歴史 れきし
兵庫 ひょうご 開港 かいこう
1879年 ねん の地図 ちず (兵 へい 神 しん 市街 しがい の図 ず ) この年 とし に神戸 こうべ 区 く (兵庫 ひょうご 津 つ +坂本 さかもと 村 むら +神戸 こうべ 町 まち )が発足 ほっそく したが、まだ神戸 こうべ 港 こう の範囲 はんい (~1892年 ねん )と雑居 ざっきょ 地 ち の範囲 はんい (~1899年 ねん )は宇治川 うじがわ - 旧 きゅう 生田川 いけだがわ 間 あいだ だった。
1858年 ねん 7月 がつ 29日 にち (安政 あんせい 5年 ねん 6月19日 にち )、江戸 えど 幕府 ばくふ はアメリカ との間 あいだ に日米 にちべい 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく を締結 ていけつ した。江戸 えど 幕府 ばくふ は同 どう 条約 じょうやく 第 だい 6条 じょう において日本 にっぽん におけるアメリカの領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん を認 みと め、第 だい 3条 じょう において1863年 ねん 1月 がつ 1日 にち (文久 ぶんきゅう 2年 ねん 11月12日 にち )に兵庫 ひょうご (兵庫 ひょうご 津 つ 。かつての大輪田 おおわだ 泊 はく )を条約 じょうやく 港 みなと として開港 かいこう し、外国 がいこく 人 じん の居住 きょじゅう ・経済 けいざい 活動 かつどう のために貸与 たいよ する一定 いってい の地域 ちいき (外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち )を設 もう けることを約 やく した。江戸 えど 幕府 ばくふ は間 ま もなくオランダ ・ロシア ・イギリス ・フランス とも同様 どうよう の内容 ないよう の条約 じょうやく (安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく )を締結 ていけつ した[7] が、これらの条約 じょうやく に関 かん する勅許 ちょっきょ が得 え られず、諸 しょ 外国 がいこく と交渉 こうしょう を行 おこな った結果 けっか 、兵庫 ひょうご 開港 かいこう の期日 きじつ を5年 ねん 遅 おく らせ、1868年 ねん 1月 がつ 1日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 12月7日 にち )とした[8] 。朝廷 ちょうてい 側 がわ は御所 ごしょ のある京都 きょうと に近 ちか い兵庫 ひょうご を開港 かいこう することに難色 なんしょく を示 しめ し[9] 、1865年 ねん 12月22日 にち (慶応 けいおう 元年 がんねん 11月5日 にち )に安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく についての勅許 ちょっきょ を与 あた えた後 のち も許 ゆる そうとせず[10] 、延期 えんき された開港 かいこう 予定 よてい 日 び を約 やく 半年 はんとし 後 ご に控 ひか えた1867年 ねん 6月26日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 5月24日 にち )になってようやく勅許 ちょっきょ が与 あた えられた[11] [12] [† 1] 。
江戸 えど 幕府 ばくふ は勅許 ちょっきょ を得 え る前 まえ から兵庫 ひょうご 開港 かいこう に向 む けた交渉 こうしょう を諸 しょ 外国 がいこく と行 おこな っており、1867年 ねん 5月16日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 4月 がつ 13日 にち )にイギリス・アメリカ・フランスとの間 あいだ に「兵庫 ひょうご 港 こう 並 なみ 大 だい 坂 ざか に於 おい て外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち を定 てい むる取 と 極 ごく 」(兵庫 ひょうご 大阪 おおさか 規定 きてい 書 しょ )を締結 ていけつ した[14] 。同 どう 取 と 極 ごく 第 だい 1条 じょう には「日本 にっぽん 政府 せいふ において条約 じょうやく 済 ずみ の各国 かっこく 人 じん 兵庫 ひょうご に居留 きょりゅう 地 ち を神戸 こうべ 町 まち (神戸 こうべ 村 むら )と生田川 いけだがわ との間 あいだ に取極 とりき め…」と規定 きてい され[1] [15] 、兵庫 ひょうご 津 つ の約 やく 3.5km 東 ひがし に位置 いち する神戸 こうべ 村 むら に居留 きょりゅう 地 ち が設 もう けられることになった[1] 。そしてそれに伴 ともな い、神戸 こうべ 村 むら の海岸 かいがん に建設 けんせつ される新 あら たな港 みなと が外国 がいこく に開放 かいほう されることになった(新 あら たな港 みなと は1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )に勅 みことのり 令 れい により神戸 こうべ 港 こう と名付 なづ けられた[16] )[1] 。
「兵庫 ひょうご 開港 かいこう 」において、兵庫 ひょうご 津 つ ではなく後 のち の神戸 こうべ 港 こう が開放 かいほう されることになった理由 りゆう ・経緯 けいい を示 しめ す資料 しりょう は存在 そんざい しない[1] が、複数 ふくすう の推測 すいそく がなされている。楠本 くすもと 利夫 としお 『増補 ぞうほ 国際 こくさい 都市 とし 神戸 こうべ の系譜 けいふ 』は、江戸 えど 幕府 ばくふ 側 がわ が外国 がいこく 人 じん を敬遠 けいえん する住民 じゅうみん 感情 かんじょう [† 2] を考慮 こうりょ し、衝突 しょうとつ が起 お こらないようにとの配慮 はいりょ から、すでに港 みなと として栄 さか え(兵庫 ひょうご 津 つ は当時 とうじ 大坂 おおさか の外港 がいこう として機能 きのう し、取引 とりひき の盛 さか んな港 みなと であった)往来 おうらい の激 はげ しい兵庫 ひょうご 津 つ の開放 かいほう を避 さ けたと推測 すいそく している[18] [† 3] 。また、『新 しん 修 おさむ 神戸 こうべ 市 し 史 し 歴史 れきし 編 へん 3 』および『増補 ぞうほ 国際 こくさい 都市 とし 神戸 こうべ の系譜 けいふ 』は、人口 じんこう の多 おお い兵庫 ひょうご 津 つ 周辺 しゅうへん よりも神戸 こうべ 村 むら のほうが用地 ようち の確保 かくほ が容易 ようい であり[† 4] 、1865年 ねん (元治 もとはる 2年 ねん )に閉鎖 へいさ された神戸 こうべ 海軍 かいぐん 操 みさお 練 ねり 所 しょ の施設 しせつ を活用 かつよう できたためと推測 すいそく している[1] 。さらに『増補 ぞうほ 国際 こくさい 都市 とし 神戸 こうべ の系譜 けいふ 』は、1865年 ねん 11月(慶応 けいおう 元年 がんねん 9月 がつ /10月 がつ )に兵庫 ひょうご 津 つ 付近 ふきん の海域 かいいき を測量 そくりょう したイギリス公使 こうし ハリー・パークス の随行 ずいこう 員 いん が「兵庫 ひょうご の旧 きゅう 市内 しない からやや離 はな れたところにある」居留 きょりゅう 地 ち の予定 よてい 地 ち について「十分 じゅうぶん な水深 すいしん もあり、天然 てんねん の優 すぐ れた投錨 とうびょう 地 ち となっている小 ちい さな湾 わん に面 めん している」と評価 ひょうか した記録 きろく を残 のこ していることを取 と り上 あ げ、「兵庫 ひょうご の旧 きゅう 市内 しない からやや離 はな れたところにある予定 よてい 地 ち 」とは神戸 こうべ 村 むら を指 さ しており、外国 がいこく 側 がわ も兵庫 ひょうご 津 つ より神戸 こうべ 村 むら のほうが開港 かいこう 場 じょう に適 てき しているという認識 にんしき を持 も っていたと推測 すいそく している[21] 。なお、神戸 こうべ 港 こう の港 みなと 域 いき は1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )に拡大 かくだい され、兵庫 ひょうご 津 つ を含 ふく むようになった[22] [23] 。
居留 きょりゅう 地 ち の具体 ぐたい 的 てき な設置 せっち 場所 ばしょ は神戸 こうべ 村 むら 内 ない の、東 ひがし は(旧 きゅう )生田川 いけだがわ (後 ご のフラワーロード )、西 にし は鯉川 こいかわ (後 ご の鯉 こい 川筋 かわすじ )、南 みなみ は海 うみ と、三方 さんぽう を川 かわ と海 うみ で囲 かこ まれた(北 きた は西国 さいごく 街道 かいどう [† 5] (後 ご の花 はな 時計 とけい 線 せん )に接 せっ していた)[2] [27] 、広 ひろ さ約 やく 7万 まん 8,000坪 つぼ [3] (約 やく 258,000平方 へいほう メートル )の土地 とち に決 き まった。『新 あたらし 修 おさむ 神戸 こうべ 市 し 史 し 』はこの選定 せんてい について、「外国 がいこく 人 じん と日本人 にっぽんじん との接触 せっしょく を極力 きょくりょく 回避 かいひ しようとした幕府 ばくふ の配慮 はいりょ がうかがえる」としている[28] 。
居留 きょりゅう 地 ち の造成 ぞうせい と運営 うんえい
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち の地図 ちず (計画 けいかく 図 ず 。1870年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん /3年 ねん )作成 さくせい )
江戸 えど 幕府 ばくふ は柴田 しばた 剛 つよし 中 なか を兵庫 ひょうご 奉行 ぶぎょう に任命 にんめい して居留 きょりゅう 地 ち と港 みなと の造成 ぞうせい にあたらせた。柴田 しばた は神戸 こうべ 村 むら に着任 ちゃくにん すると直 ただ ちに造成 ぞうせい の指揮 しき を執 と ったが、開港 かいこう 日 び である1868年 ねん 1月 がつ 1日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 12月7日 にち )までに完成 かんせい したのは運上 うんじょう 所 しょ (税関 ぜいかん )の施設 しせつ と3か所 しょ の埠頭 ふとう 、3棟 むね の倉庫 そうこ のみであった[29] [30] 。この時期 じき は江戸 えど 幕府 ばくふ から明治 めいじ 政府 せいふ への政権 せいけん 移行 いこう 期 き に当 あ たり、1867年 ねん 11月9日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 10月14日 にち )には大政奉還 たいせいほうかん が行 おこな われた。
当初 とうしょ 、兵庫 ひょうご 開港 かいこう に関 かん する事務 じむ は引 ひ き続 つづ き江戸 えど 幕府 ばくふ が担当 たんとう することとされた[31] が、開港 かいこう から2日 にち 後 ご の1月 がつ 3日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 12月9日 にち )に王政 おうせい 復古 ふっこ の大 だい 号令 ごうれい が発令 はつれい され、同月 どうげつ 27日 にち (慶応 けいおう 4年 ねん 1月 がつ 3日 にち )に起 お こった鳥羽 とば ・伏見 ふしみ の戦 たたか い で江戸 えど 幕府 ばくふ 軍 ぐん が敗 やぶ れ徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ が大阪城 おおさかじょう から江戸 えど へ退却 たいきゃく すると柴田 しばた 剛 つよし 中 ちゅう も江戸 えど へ引 ひ き上 あ げ、工事 こうじ は中断 ちゅうだん を余儀 よぎ なくされた[32] [33] 。残 のこ る工事 こうじ は明治 めいじ 政府 せいふ の下 した で行 おこな われた[34] [35] 。
外国 がいこく 人 じん による土地 とち 所有 しょゆう を認 みと めない方針 ほうしん を採 と る明治 めいじ 政府 せいふ は、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の土地 とち を永代 ながよ 借地 しゃくち (無 む 期限 きげん の借地 しゃくち 。事実 じじつ 上 じょう の所有 しょゆう )として外国 がいこく 人 じん に貸与 たいよ することとし[36] 、被 ひ 貸与 たいよ 者 しゃ は競売 きょうばい [† 6] によって決定 けってい された[39] [42] 。永代 えいたい 借地 しゃくち 権 けん は居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご も、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )まで存続 そんぞく した(後述 こうじゅつ )。競売 きょうばい 代金 だいきん の約 やく 半分 はんぶん は政府 せいふ 側 がわ が収納 しゅうのう し、残 のこ りは自治 じち 行政 ぎょうせい を行 おこな うための最高 さいこう 議決 ぎけつ 機関 きかん [43] として政府 せいふ が認 みと めた居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ の運営 うんえい 費 ひ として積 つ み立 た てられた[42] 。居留 きょりゅう 地 ち 住民 じゅうみん による自治 じち 行政 ぎょうせい は居留 きょりゅう 地 ち が廃止 はいし されるまで続 つづ いた[44] 。約 やく 30年 ねん にわたり居留 きょりゅう 地 ち は円滑 えんかつ に運営 うんえい され、日本 にっぽん 側 がわ と外国 がいこく 側 がわ との関係 かんけい も概 おおむ ね良好 りょうこう であったと評価 ひょうか されている[5] 。ただし日本人 にっぽんじん は居留 きょりゅう 地 ち 内 ない での居住 きょじゅう が禁止 きんし され[45] 、立 た ち入 い りも制限 せいげん された[46] 。
なお居留 きょりゅう 地 ち 造成 ぞうせい の遅 おく れを受 う け、明治 めいじ 政府 せいふ は区域 くいき を東 ひがし は(旧 きゅう )生田川 いけだがわ 、西 にし は宇治川 うじがわ 、南 みなみ は居留 きょりゅう 地 ち 南 みなみ の海岸 かいがん 、北 きた は山辺 やまべ (山麓 さんろく )と限定 げんてい した上 うえ で、外国 がいこく 人 じん が居留 きょりゅう 地 ち 外 がい に居住 きょじゅう することを認 みと めた[47] [48] 。この区域 くいき を雑居 ざっきょ 地 ち といい、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん まで存続 そんぞく した[49] (詳細 しょうさい については後述 こうじゅつ )。
居留 きょりゅう 地 ち および周辺 しゅうへん の発展 はってん
自然 しぜん 海岸 かいがん に近 ちか かった神戸 こうべ 村 むら の海岸 かいがん に新 あたら しい港 みなと の建設 けんせつ が進 すす められた[50] [51] 。1868年 ねん 4月 がつ から7月 がつ (明治 めいじ 元年 がんねん 4月 がつ から5月 がつ )にかけて(旧 きゅう )生田川 いけだがわ ・宇治川 うじがわ 間 あいだ の海岸 かいがん に改 あらた めて4つの埠頭 ふとう が建設 けんせつ され[52] 、さらに1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )に防 ぼう 波 は 護岸 ごがん ・埠頭 ふとう 拡張 かくちょう の工事 こうじ が行 おこな われた[50] 。また、1871年 ねん 4月 がつ 29日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 3月 がつ 10日 とおか )から同年 どうねん 7月 がつ 26日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 6月9日 にち )にかけて行 おこな われた(旧 きゅう )生田川 いけだがわ の付 つ け替 か え工事 こうじ (後述 こうじゅつ )は、居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん の水害 すいがい を防 ふせ ぐだけでなく、港 みなと の中心 ちゅうしん 部 ぶ への土砂 どしゃ の流入 りゅうにゅう を防 ふせ ぐ効果 こうか ももたらした。後 のち に「天然 てんねん の良港 りょうこう 」と呼 よ ばれる神戸 こうべ 港 こう の基盤 きばん はこうして整 ととの えられていった[53] 。
開港 かいこう 後 ご 、居留 きょりゅう 地 ち は合理 ごうり 的 てき な都市 とし 計画 けいかく の下 した で整備 せいび され[4] 、道路 どうろ や溝渠 こうきょ の工事 こうじ が終 お わり南北 なんぼく 8本 ほん ・東西 とうざい 5本 ほん の街路 がいろ からなる碁盤 ごばん の目 め 状 じょう の区画 くかく が完成 かんせい したのは1872年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん /5年 ねん )頃 ごろ のことである[54] 。土地 とち の競売 きょうばい も1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )2月 がつ 7日 にち までに終 お わった[37] [38] 。居留 きょりゅう 地 ち の都市 とし 計画 けいかく は、「神戸 こうべ は東洋 とうよう における居留 きょりゅう 地 ち としてもっともよく設計 せっけい されている」と評 ひょう された(1871年 ねん 4月 がつ 17日 にち 付 づけ の英字 えいじ 新聞 しんぶん 「The Far East」)[4] 。一方 いっぽう 、周辺 しゅうへん 地域 ちいき は必 かなら ずしも計画 けいかく 的 てき に開発 かいはつ されたわけではなかった。居留 きょりゅう 地 ち の東北 とうほく には外国 がいこく 人 じん が経営 けいえい する工場 こうじょう が、西 にし には会社 かいしゃ や銀行 ぎんこう が開設 かいせつ され、北西 ほくせい には清国 きよくに 人 じん 街 がい が形成 けいせい されるといった具合 ぐあい にある程度 ていど 傾向 けいこう を帯 お びながらも、居留 きょりゅう 地 ち の発展 はってん とともに周辺 しゅうへん 地域 ちいき の人口 じんこう が増加 ぞうか し、雑然 ざつぜん と市街地 しがいち が形成 けいせい されていった[52] 。
開港 かいこう 当時 とうじ 、神戸 こうべ 村 むら の人口 じんこう は約 やく 3600人 にん であったが、周辺 しゅうへん の村 むら との合併 がっぺい を経 へ て1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )に神戸 こうべ 市 し が誕生 たんじょう した際 さい には約 やく 13万 まん 4700人 にん にまで増加 ぞうか した[55] 。1890年代 ねんだい 初 はじ めには市街地 しがいち が兵庫 ひょうご 津 つ 周辺 しゅうへん と一 いち 続 つづ きとなった[56] 。なお居留 きょりゅう 外国 がいこく 人数 にんずう は1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )の時点 じてん で400人 にん 余 あま り(イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・清 きよし の5か国 こく )であったが、1890年 ねん には2,000人 にん を超 こ えていた(#居留 きょりゅう 外国 がいこく 人数 にんずう を参照 さんしょう )。
返還 へんかん
明治 めいじ 末 まつ 頃 ころ
明治 めいじ 政府 せいふ は、江戸 えど 幕府 ばくふ が締結 ていけつ した安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく の改正 かいせい を目指 めざ す中 なか で欧化 おうか 主義 しゅぎ 政策 せいさく を採 と った。その一環 いっかん として東京 とうきょう の鹿 しか 鳴 な 館 かん では舞踏 ぶとう 会 かい が盛 さか んに催 もよお されたが、神戸 こうべ でも盛 さか んに開催 かいさい された。そんな中 なか 、1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )には「神戸 こうべ 未曾有 みぞう の大 だい 夜会 やかい 」と称 しょう し、大阪 おおさか 府 ふ と兵庫 ひょうご 県 けん の知事 ちじ 主催 しゅさい による舞踏 ぶとう 会 かい が神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC。後述 こうじゅつ )の体育館 たいいくかん で催 もよお された[57] [† 7] 。
1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )、明治 めいじ 政府 せいふ はイギリスとの間 あいだ に日 にち 英 えい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく を締結 ていけつ し、領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん の撤廃 てっぱい と外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち の返還 へんかん を実現 じつげん した。政府 せいふ はその後 ご 同 おな じ内容 ないよう の条約 じょうやく をアメリカ、フランスなど14ヵ国 かこく と締結 ていけつ した。これら一連 いちれん の条約 じょうやく は1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )7月 がつ 17日 にち に発効 はっこう し、同日 どうじつ をもって神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち は日本 にっぽん 側 がわ に返還 へんかん された[59] [60] 。これにより居留 きょりゅう 地 ち は神戸 こうべ 市 し へ編入 へんにゅう され、外国 がいこく 人 じん に認 みと められていた行政 ぎょうせい 権 けん と財政 ざいせい 権 けん は解消 かいしょう し、日本人 にっぽんじん が自由 じゆう に立 た ち入 い り、居住 きょじゅう することが可能 かのう となった。居留 きょりゅう 地 ち 内 ない にあった警察 けいさつ 隊 たい (居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ によって組織 そしき )は廃止 はいし され、消防 しょうぼう 隊 たい (居留 きょりゅう 地 ち 住民 じゅうみん が自主 じしゅ 的 てき に組織 そしき )は消防 しょうぼう 組 ぐみ として神戸 こうべ 市 し へ移管 いかん された[61] 。返還 へんかん に際 さい して日本 にっぽん 側 がわ は、行事 ぎょうじ 局 きょく (後述 こうじゅつ )局長 きょくちょう を兵庫 ひょうご 県 けん および神戸 こうべ 市 し の嘱託 しょくたく 職員 しょくいん とし、行事 ぎょうじ 局 きょく のあった場所 ばしょ に市 し の派出所 はしゅつじょ を置 お く、治外法権 ちがいほうけん 撤廃 てっぱい に伴 ともな う紛争 ふんそう 防止 ぼうし のために外国 がいこく 人 じん が相談 そうだん 委員 いいん 会 かい (後 のち に神戸 こうべ 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい と改称 かいしょう )[† 8] を設置 せっち することを認 みと めるなど、外国 がいこく 人 じん に対 たい し一定 いってい の配慮 はいりょ をした[63] 。
なお、神戸 こうべ 港 こう が日本 にっぽん 有数 ゆうすう の国際 こくさい 貿易 ぼうえき 港 こう として飛躍 ひやく するきっかけになったと評価 ひょうか されている大 だい 規模 きぼ な修築 しゅうちく 事業 じぎょう (第 だい 一 いち 期 き 修築 しゅうちく 工事 こうじ )は、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご の1907年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )に決定 けってい し、翌 よく 1908年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )に起工 きこう した[64] 。
永代 ながよ 借地 しゃくち 権 けん を巡 めぐ る紛争 ふんそう
前述 ぜんじゅつ のように、外国 がいこく 人 じん による土地 とち 所有 しょゆう を認 みと めない方針 ほうしん をとる明治 めいじ 政府 せいふ は、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の土地 とち を永代 ながよ 借地 しゃくち (無 む 期限 きげん の借地 しゃくち 。事実 じじつ 上 じょう の所有 しょゆう )として外国 がいこく 人 じん に貸与 たいよ した[36] 。永代 えいたい 借地 しゃくち 権 けん は居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご も存続 そんぞく した[† 9] が、返還 へんかん 後 ご 日本 にっぽん 側 がわ は永代 えいたい 借地 しゃくち の上 うえ に建 た つ家屋 かおく に課税 かぜい する方針 ほうしん を打 う ち出 だ した[† 10] 。これに対 たい し外国 がいこく 側 がわ はすでに地 ち 税 ぜい が徴収 ちょうしゅう されているにもかかわらずさらに家屋 かおく への課税 かぜい を行 おこな うことは二 に 重 じゅう 課税 かぜい に当 あ たり不当 ふとう であると反発 はんぱつ し、1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )に日本 にっぽん 政府 せいふ が常設 じょうせつ 仲裁 ちゅうさい 裁判所 さいばんしょ に提訴 ていそ する事態 じたい に発展 はってん した。この提訴 ていそ は1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )に日本 にっぽん 側 がわ の申 もう し立 た てが棄却 ききゃく される結果 けっか に終 お わり、日本 にっぽん 側 がわ は永代 えいたい 借地 しゃくち 上 じょう の家屋 かおく には一切 いっさい の課税 かぜい ができないことになった[66] [67] [68] 。
税 ぜい の徴収 ちょうしゅう が不可能 ふかのう となった神戸 こうべ 市 し は1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )より永代 えいたい 借地 しゃくち 権 けん 撤廃 てっぱい に向 む けて行動 こうどう を開始 かいし し、1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )9月 がつ に同様 どうよう の問題 もんだい を抱 かか えていた横浜 よこはま 市 し 、長崎 ながさき 市 し とともに協議 きょうぎ 会 かい を発足 ほっそく させると、両市 りょうし と協力 きょうりょく して外国 がいこく 側 がわ との折衝 せっしょう を行 おこな った。その結果 けっか 1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )3月 がつ に、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )4月 がつ 1日 にち をもって永代 ながよ 借地 しゃくち 権 けん を消滅 しょうめつ させ土地 とち 所有 しょゆう 権 けん に切 き り替 か え、その代 か わり切 き り替 か え後 ご 5年間 ねんかん は地 ち 税 ぜい を免除 めんじょ することで合意 ごうい が成立 せいりつ した[69] [70] [71] 。
条約 じょうやく 上 じょう の居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん は1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )7月 がつ 17日 にち であるが、居留 きょりゅう 地 ち の完全 かんぜん な消滅 しょうめつ 、居留 きょりゅう 地 ち の歴史 れきし の終焉 しゅうえん は永代 えいたい 借地 しゃくち 権 けん が解消 かいしょう された1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )4月 がつ 1日 にち であるとされる[72] [73] 。
返還 へんかん 後 ご
返還 へんかん された居留 きょりゅう 地 ち (旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち )には大正 たいしょう から昭和 しょうわ 初期 しょき にかけて日本 にっぽん の商社 しょうしゃ や銀行 ぎんこう が多 おお く進出 しんしゅつ し、ビジネス街 がい として発展 はってん した[74] 。
一方 いっぽう 、外国 がいこく 商館 しょうかん は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を境 さかい に衰退 すいたい を見 み せた[74] [75] 。とりわけ大戦 たいせん において日本 にっぽん と敵対 てきたい したドイツ人 じん 所有 しょゆう の不動産 ふどうさん は強制 きょうせい 的 てき に日本人 にっぽんじん に売却 ばいきゃく され、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち においても日系 にっけい 商社 しょうしゃ がドイツ系 けい 商社 しょうしゃ にとって代 か わった[76] 。1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )の時点 じてん で、外国 がいこく 人 じん が永代 えいたい 借地 しゃくち する旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の区画 くかく は126区画 くかく 中 ちゅう 47区画 くかく にまで減少 げんしょう した[77] 。
旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち ・明石 あかし 町筋 まちすじ (2011年 ねん )
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き の1940年 ねん には、リトアニア 領事 りょうじ の杉原 すぎはら 千畝 ちうね などが発行 はっこう したビザ でヨーロッパから亡命 ぼうめい してきたユダヤ人 じん を、日本人 にっぽんじん や旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち に住 す む在日 ざいにち ユダヤ人 じん が保護 ほご したほか、アメリカ や中華民国 ちゅうかみんこく への亡命 ぼうめい を助 たす けた。
また1945年 ねん 6月 がつ に神戸大 こうべだい 空襲 くうしゅう によって7割 わり の区画 くかく が破壊 はかい されると、終戦 しゅうせん 後 ご も復興 ふっこう はなかなか進 すす まず[78] [79] 、加 くわ えて昭和 しょうわ 30年代 ねんだい に東京 とうきょう への本社 ほんしゃ 機能 きのう 移転 いてん や神戸 こうべ 市 し における都心 としん の東進 とうしん 化 か が生 しょう じたことで、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち の経済 けいざい 的 てき な位置付 いちづ けは低下 ていか した[79] 。
現在 げんざい
しかし昭和 しょうわ 50年代 ねんだい に入 はい り旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 内 ない に残 のこ された近代 きんだい 洋風 ようふう 建築 けんちく 物 ぶつ や歴史 れきし 的 てき 景観 けいかん が再 さい 評価 ひょうか されるようになると[† 11] 、そうした要素 ようそ を活用 かつよう した店舗 てんぽ が新 あら たに開設 かいせつ され[78] 、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち はビジネス街 がい とショッピング街 がい の機能 きのう を併 あわ せ持 も つ区域 くいき として活況 かっきょう を呈 てい するようになった[79] 。
自治 じち と治外法権 ちがいほうけん
38番地 ばんち にあった行事 ぎょうじ 局 きょく の建物 たてもの
明治 めいじ 政府 せいふ は1868年 ねん 8月 がつ 7日 にち (慶応 けいおう 4年 ねん 6月19日 にち )に成立 せいりつ した「大阪 おおさか 兵庫 ひょうご 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 約定 やくじょう 書 しょ 」において、外国 がいこく 人 じん に対 たい して居留 きょりゅう 地 ち における一定 いってい の行政 ぎょうせい 権 けん と財政 ざいせい 権 けん を認 みと めた。具体 ぐたい 的 てき には居留 きょりゅう 地 ち 内 ない のインフラ 整備 せいび ・治安 ちあん 維持 いじ を中心 ちゅうしん とする自治 じち 行政 ぎょうせい を行 おこな うための最高 さいこう 議決 ぎけつ 機関 きかん [43] として居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ を創設 そうせつ し、その運営 うんえい 費用 ひよう には居留 きょりゅう 地 ち の競売 きょうばい 代金 だいきん の一部 いちぶ と地 ち 税 ぜい ・警察 けいさつ 税 ぜい (地 ち 税 ぜい と警察 けいさつ 税 ぜい の徴収 ちょうしゅう は居留 きょりゅう 地 ち 側 がわ が行 おこな うことができた)を充 あ てることを認 みと めた。居留 きょりゅう 地 ち 住民 じゅうみん による自治 じち 行政 ぎょうせい は居留 きょりゅう 地 ち が廃止 はいし されるまで続 つづ いた(なお、長崎 ながさき や横浜 よこはま の居留 きょりゅう 地 ち にも当初 とうしょ は自治 じち 権 けん があったが、途中 とちゅう で放棄 ほうき されている)[44] [† 12] 。また、各国 かっこく 政府 せいふ は神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん に領事館 りょうじかん を開設 かいせつ し、自国 じこく の経済 けいざい 的 てき 利益 りえき と国民 こくみん を保護 ほご し領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん を行使 こうし する領事 りょうじ を置 お いた[82] 。
最高 さいこう 議決 ぎけつ 機関 きかん である居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ は、各国 かっこく の領事 りょうじ と兵庫 ひょうご 県 けん 知事 ちじ 、選挙 せんきょ によって選 えら ばれた居留 きょりゅう 地 ち の住民 じゅうみん 代表 だいひょう (行事 ぎょうじ )3名 めい によって構成 こうせい された。居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ 議長 ぎちょう は領事 りょうじ の代表 だいひょう が務 つと めることが多 おお かった[83] 。居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ の会議 かいぎ は英語 えいご で行 おこな われ、議事 ぎじ 録 ろく は新聞 しんぶん で公表 こうひょう された[84] 。居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ の執行 しっこう 機関 きかん として行事 ぎょうじ 局 きょく が設置 せっち された[85] 。行事 ぎょうじ 局 きょく には3名 めい の委員 いいん がおり[43] 、行事 ぎょうじ 局長 きょくちょう によって統括 とうかつ された[85] 。初代 しょだい の局長 きょくちょう は C・H・コブデンで、後任 こうにん のヘルマン・トロチック が1872年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん /5年 ねん )から居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん まで局長 きょくちょう を務 つと めた[85] [86] 。トロチックは1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )4月 がつ に居留 きょりゅう 地 ち 警察 けいさつ 署 しょ が設置 せっち されるとその署長 しょちょう を兼務 けんむ した[86] 。重要 じゅうよう 案件 あんけん については居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ の下 した に設 もう けられた委員 いいん 会 かい において検討 けんとう され、その報告 ほうこく を基 もと に居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ が決定 けってい を下 くだ すというプロセスが採 と られた[84] 。
外国 がいこく 人 じん による自治 じち が認 みと められたことで、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない において立 た ち入 い り や警察 けいさつ 権 けん の行使 こうし など日本 にっぽん 側 がわ の権利 けんり ・権限 けんげん は制限 せいげん された。また、日本 にっぽん と欧米 おうべい 諸国 しょこく との間 あいだ で結 むす ばれた不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく によって領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん が認 みと められ、条約 じょうやく の適用 てきよう 対象 たいしょう となる居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん が当事 とうじ 者 しゃ である法的 ほうてき 紛争 ふんそう については外国 がいこく 領事 りょうじ による裁判 さいばん が行 おこな われた[† 13] (自治 じち 権 けん については属地 ぞくち 主義 しゅぎ が採 と られ居留 きょりゅう 地 ち 内 ない にのみ及 およ んだのに対 たい し、領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん については属人 ぞくじん 主義 しゅぎ が採 と られ、居留 きょりゅう 地 ち 外 がい の紛争 ふんそう にも及 およ んだ[88] 。もっとも実際 じっさい には、外国 がいこく 人 じん が居留 きょりゅう 地 ち 外 がい においても居留 きょりゅう 地 ち 内 ない と同様 どうよう の治外法権 ちがいほうけん を主張 しゅちょう し、日本 にっぽん 側 がわ とトラブルに発展 はってん することもあった[89] )。
自治 じち と治外法権 ちがいほうけん を巡 めぐ る問題 もんだい
日本人 にっぽんじん の居住 きょじゅう ・立 た ち入 い りについて
日本人 にっぽんじん は居留 きょりゅう 地 ち 内 ない での居住 きょじゅう が禁止 きんし され[45] 、開港 かいこう 当初 とうしょ は居留 きょりゅう 地 ち への立 た ち入 い り自体 じたい も禁 きん じられていたが、1869年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん /2年 ねん )以降 いこう は鑑札 かんさつ を所持 しょじ する者 もの については許可 きょか された[46] 。なお、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない で活動 かつどう した警察 けいさつ 組織 そしき には数 すう 人 にん の日本人 にっぽんじん が警察官 けいさつかん として所属 しょぞく していた[90] 。
警察 けいさつ 権 けん を巡 めぐ る問題 もんだい
前述 ぜんじゅつ の「大阪 おおさか 兵庫 ひょうご 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 約定 やくじょう 書 しょ 」では警察 けいさつ 目的 もくてき の税 ぜい (警察 けいさつ 税 ぜい )の徴収 ちょうしゅう が認 みと められていたため、外国 がいこく 側 がわ は警察 けいさつ 権 けん について、居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ に帰属 きぞく すると考 かんが えていた。しかし兵庫 ひょうご 県 けん は県 けん に警察 けいさつ 権 けん が帰属 きぞく するという見解 けんかい を取 と っていた。この見解 けんかい の相違 そうい が原因 げんいん で1871年 ねん 7月 がつ 2日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 5月15日 にち )、「女王 じょおう 対 たい ウォータース事件 じけん 」と呼 よ ばれる事件 じけん が起 お こった。
1871年 ねん 7月 がつ 2日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 5月 がつ 15日 にち )、兵庫 ひょうご 県 けん 所属 しょぞく の警察官 けいさつかん が居留 きょりゅう 地 ち 内 ない にいた女性 じょせい を売春 ばいしゅん 婦 ふ と疑 うたが い、警察 けいさつ 詰所 つめしょ に連行 れんこう した。取 と り調 しら べの結果 けっか 女性 じょせい は居留 きょりゅう 地 ち 在住 ざいじゅう のイギリス人 じん ウォータースの使用人 しようにん であると判明 はんめい して釈放 しゃくほう されたが、これに怒 おこ ったウォータースは翌 よく 3日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 5月16日 にち )、使用人 しようにん を連行 れんこう したと思 おぼ しき警察官 けいさつかん 2名 めい を屋敷 やしき 内 ない に監禁 かんきん した。この事件 じけん は領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん に基 もと づきイギリス領事 りょうじ A・J・ガワーが裁 さば くこととなったが、判決 はんけつ においてガワーは、日本 にっぽん の警察官 けいさつかん は居留 きょりゅう 地 ち 内 ない で警察 けいさつ 権 けん を行使 こうし することはできず、身柄 みがら の拘束 こうそく はもちろんパトロールを行 おこな う権限 けんげん もないのであって、ウォータースの警察官 けいさつかん に対 たい する公務 こうむ 執行 しっこう 妨害 ぼうがい 罪 ざい は成立 せいりつ しない(単 たん に私人 しじん に対 たい する逮捕 たいほ ・監禁 かんきん 罪 ざい が成立 せいりつ するに過 す ぎない)という判断 はんだん を示 しめ した。この判決 はんけつ によって、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない においては、行事 ぎょうじ 局 きょく を統括 とうかつ する行事 ぎょうじ 局長 きょくちょう 指揮 しき 下 か の居留 きょりゅう 地 ち 警察 けいさつ のみが警察 けいさつ 権 けん を行使 こうし することができるということが明確 めいかく になった。兵庫 ひょうご 県 けん は1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )の返還 へんかん まで居留 きょりゅう 地 ち 内 ない において警察 けいさつ 権 けん を行使 こうし することができなかった[91] [92] 。
ノルマントン号 ごう 事件 じけん の査問 さもん 会 かい および予審 よしん
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )に起 お こったノルマントン号 ごう 事件 じけん に関 かん する査問 さもん 会 かい および予審 よしん は、神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち において領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん が行使 こうし された有名 ゆうめい な事件 じけん の一 ひと つに挙 あ げられる[93] 。10月24日 にち 、横浜 よこはま 居留 きょりゅう 地 ち の汽船 きせん 会社 かいしゃ が所有 しょゆう する貨物 かもつ 船 せん ノルマントン号 ごう が和歌山 わかやま 県 けん 沖 おき で沈没 ちんぼつ し、貨物 かもつ と共 とも に輸送 ゆそう していた日本人 にっぽんじん の乗客 じょうきゃく 25名 めい 全員 ぜんいん が死亡 しぼう する事件 じけん が起 お こった。この事件 じけん では11名 めい のイギリス人 じん 乗組 のりくみ 員 いん が救命 きゅうめい ボートに乗 の って助 たす かったにもかかわらず日本人 にっぽんじん の乗客 じょうきゃく が全員 ぜんいん 死亡 しぼう したことについて、船長 せんちょう をはじめとする乗組 のりくみ 員 いん が救助 きゅうじょ を怠 おこた ったのではないかという疑念 ぎねん が向 む けられた[94] 。安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく によってイギリスに認 みと められていた領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん に基 もと づき、事件 じけん に関 かん する査問 さもん 会 かい が11月1日 にち から5日 にち にかけて神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち で行 おこな われ、イギリス領事 りょうじ ジェームス・トループは乗組 のりくみ 員 いん に過失 かしつ なしとする判断 はんだん を下 くだ した[94] 。この判断 はんだん を不服 ふふく とした兵庫 ひょうご 県 けん 知事 ちじ 内海 うつみ 忠勝 ただかつ は船長 せんちょう を殺人 さつじん 罪 ざい で告訴 こくそ し、告訴 こくそ を受 う けて11月20日 にち に同 おな じく神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち で行 おこな われた予審 よしん と12月8日 にち に横浜 よこはま で行 おこな われた公判 こうはん ではともに船長 せんちょう に対 たい し有罪 ゆうざい 判決 はんけつ が下 くだ された[95] 。ノルマントン号 ごう 事件 じけん の査問 さもん 会 かい で乗組 のりくみ 員 いん に過失 かしつ なしと判断 はんだん されたことで、日本 にっぽん 国内 こくない では領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん に対 たい する疑問 ぎもん や批判 ひはん が巻 ま き起 お こり[96] 、反 はん 英 えい 感情 かんじょう が高 たか まった[97] 。この査問 さもん 会 かい は、日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん との関係 かんけい がうまくいっていたとされる神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち の歴史 れきし における「影 かげ の部分 ぶぶん 」と評 ひょう される[98] 。
街並 まちなみ
旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 十 じゅう 五 ご 番 ばん 館 かん 横 よこ の歩道 ほどう に展示 てんじ されている居留 きょりゅう 地 ち 時代 じだい の下水 げすい 管 かん
兵庫 ひょうご の開港 かいこう は横浜 よこはま や長崎 ながさき より約 やく 9年 ねん 遅 おく れてのものであったため、神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち では両 りょう 居留 きょりゅう 地 ち における造成 ぞうせい ・設計 せっけい の経験 けいけん を活 い かした合理 ごうり 的 てき な都市 とし 計画 けいかく を立 た てることができた[4] 。1871年 ねん 4月 がつ 17日 にち 付 づけ の英字 えいじ 新聞 しんぶん 「The Far East」は、「神戸 こうべ は東洋 とうよう における居留 きょりゅう 地 ち としてもっともよく設計 せっけい されている」と評 ひょう した[4] [† 14] 。
完成 かんせい した居留 きょりゅう 地 ち の街並 まちな みは、以下 いか のような特徴 とくちょう を持 も っていた。
前述 ぜんじゅつ のように東 ひがし を(旧 きゅう )生田川 いけだがわ (後 ご のフラワーロード )、西 にし を鯉川 こいかわ (後 ご の鯉 こい 川筋 かわすじ )、南 みなみ を海 うみ と、三方 さんぽう を川 かわ と海 うみ に囲 かこ まれていた[2] [27] 。ただし東西 とうざい の川 かわ については1870年代 ねんだい に付 つ け替 か えおよび暗渠 あんきょ 化 か の工事 こうじ が行 おこな われた(後述 こうじゅつ )。
南北 なんぼく 8本 ほん 、東西 とうざい 5本 ほん の道路 どうろ [† 15] によって22の街 まち 区 く に分 わ けられ、さらにそれぞれが区画 くかく 化 か され全体 ぜんたい で126の区画 くかく によって構成 こうせい されていた。一 いち 区画 くかく 当 あ たりの面積 めんせき は200-300坪 つぼ で、居留 きょりゅう 地 ち 全体 ぜんたい の面積 めんせき は道路 どうろ を除 のぞ くと4万 まん 9645坪 つぼ (約 やく 164,115平方 へいほう メートル )あった(1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )末 まつ のデータ)[102] 。
道路 どうろ は、車道 しゃどう と歩道 ほどう が区別 くべつ されていた[103] 。
南北 なんぼく を走 はし る道路 どうろ には排水 はいすい を海 うみ に流 なが すための下水道 げすいどう が埋設 まいせつ されていた[103] 。下水 げすい 管 かん には楔 くさび 型 がた のレンガを漆喰 しっくい で固 かた めて円筒 えんとう 状 じょう にしたものが用 もち いられた[104] [† 16] 。なお、この断面 だんめん が卵 たまご 形 がた の下水 げすい 渠 みぞ は外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 特有 とくゆう のものとして、2002年 ねん に土木 どぼく 学会 がっかい 選奨 せんしょう 土木 どぼく 遺産 いさん に選 えら ばれる[106] 。
通 とお りには街路 がいろ 樹 じゅ や街灯 がいとう が設置 せっち され、車道 しゃどう と歩道 ほどう が区別 くべつ されていた[103] 。電線 でんせん は地下 ちか 配線 はいせん され、電柱 でんちゅう は建 た てられなかった[107] 。
南側 みなみがわ の海岸 かいがん 沿 ぞ いの通 とお り(海岸 かいがん 通 どおり )には芝生 しばふ と松並 まつなみ 木 き が植 う えられ、プロムナード として整備 せいび された[103] 。
ガス灯 がすとう
旧 きゅう ハッサム住宅 じゅうたく 前 まえ にあるガス灯 がすとう
1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )11月、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の複数 ふくすう の商社 しょうしゃ が出資 しゅっし して設立 せつりつ したブラウン商会 しょうかい (大阪瓦斯 おおさかがす の前身 ぜんしん の一 ひと つ)が居留 きょりゅう 地 ち へのガスの供給 きょうきゅう (兵庫 ひょうご 県 けん 初 はつ )[† 17] を行 おこな うようになり、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない にはそれまで使用 しよう されていた石油 せきゆ 灯 とう に替 か わってガス灯 がすとう が設置 せっち されるようになった[108] 。居留 きょりゅう 地 ち 時代 じだい に設置 せっち されていたガス灯 がすとう 94基 き のうち、2基 き が旧 きゅう ハッサム住宅 じゅうたく 前 まえ に、1基 き が愛知 あいち 県 けん の博物館 はくぶつかん 明治 めいじ 村 むら に設置 せっち されている。また、神戸 こうべ 市立 しりつ 博物館 はくぶつかん と大丸 だいまる 神戸 こうべ 店 てん の周囲 しゅうい には復元 ふくげん されたガス灯 がすとう が設置 せっち されている[110] 。
なお、神戸 こうべ 区 く では1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )11月から電気 でんき の供給 きょうきゅう が開始 かいし され、市街地 しがいち には電灯 でんとう が設置 せっち されるようになったが、ガス灯 がすとう が設置 せっち されていた居留 きょりゅう 地 ち ではブラウン商会 しょうかい を中心 ちゅうしん に反対 はんたい 論 ろん が張 は られ、電気 でんき 供給 きょうきゅう および電灯 でんとう 設置 せっち は遅 おく れた。また、電気 でんき 供給 きょうきゅう が開始 かいし されるにあたって居留 きょりゅう 地 ち 側 がわ は電線 でんせん が空中 くうちゅう を横切 よこぎ るのは美観 びかん を損 そこ ねると主張 しゅちょう し、電線 でんせん は地下 ちか に配線 はいせん されることになった。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご も旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち では電線 でんせん は地下 ちか 配線 はいせん され、通 とお りに電柱 でんちゅう が建 た てられることはなかった[110] 。
建築 けんちく 様式 ようしき
旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 十 じゅう 五 ご 番 ばん 館 かん
初期 しょき に建 た てられた建築 けんちく 物 ぶつ の多 おお くは古典 こてん 主義 しゅぎ の色彩 しきさい を帯 お びていた[111] 。15番 ばん 館 かん (旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 十 じゅう 五 ご 番 ばん 館 かん )はその典型 てんけい とされ、2階 かい 立 だ てで2階 かい にオーダー を配 はい したベランダが配置 はいち された[112] 。古典 こてん 主義 しゅぎ は、19世紀 せいき 中頃 なかごろ の東 ひがし アジア居留 きょりゅう 地 ち において圧倒的 あっとうてき な主流 しゅりゅう を占 し める建築 けんちく 様式 ようしき であった[113] 。
明治 めいじ 20年代 ねんだい に入 はい ると、イギリスの建築 けんちく 家 か アレクサンダー・ネルソン・ハンセル の活躍 かつやく によって建築 けんちく 物 ぶつ のデザインの流行 りゅうこう に変化 へんか が現 あらわ れた[114] 。ハンセルはゴシック・リヴァイヴァル建築 けんちく の考 かんが えに基 もと づき、煉瓦 れんが をむき出 だ しにしたデザインを好 この んで採用 さいよう した[115] 。ハンセルは神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち において神戸 こうべ 倶楽部 くらぶ を皮切 かわき りに香港 ほんこん 上海 しゃんはい 銀行 ぎんこう 、チャータード銀行 ぎんこう 、ジャーディン・マセソン商会 しょうかい 、ドイツ総領事館 そうりょうじかん 、デラカンプ商会 しょうかい など数 すう 多 おお くの建築 けんちく 物 ぶつ の設計 せっけい を手掛 てが けた[116] 。
擬 なずらえ 洋風 ようふう 建築 けんちく が多 おお く建 た てられた横浜 よこはま 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち と異 こと なり[56] 、神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち における建築 けんちく はすべて外国 がいこく 人 じん 建築 けんちく 家 か の主導 しゅどう の下 した で行 おこな われ[117] 、建築 けんちく 主 ぬし はほとんどが外資 がいし 系 けい 企業 きぎょう であった[118] 。一方 いっぽう 明治 めいじ 30年代 ねんだい に入 はい ると、工 こう 部 ぶ 大 だい 学校 がっこう 造 みやつこ 家 か 学科 がっか (後 ご の東京大学 とうきょうだいがく 工学部 こうがくぶ 建築 けんちく 学科 がっか )出身 しゅっしん の辰野 たつの 金吾 きんご 、曽 そ 禰達蔵 ぞう 、河合 かわい 浩 ひろし 蔵 ぞう や、エコール・サントラル・パリ へ留学 りゅうがく し建築 けんちく 学 がく を学 まな んだ山口 やまぐち 半 はん 六 ろく といった日本人 にっぽんじん 建築 けんちく 家 か たちが、神戸 こうべ において日本 にっぽん の官公庁 かんこうちょう および企業 きぎょう を建築 けんちく 主 ぬし とする建築 けんちく 物 ぶつ の設計 せっけい を多 おお く手掛 てが けるようになった[119] 。辰野 たつの らのように工 こう 部 ぶ 大 だい 学校 がっこう 造 づくり 家 か 学科 がっか においてイギリスの建築 けんちく 家 か ジョサイア・コンドル の指導 しどう を受 う けた[† 18] 建築 けんちく 家 か や、山口 やまぐち のように日本 にっぽん 国外 こくがい で建築 けんちく 学 がく を学 まな んだ建築 けんちく 家 か は、明治 めいじ 期 き の日本 にっぽん 建築 けんちく 界 かい 発展 はってん の素地 そじ を作 つく ったと評価 ひょうか されている[120] が、これら日本人 にっぽんじん 建築 けんちく 家 か と居留 きょりゅう 地 ち で活動 かつどう した外国 がいこく 人 じん 建築 けんちく 家 か は、建築 けんちく 主 ぬし の違 ちが いから活動 かつどう 範囲 はんい において明確 めいかく に一線 いっせん を画 かく し、関 かか わりは希薄 きはく であったとされる[121] 。
宿泊 しゅくはく 施設 しせつ (ホテル)
オリエンタルホテル(1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )、海岸 かいがん 通 どおり 6番地 ばんち に竣工 しゅんこう )
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち で最 もっと も早 はや く開業 かいぎょう した宿泊 しゅくはく 施設 しせつ はグローブホテル(1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん )開業 かいぎょう 。営業 えいぎょう 終了 しゅうりょう の時期 じき およびホテルの位置 いち は不明 ふめい )で、その後 ご もいくつかの宿泊 しゅくはく 施設 しせつ が開業 かいぎょう した[122] 。その中 なか で最 もっと も有名 ゆうめい なものはオリエンタルホテル で、遅 おそ くとも1870年 ねん 8月 がつ 3日 にち (明治 めいじ 3年 ねん 7月 がつ 7日 にち )には79番地 ばんち で営業 えいぎょう を開始 かいし していたことが確認 かくにん されている[123] 。オリエンタルホテルには後述 こうじゅつ のように、社交 しゃこう クラブであるユニオンクラブの事務所 じむしょ が1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )に、さらにユニオンクラブと入 い れ替 か わる形 かたち でクラブコンコルディアの事務所 じむしょ が1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )頃 ごろ に置 お かれ[124] 、同年 どうねん 9月23日 にち (8月 がつ 28日 にち )には後述 こうじゅつ のスポーツクラブ、神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の設立 せつりつ 総会 そうかい が開 ひら かれた[125] 。オリエンタルホテルは1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )頃 ごろ に80番地 ばんち を買収 ばいしゅう して本館 ほんかん を移 うつ したが、その頃 ころ 責任 せきにん 者 しゃ を務 つと めていたフランス人 じん の料理人 りょうりにん ルイ・ビゴの作 つく った料理 りょうり が評判 ひょうばん を呼 よ んだ[126] 。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご もオリエンタルホテルは営業 えいぎょう 地 ち を移 うつ しつつ業務 ぎょうむ を継続 けいぞく 、1995年 ねん (平成 へいせい 7年 ねん )に発生 はっせい した阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい により建物 たてもの が倒壊 とうかい し営業 えいぎょう を停止 ていし したが2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )3月3日 にち に再開 さいかい した[127] 。
東西 とうざい の川 かわ の工事 こうじ
旧 きゅう 生田川 いけだがわ が流 なが れていたフラワーロード。道路 どうろ の向 む かって右側 みぎがわ に見 み えるのが東遊 あずまあそび 園地 えんち 。
前述 ぜんじゅつ のように開港 かいこう 当初 とうしょ 居留 きょりゅう 地 ち の東 ひがし 端 はし には(旧 きゅう )生田川 いけだがわ が、西端 せいたん には鯉川 こいかわ が流 なが れていたが、(旧 きゅう )生田川 いけだがわ は堤防 ていぼう が低 ひく く、しばしば居留 きょりゅう 地 ち 内 ない に水害 すいがい をもたらし[128] 、鯉川 こいかわ は交通 こうつう の妨 さまた げになると外国 がいこく 人 じん からの評判 ひょうばん が悪 わる かった[129] 。
明治 めいじ 政府 せいふ は生田川 いけだがわ について、1871年 ねん 4月 がつ 29日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 3月 がつ 10日 とおか )から同年 どうねん 7月 がつ 26日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 6月9日 にち )にかけて川 かわ の流 なが れを東 ひがし へ移 うつ す付 つ け替 が え工事 こうじ を行 おこな い、上流 じょうりゅう にある布引 ぬ の滝 びきのたき からまっすぐ小野 おの 浜 はま まで南下 なんか する新 あら たな生田 いくた 川 がわ (新 しん 生田川 いけだがわ )が作 つく られた[128] 。旧 きゅう 生田川 いけだがわ の河川敷 かせんしき は埋 う め立 た てられ、道路 どうろ (フラワーロード )[103] や日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん が共同 きょうどう 利用 りよう するグラウンド(内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん 。後 ご の東遊 あずまあそび 園地 えんち 。詳細 しょうさい については後述 こうじゅつ )[130] が造成 ぞうせい された。右岸 うがん の堤防 ていぼう の一部 いちぶ はそのまま小山 こやま のように残 のこ され、異 い 人山 ひとやま と呼 よ ばれるようになった。異 い 人山 ひとやま があった場所 ばしょ には後 のち に神戸 こうべ 市役所 しやくしょ が建 た てられた[131] 。埋立 うめたて 地 ち の一部 いちぶ には工事 こうじ を請 う け負 お った加納 かのう 宗 はじめ 七 なな の名 な に因 ちな んで「加納 かのう 町 まち 」という地名 ちめい が付 つ けられた[103] 。なお、この工事 こうじ には居留 きょりゅう 地 ち の設計 せっけい に当 あ たったジョン・ウィリアム・ハート も関与 かんよ した[132] 。
鯉川 こいかわ については、居留 きょりゅう 地 ち 側 がわ から兵庫 ひょうご 県 けん および明治 めいじ 政府 せいふ に対 たい し、工事 こうじ 費用 ひよう の半分 はんぶん を負担 ふたん するから川 かわ に蓋 ぶた をしてほしいという要望 ようぼう が出 だ され、1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )10月 がつ から1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )1月 がつ にかけて工事 こうじ が行 おこな われた。その後 ご 1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )になって鯉川 こいかわ はコンクリート で覆 おお われた完全 かんぜん な暗渠 あんきょ となった。さらにその後 ご 暗渠 あんきょ の上 うえ に道路 どうろ (鯉 こい 川筋 かわすじ )が敷設 ふせつ された[129] 。
雑居 ざっきょ 地 ち ・遊歩 ゆうほ 区域 くいき
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん は居留 きょりゅう 地 ち 外 がい の一定 いってい の区域 くいき にも居住 きょじゅう し、移動 いどう した。以下 いか 詳述 しょうじゅつ する。
雑居 ざっきょ 地 ち
「異人 いじん 館 かん 通 どお り」と呼 よ ばれる山本通 やまもとどおり
南京 なんきん 町 まち の東 ひがし の入口 いりくち に当 あ たる長安 ながやす 門 もん 。旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 西端 せいたん の鯉川 こいかわ 通 どおり に面 めん している
前述 ぜんじゅつ のように1868年 ねん 1月 がつ 1日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 12月7日 にち )の開港 かいこう 日 び の時点 じてん ではごくわずかな土地 とち と設備 せつび が造成 ぞうせい されたに過 す ぎなかった。明治 めいじ 政府 せいふ は江戸 えど 幕府 ばくふ が諸 しょ 外国 がいこく と結 むす んだ条約 じょうやく ・取 と り決 き めを継承 けいしょう すると宣言 せんげん していた[133] が、江戸 えど 幕府 ばくふ は前述 ぜんじゅつ の1867年 ねん 5月16日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 4月 がつ 13日 にち )締結 ていけつ 「兵庫 ひょうご 港 こう 並 なみ 大 だい 坂 ざか に於 おい て外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち を定 てい むる取 と 極 ごく 」(兵庫 ひょうご 大阪 おおさか 規定 きてい 書 しょ )において、居留 きょりゅう 地 ち が手狭 てぜま になった場合 ばあい は居留 きょりゅう 地 ち を拡張 かくちょう するか日本人 にっぽんじん が外国 がいこく 人 じん に家屋 かおく を貸 か すことを認 みと めていた[48] 。そのことから明治 めいじ 政府 せいふ は1868年 ねん 3月30日 にち (慶応 けいおう 4年 ねん 3月7日 にち )、東 ひがし は(旧 きゅう )生田川 いけだがわ 、西 にし は宇治川 うじがわ 、南 みなみ は居留 きょりゅう 地 ち 南 みなみ の海岸 かいがん 、北 きた は山辺 やまべ (山麓 さんろく )と区域 くいき を限 かぎ った上 うえ で、外国 がいこく 人 じん が居住 きょじゅう することを認 みと め、居住 きょじゅう に際 さい して借地 しゃくち 、借家 しゃくや 、家屋 かおく の購入 こうにゅう および普請 ふしん を行 おこな うことも認 みと めた[47] [48] 。この区域 くいき を雑居 ざっきょ 地 ち と呼 よ ぶ。雑居 ざっきょ 地 ち の土地 とち についてはごく初期 しょき を除 のぞ いて外国 がいこく 人 じん に対 たい する永代 えいたい 借地 しゃくち 権 けん が認 みと められず、期限 きげん (初 はじ めは5年 ねん に設定 せってい されたが、のちに25年 ねん に延長 えんちょう された)を定 さだ めた借地 しゃくち のみが認 みと められた[134] 。雑居 ざっきょ 地 ち は居留 きょりゅう 地 ち の工事 こうじ の遅 おく れを受 う けて暫定 ざんてい 的 てき に設 もう けられたものであったが、居留 きょりゅう 地 ち の全 ぜん 区画 くかく が完成 かんせい しても収容 しゅうよう しきれないほどに居住 きょじゅう 者 しゃ が増加 ぞうか したため、廃止 はいし した場合 ばあい に居留 きょりゅう 地 ち の拡張 かくちょう を要求 ようきゅう されることを恐 おそ れた明治 めいじ 政府 せいふ は居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん まで雑居 ざっきょ 地 ち を存続 そんぞく させた[49] 。雑居 ざっきょ 地 ち の面積 めんせき は道路 どうろ を除 のぞ くと2万 まん 6756坪 つぼ (約 やく 88,449平方 へいほう メートル )であった(1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )末 まつ のデータ)[135] 。
