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天保騒動 - Wikipedia

天保てんぽう騒動そうどう(てんぽうそうどう)は、江戸えど時代じだい後期こうき天保てんぽう7ねん1836ねん)8がつ甲斐かいこくこった百姓ひゃくしょう一揆いっき甲斐かい東部とうぶぐんない地方ちほう都留つるぐん)から発生はっせいし、国中くになか地方ちほう波及はきゅういちこく規模きぼ騒動そうどうとなった。別称べっしょうぐんない騒動そうどう甲斐かいいちこく騒動そうどう甲州こうしゅう騒動そうどう

天保てんぽう騒動そうどう背景はいけい

編集へんしゅう

甲斐かいこく1724ねんとおる9ねん)に幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう天領てんりょうされ、甲府こうふ町方まちかた管轄かんかつする甲府こうふ勤番きんばんさんふん代官だいかんによる在方ざいかた支配しはいおこなわれていた[1]

甲府盆地こうふぼんちいだ国中くになか地方ちほうでは近世きんせい新田にった開発かいはつすす穀倉こくそう地帯ちたいとなり、国内こくない産出さんしゅつした米穀べいこく甲府こうふ問屋とんや仲間なかま統括とうかつし、一部いちぶ信濃しなのこくから移入いにゅうされた米穀べいこくとともに鰍沢かじかざわ河岸かわぎし集積しゅうせきされ、富士川ふじかわ舟運しゅううんつうじて江戸えど廻送かいそうされた。一方いっぽう山間さんかんであるぐんない地方ちほう生業せいぎょう耕作こうさくすくないことからやまかせぎやぐんない生産せいさんなどのうあいだあまりぎょう依存いぞんつよく、必要ひつよう米穀べいこくくにちゅう相模さがみこく駿河するがこくからの移入いにゅうたよっていた。

寛政かんせい年間ねんかんには甲府こうふ問屋とんや仲間なかま弱体じゃくたいし、鰍沢かじかざわ宿やどげん富士川ふじかわまち鰍沢かじかざわ)の米穀べいこくしょうめをおこな廻米かいまいとして移出いしゅつされる米穀べいこく増加ぞうかし、信濃しなのからかいづけおこな商人しょうにん進出しんしゅつしたため米価べいか高騰こうとう発生はっせいしていた。1833ねん天保てんぽう4ねん)には全国ぜんこくてきにも冷夏れいかによる凶作きょうさくのため米価べいか高騰こうとう飢饉ききん発生はっせいしており(天保てんぽう飢饉ききん)、冷夏れいか影響えいきょうぐんない地方ちほうにおいて深刻しんこくで、国中くになかでも八代やしろぐん夏目原なつめはらむら笛吹ふえふき御坂みさかまち)の百姓ひゃくしょう夏目なつめ日記にっき[2]では冷夏れいか影響えいきょうを「五十年以来無覚之凶作」とし、天保てんぽう騒動そうどうちこわしの対象たいしょうとなる山梨やまなしぐん万力まんりきすじ熊野堂くまのどうむらおくみぎ衛門えもんではこのころすでちこわしの空気くうき発生はっせいしており、甲府こうふ町方まちかたでも世情せじょう不安ふあんつたわり動揺どうようしょうじている。

信濃しなのこく高遠こうえんはん同国どうこく諏訪すわはんでは甲信こうしん国境こっきょうこくとめ番所ばんしょ設置せっちしてりょうへの米穀べいこく流出りゅうしゅつ防止ぼうしするこくとめおこなっており、甲斐かいがわでも甲府こうふ勤番きんばん代官だいかん触書ふれがきつうじてこくとめおこなっているが、施策しさく不徹底ふてっていであったため米価べいか一時いちじてき安定あんていしたものの1835ねん天保てんぽう6ねん)にはふたた上昇じょうしょうし、高値たかね傾向けいこう推移すいいしていた。ぐんない地方ちほうでは文化ぶんか年間ねんかん織物おりものきょうによる打撃だげきけていたが、そこに天保てんぽう飢饉ききん影響えいきょうにより谷村たにむら米穀べいこくしょう米穀べいこくかいづけおこなったため米価べいか高騰こうとう発生はっせいし、おなじく社会しゃかい不安ふあんひろまっていた。

