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佐藤誠三郎 - Wikipedia

佐藤さとう まこと三郎さぶろう(さとう せいざぶろう、1932ねん7がつ8にち1999ねん11月28にち)は、日本にっぽん政治せいじ学者がくしゃ東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅせいよんくんとう瑞宝章ずいほうしょう大平おおひら正芳まさよし中曽根なかそね康弘やすひろりょう政権せいけんのブレーンをつとめ、保守ほしゅ論客ろんかくとしてられた。

佐藤さとう まこと三郎さぶろうさとう せいざぶろう
人物じんぶつ情報じょうほう
ぜん 佐藤さとう まこと三郎さぶろう
(さとう せいざぶろう)
生誕せいたん 1932ねん7がつ8にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
死没しぼつ (1999-11-28) 1999ねん11月28にち(67さいぼつ
学問がくもん
時代じだい 20世紀せいき
活動かつどう地域ちいき 日本の旗 日本にっぽん
研究けんきゅう分野ぶんや 政治せいじがく安全あんぜん保障ほしょうろん 
研究けんきゅう機関きかん 東京大学とうきょうだいがく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
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経歴けいれき

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東京とうきょうまれ。1950ねん東京とうきょう都立とりつ日比谷ひびや高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく同級どうきゅう江藤えとうあつしが、いちきゅうじょう作家さっか坂上さかがみひろしがいた。このころマルクス主義まるくすしゅぎ影響えいきょう日本にっぽん共産党きょうさんとう入党にゅうとう1957ねん東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ国史こくし学科がっか卒業そつぎょう。この時期じき友人ゆうじん東大とうだい名誉めいよ教授きょうじゅ伊藤いとうたかし渡辺わたなべ昭夫あきおがいる。学生がくせい運動うんどう研究けんきゅう両方りょうほうマルクス主義まるくすしゅぎ幻滅げんめつするなかで、丸山まるやま眞男まさお著作ちょさくをきっかけに共産きょうさん主義しゅぎから転向てんこう[1]大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう入試にゅうし失敗しっぱいしたが、翌年よくねん東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか学士がくし入学にゅうがくした[2]

1960ねんどう大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒業そつぎょうし、おか義武よしたけ教授きょうじゅした学士がくし助手じょしゅとして日本にっぽん政治せいじ外交がいこう研究けんきゅうした。1964ねん立教大学りっきょうだいがく法学部ほうがくぶ助教授じょきょうじゅ、また1967ねん東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶ助教授じょきょうじゅ1977ねん教授きょうじゅ東大とうだい教養きょうよう学部がくぶでは、政治せいじがく入門にゅうもんとう講義こうぎのほか、教養きょうよう課程かていの1・2年生ねんせいきのゼミを主催しゅさいし、学界がっかい官界かんかいなどで活躍かつやくする後進こうしんそだてた。政治せいじがく志望しぼうする学生がくせいは3・4ねん専門せんもん課程かてい法学部ほうがくぶすすむことがおおく、教養きょうよう学部がくぶ所属しょぞく佐藤さとう学部がくぶよん年間ねんかん大学院だいがくいんつうじて指導しどうける弟子でしすくなかったが、北岡きたおか伸一しんいち下斗米しもとめ伸夫のぶお舛添ますぞえ要一よういち三谷みたにひろし御厨みくりやたか岡田おかだ克也かつや加藤かとう淳子じゅんこ飯尾いいおじゅん米山よねやま隆一りゅういち中野なかの剛志たけしおおくの政治せいじ学者がくしゃ影響えいきょうあたえている。

明治維新めいじいしん研究けんきゅうから領域りょういきひろげて、日本にっぽん近代きんだい包括ほうかつてき共同きょうどう研究けんきゅうみ、村上むらかみやすしあきら公文くもん俊平しゅんぺいとの共著きょうちょで『文明ぶんめいとしてのイエ社会しゃかい』という成果せいか結実けつじつした[2]

