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孟子 - Wikipedia

孟子もうし

中国ちゅうごく儒学じゅがくしゃ

孟子もうし(もうし、簡体字かんたいじ: 孟子もうし拼音: Mèngzǐ紀元前きげんぜん372ねん3月12にち? - 紀元前きげんぜん290ねん12月21にち?)[1]は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい儒学じゅがく思想家しそうかせいはじめいみな輿こししよつたわる。「」は先生せんせいという意味いみ尊称そんしょうで、後世こうせい亞聖あせいあせいともしょうされる。孔子こうしまごであるおもえ門人もんじん学業がくぎょうけたとされ、朱子学しゅしがくでは孔子こうしいで重要じゅうよう人物じんぶつとされる。そのため儒教じゅきょう別名べつめいあなはじめおし」ともばれる。

はじめ
もとだいかれた孟子もうし想像そうぞう
生誕せいたん 紀元前きげんぜん372ねん3月12にち?
死没しぼつ 紀元前きげんぜん290ねん12月21にち?
時代じだい 中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい
地域ちいき 東洋とうよう哲学てつがく
学派がくは 儒教じゅきょう
研究けんきゅう分野ぶんや 政治せいじ哲学てつがく
倫理りんりがく
多数たすう
おも概念がいねん 仁義じんぎ
性善せいぜん
よんはし
おう
みんほん
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言行げんこうは『孟子もうし』にまといまとめられている。性善説せいぜんせつ主張しゅちょうし、ひとしよしみんほんによる王道おうどう政治せいじ目指めざした。

経歴けいれき

編集へんしゅう

孟子もうし鄒国現在げんざい山東さんとうしょうすみやすし鄒城)のひとで、そのはは孟子もうしそだてたときはなし有名ゆうめいである。最初さいしょ墓地ぼちちかくにんでいたが、やがて孟子もうし葬式そうしき真似事まねごとはじめたのでははいえうつした。うつったところ市場いちばちかくで、やがて孟子もうし商人しょうにん真似事まねごとはじめたのでははふたたうつした。つぎうつったところ学問がくもんしょちかくで、やがて孟子もうし学問がくもんこころざすようになったのではははやっと安心あんしんしたという。このはなし孟母三遷もうぼさんせんとしてられ、史実しじつではないとされているが、子供こども育成いくせいたいする環境かんきょう影響えいきょうかんしていにされ、鄒城には孟母三遷もうぼさんせんほこらてられている。孟子もうしははは、ほかにも孟母もうぼだん故事こじられている。孟子もうし学業がくぎょう途中とちゅうめていえかえってたとき、はははちょうどっていたが、その織物おりものかたな切断せつだんし「おまえ学問がくもん途中とちゅうめるのはわたし織物おりものるのとおなじことだ」とって諫めた。孟子もうしふたた勉学べんがくはげんだ。以上いじょうはなしかんだいの『かん外伝がいでんまき9や『れつおんなでんまき1にえる伝説でんせつである。

史記しき孟子もうし荀卿列伝れつでんによれば、孟子もうし孔子こうしまごであるおもえ門人もんじんまなんだ。おもえ直接ちょくせつまなんだというせつもあるが、年代ねんだいっていない。

かれは、自分じぶんのことをおう師匠ししょうであり、賓客ひんきゃくである、とかんがえていたので、遊歴ゆうれきするときにはすうじゅうだいくるますうひゃくにん従者じゅうしゃしたがえていた。諸侯しょこう同等どうとうである、というプライドをっていたのである。

かつてたかしめぐみおうはたひとしうばわれた土地とち回復かいふくする方法ほうほう孟子もうこ質問しつもんしたとき孟子もうし仁者じんしゃ無敵むてきいた。それは、国土こくどちいさくても、仁政じんせいほどこせば、だれにもけない、ということである。仁政じんせいとは、刑罰けいばつ簡単かんたんにして、ぜいかるくし、丁寧ていねい耕作こうさくして、若者わかものには孝悌こうてい忠信ちゅうしん道徳どうとく教育きょういくおこなうことである。そのような仁政じんせいけたみんは、たたかいでも勇敢ゆうかんで、仁政じんせいのないくにみんは、主君しゅくん協力きょうりょくせずそむいたりもする。ゆえに、仁者じんしゃ無敵むてきである、というのである。

論語ろんごせられている孔子こうし弟子でし有子ゆうこ言葉ことばとされているものに、

孝弟こうていなるものは、それじんほんるか。

がある。こうとはおやたいする愛情あいじょうおとうととはあにたいする尊敬そんけいのことである。

じんじつおやことうることなり。じつあにしたがうことなり。

という言葉ことばが『孟子もうしはなれ婁篇」』にある。これは、孔子こうしいたじん拡大かくだいした孟子もうし仁義じんぎのことをしめしている。孟子もうし自分じぶんのことを孔子こうし正統せいとう継承けいしょうしゃだと自負じふしていた。