ぐんない百姓ひゃくしょう蜂起ほうき

編集へんしゅう

天保てんぽう7ねん8がつ17にち1836ねん9月27にち夜半やはん谷村たにむらでは下谷しもたにむら近郷きんごう百姓ひゃくしょうによる米穀べいこくしょう居宅きょたくへのちこわしが発生はっせいし、騒動そうどう発端ほったんとなった。谷村たにむらには石和いさわ代官だいかんしょ出張しゅっちょう陣屋じんやである谷村たにむら代官だいかんしょ所在しょざいしているが、元締もとじめ手代てだい山内やまうちひだりない不在ふざいで、石和いさわ陣屋じんやからばん手代てだい松岡まつおかあきら出張しゅっちょうし、関係かんけいしゃ処罰しょばつむら々への取締とりしまりおこな収拾しゅうしゅうされる。

一方いっぽう谷村たにむらでのちこわしと同時どうじ都留つるぐん下和田しもわだむら大月おおつき七保町下和田ななほまちしもわだ)のななおさむ左衛門さえもんどうぐん犬目いぬめむら上野原うえのはらいぬ)の兵助へいすけどうぐん鳥沢とりさわむら大月おおつき)で合流ごうりゅうすると、米価べいかげをもとめた強訴ごうそ計画けいかく一揆いっきぜい頭取とうどりとなった。また、くろ野田のだむら大月おおつき笹子町黒野田ささごまちくろのだ)の名主なぬしむら医師いしたいじゅん(たいじゅん)が綱領こうりょう起草きそうした[3]

ななは、天保てんぽう7ねん当時とうじ70さいにん家族かぞくだかいちせきろくであるが、徐々じょじょ減少げんしょうのう閑余ぎょうおこなっていた。また、無宿むしゅくじん無頼ぶらいらをしたがえる親分おやぶんであったという[4]

兵助へいすけは、天保てんぽう7ねん当時とうじ40さいせい水越みずこしで、3にん家族かぞく犬目いぬめ宿やど旅籠はたごいとなむ。屋号やごうは「水田すいでん」。水田すいでん経営けいえい先代せんだいだいから悪化あっかし、兵助へいすけ蜂起ほうきさいしてつま離縁りえんじょうしている。なお、なな兵助へいすけりょう騒動そうどう動向どうこう後述こうじゅつ

なな兵助へいすけは「身分みぶん不相応ふそうおうこれしゃ」から貧民ひんみん救済きゅうさいのためべいかねカ年かねんけてけ、国中くになか熊野堂くまのどうむら笛吹ふえふき春日井かすがいまち熊野堂くまのどう)・おくみぎ衛門えもんいえ代表だいひょうされるくに中富なかとみひろし農民のうみんべいめを停止ていしされ米穀べいこくぐんない放出ほうしゅつさせる計画けいかく目論もくろむ。[5]熊野堂くまのどうむら小河おがわおくみぎ衛門えもんぐんない米穀べいこくあきな穀物こくもつしょうで、天保てんぽう飢饉ききんさいしては米穀べいこくめ、ぐんないでは米価べいか高騰こうとう元凶げんきょう認識にんしきされていたという[6]

りょうぐんない百姓ひゃくしょう集結しゅうけつうながぐんないぜいひきいると山梨やまなしぐん万力まんりきすじ熊野堂くまのどうむらおくみぎ衛門えもん標的ひょうてきくにちゅうけて出立しゅったつし、道中どうちゅう各地かくちちこわしおこない、おくみぎ衛門えもんたくちこわしをおこなうとむらした。

騒動そうどう変質へんしつ鎮圧ちんあつ

編集へんしゅう

ぐんないぜい当初とうしょなな兵助へいすけ統率とうそつされ百姓ひゃくしょう一揆いっき作法さほうのっとった活動かつどうおこなっていたが、くにちゅういたると「悪党あくとう」とばれる国中くになか百姓ひゃくしょう無宿むしゅくじんらが参加さんかし、騒動そうどう激化げきか無秩序むちつじょする[7]

