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観光史学 - Wikipedia

観光かんこう史学しがく(かんこうしがく)とは、おもだい世界せかい大戦たいせんのち地域ちいき歴史れきしにおいて、観光かんこう資源しげんとして動員どういんすることを理由りゆう創作そうさくされた歴史れきしかん[1][2]

概要がいよう

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用語ようごとしての「観光かんこう史学しがく」は福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ郷土きょうど史家しか宮崎みやざきじゅうさんはち(とみはち)が提唱ていしょうをしている。もっと有名ゆうめい観光かんこう史学しがくに「会津あいづ長州ちょうしゅうへの怨念おんねん」がれいげられている。そのような感情かんじょう戦後せんごになって高揚こうようしたもので、戦前せんぜん戦中せんちゅう会津あいづでは、長州ちょうしゅうじんおなじ「勤皇きんのう精神せいしん」のぬしだというおもいが大勢おおぜいめていたと指摘してきされている。しかし、戦後せんごに「無垢むく敗者はいしゃ」「近代きんだい日本にっぽん被害ひがいしゃ」というアイデンティティーを獲得かくとくする過程かていで、「長州ちょうしゅうへの怨念おんねん」にあらためて司馬しばりょう太郎たろうによる「悲劇ひげき会津あいづ」という司馬しば史観しかん観光かんこう資源しげんとして人々ひとびとびついたさい発生はっせいした。そもそも会津あいづみんつみわれず、会津あいづはん体制たいせいがわについても1928ねん会津あいづ松平まつへい節子せつこ勢津子せつこ)と秩父宮ちちぶのみや雍仁の縁組えんぐみ実現じつげんすることで当時とうじ完全かんぜん和合わごうされていた。さらに1930年代ねんだい後半こうはん徳富とくとみ蘇峰そほう各地かくち講演こうえんで、「かい逆賊ぎゃくぞくなどではない」と強調きょうちょうし、その「尊王そんのうだい精神せいしん」を称揚しょうようしていた。このように、戦前せんぜん会津あいづ評判ひょうばんは「勤皇きんのう精神せいしん」というだい東亜とうあ戦争せんそうちゅう国民こくみん見習みならうべき規範きはんという地位ちい確立かくりつし、絶頂ぜっちょうむかえている[3]

戦後せんご会津若松あいづわかまつ商工しょうこう観光かんこう部長ぶちょうであった宮崎みやざきじゅうさんはち担当たんとうした観光かんこう都市とし政策せいさくのなかで、会津あいづ地方ちほう歴史れきし、とりわけ戊辰戦争ぼしんせんそう観光かんこう資源しげんするかんがかたあらわれた[4]宮崎みやざき自身じしんで「わたし立場たちば観光かんこう史学しがくであること」とみずからのその立場たちばかたっている[2]。これにたいし、「長州ちょうしゅう」・「はぎ」への和解わかい阻害そがいする「史料しりょうてき根拠こんきょ薄弱はくじゃく怨念おんねん」や「靄のような怨念おんねん」への批判ひはんてき分析ぶんせきをおこなったはた敬之助けいのすけ[5]戦後せんご会津あいづにおいて、なお「旧態きゅうたい依然いぜんたる怨念おんねん史観しかん」の延長線えんちょうせんじょう戊辰戦争ぼしんせんそう観光かんこう資源しげんすることへの反発はんぱつ牧野まきののぼるのような宮崎みやざき観光かんこう史学しがく」への批判ひはんてきとらかたがある[6]

これらをふまえ、神戸大学こうべだいがく大学院だいがくいんじょきょう田中たなかさとるはその研究けんきゅう論文ろんぶんで、これらの議論ぎろんふくめ〈戦後せんご会津あいづにおける「観光かんこう史学しがく」〉として定義付ていぎづけている。この田中たなか論文ろんぶんでは近代きんだい社会しゃかいの「アイデンティティの危機きき」、とりわけ敗者はいしゃのこの問題もんだいを、戦後せんご会津あいづの「怨念おんねん史観しかん」・「観光かんこう史学しがく」を題材だいざいにまとめながら近代きんだい戦争せんそう非業ひごうげた死者ししゃたいする忘却ぼうきゃく問題もんだいとして提起ていきし、しかもそれは会津あいづといういち地方ちほう問題もんだいにはまらず現代げんだい日本にっぽん到達とうたつした境地きょうちそのものであるとする[7][8]