東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶにおいて自治じちかい主導しゅどうおこなわれた年中ねんじゅう行事ぎょうじてきな「ストライキ」にたいしては保守ほしゅ教授きょうじゅとして「ストやぶり」の講義こうぎ敢行かんこうし、そのさいのスト支持しじ活動かつどう学生がくせいとの応酬おうしゅうは「駒場こまば名物めいぶつ」のひとつであった。

1970年代ねんだいはじめ、日本にっぽん学者がくしゃアルバート・クレイグまねきでハーバード大学だいがく研究けんきゅう留学りゅうがくしたことから、海外かいがいとく米国べいこく学界がっかいにも知己ちきおおく、日本にっぽん政治せいじ日米にちべい関係かんけい研究けんきゅうするおおくの若手わかて研究けんきゅうしゃにとっての窓口まどぐちてき存在そんざいでもあった。ジョージ・ブッシュ大統領だいとうりょうだい43だい)のたいにち政策せいさくおおきな役割やくわりたしたマイケル・グリーンもその一人ひとりである。米国べいこく留学りゅうがく経験けいけんは、米国べいこくへのふか理解りかいとともに、日本人にっぽんじんとしての立脚りっきゃくてんかんがなお機会きかいになった[2]

1988ねん東大とうだい駒場こまんば騒動そうどうでは、中沢なかざわ新一しんいち西部せいぶ村上むらかみやすしあきら公文くもん俊平しゅんぺいらを支持しじした。

1992ねん定年ていねんまえにして東大とうだいり、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく総合そうごう政策せいさく学部がくぶうつり、「比較ひかく政党せいとうろん」や「安全あんぜん保障ほしょうろん」、また「国際こくさい紛争ふんそうろん」の講義こうぎ担当たんとうし、ゼミでは盟友めいゆうである村上むらかみやすしあきら遺作いさくはん古典こてん政治せいじ経済けいざいがく』の会読かいどくなどをおこなった。

中曽根なかそね康弘やすひろ西部せいぶ邁、村上むらかみやすしあきら参加さんかする討論とうろんしょう研究けんきゅうかい定期ていきてきひらかれ、この研究けんきゅう成果せいかが「共同きょうどう研究けんきゅう冷戦れいせん以後いご』」として結実けつじつしたが、なかでも東大とうだい教養きょうよう学部がくぶでの同僚どうりょう共著きょうちょさつ出版しゅっぱんしている村上むらかみやすしあきらとの親交しんこうとくふかく、たがいに学問がくもんてきにもおおきく影響えいきょうい、村上むらかみ大著たいちょはん古典こてん政治せいじ経済けいざいがく」について、「産業さんぎょう革命かくめい以後いご変化へんか基本きほんてき動向どうこうとその問題もんだいてんとをふかくまた包括ほうかつてき分析ぶんせきしたもので日本にっぽん社会しゃかい科学かがく金字塔きんじとうともいえる業績ぎょうせき」とたか評価ひょうかしいる[3]

英国えいこくにあるチョーサー・カレッジ・カンタベリー(Chaucer college Canterbury:CCC)の設立せつりつ尽力じんりょくして、1992ねんひらきがくとともに初代しょだい学長がくちょう就任しゅうにん秀明ひであき大学だいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ兼任けんにんした。秀明ひであき大学だいがく図書館としょかんには生前せいぜん蔵書ぞうしょ寄贈きぞうした佐藤さとうまこと三郎さぶろう文庫ぶんこがある[4]

その埼玉大学さいたまだいがく大学院だいがくいん政策せいさく科学かがく研究けんきゅう教授きょうじゅ政策せいさく研究けんきゅう大学院だいがくいん大学だいがくふく学長がくちょうなどを歴任れきにんした。

大平おおひら正芳まさよしおよび中曽根なかそね康弘やすひろ政権せいけんで、大平おおひら内閣ないかく政策せいさく研究けんきゅうグループ幹事かんじだい臨時りんじ行政ぎょうせい調査ちょうさかい参与さんよなどブレーンをつとめた。