無宿むしゅくじんひきいられた国中くになかぜいぐんないぜいかれると暴徒ぼうとし、鉄砲てっぽう竹槍たけやりなどで武装ぶそうぬすみや火付ひつけなどの逸脱いつだつ行為こういおこない、むら々にたいして一揆いっきへの参加さんか強制きょうせいした。国中くになかぜいは8がつ22にちには石和いさわ宿やど笛吹ふえふき石和いさわまち)を襲撃しゅうげきするとわかれ、一方いっぽう甲州こうしゅうどうちゅうから甲府こうふ町方まちかた甲府こうふ)へかい、一方いっぽう笛吹川ふえふきがわ沿いに南下なんかした。甲州こうしゅうどうちゅうすすんだ一揆いっきぜいよく8がつ23にち甲府こうふ町方まちかた守備しゅびする甲府こうふ勤番きんばん永見ながみ伊勢いせまもる甲府こうふ代官だいかん井上いのうえじゅう左衛門さえもん手代てだいらの防衛ぼうえいせん突破とっぱすると甲府こうふ城下じょうか乱入らんにゅうし、城下じょうかこく仲買なかがい有徳うとくじんらの屋敷やしきちこわし、火付ひつけもおこなった。

甲府こうふ城下じょうかこわしをおこなった一揆いっきぜいはさらに二分にぶんし、一手いってとおこう寺村てらむらから巨摩こまぐん中郡なかぐんすじ西条さいじょうむら昭和町しょうわちょう)へすすみ、西にし青沼あおぬままちから飯田いいだ新町しんまちこわしをつづけ、荒川あらかわ巨摩こまぐん北山きたやますじ上石田かみいしだまち甲府こうふ)、西八幡にしはちまんむら竜王りゅうおうむら甲斐かい西八幡にしはちまん竜王りゅうおう)まですすみ、ちこわしや火付ひつけをおこなうと、釜無川かまなしがわ渡河とかせず笛吹うすい川筋かわすじちこわしをつづけた。

一方いっぽうとおこう寺村てらむらから南下なんかした一手いって甲府こうふ勤番きんばん永見ながみ石見いわみまもる手勢てぜいによる追撃ついげき一部いちぶ捕縛ほばくされ、こちらも中郡なかぐんすじ乙黒おとぐろむらにおいてさらにかれた。一手いって中郡なかぐんすじ大田和おおたわむらに、一手いって西条さいじょうむらにそれぞれかった。騒動そうどうぜい中郡なかぐんすじ布施ふせむら今福いまふくむらにおいてちこわしをおこなうと大田和おおたわむら馬籠まごめ以上いじょうむらはいずれも中央ちゅうおう)において合流ごうりゅうし、笛吹川ふえふきがわ渡河とか八代やしろぐん西郡にしごおりすじ上野うえのむら市川いちかわ三郷みさとまち)を市川いちかわ陣屋じんや存在そんざいする市川大門いちかわだいもんむら到達とうたつする。市川いちかわ代官だいかん山口やまぐち鉄五郎てつごろう病床びょうしょうにあり、鎮圧ちんあつ指揮しき手代てだい高島たかしま仁左衛門にざえもんおこなっていたが多勢たぜいまえ退去たいきょする。騒動そうどうぜい市川大門いちかわだいもんむらでもちこわしをおこない、頭取とうどりである無宿むしゅく髪結かみゆいきゅう兵衛ひょうえ空砲くうほうであるが持参じさんした鉄砲てっぽう威嚇いかくおこない、騒動そうどうぜいへの参加さんか動員どういん強要きょうようしたという。

騒動そうどうぜいはさらに駿しゅんしゅう往還おうかん南下なんかすると鰍沢かじかざわ宿やどにおいてちこわしをおこなうが、その駿しゅんしゅう往還おうかんもど北上ほくじょうし、西郡にしごおりすじ青柳あおやぎ宿やど最勝寺さいしょうじむら天神中条てんじんなかじょうむら長沢ながそむら以上いじょう富士川ふじかわまち)においてちこわしをつづけ、西郡にしごおりすじ荊沢おとろざわ宿やどみなみアルプス)にいたる。荊沢おとろざわ宿やどにおいては村民そんみんからの反撃はんげきけるが、騒動そうどうぜいはさらに韮崎にらさき宿やどから山口やまぐちこうとめ番所ばんしょえて西にし大武川おおむかわむらきたもり白州はくしゅうまち)にいたり、甲信こうしん国境こっきょう付近ふきんまでたっした。