会津あいづ観光かんこう史学しがく形成けいせい影響えいきょう

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雪冤せつえん勤皇きんのう

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明治維新めいじいしん以降いこう会津あいづ賊軍ぞくぐんではないとする雪冤せつえん運動うんどうからはじまり、きゅう会津あいづ藩士はんしからなる『ななねん』『京都きょうと守護しゅごしょく始末しまつとう出版しゅっぱんによる会津あいづからの意見いけん陳述ちんじゅつがなされた。昭和しょうわにジャーナリストの徳富とくとみ蘇峰そほうやその秘書ひしょ会津あいづ出身しゅっしんである早川はやかわ喜代治きよじひとしによる「会津あいづはん朝敵ちょうてきにあらず」といった戦意せんい昂揚こうようてきプロパガンダなどにもからんできた。そのなかで、大正たいしょう年間ねんかんより白虎隊びゃっこたい終焉しゅうえん土地とちである飯盛山いいもりさん観光かんこう施設しせつとして喧伝けんでんしようとしたうごきが、「観光かんこうきゃく目的もくてきとした歴史れきし利用りよう」の先鞭せんべんげる。当時とうじより飯盛山いいもりさん観光かんこうたいしては批判ひはんがあり、東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん杉村すぎむら楚人冠そじんかん墓地ぼち整備せいび観光かんこうかんして「このきゅうかたち破壊はかい何事なにごとだ。ムソリニがそれほどえらいのか」[9]きびしく批判ひはんしている。これにたいして、もと白虎隊びゃっこたいでもあった山川やまかわ健次郎けんじろうは「いちはもつて英霊えいれいなぐさいちはもつて教育きょういく資料しりょうとするに便びんならすむるためには、変更へんこうむをざる」[10]反論はんろんしている。

明治めいじ会津あいづ領民りょうみん状況じょうきょう会津あいづ世直よなお一揆いっき遭遇そうぐうしたウィリアム・ウィリス記述きじゅつしている。

ぐん会津若松あいづわかまつ時代じだい

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1908ねん明治めいじ41ねん以来いらい会津若松あいづわかまつにも陸軍りくぐん連隊れんたいかれ、ぐんとしてのかおつようになった[11]。そして戦前せんぜん国威こくい発揚はつよう一環いっかんとして、会津あいづ武士ぶしどう注目ちゅうもくされるようになり、実際じっさい白虎隊びゃっこたい精神せいしんファシズム軍国ぐんこく主義しゅぎ利用りようされた。1928ねん昭和しょうわ3ねん)にベニート・ムッソリーニが白虎隊びゃっこたい精神せいしん感心かんしんして元老げんろういんとローマ市民しみん寄贈きぞうしたという古代こだいローマ時代じだいポンペイから発掘はっくつされた宮殿きゅうでん石柱せきちゅうによる記念きねん[12]1935ねん昭和しょうわ10ねん)にちゅうにちドイツ大使館たいしかんいんハッソー・フォン・エッツドルフ[13]飯盛山いいもりさんおとずれたときに、白虎隊びゃっこたい少年しょうねんたちのしんふか感銘かんめいけて個人こじんてき寄贈きぞうした記念きねんがある。 また、戦時せんじちゅうには保科ほしな正之まさゆきがブームになった時期じきもあったが、会津あいづ関連かんれん著作ちょさくおお中村なかむら彰彦あきひこは「明治めいじ以降いこうほとんやみうずもれてしまった」[14]べている。

