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幕府 - Wikipedia

幕府ばくふ

日本にっぽん武家ぶけ政権せいけん

幕府ばくふ(ばくふ)は、日本にっぽんにおいて征夷大将軍せいいたいしょうぐん首長しゅちょうとする武家ぶけ政権せいけんもしくはその政庁せいちょうかたり[1]

日本にっぽんでは中世ちゅうせいから近世きんせいにかけて、武家ぶけ棟梁とうりょう首班しゅはんとする政権せいけん次々つぎつぎ成立せいりつした。江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう、これらの武家ぶけ政権せいけんなかでもとく征夷大将軍せいいたいしょうぐん首班しゅはんとするものを幕府ばくふしょうするようになった。現在げんざい歴史れきし用語ようごとしては、鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふの3つを一貫いっかんして把握はあくするかたりとしてもちいられており、厳密げんみつには首長しゅちょう征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられていない期間きかんふくまれる。どの幕府ばくふ形式けいしきじょう将軍しょうぐん家政かせい機関きかん形態けいたいをとっていた。

名称めいしょう 時代じだい 政庁せいちょう 創設そうせつしゃ 将軍家しょうぐんけ 代数だいすう 補佐ほさしょく
鎌倉かまくら幕府ばくふ 鎌倉かまくら時代ときよ 相模さがみこく鎌倉かまくら みなもと頼朝よりとも みなもと摂家せっけ宮家みやけ 9だい 執権しっけん北条ほうじょうとくむねいえ
室町むろまち幕府ばくふ 室町むろまち時代ときよ 山城やましろこく京都きょうと 足利尊氏あしかがたかうじ 足利あしかが 15だい 管領かんりょう細川ほそかわ斯波しば畠山はたけやま
江戸えど幕府ばくふ 江戸えど時代じだい 武蔵むさしこく江戸えど 徳川とくがわ家康いえやす 徳川とくがわ 15だい 大老たいろう老中ろうじゅう

武家ぶけ政権せいけんなかでも、たいら政権せいけん織田おだ政権せいけん豊臣とよとみ政権せいけんについては一般いっぱんに「幕府ばくふ」とはばれていない(近年きんねん歴史れきしがくにおけるあたらしい「幕府ばくふ呼称こしょう提案ていあんについては、#あらたな「幕府ばくふ呼称こしょう事例じれいふし参照さんしょう)。

まく」は「幔幕まんまく」・「じんまく」・「とばりまく」・「天幕てんまく」を意味いみし、「」は王室おうしつひとし財宝ざいほう文書ぶんしょおさめる場所ばしょてんじて役所やくしょ意味いみする。中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいおうわって指揮しき出先でさき将軍しょうぐんった陣地じんちを「幕府ばくふ」とんだことに由来ゆらいする。日本にっぽんでは近衛府このえふ唐名とうみょうとしてもちいられ、てんじて近衛このえ大将たいしょう居館きょかんおよび近衛このえ大将たいしょうそのひとすようになった。「幕下まくした(ばっか、ばくか)」あるいは「柳営りゅうえい[注釈ちゅうしゃく 1]ともいった。

日本にっぽんにおける「幕府ばくふ呼称こしょう

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みなもと頼朝よりともたてひさ元年がんねん1190ねん)、けん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょうみぎ大将たいしょう[注釈ちゅうしゃく 2]にんじられた。そのため、政庁せいちょう居館きょかん)が「幕府ばくふ」とばれた。そのたてひさ3ねん1192ねん)に征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられるが、居館きょかんつづき「幕府ばくふ」とばれ、以後いご、「幕府ばくふ」は武家ぶけ政権せいけん首長しゅちょうおよびその居館きょかん呼称こしょうとしてもちいられた。ただし、鎌倉かまくら時代じだいまつには、現代げんだいにおいて「鎌倉かまくら幕府ばくふ」とばれている政体せいたいを「東関ひがしせき柳営りゅうえい」もしくは「東関ひがしせき幕府ばくふ」とんだというどう時代じだい史料しりょう存在そんざいしている[2]