そのめぐみおうんでそのじょうおう即位そくいすると、孟子もうしはこのじょうおう

これのぞみたるに人君じんくん

ひょうしていたため、失望しつぼうしてひとしった。ひとしではせんおう即位そくいしていた。ここでも孟子もうし国士こくしあつかいをのぞみ、きに論争ろんそうするだけで給料きゅうりょうのもらえるきび学士がくし同等どうとうにされたくない、というプライドがあった。

だきせき門番もんばん)、げき柝(夜警やけい)のものも、みなつねしょくりてうえ君主くんしゅ)よりむ。つねしょくくして而もうえよりたまわるは、きょうすなり。

と『孟子もうしまんしょうでん」』にある。門番もんばんから夜警やけいいたるまで、みな定職ていしょくがあって給料きゅうりょうをもらっているのに、定職ていしょくもないのに給料きゅうりょうをもらうのは、人生じんせいたいして真面目まじめ態度たいどとはえない、と主張しゅちょうした。せんおうされて参内さんだいすることを拒否きょひしてせんおうみずかてほしいと要請ようせいして、自分じぶん王宮おうきゅうくのはなに進言しんげんしたいことができたときだけ、ということにした。孟子もうし自分じぶんのことを「ところ召之しんさざるところしん)」とおもっていた。

かんなかすらからず。而るをきょうかんなかためらざらんしゃをや。

べている。かんなか桓公かんこう補佐ほさして春秋しゅんじゅう覇者はしゃにした人物じんぶつである。桓公かんこうかんなかのことをけっしてびつけにしなかった。そして、かんなかすら、とべていることで、孟子もうし自分じぶんかんなかいんおう補佐ほさしておうにもびつけにされなかったいん以上いじょう人物じんぶつであると確信かくしんしていた。

とあるせんおう孟子もうしむかい、いんしんであったたけおう主君しゅくんであるいん紂王ってしゅうてたことについて、質問しつもんした。すると、孟子もうし

[2]じんぞくしゃこれぞくいいひ、ぞくしゃこれざんいいひ、ざんぞくひとこれいちおっといいふ。一夫かずおの紂をちゅうせりとはけども、いまきみしいしたりとはかず。

こたえた。これの意味いみは、

じんうしなったものぞくであり、うしなったものざんであり、仁義じんぎうしなったもの君主くんしゅである資格しかくがなく、ざんぞく、つまり、ただのおとこである。ただのおとこの紂をころしたとはえても、君主くんしゅであるおうころしたとはえない。」

ということである。ようするに、これほど君主くんしゅくらいかるい、といたいのである。

また、せんおうきょう態度たいど質問しつもんしたとき孟子もうしは、王室おうしつ関係かんけいがある戚のきょうと、王室おうしつ関係かんけいのない異姓いせいきょうでは、おうたいする態度たいどちがう、とった。まず、戚のきょうは、

きみ大過たいかればのりち諫め、これ反覆はんぷくしてかれざれば、のりやすう。

いた。つまり、

君主くんしゅ道理どうりからはずれていることをしていれば諫言をするが、ききいれられなければ、追放ついほうしてべつ君主くんしゅえる。」

ということである。戚のきょうは、君主くんしゅがつながっているので、君主くんしゅ仁義じんぎにかなわない場合ばあいには、はなっておけないので王族おうぞくなかから仁義じんぎにかなうものをえら必要ひつようがある。これをいてせんおうおどろいて顔色かおいろえたが、孟子もうし過度かどますらおであり、自分じぶん発言はつげんおうがどんなに顔色かおいろえても堂々どうどうとしていた。自分じぶん思想しそうまったうたがわずにくのである。つぎに、異姓いせいきょう

きみ大過たいかればのりち諫め、これ反覆はんぷくしてかざれば、のりる。

いた。つまり、

君主くんしゅ道理どうりからはずれていることをしていれば諫言をするが、ききいれられなければ、その君主くんしゅしたっていく。」

ということである。異姓いせいきょうは、君主くんしゅがつながっていないので、君主くんしゅ仁義じんぎにかなわない場合ばあいには、はなっておいてその君主くんしゅしたはなれる。戦国せんごく時代じだい君臣くんしん関係かんけいきわめて自由じゆうであり、自分じぶん出身しゅっしんつかえないことはもちろん、かずこくつかえることもある。このさいも、君主くんしゅ廃立はいりつなどかんがえずにったくに仕官しかんする、といったことをもとにして発言はつげんしている。

しかし、孟子もうしひとしつかえてからななはちねんつと、せんおう病気びょうき理由りゆう孟子もうしいえ使者ししゃ派遣はけんして

「あなたとはなしたいことがありますが、うんわる風邪かぜのためそちらにけません。いかがですか?あなたのほうからてはいただけないでしょうか?」

つたえてそうとした。しかし、孟子もうし病気びょうきという口実こうじつ拒否きょひした。

不幸ふこうにして、やましり。あさつくあたわず。

たったいま参内さんだいしようとしていたのに、仮病けびょう使つかって拒否きょひした。「さざるところしん」である孟子もうしはこのような事情じじょうでもくわけにはかない。翌日よくじつひがしかく不幸ふこうなことがあったので、いえまでって弔問ちょうもんすることにした。それにたいして弟子でし公孫こうそんうし