日本にっぽん政治せいじ学会がっかい理事りじ財団ざいだん法人ほうじん平和へいわ安全あんぜん保障ほしょう研究所けんきゅうじょ理事りじ日米にちべい諮問しもん委員いいんかい賢人けんじん会議かいぎ委員いいん外務省がいむしょう南西なんせいアジア・フォーラム座長ざちょう防衛ぼうえい戦略せんりゃく研究けんきゅう会議かいぎ議長ぎちょうなどを歴任れきにん[5]のちに中曽根なかそね設立せつりつしたシンクタンク世界せかい平和へいわ研究所けんきゅうじょ所長しょちょう代理だいり就任しゅうにん

無類むるい酒好さけずきとしてもられたが、晩年ばんねんには健康けんこうのためおさけひかえていた。1999ねん11月28にち肝臓かんぞう疾患しっかんにより死去しきょ[2]享年きょうねん67さい墓所はかしょ川崎かわさき春秋しゅんじゅうえん

親族しんぞく

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言行げんこうろく

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  • 単純たんじゅん軍国ぐんこく少年しょうねんだったわたしは、だい東亜とうあ大義たいぎのため日本にっぽん絶対ぜったいたねばならぬとおもっていた。疎開そかいさき星空ほしぞら広大こうだいさに圧倒あっとうされて、自分じぶんはいかに矮小わいしょう存在そんざいなのかとためいきをつくような多感たかん少年しょうねんだった」(本人ほんにんだん)。[2]
  • 日比谷ひびや高校こうこうでは同級どうきゅう江藤えとうあつしが、いちきゅうじょう作家さっか坂上さかがみひろしがいた。個性こせいゆたかな秀才しゅうさいたちにかこまれて、刺激しげきてき高校こうこう生活せいかつだった」(本人ほんにんだん)。[2]
  • 戦後せんご混乱こんらんのなかで生家せいか往時おうじ面影おもかげをなくし、わたし結核けっかくわずらった。そのために進学しんがくおくれ、日比谷ひびや高校こうこう東大とうだいまなびつつも、わたし胸中きょうちゅうにはふか没落ぼつらくかん挫折ざせつかんがあった」と晩年ばんねん回顧かいこしている。[2]
  • 一時期いちじきマルクス主義まるくすしゅぎかれていた。文学ぶんがくてき表現ひょうげんゆるしていただけるなら、マルクス主義まるくすしゅぎ理論りろんに"数学すうがくてき証明しょうめいうつくしさ"をていた。なんでも説明せつめいできるという魅力みりょく、もちろん、いまからかんがえると、それはなに説明せつめいでないということであり、人間にんげんはそれほど単純たんじゅん存在そんざいではない。のちに立教大学りっきょうだいがくから東大とうだいもどったおり、(昭和しょうわ)43ねん紛争ふんそうだったが、学長がくちょう代行だいこうつとめられた加藤かとう一郎いちろう補佐ほさとして「民青みんせい」とやりうことになったのは、あるしゅ必然ひつぜんだったかもれない」(本人ほんにんだん)。
  • 学者がくしゃになりたいとおもった。それを目指めざすことの本質ほんしつてき意味いみがわかっていたわけではなかったが、毀誉きよ褒貶ほうへん関係かんけいなく、とにかくみずからのしんじるしょにしたがってまねべばみちひらけるのではないかとかんがえていた。ところが、そうおもっていても、わたし専門せんもんいちすじというわけにはいかなかった。あっちにがったり、こっちへぶつかったり、きるのが下手へただった。文学部ぶんがくぶ大学院だいがくいんち、法学部ほうがくぶでもかがやかしい秀才しゅうさいたちのあいだ自信じしん喪失そうしつおちいっていた」(本人ほんにんだん)。[2]
  • 敗戦はいせんかれ生家せいか没落ぼつらくさせた。かれ高校こうこう時代じだいからアルバイトをして学費がくひかせいだばかりか家族かぞく生活せいかつたすけていた。かれ勤勉きんべんであった。じつによく勉強べんきょうをしていた。その勉強べんきょうはいつも本格ほんかくてきふかひろく、まさにまなんできることがなかった」と欣子きんこ夫人ふじん回顧かいこしている。[5]
