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摂家将軍 - Wikipedia

摂家せっけ将軍しょうぐん(せっけしょうぐん)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき鎌倉かまくら幕府ばくふ将軍しょうぐんのうち、摂家せっけであるきゅうじょうからむかえられた将軍しょうぐんのこと。源氏げんじ将軍しょうぐんえたのちいだだい4だい藤原ふじわらよりゆきけいと、その嫡男ちゃくなんだい5だい藤原ふじわらよりゆき2人ふたりがこれにあたる。藤原ふじわら将軍しょうぐんあるいは公卿くぎょう将軍しょうぐんともばれる。

概要がいよう 編集へんしゅう

たてたもつ7ねん1219ねん)、だい3だい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねとも暗殺あんさつされた。じつあさには実子じっしく、継嗣けいしさだめていなかったため、これにより、初代しょだいみなもと頼朝よりとも頼朝よりとも嫡男ちゃくなんであるだい2だいみなもとよりゆき頼朝よりとも次男じなんであるだい3だい源実朝みなもとのさねともと、頼朝よりとも血統けっとう源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう征夷大将軍せいいたいしょうぐんいだ将軍家しょうぐんけ断絶だんぜつした。この3だい将軍しょうぐん源氏げんじ将軍しょうぐんぶ。鎌倉かまくら幕府ばくふ執権しっけん北条ほうじょうよしときと、頼朝よりとも正室せいしつよりゆきじつあさははであり幕府ばくふ指導しどうてき立場たちばにもあった北条ほうじょう政子まさこ中心ちゅうしんとして、後継こうけい鎌倉かまくら殿どの鎌倉かまくら幕府ばくふちょう)たる将軍しょうぐん選定せんていすすめた。それ以前いぜんけん6ねん1218ねん)に政子まさこやまいがちなじつあさ平癒へいゆねがって熊野くまの参詣さんけいしたさいに、きょう後鳥羽上皇ごとばじょうこう乳母うばきょうきょく藤原ふじわら兼子かねこ)と対面たいめんし、じつあさ後継こうけいとして後鳥羽ごとば皇子おうじひがしくださせることを相談そうだんした。きょうきょく養育よういくしていたよりゆきじん親王しんのうして、2人ふたりあいだ約束やくそくわされたという。それもあってか幕府ばくふよりゆきじん親王しんのうまさしげる親王しんのう後継こうけい将軍しょうぐんとしてむかえる親王しんのう将軍しょうぐんのぞんだものの、後鳥羽ごとば拒絶きょぜつされた。ただし後鳥羽ごとばは、皇子おうじでさえなければ摂関せっかん子弟していであろうと鎌倉かまくら殿どのとしてくだしてかまわないと渋々しぶしぶながらも妥協だきょうあんしめしたため、幕府ばくふはやむなく親王しんのう将軍しょうぐんをあきらめ、名門めいもん公家くげである藤原ふじわらきゅうじょうより、頼朝よりともいもうと曾孫そうそんにあたる2さいさんとら藤原ふじわらよりゆきけい)を鎌倉かまくら殿どのとしてむかえることとした。

もともと縁戚えんせき関係かんけいにあったとはいえ、3だいにわたり源氏げんじ将軍しょうぐん主宰しゅさいしゃとした鎌倉かまくら幕府ばくふで、藤原ふじわら将軍しょうぐん前代未聞ぜんだいみもんのことであり、よしみろく2ねん1226ねん)によりゆきけい将軍しょうぐん宣下せんげ要請ようせいのための使者ししゃきょう派遣はけんされたさいに、幕府ばくふよりゆきけいみなもとへの改姓かいせいもとめて藤原ふじわらてら春日大社かすがたいしゃおもむき、その可否かひうたが、春日かすが大明神だいみょうじん改姓かいせいゆるさず、よりゆきけい源氏げんじ改姓かいせい実現じつげんしなかった[注釈ちゅうしゃく 1]よりゆきけい曾祖母そうそぼである坊門ぼうもんひめみなもと頼朝よりとも同母どうぼ姉妹しまいであり、