観光かんこう史学しがく」の形成けいせい

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直接的ちょくせつてきだい大戦たいせん戦争せんそう被害ひがいけなかった会津若松あいづわかまつでは、戦後せんごに「軍国ぐんこく主義しゅぎてきである」という理由りゆう上記じょうきのような運動うんどうかえりみられなくなり、会津若松あいづわかまつから出征しゅっせいしたはずのこの近代きんだいせんにおける戦死せんししゃさえも遺族いぞくのぞけば大方おおかた忘却ぼうきゃくされるにいたった[15]。これが、以降いこう戦後せんご会津あいづ観光かんこう都市とし政策せいさくにおいて、近代きんだいせん戦死せんししゃではなく戊辰戦争ぼしんせんそう戦死せんししゃの、いわば現代げんだいへの召還しょうかんという状況じょうきょう後々あとあとすことになる。すなわち、地方ちほう視点してん明治維新めいじいしんさい検証けんしょうする姿勢しせいてくるようになり、これに戦後せんご復興ふっこうからくる観光かんこうブームから、白虎隊びゃっこたい観光かんこう資源しげんとしてあつかわれるようになった。これより、会津あいづ観光かんこう資源しげんが「会津あいづ自然しぜん」より「会津あいづ歴史れきし」にシフトされるようになる。また、1957ねんにはつちのえたつ戦役せんえき90ねんさいとして会津あいづまつりおこなわれるようになり、白虎隊びゃっこたいのパレードをられるようになった。

会津若松あいづわかまつ商工しょうこう観光かんこう部長ぶちょうであった宮崎みやざきじゅうさんはちが、会津若松あいづわかまつのスポークスマンとなってから観光かんこう歴史れきしのセッティングがはじまる。宮崎みやざき日本にっぽん敗戦はいせんにより皇国こうこく史観しかんくさりられたことで「それまで自分じぶんたちが(いたみ)にえつつ無実むじつうったえつづけてきたかべが、一夜いちやにしてはらわれた」[16]主張しゅちょうし、次々つぎつぎ会津あいづより作品さくひん発表はっぴょうはじめる。宮崎みやざき自身じしんは「幕末ばくまつだけでなく、上杉うえすぎ加藤かとう保科ほしなと、つるじょうをめぐるかく時代じだいの“時代じだいげき散歩さんぽ”をおいかけてゆきたい」[16]かたり、歴史れきしのロマンをかたる、すなわち「歴史れきし」としてのロマンと地域ちいき観光かんこうふくむ「観光かんこう歴史れきし」をかたるようになる。
宮崎みやざきじゅうさんはちの「観光かんこう史学しがく」には、うつくしい郷土きょうど自然しぜん歴史れきしロマンをたずねる、この「歴史れきし散歩さんぽてき世界せかいかん特徴とくちょうとなっていたが、それは当時とうじ観光かんこう都市とし政策せいさく合致がっちしたものであった。その一方いっぽうでは、戊辰戦争ぼしんせんそう近代きんだい戦争せんそうにおける戦死せんししゃ非業ひごうやその不条理ふじょうりともはなれた「死者ししゃ不在ふざい」の、そして敗戦はいせんまえにはつよもとめられていた国家こっかとのかかわりのない、つまり「ネイション不在ふざい」の側面そくめんわせっていた。

歴史れきし小説しょうせつ報道ほうどう影響えいきょう

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しかし、順調じゅんちょうえた宮崎みやざきの「観光かんこう史学しがく」の展開てんかいは、つちのえたつ100ねんさいむかえる1967ねん契機けいきに、歴史れきしてき和解わかいのためにはぎ青年せいねん会議かいぎしょからの和解わかい友好ゆうこう関係かんけい勧誘かんゆうけながらこれを会津若松あいづわかまつ青年せいねん会議かいぎしょ拒絶きょぜつするような事態じたい直面ちょくめんする。そのやく20ねんの「会津あいづ戊辰戦争ぼしんせんそう120ねんさい」にあたる1987ねん再度さいどはぎがわからの和解わかい申入もうしいれがおこなわれたさいには、会津若松あいづわかまつ市長しちょう応諾おうだく意図いとくつがえすほどの市民しみん反対はんたい意見いけん噴出ふんしゅつした。これは、つことに腐心ふしんした宮崎みやざき自身じしん当惑とうわくする事態じたいであった[17]