清 きよし 国人 くにびと は、開港 かいこう 当初 とうしょ は母国 ぼこく が日本 にっぽん と条約 じょうやく を結 むす んでいなかったため居留 きょりゅう 地 ち に住 す むことができず、雑居 ざっきょ 地 ち に居住 きょじゅう した(1871年 ねん 9月13日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 7月 がつ 29日 にち )に日 にち 清 しん 修好 しゅうこう 条規 じょうき が締結 ていけつ されて以降 いこう は、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない に居住 きょじゅう することが可能 かのう になった)[136] 。その影響 えいきょう から居留 きょりゅう 地 ち 西側 にしがわ の雑居 ざっきょ 地 ち には清国 きよくに 人 じん 街 がい が形成 けいせい された[52] 。日 にち 清 しん 修好 しゅうこう 条規 じょうき 締結 ていけつ 後 ご 、居留 きょりゅう 地 ち と周辺 しゅうへん の雑居 ざっきょ 地 ち に居住 きょじゅう する清国 きよくに 人 じん は増加 ぞうか していった[137] 。清国 きよくに 人 じん は後述 こうじゅつ のように清国 きよくに 人 じん は外国 がいこく 商館 しょうかん を通 つう じて行 おこな われた貿易 ぼうえき において「買弁 ばいべん 」と呼 よ ばれる仲立 なかだち 人 じん を務 つと めた[138] [139] ほか、清国 きよくに とのパイプを利用 りよう して同国 どうこく 向 む けのマッチの輸出 ゆしゅつ において大 おお きな枠 わく 割 わり を果 は たした[140] 。
雑居 ざっきょ 地 ち であった地域 ちいき には外国 がいこく 人 じん が居住 きょじゅう していた住宅 じゅうたく が多 おお く残 のこ されており、「異人 いじん 館 かん 」として観光 かんこう の対象 たいしょう となっている[141] 。また南京 なんきん 町 まち の中華 ちゅうか 街 がい は、居留 きょりゅう 地 ち 時代 じだい に清国 きよくに 人 じん 街 がい が形成 けいせい された居留 きょりゅう 地 ち 西側 にしがわ の地域 ちいき に存在 そんざい する[142] [143] 。雑居 ざっきょ 地 ち において日本人 にっぽんじん が外国 がいこく 人 じん を身近 みぢか に接 せっ しながら暮 く らし、「生活 せいかつ レベルでの国際 こくさい 交流 こうりゅう 」が行 おこな われたことは、日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん が共生 きょうせい する「多 た 民族 みんぞく ・多 た 文化 ぶんか 共生 きょうせい 都市 とし 」としての神戸 こうべ 市 し の原型 げんけい を形成 けいせい したと評価 ひょうか されている[144] 。
遊歩 ゆうほ 区域 くいき
兵庫 ひょうご 港 こう 遊歩 ゆうほ 規定 きてい 図 ず (1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )発行 はっこう )。赤 あか 線 せん 内 ない が遊歩 ゆうほ 区域 くいき
安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく では居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん の行動 こうどう 範囲 はんい を規制 きせい する条項 じょうこう が盛 も り込 こ まれ、居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん が移動 いどう 可能 かのう な区域 くいき (遊歩 ゆうほ 区域 くいき )は兵庫 ひょうご 県庁 けんちょう を基点 きてん とする10里 さと 以内 いない の区域 くいき に限 かぎ られることになった。1869年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん /2年 ねん )、兵庫 ひょうご 県 けん は遊歩 ゆうほ 区域 くいき を具体 ぐたい 化 か するべく「外国 がいこく 人 じん 遊歩 ゆうほ 規定 きてい 」を定 さだ め、「10里 り 以内 いない 」を路程 ろてい にして10里 り 以内 いない と解釈 かいしゃく し、東 ひがし は川辺 かわべ 郡 ぐん の小戸 おうべ 村 むら ・栄根 さかね 村 むら ・平井 ひらい 村 むら ・中島 なかじま 村 むら 、西 にし は印南 いなみ 郡 ぐん の曽根 そね 村 むら ・阿弥陀 あみだ 村 むら 、南 みなみ は海 うみ 、北 きた は川辺 かわべ 郡 ぐん の大原野 おおはらの 村 むら 、多紀 たき 郡 ぐん の川原 かわはら 村 むら ・宿 やど 村 むら ・八上下 やかみしも 村 むら ・犬飼 いぬかい 村 むら 、多可 たか 郡 ぐん の田高 たこう 村 むら ・明楽寺 みょうらくじ 村 むら ・横尾 よこお 村 むら を境界 きょうかい とした。しかし解釈 かいしゃく を巡 めぐ って外国 がいこく 側 がわ から「10里 り とは路程 ろてい にして10里 さと ではなく直径 ちょっけい 10里 さと を意味 いみ する」と異議 いぎ が出 で た結果 けっか 、北 きた と西 にし の境界 きょうかい は川辺 かわべ 郡 ぐん ・印南 いなみ 郡 ぐん ・多紀 たき 郡 ぐん ・多可 たか 郡 ぐん 全域 ぜんいき に変更 へんこう された[145] [146] 。遊歩 ゆうほ 区域 くいき 外 がい は「内地 ないち 」と呼 よ ばれ、居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん は保養 ほよう と学術 がくじゅつ を目的 もくてき とする場合 ばあい に限 かぎ って内地 ないち へ出 で ることが許 ゆる され、その際 さい には兵庫 ひょうご 県庁 けんちょう 発行 はっこう の旅行 りょこう 免状 めんじょう を携帯 けいたい することが義務付 ぎむづ けられた。しかし実際 じっさい には居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん が行楽 こうらく などの目的 もくてき で無断 むだん で内地 ないち へ足 あし を伸 の ばすことも多 おお く、しばしば兵庫 ひょうご 県 けん を悩 なや ませた[147] [148] [149] 。なお、1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )の居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん と同時 どうじ に外国 がいこく 人 じん が日本 にっぽん 国内 こくない に自由 じゆう に居住 きょじゅう ・外出 がいしゅつ すること(内地 ないち 雑居 ざっきょ )が認 みと められるようになった[150] 。
貿易 ぼうえき
開港 かいこう 直後 ちょくご の神戸 こうべ 港 こう を描 えが いた浮世絵 うきよえ (長谷川 はせがわ 小 しょう 信 しんじ (二 に 代 だい 貞 さだ 信 しん )作 さく 『摂 と 州 しゅう 神戸 こうべ 海岸 かいがん 繁栄 はんえい 図 ず 』)
兵庫 ひょうご 港 こう (神戸 こうべ 港 こう )では開港 かいこう 直後 ちょくご から盛 さか んに貿易 ぼうえき が行 おこな われた。初期 しょき の貿易 ぼうえき は日本人 にっぽんじん 商人 しょうにん が納入 のうにゅう した商品 しょうひん を外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん が輸出 ゆしゅつ し、外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん が輸入 ゆにゅう した商品 しょうひん を日本人 にっぽんじん 商人 しょうにん が購入 こうにゅう するという方法 ほうほう で行 おこな われた。外国 がいこく 人 じん は居留 きょりゅう 地 ち 外 がい で輸出 ゆしゅつ 品 ひん を買 か ったり輸入 ゆにゅう 品 ひん を売 う ることができず、一方 いっぽう 日本人 にっぽんじん には開港 かいこう 当初 とうしょ 、直接 ちょくせつ 海外 かいがい の貿易 ぼうえき 業者 ぎょうしゃ と取引 とりひき を行 おこな うノウハウがなかったためである[151] 。このような、外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん を介 かい した貿易 ぼうえき を居留 きょりゅう 地 ち 貿易 ぼうえき 、または商館 しょうかん 貿易 ぼうえき という[152] 。外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん への商品 しょうひん 納入 のうにゅう や外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん からの商品 しょうひん 購入 こうにゅう を希望 きぼう する日本人 にっぽんじん 商人 しょうにん (前者 ぜんしゃ を売 うれ 込 こみ 商 しょう 、後者 こうしゃ を引取 ひきと 商 しょう と呼 よ んだ)は、日本人 にっぽんじん の番頭 ばんがしら や「買弁 ばいべん 」と呼 よ ばれる清国 きよくに 人 ひと の仲立 なかだち 人 じん を介 かい して商談 しょうだん を行 おこな った[138] [139] 。外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん 側 がわ の人間 にんげん の多 おお くは高 こう 圧 あつ 的 てき ・横暴 おうぼう で、他国 たこく との貿易 ぼうえき に不慣 ふな れで海外 かいがい 情勢 じょうせい に疎 うと い日本人 にっぽんじん が不利 ふり な取引 とりひき 慣行 かんこう を押 お しつけられたり、買 か い叩 たた きや値段 ねだん のつり上 あ げに遭 あ うケースも多々 たた あった[153] [154] [155] 。
しかし次第 しだい に日本 にっぽん の商人 しょうにん や商社 しょうしゃ が直接 ちょくせつ 貿易 ぼうえき 業務 ぎょうむ を行 おこな うようになり、外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん の力 ちから は衰退 すいたい していった。神戸 こうべ 港 こう の貿易 ぼうえき 量 りょう に占 し める外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん が取 と り扱 あつか う貿易 ぼうえき 量 りょう の割合 わりあい は当初 とうしょ 100%であったが、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 直前 ちょくぜん の1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )には65%に減少 げんしょう しており、さらに返還 へんかん 後 ご の1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )には50%、1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )には40%に減少 げんしょう した。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご は外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん が旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち から撤退 てったい し、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 内 ない での事務所 じむしょ 開設 かいせつ が可能 かのう となった日本 にっぽん の商社 しょうしゃ にとって代 か わられるようになった[156] 。1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )の時点 じてん で、外国 がいこく 人 じん が永代 えいたい 借地 しゃくち する旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の区画 くかく は126区画 くかく 中 ちゅう 47区画 くかく にまで減少 げんしょう した[77] 。
主要 しゅよう な輸出 ゆしゅつ 品 ひん は茶 ちゃ ・米穀 べいこく ・マッチ である。このうち茶 ちゃ については、初期 しょき は京都 きょうと の茶 ちゃ が輸出 ゆしゅつ され、次第 しだい に西日本 にしにほん 一帯 いったい で生産 せいさん された茶 ちゃ が集 あつ められ、輸出 ゆしゅつ される仕組 しく みが完成 かんせい した[157] [158] 。米穀 べいこく は、後述 こうじゅつ のように神戸 こうべ からの輸出 ゆしゅつ 米 まい がロンドンの穀物 こくもつ 市場 いちば における標準 ひょうじゅん 米 まい となるほど輸出 ゆしゅつ 量 りょう が多 おお かった[159] 。マッチは1870年代 ねんだい 後半 こうはん に神戸 こうべ において本格 ほんかく 的 てき な製造 せいぞう が始 はじ まり、同時 どうじ に海外 かいがい への輸出 ゆしゅつ が始 はじ まった。神戸 こうべ 港 こう からのマッチの輸出 ゆしゅつ 額 がく は明治 めいじ 10年代 ねんだい 後半 こうはん 以降 いこう 急速 きゅうそく に増加 ぞうか し、全国 ぜんこく のマッチ輸出 ゆしゅつ 額 がく の9割 わり 以上 いじょう を占 し めるまでに発展 はってん した。輸出 ゆしゅつ 先 さき は当初 とうしょ は中国 ちゅうごく が中心 ちゅうしん であったがやがてオーストラリアやヨーロッパ・アメリカ大陸 あめりかたいりく にまで拡大 かくだい した[140] [160] 。
一方 いっぽう 、主 おも な輸入 ゆにゅう 品 ひん は金巾 かなきん ・綿 めん ビロード などの木綿 もめん 類 るい や毛織物 けおりもの であった[161] [162] 。1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )には神戸 こうべ 市 し に住 す む高橋 たかはし 信治 しんじ が14番地 ばんち にあったリネル商会 しょうかい を通 つう じてキネトスコープ を輸入 ゆにゅう し、日本 にっぽん 初 はつ の映画 えいが (活動 かつどう 写真 しゃしん )の公開 こうかい を行 おこな っている[163] 。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 直前 ちょくぜん の1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )以降 いこう 明治 めいじ を通 つう じ、神戸 こうべ 港 こう からの輸入 ゆにゅう 額 がく は日本 にっぽん の港 みなと の中 なか で最 もっと も多 おお かった[164] 。
文化 ぶんか
食 しょく 文化 ぶんか
ラムネ
ラムネ
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち はラムネ 発祥 はっしょう の地 ち といわれることがある[† 19] [166] 。アレキサンダー・キャメロン・シム が経営 けいえい するシム商会 しょうかい が、1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )頃 ごろ に「18番 ばん 」と呼 よ ばれる(シム商会 しょうかい が居留 きょりゅう 地 ち 18番地 ばんち にあったことに因 ちな む)ラムネの製造 せいぞう ・販売 はんばい を始 はじ めた[167] が、「日本 にっぽん 清涼飲料水 せいりょういんりょうすい 工業 こうぎょう 発達 はったつ 史 し 」には「神戸 こうべ の A.Cシム商会 しょうかい が日本 にっぽん で最初 さいしょ のラムネだろう」と記 しる されている[168] 。シムがラムネを売 う り出 だ した当時 とうじ 、日本 にっぽん ではコレラ が流行 りゅうこう しており、1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )に横浜 よこはま 毎日新聞 まいにちしんぶん が「ガスを含有 がんゆう した飲料 いんりょう で感染 かんせん が防 ふせ げる」と報道 ほうどう したのをきっかけに売 う れ行 ゆ きが伸 の び[169] 、当時 とうじ の新聞 しんぶん 報道 ほうどう (『大阪 おおさか 日報 にっぽう 』)によるとシムのラムネは「払 はら い底 そこ になった」[169] 。
牛肉 ぎゅうにく
森谷 もりたに 商店 しょうてん 。鯉川 こいかわ 通 どおり 沿 ぞ いにある
兵庫 ひょうご 開港 かいこう 以前 いぜん 、横浜 よこはま 居留 きょりゅう 地 ち の商人 しょうにん が購入 こうにゅう した丹波 たんば ・丹後 たんご ・但馬 たじま 産 さん の牛肉 ぎゅうにく は外国 がいこく 人 じん の間 あいだ で高 たか い評価 ひょうか を得 え ていた[170] 。そのため開港 かいこう 後 ご 、外国 がいこく 人 じん は盛 さか んにそれらの牛肉 ぎゅうにく を求 もと めたが、当時 とうじ の日本 にっぽん では牛肉 ぎゅうにく を食 た べる習慣 しゅうかん がなく、計画 けいかく 的 てき に牛肉 ぎゅうにく を供給 きょうきゅう する仕組 しく みはなかった。そこで外国 がいこく 人 じん は自 みずか ら屠畜場 とちくじょう や肉屋 にくや を開設 かいせつ した[171] 。初 はじ めにこれを実行 じっこう したのは後述 こうじゅつ の実業 じつぎょう 家 か エドワード・チャールズ・キルビー で、詳 くわ しい時期 じき は不明 ふめい であるが旧 きゅう 生田川 いけだがわ の東 ひがし に屠畜場 とちくじょう を借 か り、海岸 かいがん 通 どおり に肉屋 にくや を開設 かいせつ して牛肉 ぎゅうにく の販売 はんばい を行 おこな った[172] 。また、1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん )にはテボールという名 な のイギリス人 じん が旧 きゅう 生田川 いけだがわ 沿 ぞ いに屠畜場 とちくじょう を開設 かいせつ したという記録 きろく がある[172] 。1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )に日本人 にっぽんじん が牛肉 ぎゅうにく の供給 きょうきゅう に携 たずさ わるようになり、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )以降 いこう はほとんど日本人 にっぽんじん によって独占 どくせん された(外国 がいこく 人 じん は1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )に食肉 しょくにく 業 ぎょう から完全 かんぜん に撤退 てったい した)[173] 。
居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん では開港 かいこう 後 ご 間 あいだ もない頃 ころ から、日本人 にっぽんじん が業 ぎょう として牛肉 ぎゅうにく を取 と り扱 あつか い、食 しょく するようになった。1869年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん /2年 ねん )に神戸 こうべ 元町 もとまち [† 20] で開業 かいぎょう した肉 にく なべ専門 せんもん 店 てん 「関門 かんもん 月下 げっか 亭 てい 」は神戸 こうべ 最古 さいこ の日本人 にっぽんじん 経営 けいえい の牛肉 ぎゅうにく 料理 りょうり 屋 や とされる[172] [174] 。神戸 こうべ 最古 さいこ の日本人 にっぽんじん 経営 けいえい の牛肉 ぎゅうにく 店 てん は1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん /6年 ねん )開店 かいてん した大井 おおい 肉 にく 店 てん と本 ほん 神戸 こうべ 肉 にく 森谷 もりたに 商店 しょうてん といわれる[172] 。大井 おおい 肉 にく 店 てん 創業 そうぎょう 者 しゃ の岸田 きしだ 伊之助 いのすけ は牛肉 ぎゅうにく の味噌 みそ 漬 づ けや佃煮 つくだに など西洋 せいよう にはない独自 どくじ の調理 ちょうり 法 ほう を考案 こうあん した[172] [175] 。1870年代 ねんだい の終 お わりには鈴木 すずき 清 きよし が醤油 じょうゆ と砂糖 さとう で味付 あじつ けした牛肉 ぎゅうにく の缶詰 かんづめ を開発 かいはつ し、全国 ぜんこく 的 てき なヒット商品 しょうひん となった[176] 。
洋菓子 ようがし
洋菓子 ようがし は開港 かいこう 後 ご 、居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん や旅行 りょこう 者 しゃ 向 む けに作 つく られるようになった[177] 。1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )に雑居 ざっきょ 地 ち の元町 もとまち 3丁目 ちょうめ で創業 そうぎょう した二宮 にのみや 盛 もり 神 かみ 堂 どう が、神戸 こうべ 初 はつ の洋菓子 ようがし 店 てん とされる[178] 。さらに同年 どうねん 刊行 かんこう された『豪商 ごうしょう 神 かみ 兵 へい 湊 みなと の魁 さきがけ 』には、相生橋 あいおいばし の三 さん 国 こく 堂 どう が洋菓子 ようがし 店 てん として紹介 しょうかい されている[178] 。1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )、吉川 よしかわ 市三 いちぞう が東京 とうきょう 南 みなみ 鍋 なべ 町 まち の風月 ふうげつ 堂 どう からのれん分 わ け を許 ゆる され元 もと 町 まち に創業 そうぎょう した神戸 こうべ 風月 ふうげつ 堂 どう は、神戸 こうべ 初 はつ の本格 ほんかく 的 てき な洋菓子 ようがし 店 てん とされ[179] 、開店 かいてん 当初 とうしょ からカステラ 、ワッフル 、シュークリーム 、キャンディー 、チョコレート といった洋菓子 ようがし が販売 はんばい されていた[180] 。