両親りょうしんともに女系じょけいながら河内かわうちはじめいていた。くわえて、よりゆきけい出身しゅっしんきゅうじょうは、公家くげ頂点ちょうてんにあたる摂家せっけ家格かかくゆうしており、近衛このえのち形成けいせいされる五摂家ごせっけ筆頭ひっとう)に家門かもんで、一条いちじょう西園寺さいおんじともおや幕府ばくふてき家門かもんとみなされていた。こうして、いまだ物心ぶっしんもつかぬ幼児ようじであったよりゆきけい将軍しょうぐんとして推戴すいたいされ、だい2だい将軍しょうぐんよりゆきむすめであるみなもと鞠子まりこをそのしつとした。摂家せっけからむかえられた将軍しょうぐんは、3だい源氏げんじ将軍しょうぐん区別くべつして、摂家せっけ将軍しょうぐんばれる。

当時とうじ血族けつぞく観念かんねんとして源平げんぺいふじたちばなといった「」の下位かい概念がいねんとして「いえ」「苗字みょうじ」という概念がいねんしょうじ、おな氏族しぞくもの後継こうけいしゃとなることを「家督かとくぐ」、ことなる氏族しぞくもの後継こうけいしゃとなることを「名跡みょうせきぐ」といった[注釈ちゅうしゃく 2]源氏げんじ将軍しょうぐんから摂家せっけ将軍しょうぐんわる一連いちれんながれは、藤原ふじわら(「」)にぞくするきゅうじょう(「いえ」)を出身しゅっしんとする藤原ふじわらよりゆきけいが、みなもと(「」)にぞくする鎌倉かまくら将軍家しょうぐんけ(「いえ」)を相続そうぞくして、名跡みょうせきいだものといえる。

よりゆきけい鎌倉かまくらに遷ってから将軍しょうぐん宣下せんげけるまでの将軍しょうぐん空白くうはくには、後鳥羽上皇ごとばじょうこうにより承久じょうきゅうらんこされ、朝廷ちょうてい幕府ばくふとの関係かんけい険悪けんあくとなった。尼将軍あましょうぐんとしておさなよりゆきけい後見こうけんやくつとめた北条ほうじょう政子まさこ主導しゅどうして、戦乱せんらん幕府ばくふ圧勝あっしょうわったものの、朝廷ちょうていから将軍しょうぐん任命にんめいされる武家ぶけ政権せいけんという幕府ばくふ性格せいかくじょう朝廷ちょうていとの関係かんけい依然いぜんとして重要じゅうようであった。摂家せっけ将軍しょうぐんは、朝廷ちょうていにおける人臣じんしん最高さいこう家系かけいである摂家せっけから将軍しょうぐん後継こうけいまねくことで、あさまく関係かんけい紐帯ちゅうたいとしての役割やくわり期待きたいされた。さらに、摂家せっけ将軍しょうぐんとそのつづみや将軍しょうぐん時期じきには、後見こうけんやく影響えいきょうりょく行使こうししやすいおさなあいだのみ将軍しょうぐんとして擁立ようりつし、成人せいじんしてからはかえされて、またあらたにおさな将軍しょうぐんてるということが慣例かんれいとなった。それはあたかも摂関せっかん政治せいじ全盛期ぜんせいきのように、政治せいじてき無力むりょく最高さいこう権威けんい天皇てんのう将軍しょうぐん)のしたに、政治せいじてき実権じっけん有力ゆうりょくしゃ摂関せっかん執権しっけん)が臣従しんじゅうするという体制たいせいであった。将軍しょうぐん摂家せっけ家格かかくきゅうじょう一門いちもんのままにしておくことで、京都きょうとへの帰還きかん容易よういにすることも、摂家せっけ将軍しょうぐん擁立ようりつする思惑おもわくひとつであった。

よりゆきけいよりゆき嗣2だい摂家せっけ将軍しょうぐんは、官位かんいこそ源氏げんじ将軍しょうぐん大差たいさないものの[注釈ちゅうしゃく 3]摂関せっかんのぼ可能かのうせいめた人物じんぶつだけに、鎌倉かまくら将軍しょうぐんをより高貴こうき位置いちへ、しかも、武家ぶけ棟梁とうりょうという性格せいかくからとおざけるという意味いみおおきな意味いみった。4だい執権しっけん北条ほうじょう経時きょうじと、5だい執権しっけん北条ほうじょうよりゆきは、いずれも将軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけいへんいみな名前なまえ一部いちぶ)をけているが、鎌倉かまくら幕府ばくふ権威けんいとして執権しっけん政治せいじ安泰あんたいたらしめるという意味いみでも、摂家せっけ将軍しょうぐん意義いぎおおきかったといえよう。

