(Translated by https://www.hiragana.jp/)
信西 - Wikipedia

信西しんぜい

平安へいあん時代じだい末期まっき貴族きぞく学者がくしゃ僧侶そうりょ (1106–1160)

信西しんぜい(しんぜい、よしみうけたまわ元年がんねん1106ねん〉 - 平治へいじ元年がんねん12月13にち1160ねん1がつ23にち〉)は、平安へいあん時代じだい後期こうき貴族きぞく学者がくしゃ僧侶そうりょ信西しんぜい出家しゅっけ法名ほうみょうごう円空えんくう俗名ぞくみょう藤原ふじわら とおるけん(ふじわら の みちのり)、または高階たかしな とおるけん(たかしな の みちのり)。藤原ふじわらみなみさだ嗣流、藤原ふじわらみのるけんせい少納言しょうなごん

 
藤原ふじわら とおるけん / 信西しんぜい
時代じだい 平安へいあん時代じだい
生誕せいたん よしみうけたまわ元年がんねん1106ねん
死没しぼつ 平治へいじ元年がんねん12月13にち1160ねん1がつ23にち
改名かいめい 藤原通憲ふじわらのみちのり高階たかしなとおるけん藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい
官位かんい せい少納言しょうなごん
主君しゅくん 鳥羽天皇とばてんのう崇徳天皇すとくてんのう近衛天皇このえてんのう後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわら藤原ふじわらみなみさだ嗣流) → 高階たかしな藤原ふじわら
父母ちちはは ちち藤原ふじわらみのるけん
ははみなもとゆうおんなまたはみなもとゆうぼうおんな
養父ようふ高階たかしなけいさと
つま 高階たかしなしげるなかおんな藤原ふじわら朝子あさこ
藤原ふじわら俊憲としのり藤原ふじわらさだけん藤原ふじわらただしけんせいけんきよしけんけん曜、藤原ふじわらしげるはんかつけんあかりあまね藤原ふじわらおさむはん光憲みつのりひろしさとしさとしけんくだりけんけんしゅんひろしけんけんけい藤原ふじわらたかししつ藤原ふじわら長方おさかたしつ藤原ふじわらちかししんしつ少将しょうしょうゆうぼうせい不明ふめいしつ藤原ふじわら家房かぼうしつみなもと為国ためくにしつ
テンプレートを表示ひょうじ

経歴けいれき

編集へんしゅう

つうけん信西しんぜい)の家系かけい曾祖父そうそふ藤原ふじわらみのるはん以来いらい代々だいだい学者がくしゃ儒官じゅかん)の家系かけいとしてられ、祖父そふ藤原ふじわらつな大学だいがくあたまであった。ところが、てんひさし3ねん1112ねん)にちちじつけん蔵人所くろうどどころ急死きゅうししたため、7さいつうけん縁戚えんせきであった高階たかしなけいさと養子ようしとなる[注釈ちゅうしゃく 1]

高階たかしないん近臣きんしん摂関せっかんいえとして活動かつどうし、諸国しょこく受領じゅりょう歴任れきにんするなど経済けいざいてきにも裕福ゆうふくだった。つうけん高階たかしな庇護ひごした学業がくぎょうはげみ、父祖ふそゆずりの才幹さいかんみがげていった。保安ほあん2ねん1121ねんごろには、高階たかしなしげるなか養父ようふけいさととははとこ関係かんけい)のおんなつまとしている[注釈ちゅうしゃく 2]

つうけん鳥羽とば上皇じょうこうだいいち寵臣ちょうしんである藤原ふじわらなり同年代どうねんだいしたしい関係かんけいにあり、いえなりかいして平忠盛たいらのただもり清盛きよもり父子ふしとも交流こうりゅうがあったとされる[1]

つうけん官位かんいはつてん元年がんねん1124ねん)の中宮なかみやしょうすすむ中宮なかみや藤原ふじわら璋子あきこ)であり(『えい昌記まさきてん元年がんねん4がつ23にち(1124ねん6月7にちじょう)、同年どうねん11がつ璋子あきこ院号いんごう宣下せんげともなまちけんもんいん蔵人くろうどされた。璋子あきこである崇徳天皇すとくてんのうろく蔵人くろうどつとめたが、大治おおはる2ねん1127ねん)に叙爵じょしゃくして、蔵人くろうどにんかれた。このとし2人ふたりつまである藤原ふじわら朝子あさこが、鳥羽とば上皇じょうこうだいよん皇子おうじまさひとし親王しんのう後白河天皇ごしらかわてんのう)の乳母うばえらばれている[注釈ちゅうしゃく 3]