これらの長州ちょうしゅうはぎへの和解わかいへの拒絶きょぜつ反応はんのう背景はいけいには、宮崎みやざきりにしていた戊辰戦争ぼしんせんそうにおける会津あいづ長州ちょうしゅうたいする怨念おんねんがあった。すなわちその怨念おんねんとは、戊辰戦争ぼしんせんそうのち長州ちょうしゅうはんふく明治めいじしん政府せいふぐんつるじょうしたのこった2000にん以上いじょうのぼ会津あいづ藩士はんし商人しょうにん農民のうみん死体したい埋葬まいそうきんじ、放置ほうちされた藩士はんし女性じょせい子供こども死体したい腐敗ふはいして、がらすえさになったとされる逸話いつわや、戊辰戦争ぼしんせんそう山縣やまがた有朋ありとも長州ちょうしゅうばつによって会津あいづ人達ひとたち様々さまざま部分ぶぶん冷遇れいぐうされたことがその原因げんいんとされている。会津若松あいづわかまつ市民しみんなかには、賊軍ぞくぐんという理由りゆうだけで埋葬まいそうきんじた蛮行ばんこうについての謝罪しゃざい一切いっさいないことにたいして、いまゆるせないとかんがえるひともいる。

しかし、会津あいづはん戦死せんししゃたいする埋葬まいそう禁止きんしはなし根拠こんきょとされる「明治めいじつちのえたつ戦役せんえき殉難じゅんなんれい奉祀ほうし由来ゆらい」にしるされているかんいのちでは[18]彼我ひが戦死せんししゃ、つまり会津あいづがわしん政府せいふがわ双方そうほう戦死せんししゃたいする一切いっさい処置しょち禁止きんしする内容ないようとなっており、会津あいづはん死者ししゃ埋葬まいそうのみをきんじたものではなく、死体したいからの金品きんぴんりをふせぐための一時いちじてき処置しょちかんがえられる[19]。また戊辰戦争ぼしんせんそう会津あいづ民政みんせいまかされ、遺体いたい埋葬まいそう担当たんとうした会津あいづ民政みんせいきょく長州ちょうしゅうはん関係かんけいしゃまったくいない[20]。このように長州ちょうしゅうたいする怨念おんねんには根拠こんきょ薄弱はくじゃくではないのかという意見いけんは、とう会津あいづ関係かんけいしゃなかからも提起ていきされている。そして、その原因げんいんとして、戦後せんご一時いちじてき忘却ぼうきゃくされていた戊辰戦争ぼしんせんそう当時とうじ怨念おんねんます源泉げんせんとなったという一連いちれん歴史れきし小説しょうせつ作品さくひん影響えいきょう指摘してきされている。

とりわけ、戦後せんごの《会津あいづかたり》を規定きていしたとされる司馬しばりょう太郎たろう作品さくひんが、きゅう長州ちょうしゅうはんはぎ)との和解わかいをしづらくしたという意見いけんがあり、当初とうしょ宮崎みやざき歴史れきし散歩さんぽてき世界せかいかん」に特徴付とくちょうづけられていた怨念おんねん源流げんりゅう忘却ぼうきゃくをむしろ前提ぜんていとして、司馬しばりょう太郎たろう早乙女さおとめみつぐつなふちけんじょう中村なかむら彰彦あきひこらの《会津あいづもの》小説しょうせつあらたな怨念おんねん源泉げんせん提供ていきょうしたとされる[21]。マスメディアはこれらの小説しょうせつ事実じじつのように紹介しょうかいしたために、会津あいづがわ住民じゅうみん一方いっぽうてき遺恨いこんをもたらすこととなった[22]。また、宮崎みやざきじゅうさんはち自身じしんもこの「怨念おんねん史観しかん」を肯定こうていてきめざるをなかった。こうして、宮崎みやざき提唱ていしょうした「観光かんこう史学しがく」は「歴史れきし散歩さんぽ」と「怨念おんねん史観しかん」という矛盾むじゅんした2側面そくめんつようになり、それがかれ自身じしん苦悶くもんすえに「観光かんこう史学しがく」の否定ひていてき脱却だっきゃくによる、郷土きょうど会津あいづの「古寺ふるでら巡行じゅんこう」へと変容へんようさせたという[23]