よりゆきけいよりゆき嗣2だい摂家せっけ将軍しょうぐん在任ざいにん期間きかんは、それぞれ藤原ふじわらよりゆきけいが18年間ねんかん1226ねん - 1244ねん)、藤原ふじわらよりゆきが8年間ねんかん1244ねん - 1252ねん)と比較的ひかくてき長期間ちょうきかんではあったものの、おさないころから成人せいじんするまでの期間きかんであって政治せいじてきちからはほとんどなく、幕府ばくふ実権じっけん北条ほうじょう完全かんぜん掌握しょうあくしていた。このため、将軍しょうぐんとはばかりの傀儡かいらいであった。とくよりゆきけい成人せいじん傀儡かいらいであることをきらい、名越なごやひかりとき三浦みうら光村みつむら有力ゆうりょく御家人ごけにんむすびついて幕府ばくふ内紛ないふんみちびきざしもあったため、執権しっけん北条ほうじょうへの「謀反むほん」をうたがわれ、ひろしもと4ねん1246ねん)のみや騒動そうどう鎌倉かまくらからきょう追放ついほうされた。こうしたことも幕府ばくふ高貴こうきおさな鎌倉かまくら将軍しょうぐん擁立ようりつつづけるおおきな要因よういんとなった。

けんちょう4ねん1252ねん)、だい5だいよりゆき嗣ののち将軍しょうぐんには、こう嵯峨天皇さがてんのう皇子おうじである宗尊親王むねかたしんのうむかえられ、鎌倉かまくら幕府ばくふみや将軍しょうぐん皇族こうぞく将軍しょうぐんいただくことになる[注釈ちゅうしゃく 4]幕府ばくふ当初とうしょ上皇じょうこう皇子おうじ将軍しょうぐんのぞんだことからもうかがえるように、実権じっけんなき象徴しょうちょうとして王家おうけ皇族こうぞくまさ存在そんざいはない。結果けっかてき摂家せっけ将軍しょうぐんは、みや将軍しょうぐん擁立ようりつするじょうおおきな布石ふせきとしての役割やくわりたした。

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 古代こだい律令りつりょうであるこんりつでは3さい以下いか異姓いせい養子ようしみとめられている[1]
  2. ^ 北条ほうじょうによりほろぼされた畠山はたけやま重忠しげただ跡継あとつぎとして重忠しげただ後家ごけ婚姻こんいんして畠山はたけやま継承けいしょうした足利あしかがよしじゅんはその好例こうれい。この結果けっか畠山はたけやまみなもと足利あしかが一門いちもんとなった。
  3. ^ よりゆきけいは、はじせいしたじょし、みぎ近衛このえけん少将しょうしょう征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられ、のちせいけん大納言だいなごんまでのぼった。また、よりゆき嗣は、はじしたがえうえみぎ近衛このえ少将しょうしょう征夷大将軍せいいたいしょうぐんから、のちしたがえさんひだり近衛このえ中将ちゅうじょうまでのぼった。これは、頼朝よりともせいけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょうよりゆきせい左衛門さえもんとくじつあさせい右大臣うだいじんひだり近衛このえ大将たいしょうひだりりょうかんであったのと大差たいさい。
  4. ^ みや騒動そうどうたいするさい評価ひょうかなかで、京都きょうとにおける土御門つちみかど上皇じょうこうけい皇統こうとうこう嵯峨天皇さがてんのう)・西園寺さいおんじ順徳じゅんとく上皇じょうこうけい皇統こうとう修明のぶあきもんいんちゅうなりおう)・九条くじょうによる皇位こうい継承けいしょうめぐ対立たいりつ鎌倉かまくらにおける北条ほうじょう摂家せっけ将軍しょうぐん対立たいりつ連動れんどうしており、摂家せっけ将軍しょうぐんからみや将軍しょうぐん皇族こうぞく将軍しょうぐん)への移行いこう背景はいけいには政治せいじてき基盤きばんよわかったのち嵯峨天皇さがてんのうみや将軍しょうぐん皇族こうぞく将軍しょうぐん)をかいして鎌倉かまくら幕府ばくふおよ北条ほうじょうとの連携れんけい強化きょうか期待きたいしていたとするせつ浮上ふじょうしている[2]

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ 詳細しょうさい岡野おかの友彦ともひこ源氏げんじ日本にっぽん国王こくおう』(講談社こうだんしゃ2003ねん)134ぺーじ
  2. ^ 詳細しょうさい曽我部そがべあい中世ちゅうせい王家おうけ政治せいじ構造こうぞう』(どうなりしゃ2021ねん)200-208・218-234ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう