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史記 - Wikipedia

史記しき

前漢ぜんかんたけみかど司馬しば遷によって編纂へんさんされた歴史れきししょ

史記しき』(しき)は、中国ちゅうごく前漢ぜんかんたけみかど時代じだい司馬しばによって編纂へんさんされた歴史れきししょである。じゅうよんひとつで、正史せいしだいいちかぞえられる。けい52まん6せん5ひゃく著者ちょしゃ自身じしん名付なづけた書名しょめいは『ふとしおおやけしょ』(たいしこうしょ)であるが、後世こうせいに『史記しき』とばれるようになるとこれが一般いっぱんてき書名しょめいとされるようになった。

じゅうよんなかでも『漢書かんしょ』とならんで最高さいこう評価ひょうかふみかん)をており、たん歴史れきしてき価値かちだけではなく文学ぶんがくてき価値かちたか評価ひょうかされている。

日本にっぽんでもふるくからまれており、元号げんごう出典しゅってんとして12かい採用さいようされている。

成立せいりつ

編集へんしゅう
 
司馬しば

司馬しば遷の家系かけいは、代々だいだいふとしおおやけ」(ふとしれい)という史官しかん従事じゅうじし、天文てんもん暦法れきほううらないせいや、歴史れきし記録きろく保管ほかん整備せいびたっていた[1][注釈ちゅうしゃく 1]とくちち司馬しばだんは、史官しかんとして記録きろく整理せいりたるだけではなく、それを記載きさい論評ろんぴょうし、自分じぶん著書ちょしょとする計画けいかくっていた[2]。しかし、司馬しばだんはその事業じぎょうえることなく死去しきょし、息子むすこ司馬しば遷に自分じぶん作業さぎょうぐように遺言ゆいごんした[3]

ちち死後しご3ねんに、司馬しば遷もたいれいとなり、史官しかんのこした記録きろく宮廷きゅうてい図書館としょかん秘蔵ひぞうされた書物しょもつみ、資料しりょうあつめた[4]太初たいしょ元年がんねん紀元前きげんぜん108ねん)には、太初たいしょれき改定かいてい作業さぎょうたずさわり、このころに『史記しき』の執筆しっぴつ開始かいしした[5][6]。のち、天漢てんかん3ねん紀元前きげんぜん98ねん)、司馬しば遷は匈奴きょうど投降とうこうした友人ゆうじんりょう弁護べんごしたためたけみかど激怒げきどされ、宮刑きゅうけいしょされる[7][8]。こうした屈辱くつじょくあじわいながらも司馬しば遷は執筆しっぴつつづけ、せい年間ねんかん紀元前きげんぜん92~89ねん)にいたって完成かんせいした[6]

史記しき』を執筆しっぴつする意図いとについて、司馬しば遷はちち言葉ことば引用いんよう以下いかのようにべている[9][10]

えきでんただし、春秋しゅんじゅうぎ、詩書ししょ礼楽れいがくさいほんづくるものらん。(孔子こうしつくられた『えき』の解釈かいしゃくただし、『春秋しゅんじゅう』の精神せいしん継承けいしょうし、『』『しょ』『れい』『らく』のしょ分野ぶんや基礎きそづけるものがいときだ。) — 司馬しば遷、ふとしおおやけ自序じじょ司馬しばだん言葉ことば

くわえて、司馬しば遷は当時とうじ春秋しゅんじゅうおおやけひつじがく領袖りょうしゅうであるただしなかせつ敷衍ふえんして孔子こうしの『春秋しゅんじゅう執筆しっぴつ目的もくてきろんじている[11][10]

いわく、わがこれ空言くうげんせんとほっするも、これ行事ぎょうじ(しめ)すの深切しんせつちょあかりなるにかざるなり、と。(孔子こうしは「わたしはそのことを抽象ちゅうしょうてき言葉ことば記述きじゅつしようとしたが、それよりも、これを人々ひとびと実際じっさいった具体ぐたいてき行為こういの迹においてしめすほうが、はるかに切実せつじつであり鮮明せんめいなのだ」とおっしゃった。) — 司馬しば遷、ふとしおおやけ自序じじょただしなか舒が孔子こうし言葉ことば引用いんようする部分ぶぶん

ここにしめされた「空言くうげん」より「行事ぎょうじ」を重視じゅうしする態度たいどは、『史記しき』に継承けいしょうされた[12]。また司馬しば遷は、自分じぶん著作ちょさくは『春秋しゅんじゅう』のしゅう王朝おうちょう称賛しょうさんならい、かん帝国ていこくもり顕彰けんしょうするものであるともべている[10]。『史記しき執筆しっぴつ最大さいだい目的もくてきかんだい記述きじゅつにあり、それによってどう時代じだいであるかん帝国ていこく歴史れきしてき意義いぎ宣揚せんようすることにあった[13]

司馬しば遷がもちいた資料しりょう

編集へんしゅう

おおむね、『史記しき』の西にしあまね以前いぜん部分ぶぶんについては『しょけい』、春秋しゅんじゅう時代じだいについては『春秋しゅんじゅう経伝けいでんとくに『春秋しゅんじゅうひだりでん』)を最大さいだい取材しゅざいげんとしており、現存げんそんする先行せんこう文献ぶんけんからかさなる部分ぶぶん確認かくにんできる場合ばあいおお[14]たとえば「しゅう本紀ほんぎ」の場合ばあいであれば、ふるくからつたえられた系譜けいふ資料しりょうのほか、『しょけい』『尚書しょうしょ大伝だいでん』『詩経しきょう』『だい戴礼』『れい』『国語こくご』『孟子もうし』『韓非子かんぴし』『りょ春秋しゅんじゅう』『淮南ワイナン』などを利用りようしたとかんがえられる[15]各国かっこく戦国せんごく時代じだい記述きじゅつについては『史記しき』にのみえる情報じょうほうおおく、様々さまざま資料しりょうわせて相当そうとう労力ろうりょくのもとつくられたとかんがえられる[16]

司馬しば遷は、宮廷きゅうてい秘蔵ひぞうされていた文献ぶんけんのほかに、みずかひろ周遊しゅうゆうして収集しゅうしゅうした各種かくしゅ資料しりょうもとづいて『史記しき』を編纂へんさんした[17]。この周遊しゅうゆうは、せきなかからこうりょうすわえ)、長江ながえ流域りゅういきひとし地域ちいき、さらにだいはり廃墟はいきょたかし)、洛陽らくようまわったもの[18]。『史記しき』では、これらの旅行りょこうさい見聞けんぶん紹介しょうかいされることがあるうえに、さらにその知見ちけんをもとに文献ぶんけん伝承でんしょう真偽しんぎ検証けんしょうをしている場合ばあいもある[19]