昨日きのう病気びょうき理由りゆう参内さんだいことわったのに、今日きょうあらためて外出がいしゅつするのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」

出掛でかけないことをすすめたが、孟子もうし

昨日きのう病気びょうきだったが今日きょうなおった。かなければ」

ってってしまった。そのようなことで自分じぶん行動こうどう制限せいげんされることを孟子もうししとしない。ところが孟子もうしかけているあいだせんおう病気びょうき見舞みまいの使者ししゃ医師いし派遣はけんしてきたので、いえ留守番るすばんをしていた弟子でしはじめ仲子なかこあわてて、先程さきほどすこ調子ちょうしくなりまして、参内さんだいまいりました、とそのつくろった。そして、孟子もうしとおりそうな場所ばしょ使者ししゃ派遣はけんして、どうかご帰宅きたくせずに、そのまま参内さんだいしてください、とつたえた。それをいた孟子もうしは、帰宅きたく参内さんだいもしないで友人ゆうじんけいうしいえまった。けいうし王命おうめいしたがわなかった孟子もうし非難ひなんした。これによって、孟子もうしせんおう関係かんけいがしっくりこなくなった。孟子もうしはこの事件じけんによって、ひとし気持きもちをかためた。その、とうとう孟子もうしひとしることにした。それをいたせんおういそいで孟子もうしいえまで出向でむき、またえるでしょうか? といた。それにたいして孟子もうし

敢へて請はざるのみ。もとよりねがいしょなり

こたえた。

「またいたいと、こちらからはのぞみませんが、おうとおいするのはわたしとしてもいやではありません」

それで、せんおうはまだ希望きぼうがある、とおもった。かずひゃくにんものきび学士がくしかかえているせんおうにしても、孟子もうしのそのはげしい理想りそう主義しゅぎには辟易へきえきするが、現実げんじつてき政策せいさくやくちそうではないとしても、このすぐれた人物じんぶつ他国たこくっていかれることも残念ざんねんだとおもった。そこで、孟子もうし弟子でしひねつうじて

都心としんだい邸宅ていたくあたえ、門弟もんてい養成ようせいのためにいちまん鍾の俸禄を支給しきゅうし、大臣だいじんをはじめ廷臣ていしんたちに孟子もうし尊敬そんけいさせるようにする」

つたえた。鍾は穀物こくもつはか単位たんいで、やくじゅうリットルだとわれている。当時とうじいちまん鍾は、通説つうせつによれば、日本にっぽん江戸えど時代じだいろくだかせんひゃくせきらずだという。しかし、孟子もうこにはこれが少額しょうがくだったとえ、

ごとをしてまむとほっせしむれば、じゅうまんしてまんじゅけんこと、まむとほっするとさんや。

ことわった。これは

「もしわたしちからくにおこしたければ、じゅうまん鍾の俸禄を約束やくそくするべきです。わたしはそれを辞退じたいして、いちまん鍾をけましょう。これではわたしのことを、冨貴ふきねがっている、とはえないはずです。」

という意味いみである。

[3]丈夫じょうぶり。かなら壟断ろうだんもとめてこれのぼり、もつて左右さゆうのぞましてを罔せり。ひとみなもって賤しとす。ゆえしたがえつてこれせいせり。

孟子もうしった。

むかしでは物々交換ぶつぶつこうかんによって、おたがいの納得なっとくする交易こうえきおこなって、生活せいかつ必要ひつようものれる場所ばしょでした。ところが、いやしい欲張よくばりがいて、壟断ろうだんったようなたか位置いち)にのぼって左右さゆうまわしたのです。普通ふつう地面じめん自分じぶんものならべて交換こうかんするのですが、高所こうしょからると、ものっているひとをいちはや発見はっけんできます。そのような連中れんちゅうは、生活せいかつ必要ひつようもの仕入しいれにたのではなく、営利えいりげるためにているのです。なんいやらしいことかと人々ひとびとがこれを非難ひなんし、政府せいふもこれにせいぜいのこと)をけることにしたのです。」

という意味いみだ。つまり、孟子もうしは、自分じぶんはこんないやしい欲張よくばりではない、といたいのだ。「利益りえき壟断ろうだんする」という用法ようほうはここからきている。

そして、孟子もうしはいよいよひとしたびた。そのおり孟子もうしひるという場所ばしょさんにちとどまった。一度いちどせんおうもうをきっぱりとことわっておきながら、まるでせんおう使つかいがるのをつかのようにゆっくりすすむことが、孟子もうし評判ひょうばんげたようであった。ひとしいん人物じんぶつ孟子もうしあこがれており、自分じぶんのことをますらおだと自負じふしていた。だからこそ、ひるさんにち逗留とうりゅうした、というはなしいて、おおきく失望しつぼうした。

おれ孟子もうし見損みそこなった。面白おもしろくもない」

いんった。そのはなし弟子でし高子たかこからいた孟子もうし

いんというものは、おれ理解りかいできていないのだ」

った。そして、

[4]さん宿しゅくしてひるづるも、しんおいてはなおはやしと以為へり。おう庶幾しょきはくはこれあらためよ。おうごともろあらたむれば、のりかならはんさん。おっとひるずるもおうわざりなり。しかのち浩然こうぜんとしてかえるのこころざしり。しかると雖もあにおうしゃてんや。