8がつ23にち甲府こうふ町方まちかたにおけるちこわしをゆるした甲府こうふ勤番きんばん永見ながみ伊勢いせまもる甲府こうふ代官だいかん井上いのうえじゅう左衛門さえもん信濃しなのこく諏訪すわはん出兵しゅっぺい要請ようせいし、国中くになかもろむらたい一揆いっきぜい殺害さつがい布達ふたつし、ちこわしのほうけた甲府盆地こうふぼんちしょむらでは独自どくじ情報じょうほう収集しゅうしゅうおこな防衛ぼうえいつとめている。

 
江川えがわ太郎左衛門たろうざえもん

また、御嶽山みたけさんきむさくら神社じんじゃしゅなど、積極せっきょくてき騒動そうどう鎮圧ちんあつ参加さんかするものもられた。信濃しなの諏訪すわはんでは24にちちゅうはんへい派遣はけんするが、ぐんないぜいむら騒動そうどう収束しゅうそく確認かくにんすると28にちには甲府こうふ訪問ほうもんし、信濃しなのもどった。幕府ばくふでは駿河するがこく沼津ぬまづはん信濃しなの高遠こうえんはんたいしても派兵はへいめいじているが、りょうはんとも騒動そうどう鎮圧ちんあつ確認かくにんするとまもなくげている。

天保てんぽう騒動そうどうたいして伊豆いずこく駿河するがこく武蔵むさしこく相模さがみこくまくりょう管轄かんかつする韮山にらやま代官だいかん江川えがわ英龍ひでたつ太郎左衛門たろうざえもん)も、騒動そうどう波及はきゅう危惧きぐして情報じょうほう収拾しゅうしゅうつとめている。江川えがわ騒動そうどう発生はっせいした天保てんぽう7ねん8がつ伊豆いず駿河するがまわりむらえて韮山にらやま代官だいかんしょ帰還きかんしたところで騒動そうどう発生はっせいり、まくりょうである武蔵むさし相模さがみへの波及はきゅう警戒けいかい同月どうげつ29にち手代てだい斎藤さいとうわたる九郎くろうらとともに甲斐かいかっている[8]江川えがわは9月3にち甲府こうふ代官だいかん井上いのうえじゅう左衛門さえもんから騒動そうどう鎮圧ちんあつると帰還きかんした[9]

騒動そうどう事後じご処理しょり

編集へんしゅう

騒動そうどう収束しゅうそく幕府ばくふでは吟味ぎんみやく派遣はけんし、石和いさわ代官だいかんしょにおいて調しらべをおこなう。ぐんない蜂起ほうき主導しゅどうしゃとなったなな兵助へいすけおくみぎ衛門えもんたくこわしののち一揆いっきぜいから離脱りだつむらするが、ななつみこうむ自首じしゅし、捕縛ほばくされた[4]なな石和いさわ宿やど笛吹ふえふき石和いさわまち)ではりつけしょされることがまるが、牢死ろうししている[4]

一方いっぽう兵助へいすけ甲斐かいから逃亡とうぼうし、関東かんとうから北陸ほくりく畿内きない四国しこく中国ちゅうごくなど各地かくち流浪るろうしている[10]兵助へいすけにはたび日記にっき現存げんそんしており、天保てんぽう10ねん以前いぜんには犬目いぬめむらもどり、家族かぞくれて安房あわこく木更津きさらづ千葉ちばけん木更津きさらづ)へわたり、奈良ならせい改姓かいせいして寺子屋てらこや経営けいえいしたという[10]上野原うえのはら犬目いぬめ法勝寺ほっしょうじ宗門しゅうもん人別にんべつちょう子孫しそんからのききと調査ちょうさによれば、兵助へいすけ一家いっか安政あんせい5ねん1858ねん以前いぜん安房あわから甲斐かいもどり、兵助へいすけ慶応けいおう年間ねんかん死去しきょしたという[11]