宮崎みやざき観光かんこう史学しがく」のその

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しかし、現在げんざい会津若松あいづわかまつ観光かんこう都市とし政策せいさくが、和解わかいへの問題もんだいとされる「怨念おんねん史観しかん」からはなれ、当初とうしょ宮崎みやざきもとめた「歴史れきし散歩さんぽ」の観光かんこう史学しがく回帰かいきしていると指摘してきされる一方いっぽうで、死者ししゃへの忘却ぼうきゃくではなく真摯しんしこういをもとめたこの宮崎みやざき晩年ばんねん方向ほうこうせいは、宮崎みやざき辿たどいた二人称ににんしょうたる戦死せんししゃへのいをつうじてみずからの共同きょうどう意識いしきつ — 一人称いちにんしょう複数ふくすう共同きょうどうたい構築こうちくへのおもいががれずに放棄ほうきされていると指摘してきされている[24]

会津あいづ以外いがいへの拡大かくだい

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明治維新めいじいしん150ねん

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2011ねん東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい福島ふくしまだいいち原発げんぱつ事故じこ発生はっせいし「東北とうほくろん」が流行りゅうこう明治維新めいじいしん近代きんだい東北とうほく矛盾むじゅん注目ちゅうもくされるながれがしょうじた[25]

さらに2012ねん長州ちょうしゅう出身しゅっしん安倍晋三あべしんぞうによるだい安倍あべ政権せいけん成立せいりつし、明治維新めいじいしん150周年しゅうねんせまなか遺恨いこんさい注目ちゅうもくされた[26][27]。なお安倍あべだいいち安倍あべ政権せいけん時代じだい会津あいづ謝罪しゃざいおとずれたこともある[28]森友もりとも学園がくえん問題もんだいでは、渦中かちゅうひととなった佐川さがわせん寿ことぶきもと国税庁こくぜいちょう長官ちょうかんいわき出身しゅっしんだったことから戊辰戦争ぼしんせんそう再来さいらいであるともしょうされた[29]

2013ねんNHK大河たいがドラマ八重やえさくら』が放送ほうそうされた。このドラマでは戊辰戦争ぼしんせんそう会津あいづがわからえがかれており長州ちょうしゅう悪役あくやくである[30]

埋葬まいそう禁止きんしせつ否定ひてい研究けんきゅうなどもあったが、埋葬まいそう禁止きんしせつてから50ねんあいだ遺恨いこん定着ていちゃくしており、維新いしん150ねんても解消かいしょうにはいたっていない[31]。むしろ150周年しゅうねんには美化びかうごきを警戒けいかいしてか近代きんだい見直みなおしのうごきがつよまり、会津あいづまらず近代きんだい日本にっぽん自体じたいにおいてはん薩長さっちょう史観しかんがブームになった[32][33][34]

相対そうたいてき薩摩さつまのイメージ向上こうじょう

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また相対そうたいてき薩摩さつまのイメージ向上こうじょうきた。先祖せんぞ庄内しょうないはん会津あいづ藩士はんしがいる内田うちだいつきは、埋葬まいそう禁止きんしせつ前提ぜんていとして「庄内しょうないじんたちは西郷さいごう隆盛たかもり大好だいすきです。庄内しょうないはん戊辰戦争ぼしんせんそう最後さいごまで官軍かんぐん抵抗ていこうして、力戦りきせんしました。そして、西郷さいごうひきいる薩摩さつまへいまえ降伏ごうぶくした。けれども、西郷さいごう敗軍はいぐんひとたちを非常ひじょう丁重ていちょうあつかった。死者ししゃとむらい、経済けいざいてき支援しえんをした。一方いっぽう長州ちょうしゅうはん屈服くっぷくした会津あいづはんではまった事情じじょうちがいます。長州ちょうしゅうへいはところが、会津あいづ敗軍はいぐん人々ひとびと供養くようしなかった。事実じじつ死者ししゃ埋葬まいそうさえゆるさず、ながあいだ、さらしものにしていた。」とべている[35]。また賞罰しょうばつてき原発げんぱつ立地りっちせつとなえ、鹿児島かごしま川内かわうち原子力げんしりょく発電はつでんしょがあるのも西南せいなん戦争せんそうさからったためであるという独自どくじせつとなえている[36]