った。

三日みっかひるたのははやすぎるくらいだ。もしもせんおうがあののちおもなおして使者ししゃおくってくれば、わたしよろこんでかえす。すると、ひとしみんゆたかになる。もしも、あののち使者ししゃなくても、わたしせんおうてない。それをかんがえると、おう使者ししゃるのがちどおしい」

という意味いみである。それをいたいん

まこと小人こどもなり

なげいた。

孟子もうし思想しそう

編集へんしゅう

孔子こうしひとしいたが、孟子もうしはこれを発展はってんさせて仁義じんぎいた。じんとは「忠恕ただひろ」(真心まごころおもいやり)であり、「とはむべなり」(『中庸ちゅうよう』)というように、よしとは事物じぶつ適切てきせつあつかうことである。

孟子もうしその時代じだいまでにいたすべての君主くんしゅを「王者おうじゃ」と「覇者はしゃ」として、それらがおこなった政治せいじを「王道おうどう」と「覇道はどう」として分類ぶんるいした。

孟子もうしによれば、覇者はしゃとは武力ぶりょくによって一時いちじてき仁政じんせいおこなものであり、そのため大国たいこく武力ぶりょくがなければ覇者はしゃとなって人民じんみん他国たこく服従ふくじゅうさせることはできない。たいして王者おうじゃとは、とくによって本当ほんとう仁政じんせいおこなものであり、そのため小国しょうこくであっても人民じんみん他国たこくはそのとくしたって心服しんぷくするようになる。ゆえ孟子もうしは、覇者はしゃぜん否定ひていはしないものの、「さんおうなついんてんおつしゅうぶんおうまたはたけおう)の罪人ざいにん出来損できそこない)なり。諸侯しょこう罪人ざいにんなり。大夫たいふいま諸侯しょこう罪人ざいにんなり」(つげ章句しょうく)とべて当時とうじ群雄割拠ぐんゆうかっきょしていた諸侯しょこうたちを批判ひはんし、いにしえしゅんさんおうおこなったような「先王せんおうみち」(王道おうどう政治せいじ)に回帰かいきすべきととなえた。

孟子もうし領土りょうど軍事ぐんじりょく拡大かくだいではなく、人民じんみんしんることによって天下てんかればよいといた。王道おうどうによって自国じこく人民じんみんだけでなく、他国たこく人民じんみんからも王者おうじゃあおがれるようになれば諸侯しょこうもこれを侵略しんりゃくすることはできないという。

りょうめぐみおうから利益りえきによってくにつよくする方法ほうほうについてわれると、孟子もうしは、君主くんしゅ利益りえきでなく仁義じんぎによってくにおさめるべきであり、そうすれば小国しょうこくであっても大国たいこくけることはないといた。孟子もうこによれば、天下てんかるためにはみんればよく、みんるためにはそのしんればよい。ではみんしんるための方法ほうほうなにかといえば、それはみんするものをあたえ、みんがいするものをけないことである。みん安心あんしんしたらしをもとめ、ひところしたりころされたりすることをきらうため、もし王者おうじゃ仁政じんせいおこなえば天下てんかみんだれ敵対てきたいしようとせず、それどころか自分じぶん父母ちちははのようにあおしたうようになるという。ゆえ孟子もうしは「仁者じんしゃてきし」(りょうめぐみおう章句しょうくじょう)とい、また「天下てんかてきしゃてん吏(てん使つかい)なり。しか(かくのごと)くにしておうたらざるしゃは、いまこれ(これ)らざるなり」(公孫こうそんうし章句しょうくじょう)とったのである。

孟子もうしによれば、わずひゃくさと四方しほう小国しょうこく君主くんしゅでも天下てんか王者おうじゃとなることができる。覇者はしゃ事績じせきについてひとしせんおうからわれたときも、孟子もうしは、君主くんしゅ覇道はどうでなく王道おうどうおこなうべきであり、そうすれば天下てんか役人やくにんみなおう朝廷ちょうていつかえたがり、農夫のうふみなおう田野でんやたがやしたがり、商人しょうにんみなおう市場いちば商売しょうばいしたがり、旅人たびびとみなおう領内りょうない通行つうこうしたがり、自国じこく君主くんしゅにくものみなおうのもとへうったえたがるだろう。そうなればだれおうめることはできない、とこたえている。もちろん農夫のうふからは農業のうぎょうぜい商人しょうにんからは商業しょうぎょうぜい旅人たびびとからは通行つうこうぜいくにゆたかになり、また人民じんみん生活せいかつ保障ほしょうされてはじめて孝悌こうてい忠信ちゅうしんおしむことができるようになる。孟子もうしみんほん思想しそうはその経済けいざい思想しそうとも密接みっせつ関連かんれんしている。