後世こうせい加筆かひつ

編集へんしゅう

史記しき』は司馬しば遷の死後しご加筆かひつ修正しゅうせいさかんにこころみられた。りゅうともいくは、つづけした学者がくしゃとしてりゅうむかいりゅうあげゆうら15にん名前なまえげる[20]とくおぎなえつづけしゃとして著名ちょめいなのは褚少まごで、ちんわたる外戚がいせき滑稽こっけい列伝れつでんなどにえる「褚先生せんせい曰」以下いかはその修補しゅうほ部分ぶぶんである[21]

また、さんすめらぎ時代じだいについてかれた「さんすめらぎ本紀ほんぎ」は、司馬しば遷がいたものではなく、とうだい司馬しばさだ加筆かひつしたものである[22]司馬しばさだわせて「史記しきじょ」を制作せいさくし、巻頭かんとうした。

内容ないよう

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全体ぜんたい構成こうせい

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史記しき』は、「本紀ほんぎ」12へん、「ひょう」10へん、「しょ」8へん、「」30へん、「列伝れつでん」70へんけい130へんからなる。

  1. 本紀ほんぎ - 帝王ていおう記録きろくで、主権しゅけんしゃ交代こうたい年代ねんだいじゅんしるしたもの[23]
  2. ひょう - 歴史れきし事実じじつ簡略かんりゃくし、ひょうしめしたもの[23]
  3. しょ - 政治せいじかんする特殊とくしゅなテーマごとに、記事きじ整理せいりしたもの[23]
  4. - 諸侯しょこう記録きろくをその一族いちぞくごとにしるしたもの[23]
  5. 列伝れつでん - かく分野ぶんや活躍かつやくした人物じんぶつおこないをしるしたもの[24]

本紀ほんぎ」と「列伝れつでん」からるこの形式けいしきは「紀伝きでんたい」とばれ、中国ちゅうごく歴史れきししょ模範もはんとされた[17]。なお、司馬しば遷の「ほうにんしょうきょうしょ」には「じゅうひょう本紀ほんぎじゅうしょはちしょうさんじゅう列伝れつでんななじゅう」という文章ぶんしょうがあり、「ひょう」が冒頭ぼうとうかれていた可能かのうせいもある[25]

史記しき』が対象たいしょうとする時代じだいは、伝説でんせつ時代じだいであるみかどみかどから、前漢ぜんかんたけみかどまでであり、その記述きじゅつ中国ちゅうごく古代こだい研究けんきゅうにおいてもっと基本きほんてき資料しりょうであるとされている[17]。また、「列伝れつでん」の末尾まつびには司馬しば遷の自序じじょである「ふとしおおやけ自序じじょ」がされ、司馬しば一族いちぞく歴史れきしや、かれが『史記しき』の執筆しっぴついたった経緯けいい背景はいけいべている。

目録もくろく

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だい 内容ないよう
まき1 だい1 みかど本紀ほんぎ みかど本紀ほんぎ みかど
まき2 だい2 なつ本紀ほんぎ なつ本紀ほんぎ なつ
まき3 だい3 いん本紀ほんぎ いん本紀ほんぎ いん
まき4 だい4 しゅう本紀ほんぎ しゅう本紀ほんぎ しゅう
まき5 だい5 はた本紀ほんぎ はた本紀ほんぎ はた
まき6 だい6 はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ 始皇帝しこうてい
まき7 だい7 こう本紀ほんぎ 項羽こうう本紀ほんぎ 項羽こうう
まき8 だい8 高祖こうそ本紀ほんぎ 高祖こうそ本紀ほんぎ 劉邦りゅうほう
まき9 だい9 りょふとしきさき本紀ほんぎ りょふとしきさき本紀ほんぎ りょ
まき10 だい10 孝文たかふみ本紀ほんぎ 孝文たかふみ本紀ほんぎ ぶんみかど
まき11 だい11 こうけい本紀ほんぎ こうけい本紀ほんぎ けいみかど
まき12 だい12 こう武本たけもとおさむ こう武本たけもとおさむ たけみかど[注釈ちゅうしゃく 2]
  1. さんだいひょう
  2. じゅう諸侯しょこう年表ねんぴょう
  3. ろくこく年表ねんぴょう
  4. はたすわえさい月表げっぴょう
  5. かんきょう以来いらい諸侯しょこう年表ねんぴょう
  6. 高祖こうそ功臣こうしんこうしゃ年表ねんぴょう
  7. めぐみけいあいだこうしゃ年表ねんぴょう
  8. たてもと以来いらいこうしゃ年表ねんぴょう
  9. たてもと以来いらい王子おうじ年表ねんぴょう
  10. かんきょう以来いらいはた相名あいなしん年表ねんぴょう
  1. れいしょ
  2. らくしょ
  3. りつしょ
  4. こよみしょ
  5. てんかんしょ
  6. ふうぜんしょ
  7. かわみぞしょ
  8. 平準へいじゅんしょ
だい 内容ないよう
まき31 だい01 ふとしはく ふとしはく
まき32 だい02 ひとしふとおおやけ ひとしふとしおおやけ きょうひとし
まき33 だい03 魯周こう 魯周こう
まき34 だい04 つばめ召公 つばめ召公 つばめ
まき35 だい05 かん蔡世 かん蔡世 かん
まき36 だい06 ひね杞世 ちん杞世 ひね
まき37 だい07 まもるかん叔世 まもるかん叔世 まもる
まき38 だい08 そうほろ そうほろ そう
まき39 だい09 すすむ すすむ すすむ
まき40 だい10 すわえ すわえ すわえ
まき41 だい11 えつおう勾踐 えつおう勾践 勾践
まき42 だい12 てい てい てい
まき43 だい13 ちょう ちょう ちょう
まき44 だい14 たかし
まき45 だい15 かん かん かん
まき46 だい16 けいなかかん けいなかかん ひとし
まき47 だい17 孔子こうし 孔子こうし 孔子こうし
まき48 だい18 ちんわたる ちんわたる ちんまさるひろ
まき49 だい19 外戚がいせき 外戚がいせき 外戚がいせきについて
まき50 だい20 すわえもとおう すわえもとおう りゅう劉邦りゅうほう血族けつぞく王侯おうこうふうじられたものについて)
まき51 だい21 荊燕 荊燕 りゅうりゅうさわ
まき52 だい22 ひとし悼惠おう ひとし悼恵おう りゅうこえかん諸侯しょこうおうとしてのひとしについて)
まき53 だい23 しょう相國しょうこく しょう相国しょうこく しょうなに
まき54 だい24 曹相國世くによ 曹相国世くによ 曹参
まき55 だい25 とめこう とめこう ちょうりょう
まき56 だい26 ひね丞相じょうしょう ちん丞相じょうしょう 陳平ちんぺい
まき57 だい27 絳侯しゅう勃世 絳侯しゅう勃世 しゅう
まき58 だい28 はりこうおう りょうたかしおう りゅうたけしかん諸侯しょこうおうとしてのはりについて)
まき59 だい29 むね むね けいみかどについて
まき60 だい30 さんおう さんおう たけみかどりゅうりゅうだんりゅう)について