2018ねんにはNHK大河たいがドラマ『西郷さいごうどん』が放送ほうそうされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 新潟にいがたけんひゃくねん民衆みんしゅうだい1へん 越佐こつさだい1しょう 戊辰戦争ぼしんせんそう民衆みんしゅう 溝口みぞぐちさとし麿まろ
  2. ^ a b 参考さんこう文献ぶんけんの1、173ぺーじ
  3. ^ 会津あいづという神話しんわ―“ふたつの戦後せんご”をめぐる“死者ししゃ政治せいじがく p42-48,田中たなか さとる
  4. ^ 参考さんこう文献ぶんけんの6、56ぺーじ
  5. ^ 参考さんこう文献ぶんけんの2、174-188ぺーじ参考さんこう文献ぶんけんの7、162-163ぺーじ
  6. ^ 参考さんこう文献ぶんけんの7、163-164ぺーじ
  7. ^ 参考さんこう文献ぶんけんの7、146-148ぺーじ、165ぺーじ
  8. ^ 田中たなかは「近代きんだいにおいて戦死せんししゃえんられた《会津あいづ》なる枠組わくぐみに沿ってアイデンティティを見出みいだそうとするこころ自体じたい意義いぎ」をうことがこの問題もんだい解決かいけつではなく、一人称いちにんしょう共同きょうどうたい自分じぶんたちの社会しゃかい)が3人称にんしょう他者たしゃ(なかんづく3人称にんしょう死者ししゃ)にたいしてひらかれないこと警鐘けいしょうらしている(参考さんこう文献ぶんけんの6、75ぺーじ)。
  9. ^ 杉村すぎむら楚人冠そじんかん会津あいづたび だいかい東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん、1926ねん大正たいしょう15ねん)5がつ18にち後述こうじゅつとおり、当時とうじ「ムッソリーニが白虎隊びゃっこたい記念きねんおくることを希望きぼうしている」という報道ほうどうがなされていた。
  10. ^ 鉄筆てっぴつ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん、1926ねん大正たいしょう15ねん)5がつ28にち
  11. ^ だい大戦たいせんちゅうにはそこからおおくの兵士へいしおくされおおくの戦死せんししゃた(参考さんこう文献ぶんけんの1、63ぺーじ宮崎みやざき)。
  12. ^ 実際じっさいにはムッソリーニと親交しんこうのあった下位かい春吉はるきちが「感激かんげきして記念きねんおくることを希望きぼうしている」というはなし創作そうさくして当時とうじ若松わかまつ市長しちょうつたえたことが発端ほったんであったが、新聞しんぶん報道ほうどうつうじて著名ちょめいじん賛助さんじょあつまり記念きねんてざるをなくなったため、外務省がいむしょうがムッソリーニに打診だしんしておくられたという経緯けいいであった(福家ふけたかしよう日本にっぽんファシズム論争ろんそう 大戦たいせん前夜ぜんや思想家しそうかたち』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん、46‐52ぺーじ)。
  13. ^ パイロットのマルガ・フォン・エッツドルフのいとこにたる。
  14. ^ 中村なかむら彰彦あきひこ保科ほしな正之まさゆき徳川とくがわ将軍家しょうぐんけささえた会津あいづ藩主はんしゅ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1995ねんISBN 978-4121012272
  15. ^ 参考さんこう文献ぶんけんの8、53ぺーじ、(田中たなか さとる)。
  16. ^ a b 宮崎みやざきじゅうさんはちわたし城下町じょうかまち 会津若松あいづわかまつ国書刊行会こくしょかんこうかい、1985ねん、ASIN: B000J6V8EC
  17. ^ はぎとの姉妹しまい都市とし問題もんだい」(参考さんこう文献ぶんけんの1、77-78ぺーじ)。
  18. ^ ときかんいのち彼我ひが戦死せんししゃ一切いっさいたいシテなんとう処置しょちためカラズ……」「明治めいじつちのえたつ殉難じゅんなんしゃれい奉祀ほうし由来ゆらい」の碑文ひぶん参考さんこう文献ぶんけんの12、77ぺーじ)。
  19. ^ 西にしぐんがわ戦死せんししゃ埋葬まいそう明治めいじ元年がんねん10がつ大垣おおがきはん開始かいし参考さんこう文献ぶんけんの12、77ぺーじ)、会津あいづぐんがわ戦死せんししゃ明治めいじ2ねん2がつ14にち許可きょか黙認もくにんとも)をけた(参考さんこう文献ぶんけんの3、38ぺーじ)。
