天子てんし(てんし)とは、中国ちゅうごく・日本にっぽん・ベトナムで用もちいられた君主くんしゅの称号しょうごう。天命てんめいを受うけて天下てんかを治おさめる者ものの意い。中国ちゅうごくの周しゅう王おうや漢かん代だい以降いこうの皇帝こうてい、日本にっぽんの大王だいおう・天皇てんのうの別べつ号ごうとして用もちいられた。
王おうは天てん(天帝てんてい)の子こであり天命てんめいにより天下てんかを治おさめるとする古代こだい中国ちゅうごくの思想しそうを起源きげんとする。
周しゅう代だい、周しゅう公こう旦だんによって「天帝てんていがその子ことして王おうを認みとめ王位おういは家系かけいによって継承けいしょうされていく。王家おうけが徳とくを失うしなえば新あらたな家系かけいが天命てんめいにより定さだまる」という天人てんにん相関そうかん説せつが唱となえられ、天てんと君主くんしゅの関係かんけいを表あらわす語かたりとして「天子てんし」が用もちいられるようになったという。
秦はたの始皇帝しこうていにより、天下てんかを治おさめる者ものの呼称こしょうが神格しんかく化かされた「皇帝こうてい」へと変かわると、天子てんしの称しょうは用もちいられなくなったが、漢かん代だいに至いたり儒教じゅきょう精神せいしんの復活ふっかつをみると、再ふたたび天子てんしの称しょうが用もちいられるようになり、それは皇帝こうていの別名べつめいとなった。
天子てんし(皇帝こうてい)の支配しはいは、空間くうかん(領土りょうど)だけでなく、時間じかん(暦こよみ、年号ねんごう、歴史れきし書しょ)にも及および、天子てんし(皇帝こうてい)以外いがいの者ものの時間じかんの支配しはいは許ゆるされなかった。
前漢ぜんかんの武たけ帝みかどは、太陰暦たいいんれきと太陽暦たいようれきを合体がったいした太初たいしょ暦れきを制定せいてい。皇帝こうていの下くだした暦こよみを用もちいるのが、皇帝こうていの主権しゅけんを認みとめた証拠しょうことなり、これを「正せい朔ついたちを奉ほうずる」と言いった。
皇帝こうていは天帝てんていに対たいしては天てんの子こ=天子てんしとして天てんを祭まつる儀礼ぎれいを司つかさどり、それは皇帝こうていだけに許ゆるされた神聖しんせい儀礼ぎれいとして清きよし朝あさに至いたるまで連綿れんめんと引ひき継つがれた。
密教みっきょうにおける十二天じゅうにてんの日にち天子てんし・月つき天子てんしとしても用もちいられそれらが支配しはいする太陽たいようと月つきの世界せかいのことを指さす。
中国ちゅうごくの影響えいきょうを多おおく受うけた日本にっぽんでも、天子てんしは大王だいおう・天皇てんのうの別名べつめいとして用もちいられ、倭国わのくに王おう多利たり思おもえ比ひ孤こは「日にち出處しゅっしょ天子てんし致書日沒にちぼつ處しょ天子てんし無む恙云云うんぬん(日出ひのでずる処しょの天子てんし、日没にちぼつする処ところの天子てんしに書しょを致いたす。恙無つつがなきや。云々うんぬん)」と記しるした国書こくしょを隋ずいの煬帝に送おくった。
律令りつりょうにおいては、天子てんしは祭祀さいしにおいて用もちいる天皇てんのうの称号しょうごうとして規定きていされている。天皇てんのうの別称べっしょうの1つとして広ひろく使つかわれた。
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