キリスト教 きりすときょう
旧 きゅう 神戸 こうべ ユニオン教会 きょうかい
明治 めいじ 政府 せいふ は江戸 えど 幕府 ばくふ によるキリスト教 きょう 禁制 きんせい を踏襲 とうしゅう し、1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )2月 がつ 24日 にち にキリスト教 きりすときょう 禁制 きんせい の高札 こうさつ を撤去 てっきょ するまでの間 あいだ キリスト教 きりすときょう を禁 きん じた。しかし安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく により外国 がいこく 人 じん には信教 しんきょう の自由 じゆう が認 みと められたため、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない では開港 かいこう 当初 とうしょ から宣教師 せんきょうし により盛 さか んに宗教 しゅうきょう 活動 かつどう が行 おこな われた[181] 。
1868年 ねん 8月 がつ 9日 にち (慶応 けいおう 4年 ねん 6月21日 にち )、パリ外国 がいこく 宣教 せんきょう 会 かい の宣教師 せんきょうし ピエール・ムニクウ が西国 さいごく 街道 かいどう (後 ご の元町通 もとまちどおり )沿 ぞ いの仮 かり 礼拝 れいはい 所 しょ において毎週 まいしゅう 日曜日 にちようび にカトリック の定期 ていき 的 てき な礼拝 れいはい を執 と り行 おこな うようになった[182] 。翌 よく 1869年 ねん 3月 がつ (明治 めいじ 2年 ねん 1月 がつ /2月 がつ )、ムニクウは37番地 ばんち に司祭 しさい 館 かん を建設 けんせつ し、毎週 まいしゅう 日曜日 にちようび に定期 ていき 的 てき な礼拝 れいはい を執 と り行 おこな うようになった[183] 。ただし居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん にはプロテスタント を信仰 しんこう する者 もの が多 おお く、参加 さんか 者 しゃ はそれほど多 おお くなかったとされる[184] 。続 つづ けてムニクウは37番地 ばんち に礼拝 れいはい 堂 どう を建設 けんせつ し、翌 よく 1870年 ねん 4月 がつ 17日 にち (明治 めいじ 3年 ねん 3月17日 にち )に献 けんじ 堂 どう 式 しき が行 おこな われた[185] 。この礼拝 れいはい 堂 どう は1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )に中山手通 なかやまてどおり 1丁目 ちょうめ に移設 いせつ され(中 ちゅう 山手教会 やまてきょうかい [186] )、カトリック神戸 こうべ 中央 ちゅうおう 教会 きょうかい のルーツの一 ひと つとなっている[187] 。
1870年 ねん 5月22日 にち (明治 めいじ 3年 ねん 4月 がつ 22日 にち )、アメリカン・ボード の宣教師 せんきょうし ダニエル・クロスビー・グリーン が18番地 ばんち でプロテスタント の定期 ていき 的 てき な礼拝 れいはい を執 と り行 おこな うようになった[188] [189] 。グリーンは教会 きょうかい の建設 けんせつ 運動 うんどう を行 おこな い、1872年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん /5年 ねん )、48番地 ばんち に教会 きょうかい (ユニオン教会 きょうかい 。1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )葺合 ふきあい 区 く 生田 いくた 町 まち 4丁目 ちょうめ に移転 いてん (旧 きゅう 神戸 こうべ ユニオン教会 きょうかい )[190] 。)が完成 かんせい した[191] 。ユニオン教会 きょうかい では1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )から1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )にかけて聖 せい 公会 こうかい の礼拝 れいはい も行 おこな われた[192] 。
聖 せい 公会 こうかい の礼拝 れいはい は1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )から行 おこな われるようになった。前述 ぜんじゅつ のように1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )から1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )にかけては48番地 ばんち のユニオン教会 きょうかい で礼拝 れいはい が行 おこな われ、1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )に下山手通 しもやまてどおり 3丁目 ちょうめ にオール・セインツ教会 きょうかい が完成 かんせい した後 のち は同 どう 教会 きょうかい で行 おこな われるようになった[192] 。オール・セインツ教会 きょうかい は太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう に焼失 しょうしつ し、再建 さいけん されることはなかった[193] 。
音楽 おんがく
海岸 かいがん 沿 ぞ いの通 とお りや内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん (後 ご の東遊 あずまあそび 園地 えんち )、神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC。後述 こうじゅつ )の体育館 たいいくかん 、西町 にしまち 公園 こうえん [† 21] では様々 さまざま な音楽 おんがく 活動 かつどう が行 おこな われた。活動 かつどう の主体 しゅたい としては各国 かっこく の軍楽隊 ぐんがくたい や私設 しせつ の音楽 おんがく 隊 たい 、プロおよびアマチュアの演奏 えんそう 家 か が挙 あ げられ、演奏 えんそう 会 かい のほか舞踏 ぶとう 会 かい 、スポーツ大会 たいかい などで演奏 えんそう を行 おこな った[196] 。KRAC は体育館 たいいくかん の運営 うんえい 費用 ひよう を賄 まかな うため、年 とし 1回 かい ないし3回 かい 、演劇 えんげき と併 あわ せてコンサートを催 もよお した[197] 。
スポーツ
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん が行 おこな ったスポーツ
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん は様々 さまざま なスポーツを行 おこな った。多 おお くはスポーツ組織 そしき (クラブ )の下 した で行 おこな われ、中 なか でも神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の下 した で行 おこな われたスポーツは多岐 たき にわたる。
スポーツ組織 そしき
ヒョーゴ・オーサカ・レースクラブ
1869年 ねん 3月1日 にち (明治 めいじ 2年 ねん 1月 がつ 19日 にち )、神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 初 はつ のスポーツ組織 そしき であるヒョウゴ・レース・クラブ(HRC。後 のち にヒョーゴ・オーサカ・レースクラブ (HORC) と改称 かいしょう 。以下 いか HORC と表記 ひょうき )が発足 ほっそく した[198] 。HORC は同年 どうねん 生田 いくた 神社 じんじゃ と旧 きゅう 生田川 いけだがわ の間 あいだ の土地 とち に常設 じょうせつ の競馬 けいば 場 じょう を建設 けんせつ し、定期 ていき 的 てき に競馬 けいば を開催 かいさい するようになった[199] [200] 。HORC は日本 にっぽん レース・倶楽部 くらぶ と人馬 じんば の交流 こうりゅう を行 おこな う[201] など活発 かっぱつ に活動 かつどう したが、その後 ご 財政 ざいせい 状態 じょうたい が悪化 あっか し、借地 しゃくち 料 りょう 支払 しはら い不能 ふのう に陥 おちい って競馬 けいば 場 じょう を失 うしな い1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )11月に解散 かいさん した[202] 。
神戸 こうべ クリケットクラブ(兵庫 ひょうご クリケットクラブ)
イギリス人 じん の居留民 きょりゅうみん が多 おお かった神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち では、同国 どうこく の伝統 でんとう 的 てき なスポーツであるクリケットの愛好 あいこう 家 か が開港 かいこう 当初 とうしょ から盛 さか んに活動 かつどう していた。1870年 ねん 1月 がつ 19日 にち (明治 めいじ 3年 ねん 12月18日 にち )、前年 ぜんねん 10月16日 にち (明治 めいじ 2年 ねん 9月12日 にち )にイギリス軍人 ぐんじん のチームを相手 あいて に試合 しあい を行 おこな った居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん チームの主力 しゅりょく メンバーが中心 ちゅうしん となり、兵庫 ひょうご クリケットクラブ (HCC) が設立 せつりつ された(翌 よく 1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )に神戸 こうべ クリケットクラブ (KCC) と改称 かいしょう [203] 。以下 いか KCC と表記 ひょうき )[204] 。KCC は長 なが らくグラウンドやメンバーの確保 かくほ に苦 くる しみ目立 めだ った活動 かつどう を行 おこな うことができずにいた[203] が、1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )5月 がつ に内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん (後 ご の東遊 あずまあそび 園地 えんち )が完成 かんせい して以降 いこう は活動 かつどう が活発 かっぱつ となり、同 どう 公園 こうえん 内 ない で毎週 まいしゅう のように試合 しあい を行 おこな った[205] 。1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )以降 いこう は野球 やきゅう の試合 しあい も行 おこな うようになった[206] 。KCC は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き まで存続 そんぞく した[207] 。
神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ
神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ
神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) は、1870年 ねん 9月 がつ 23日 にち (明治 めいじ 3年 ねん 8月 がつ 28日 にち )にアレキサンダー・キャメロン・シム の提唱 ていしょう により発足 ほっそく したスポーツクラブである[208] [209] 。KRAC は発足 ほっそく 当初 とうしょ から居留 きょりゅう 地 ち 東部 とうぶ にグラウンドを確保 かくほ し、発足 ほっそく から3か月 げつ 後 ご の1870年 ねん 12月(明治 めいじ 3年 ねん 閏 うるう 10月 がつ /11月)にボートハウスと体育館 たいいくかん [† 22] を、1871年 ねん 6月 がつ (明治 めいじ 4年 ねん 4月 がつ /5月 がつ )に水泳 すいえい 場 じょう を完成 かんせい させるなど順調 じゅんちょう に活動 かつどう を開始 かいし した[213] 。KRAC の会員 かいいん が競技 きょうぎ するスポーツはレガッタ・陸上 りくじょう 競技 きょうぎ ・ラグビー・テニス・水泳 すいえい ・水球 すいきゅう ・ライフル射撃 しゃげき など多岐 たき にわたった[214] 。1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )、KRAC は横浜 よこはま 居留 きょりゅう 地 ち において横浜 よこはま ボート・クラブ、日本 にっぽん ローイング・クラブとレガッタの対抗 たいこう 戦 せん を行 おこな った。これがきっかけとなって神戸 こうべ と横浜 よこはま のスポーツクラブとの間 あいだ で定期 ていき 的 てき にレガッタ・陸上 りくじょう 競技 きょうぎ ・クリケット・フットボール(ラグビー・サッカー)などの対抗 たいこう 戦 せん (インポートマッチ)が開催 かいさい されるようになった。インポートマッチは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の一 いち 時期 じき を除 のぞ き、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご も続 つづ けられている[215] 。
KRACの体育館 たいいくかん は会員 かいいん 以外 いがい にも開放 かいほう され、KRACのクラブハウスとしてだけではなく、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の市民 しみん ホールとしても機能 きのう した[216] 。この体育館 たいいくかん は劇場 げきじょう としても使用 しよう され、「体育館 たいいくかん 劇場 げきじょう 」、「居留 きょりゅう 地 ち 劇場 げきじょう 」などと呼 よ ばれた[217] 。KRAC は単 たん なるスポーツ組織 そしき ではなく、スポーツを通 つう じて居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん の親睦 しんぼく を深 ふか めるという役割 やくわり を果 は たし、ボランティア活動 かつどう [† 23] などの社会 しゃかい 活動 かつどう を行 おこな った[219] 。
内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん
東遊 あずまあそび 園地 えんち グラウンド
開港 かいこう 直後 ちょくご の1868年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん )クリスマスに、区画 くかく 整理 せいり が遅 おく れていた居留 きょりゅう 地 ち 東北 とうほく 部 ぶ に設 もう けられた馬場 ばば で競馬 けいば が催 もよお された。この開催 かいさい を契機 けいき に競馬 けいば の他 ほか にクリケット ・陸上 りくじょう 競技 きょうぎ などのスポーツが同地 どうち で行 おこな われるようになった。ただし居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん にとってこれはあくまでも区画 くかく 整備 せいび が完了 かんりょう するまでの仮 かり のグランドであり、スポーツを行 おこな うことができる正式 せいしき なグラウンド設置 せっち を求 もと める声 こえ が上 あ がった[220] 。居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん には日本 にっぽん 政府 せいふ がグラウンドの設置 せっち を保証 ほしょう しているという認識 にんしき があり[220] [† 24] 、1871年 ねん 4月 がつ 29日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 3月 がつ 10日 とおか )から同年 どうねん 7月 がつ 26日 にち (明治 めいじ 4年 ねん 6月 がつ 9日 にち )にかけて行 おこな われた旧 きゅう 生田川 いけだがわ の付 つ け替 か え工事 こうじ に伴 ともな って居留 きょりゅう 地 ち 東側 ひがしがわ に広大 こうだい な土地 とち が出現 しゅつげん すると、居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん の間 あいだ ではその土地 とち を利用 りよう してグラウンドが設置 せっち されると噂 うわさ されるようになった[222] 。
1872年 ねん 2月 がつ (明治 めいじ 4年 ねん 12月/明治 めいじ 5年 ねん 1月 がつ )、居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん の一部 いちぶ が独断 どくだん で土地 とち の一部 いちぶ に棒 ぼう 杭 くい を打 う ち込 こ んで所有 しょゆう 権 けん を主張 しゅちょう するという行動 こうどう に出 で た。日本 にっぽん 政府 せいふ はこの行動 こうどう に反発 はんぱつ したが、交渉 こうしょう の結果 けっか 1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )11月、外国 がいこく 人 じん と日本人 にっぽんじん が共同 きょうどう 利用 りよう する公園 こうえん という形 かたち でグラウンドの設置 せっち を認 みと めた[223] 。建設 けんせつ 費 ひ と維持 いじ 費 ひ は外国 がいこく 人 じん 側 がわ の負担 ふたん となった[224] が、開港 かいこう から約 やく 10年 ねん をかけて居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん はグラウンドを手 て に入 い れることができた。公園 こうえん は1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )5月 がつ に完成 かんせい し、内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん と名付 なづ けられた[116] 。
内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん のグラウンドは芝生 しばふ のグラウンドであった[225] 。内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん で居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん がラグビー・テニスなどに興 きょう じている姿 すがた を日本人 にっぽんじん が目 め にしたことは、それらの競技 きょうぎ が周辺 しゅうへん に普及 ふきゅう するきっかけとなったと評価 ひょうか されている[226] 。内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん は1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )の居留 きょりゅう 地 ち 撤廃 てっぱい に伴 ともな って日本 にっぽん に返還 へんかん され、神戸 こうべ 市 し が管理 かんり する公園 こうえん (加納 かのう 町 まち 遊 ゆう 園地 えんち 、1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )に東遊 あずまあそび 園地 えんち と改称 かいしょう )となった[226] 。公園 こうえん が持 も つスポーツを行 おこな うためのグラウンドとしての機能 きのう は居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご も、1962年 ねん (昭和 しょうわ 37年 ねん )に磯上 いそがみ 公園 こうえん (神戸 こうべ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 八幡 やはた 通 どおり )に移 うつ されるまで約 やく 90年 ねん にわたって維持 いじ された[227] 。
外字 がいじ 新聞 しんぶん
小泉 こいずみ 八雲 やくも (ラフカディオ・ハーン)
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち で最初 さいしょ に発行 はっこう された外字 がいじ 新聞 しんぶん は、A・T・ワトキンスが創刊 そうかん した「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」で、第 だい 1号 ごう の発行 はっこう は1868年 ねん 1月 がつ 4日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 12月10日 にち )である[228] 。続 つづ いて同年 どうねん 4月 がつ 23日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 4月 がつ 1日 にち )には「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」で植字 しょくじ 工 こう をしていたフィロメーノ・ブラガによって「ヒョーゴ・ニュース」が創刊 そうかん された[229] 。やがて「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」は購読 こうどく 料 りょう の安 やす い「ヒョーゴ・ニュース」に押 お され数 すう 年 ねん のうちに廃刊 はいかん となった[229] 。
1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )に入 はい り A・W・クイントンにより「コーベ・ヘラルド」が[230] [231] 、1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )10月 がつ 2日 にち にはロバート・ヤングにより「コーベ・クロニクル」が創刊 そうかん された[232] [233] 。「コーベ・クロニクル」では後述 こうじゅつ のように小泉 こいずみ 八雲 やくも (ラフカディオ・ハーン)が社説 しゃせつ を執筆 しっぴつ したこともある[234] [235] 。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 直後 ちょくご の1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )、「コーベ・クロニクル」は「ヒョーゴ・イヴニング・ニュース」と改称 かいしょう していた「ヒョーゴ・ニュース」を買収 ばいしゅう して社名 しゃめい を「ジャパン・クロニクル」に改 あらた め、神戸 こうべ のみならず日本 にっぽん において最大 さいだい の発行 はっこう 部数 ぶすう を記録 きろく する外字 がいじ 新聞 しんぶん に成長 せいちょう した[236] 。