  20. ^ はた敬之助けいのすけは『会津若松あいづわかまつ5』の「……民政みんせいきょく時代じだいは、…わずかはち箇月かげつ期間きかんだった。占領せんりょうぐん民政みんせいきょく)は加賀かが松代まつだい越前えちぜん高田たかだしょはんからなり、軍政ぐんせい事務じむおこなった」との記述きじゅつから、このけんかんして長州ちょうしゅうはん直接ちょくせつかかわりには否定ひていてきであり、当時とうじ太政官だじょうかん軍務ぐんむかん10めいちゅう2めい長州ちょうしゅう藩士はんし大村おおむら益次郎えきじろう桜井さくらいまことたいら)である)による命令めいれい可能かのうせい言及げんきゅうしているが(参考さんこう文献ぶんけんの3、40ぺーじ)、そのような軍令ぐんれいすこと自体じたいにも懐疑かいぎてきである(参考さんこう文献ぶんけんの3、177ぺーじ)。
  21. ^ 司馬しばりょう太郎たろう王城おうじょう護衛ごえいしゃ』にたいする早川はやかわ廣中ひろなかだい29だい会津若松あいづわかまつ市長しちょう)のコメント(参考さんこう文献ぶんけんの7、154ぺーじ)。
  22. ^ また、テレビ放送ほうそうでは、日本にほんテレビ歳末さいまつ時代じだいげきドラマ「白虎隊びゃっこたい」(1986ねん)が話題わだいとなり、翌年よくねん会津あいづ観光かんこうきゃくは30パーセントぞうという数字すうじしたが、会津あいづ雪冤せつえんのために孝明天皇こうめいてんのう宸翰しんかん西郷さいごうよりゆきははづるじょう函館はこだておもむくというすじなどについて、あまりの反響はんきょうおおきさに宮崎みやざき史実しじつではなく作者さくしゃ創作そうさくであると弁明べんめいつとめるほどであった(参考さんこう文献ぶんけんの2、171-172ぺーじ牧野まきの のぼる)。
  23. ^ 宮崎みやざきじゅうさんはちの《巡礼じゅんれい》が意味いみするもの」、参考さんこう文献ぶんけんの8、71-72ぺーじ
  24. ^ 会津あいづ観光かんこうしん展開てんかい会津あいづげん地点ちてん」、参考さんこう文献ぶんけんの8、73-74ぺーじ
  25. ^ 対談たいだん 東北とうほくだからこそ、グローバリズムによらない復興ふっこうを|世間せけん法談ほうだん -エンサイクロメディア空海くうかい-
  26. ^ 安倍あべ首相しゅしょう施政しせい方針ほうしん演説えんぜつに「白虎隊びゃっこたい」の違和感いわかん 明治維新めいじいしんを「1おくそう活躍かつやく社会しゃかい」にむすびつけるな | リーダーシップ・教養きょうよう資格しかく・スキル | 東洋とうよう経済けいざいオンライン
  27. ^ 会津あいづ明治維新めいじいしんより「つちのえたつ150ねん」 長州ちょうしゅうになお遺恨いこん? - 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん
  28. ^ 明治維新めいじいしんぜん否定ひてい」の歴史れきしほん 会津あいづ地方ちほうだいベストセラーに|NEWSポストセブン - Part 2
  29. ^ 安倍あべvs佐川さがわは"150ねんぶりの戊辰戦争ぼしんせんそう"だ 森友もりとも疑惑ぎわく政治せいじてき対立たいりつ際立きわだたせた | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
  30. ^ 八重やえさくら』の長州ちょうしゅうはん描写びょうしゃ 山口やまぐち県民けんみんがたいの意見いけんおおし|NEWSポストセブン
  31. ^ いまだ会津あいづ渦巻うずまく「薩長さっちょうにくし」のおもい 一方いっぽう雪解ゆきどけのきざしも? | AERA dot. (アエラドット)
  32. ^ なぜいま、はん薩長さっちょう史観しかんほんがブームなのか 150ねんに「明治維新めいじいしん」の見直みなおしがはじまった | リーダーシップ・教養きょうよう資格しかく・スキル | 東洋とうよう経済けいざいオンライン
  33. ^ 明治維新めいじいしんぜん否定ひてい」の歴史れきしほん 会津あいづ地方ちほうだいベストセラーに|NEWSポストセブン
  34. ^ 維新いしんさい検証けんしょうから日本にっぽんすえかんがえる 『明治維新めいじいしんとはなにだったのか』|じんぶんどう
  35. ^ 比較ひかく敗戦はいせんろんのために - 内田うちだいつき研究けんきゅうしつ
  36. ^ 東北とうほくろん - 内田うちだいつき研究けんきゅうしつ