しかし、これは当時とうじとしては非常ひじょう急進きゅうしんてき主張しゅちょうであり、当時とうじ君主くんしゅたちに孟子もうし思想しそうれられない原因げんいんとなった。孟子もうしは「みんとうとしとし、社稷しゃしょく(これ)にぎ、きみけいしとす」(つきこころ章句しょうく)、つまり政治せいじにとって人民じんみんもっと大切たいせつで、つぎ社稷しゃしょく国家こっか祭神さいじん)がて、君主くんしゅなどはかるいと明言めいげんしている。あくまで人民じんみんあっての君主くんしゅであり、君主くんしゅあっての人民じんみんではないという。これは晩年ばんねん弟子でしかたった言葉ことばであるとかんがえられているが、各国かっこく君主くんしゅとの問答もんどうでも、「きみけいしとす」とはわないまでも人民じんみん重視じゅうしする姿勢しせい孟子もうし一貫いっかんしている。絶対ぜったい権力けんりょくしゃであるはずの君主くんしゅ地位ちい社会しゃかいいち機能きのうたす相対そうたいてき位置付いちづけでかんがえるこのような言説げんせつは、自分じぶんたちの地位ちいまもりたい君主くんしゅみみこころよいはずがなかったのである。

当時とうじ有名ゆうめい思想家しそうか一人ひとりであるつげは、ひと行動こうどうかわみず堤防ていぼう決壊けっかいがいずれの方向ほうこうでもこりうるように、原理げんりがなく予測よそく不可能ふかのうなものである。ひと行動こうどうそれぞれの時代じだいにおいておおきくことなるようにえるのも、くに頂点ちょうてん統治とうちしゃによる影響えいきょうであり、たまたまぶんおうたけおうのような善人ぜんにん即位そくいしたゆえ正義まさよししんじて団結だんけつし、たまたま厲王かそけおうのような悪人あくにん即位そくいしたゆえ道徳どうとく無視むしして乱暴らんぼうはたらくようになっただけにすぎない。すなわち人間にんげんしんにはまれながらしてった共通きょうつう性質せいしつ本性ほんしょう)なるものは存在そんざいしない(あるいはない)ととなえた。

みずしんまことに東西とうざいとうざいをわかつことし。上下じょうげわかつことからんや。(かわみず堤防ていぼうえて東西とうざいながれることがあっても、地面じめんくくいて地下ちかながれることはないのではないか)[5]

孟子もうしはこのように反論はんろんした。ひと行動こうどうたしかに様々さまざまであって統一とういつせいのある原理げんりがないようにえるが、それらはあくまで立場たちばまわりの影響えいきょう外物がいぶつ)による一時いちじてきなものにすぎない。人間にんげんには「本性ほんしょう」なるものが存在そんざいするのである。

井戸いどころちそうになった子供こどもて、だれもがおもわずにけようとするのは、子供こども父母ちちははから財貨ざいかるためでもなければ、社会しゃかい名声めいせいるためでもない。人間にんげんだれしも利他りたてき行為こういしとする生来せいらい性質せいしつぜん)をそなわっている。かつての聖王せいおうであろうと小人こどもであろうと、その本性ほんしょうには本質ほんしつてきちがいはなく、利己りこてき行為こういはしるのは天災てんさいひとがいなど外界がいかい脅威きょうい外物がいぶつ)からまもるために元々もともとぜんせい手放てばなせざるをなくなってしまったゆえである。

そのため孟子もうしは、「大人おとなとは赤子あかごしんうしなわざるものなり(とくすぐれたひとというのは赤子あかごのような純粋じゅんすいしんたもちつづけるひとである)[2]」、「学問がくもんみちし、放心ほうしんもとむるのみ(学問がくもんとはでない、うしなわれてしまった純粋じゅんすいしんもどすのみである[5]」とも主張しゅちょうした。

性善説せいぜんせつ」にかんする誤解ごかい

編集へんしゅう

孟子もうし対立たいりつ思想しそうとして、荀子の性悪説せいあくせつげられる。しかし、孟子もうし人間にんげん本性ほんしょうとして「よんはし」があるとべただけであって、それを努力どりょくしてばさないかぎ人間にんげん禽獸きんじゅう社会しゃかいせいたない動物どうぶつ同然どうぜん存在そんざいだとったように、人間にんげんぜんせい絶対ぜったいてき肯定こうていしていたわけではない。また、それゆえに学問がくもんふか道徳どうとくにつけた君子くんし人民じんみん指導しどうする資格しかくがあるとする。一方いっぽう、荀子は人間にんげん本性ほんしょうとは無限むげんなる欲望よくぼうであり、欲望よくぼう従順じゅうじゅんなままでは他人たにんおもいやることもゆずってあらそいをけることもできない。そのため学問がくもん礼儀れいぎといった「にせ」(こしらえもの、人為じんい)をけるようになり、それらの後天的こうてんてき努力どりょくによって公共こうきょうぜんむかうことができると主張しゅちょうした。