「コーベ・ヘラルド」は1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん /昭和 しょうわ 元年 がんねん )に「コーベ・ヘラルド・オーサカ・ガゼット」と改称 かいしょう したがその後 ご まもなく廃刊 はいかん した[231] 。「ジャパン・クロニクル」は太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 なか の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )1月 がつ に廃刊 はいかん した[237] 。
社交 しゃこう クラブ
神戸 こうべ 倶楽部 くらぶ の建物 たてもの (1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )竣工 しゅんこう )
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち には2つの社交 しゃこう クラブ が存在 そんざい した。一 ひと つは1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん )にドイツ人 じん の居留民 きょりゅうみん が設立 せつりつ したクラブコンコルディアである。クラブコンコルディアはドイツ人 じん のみが入会 にゅうかい できる社交 しゃこう クラブであったが、居留 きょりゅう 地 ち の東 ひがし 端 はし に建設 けんせつ した施設 しせつ の維持 いじ 費 ひ を賄 まかな うためにドイツ人 じん 以外 いがい の入会 にゅうかい も認 みと めるようになり、オランダ人 じん ・ノルウェー人 じん ・スウェーデン人 じん などが入会 にゅうかい した[238] [239] 。
もう一 ひと つは1869年 ねん 5月5日 にち (明治 めいじ 2年 ねん 3月24日 にち )にアメリカ人 じん とイギリス人 じん が中心 ちゅうしん となって設立 せつりつ されたユニオンクラブ(インターナショナルクラブともいう。後 ご の神戸 こうべ 外国 がいこく 倶楽部 くらぶ )である。ユニオンクラブにはアメリカ人 じん ・イギリス人 じん のほかフランス人 じん ・イタリア人 じん などが入会 にゅうかい した。ユニオンクラブは居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の建物 たてもの (初 はじ めは31番地 ばんち 、次 つ いで32番地 ばんち 、79番地 ばんち (オリエンタルホテル の地下 ちか 。1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )[125] に本拠 ほんきょ を置 お いて活動 かつどう した[238] [240] 。
ドイツ帝国 ていこく 成立 せいりつ 後 ご 、クラブコンコルディア内部 ないぶ でドイツ人 じん 会員 かいいん と非 ひ ドイツ人 じん 会員 かいいん との対立 たいりつ が生 しょう じ、非 ひ ドイツ人 じん 会員 かいいん が大量 たいりょう に脱会 だっかい する事態 じたい となった。資金 しきん 難 なん に陥 おちい ったクラブコンコルディアは施設 しせつ をユニオンクラブに売却 ばいきゃく し[241] 、1881年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )頃 ごろ [242] 、ユニオンクラブと入 い れ替 か わりに79番地 ばんち のオリエンタルホテル地下 ちか に本拠 ほんきょ を移 うつ した[241] 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ するまでの間 あいだ 、2つのクラブの関係 かんけい は良好 りょうこう で、1890年代 ねんだい にオリエンタルホテルが火災 かさい により焼失 しょうしつ した際 さい にはクラブコンコルディアの会員 かいいん がユニオンクラブの施設 しせつ を利用 りよう できるよう、ユニオンクラブが配慮 はいりょ を示 しめ している[243] 。ユニオンクラブ(神戸 こうべ 外国 がいこく 倶楽部 くらぶ )は居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご も活動 かつどう を続 つづ けている[244] [245] 。
関 せき 帝廟 ていびょう
再建 さいけん された関 せき 帝廟 ていびょう
関 せき 帝廟 ていびょう は華僑 かきょう ・華人 かじん にとって商売 しょうばい 繁盛 はんじょう や家内 かない 安全 あんぜん を祈願 きがん する場 ば であり[246] 、精神 せいしん 的 てき な拠 よ り所 どころ である[247] 。清国 きよくに 人 じん は雑居 ざっきょ 地 ち 内 ない の2箇所 かしょ に関 せき 帝廟 ていびょう を建立 こんりゅう した。一 ひと つは1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )、清国 きよくに 人 じん の有力 ゆうりょく 者 しゃ 藍 あい 卓 たく 峰 ほう 、鄭 てい 萬 まん 高 だか 、麦 むぎ 少 しょう 彭らが大阪 おおさか 府 ふ 河内 かわち 郡 ぐん 布施 ふせ 村 むら の廃寺 はいじ 、慈眼 じげん 山 さん 長楽寺 ちょうらくじ を移設 いせつ する形 かたち で中山手通 なかやまてどおり 7丁目 ちょうめ に建立 こんりゅう したものである[248] 。長楽寺 ちょうらくじ の本尊 ほんぞん は十 じゅう 一 いち 面 めん 観世音菩薩 かんぜおんぼさつ であったが、移設 いせつ に伴 ともな い関 せき 帝 みかど 、天 てん 后 きさき 聖母 せいぼ などが合祀 ごうし された[249] 。この関 せき 帝廟 ていびょう は居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )6月 がつ に空襲 くうしゅう により焼失 しょうしつ したが、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )に再建 さいけん され、台湾 たいわん から輸入 ゆにゅう された関 せき 帝 みかど 像 ぞう が設置 せっち された[250] 。もう一 ひと つは同 おな じく1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )に加納 かのう 町 まち 2丁目 ちょうめ に建立 こんりゅう されたもので、同 おな じく1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )6月 がつ に空襲 くうしゅう により焼失 しょうしつ し、再建 さいけん されることはなかった[251] 。なお、中山手通 なかやまてどおり 6丁目 ちょうめ にあった中華 ちゅうか 会館 かいかん [† 25] にも関 せき 帝 みかど 像 ぞう が安置 あんち されており、中華 ちゅうか 会館 かいかん は関 せき 帝廟 ていびょう と呼 よ ばれていた[253] 。
再建 さいけん された関 せき 帝廟 ていびょう では毎年 まいとし 旧暦 きゅうれき 7月 がつ 14日 にち から16日 にち にかけて水陸 すいりく 普 あまね 度 たび 勝 かち 会 かい (盂蘭盆 うらぼん )がとり行 おこな われており、1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん )10月 がつ に神戸 こうべ 市 し の地域 ちいき 無形 むけい 民俗 みんぞく 文化財 ぶんかざい (第 だい 一 いち 号 ごう )に認定 にんてい された[254] 。
医療 いりょう
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん は開港 かいこう 当初 とうしょ から居留 きょりゅう 地 ち の衛生 えいせい 状態 じょうたい の悪 わる さを強 つよ く問題 もんだい 視 し していた[255] 。チフス に罹 かか る者 もの が多 おお く[256] 、さらに天然痘 てんねんとう やコレラ の蔓延 まんえん が懸念 けねん された[255] 。1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )5月 がつ には兵庫 ひょうご 県 けん が宇治 うじ 野村 のむら (後 ご の神戸 こうべ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 下山手通 しもやまてどおり 2丁目 ちょうめ )に日本人 にっぽんじん だけでなく外国 がいこく 人 じん も受 う け入 い れる病院 びょういん として兵庫 ひょうご 県 けん 病院 びょういん (神戸 こうべ 病院 びょういん [257] 。後 ご の神戸大学 こうべだいがく 医学部 いがくぶ 附属 ふぞく 病院 びょういん [258] )を開院 かいいん させた[259] が、1年 ねん あまりで医療 いりょう レベルの低 ひく さが喧伝 けんでん されるようになり、外国 がいこく 人 じん の間 あいだ からは自前 じまえ の病院 びょういん 設立 せつりつ を求 もと める声 こえ が高 たか まった[260] 。
外国 がいこく 人 じん 側 がわ は日本人 にっぽんじん と共同 きょうどう 利用 りよう する病院 びょういん の設置 せっち を模索 もさく したが兵庫 ひょうご 県 けん 側 がわ の反応 はんのう は芳 かんば しくなく、1871年 ねん 2月 がつ (明治 めいじ 4年 ねん 1月 がつ )になって寄付 きふ 金 きん を基 もと に単独 たんどく で兵庫 ひょうご 国際 こくさい 病院 びょういん (神戸 こうべ 万国 ばんこく 病院 びょういん 。後 ご の神戸 こうべ 海星 かいせい 病院 びょういん [261] )を設立 せつりつ することを決 き めた[262] 。1872年 ねん 7月 がつ (明治 めいじ 5年 ねん 5月 がつ /6月 がつ )に兵庫 ひょうご 国際 こくさい 病院 びょういん の医事 いじ 監督 かんとく に就任 しゅうにん したジョン・カッティング・ベリー は外国 がいこく 人 じん だけでなく日本人 にっぽんじん も診察 しんさつ する方針 ほうしん を採 と った[263] 。設立 せつりつ 当初 とうしょ の兵庫 ひょうご 国際 こくさい 病院 びょういん は生田 いくた 神社 じんじゃ 近 ちか くの民家 みんか [† 20] を借 か りたものであったが設備 せつび 面 めん の不備 ふび を指摘 してき する声 こえ が上 あ がり、1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )に新 あら たな病院 びょういん が山本通 やまもとどおり 1丁目 ちょうめ [† 20] に建設 けんせつ された[264] 。
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人数 にんずう
居留 きょりゅう 地 ち (後述 こうじゅつ の雑居 ざっきょ 地 ち を含 ふく む)に居留 きょりゅう した外国 がいこく 人 じん の人数 にんずう は以下 いか の通 とお りである(国籍 こくせき 別 べつ )[265] 。
年 とし
イギリス
アメリカ
ドイツ
フランス
オランダ
清 きよし
その他 た
合計 ごうけい
1871年 ねん
116
不明 ふめい
36
19
36
240
不明 ふめい
不明 ふめい
1878年 ねん
230
52
50
11
26
619
28
1016
1880年 ねん
194
63
42
10
10
517
22
858
1885年 ねん
144
37
42
12
11
630
27
903
1890年 ねん
310
87
87
59
13
1432
51
2039
1895年 ねん
449
121
177
29
15
988
129
1908
主 おも な居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん
実業 じつぎょう 家 か
東遊 あずまあそび 園地 えんち にあるアレキサンダー・キャメロン・シムの顕彰 けんしょう 碑 ひ
アレキサンダー・キャメロン・シム は1870年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん /3年 ねん )に神戸 こうべ に移住 いじゅう し、薬剤師 やくざいし として居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の薬局 やっきょく (レウェリン商会 しょうかい )に勤務 きんむ した後 のち 、居留 きょりゅう 地 ち 18番 ばん にシム商会 しょうかい を設立 せつりつ した[166] [266] 。シムは前述 ぜんじゅつ のように日本 にっぽん 初 はつ ともいわれるラムネを製造 せいぞう ・販売 はんばい し、神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の設立 せつりつ を提唱 ていしょう した人物 じんぶつ であるが、その他 た にも居留 きょりゅう 地 ち 内 ない で住民 じゅうみん が自主 じしゅ 的 てき に結成 けっせい した消防 しょうぼう 隊 たい の隊長 たいちょう を勤 つと め、防災 ぼうさい 活動 かつどう に力 ちから を注 そそ いだことでも知 し られる[267] 。シムは自宅 じたく 近 ちか くの公園 こうえん (西町 にしまち 公園 こうえん [† 21] )に設 もう けられた火 ひ の見櫓 みやぐら に登 のぼ り、見張 みは りをした[268] 。就寝 しゅうしん 時 じ も出動 しゅつどう に備 そな えて消防 しょうぼう 服 ふく とヘルメット、手斧 ちょうな を枕元 まくらもと に置 お き[268] 、消防 しょうぼう 隊長 たいちょう を務 つと めた間 あいだ 、シムが出動 しゅつどう しなかった火事 かじ はほとんどなかったと伝 つた えられている[269] 。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん に伴 ともな って消防 しょうぼう 隊 たい が消防 しょうぼう 組 ぐみ として神戸 こうべ 市 し へ移管 いかん された後 のち 、シムは消防 しょうぼう 組 ぐみ 名誉 めいよ 顧問 こもん に就任 しゅうにん し[269] 、特別 とくべつ に消防 しょうぼう 組 ぐみ を指揮 しき する権限 けんげん が与 あた えられた[270] 。シムは居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ の副 ふく 議長 ぎちょう も務 つと め、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 時 じ に行 おこな われた返還 へんかん 式 しき に病気 びょうき の居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ 議長 ぎちょう に代 か わって出席 しゅっせき し、引継 ひきつぎ 目録 もくろく と引継 ひきつぎ 書 しょ への調印 ちょういん ・署名 しょめい を行 おこな っている[271] 。
アーサー・ヘスケス・グルーム
トーマス・ブレーク・グラバー が設立 せつりつ したグラバー商会 しょうかい に勤 つと めていたアーサー・ヘスケス・グルーム は1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん )、支店 してん 開設 かいせつ のため神戸 こうべ を訪 おとず れた[272] 。グルームは1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )、グラバー商会 しょうかい の同僚 どうりょう ハイマンと共同 きょうどう で居留 きょりゅう 地 ち 101番 ばん にモーリヤン・ハイマン商会 しょうかい を設立 せつりつ し、日本 にっぽん 茶 ちゃ の輸出 ゆしゅつ とセイロンティー の輸入 ゆにゅう を手掛 てが けた[273] [274] 。グルーム1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )に息子 むすこ の名義 めいぎ で六甲山 ろっこうざん の山頂 さんちょう に借 か りた土地 とち に別荘 べっそう を建 た てると、さらに同山 どうさん の土地 とち を別荘 べっそう 地 ち として外国 がいこく 人 じん に分譲 ぶんじょう し、同山 どうさん 開発 かいはつ の礎 いしずえ を築 きず いた[275] [276] 。グルームはスポーツマンとしても知 し られ、前述 ぜんじゅつ の神戸 こうべ クリケットクラブと神戸 こうべ レガッタアンドアスレチッククラブの設立 せつりつ に関与 かんよ した[277] 。グルームが1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )に六甲 ろっこう 山 さん に開設 かいせつ した4ホールのプライベートゴルフコースは日本 にっぽん 初 はつ のゴルフコースであり[278] 、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご の1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )に会員 かいいん 制 せい のゴルフ場 じょう (神戸 こうべ ゴルフ倶楽部 くらぶ )に発展 はってん した[279] 。1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )から1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )にかけて前述 ぜんじゅつ のオリエンタルホテルを経営 けいえい する会社 かいしゃ の社長 しゃちょう を務 つと めたこともある[274] [280] 。
エドワード・チャールズ・キルビー は開港 かいこう 直後 ちょくご にキルビー商会 しょうかい を設立 せつりつ し、機械 きかい や雑貨 ざっか の輸入 ゆにゅう 業 ぎょう を営 いとな んだ[281] [282] [283] [284] 。1869年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん /2年 ねん )、キルビーはイギリス人 じん 2名 めい と共同 きょうどう 経営 けいえい で小野浜 おのはま 鉄工 てっこう 所 しょ を設立 せつりつ し、さらに単独 たんどく で小野浜 おのはま 造船 ぞうせん 所 しょ を設立 せつりつ 、造船 ぞうせん 業 ぎょう を営 いとな んだ[285] 。小野浜 おのはま 造船 ぞうせん 所 しょ は1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )に日本 にっぽん 初 はつ の鉄製 てつせい 蒸気 じょうき 船 せん である「第 だい 一太 かずた 湖 こ 丸 まる 」(琵琶湖 びわこ の鉄道 てつどう 連絡 れんらく 船 せん )を建造 けんぞう するなど神戸 こうべ における造船 ぞうせん 業 ぎょう の発展 はってん に大 おお きく貢献 こうけん したがその後 ご 経営 けいえい 難 なん に陥 おちい り、キルビーは1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )に自殺 じさつ した[286] [287] [288] [289] 。
エドワード・ハズレット・ハンター
キルビー商会 しょうかい に勤務 きんむ していたエドワード・ハズレット・ハンター は同 どう 商会 しょうかい から独立 どくりつ 後 ご の1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )、居留 きょりゅう 地 ち 29番 ばん 館 かん にハンター商会 しょうかい を設立 せつりつ し、貿易 ぼうえき 業 ぎょう を営 いとな んだ[290] [291] 。さらにハンターは1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )に大阪 おおさか の材木 ざいもく 商 しょう ・門田 かどた 三郎兵衛 さぶろべえ の協力 きょうりょく を得 え て大阪 おおさか 安治川 あじがわ の河口 かこう に大阪 おおさか 鉄工 てっこう 所 しょ (日立造船 ひたちぞうせん の前身 ぜんしん )を設立 せつりつ し、造船 ぞうせん 業 ぎょう にも進出 しんしゅつ した[292] 。ハンターは1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )に当時 とうじ の技術 ぎじゅつ では困難 こんなん といわれた木造 もくぞう 乾 いぬい ドック の建造 けんぞう に成功 せいこう し、大阪 おおさか 鉄工 てっこう 所 しょ を関西 かんさい を代表 だいひょう する造船 ぞうせん 所 しょ に成長 せいちょう させることに成功 せいこう した[293] 。ハンターは多角 たかく 経営 けいえい によって事業 じぎょう を軌道 きどう に乗 の せた[294] 。1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )に日本 にっぽん 政府 せいふ がとったデフレ政策 せいさく の影響 えいきょう で大阪 おおさか 造船 ぞうせん 所 しょ の経営 けいえい が行 い き詰 づ まった際 さい には精米 せいまい の輸出 ゆしゅつ 事業 じぎょう によって得 え た収益 しゅうえき で窮状 きゅうじょう を凌 しの いだが、この時 とき ハンターが外国 がいこく に輸出 ゆしゅつ した精米 せいまい は年間 ねんかん 1万 まん トンを超 こ え、ロンドンの穀物 こくもつ 市場 いちば では神戸 こうべ からの輸入 ゆにゅう 米 まい が価格 かかく 形成 けいせい における標準 ひょうじゅん 米 まい となった[159] [295] 。晩年 ばんねん のハンターは事業 じぎょう を息子 むすこ の範 はん 多 た 龍太郎 りゅうたろう に譲 ゆず り、居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん による不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく の改正 かいせい に賛成 さんせい する決議 けつぎ のとりまとめに尽力 じんりょく するなど、日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん の交流 こうりゅう の深化 しんか に努 つと めた[296] 。