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 宮崎みやざきじゅうさんはち会津あいづじん戊辰戦争ぼしんせんそう恒文社こうぶんしゃ、1993ねん。 
  • 牧野まきののぼる会津あいづじんけなかった会津あいづ戦争せんそう-会津あいづへの手紙てがみ歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ、1997ねん
  • はた敬之助けいのすけつちのえたつ怨念おんねん深層しんそう - はぎ会津あいづほこたか握手あくしゅを』歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ歴史れきしふくしま文庫ぶんこ63〉、2002ねんISBN 4-89757-634-2
  • 高山たかやまはじめひがし『いま東北とうほく歴史れきしかんがえる』ISBN 978-4862860521
  • 会津若松あいづわかまつ出版しゅっぱん委員いいんかいへん)『会津若松あいづわかまつ だい7かん 近代きんだい だい2』会津若松あいづわかまつ、1967ねん
  • 田中たなかさとる, 「死者ししゃ政治せいじがく近代きんだい会津あいづ戦死せんししゃとアイデンティティ神戸大学こうべだいがく 学位がくい論文ろんぶん、2008ねん, かぶとだい4158ごう, NAID 500000444387
  • 田中たなかさとる会津あいづという神話しんわ―〈ふたつの戦後せんご〉をめぐる〈死者ししゃ政治せいじがく〉』 ミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈MINERVA人文じんぶん社会しゃかい科学かがく叢書そうしょ〉、2010ねん ISBN 978-4623056361- うえ博士はかせ論文ろんぶんもとにした一般いっぱんしょ
  • 田中たなかさとる戦後せんご会津あいづにおける「観光かんこう史学しがく」の軌跡きせき」『国際こくさい協力きょうりょく論集ろんしゅうだい17かんだい1ごう神戸大学こうべだいがく大学院だいがくいん国際こくさい協力きょうりょく研究けんきゅう、2009ねん7がつ、51-78ぺーじdoi:10.24546/81001449ISSN 09198636NAID 110007145162 
  • 田中たなかさとる近代きんだい会津あいづアイデンティティの系譜けいふ」『国際こくさい協力きょうりょく論集ろんしゅうだい14かんだい2ごう神戸大学こうべだいがく大学院だいがくいん国際こくさい協力きょうりょく研究けんきゅう、2006ねん11月、145-171[含 英語えいごぶん要旨ようし]、doi:10.24546/00518337ISSN 09198636NAID 110006196560 
  • 白川しらかわ哲夫てつお書評しょひょう 田中たなかさとるちょ会津あいづという神話しんわ--〈ふたつの戦後せんご〉をめぐる〈死者ししゃ政治せいじがく〉』」『りんだい94かんだい4ごう史学しがく研究けんきゅうかい (京都きょうと大学だいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅうない)、2011ねん7がつ、656-661ぺーじdoi:10.14989/shirin_94_656ISSN 03869369NAID 120006598611 
  • 須賀すか忠芳ただよし書評しょひょう 田中たなかさとるちょ会津あいづという神話しんわ--〈ふたつの戦後せんご〉をめぐる〈死者ししゃ政治せいじがく〉』」『ふみさかいだい62ごう歴史れきし人類じんるい学会がっかい、2011ねん3がつ、91-100ぺーじISSN 02850826NAID 40018818231 
  • 今井いまい昭彦あきひこ<研究けんきゅうノート>会津あいづ少年しょうねん白虎隊びゃっこたい殉難じゅんなんとその埋葬まいそう」『常民じょうみん文化ぶんかだい24ごう成城大学せいじょうだいがく、2001ねん3がつ、74-84ぺーじISSN 03888908NAID 110000382645 

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