南北なんぼくあさ時代じだいには、鎌倉かまくら公方くぼう関東かんとう公方くぼう)の政体せいたいを「関東かんとう幕府ばくふ」とんだ事例じれい存在そんざいするが、京都きょうと対立たいりつする関東かんとう政権せいけんにしかもちいられておらず、京都きょうと公方くぼう(=「室町むろまち幕府ばくふ」)はこのように幕府ばくふという用語ようごではばれていない[2]

幕府ばくふ」という言葉ことば将軍しょうぐん個人こじん空間くうかんてき将軍しょうぐん居館きょかん政庁せいちょうからはなれ、今日きょうのように観念かんねんてき武家ぶけ政権せいけんすものとしてもちいられるようになるのは、はんおなじく江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこうのことで、朱子学しゅしがく普及ふきゅうともない、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい研究けんきゅうする儒学じゅがくしゃによってとなえられた。「鎌倉かまくら幕府ばくふ」や「室町むろまち幕府ばくふ」という言葉ことばはこの時代じだい以降いこう考案こうあんされたものである。それ以前いぜんには「関東かんとう」「武家ぶけ」「公方くぼう」などとばれており、それぞれの初代しょだい将軍しょうぐんが「幕府ばくふひらく」という宣言せんげんしたことも、朝廷ちょうてい幕府ばくふひらくようにとめいじる詔勅しょうちょくもない。

このため、幕府ばくふ成立せいりつねん征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげとはかならずしも一致いっちしない。教科書きょうかしょとうでは従来じゅうらいみなもと頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげけた1192ねん鎌倉かまくら幕府ばくふ創設そうせつとしとされてきたが、現在げんざいは7ねんまえ守護しゅご地頭じとうしょく設置せっち任免にんめん許可きょかけた1185ねん記載きさいされている。ただし、さらさかのぼって9ねんまえ東国とうごく支配しはいけん承認しょうにん1183ねんせつ有力ゆうりょくである。室町むろまち幕府ばくふ実質じっしつてき成立せいりつは、足利尊氏あしかがたかうじけん大納言だいなごんにんぜられた1336ねんとされるが、征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられたのは1338ねんである。江戸えど幕府ばくふについては、一般いっぱんてき徳川とくがわ家康いえやす将軍しょうぐん宣下せんげけた1603ねん成立せいりつとされている。

一方いっぽう王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいでは「摂関せっかん幕府ばくふとう廃絶はいぜつ」と明記めいきされており、江戸えど幕府ばくふ終焉しゅうえんについては明確めいかくしるされている。

あらたな「幕府ばくふ呼称こしょう事例じれい

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近年きんねん歴史れきし学者がくしゃなかから、鎌倉かまくら室町むろまち江戸えど幕府ばくふ以外いがい武家ぶけ政権せいけんについて、あらたに「幕府ばくふ」との呼称こしょう提唱ていしょうするれいている。

ろく幕府ばくふ
平清盛たいらのきよもりによる権力けんりょく最初さいしょ武家ぶけ政権せいけんととらえる。鎌倉かまくら幕府ばくふ本質ほんしつ大番おおばんやくつとむつかまつとしたうえで、たいら政権せいけん大番おおばんやく開始かいしをもって「幕府ばくふ」の開始かいしとする。高橋たかはし昌明まさあき提唱ていしょう[3]
福原ふくはら幕府ばくふ
平家ひらかによる武家ぶけ政権せいけん確立かくりつした時期じきを、ろく本拠ほんきょいた時代じだいではなく福原ふくはら遷都せんと以降いこうであるととらえる。本郷ほんごう和人かずと提唱ていしょう[4]
奥州おうしゅう幕府ばくふ
藤原秀衡ふじわらのひでひら構想こうそうした政権せいけん幕府ばくふ表現ひょうげんする。入間田いりまだ宣夫のりお提唱ていしょう[5]
さかい幕府ばくふ
室町むろまち幕府ばくふだい12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるとならんで、さかい本拠地ほんきょちに「さかい公方くぼう」とばれた足利あしかがよしをいただく勢力せいりょくを「さかい幕府ばくふ」と仮説かせつ今谷いまたにあきら提唱ていしょう[6]
幕府ばくふ
室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき京都きょうとから追放ついほうされたのち備後びんごこくにおける亡命ぼうめい政権せいけん独自どくじ幕府ばくふととらえる。藤田ふじた達生たつお提唱ていしょう[7]
安土あづち幕府ばくふ
織田おだ信長のぶなが政権せいけん幕府ばくふとする。藤田ふじた達生たつお提唱ていしょう[8]