トーマスとジョンのウォルシュ兄弟 きょうだい は開港 かいこう 直後 ちょくご に神戸 こうべ に移住 いじゅう し、ウォルシュ商会 しょうかい (後 のち にウォルシュ・ホール商会 しょうかい に改名 かいめい )を設立 せつりつ して貿易 ぼうえき 業 ぎょう を営 いとな んだ[297] 。ウォルシュ・ホール商会 しょうかい は当時 とうじ の欧米 おうべい で製紙 せいし の材料 ざいりょう にされていた木綿 こわた を日本 にっぽん で買 か いつけて輸出 ゆしゅつ する事業 じぎょう を手掛 てが けた[298] 。当時 とうじ 木綿 もめん は石灰 せっかい で固 かた めて輸出 ゆしゅつ されていたが、輸送 ゆそう 中 ちゅう に木綿 もめん に含 ふく まれる水分 すいぶん と化学 かがく 反応 はんのう を起 お こして発熱 はつねつ ・発火 はっか する事故 じこ が多発 たはつ していた。そこでウォルシュ・ホール商会 しょうかい は木綿 もめん をパルプ 状 じょう にして輸送 ゆそう することを発案 はつあん し、大 おお きな収益 しゅうえき を得 え た[299] 。さらにウォルシュ兄弟 きょうだい は三宮 さんのみや [† 20] に製紙 せいし 工場 こうじょう (神戸 こうべ 製紙 せいし 所 しょ 。三菱製紙 みつびしせいし の前身 ぜんしん )を建設 けんせつ して製紙 せいし 業 ぎょう も手掛 てが けた[300] 。
著作 ちょさく 家 か
東遊 あずまあそび 園地 えんち にあるモラエスの銅像 どうぞう
小泉 こいずみ 八雲 やくも (ラフカディオ・ハーン)は1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )から1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )までの間 あいだ 、神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち で活動 かつどう した。小泉 こいずみ はバジル・ホール・チェンバレン の紹介 しょうかい で居留 きょりゅう 地 ち 内 ない にあった新聞 しんぶん 社 しゃ コーベ・クロニクル(後 ご のジャパン・クロニクル)に就職 しゅうしょく し[301] 、4か月 げつ にわたり同紙 どうし の社説 しゃせつ において評論 ひょうろん 活動 かつどう を行 おこな った[234] 。小泉 こいずみ が日本 にっぽん への帰化 きか を決意 けつい したのは神戸 こうべ 在住 ざいじゅう 時 じ のことである[302] 。1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )、小泉 こいずみ は東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく で教鞭 きょうべん をとるため神戸 こうべ を去 さ り東京 とうきょう へ移住 いじゅう した[303] 。
ヴェンセスラウ・デ・モラエス は1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )、居留 きょりゅう 地 ち 内 ない に設 もう けられたポルトガル の副 ふく 領事館 りょうじかん に初代 しょだい 副 ふく 領事 りょうじ として赴任 ふにん (まもなく領事館 りょうじかん の初代 しょだい 領事 りょうじ に昇進 しょうしん )し、1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )まで神戸 こうべ に居住 きょじゅう した[303] [304] 。モラエスは1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )から日本 にっぽん に関 かん する随筆 ずいひつ をポルトガルの新聞 しんぶん 「コメルシオ・ド・ポルト」に連載 れんさい した[305] 。
キリスト教 きりすときょう 宣教師 せんきょうし
ウォルター・ラッセル・ランバス
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち を訪 おとず れたキリスト教 きりすときょう 宣教師 せんきょうし は、布教 ふきょう のみならず教育 きょういく ・医療 いりょう ・福祉 ふくし の分野 ぶんや でも活躍 かつやく した。
南 みなみ メソジスト教会 きょうかい の宣教師 せんきょうし ジェームス・ウィリアム・ランバス とウォルター・ラッセル・ランバス の父子 ふし は1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )秋 あき に居留 きょりゅう 地 ち 47番 ばん 館 かん の自宅 じたく を開放 かいほう して英語 えいご と聖書 せいしょ の講義 こうぎ 所 しょ を開設 かいせつ し、「パルモア学院 がくいん 」と名付 なづ けた[306] 。パルモア学院 がくいん は英会話 えいかいわ 学校 がっこう のパルモア学院 がくいん 専門 せんもん 学校 がっこう へと発展 はってん し[307] 、同 どう 学院 がくいん 女子 じょし 部 ぶ は啓明 けいめい 学院 がくいん の前身 ぜんしん となった[306] [308] 。さらにジェームスは広島 ひろしま 女学校 じょがっこう (後 ご の広島女学院大学 ひろしまじょがくいんだいがく )保母 ほぼ 師範 しはん 科 か (聖和 せいわ 大学 だいがく [† 26] の前身 ぜんしん の一 ひと つ)の設立 せつりつ に関与 かんよ し[309] 、ウォルターは1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )に関西学院 かんせいがくいん を設立 せつりつ した[310] 。またジェームスの妻 つま メアリー・イザベラ・ランバス は、1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )に神戸 こうべ 婦人 ふじん 伝道 でんどう 学校 がっこう (後 ご のランバス記念 きねん 伝道 でんどう 女学校 じょがっこう 。前述 ぜんじゅつ した広島 ひろしま 女学校 じょがっこう 保母 ほぼ 師範 しはん 科 か と共 とも に聖和 せいわ 大学 だいがく [† 26] の前身 ぜんしん の一 ひと つ)を設立 せつりつ したことで知 し られる[309] 。
ジュリア・ダッドレー
前述 ぜんじゅつ のアメリカン・ボードに所属 しょぞく する女性 じょせい 宣教師 せんきょうし 、イライザ・タルカット とジュリア・ダッドレー は女子 じょし 教育 きょういく の向上 こうじょう に努 つと め、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )、諏訪山 すわやま の麓 ふもと に兵庫 ひょうご 県 けん 初 はつ の女学校 じょがっこう (通称 つうしょう 「神戸 こうべ ホーム」。神戸女学院大学 こうべじょがくいんだいがく の前身 ぜんしん )を創設 そうせつ した[311] [312] 。さらにダッドレーは1880年 ねん (明治 めいじ 13年 ねん )に神戸 こうべ 女子 じょし 伝道 でんどう 学校 がっこう (後 ご の神戸 こうべ 女子 じょし 神学校 しんがっこう 。前述 ぜんじゅつ した広島 ひろしま 女学校 じょがっこう 保母 ほぼ 師範 しはん 科 か 、神戸 こうべ 婦人 ふじん 伝道 でんどう 学校 がっこう と共 とも に聖和 せいわ 大学 だいがく [† 26] の前身 ぜんしん の一 ひと つ)を設立 せつりつ した[313] 。
アメリカン・ボードの宣教師 せんきょうし ジョン・カッティング・ベリー は前述 ぜんじゅつ のように兵庫 ひょうご 国際 こくさい 病院 びょういん (神戸 こうべ 万国 ばんこく 病院 びょういん 。後 ご の神戸 こうべ 海星 かいせい 病院 びょういん [261] )の医事 いじ 監督 かんとく を務 つと めたほか、兵庫 ひょうご 県 けん 病院 びょういん (神戸 こうべ 病院 びょういん [257] 。後 ご の神戸大学 こうべだいがく 医学部 いがくぶ 附属 ふぞく 病院 びょういん [258] )の支配 しはい 頭 あたま に就任 しゅうにん し、神戸 こうべ ・姫路 ひめじ ・三田 みた で精力 せいりょく 的 てき に医療 いりょう 活動 かつどう を行 おこな った[314] [315] 。1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )1月 がつ には神戸 こうべ 病院 びょういん において兵庫 ひょうご 県 けん 史上 しじょう 初 はつ の人体 じんたい 解剖 かいぼう を行 おこな っている[316] [317] 。ベリーは1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )に神戸 こうべ の監獄 かんごく でコレラが大 だい 流行 りゅうこう した際 さい に兵庫 ひょうご 県 けん の要請 ようせい を受 う けて監獄 かんごく 内 ない に立 た ち入 い り、監獄 かんごく 内 ない の不衛生 ふえいせい な環境 かんきょう や囚人 しゅうじん に対 たい する非 ひ 人道的 じんどうてき な扱 あつか いを目 め にした。ベリーは兵庫 ひょうご 県知事 けんちじ に監獄 かんごく 制度 せいど の改善 かいぜん を訴 うった え、複数 ふくすう の宣教師 せんきょうし がベリーに続 つづ いて監獄 かんごく を視察 しさつ し、制度 せいど 改善 かいぜん 案 あん を日本 にっぽん 政府 せいふ に提出 ていしゅつ した[318] 。
幼 おさな きイエズス会 かい の修道 しゅうどう 女 おんな フィロメナ・バレンティン・アントニン は、1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )頃 ごろ から居留 きょりゅう 地 ち 41番地 ばんち の女子 じょし 教育 きょういく 院 いん で孤児 こじ の世話 せわ をした。アントニンの活動 かつどう は太平洋戦争 たいへいようせんそう 終結 しゅうけつ 後 ご まで続 つづ き、生涯 しょうがい に世話 せわ をした孤児 こじ は数 すう 百 ひゃく 人 にん に上 のぼ った[319] 。
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん の墓地 ぼち
神戸 こうべ 市立 しりつ 外国 がいこく 人 じん 墓地 ぼち
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん のための墓地 ぼち は初 はじ め、江戸 えど 幕府 ばくふ によって小野 おの 浜 はま 新田 にった (後 ご の神戸 こうべ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 浜辺通 はまべどおり 6丁目 ちょうめ )に用意 ようい された[† 27] [324] 。墓地 ぼち の管理 かんり は居留 きょりゅう 地 ち 会議 かいぎ 行事 ぎょうじ 局 きょく が行 おこな い、返還 へんかん 後 ご は神戸 こうべ 市 し へ移管 いかん された[324] 。
居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご の1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )、神戸 こうべ 市 し は小野浜 おのはま 外国 がいこく 人 じん 墓地 ぼち が飽和 ほうわ 状態 じょうたい になったことへの対策 たいさく として、葺合 ふきあい 村 むら 春日野 かすがの (後 ご の神戸 こうべ 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 籠池通 かごいけどおり 4丁目 ちょうめ )に墓地 ぼち を増設 ぞうせつ した(春日野 かすがの 外国 がいこく 人 じん 墓地 ぼち )[324] 。しかし同 どう 墓地 ぼち もやがて飽和 ほうわ 状態 じょうたい となり、神戸 こうべ 市 し は中央 ちゅうおう 区 く にある再度山 ふたたびさん で墓地 ぼち の建設 けんせつ を開始 かいし した。この新 あら たな墓地 ぼち (神戸 こうべ 市立 しりつ 外国 がいこく 人 じん 墓地 ぼち )は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん による中断 ちゅうだん を挟 はさ んで1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )に完成 かんせい し、まず同年 どうねん に小野浜 おのはま 新田 しんでん の墓地 ぼち が、次 つ いで1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )に春日野 かすがの の墓地 ぼち が移転 いてん された[324] 。
周辺 しゅうへん 地域 ちいき に与 あた えた影響 えいきょう
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち は貿易 ぼうえき の拠点 きょてん 、西洋 せいよう 文化 ぶんか の入 い り口 くち として栄 さか え、周辺 しゅうへん 地域 ちいき に経済 けいざい 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう を与 あた えた[6] 。
開港 かいこう 前 まえ 、周辺 しゅうへん 地域 ちいき における交易 こうえき の中心 ちゅうしん は兵庫 ひょうご 津 つ であり、兵庫 ひょうご 津 つ を中心 ちゅうしん に市街地 しがいち が形成 けいせい されていた[325] 。しかし兵庫 ひょうご 開港 かいこう によって居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん の経済 けいざい 活動 かつどう が活発 かっぱつ となり、新 あら たな市街地 しがいち が形成 けいせい されていった[† 28] 。そして1890年代 ねんだい 初 はじ めには居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん と兵庫 ひょうご 津 つ 周辺 しゅうへん の市街地 しがいち は一 いち 続 つづ きの市街地 しがいち を形成 けいせい するようになった[56] 。なお前述 ぜんじゅつ のように、兵庫 ひょうご 開港 かいこう においては兵庫 ひょうご 津 つ ではなく神戸 こうべ 村 むら の海岸 かいがん に建設 けんせつ された新 あら たな港 みなと が外国 がいこく に開放 かいほう された[1] が、この港 みなと は1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )に勅 みことのり 令 れい により神戸 こうべ 港 こう とされ[16] 、さらに同年 どうねん 神戸 こうべ 港 こう の港 みなと 域 いき は拡大 かくだい され兵庫 ひょうご 津 つ を含 ふく むようになった[22] [23] 。
文化 ぶんか 面 めん ではまず食生活 しょくせいかつ への影響 えいきょう が挙 あ げられる。前述 ぜんじゅつ のように神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん では1869年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん /2年 ねん )に日本人 にっぽんじん 経営 けいえい の牛肉 ぎゅうにく 料理 りょうり 屋 や 「関門 かんもん 月下 げっか 亭 てい 」が開店 かいてん し[172] 1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )に日本人 にっぽんじん 経営 けいえい の牛肉 ぎゅうにく 店 てん である大井 おおい 肉 にく 店 てん と森谷 もりたに 商店 しょうてん が開店 かいてん [172] するなど、開港 かいこう 後 ご 間 あいだ もない頃 ころ から日本人 にっぽんじん が業 ぎょう として牛肉 ぎゅうにく を取 と り扱 あつか い、食 しょく するようになった。同 おな じ時期 じき に牛乳 ぎゅうにゅう やパン を食 しょく する習慣 しゅうかん も広 ひろ まった[326] 。建築 けんちく の面 めん では1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )に兵庫 ひょうご 県 けん が居留 きょりゅう 地 ち 近辺 きんぺん の市街地 しがいち について洋風 ようふう のデザインを採用 さいよう するよう奨励 しょうれい する政策 せいさく を打 う ち出 だ し、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご に実際 じっさい に建築 けんちく 物 ぶつ の洋風 ようふう 化 か が進 すす むようになった[327] 。スポーツの面 めん では前述 ぜんじゅつ のように、内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん で居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん がラグビー・テニスなどに興 きょう じている姿 すがた を日本人 にっぽんじん が目 め にしたことでそれらの競技 きょうぎ が周辺 しゅうへん に普及 ふきゅう するきっかけが生 う まれたと評価 ひょうか されている[226] 。宗教 しゅうきょう の面 めん ではキリスト教徒 きりすときょうと が増加 ぞうか した[328] 。福原 ふくはら 遊郭 ゆうかく は、居留 きょりゅう 地 ち の造成 ぞうせい にあたった柴田 しばた 剛 つよし 中 ちゅう が「開港 かいこう によって軍艦 ぐんかん や商船 しょうせん が渡来 とらい し、水夫 すいふ その他 た の軽輩 けいはい のものが出入 でい りするので遊女 ゆうじょ 屋 や がなくては不 ふ 取締 とりしまり である」と外国 がいこく 人 じん 向 む けの遊郭 ゆうかく の建設 けんせつ を上申 じょうしん したことにより[329] 、1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん )に雑居 ざっきょ 地 ち の外側 そとがわ に当 あ たる宇治川 うじがわ の河口 かこう に設置 せっち され[330] 、1870年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん /3年 ねん )に一帯 いったい が鉄道 てつどう の停車場 ていしゃじょう 建設 けんせつ 用地 ようち に選定 せんてい されたことを受 う け湊川 みなとがわ 堤 つつみ の東 ひがし 、西国 さいごく 街道 かいどう の北 きた (新 しん 福原 ふくはら )に移転 いてん した[331] 。福原 ふくはら 遊郭 ゆうかく は外国 がいこく 人 じん の顧客 こきゃく を抱 かか え、遊郭 ゆうかく 内 ない には和洋折衷 わようせっちゅう の建物 たてもの も存在 そんざい した[332] 。
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち が存在 そんざい したことで神戸 こうべ 市 し はモダンでハイカラ、エキゾチックな雰囲気 ふんいき をもち[333] 、ベンチャー精神 せいしん に富 と んだ[333] 、外国 がいこく 人 じん に対 たい し受容 じゅよう 的 てき [334] な都市 とし として発展 はってん したと評価 ひょうか されている。さらに前述 ぜんじゅつ のように、雑居 ざっきょ 地 ち において日本人 にっぽんじん が外国 がいこく 人 じん を身近 みぢか に接 せっ しながら暮 く らし、「生活 せいかつ レベルでの国際 こくさい 交流 こうりゅう 」が行 おこな われたことは、日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん が共生 きょうせい する「多 た 民族 みんぞく ・多 た 文化 ぶんか 共生 きょうせい 都市 とし 」としての神戸 こうべ 市 し の原型 げんけい を形成 けいせい したと評価 ひょうか されている[144] [† 29] 。
他 た の外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち との比較 ひかく
居留 きょりゅう 地 ち の面積 めんせき (居住 きょじゅう 面積 めんせき )を比較 ひかく すると、横浜 よこはま ・長崎 ながさき に次 つ ぐ3番目 ばんめ で、横浜 よこはま の約 やく 1 / 7 、長崎 ながさき の約 やく 1 / 2 ほどである。ただし厳密 げんみつ には横浜 よこはま は2つ(横浜 よこはま (関内 かんない )・山手 やまて )、長崎 ながさき は8つ(大浦 おおうら ・下松 くだまつ ・梅 うめ ヶ崎 さき ・出島 でじま ・新地 さらち ・広馬場 ひろばば ・東山手 ひがしやまて ・南山手 みなみやまて )の居留 きょりゅう 地 ち の集 あつ まりである。横浜 よこはま については横浜 よこはま (関内 かんない )(129374坪 つぼ )・山手 やまて (218823坪 つぼ )ともに単独 たんどく でも神戸 こうべ の面積 めんせき を上回 うわまわ っているが、長崎 ながさき については最 もっと も広 ひろ い南山手 みなみやまて (44140坪 つぼ )でも単独 たんどく では神戸 こうべ を下回 したまわ る。雑居 ざっきょ 地 ち の面積 めんせき (居住 きょじゅう 面積 めんせき )は横浜 よこはま ・築地 つきじ に次 つ ぐ3番目 ばんめ である[135] 。
神戸 こうべ では居留 きょりゅう 地 ち が雑居 ざっきょ 地 ち よりも広 ひろ いが、築地 つきじ と函館 はこだて では逆 ぎゃく に雑居 ざっきょ 地 ち が居留 きょりゅう 地 ち よりも広 ひろ い。その要因 よういん としてはまず築地 つきじ の場合 ばあい 、そもそも居留 きょりゅう 地 ち が通商 つうしょう ・貿易 ぼうえき のための居住 きょじゅう 地 ち であるところ、近在 きんざい する貿易 ぼうえき 拠点 きょてん である横浜 よこはま ではなく築地 つきじ に敢 あ えて住 す もうとする商人 しょうにん が少 すく なかった上 うえ に、勤務 きんむ 地 ち に近 ちか い雑居 ざっきょ 地 ち に住 す みたいという外交 がいこう 官 かん やお雇 やと い外国 がいこく 人 じん が数多 かずおお くいたことが挙 あ げられる[336] 。また、函館 はこだて では居留 きょりゅう 地 ち に設定 せってい された土地 とち の条件 じょうけん が悪 わる かったためにほとんどの居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん が雑居 ざっきょ 地 ち に居住 きょじゅう した[337] 。
居留 きょりゅう 外国 がいこく 人数 にんずう を見 み ると、居留 きょりゅう 地 ち の面積 めんせき が神戸 こうべ よりも広 ひろ い横浜 よこはま は1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )の時点 じてん で4946人 にん [338] 、長崎 ながさき は明治 めいじ 元年 がんねん (1868/1869年 ねん )の時点 じてん で938人 にん [339] 、居留 きょりゅう 地 ち が返還 へんかん された1899年 ねん の時点 じてん では1711人 にん である[340] 。築地 つきじ は神戸 こうべ に次 つ ぐ規模 きぼ を持 も ち、雑居 ざっきょ 地 ち の面積 めんせき では神戸 こうべ を上回 うわまわ っていたが、居留 きょりゅう 地 ち および雑居 ざっきょ 地 ち の外 そと における不正 ふせい 居住 きょじゅう が横行 おうこう し、居留 きょりゅう 地 ち および雑居 ざっきょ 地 ち における外国 がいこく 人数 にんずう は1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )9月 がつ の時点 じてん で72人 にん 、1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )の時点 じてん で97人 にん にとどまった[341] 。