教育きょういくつうじてとくけるとてんでは、じつ両者りょうしゃともおなじであり、「人間にんげん可能かのうせいへの信頼しんらい」がそれらの思想しそう根底こんていにある。両者りょうしゃちがいは、孟子もうし人間にんげん主体しゅたいてき努力どりょくによって社会しゃかい全体ぜんたいまで統治とうちできるという楽観らっかんてき唯心ゆいしん主義しゅぎであったにたいして、荀子は統治とうちしゃがまず社会しゃかい制度せいど制定せいていしてかたつくらなければ人間にんげんはよくならないという社会しゃかいシステム重視じゅうしかんがえにったところにある。前者ぜんしゃ後世こうせい朱子学しゅしがくのような主観しゅかん中心ちゅうしん主義しゅぎへのみちひらき、後者こうしゃは荀子の弟子でしたちによって法家ほうか思想しそうへと発展はってんしていった。

孟子もうしひとせいぜんであることを主張しゅちょうしたうえ、そのぜんせい核心かくしんとなるよっつの心得こころえよんはし)の存在そんざいいた。

よんはし」とは「よっつのはじまり」という意味いみであり、それぞれ「惻隠そくいん」(弱者じゃくしゃ同情どうじょうするしん)・「羞悪しゅうお」(不正ふせいあくにくしん)・「ゆずる」(へりくだってゆずしん)・「是非ぜひ」(せいあく判断はんだんする能力のうりょく)と定義ていぎされる。このよっつの心得こころえつね遵守じゅんしゅすることによって、孔子こうし主張しゅちょうする聖人せいじんそなわるべきよっ性質せいしつである「四徳しとく」をにつければ、だれしもが統治とうちしゃ相応ふさわしい人材じんざいになれるとう。

孟子もうし自身じしんは「革命かくめい」という言葉ことばもちいていないものの、その天命てんめいせつあきらかに易姓革命えきせいかくめいせつ原型げんけいをなしている。

孟子もうしによれば、しゅん天下てんかてんからあたえられて天子てんしとなったのであり、からあたえられたのではない。天下てんかあたえられるのはてんだけであり、たとえ堯のような天子てんしであっても天命てんめいさからって天下てんかをやりとりすることはできない。では、そのてん意思いし天命てんめいはどのようにしめされるのかといえば、それは直接ちょくせつにではなく、みん意思いしとおしてしめされる。みんがある人物じんぶつ天子てんしみとめ、その治世ちせい満足まんぞくするかどうかによって天命てんめい判断はんだんされる。

また、いんおうなつ桀王追放ついほうし、しゅうたけおういん紂王征伐せいばつしたことも、臣下しんかによる君主くんしゅへの弑逆しいぎゃくにはたらないとした。なぜなら桀紂がいくら天子てんし家系かけいであったとはいえ、天子てんしはたすべき責務せきむたさずに暴政ぼうせいおこなったためであり、すでに統治とうちしゃとしての正当せいとうせい天命てんめい)がないためである。

天子てんしくらいは、かつては代々だいだい賢者けんじゃから賢者けんじゃへと禅譲ぜんじょうされていたが、ほうずると賢者けんじゃえきでなくそのけいぎ、以後いご今日きょうまで世襲せしゅうつづいている。これは禹の時代じだいになってとくおとろえたからなのではないか、という弟子でしまんしょういにたいし、孟子もうし明確めいかくにこれを否定ひていしている。孟子もうこによれば、賢者けんじゃぐかぐかはすべて天命てんめいによるものであり、両者りょうしゃ優劣ゆうれつはない。孟子もうし孔子こうしげんいて「とうおそれぜん(ゆず)り、なつきさきいんしゅうぐも、いちなり」(まんしょう章句しょうくじょう)とべている。そのため、世襲せしゅうしながらてんによってはいされてしまうのは、かならず桀紂のような「ざんぞく」だけだとされる。

この論理ろんり当時とうじ宗教しゅうきょう権威けんい論証ろんしょうかいしているものの、意義いぎ目的もくてきというめんにおいて2000ねんヨーロッパ提唱ていしょうされた社会しゃかい契約けいやくろん同一どういつであるとえる。

後世こうせい評価ひょうか

編集へんしゅう

以下いかは、中国ちゅうごくばんウィキペディアからの引用いんよう

孟子もうし儒家じゅかもっと主要しゅよう代表だいひょうてき人物じんぶつ一人ひとりである。しかし、中国ちゅうごくにおいて、孟子もうし地位ちいそうだい以前いぜんにはあまりたかくなかった。ちゅうから時代じだいかんいよいよが『原道はらみち』をあらわして、孟子もうし戦国せんごく時代じだい儒家じゅかなか唯一ゆいいつ孔子こうしの「道統どうとう」をいだという評価ひょうか開始かいしし、こうして孟子もうしの「昇格しょうかく運動うんどう」があらわれた。以降いこう孟子もうことその著作ちょさく地位ちい次第しだい上昇じょうしょうしていった。きたそう時代じだいかみはじめ熙寧4ねん1071ねん)、『孟子もうし』のしょはじめて科挙かきょ試験しけん科目かもくなかれられた。げんゆたか6ねん1083ねん)、孟子もうしはじめて政府せいふから「鄒国こう」の地位ちい追贈ついぞうされ、翌年よくねん孔子こうしびょう孔子こうしわき並置へいちしてまつられることがゆるされた。こののち孟子もうし』は儒家じゅか経典きょうてん昇格しょうかくし、みなみそう時代じだいしゅはまた『孟子もうし』の語義ごぎ注釈ちゅうしゃくし、『大学だいがく』、『中庸ちゅうよう』とならんで「四書ししょ」と位置付いちづけ、さらにその実際じっさいてき地位ちいを「五経ごきょう」のうえいた。もとだいいたりじゅん元年がんねん1330ねん)、孟子もうしくわえて「亜聖あせいこう」にふうじられ、以後いご亜聖あせい」としょうされるようになり、その地位ちい孔子こうしぐとされたのである。