列伝れつでん

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だい 内容ないよう
まき061 だい01 はくえびす列傳れつでん はくえびす列伝れつでん はくえびす・叔斉
まき062 だい02 かん晏列でん かん晏列でん かんえびすわれ晏嬰
まき063 だい03 老子ろうしかん列傳れつでん 老子ろうしかん列伝れつでん 老子ろうしかん
まき064 だい04 司馬しばみのる苴列でん 司馬しばみのる苴列でん 司馬しばみのる
まき065 だい05 孫子まごこくれおこり列傳れつでん 孫子まごこくれおこり列伝れつでん まごたけしまごおこり
まき066 だい06 胥列でん 胥列でん いん
まき067 だい07 なかあま弟子でし列傳れつでん なか弟子でし列伝れつでん あなもんじゅうあきら77にん
まき068 だい08 しょうくん列傳れつでん しょうくん列伝れつでん しょう
まき069 だい09 はた列傳れつでん はた列伝れつでん はた
まき070 だい10 ちょうただし列傳れつでん ちょうただし列伝れつでん ちょうただし
まき071 だい11 ぶな里子さとごあましげる列傳れつでん ぶな里子さとごあましげる列伝れつでん ぶなさとやましあましげる
まき072 だい12 みのるこう列傳れつでん みのるこう列伝れつでん
まき073 だい13 しろおこりおう翦列でん しろおこりおう翦列でん しろおこりおう
まき074 だい14 孟子もうし荀卿列傳れつでん 孟子もうし荀卿列伝れつでん 孟子もうし荀子
まき075 だい15 はじめ嘗君列傳れつでん はじめ嘗君列伝れつでん はじめ嘗君
まき076 だい16 平原へいげんくんおそれきょう列傳れつでん 平原ひらはらくんおそれきょう列伝れつでん 平原ひらはらくんおそれきょう
まき077 だい17 公子こうし列傳れつでん 公子こうし列伝れつでん しんりょうくん
まき078 だい18 はるさるくん列傳れつでん はるさるくん列伝れつでん はるさるくん
まき079 だい19 范雎蔡澤列傳れつでん 范雎蔡沢列伝れつでん 范雎蔡沢
まき080 だい20 らくあつし列傳れつでん らくあつし列伝れつでん らくあつし
まき081 だい21 かど頗藺しょう如列でん れん頗藺しょう如列でん れんしょうちょうおごまき
まき082 だい22 たん列傳れつでん たん列伝れつでん たんおう
まき083 だい23 魯仲れん鄒陽列傳れつでん 魯仲れん鄒陽列伝れつでん 魯仲れん鄒陽
まき084 だい24 こごめげん賈生列傳れつでん こごめげん賈生列伝れつでん こごめひらた賈誼
まき085 だい25 りょ韋列でん りょ韋列でん りょ
まき086 だい26 刺客しかく列傳れつでん 刺客しかく列伝れつでん 曹沬せんもろゆずる聶政荊軻
まき087 だい27 斯列でん 斯列でん
まき088 だい28 こうむ恬列でん こうむ恬列でん こうむ
まき089 だい29 ちょうみみひねあまり列傳れつでん ちょうみみひねあまり列伝れつでん ちょうみみひねあまり
まき090 だい30 ひょう彭越列傳れつでん ひょう彭越列伝れつでん ひょう彭越
まき091 だい31 黥布列傳れつでん 黥布列伝れつでん えいぬの
まき092 だい32 淮陰こう列傳れつでん 淮陰こう列伝れつでん かんしん
まき093 だい33 かんしんたがね列傳れつでん かんしんたがね列伝れつでん かんおうしんたがね
まき094 だい34 儋列でん 儋列でん
まき095 だい35 樊酈滕灌列傳れつでん 樊酈滕灌列伝れつでん 樊噲酈商なつこう灌嬰
まき096 だい36 ちょう丞相じょうしょう列傳れつでん ちょう丞相じょうしょう列伝れつでん ちょうあお
まき097 だい37 酈生りく賈列でん 酈生りく賈列でん 酈食其りく
まき098 だい38 でん靳蒯なり列傳れつでん でん靳蒯なり列伝れつでん でんひろし靳歙しゅう
まき099 だい39 りゅうたかし叔孫どおり列傳れつでん りゅうたかし叔孫どおり列伝れつでん りゅうたかし叔孫どおり
まき100 だい40 ぬの欒布列傳れつでん ぬの欒布列伝れつでん ぬの欒布
まき101 だい41 袁盎鼂錯列傳れつでん 袁盎鼂錯列伝れつでん 袁盎鼂錯
まき102 だい42 ちょうしゃく馮唐列傳れつでん ちょうしゃく馮唐列伝れつでん ちょうしゃくこれ馮唐
まき103 だい43 まんせきちょう叔列でん まんせきちょう叔列でん いしちょうおう
まき104 だい44 叔列でん 叔列でん
まき105 だい45 ひらたかささぎくらこう列傳れつでん ひらたかささぎくらこう列伝れつでん ひらたかささぎふとしくらこう
まき106 だい46 くれおう濞列でん おう濞列でん りゅう
まき107 だい47 たかし其田そのだ蚡列でん 其武やすこう列伝れつでん 竇嬰
まき108 だい48 かんちょう孺列でん かんちょう孺列でん かん安国やすくに
まき109 だい49 將軍しょうぐん列傳れつでん 将軍しょうぐん列伝れつでん ひろ
まき110 だい50 匈奴きょうど列傳れつでん 匈奴きょうど列伝れつでん 匈奴きょうどちゅうくだりせつ
まき111 だい51 まもる將軍しょうぐん驃騎列傳れつでん まもる将軍しょうぐん驃騎列伝れつでん まもるあお霍去びょう
まき112 だい52 平津ひらつこうしゅちち列傳れつでん 平津ひらつこうしゅちち列伝れつでん 公孫こうそんひろししゅちち
まき113 だい53 南越なんごし列傳れつでん 南越なんごし列伝れつでん 南越なんごし
まき114 だい54 ひがしえつ列傳れつでん ひがしえつ列伝れつでん ひがしこし閩越ひがし
まき115 だい55 朝鮮ちょうせん列傳れつでん 朝鮮ちょうせん列伝れつでん まもる朝鮮ちょうせん
まき116 だい56 西南せいなんえびす列傳れつでん 西南せいなんえびす列伝れつでん よるろうなど
まき117 だい57 司馬しばしょう如列でん 司馬しばしょう如列でん 司馬しばしょう
まき118 だい58 淮南ワイナン衡山列傳れつでん 淮南ワイナン衡山列伝れつでん 淮南ワイナンおうりゅうやすし
まき119 だい59 循吏列傳れつでん 循吏列伝れつでん まご叔敖さん公儀こうぎきゅういしおごはなれ
まき120 だい60 汲鄭列傳れつでん 汲鄭列伝れつでん 汲黯てい当時とうじ
まき121 だい61 儒林列傳れつでん 儒林列伝れつでん さるこうながえかたなまかんせいふくせいただしなかえびす毋生
まき122 だい62 酷吏こくり列傳れつでん 酷吏こくり列伝れつでん 当時とうじきびしくほう適用てきようしてみんおさめた人々ひとびと酷吏こくり)。ほうふう郅都やすしなり周陽しゅうようよしちょうちょうたておうあつしいんひとし楊僕げんせんもりしゅう
まき123 だい63 だいあて列傳れつでん だいあて列伝れつでん だいあて(フェルガナ)
まき124 だい64 ゆう俠列でん ゆう侠列でん しゅ田仲たなか王公おうこうげきはじめかくかい
まき125 だい65 佞幸列傳れつでん 佞幸列伝れつでん 鄧通かんのべねん
まき126 だい66 滑稽こっけい列傳れつでん 滑稽こっけい列伝れつでん じゅん于髠ゆうはじめゆう西門にしもんひょう
まき127 だい67 にちしゃ列傳れつでん にちしゃ列伝れつでん 卜者ぼくしゃ司馬しばぬし
まき128 だい68 かめさく列傳れつでん かめさく列伝れつでん うらないぼく方法ほうほうについて
まき129 だい69 貨殖かしょく列傳れつでん 貨殖かしょく列伝れつでん 商人しょうにんについて 范蠡みつぎ商人しょうにんとしても成功せいこうした逸話いつわ記述きじゅつ
まき130 だい70 ふとしおおやけ自序じじょ ふとしおおやけ自序じじょ 司馬しば自伝じでん