綱領こうりょう起草きそうした黒野くろの田宿たじゅくたいじゅん天保てんぽう9ねん石和いさわ代官だいかんしょにおいて入牢にゅうろうするが、よく天保てんぽう10ねん特赦とくしゃされ、帰郷ききょうしている[3]

騒動そうどう鎮圧ちんあつ失敗しっぱいしたさんふん代官だいかんたいしては吟味ぎんみへの参加さんかゆるさず、番所ばんしょろう新築しんちくさいした経費けいひ負担ふたんさせている。吟味ぎんみでは無宿むしゅくじん頭取とうどりをはじめとする500にん(うち130にんあまりが無宿むしゅくじん以上いじょうのが捕縛ほばくされ、酒食しゅしょくしを提供ていきょうした有徳うとくじんむら々の騒動そうどう関与かんよしゃきびしく追及ついきゅうされ、頭取とうどりら9にん死罪しざい、37にん遠島えんとうとなる。また、関与かんよしゃしたむら々には過料かりょうぜにせられたほか、さんふん代官だいかん処罰しょばつされている。一方いっぽうで、積極せっきょくてき騒動そうどう鎮圧ちんあつ協力きょうりょくしたものにたいしては褒賞ほうしょうあたえられている。

天保てんぽう騒動そうどう影響えいきょう

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騒動そうどう一部始終いちぶしじゅう騒動そうどう瓦版かわらばんにより関東かんとう各地かくち流布るふされた。とく甲斐かいこく隣接りんせつする武蔵むさしこく多摩たま地域ちいき江戸えど関東かんとう各地かくちにおいては、天保てんぽう8ねん1837ねん)2がつだいさか発生はっせいした大塩おおしお平八郎へいはちろうらんや、天保てんぽう年間ねんかん相次あいついでいた異国いこくせん来航らいこうとともに内憂ないゆうとしてめられた。関東かんとう代官だいかん江川えがわ管轄かんかつする多摩たま地域ちいきむら々では天保てんぽう騒動そうどう契機けいきとして農兵のうへいじゅうたい組織そしきされ[12]天然てんねんしんりゅうなど豪農ごうのうそう中心ちゅうしん自衛じえい手段しゅだんとしての農村のうそん剣術けんじゅつ活発かっぱつしている[12]

甲斐かいこくでは天保てんぽう騒動そうどう被害ひがいしたくに絵図えず出版しゅっぱんされている[13]。これは文政ぶんせい8ねん1825ねん)に身延山みのぶさん参詣さんけいしゃけに鰍沢かじかざわ富士川ふじかわまち鰍沢かじかざわ)の書肆しょし久屋ひさやもんみぎ衛門えもんから出版しゅっぱんされた甲斐かいこく絵図えずもとにした「天保てんぽう騒動そうどう絵図えず」で、笛吹ふえふき春日居かすがいまち国府こくふつじ資料しりょうとして伝来でんらいしている[14]

天保てんぽう騒動そうどうのちには、騒動そうどう題材だいざいとした実録じつろくやききも刊行かんこうされており、『きのえ飄談(こうひょうだん』や『天保てんぽう騒動そうどう』、『きのえようらんさまたげ』、『甲斐かいこく一揆いっき騒動そうどう実記じっき』、『かい来書らいしょ』などがある。

甲斐かいこくでは19世紀せいき初頭しょとうごろから博徒ばくと活動かつどう活発かっぱつし、天保てんぽう騒動そうどうはさんで幕末ばくまつには三井みつい卯吉うきち竹居たけい安五郎やすごろう黒駒くろこま勝蔵しょうぞう国分こくぶ三蔵さんぞうら、甲州こうしゅう博徒ばくとばれるおおくの博徒ばくとこうそうひろげた。天保てんぽう騒動そうどうではおおくの博徒ばくと騒動そうどう加担かたんして激化げきかしたことから、事件じけん契機けいき甲斐かい国内こくないでは博徒ばくとまりが強化きょうかされている[15]