孔子こうし武人ぶじん)や、後代こうだいしゅ熹・おう陽明ようめいらとことなり、孟子もうし武人ぶじんではなく、兵学へいがくおさめず、軍事ぐんじ指揮しき経験けいけんがなく、著作ちょさくには六芸りくげいなど実学じつがくてき教養きょうようへの言及げんきゅうがない。「孟母三遷もうぼさんせん」の伝承でんしょうは、それが事実じじつなら、孔子こうし君子くんし教養きょうようとして弟子でしたちに修養しゅうようすすめた「六芸りくげい」をいちじるしく侮辱ぶじょくするものであり(墓地ぼちにおけるれい六芸りくげいだいいち市場いちばにおけるかず六芸りくげいだいろくだが、孟母もうぼはこれを賤業せんぎょう見下みくだした)、孟子もうし孔子こうしたちがもっとも嫌悪けんおしたであろうステレオタイプの差別さべつ主義しゅぎしゃ出世しゅっせ主義しゅぎしゃ母親ははおやによってそだてられたことになる。

上述じょうじゅつのように、孟子もうし天命てんめいせつ革命かくめいせつ)そのものは、孔子こうし著作ちょさくにもその萌芽ほうががあって、それを発展はってんさせてろんとなしたことはかならずしも孔子こうし道統どうとう逸脱いつだつするものではなかったが、日本にっぽんいちせい相伝そうでんまんせい一系いっけいてき国体こくたいかん合致がっちしない。そのため、中国ちゅうごく航海こうかいしゃたちのあいだには、明代あきよの「ゆう携其しょ孟子もうし往者おうしゃぶねそくくつがえおぼれ」(ざつまないた)などのように、孟子もうしんで日本にっぽんかうふねしずむという伝承でんしょうがあった。

日本にっぽんにおいても、孟子もうし地位ちい江戸えど時代じだい以前いぜんはあまりたかくなく、むしろ忌避きひされていた。日本にっぽん元号げんごう宗教しゅうきょうじょう産業さんぎょうじょう瑞祥ずいしょうのぞき、基本きほんてき四書ししょ五経ごきょう出典しゅってんとするが、四書ししょ五経ごきょうなかの『孟子もうし』に由来ゆらいする元号げんごうはまだ存在そんざいしない。

日本にっぽんでは、はやし羅山らざん徳川とくがわ家康いえやす伊藤いとう仁斎じんさい上田うえだ秋成あきなり佐藤さとう一斎いっさい吉田よしだ松陰しょういん西郷さいごう隆盛たかもりきた一輝いっきらがねつ読したことでられる[6]

はじめびょう

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はじめびょう

孟子もうし出身しゅっしんである山東さんとうしょう鄒城南郊なんこうには、孟子もうし祭祀さいしするはじめびょうてられている。別名べつめい亜聖あせいびょうともいい、南北なんぼくなが長方形ちょうほうけいで、しんもんち、殿宇でんうは64あいだあり、敷地しきち面積めんせきは4まん平方へいほうメートルをえる。正殿せいでん亜聖あせい殿どのといい、現存げんそんのものはきよしかん年間ねんかん地震じしんかたむいたのち再建さいけんされたもので、7あいだあり、たかさ17m、はば27m、奥行おくゆき20mある。「きょくあなびょうあなりんあな拡大かくだい」として2008ねん3がつユネスコ世界せかい遺産いさん暫定ざんていリストにれられている。

朝鮮ちょうせんでは、孟子もうし氏族しぞくしんあきらはじめ始祖しそとされる。日本にっぽんにおいても、中国ちゅうごく(または朝鮮ちょうせん)における孟子もうし子孫しそんかんであったはじめひろしが、秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさい捕虜ほりょとして日本にっぽん連行れんこうされて毛利もうり浅野あさのつかえ、渡辺わたなべおさむあん名乗なのり、そのまご武林たけばやし唯七ただしち隆重たかしげ)が赤穂あこう浪士ろうし参加さんかしたという伝承でんしょうがある。

書物しょもつとしての『孟子もうし

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しょとしての『孟子もうし』は、上述じょうじゅつのとおり儒教じゅきょうせいてん四書ししょひとつである。孟子もうし一生いっしょうおこなった遊説ゆうぜい論争ろんそう弟子でしたちとの問答もんどうおよ語録ごろく集成しゅうせいである。