くらいとなったつうけんは、ながうけたまわ2ねん1133ねんごろから鳥羽とば上皇じょうこう北面ほくめん伺候しこうするようになり、当世とうせい無双むそうひろしざい博覧はくらんしょうされた博識はくしき武器ぶきいん殿上人てんじょうびといん判官ほうがんだいとその地位ちい上昇じょうしょうさせていった。その日向ひなたもり任命にんめいされるとともに、『法曹ほうそうるいりん』の編纂へんさんおこなっている。

つうけんねがいは曾祖父そうそふ祖父そふのちいでだい学寮がくりょう役職やくしょく大学だいがくあたま文章ぶんしょう博士はかせ式部しきぶ大輔だいすけ)にいて、学問がくもん家系かけいとしての家名かめい再興さいこうにあった。ところが、世襲せしゅうすすんだ当時とうじ公家くげ社会しゃかい仕組しくみでは、高階たかしな戸籍こせきはいってしまったつうけんは、その時点じてんじつはんつなのち資格しかく剥奪はくだつされており、だい学寮がくりょう官職かんしょくにはけなくなってしまっていた。また、実務じつむ官僚かんりょうとしてその才智さいちかそうにも、いん政務せいむ補佐ほさ勧修寺かんしゅうじりゅう藤原ふじわら独占どくせんしていた。

出家しゅっけ

編集へんしゅう

これに失望しつぼうしたつうけんは、無力むりょくかんから出家しゅっけかんがえるようになった。つうけん遁世とんせいうわさみみにした藤原ふじわらよりゆきちょうつうけんに「そのざいを以って顕官けんかんらず、すでに以って遁世とんせいせんとす。ざいあまり、これたっとばず。これ、てん我国わがくにほろぼすなり」と書状しょじょうおくった(『たい康治こうじ2ねん8がつ5にち1143ねん9月15にちじょう)。数日すうじつつうけんよりゆきちょう対面たいめんして不条理ふじょうりなげき、つうけんは「しんうんつたなきを以っていちしょくおびせず、すでに以って遁世とんせいせんとす。ひとさだめておもへらく、ざいこうきを以って、てんこれほろぼす。いよいよがくはいす。ねがいわくば殿下でんかはいすることなかれ」とげ、よりゆきちょうは「ただえていのちわすれず」となみだながした(『たい康治こうじ2ねん8がつ11にち(1143ねん9月21にちじょう)。

鳥羽とば上皇じょうこう出家しゅっけおもとどまらせようと康治こうじ2ねん(1143ねん)にせいてんやしなえ元年がんねん1144ねん)には藤原ふじわらせいへの復姓ふくせいゆるして少納言しょうなごん任命にんめいし、さら息子むすこ俊憲としのり文章ぶんしょう博士はかせ大学だいがくあたま就任しゅうにんするために必要ひつよう資格しかく試験しけんである対策たいさく受験じゅけんみとめる宣旨せんじあたえたが、つうけん意思いしかたく、同年どうねん7がつ22にち8がつ22にち)に出家しゅっけして信西しんぜい名乗なのった。

出家しゅっけをしても信西しんぜい俗界ぞっかいからはなれるはなく、「ぬぎかふる ころもいろのみして しんをそめぬ ことをしぞおもふ(出家しゅっけして墨染すみぞめのころも着替きがえても、それはばかりのことでしんまでめるつもりはない)」(『月詣つきもうで和歌集わかしゅう』)とその心境しんきょううたんでいる。鳥羽とば法皇ほうおう政治せいじ顧問こもんだった葉室はむろあきらよりゆき久安ひさやす4ねん1148ねん)に死去しきょすると、あらわよりゆき若年じゃくねんだったことからその地位ちい奪取だっしゅすることに成功せいこうし、『本朝ほんちょう世紀せいき編纂へんさん下命かめいけるなど、その信任しんにん確固かっこなものとしていった。

もとらん

編集へんしゅう

そのようななか久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん)に近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょし、後継こうけい天皇てんのうめる王者おうじゃ議定ぎていひらかれる。候補こうほとしてはじゅうじん親王しんのうさい有力ゆうりょくだったが、美福門院びふくもんいんのもう一人ひとり養子ようしであるまもりじん親王しんのう二条天皇にじょうてんのう)が即位そくいするまでの中継なかつぎとして、そのちちまさひとし親王しんのう立太子りったいししないまま29さい即位そくいすることになった(後白河天皇ごしらかわてんのう)。まもりじん親王しんのうはまだ年少ねんしょうであり、存命ぞんめいちゅうである実父じっぷまさひとし親王しんのうえての即位そくい如何いかなものかとのこえがったためだった。