  • 小学校しょうがっこうてい学年がくねんのとき、だい東亜とうあ戦争せんそうはじまり、疎開そかい空襲くうしゅう、そしてあとえと栄養失調えいようしっちょう戦後せんごわたしたち男女だんじょ平等びょうどう平和へいわ民主みんしゅ主義しゅぎ基本きほんてき人権じんけん尊重そんちょうといったかがやかしい理念りねんたよりに精一杯せいいっぱいきてきたのだ。…かえってみれば、わたしたち世代せだいたしかにコミンテルンや日教組にっきょうそ出版しゅっぱん放送ほうそう労連ろうれんといった勢力せいりょく影響えいきょうにあったが、口角こうかくあわをとばして天下てんか国家こっかろんじていた。わたしたち意気軒昂いきけんこう元気げんきだった」(欣子きんこ夫人ふじんだん)。[5]
  • 昭和しょうわ38ねん東大とうだい在学ざいがくちゅうった欣子きんこ結婚けっこんする。いまだから告白こくはくするが、体力たいりょくにも能力のうりょくにも自信じしんのなかったわたしは、彼女かのじょっている活力かつりょくと、真摯しんしかたかれた」と晩年ばんねんべている。[2]
  • 佐藤さとう偉大いだい教育きょういくしゃである。東大とうだい駒場こまんば佐藤さとう門下もんかには、北岡きたおか伸一しんいち舛添ますぞえ要一よういち御厨みくりやたか田中たなか明彦あきひこなど、今後こんご日本にっぽん政治せいじ思想しそうをリードしてくにちがいない人材じんざい数多かずおお排出はいしゅつしている。それはもちろん、佐藤さとう学識がくしき、そしてあくまでも真実しんじつだけを追求ついきゅうする厳格げんかく学問がくもんてきディシプリンのゆえであろうが、それ以上いじょうに、若者わかものなかにそして人間にんげんなかに、しんにすぐれたもの、しんきものをもとめてやまない佐藤さとうのロマンチシズムが、せっする人々ひとびとしんをおのずからうごかしたからであるとおもう。おそらく、それが偉大いだい教育きょういくしゃだいいち資格しかくなのであろう」ともとちゅうタイ大使たいし岡崎おかざきひさ彦は弔辞ちょうじささげた。[5]
  • 佐藤さとう政治せいじがく特色とくしょくはその歴史れきしてき視野しやひろさにある。かれ国際こくさい政治せいじろんは、国際こくさい関係かんけいろんからでなく、日本にっぽん素養そようからたものがおおきい。そこで日本にっぽん近代きんだい政治せいじをもう一度いちどはじめからあらなおかたちかれ歴史れきしかん政治せいじ哲学てつがくを、どこかにのこしたいとおもったのが、対談たいだん動機どうきであった」と岡崎おかざきひさ彦氏は対談たいだんほん日本にっぽん失敗しっぱい成功せいこう 近代きんだい160ねん教訓きょうくん』のまえがきでべている。[5]
  • 晩年ばんねん佐藤さとうは、ますます魅力みりょくのあるいち人格じんかくとして完成かんせいしてかれた。晩年ばんねん佐藤さとう先生せんせい写真しゃしんには凛然りんぜんたる気品きひんがある」(岡崎おかざきひさ彦評)。[5]
  • 「ご家族かぞくやわれわれのような友人ゆうじん同士どうしあいだでは、温顔おんがんしんやさしく、言葉ことばづかいも丁重ていちょうであったが、こと学問がくもんかんしては、いささかの論理ろんりみだれ、発想はっそううらかくされている偏見へんけん、こだわり、不純ふじゅんなどうきなど、知的ちてきインテグリティをくもらせているいかなるちいさなかげも、仮借かしゃなくはげしく指摘してきし、攻撃こうげきされた。それも文学ぶんがくてき表現ひょうげんまるみをつけることもなく、単純たんじゅん明快めいかいで、散文さんぶんてきかつはげしかった。…佐藤さとう天下てんか意見いけんばん風格ふうかくそなえていた。もうてきつくることをまったおそれていなかった。…あれほど明快めいかいに、はげしくひとしかれるひと偉大いだいひとである。すくなくとも私心ししんのないひとである」(岡崎おかざきひさ彦評)。[5]
  • わたし基本きほん学者がくしゃである。いえにいてきなほんしずかにんでいた。きたいことをいていたい。学究がっきゅう日々ひびこそが、わたしえずかえりたいとねがっている世界せかいなのだが、まだまだそうした自由じゆうはままならないようだ。権力けんりょくにもおかねにもえんがなくていい。思想しそう自由じゆう時間じかん余裕よゆうがあれば、それが学者がくしゃ冥利みょうりなのである」と晩年ばんねん述懐じゅっかいしている。[2]

主張しゅちょう

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安全あんぜん保障ほしょう

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東大とうだい国際こくさい関係かんけいろん安全あんぜん保障ほしょう講義こうぎおこなったのはわたしはじめてだった。安全あんぜん保障ほしょうこそ国際こくさい関係かんけい基礎きそであるにもかかわらず、なんと、東大とうだいでそうした講義こうぎがなされたことはなかったのである。日本にっぽん国益こくえきまもる、そのためになにすべきか、それをかんがえてゆくことが「保守ほしゅ」であろうとおもっている。そうした明確めいかく目的もくてき意識いしきなしには、アメリカとの関係かんけいろんじられない。感情かんじょうてき反米はんべい惰性だせいてき親米しんべいわたしはどちらにもくみしない。国益こくえきまもるカギは安全あんぜん保障ほしょうである。東大とうだいでそれをつづけたわたしは、のところ”孤立こりつ”していたとえるのかもれない」と回顧かいこした。[2]

PKO問題もんだい日本にっぽん役割やくわり

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1990ねん湾岸わんがん戦争せんそうさいしての日本にっぽん軍事ぐんじてき協力きょうりょく自衛隊じえいたい派遣はけん論客ろんかくとして主張しゅちょうした。「いち人前にんまえ平和へいわ国家こっかとして日本にっぽんるべき行動こうどうは、軍事ぐんじてきにも協力きょうりょくすることである。しばしばげられるこれに反対はんたいするいくつかの理由りゆうは、多少たしょう根拠こんきょがある場合ばあいでも基本きほんてきにはあたらしい挑戦ちょうせん正面しょうめんから対応たいおうすることを回避かいひするための口実こうじつぎない」とつよ主張しゅちょうした(1990ねん11月)。[8]

「PKOは、国連こくれん平和へいわ活動かつどうのなかでも一部いちぶぎず、日本にっぽん安全あんぜん保障ほしょうじょうあまおおきな問題もんだいではない」からという理由りゆうで、「PKOをめぐって日本にっぽんおこなわれている議論ぎろん、とりわけ国会こっかいでの論争ろんそうは、わたしにいわせますと、まことにくだらない議論ぎろん」と前置まえおきをべたうえで、国連こくれんその機関きかんによる国際こくさいてき安全あんぜん保障ほしょう集団しゅうだん安全あんぜん保障ほしょう重要じゅうようであり、その役割やくわり冷戦れいせん終結しゅうけつによってたかまってきています」と見通みとおした。平和へいわまもるための集団しゅうだん安全あんぜん保障ほしょう活動かつどうとして、PEO(Peace Enforcing Operations), PKO(Peace Keeping Operations), PMO(Peace Making Operations)の3種類しゅるい大別たいべつしたうえで、「PKOとPMOのすべてに日本にっぽん積極せっきょくてき参加さんかしなければならないことは、もちろんであります。PEOも、将来しょうらいは、やらざるをないのだろうとおもっております。もちろん、コンバット・トループス(combat troops)が必要ひつようかならずしもないとおもいます。しかし、すくなくともロジステック・サポートについてはPEOについても、わたし日本にっぽん参加さんかすべきだとおもいます。まして経済けいざい封鎖ふうさなどについては、日本にっぽんはそれはやりませんというわけにはかないだろうとおもっています。しかし、いま日本にっぽん国内こくない政治せいじてき環境かんきょう国民こくみん主義しゅぎ成熟せいじゅくからると、そこまでくには、まだ若干じゃっかんにちがかかりそうであります」と主張しゅちょうした(1992ねん9がつ)。[9]

自衛隊じえいたい武力ぶりょく行使こうし目的もくてき海外かいがいくことは憲法けんぽう違反いはんするというのが政府せいふ立場たちばだが、これは縮小しゅくしょう解釈かいしゃくといってよい。憲法けんぽうにはそんなことはいてないのだから。こんな解釈かいしゃくをいつまでもとっていたら、国連こくれん平和へいわ機能きのう強化きょうか日本にっぽん十分じゅうぶん役割やくわりたすことなどとうていできない。…しかし、いまでも国連こくれんはまともに機能きのうしているとはいえない。国連こくれんによって世界せかい平和へいわ完全かんぜんたもたれるなんてまずありない。…サダム・フセインの湾岸わんがん戦争せんそうでもまだめないひとこす役割やくわりたすのは、おそらく北朝鮮きたちょうせんきむ日成いるそんきむ正日じょんいる親子おやこだね。かれらがかく拡散かくさん防止ぼうし条約じょうやく(NPT)脱退だったい翻意ほんいしないならば、はないで解決かいけつつかないことが身近みぢかにもあるということがよくかるはずだ。北朝鮮きたちょうせんがすでに量産りょうさんしている「労働ろうどう1ごう」ミサイルでも、西日本にしにほんとどくし、「労働ろうどう2ごう」ならもっとひろ範囲はんいをカバーするからね」と見通みとおしをべた(1993ねん6がつ)。[10]

憲法けんぽう改正かいせい

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江藤えとうあつしは「憲法けんぽうがいい加減かげんなものであるゆえに、文学ぶんがくしゃはものを正確せいかくうしなった」とっています、前段ぜんだん憲法けんぽうがいい加減かげんというのは賛成さんせいですが、この結論けつろんには賛成さんせいできません。だいいち憲法けんぽうなんか、みんなんでいません。あんなものをんで、まともにかんがえるというのはよほど無能むのうひとで、そういう文学ぶんがくしゃ憲法けんぽう関係かんけいなく、現実げんじつられないです。あの文章ぶんしょうがた粗悪そあくなもので、とくに「序文じょぶん」は日本語にほんごではありません。もう一度いちど自分じぶん憲法けんぽうつくり、自分じぶんくにつくる。憲法けんぽう改正かいせいはそのシンボリックな行為こういということでしょう。日本人にっぽんじん基本きほんてき姿勢しせい見直みなお必要ひつようがありますし、安全あんぜん保障ほしょう問題もんだいでも同様どうようのことがいえます」と岡崎おかざきひさ彦との対談たいだんべている。[5]

政治せいじとのかかわり

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大平おおひら正芳まさよし中曽根なかそね康弘やすひろりょう首相しゅしょうから、意見いけんもとめられることもあった。それでとやかくわれたり、かれたりしたことも一再いっさいならずだが、わたしにしてみれば、首相しゅしょうからの諮問しもんこたえるのは国民こくみん義務ぎむであるとおもってつとめたままである」とべた。[2]

政策せいさく研究けんきゅう大学だいがく教育きょういく

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創設そうせつ尽力じんりょくした政策せいさく研究けんきゅう大学院だいがくいんふく学長がくちょうとして、組織そしき運営うんえいたずさわった。「日本にっぽんにおける社会しゃかい科学かがくをより現実げんじつてきなものとし、他方たほう政策せいさく立案りつあんしゃしつをよりたかめたい。この大学だいがく軌道きどうせるまでは、まだまだ学究がっきゅう日々ひび没頭ぼっとうというわけにはいかない」とべた。[2] 北岡きたおか伸一しんいちによる追悼ついとうぶんでは「学問がくもん現実げんじつとの乖離かいりには、一貫いっかんしてきびしい」をむけて、「佐藤さとう教授きょうじゅ影響えいきょうもとで、学問がくもんふか関心かんしん実務じつむ多数たすうまれたのは、偶然ぐうぜんではない」として佐藤さとう教育きょういく指導しどうによる人材じんざい育成いくせいたか評価ひょうかしている。[1]

著書ちょしょ

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たんちょ

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共著きょうちょ

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編著へんちょ

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共編きょうへんちょ

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翻訳ほんやくしょ

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  • 世界せかいシステムの政治せいじ経済けいざいがく国際こくさい関係かんけいしん段階だんかい」ロバート・G.ギルピンJr.(ちょ)、佐藤さとうまこと三郎さぶろう竹内たけうちとおるかんやく)、大蔵省おおくらしょう世界せかいシステム研究けんきゅうかい翻訳ほんやく)(東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、1990ねん)。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西部せいぶそらひとなさけ」『なま、その非凡ひぼんなる平凡へいぼん新潮社しんちょうしゃ、2015ねん、30-34ぺーじISBN 9784103675068  - 西部せいぶ佐藤さとうについてろんじている。
  • わたし写真しゃしんかん My Photo Studio アルバムのなかに(60) 佐藤さとうまこと三郎さぶろう政策せいさく研究けんきゅう大学院だいがくいん大学だいがくふく学長がくちょう)」『正論せいろん』1999ねん
  • 板垣いたがき英憲ひでのり編著へんちょいまこそ英国えいこくまなぼう 真剣しんけん留学りゅうがくかんがえているあなたへ』秀明ひであき出版しゅっぱんかい、1995ねん
  • 岡崎おかざきひさ彦、佐藤さとうまこと三郎さぶろう日本にっぽん失敗しっぱい成功せいこう 近代きんだい160ねん教訓きょうくん扶桑社ふそうしゃ文庫ぶんこ、2003ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 佐藤さとうまこと三郎さぶろういたむ”. 読売新聞よみうりしんぶん. (1999ねん12月2にち) 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐藤さとうまこと三郎さぶろう(インタビュー) (1999ねん). “わたし写真しゃしんかん My Photo Studio(60) ”. 正論せいろん. 
  3. ^ 佐藤さとうまこと三郎さぶろう (1993ねん2がつ). “じゅう世紀せいきわりにーー世界せかい変化へんか日本にっぽん東大とうだい退官たいかん記念きねん講演こうえん)”. 中央公論ちゅうおうこうろん: 102−111. 
  4. ^ 秀明ひであき大学だいがく図書館としょかんコレクション「佐藤さとうまこと三郎さぶろう文庫ぶんこ”. 秀明ひであき大学だいがく図書館としょかん. 2021ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f g h 岡崎おかざきひさ彦、佐藤さとうまこと三郎さぶろう日本にっぽん失敗しっぱい成功せいこう 近代きんだい160ねん教訓きょうくん扶桑社ふそうしゃ文庫ぶんこ、2003ねん7がつ30にち 
  6. ^ 吉良きら芳恵よしえ日本にっぽん近代きんだい史料しりょう情報じょうほう機関きかん設立せつりつ具体ぐたいかんする研究けんきゅう
  7. ^ 佐藤さとうまこと三郎さぶろう(インタビュー) (1999ねん). “わたし写真しゃしんかん My Photo Studio(60) ”. 正論せいろん. 
  8. ^ 佐藤さとうまこと三郎さぶろう (1990ねん11月). “「戦後せんご意識いしき」の惰性だせいあき”. 中央公論ちゅうおうこうろん: 106−119. 
  9. ^ 佐藤さとうまこと三郎さぶろう (1992ねん9がつ). “PKO問題もんだい日本にっぽん”. しん防衛ぼうえい論集ろんしゅう だい20かんだい2ごう: 13−29. 
  10. ^ 佐藤さとうまこと三郎さぶろう佐藤さとう欣子きんこ佐藤さとう健志たけし (1993ねん6がつ). “タコとイカの日本国にっぽんこく憲法けんぽう 佐藤さとうのおちゃあいだ討論とうろん”. 正論せいろん: 82−93. 

外部がいぶリンク

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