一方いっぽうで、東島とうじままことは「新奇しんき幕府ばくふ呼称こしょう」について批判ひはんてき見解けんかいしめしており、「さかい幕府ばくふ」や「鞆幕府ばくふ」など将軍しょうぐん居所きょしょにのみ依拠いきょした幕府ばくふ名称めいしょうには意味いみがないとだんじたうえで、「「〇〇幕府ばくふ」は、東国とうごく国家こっかろんふたつの王権おうけんろん、いくつもの幕府ばくふろんとう列島れっとう中心ちゅうしんてん議論ぎろん限定げんていしてもちいるべきだ」と提言ていげんしている[2]

なお、河内かわうちはるじんは5世紀せいき前半ぜんはんやまとおうかんし、中国ちゅうごくそう朝廷ちょうていから安東あんどう将軍しょうぐん任命にんめいされたやまとおうさん政権せいけんは「天皇てんのう任命にんめいした征夷大将軍せいいたいしょうぐん幕府ばくふ」と「構造こうぞうてきにはおなじ」だと説明せつめいしている[9]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 前漢ぜんかん将軍しょうぐんしゅうおっと匈奴きょうど征伐せいばつのために「ほそやなぎ」という布陣ふじんし、軍規ぐんききびしく威令いれいととのえ、ぶんみかど行列ぎょうれつすらも陣中じんちゅう作法さほうまもらせるために下馬げばさせ、かえってぶんみかど賞賛しょうさんけたという『漢書かんしょしゅう勃伝の故事こじより
  2. ^ それぞれ「うこんえのだいしょう」「うだいしょう」と

出典しゅってん

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  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』(小学館しょうがくかん)、『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん』(ブリタニカジャパン)、『山川やまかわ日本にっぽんしょう辞典じてん改訂かいてい新版しんぱん)』(山川やまかわ書店しょてん)など
  2. ^ a b c 東島とうじままこと『「幕府ばくふろんのための基礎きそ概念がいねん序説じょせつ
  3. ^ 高橋たかはし昌明まさあき平家へいけろく幕府ばくふ』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん
  4. ^ 本郷ほんごう和人かずとなぞとき平清盛たいらのきよもり』(文春ぶんしゅん新書しんしょ、2011ねん
  5. ^ 入間田いりまだ宣夫のりお藤原秀衡ふじわらのひでひら奥州おうしゅう幕府ばくふ構想こうそう」(上横うえよこしゅまさたかし編著へんちょ源義経みなもとのよしつね流浪るろう勇者ゆうしゃ京都きょうと鎌倉かまくら平泉ひらいずみ』(ぶんえいどう、2004ねん)、入間田いりまだ宣夫のりお藤原秀衡ふじわらのひでひら義経よしつね大将軍だいしょうぐんとして国務こくむせしむべし』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2016ねん
  6. ^ 今谷いまたにあきら室町むろまち幕府ばくふ解体かいたい過程かてい研究けんきゅう』(岩波書店いわなみしょてん、1985ねん)、今谷いまたにあきら戦国せんごくさんこう一族いちぞく』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1985ねん)、今谷いまたにあきら戦国せんごく室町むろまち幕府ばくふ』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2006ねん
  7. ^ 藤田ふじた達生たつお京都きょうと復帰ふっき画策かくさくする足利あしかが義昭よしあきと「鞆幕府ばくふ」」(『歴史れきし読本とくほん』2011ねん7がつごう
  8. ^ 藤田ふじた達生たつお信長のぶなが革命かくめい―「安土あづち幕府ばくふ」の衝撃しょうげき』(角川かどかわ選書せんしょ、2010ねん
  9. ^ 河内かわうちはるじんやまとおう』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2018ねん)pp64-65

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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