突然とつぜんまさひとし親王しんのう擁立ようりつ背景はいけいには、まさひとし親王しんのう養育よういくしていた信西しんぜい策動さくどうがあったと推測すいそくされる[注釈ちゅうしゃく 4]もと元年がんねん1156ねん)7がつ鳥羽とば法皇ほうおう崩御ほうぎょすると信西しんぜいはその葬儀そうぎ仕切しきり、直後ちょくごもとらんでは対立たいりつ勢力せいりょくであるたかしとく上皇じょうこう藤原ふじわらよりゆきちょう挙兵きょへいみ、源義朝みなもとのよしとも夜襲やしゅう献策けんさく積極せっきょく採用さいようして後白河天皇ごしらかわてんのうかた勝利しょうりをもたらした。

らん信西しんぜいくすりへん最後さいご公的こうてきにはおこなわれていなかった死刑しけい復活ふっかつさせて、源為義みなもとのためよしらの武士ぶし処断しょだんした。また、摂関せっかん弱体じゃくたい天皇てんのう親政しんせいすすめ、もと新制しんせいさだめ、記録きろく荘園しょうえんけんちぎりしょ再興さいこうして荘園しょうえん整理せいりおこなうなど、絶大ぜつだい権力けんりょくるう。また、大内裏だいだいり再建さいけん相撲すもうぶしかい復活ふっかつなども信西しんぜい手腕しゅわんによるところがおおきかった。

この政策せいさくおこなううえで、信西しんぜい自分じぶん息子むすこたちを要職ようしょくけた。そのことが旧来きゅうらいいん近臣きんしん貴族きぞく反感はんかんった。また、強引ごういん政治せいじ刷新さっしん反発はんぱつまねいた。一方いっぽうもと3ねん1158ねん)8がつには鳥羽とば法皇ほうおう本来ほんらい皇位こうい継承けいしょうしゃであるとした二条天皇にじょうてんのう即位そくいする。この皇位こうい継承けいしょうは「ふつふつとの評定ひょうじょう」、すなわち美福門院びふくもんいん信西しんぜい協議きょうぎおこなわれた。この二条天皇にじょうてんのう即位そくいともない、信西しんぜい天皇てんのう側近そっきん自分じぶんおくむが、今度こんどはそのことが天皇てんのう側近そっきん反感はんかんまねき、いん近臣きんしん天皇てんのう側近そっきん双方そうほうに「はん信西しんぜい」のうごきがしょうじるようになった[注釈ちゅうしゃく 5]

平治へいじらん

編集へんしゅう
 
薙刀なぎなたむすばれさらされる信西しんぜいくび平治へいじ物語ものがたり絵詞えことば信西しんぜいまき

やがて院政いんせい藤原ふじわら信頼しんらい親政しんせい大炊おおい御門みかどけいむねしつおもんみかたらは政治せいじ路線ろせんちがいをかかえながらも、信西しんぜい打倒だとうけてうごすことになる[注釈ちゅうしゃく 6]信頼しんらい源義朝みなもとのよしとも配下はいかおさめ、二条天皇にじょうてんのうちかみなもと光保みつやす味方みかたにつけ、軍事ぐんじてきちからゆうするようになっていく。そのなかにあって最大さいだい軍事ぐんじ貴族きぞくである平清盛たいらのきよもり信西しんぜい信頼しんらい双方そうほう婚姻こんいん関係かんけいむすんで中立ちゅうりつてき立場たちばにあり、親政しんせい院政いんせいとも距離きょりいていた。

平治へいじ元年がんねん1159ねん)12月、平清盛たいらのきよもり熊野くまのまいかけ軍事ぐんじてき空白くうはくしょうじたすきをついて、はん信西しんぜいいん御所ごしょ三条さんじょう殿どの襲撃しゅうげきする[注釈ちゅうしゃく 7]

信西しんぜい事前じぜん危機きき察知さっちして山城やましろこく田原たはら避難ひなんし、郎党ろうとうめいじ、竹筒たけづつ空気くうきあなをつけて土中どちゅうめたはこなかかくれていたが、郎党ろうとう尋問じんもんした追手おって発見はっけんされた。かえされたさいに、みずかくびいて自害じがいした。享年きょうねん55。こしたときには、うごいきもしていたという[5]信西しんぜいくびってきょうもどり、くびさらしくびにされた[注釈ちゅうしゃく 8]。また、信西しんぜい息子むすこたちも信頼しんらい命令めいれいによって配流はいるされた[注釈ちゅうしゃく 9]

学問がくもんすぐれ、藤原ふじわらよりゆきちょうなら当代とうだい屈指くっし碩学せきがくとしてられた。『こんかがみ』でもその才能さいのう絶賛ぜっさんする一方いっぽうで、陰陽いんようどういえだしでもないのに天文てんもんつうじたがためにわざわいをけたのだとひょうされている。