山梨やまなしけん都留つる金井かないよういんには天保てんぽう騒動そうどうさいもちいられたという竹槍たけやり伝来でんらいしている。この竹槍たけやりにはやく900文字もじで、騒動そうどう発端ほったんから判決はんけついた経緯けいいしるされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 天保てんぽう騒動そうどう発生はっせい天保てんぽう7ねん(1836ねん)においては、甲府こうふ勤番きんばん山手やまて戸田とだひかり紹(下総しもうさまもる)・追手おって永見ながみため伊勢いせまもる)、甲府こうふ代官だいかん井上いのうえじゅう左衛門さえもん石和いさわ代官だいかん西村にしむらさだ太郎たろうであるが着任ちゃくにん市川いちかわ代官だいかん山口やまぐち鉄五郎てつごろう甲斐かいいちこく統治とうちする人員じんいんは、勤番きんばんさんひゃくすうじゅうにん代官だいかん手付てつき手代てだい50あまり。
  2. ^ 夏目なつめ日記にっき」『山梨やまなしけん資料しりょうへん所載しょさい
  3. ^ a b 甲斐かいみちをゆく 交流こうりゅう文化ぶんか』(山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん、2009ねん)、p.35
  4. ^ a b c 須田すだ(2007)、p.444
  5. ^ なな平助へいすけ計画けいかくについては「天保てんぽう騒動そうどうにつき頭取とうどり左衛門さえもん兵助へいすけ書留かきとめ」「天保てんぽう騒動そうどうにつき頭取とうどりなな自白じはくしょ」『山梨やまなしけん資料しりょうへん所載しょさい
  6. ^ 須田すだ(2007)、pp.426 - 427
  7. ^ 近世きんせい百姓ひゃくしょう一揆いっきちこわしにおいては訴願そがん実現じつげんだいいちとされ、武器ぶき携行けいこう強盗ごうとう放火ほうかなどの逸脱いつだつ行為こうい自立じりつてき禁止きんしし、一定いってい作法さほう存在そんざいしていたが(保坂ほさかさとし百姓ひゃくしょう一揆いっきとその作法さほう)』)、天保てんぽう騒動そうどう発生はっせいした19世紀せいきには百姓ひゃくしょう一揆いっき作法さほう崩壊ほうかいし、変質へんしつしていたことが指摘してきされている(須田すだつとむ『「悪党あくとう」のじゅうきゅう世紀せいき』)。天保てんぽう騒動そうどうではおおくの百姓ひゃくしょう参加さんかしているものの、115にん無宿むしゅくくわわっており、訴願そがん目的もくてきとする百姓ひゃくしょう一揆いっきにおける蓑笠みのかさ姿すがたではなく、武器ぶき携行けいこうし「色物いろもの」をにつけ、総体そうたいとして「悪党あくとう」と認識にんしきされていることが指摘してきされている。
  8. ^ 須田すだ(2007)、p.439
  9. ^ 須田すだ(2007)、p.440
  10. ^ a b 須田すだ(2007)、p.445
  11. ^ 須田すだ(2007)、p.446
  12. ^ a b 須田すだ(2007)、p.460
  13. ^ 髙橋(2008)、p.17(76)
  14. ^ 髙橋(2008)、p.21(72)-22(71)
  15. ^ 黒駒くろこま勝蔵しょうぞうたい清水次郎長しみずのじろちょう』pp.7-8

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 須田すだつとむ天保てんぽう騒動そうどう」『山梨やまなしけん 通史つうしへん4 近世きんせい2』2007ねん
  • 髙橋おさむ近世きんせい甲斐がいこく絵図えずろん序説じょせつ-山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞう甲斐かいこく絵図えずとの対話たいわ-」『山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん 研究けんきゅう紀要きよう だい2しゅう山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん、2008ねん
  • 黒駒くろこま勝蔵しょうぞうたい清水次郎長しみずのじろちょう-時代じだいうごかしたアウトローたち- 』 山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん2013ねん

関連かんれん項目こうもく

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