おも注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう

史記しき』には古来こらいからおおくの注釈ちゅうしゃくつくられ、そのなかでも著名ちょめいなものは以下いかの「さんいえちゅう」である[17]。これらの注釈ちゅうしゃく当初とうしょ単行たんこうしていたが、現在げんざいでは『史記しき』の本文ほんぶんにこれらさんちゅうごうこくしたものがもちいられる[17]

に、以下いかれいがある。

思想しそうてき背景はいけい

編集へんしゅう
 
史記しき』(あきらまんれきじゅうろくねんきたかん刊本かんぽん
裴駰しゅうかい司馬しばさださくかくれからちょうまもるぶし正義まさよし

司馬しばだんは、たけみかどによる儒教じゅきょう官学かんがく以前いぜん人物じんぶつであり、道家みちや思想しそうさかんな気風きふうなか学問がくもんけ、楊何師事しじして『えき』をおさめた経験けいけんもあった[26]かれの「ろくいえ要旨ようし」では、道家みちや思想しそうもっとたか評価ひょうかしており、これを中心ちゅうしんしょがく統一とういつはかろうとかんがえていたことがかる[26][27]司馬しば遷が『史記しき』をあらわ意図いとひとつには、このちちかんがえをぐこともあった[27]。『史記しき』は、道家みちや思想しそう基調きちょうとするしょがく統合とうごう史書ししょ形式けいしき実現じつげんするといういちめんゆうしていた[28]

こうした背景はいけいのもと、『史記しき列伝れつでん冒頭ぼうとうの「はくえびす列伝れつでん」で、司馬しば遷は「天道てんとう」といういをはっしている[29][26]。このいは、清廉せいれん潔白けっぱくひとであるはくえびすじににし、孔子こうし最愛さいあい賢者けんじゃであるかおかいはや逝したにもかかわらず、大盗たいとうじん天寿てんじゅまっとうしたことにたいして、「天道てんとう」を楽観らっかんてき信頼しんらいしてもよいものか、という切実せつじつなものであった[30]。また、ここには司馬しば自身じしんが、りょう事件じけんにおいて公正こうせい発言はつげんをしながら宮刑きゅうけい屈辱くつじょくけたことにたいする含意がんい見受みうけられる[31]

また、司馬しば遷は歴史れきし実態じったいそくして記述きじゅつすることをおもんじている。たとえば、項羽こうう皇帝こうてい君主くんしゅではなく、またその覇権はけんねんぎなかったため無視むしできる存在そんざいであったが、はた始皇帝しこうていからかん高祖こうそいた実権じっけんながれを説明せつめいするためには必要ひつようであり、「本紀ほんぎ」のひとつにてられている[32]。また、皇帝こうていであるめぐみみかど本紀ほんぎからはずし、そのあいだ実権じっけんにぎっていたりょきさきのために「りょきさき本紀ほんぎ」をてたのもおなれいである[32]

叙述じょじゅつ対象たいしょう王侯おうこう中心ちゅうしんであるものの、民間みんかん人物じんぶつげた「ゆう侠列でん」や「貨殖かしょく列伝れつでん」、暗殺あんさつしゃ伝記でんきである「刺客しかく列伝れつでん」など、権力けんりょくから距離きょりいた人物じんぶつについての記述きじゅつおおい。また、たけみかど外戚がいせきあいだでのみにくあらそいをえがいた「其武やすこう列伝れつでん」や、男色なんしょくやおべっかで富貴ふうきものたちの「佞幸列伝れつでん」、法律ほうりつをかざしじんなぶった「酷吏こくり列伝れつでん」、ぎゃく法律ほうりつらしわせてまさしくひとみちびいた「循吏列伝れつでん」など、安易あんい英雄えいゆう中心ちゅうしん歴史れきしかんかたよらない多様たよう視点してんたもたれている。

後世こうせい評価ひょうか

編集へんしゅう
 
史記しきいちぺーじ

漢書かんしょ』との関係かんけい

編集へんしゅう

こうかん編纂へんさんされたはんかたの『漢書かんしょ』は、『史記しき』の踏襲とうしゅう批判ひはんうえっており、後世こうせいの『史記しき評価ひょうか原点げんてんとなった[33]はんぴょうはんかた父子ふしは、『史記しき』を以下いか観点かんてんから批判ひはんしている。

  1. 儒教じゅきょうけいつてりつつも、それ以外いがい学派がくは由来ゆらいする内容ないようふくんでおり、相互そうご矛盾むじゅんもある[34]
  2. ろう思想しそう儒教じゅきょうより優先ゆうせんし、儒教じゅきょうてき価値かちかんでは批判ひはんされるはずのゆう俠・貨殖かしょく称賛しょうさんする[34]
  3. 項羽こううちんわたるげて、淮南ワイナン・衡山を退しりぞけたこと[34]
  4. 司馬しばしょうほんぬきぐんけんまでしるし、しるすのに、高祖こうそ功臣こうしんであるしょうなに曹参陳平ちんぺいや、どう時代じだいじんただしなかについては、ほんぬきぐんけんしるさないといった統一とういつがある[34]

これ以後いご、『史記しき』と『漢書かんしょ』はよく対比たいひされながらろんじられることになり、後世こうせい評価ひょうかおおきな影響えいきょうあたえた[33]たとえば、しょくかん譙周は、「史書ししょ編纂へんさん経書けいしょにのみ依拠いきょすべきであるのに、『史記しき』は諸子しょしひゃくいえせつもちいた」と非難ひなんすると、『古史こしこう』25へんあらわし、経典きょうてん所説しょせつ遵奉じゅんぽうして、『史記しき』の誤謬ごびゅうただすものとした。りゅうの『ぶんこころ雕龍』では、女性じょせい本紀ほんぎてたことが非難ひなんされている。

さんこく時代じだいには、『史記しき』と『漢書かんしょ』は「かん」と併称へいしょうされるようになり、これに『ひがしかんかん』をくわえて「さん」としょうされることもあった[35]。ただし、きゅう中国ちゅうごくにおいては、『史記しき』よりも『漢書かんしょ』が圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいであり、『ずいしょ経籍けいせきこころざし記録きろくによれば『漢書かんしょ』にくらべて『史記しき』の注釈ちゅうしゃく非常ひじょうすくない[36]

本文ほんぶん信頼しんらいせい

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現存げんそんする『史記しき』の完本かんぽんみなみそうけいもと2ねん(1196ねん)のものが最古さいこであり、これが司馬しば遷の原作げんさくにどの程度ていど忠実ちゅうじつかはおおきな問題もんだいである。

とうだいさくである「さんすめらぎ本紀ほんぎ」はべつにしても、ふとしおおやけ自序じじょにいう「今上きんじょう本紀ほんぎ」がいまの『史記しき』にはえず、かわりに「こう武本たけもとおさむ」があるが、これが後世こうせい補作ほさくであることはあきらかである。それ以外いがいまきにも司馬しば遷が使つかったはずのない「こう」「たけみかど」のかたり散見さんけんする。それどころか「たてもと以来いらいこうしゃ年表ねんぴょう」「外戚がいせき」「さんおう」「こごめげん賈生列伝れつでん」にはあきらみかどまで言及げんきゅうされている。とくに「かんきょう以来いらいしょうしょう年表ねんぴょう」は司馬しば遷のずっとおおとりよしみ元年がんねん紀元前きげんぜん20ねん)までしるしている。

漢書かんしょ司馬しば遷伝によると、はんかたた『史記しき』は130かんのうち10かんだいだけで本文ほんぶんがなかった。現行げんこうほんは130かん全部ぜんぶがそろっているので、こうかん以降いこうだれかがおぎなったということになる。ちょう晏によると、けていたのは「こうけい本紀ほんぎこう武本たけもとおさむれいしょらくしょ兵書へいしょかんきょう以来いらいしょうしょう年表ねんぴょうさんおうにちしゃ列伝れつでんかめさく列伝れつでんでん靳蒯なり列伝れつでん」であるという。『史記しきふとしおおやけ自序じじょの『さくかくれ』は、このうち兵書へいしょおぎなわれず、かわりにりつしょくわえたとする。

文学ぶんがくてき価値かち

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歴史れきし叙述じょじゅつをするための簡潔かんけつ力強ちからづよかた評価ひょうかされ、「ぶんひじりなり」「ろうしょうへいもちいるがごとし」と絶賛ぜっさんされたこともある。とくに「項羽こうう本紀ほんぎ」は名文めいぶんとしてひろわたっている。

文体ぶんたいまきによって相当そうとう異同いどうがあることも指摘してきされており、白川しらかわしず題材だいざいもと巧拙こうせつによって文体ぶんたい相当そうとう左右さゆうされたのではないかとかんがえており、司馬しば自身じしん文学ぶんがくてき才能さいのうには疑問ぎもんていしている。

歴史れきしがくてき価値かち

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正史せいしとして歴史れきしてき事件じけんについての基本きほんてき情報じょうほうとなるほか、こまかな記述きじゅつから当時とうじ生活せいかつ習慣しゅうかんかる部分ぶぶんおおい。とくに「しょ」にしるされた内容ないようは、前漢ぜんかん時代じだいにおける世界せかいかん政治せいじ経済けいざい社会しゃかい制度せいどなどについての重要じゅうよう資料しりょうである。また、匈奴きょうどはじめとする周辺しゅうへん民族みんぞく西域せいいきについての記述きじゅつも、現在げんざいられている地理ちり遺跡いせき発掘はっくつなどから判明はんめいした当時とうじ状況じょうきょうとの整合せいごうせいたかく、これらの地方ちほう当時とうじるための貴重きちょうがかりとなっている。また、はたはじめすめらぎ本紀ほんぎにおける「始皇帝しこうてい自分じぶんはか近衛このえへいさんせんにん人形にんぎょうめた」という記述きじゅつについても、西安しーあん郊外こうがい兵馬へいばあな発見はっけん記述きじゅつ正確せいかくさが証明しょうめいされている。

一方いっぽうで、『史記しきさくかくれ』がく『たけしょ紀年きねん』などとの比較ひかくから年代ねんだい矛盾むじゅんなどの問題もんだいてん度々どど指摘してきされている(たとえば王家おうけ闔閭世代せだいあいだ家系かけいなど)。宮崎みやざきじょうは、『史記しき』には歴史れきし題材だいざいにしたかたもの演出えんしゅつまれていることを指摘してきし、すべてを実録じつろくとはしんじられないとしている[37]小川おがわ環樹たまきは、司馬しば遷は『戦国せんごくさくとう記述きじゅつをだいぶ参照さんしょうしているであろう、とその著書ちょしょ指摘してき[38]加藤かとうとおる司馬しば遷がしるした戦国せんごくななゆう兵力へいりょくには多大ただい宣伝せんでんはいっているのではないかとしている。

日本にっぽんにおける受容じゅよう

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史記しき』の伝来でんらい時期じき正確せいかくには判明はんめいしていないが、聖徳太子しょうとくたいしじゅうななじょう憲法けんぽう典拠てんきょのひとつとして『史記しき』をげる見解けんかいがある[39]日本にっぽんにおける『史記しき』の受容じゅよう関連かんれんする事跡じせき以下いか例示れいじする。