おも著作ちょさく

編集へんしゅう

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1958ねんだい2へん、485ぺーじつうけん傍注ぼうちゅうに「長門ながとまもるだかかいけいさとししてせいあらたむ。他家たけはいるにりて儒業をげず、儒官じゅかんず」とある。
  2. ^ 長男ちょうなん俊憲としのりじんやす2ねん1167ねん)に46さい死去しきょしているので(『やまえんじゅじんやす2ねん4がつ10日とおか(1167ねん4がつ30にちじょう)、保安ほあん3ねん1122ねんまれである。
  3. ^ この両者りょうしゃ婚姻こんいん時期じき特定とくていされていない。
  4. ^ ただし、山田やまだ邦和くにかず当時とうじ白河しらかわ即位そくい以前いぜん)の信西しんぜいには皇位こういうごかすだけの政治せいじりょくかったとして、まさひとし親王しんのう擁立ようりつ関白かんぱく藤原ふじわらただしどおり策動さくどうとする[2]
  5. ^ 古澤ふるさわ直人なおとによれば、信西しんぜい息子むすこおおく、そのいずれも急激きゅうげき昇進しょうしんげたことでかれらと競合きょうごうせまられて超越ちょうえつされる危機ききかんいたいん近臣きんしん天皇てんのう側近そっきんがやがて父親ちちおや信西しんぜいたいして反発はんぱつつよめたとする[3]
  6. ^ 平治へいじ物語ものがたり』によると、こう白河しらかわから信頼しんらい大将たいしょう就任しゅうにん諮問しもんされた信西しんぜい先例せんれいげて諫止するとともに、とうげんむね皇帝こうてい楊貴妃ようきひ悲劇ひげき題材だいざいとした『長恨ちょうこん』の絵巻えまき作成さくせいし、信頼しんらい寵臣ちょうしんでありながら反乱はんらんこしたやすろくやまになぞらえて、その危険きけんせいさとらせようとした。この絵巻えまきは『たまたてひさ2ねん11月5にち1191ねん11月23にちじょうしるされており、実在じつざい確認かくにんできる。絵巻えまき九条くじょうけんは「このきみしんさとらせんがため、かねて信頼しんらいらんさっしてえがあきらはすしょなり。当時とうじ規模きぼ後代こうだい美談びだんなるものなり。末代まつだい才子さいしだれ信西しんぜいせんや。褒むべく、かんずべきのみ」と最大さいだいきゅう賛辞さんじていしている。
  7. ^ ただし、河内かわうちさち信西しんぜい襲撃しゅうげきさい信西しんぜい一族いちぞく以外いがいいん近臣きんしんのほとんどが信頼しんらいかたについていることや信西しんぜい一族いちぞくへの処分しょぶん信頼しんらい処刑しょけいもすぐに解除かいじょされなかったことから、こう白河しらかわ上皇じょうこうが「ふつふつとの評定ひょうじょう」にもとづいて二条天皇にじょうてんのう親政しんせいへの移行いこうすすめる信西しんぜい排除はいじょするために信頼しんらいらに信西しんぜいたせたとする[4]
  8. ^ 平治へいじ物語ものがたり絵巻えまき信西しんぜいまきでは、獄門ごくもん棟木むなぎにかけられているが、平治へいじ物語ものがたりいち類本るいほんには「検非違使けびいし大炊おおい御門みかど河原かわらにて信西しんぜいくびをうけ大路おおじわたりひがし獄門ごくもんのまゑなるぶなオウチおうちともく)のにぞかけてける」とある。
  9. ^ 信西しんぜい息子むすこたち流刑りゅうけい宣告せんこくけた。流刑りゅうけいへの護送ごそうは、二条にじょうちかし政派せいはむすんだ平清盛たいらのきよもりによって信頼しんらい白河しらかわ院政いんせい一掃いっそうされたのちおこなわれた。その二条にじょうちかし政派せいはけいむねおもんみかた失脚しっきゃくすると、帰京ききょうゆるされている。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 角田つのだ文衛ふみえ平安へいあんはる講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ平成へいせい11ねん1999ねん)。
  2. ^ 山田やまだ邦和くにかずもとらん関白かんぱくちゅうどおり」(おぼろたにひさし山中やまなかあきら へん平安京へいあんきょうとその時代じだい所収しょしゅう 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2009ねん
  3. ^ 古澤ふるさわ直人なおと平治へいじらんにおける藤原ふじわら信頼しんらい謀叛ぼうほん」『経済けいざいこころざしりんはちかんよんごう(2013ねん)のち古澤ふるさわ中世ちゅうせい初期しょきの〈謀叛ぼうほん〉と平治へいじらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねんISBN 978-4-642-02953-7
  4. ^ 河内かわうちさち輔『もとらん平治へいじらん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん)P110-136
  5. ^ 平治へいじ物語ものがたりしょほん
  6. ^ 阿波あわ内侍ないし とは - コトバンク”. 2012ねん9がつ5にち閲覧えつらんちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん解説かいせつより。

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう