佐藤 誠 三郎
(さとう せいざぶろう) | |
1932 | |
1999 | |
20 | |
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経歴
1960
1970
1988
1992
その
親族
言行 録
- 「
単純 な軍国 少年 だった私 は、大 東亜 の大義 のため日本 は絶対 に勝 たねばならぬと思 っていた。疎開 先 で見 た星空 の広大 さに圧倒 されて、自分 はいかに矮小 な存在 なのかとため息 をつくような多感 な少年 だった」(本人 談 )。[2] - 「
日比谷 高校 では同級 に江藤 淳 が、一 級 上 に作家 の坂上 弘 がいた。個性 豊 かな秀才 たちに囲 まれて、刺激 的 な高校 生活 だった」(本人 談 )。[2] - 「
戦後 の混乱 のなかで生家 は往時 の面影 をなくし、私 は結核 を患 った。そのために進学 も遅 れ、日比谷 高校 、東大 と学 びつつも、私 の胸中 には深 い没落 感 と挫折 感 があった」と晩年 に回顧 している。[2] - 「
一時期 はマルクス主義 に惹 かれていた。文学 的 な表現 を許 していただけるなら、マルクス主義 理論 に"数学 的 証明 の美 しさ"を見 ていた。何 でも説明 できるという魅力 、もちろん、今 から考 えると、それは何 も説明 でないということであり、人間 はそれほど単純 な存在 ではない。のちに立教大学 から東大 に戻 った折 、(昭和 )43年 の紛争 時 だったが、学長 代行 を務 められた加藤 一郎 氏 の補佐 として「民青 」とやり合 うことになったのは、ある種 の必然 だったかも知 れない」(本人 談 )。 - 「
学者 になりたいと思 った。それを目指 すことの本質 的 意味 がわかっていたわけではなかったが、毀誉 褒貶 に関係 なく、とにかく自 らの信 じる処 にしたがって学 べば道 を切 り開 けるのではないかと考 えていた。ところが、そう思 っていても、私 は専門 一 筋 というわけにはいかなかった。あっちに曲 がったり、こっちへぶつかったり、生 きるのが下手 だった。文学部 で大学院 に落 ち、法学部 でも輝 かしい秀才 たちの間 で自信 喪失 に陥 っていた」(本人 談 )。[2] - 「
敗戦 は彼 の生家 を没落 させた。彼 は高校 時代 からアルバイトをして学費 を稼 いだばかりか家族 の生活 も助 けていた。彼 は勤勉 であった。実 によく勉強 をしていた。その勉強 はいつも本格 的 で深 く広 く、まさに学 んで飽 きることがなかった」と欣子 夫人 は回顧 している。[5] - 「
小学校 低 学年 のとき、大 東亜 戦争 は始 まり、疎開 、空襲 、そして焼 け跡 の飢 えと栄養失調 の戦後 。私 達 は男女 平等 、平和 と民主 主義 、基本 的 人権 の尊重 といった輝 かしい理念 を頼 りに精一杯 生 きてきたのだ。…振 り返 ってみれば、私 達 の世代 は確 かにコミンテルンや日教組 、出版 放送 労連 といった勢力 の影響 下 にあったが、口角 泡 をとばして天下 国家 を論 じていた。私 達 は意気軒昂 で元気 だった」(欣子 夫人 談 )。[5] - 「
昭和 38年 、東大 在学 中 に知 り合 った欣子 と結婚 する。今 だから告白 するが、体力 にも能力 にも自信 のなかった私 は、彼女 の持 っている活力 と、真摯 な生 き方 に惹 かれた」と晩年 に述 べている。[2] - 「
佐藤 氏 は偉大 な教育 者 である。東大 駒場 の佐藤 門下 には、北岡 伸一 氏 、舛添 要一 氏 、御厨 貴 氏 、田中 明彦 氏 など、今後 日本 の政治 思想 をリードして行 くに違 いない人材 が数多 く排出 している。それはもちろん、佐藤 氏 の学識 、そしてあくまでも真実 だけを追求 する厳格 な学問 的 ディシプリンの故 であろうが、それ以上 に、若者 の中 にそして人間 の中 に、心 にすぐれたもの、心 に善 きものを求 めてやまない佐藤 氏 のロマンチシズムが、接 する人々 の心 をおのずから揺 り動 かしたからであると思 う。おそらく、それが偉大 な教育 者 の第 一 の資格 なのであろう」と元 駐 タイ大使 ・岡崎 久 彦は弔辞 を捧 げた。[5] - 「
佐藤 氏 の政治 学 の特色 はその歴史 的 視野 の広 さにある。彼 の国際 政治 論 は、国際 関係 論 からでなく、日本 史 の素養 から来 たものが大 きい。そこで日本 近代 政治 史 をもう一度 初 めから洗 い直 す形 で彼 の歴史 観 、政治 哲学 を、どこかに残 したいと思 ったのが、対談 の動機 であった」と岡崎 久 彦氏は対談 本 『日本 の失敗 と成功 近代 160年 の教訓 』のまえがきで述 べている。[5] - 「
晩年 の佐藤 氏 は、ますます魅力 のある一 個 の人格 として完成 して行 かれた。晩年 の佐藤 先生 の写真 には凛然 たる気品 がある」(岡崎 久 彦評)。[5] - 「ご
家族 やわれわれのような友人 同士 の間 では、温顔 で心 優 しく、言葉 遣 いも丁重 であったが、事 、学問 に関 しては、いささかの論理 の乱 れ、発想 の裏 に隠 されている偏見 、こだわり、不純 などうきなど、知的 インテグリティを曇 らせているいかなる小 さな陰 も、仮借 なく激 しく指摘 し、攻撃 された。それも文学 的 な表現 で円 みをつけることもなく、単純 明快 で、散文 的 かつ激 しかった。…佐藤 氏 は天下 の御 意見 番 の風格 を備 えていた。もう敵 を作 ることを全 く恐 れていなかった。…あれほど明快 に、激 しく人 を叱 れる人 は偉大 な人 である。少 なくとも私心 のない人 である」(岡崎 久 彦評)。[5] - 「
私 の基本 は学者 である。家 にいて好 きな本 を静 かに読 んでいた。書 きたいことを書 いていたい。学究 の日々 こそが、私 の絶 えず帰 りたいと願 っている世界 なのだが、まだまだそうした自由 はままならないようだ。権力 にもお金 にも縁 がなくていい。思想 の自由 と時間 の余裕 があれば、それが学者 冥利 なのである」と晩年 に述懐 している。[2]
主張
安全 保障
「
PKO問題 と日本 の役割
1990
「PKOは、
「
憲法 改正
「
政治 との関 わり
「
政策 研究 と大学 教育
著書
単 著
共著
- (
村上 泰 亮 ・公文 俊平 )『文明 としてのイエ社会 』(中央公論社 、1979年 ) - (
松崎 哲久 )『自民党 政権 』(中央公論社 、1986年 ) - (
加藤 寛 )『日本 の組織 ・戦略 と形態 (1)国 をつくる組織 ――行革 日本 とブレーン政治 』(第一法規出版 、1989年 ) - (
岡崎 久 彦・西村 繁樹 )『日米 同盟 と日本 の戦略 ――アメリカを見 誤 ってはならない』(PHP研究所 、1991年 ) - (
中曽根 康弘 ・村上 泰 亮 ・西部 邁)『共同 研究 「冷戦 以後 」』(文藝春秋 、1992年 ) - (
岡崎 久 彦)『日本 の失敗 と成功 ――近代 160年 の教訓 』(扶桑社 、2000年 /扶桑社 文庫 、2003年 )
編著
- 『
東西 関係 の戦略 論 的 分析 』(日本 国際 問題 研究所 、1990年 ) - 『
新 戦略 の模索 ――冷戦 後 のアメリカ』(日本 国際 問題 研究所 、1994年 ) - 『
正 翼 の男 ――戦前 の笹川 良一 語録 』(中央公論 新 社 、1999年 )。解説 「笹川 再論 」を収録
共編 著
- (R・ディングマン)『
近代 日本 の対外 態度 』(東京大学 出版 会 、1974年 ) - (
吉田 常吉 )『日本 思想 大系 56幕末 政治 論集 』(岩波書店 、1976年 ) - (
大森 彌 )『日本 の地方 政府 』(東京大学 出版 会 、1986年 ) - Prospects for Global Order, co-edited with Trevor Taylor, (Royal Institute of International Affairs, 1993).
- Future Sources of Global Conflict, co-edited with Trevor Taylor, (Royal Institute of International Affairs, 1995).
- (
今井 隆吉 ・山内 康 英 )『岐路 に立 つ国連 と日本 外交 』(三田 出版 会 、1995年 )
翻訳 書
- 「
世界 システムの政治 経済 学 ー国際 関係 の新 段階 」ロバート・G.ギルピンJr.(著 )、佐藤 誠 三郎 、竹内 透 (監 訳 )、大蔵省 世界 システム研究 会 (翻訳 )(東洋経済新報社 、1990年 )。
参考 文献
西部 邁「空 飛 ぶ人 の情 け」『生 と死 、その非凡 なる平凡 』新潮社 、2015年 、30-34頁 。ISBN 9784103675068。 -西部 が佐藤 について論 じている。- 「
私 の写真 館 My Photo Studio アルバムの中 に(60)佐藤 誠 三郎 (政策 研究 大学院 大学 ・副 学長 )」『正論 』1999年 。 板垣 英憲 編著 『今 こそ英国 で学 ぼう真剣 に留学 を考 えているあなたへ』秀明 出版 会 、1995年 。岡崎 久 彦、佐藤 誠 三郎 『日本 の失敗 と成功 近代 160年 の教訓 』扶桑社 文庫 、2003年 。
脚注
- ^ a b “
佐藤 誠 三郎 氏 を悼 む”.読売新聞 . (1999年 12月2日 ) - ^ a b c d e f g h i j k l m
佐藤 誠 三郎 (インタビュー) (1999年 ). “私 の写真 館 My Photo Studio(60) ”.正論 . - ^
佐藤 誠 三郎 (1993年 2月 ). “二 十 世紀 の終 わりにーー世界 の変化 と日本 (東大 退官 記念 講演 )”.中央公論 : 102−111. - ^ “
秀明 大学 図書館 コレクション「佐藤 誠 三郎 文庫 」”.秀明 大学 図書館 . 2021年 2月 10日 閲覧 。 - ^ a b c d e f g h
岡崎 久 彦、佐藤 誠 三郎 『日本 の失敗 と成功 近代 160年 の教訓 』扶桑社 文庫 、2003年 7月 30日 。 - ^
吉良 芳恵 「日本 近代 史料 情報 機関 設立 の具体 化 に関 する研究 」 - ^
佐藤 誠 三郎 (インタビュー) (1999年 ). “私 の写真 館 My Photo Studio(60) ”.正論 . - ^
佐藤 誠 三郎 (1990年 11月). “「戦後 意識 」の惰性 を断 つ秋 ”.中央公論 : 106−119. - ^
佐藤 誠 三郎 (1992年 9月 ). “PKO問題 と日本 ”.新 防衛 論集 第 20巻 第 2号 : 13−29. - ^
佐藤 誠 三郎 、佐藤 欣子 、佐藤 健志 (1993年 6月 ). “タコとイカの日本国 憲法 佐藤 家 のお茶 の間 討論 ”.正論 : 82−93.