書名しょめいは『もう』と区別くべつするため「もうじ」と発音はつおんし、人名じんめいは「もうし」と発音はつおんするのが日本にっぽんでの習慣しゅうかんであったが、近年きんねん書名しょめい場合ばあいでも「もうし」と発音はつおんすることがおお[7]

孟子もうし』のちゅういたのちかんちょうは、『孟子もうし』は孟子もうし引退いんたいに、かれ弟子でし公孫こうそんうしまんしょうらととも問答もんどうあつめ、また規則きそく言葉ことばえらんで編集へんしゅうしたと記載きさいしている[8]武内たけうち義雄よしお孟子もうこ自撰じせんせつ反対はんたいし、孟子もうし門弟もんていまたはさいつて弟子でしくらいの手記しゅきをあつめて編纂へんさんされたものとする[9]

  • りょうめぐみおう章句しょうくじょうした
  • 公孫こうそんうし章句しょうくじょうした
  • 「滕文こう章句しょうくじょうした
  • はなれ婁章じょうした
  • まんしょう章句しょうくじょうした
  • つげ章句しょうくじょうした
  • つきこころ章句しょうくじょうした

ななへんよりなる。

儒教じゅきょう倫理りんりせつ根本こんぽん教義きょうぎのひとつとされ、社会しゃかい秩序ちつじょ維持いじのためまもるべき5つのとくとして有名ゆうめいな「五倫ごりんみち」は滕文こうじょうへん記載きさいされており、性善説せいぜんせつ根拠こんきょたるべき道徳どうとく学説がくせつとしてられるよんはしせつは、公孫こうそんうしじょうへんしるされている。

なお『論語ろんご』は孔子こうし登場とうじょうしないあきらふくまれていて、孔子こうし本人ほんにん弟子でしたちの言行げんこうろくとなっているが、『孟子もうし』はちょんあきら孟子もうこ本人ほんにん登場とうじょうする。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ はじめしげる (1971ねん5がつ1にち). “〈孟子もうし其人及其著述ちょじゅつ〉” (中国ちゅうごく). 文藝ぶんげい復興ふっこう (中華民國ちゅうかみんこく: 中國ちゅうごく文化ぶんか學院がくいん) (だい17): だい11ぺーじだい13ぺーじ. https://www.google.com.tw/books/edition/%E6%96%87%E8%97%9D%E5%BE%A9%E8%88%88/6vojAAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E3%80%8C%E4%B8%89%E9%81%B7%E5%BF%97%E3%80%8D%E5%8F%8A%E3%80%8C%E5%AD%9F%E5%AD%90%E4%B8%96%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%8D%E8%BC%89&dq=%E3%80%8C%E4%B8%89%E9%81%B7%E5%BF%97%E3%80%8D%E5%8F%8A%E3%80%8C%E5%AD%9F%E5%AD%90%E4%B8%96%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%8D%E8%BC%89&printsec=frontcover. "せき於孟子生こなじそつ年月としつきかくいえせつ紛紛ふんぷん不一ふいつきよし閻若璩有孟子もうこせいそつ年月としつきこうまた有定ありさだろん。「さん遷志」及「孟子もうし孟子もうこ於周れつおうよんねんよんがつにちせい紀元前きげんぜんさんななねん),しゅう赧王じゅうろくねん正月しょうがつじゅうにちそつ紀元前きげんぜんはちきゅうねん)。孟子もうこ出生しゅっしょういた現在げんざいやめけいせんさんひゃくよんじゅうねん,較孔ばんりょういちひゃくななじゅうきゅうねん孔子こうしせい紀元前きげんぜんいちねん)。根據こんきょ這一時間來覆按,孟子もうこゆうはりゆうひとし,及其事跡じせき言論げんろん甚多符合ふごうそうゆうせき孟子もうしさい原始げんし傳記でんき史料しりょう,厥爲史記しき孟子もうし荀卿列傳れつでん」,而又焉不しょう,以致諸家しょか考證こうしょうまがえ紜迄定論ていろん。" 
  2. ^ a b 孟子もうしはなれ婁篇」』
  3. ^ 孟子もうし公孫こうそんうしへん」』による
  4. ^ 孟子もうし公孫こうそんうしへん」』
  5. ^ a b 孟子もうしつげへん」』
  6. ^ 孟子もうし松岡まつおかただしつよしせんせんさつ、1567、2014ねん12月25にち
  7. ^ 現代げんだい中国ちゅうごくでは、「孟子もうし」は「モンズー Mèngzǐ」、『もう』は「マオシー Máoshī」と発音はつおんするため、混同こんどうはない。
  8. ^ ちょう岐『孟子もうし題辭だいじ』「ニ於テ退すさキテだか弟弟子おとうとでし公孫こうそんうしまんしょうト、うたぐなんといこたえヘシしょ論集ろんしゅうシ、またラ其ノ法度はっとげんせんビ、しょななへんひゃくろくじゅういちしょうさんまんよんせんろくひゃくはちじゅうちょハス。」
  9. ^ 小林こばやし勝人まさと孟子もうしした岩波いわなみ文庫ぶんこ、1972ねん 武内たけうち義雄よしお孟子もうしについて」pp.454-457。

外部がいぶリンク

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