奈良なら時代じだい

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ぞく日本にっぽんまき29・神護かんごけいくも2ねん768ねん)9がつ11にちじょうに、日向ひなたこくみや埼郡のひと大伴おおともじんえきあか白亀しらかめ瑞兆ずいちょうとして献上けんじょうしたむね記事きじがある。そのさいひとえき上奏じょうそうぶんにおいて『史記しきまき128・かめさく列伝れつでんの「かみひさし天下てんかたからなり」以下いかのくだりを引用いんようしている。

また、『ぞく日本にっぽんまき30・神護かんごけいくも3ねん769ねん)10がつ10日とおかじょうに、しょうとく天皇てんのう大宰府だざいふの「ただし五経ごきょうたくわえるのみ、いまさん(『史記しき』・『漢書かんしょ』・『こう漢書かんしょ』)の正本しょうほんらず。渉猟しょうりょうひとみちひろからず。してうらくは、列代れつだいもろかく一本いっぽんたまわりて管内かんない伝習でんしゅうし、もっ学業がくぎょうこうさん」との請におうじて『史記しき』から『すすむしょ』までの歴代れきだい正史せいし下賜かししたむね記事きじがある。

平安へいあん時代じだい

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国宝こくほう史記しき孝文たかふみ本紀ほんぎだいじゅう』(東北大学とうほくだいがく所蔵しょぞう[40]

平安へいあん時代じだいには公私こうしかく蔵書ぞうしょ目録もくろくに『史記しき』があらわれた。藤原ふじわらたすく奉勅ほうちょくして寛平かんぺい年間ねんかん889ねん - 897ねん)にせんした[41]日本にっぽん国見くにみざい書目しょもくろく』に「『史記しきはちじゅうかん・裴駰『しゅうかい』」が記載きさいされている。なお藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)の『つうけん入道にゅうどう蔵書ぞうしょ目録もくろく』にも史書ししょのひとつとして「『史記しきさくかくれじょうちつななかんちゅうちつじゅうかんしもちつきゅうかん」がげられている。

さらに、清少納言せいしょうなごんは『枕草子まくらのそうし』で「ふみは文集ぶんしゅう文選ぶんせんしん史記しきみかど本紀ほんぎ願文がんもんひょう博士はかせ申文もうしぶみ」とべている。他方たほう紫式部むらさきしきぶは『源氏物語げんじものがたり』で152箇所かしょにわたりかん詩文しぶん引用いんようし、うち14箇所かしょで『史記しき』をもちいている[42]たとえば、ふじつぼいん自身じしんりかかるなんけるべく出家しゅっけ決意けついする場面ばめんで、劉邦りゅうほうちょうの戚夫じんの「ひと彘」の逸話いつわふじつぼいん連想れんそうさせている(だい10じょう・「けん」)。また、紀伝きでんどう宗家そうけとされた大江おおえでは、裴駰『しゅうかい』をもとにした延久のべひさてんもとづく訓点くんてんほんあらわされた。

南北なんぼくあさ時代じだい

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太平たいへい』における中国ちゅうごく故事こじ引用いんようは62れいあり、うち30は『史記しき』を源泉げんせんとする説話せつわである[注釈ちゅうしゃく 3]。『太平たいへい』にはえつすわえかん興亡こうぼう取材しゅざいした部分ぶぶんおおく、ことまき28・「かんすわえせんことづけ吉野よしの殿どのなり綸旨りんじごと」では、『史記しきまき7・項羽こうう本紀ほんぎ中心ちゅうしんにしてさい構成こうせいしたすわえかんたたかいの描写びょうしゃやく9せんついやしている。

室町むろまち時代ときよ

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上杉うえすぎ憲実のりざねぶんやす3ねん1446ねん)に足利あしかが学校がっこうがくぶんまわしさだめて「さんちゅう四書ししょ六経りくけいれつそうろう史記しき文選ぶんせんそと学校がっこうにおいてこうずべからず」とした[注釈ちゅうしゃく 4]五山ごさん文学ぶんがくでは桃源とうげん瑞仙ずいせん月舟げっしゅう寿ことぶきかつら注釈ちゅうしゃくしょあらわした。

江戸えど時代じだい

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元和がんわ2ねん1616ねん)10がつ徳川とくがわ家康いえやす駿府すんぷ文庫ぶんこぞうしていた図書としょ家康いえやす遺命いめいにより江戸城えどじょううち富士見ふじみちん文庫ぶんこ一部いちぶ移転いてんされた。その引継ひきつぎ目録もくろくほん日記にっき』に「『史記しきよんじゅうさんさつ・『史記しきしょうじゅうよんさつ」がみえる[43]

また、徳川とくがわ光圀みつくにが18さいときに『史記しきまき61・はくえびす列伝れつでんんで感動かんどうしたとの逸話いつわが、光圀みつくに伝記でんきよしおおやけ行実ぎょうじつ』などにしるされている。光圀みつくにらが編纂へんさんした『だい日本にっぽん』は『史記しき』と同様どうよう紀伝きでんたい史書ししょである。

なお、天皇てんのう侍読じどくに『史記しき』を進講しんこうさせた記録きろくかく時代じだい史料しりょう散見さんけんされる。また、日本にっぽん現存げんそんする最古さいこの『史記しき』は、みなみそう時代じだい出版しゅっぱんされて日本にっぽんわたったとされるそう版本はんぽんである。1195ねん1201ねんたてやすし刊行かんこうされ、『けんやす善夫ぜんぶかん/于家じゅくけいしつ』とかんのこっている。妙心寺みょうしんじ僧侶そうりょであるみなみ所有しょゆうしていたが、直江なおえけんつづけゆずり、その米沢よねざわはん藩校はんこうきょうゆずるかん」で保管ほかんされていたものであり、そうばん漢書かんしょこう漢書かんしょ』ととも現在げんざい国宝こくほうとなり国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん保管ほかんされている。

史記しきにあらわれる故事こじ成語せいご

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以下いか初出しょしゅつ特記とっきしないかぎり『史記しき』を原拠げんきょとするものである。

  • 酒池肉林しゅちにくりん」 まき3・いん本紀ほんぎまき123・だいあて列伝れつでん初出しょしゅつは『韓非子かんぴしたとえろう
  • 百発百中ひゃっぱつひゃくちゅう」 まき4・しゅう本紀ほんぎ
  • うら骨髄こつづいはいる」 まき5・はた本紀ほんぎ
  • 鹿しかうまとなす」(「馬鹿ばか」の語源ごげんというせつがある) まき6・はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ
  • さきんずればひとせいす」 まき7・項羽こうう本紀ほんぎ
  • おおとりもんかい」 まき7・項羽こうう本紀ほんぎまき8・高祖こうそ本紀ほんぎまき55・とめこうまき95・樊噲列伝れつでん
  • 四面楚歌しめんそか」 まき7・項羽こうう本紀ほんぎ
  • 雌雄しゆうけっす」 まき7・項羽こうう本紀ほんぎ
  • いちはいる」 まき8・高祖こうそ本紀ほんぎ
  • 左袒さたん」 まき9・りょふとしきさき本紀ほんぎまき10・孝文たかふみ本紀ほんぎ
  • 隗よりはじめよ」 まき34・つばめ召公。『戦国せんごくさくつばめさく
  • くちびるやぶれてさむし」 まき39・すすむまき46・けいなかかん初出しょしゅつは『春秋しゅんじゅうひだりでん』僖公ねん
  • 宋襄そうじょうじん」 まき39・すすむ初出しょしゅつは『韓非子かんぴしそともうかせつ左上ひだりうえ
  • 狡兎こうとして走狗そうくらる」 まき41・えつおう勾践まき92・淮陰こう列伝れつでん初出しょしゅつは『韓非子かんぴしないもうかせつ
  • 臥薪嘗胆がしんしょうたん」 まき41・えつおう勾践(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆がしんしょうたん」は『じゅうはちりゃく春秋しゅんじゅうなど)
  • まんもたす」 まき41・えつおう勾践
  • 王侯おうこうしょうしょういずくんぞたねあらんや」 まき48・ちんわたる
  • 忠言ちゅうげんみみさからい、良薬りょうやくこうにがし」 まき55・とめこうまき108・淮南ワイナン衡山列伝れつでん(『史記しき』では「毒薬どくやく」)。初出しょしゅつは『韓非子かんぴしそともうかせつ左上ひだりうえ
  • 立錐りっすいなし」 まき55・とめこう
  • 天道てんとうか」 まき61・はくえびす列伝れつでんまき63・老子ろうしかん列伝れつでん
  • かんあわびまじわり」 まき62・かん晏列でん初出しょしゅつは『れつちからいのち
  • かばね鞭打むちうつ」 まき66・胥列でん
  • むし鶏口けいこうとなるとも牛後ぎゅうごとなるなかれ」 まき69・はた列伝れつでん
  • 完璧かんぺき」 まき81・れん頗藺しょう如列でん
  • 刎頸のまじわり」 まき81・れん頗藺しょう如列でんまき89・ちょうみみひねあまり列伝れつでんまき92・淮陰こう列伝れつでん
  • おのれもののためにす」 まき86・刺客しかく列伝れつでん
  • 傍若無人ぼうじゃくぶじん」 まき86・刺客しかく列伝れつでん
  • だんじておこなえば鬼神きじんもこれを避く」 まき87・斯列でん
  • しょうしょうたり」 まき92・淮陰こう列伝れつでん
  • 匹夫ひっぷいさむ婦人ふじんじん」 まき92・淮陰こう列伝れつでん。「匹夫ひっぷいさみ」の初出しょしゅつは『孟子もうしりょうめぐみおう
  • 国士無双こくしむそう」 まき92・淮陰こう列伝れつでん
  • 背水はいすいじん」 まき92・淮陰こう列伝れつでん初出しょしゅつは『じょう繚子』てんかん
  • 智者ちしゃ千慮せんりょかならいちしつあり。愚者ぐしゃ千慮せんりょまたいちとくあり」 まき92・淮陰こう列伝れつでん
  • みぎずるしゃなし」 まき104・叔列でん
  • 流言りゅうげん蜚語ひご」 まき107・其武やすこう列伝れつでん
  • 桃李とうりものわざれどしたおのずから蹊(こみち)をなす」 まき109・将軍しょうぐん列伝れつでん
  • 曲学阿世きょくがくあせい」 まき121・儒林列伝れつでん
  • かずばず」 まき126・滑稽こっけい列伝れつでんじゅん于髠
  • はかりごと(はかりごと)を帷幄いあく(いあく)のなかにめぐらし、ちを千里せんりそとけっする」 まき130・たいおおやけ自序じじょちょうりょう伝記でんき言及げんきゅうするものは『漢書かんしょまき40・ちょうりょうでん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ふとしおおやけ自序じじょ」では、司馬しばはもともとしゅう史官しかんであったとするが、実際じっさいには春秋しゅんじゅう時代じだい以前いぜん司馬しば来歴らいれきについては信頼しんらいできない。司馬しば遷の祖先そせんのうち、もっとはや史実しじつである可能かのうせいたかいものは、紀元前きげんぜん4世紀せいきまつしょうはり居住きょじゅうしたはたじんであったという記録きろくである(吉本よしもと1996、p.193)。
  2. ^ 現行げんこうの「こう武本たけもとおさむ」は司馬しば遷のによるものではない。「ふとしおおやけ自序じじょ」によれば、司馬しば遷のによる「今上きんじょう本紀ほんぎ」が存在そんざいしていたことはかるが、はやくにほろび佚している。現行げんこう本紀ほんぎ前漢ぜんかんの褚少まご補作ほさくしたものともわれるが、内容ないようが「ふうぜんしょ」のだい部分ぶぶんをそのまま採録さいろくしたものであり、褚少まご補作ほさくですらないとする見解けんかいきよしぜにだい)もある。
  3. ^ 増田ますだ欣『『太平たいへい』の比較ひかく文学ぶんがくてき研究けんきゅう』p112-p125(角川書店かどかわしょてん、1976ねん)の算出さんしゅつ方法ほうほうによる。また、『太平たいへいあきらだんことしょ西にしげん院本いんぽんもとづく。なお、たとえばすわえかん興亡こうぼうが『平家ひらか物語ものがたり』・『平治へいじ物語ものがたり』・『源平げんぺい盛衰せいすい』で紹介しょうかいされているように、種々しゅじゅ軍記物語ぐんきものがたりが『史記しき』にみえる説話せつわもちいている。しかし、『史記しき』のテキストとの比較ひかくにより、これらの軍記物語ぐんきものがたりと『史記しき』との直接的ちょくせつてき関連かんれん否定ひていするのが通説つうせつてき見解けんかいのようである。増田ますだ前掲ぜんけいしょp207以降いこう。『平家ひらか物語ものがたり』につき、山下やました宏明ひろあきへん軍記ぐんき文学ぶんがく研究けんきゅう叢書そうしょ5『平家ひらか物語ものがたり生成せいせい』p129(汲古書院しょいん、1997ねん)。
  4. ^ 川瀬かわせ一馬かずま足利あしかが學校がっこう研究けんきゅう』p32(講談社こうだんしゃ、1974ねん)。もっとも、『史記しき』は足利あしかが学校がっこう教材きょうざいとされる唯一ゆいいつ史書ししょでありつづけたわけではなく、とおる13ねん1728ねん)の蔵書ぞうしょ目録もくろくには『りょう漢書かんしょ』・『つうかん』などがみえる。同書どうしょp167・p253。なお、「さんちゅう」とは『ちゅうこうむもとむ』・『せんぶんちゅう』・『えびす曾詩註』をいう

