこれしょう也,せん有餘ゆうよとしとくこころざしぎょう乎中こくわか合符あいふぶしさきひじりきよし,其揆一也かずや。」 — 孟子もうしはなれ婁下
  3. ^ 杉山すぎやま清彦きよひこ. だい8かい中華ちゅうか」の世界せかいかんと「正統せいとう」の歴史れきし (PDF). 正統せいとう」の歴史れきしと「おうみつる」の歴史れきし (東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶ): p. 6. オリジナルの2016ねん9がつ10日とおか時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160910050756/https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/11348/8/notes/ja/08sugiyama20121203final.pdf 
  4. ^ a b おういさおたけし (2020ねん3がつ16にち). 基調きちょう講演こうえん記録きろく はなえびすへんはなけい研究けんきゅうあたらしいビジョン―”. 愛知大学あいちだいがく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ紀要きよう = JOURNAL OF INTERNATIONAL AFFAIRS (155) (愛知大学あいちだいがく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ): p. 10-11. http://id.nii.ac.jp/1082/00010030/ 
  5. ^ かんあずまいく (2018ねん9がつ). 清朝せいちょうの「かん民族みんぞく世界せかい」における「大中おおなかはな」の表現ひょうげん : 『大義たいぎさとし迷録』から『きよしみかどへりくだくらい詔書しょうしょ』まで”. 北東ほくとうアジア研究けんきゅう = Shimane journal of North East Asian research (別冊べっさつ4) (島根しまね県立けんりつ大学北だいがくきたひがしアジア地域ちいき研究けんきゅうセンター): p. 17. http://id.nii.ac.jp/1377/00001920/ 

関連かんれん項目こうもく

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