出典しゅってん

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  1. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 7–10.
  2. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 31–33.
  3. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 34–38.
  4. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 39.
  5. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 39–41.
  6. ^ a b 青木あおき 1984, p. 176.
  7. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 65.
  8. ^ 増井ますい 1987, p. 9.
  9. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 41.
  10. ^ a b c 吉本よしもと 1996, p. 125.
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  12. ^ 吉本よしもと 1996, p. 140.
  13. ^ 吉本よしもと 1996, pp. 220–221.
  14. ^ 吉本よしもと 1996, pp. 159–160.
  15. ^ 吉本よしもと 1996, pp. 73–79.
  16. ^ 吉本よしもと 1996, pp. 184–185.
  17. ^ a b c d e 米田よねだ & 永田ながた 1983, p. 118.
  18. ^ 吉本よしもと 1996, pp. 186–187.
  19. ^ 吉本よしもと 1996, p. 187.
  20. ^ 増井ますい 1987, pp. 19–10.
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  23. ^ a b c d 宮崎みやざき 1979, pp. 18–19.
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  25. ^ 吉川よしかわ 2010, pp. 15–16.
  26. ^ a b c 吉本よしもと 1996, p. 216.
  27. ^ a b 川勝かわかつ 1973, pp. 28–29.
  28. ^ 吉本よしもと 1996, p. 220.
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  31. ^ 宮崎みやざき 1979, p. 150.
  32. ^ a b 宮崎みやざき 1979, pp. 20–22.
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  36. ^ 吉川よしかわ 2010, pp. 8–9.
  37. ^ 宮崎みやざき 1979, p. 191.
  38. ^ 史記しき列伝れつでん解説かいせつ
  39. ^ 岡田おかだ正之まさゆき近江おうみ奈良ならあさかん文學ぶんがく』p26・p62(やしなえとくしゃ、1946ねん)。
  40. ^ 指定してい文化財ぶんかざい国宝こくほう史記しき孝文たかふみ本紀ほんぎだいじゅう宮城みやぎけん
  41. ^ 日本にっぽん国見くにみざい書目しょもくろく』の撰述せんじゅつ時期じきは、確定かくていだが、ほんこうでは大庭おおばおさむ古代こだい中世ちゅうせいにおけるにちちゅう関係かんけい研究けんきゅう』p299(同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん、1996ねん)を参照さんしょう
  42. ^ 中西なかにしすすむいむへんにちちゅう文化ぶんか交流こうりゅう叢書そうしょ だい6かん文学ぶんがく』p207(大修館書店たいしゅうかんしょてん、1995ねん)の算出さんしゅつ方法ほうほうによる。
  43. ^ 福井ふくいたもつ紅葉山もみじやま文庫ぶんこ』p39(さと学舎がくしゃ、1980ねん)。

関連かんれん文献ぶんけん

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現代げんだいやく

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  • いちうみ知義ともよし; 田中たなか謙二けんじ史記しき 中国ちゅうごく古典こてんせんぜん3かん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ選書せんしょ〉、1996ねんISBN 4022590033 
  • 大木おおきやすし司馬しば遷 現代げんだいやく 史記しき筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま新書しんしょ〉、2011ねんISBN 9784480065933 抜粋ばっすいばん
  • 小川おがわ環樹たまき; こんたかしん; 福島ふくしま吉彦よしひこ史記しき列伝れつでんぜん5かん岩波いわなみ文庫ぶんこ、1975ねんISBN 4003321413 ワイドばん岩波いわなみ文庫ぶんこ、2015-2016ねん
  • 小川おがわ環樹たまき; こんたかしん; 福島ふくしま吉彦よしひこ史記しきぜん3かん岩波いわなみ文庫ぶんこ、1980・1984・1991ねんISBN 4003321464 
  • 貝塚かいづか茂樹しげき; 川勝かわかつ義雄よしお史記しき列伝れつでんぜん2かん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこうクラシックス〉、2001ねんISBN 4121600010 抜粋ばっすいばん
    • 旧版きゅうばん世界せかい名著めいちょ11 司馬しば遷』 貝塚かいづか茂樹しげき責任せきにん編集へんしゅう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1968ねんほか
  • 小竹こだけ文夫ふみお; 小竹こだけ武夫たけお史記しきぜん8かん筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、1995ねん 
    • 旧版きゅうばん筑摩ちくま世界せかい文学ぶんがく大系たいけい6・7 史記しき筑摩書房ちくましょぼう、1971ねんほか
  • 野口のぐち定男さだお史記しき列伝れつでんぜん3かん平凡社へいぼんしゃライブラリー、2010-2011ねんISBN 9784582767148 
  • 吉田よしだけんこう; 水澤みずさわ利忠としただ; 青木あおき五郎ごろう史記しきぜん15かん明治めいじ書院しょいん新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい〉、1973-2014ねん 完訳かんやくばん
    • 吉田よしだけんこう; 水澤みずさわ利忠としただ; 青木あおき五郎ごろう史記しき本紀ほんぎ〉』明治めいじ書院しょいん新書しんしょ漢文かんぶん大系たいけい〉、2003ねんISBN 4625663261 かく抜粋ばっすい新書しんしょばん
    • 吉田よしだけんこう; 水澤みずさわ利忠としただ; 青木あおき五郎ごろう史記しき〉』明治めいじ書院しょいん新書しんしょ漢文かんぶん大系たいけい ぜん2かん〉、2006ねん 
    • 吉田よしだけんこう; 水澤みずさわ利忠としただ; 青木あおき五郎ごろう史記しき列伝れつでん〉』明治めいじ書院しょいん新書しんしょ漢文かんぶん大系たいけい ぜん5かん〉、2002-2017ねん 

概説がいせつしょ専門せんもんしょ

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学術がくじゅつ論文ろんぶん

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  • 内山うちやま直樹なおき「褚少まごの『史記しきつづけ」『中国ちゅうごく文化ぶんかだい61かん中国ちゅうごく文化ぶんか学会がっかい、2003ねんNAID 120006384323 
  • 米田よねだ賢次郎けんじろう; 永田ながた英正ひでまさ ちょはたかん」、島田しまだけんへん『アジア歴史れきし研究けんきゅう入門にゅうもん同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん、1983ねん、91-140ぺーじISBN 4810403661 
  • 日原ひのはら利国としくに へん史記しき」『中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねんISBN 487636043X 
    • 水澤みずさわ利忠としただ ちょ史記しき」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねん、163-164ぺーじ 
    • 青木あおき五郎ごろう ちょ司馬しば遷」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねん、176ぺーじ 
    • 青木あおき五郎ごろう ちょ司馬しばさだ」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねん、176-177ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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