各 かく 居留 きょりゅう 地 ち の面積 めんせき (1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )末 まつ ) 単位 たんい :坪 つぼ
居留 きょりゅう 地名 ちめい
横浜 よこはま
長崎 ながさき
函館 はこだて
築地 つきじ
神戸 こうべ
川口 かわぐち
居留 きょりゅう 地 ち 面積 めんせき (居住 きょじゅう 地 ち のみ) [135]
348197[† 30]
105787[† 31]
1730
26162
49645
7747
雑居 ざっきょ 地 ち 面積 めんせき (居住 きょじゅう 地 ち のみ) [135]
36216
2973
13216
33323
26756
3578
神戸 こうべ と横浜 よこはま は、共 とも に明治 めいじ における対外 たいがい 的 てき な窓口 まどぐち として発展 はってん した[342] 。しかし神戸 こうべ では日本 にっぽん 側 がわ と外国 がいこく 側 がわ との関係 かんけい が概 おおむ ね良好 りょうこう であったと評価 ひょうか されている[5] のに対 たい し、横浜 よこはま では日本人 にっぽんじん 商人 しょうにん が不平等 ふびょうどう な商 しょう 慣行 かんこう に抗議 こうぎ して外国 がいこく 商人 しょうにん との取引 とりひき をボイコットする騒動 そうどう (内外 ないがい 商 しょう 紛議 ふんぎ )が毎年 まいとし のように発生 はっせい するなど、日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん の関係 かんけい が最 もっと も険悪 けんあく であったとされる[98] 。このような差 さ が生 しょう じた要因 よういん としては、神戸 こうべ では開港 かいこう が横浜 よこはま よりも8年 ねん あまり遅 おく れたため、その間 あいだ に日本 にっぽん で活動 かつどう する悪質 あくしつ な外国 がいこく 商人 しょうにん が淘汰 とうた され、さらに日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん が互 たが いについて理解 りかい を深 ふか める時間 じかん が得 え られたという「後発 こうはつ 者 しゃ のメリット」が指摘 してき されている[343] [344] 。
一方 いっぽう 、開港 かいこう 場 じょう が決 き まった経緯 けいい では神戸 こうべ と横浜 よこはま の間 あいだ に共通 きょうつう 点 てん がある。前述 ぜんじゅつ のように江戸 えど 幕府 ばくふ は安政 あんせい 五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく において取 と り決 き めた「兵庫 ひょうご 開港 かいこう 」について、兵庫 ひょうご 津 つ ではなく後 のち の神戸 こうべ 港 こう を外国 がいこく に開放 かいほう した[1] 。横浜 よこはま 居留 きょりゅう 地 ち に関 かん しても同様 どうよう の動 うご きがあり、江戸 えど 幕府 ばくふ は「神奈川 かながわ 開港 かいこう 」について神奈川 かながわ 宿 やど ではなく当時 とうじ 寒村 かんそん であった横浜 よこはま 村 むら を開放 かいほう した[345] 。「兵庫 ひょうご 開港 かいこう 」では外交 がいこう 上 じょう のトラブルは生 しょう じなかったが、「神奈川 かながわ 開港 かいこう 」では江戸 えど 幕府 ばくふ が神奈川 かながわ 宿 やど の開放 かいほう を強 つよ く求 もと める外国 がいこく 側 がわ を押 お し切 き って横浜 よこはま 村 むら の整備 せいび を進 すす め、結果 けっか 的 てき に横浜 よこはま 村 むら 近辺 きんぺん のほうが神奈川 かながわ 宿 やど 近辺 きんぺん よりも水深 すいしん が深 ふか く港 みなと に適 てき した地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん を備 そな えていることが判明 はんめい したため外国 がいこく 側 がわ が江戸 えど 幕府 ばくふ の決定 けってい を追認 ついにん したという経緯 けいい がある[346] 。
ギャラリー
居留 きょりゅう 地 ち のメインストリートであった
京町 きょうまち 通 とおる
北町 きたまち 通 どおり
仲町 なかまち 通 とおる
前町 まえまち 通 とおる
海岸 かいがん 通 どおり (
国道 こくどう 2号 ごう 、
明石 あかし 町筋 まちすじ との
交差点 こうさてん )
明石 あかし 町筋 まちすじ
浪花 なにわ 町筋 まちすじ
江戸 えど 町筋 まちすじ
2010年 ねん (
平成 へいせい 22
年 ねん )に
営業 えいぎょう を
再開 さいかい させたオリエンタルホテル(
神戸 こうべ 旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 25
番 ばん 館 かん )
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 跡 あと の碑 いしぶみ (大丸 だいまる 神戸 こうべ 店 てん 前 まえ )
神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 跡 あと の碑 いしぶみ (旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 95番地 ばんち )
大丸 だいまる 神戸 こうべ 店 てん 。旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち の北西 ほくせい 角 かく に位置 いち する。
花 はな 時計 とけい 。
旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち の
北東 ほくとう 角 かく に
位置 いち する。
兵庫 ひょうご 県 けん 農業会館 のうぎょうかいかん 。旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち の南西 なんせい 角 かく に位置 いち する。
東遊 あずまあそび 園地 えんち 南端 なんたん 。旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち の南東 なんとう 角 かく に位置 いち する。
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
^ 1867年 ねん 1月 がつ 10日 とおか (慶応 けいおう 2年 ねん 12月5日 にち )に江戸 えど 幕府 ばくふ 第 だい 15代 だい 征夷大将軍 せいいたいしょうぐん に就任 しゅうにん した徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ は2度 ど にわたって兵庫 ひょうご 開港 かいこう の勅許 ちょっきょ を要請 ようせい したがいずれも却下 きゃっか され、慶喜 よしのぶ 自身 じしん が参内 さんだい して開催 かいさい を要求 ようきゅう した朝議 ちょうぎ を経 へ てようやく勅許 ちょっきょ を得 え ることができた[13] 。
^ 『神戸 こうべ 市 し 史 し 本編 ほんぺん 総説 そうせつ 』には「外人 がいじん 嫌悪 けんお の思想 しそう 、邦人 ほうじん に蔓延 まんえん し居 い たりし当時 とうじ 」という記述 きじゅつ が見 み られる[17] 。
^ なお、兵庫 ひょうご 開港 かいこう から間 あいだ もない1868年 ねん 2月 がつ 4日 にち (慶応 けいおう 4年 ねん 1月 がつ 11日 にち )、西宮 にしのみや へ向 む けて西国 さいごく 街道 かいどう を移動 いどう 中 ちゅう であった備前 びぜん 藩 はん 兵 へい が居留 きょりゅう 地 ち にほど近 ちか い三宮 さんのみや 神社 じんじゃ 前 まえ において隊列 たいれつ を横切 よこぎ った外国 がいこく 人 じん (イギリス公使 こうし 護衛 ごえい 隊員 たいいん 2名 めい とフランス水兵 すいへい 2名 めい )に向 む けて発砲 はっぽう し負傷 ふしょう させる事件 じけん (神戸 こうべ 事件 じけん )が発生 はっせい している。この事件 じけん は明治 めいじ 政府 せいふ にとって初 はつ の外交 がいこう 事件 じけん となった[19] 。
^ 当時 とうじ の人口 じんこう は兵庫 ひょうご 津 つ 周辺 しゅうへん が約 やく 2万 まん 人 にん [17] 、神戸 こうべ 村 むら が約 やく 3600人 にん [20] 。
^ 江戸 えど 幕府 ばくふ の兵庫 ひょうご 奉行 ぶぎょう として居留 きょりゅう 地 ち の造成 ぞうせい に当 あ たった柴田 しばた 剛 つよし 中 なか は、六甲山地 ろっこうさんち の北側 きたがわ に西国 さいごく 街道 かいどう の迂回 うかい 路 ろ を設 もう けることを計画 けいかく した。これは西国 さいこく 街道 かいどう が居留 きょりゅう 地 ち の北端 ほくたん と接 せっ していたため、街道 かいどう において日本人 にっぽんじん と外国 がいこく 人 じん との衝突 しょうとつ が起 お こることを避 さ けるためであった[24] 。工事 こうじ は大阪 おおさか 谷町 たにまち 代官 だいかん の斎藤 さいとう 六蔵 ろくぞう らが担当 たんとう し、迂回 うかい 路 ろ のルートは菟 うさぎ 原 はら 郡 ぐん 石屋 いしや 川 がわ と明石 あかし 大蔵谷 おおくらだに で西国 さいこく 街道 かいどう から分岐 ぶんき し、その間 あいだ を杣 そま 谷 だに ・摩耶山 まやさん ・東 ひがし 小部 おべ 村 むら ・藍 あい 那 な 村 むら ・白川 しらかわ 村 むら を経由 けいゆ して結 むす ぶというものに決 き まった[25] 。迂回 うかい 路 ろ は開港 かいこう までに完成 かんせい したが、開港 かいこう 後 ご に明治 めいじ 政府 せいふ が居留 きょりゅう 地 ち 付近 ふきん を迂回 うかい する道 みち を新 あら たに建設 けんせつ したことに伴 ともな い廃止 はいし された(一部 いちぶ は「徳川 とくがわ 道 みち 」と呼 よ ばれる登山 とざん 道 どう として存続 そんぞく )[26] 。
^ 競売 きょうばい は造成 ぞうせい 工事 こうじ の進行 しんこう に合 あ わせて、1868年 ねん 9月 がつ 10日 とおか (慶応 けいおう 4年 ねん 7月 がつ 24日 にち )から1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )2月 がつ 7日 にち にかけ4度 ど にわたって行 おこな われた[37] [38] 。最低 さいてい 落札 らくさつ 価格 かかく は土地 とち 1坪 つぼ につき金 かね 2両 りょう (2円 えん )で、当時 とうじ の居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん の土地 とち が1坪 つぼ 12銭 ぜに 5厘 りん であったのに比 くら べて高額 こうがく であった[39] 。実際 じっさい には最低 さいてい 価格 かかく よりもさらに高額 こうがく で落札 らくさつ されるケースもあり、例 たと えばメインストリートであった京町 きょうまち 筋 すじ に面 めん する11番地 ばんち は8円 えん 6銭 ぜに でグラバー商会 しょうかい によって落札 らくさつ されている[39] 。落札 らくさつ 者 しゃ を国 くに 別 べつ にみると、イギリスが全 ぜん 区画 くかく の半数 はんすう を超 こ える64区画 くかく を落札 らくさつ しており、以下 いか ドイツ(23区画 くかく )、オランダ(15区画 くかく )、アメリカ (11区画 くかく )、フランス(11区画 くかく )、イタリア (1区画 くかく )となっている(残 のこ りの1区画 くかく は行事 ぎょうじ 局 きょく (行司 ぎょうじ 局 きょく とも表記 ひょうき 、居留 きょりゅう 地 ち 自治 じち における執行 しっこう 機関 きかん 。後述 こうじゅつ 。)が落札 らくさつ )[40] [41] 。
^ 神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち での舞踏 ぶとう 会 かい に続 つづ き県 けん 会 かい 議事堂 ぎじどう などでも舞踏 ぶとう 会 かい は開 ひら かれた。東京 とうきょう も同様 どうよう であるがそれ以上 いじょう に関西 かんさい の名士 めいし たちは舞踏 ぶとう 会 かい に招待 しょうたい されたはいいが西洋 せいよう 式 しき のダンスなど見 み たこともなくどのように踊 おど ればいいのか戸惑 とまど い頭 あたま を抱 かか え込 こ んだ。神戸 こうべ 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち に住 す む外国 がいこく 人 じん と関西 かんさい の名士 めいし 達 たち を中心 ちゅうしん とする舞踏 ぶとう 会 かい は東京 とうきょう の鹿 しか 鳴 な 館 かん と同 おな じく、関西 かんさい における近代 きんだい 化 か の象徴 しょうちょう でもあった[58] 。
^ 神戸 こうべ 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい は太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう に一時 いちじ 解散 かいさん したが終戦 しゅうせん 後 ご 再 さい 結成 けっせい され、関西 かんさい 国際 こくさい 委員 いいん 会 かい として関西 かんさい 在住 ざいじゅう の外国 がいこく 人 じん のための活動 かつどう を行 おこな っている[62] 。
^ 政府 せいふ 内 ない では居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の永代 えいたい 借地 しゃくち 権 けん を土地 とち 所有 しょゆう 権 けん に切 き り替 か える案 あん も浮上 ふじょう したが、従来 じゅうらい 通 どお り外国 がいこく 人 じん による土地 とち の所有 しょゆう を認 みと めるべきではないとする意見 いけん も出 で て折 お り合 あ いがつかなかった[61] 。
^ もともと日本 にっぽん 側 がわ は、領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん の存在 そんざい を理由 りゆう に永代 えいたい 借地 しゃくち の上 うえ に建 た つ家屋 かおく には課税 かぜい できないという方針 ほうしん をとっていたが、居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん によって領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん が撤廃 てっぱい されたため、課税 かぜい が可能 かのう になったと判断 はんだん した[65] 。
^
1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち は神戸 こうべ 市 し 都市 とし 景観 けいかん 条例 じょうれい に基 もと づく「都市 とし 景観 けいかん 形成 けいせい 地域 ちいき 」に指定 してい されている[78] 。
^ なお、居留 きょりゅう 地 ち の自治 じち 権 けん 拡大 かくだい を巡 めぐ って1870年 ねん 1月 がつ (明治 めいじ 2年 ねん 11月/12月)に居留 きょりゅう 地 ち の借地 しゃくち 人 じん が集会 しゅうかい を開 ひら き、「大阪 おおさか 兵庫 ひょうご 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 約定 やくじょう 書 しょ 」で認 みと められた地 ち 税 ぜい ・警察 けいさつ 税 ぜい 以外 いがい の課税 かぜい 権 けん を獲得 かくとく して居留 きょりゅう 地 ち の運営 うんえい 費用 ひよう を確保 かくほ し、条例 じょうれい の制定 せいてい ・執行 しっこう 権 けん を獲得 かくとく して居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の違法 いほう 建築 けんちく や違法 いほう 営業 えいぎょう などの問題 もんだい に対処 たいしょ するべきであるという内容 ないよう の決議 けつぎ を行 おこな ったことがある。借地 しゃくち 人 じん たちは決議 けつぎ 内容 ないよう を書簡 しょかん にして各国 かっこく 公使 こうし に送付 そうふ したが、ほとんどの国 くに の公使 こうし に黙殺 もくさつ され、唯一 ゆいいつ 回答 かいとう を行 おこな ったドイツ公使 こうし も課税 かぜい 権 けん については新 あら たな課税 かぜい がなくともすでに整備 せいび されたインフラを維持 いじ するための費用 ひよう は捻出 ねんしゅつ でき、条例 じょうれい の制定 せいてい ・執行 しっこう 権 けん については領事 りょうじ が有 ゆう する領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん と衝突 しょうとつ する可能 かのう 性 せい があるとして決議 けつぎ に反対 はんたい した。こうして決議 けつぎ の内容 ないよう が自治 じち に反映 はんえい されることはなかった[80] [81] 。
^ 居留 きょりゅう 地 ち 内 ない では1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )に起 お こったノルマントン号 ごう 事件 じけん に関 かん する査問 さもん 会 かい および予審 よしん が行 おこな われた(後述 こうじゅつ )ほか、居留 きょりゅう 地 ち 周辺 しゅうへん の住民 じゅうみん が居留 きょりゅう 地 ち の借地 しゃくち 人 じん とのトラブルに巻 ま き込 こ まれ、領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん 適用 てきよう を巡 めぐ る当事 とうじ 者 しゃ となることもあった[87] 。
^ ただし西洋 せいよう 文明 ぶんめい を色濃 いろこ く反映 はんえい した街並 まちな みに否定 ひてい 的 てき な感想 かんそう を抱 いだ く者 もの もいた。ロシアの哲学 てつがく 者 しゃ ラファエル・フォン・ケーベル は「至 いた るところにヨーロッパやアメリカの罪悪 ざいあく と愚 ぐ 味 あじ の猿真似 さるまね を見 み る」と評 ひょう し[99] 、イギリスの小説 しょうせつ 家 か ラドヤード・キップリング は「洗練 せんれん されないアメリカ」と評 ひょう した[100] 。
^ 南北 なんぼく の通 とお りの名称 めいしょう は西 にし から西町 にしまち ・明石 あかし 町 まち ・播磨 はりま 町 まち ・浪花 なにわ 町 まち ・京町 きょうまち ・江戸 えど 町 まち ・伊藤 いとう 町 まち ・東町 あずままち 、東西 とうざい の通 とお りは北 きた から裏町 うらまち ・北町 きたまち ・仲町 なかまち ・前町 まえまち ・海岸 かいがん 通 どおり 。道路 どうろ に接 せっ する土地 とち には道路 どうろ の名前 なまえ にちなんだ町名 ちょうめい (京町 きょうまち 、江戸 えど 町 まち 、前 まえ 町 まち など)がつけられた。ただしそのような町名 ちょうめい が公式 こうしき に使用 しよう されるようになったのは居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご のことである[101] 。
^ 1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )、神戸 こうべ 市 し が雨水 あまみず 排水 はいすい のための下水道 げすいどう (明石 あかし 町 まち 雨水 あまみず 幹線 かんせん )敷設 ふせつ 工事 こうじ を行 おこな っていたところ、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち の明石 あかし 町 まち 、伊藤 いとう 町 まち 付近 ふきん の地中 ちちゅう からでレンガ製 せい の下水道 げすいどう が発見 はっけん され、居留 きょりゅう 地 ち 時代 じだい の下水道 げすいどう がおよそ100年 ねん を経 へ てなお機能 きのう していたことが明 あき らかとなった[105] 。
^ ちなみに、(旧 きゅう )居留 きょりゅう 地 ち の外 そと にガスが供給 きょうきゅう されるようになったのは1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )以降 いこう である[108] [109] 。
^ ジョサイア・コンドルの指導 しどう を受 う けたのは、明治 めいじ 12年 ねん (1879年 ねん )から明治 めいじ 19年 ねん (1886年 ねん )までの卒業生 そつぎょうせい である[120] 。
^ 兵庫 ひょうご 開港 かいこう 以前 いぜん にも長崎 ながさき でラムネが製造 せいぞう ・販売 はんばい された記録 きろく があるが、大 だい 規模 きぼ には流通 りゅうつう しなかった[165] 。
^ a b c d 雑居 ざっきょ 地 ち 内 ない 。
^ a b 1871年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん /4年 ねん )、もともとは神戸 こうべ 村 むら の墓地 ぼち で居留 きょりゅう 地域 ちいき 外 がい とされていた場所 ばしょ に作 つく られ、外国 がいこく 人 じん に貸与 たいよ された公園 こうえん 。外国 がいこく 人 じん 公園 こうえん とも呼 よ ばれた。居留 きょりゅう 地 ち の設計 せっけい に当 あ たったジョン・ウィリアム・ハートが1870年 ねん 7月 がつ (明治 めいじ 3年 ねん 6月 がつ /7月 がつ )に作成 さくせい した居留 きょりゅう 地 ち の地図 ちず には「PUBLIC GARDEN」と記 しる されている。居留 きょりゅう 地 ち 返還 へんかん 後 ご に前町 まえまち 公園 こうえん と改称 かいしょう し、1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )に廃止 はいし された[194] [195] 。
^ この体育館 たいいくかん は内外 ないがい 人 じん 公園 こうえん (後 ご の東遊 あずまあそび 園地 えんち )の完成 かんせい 後 ご 、1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )に同 どう 公園 こうえん に移転 いてん した[210] 。移転 いてん した体育館 たいいくかん は1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )に新築 しんちく された[211] 後 ご 、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )、神戸大 こうべだい 空襲 くうしゅう により焼失 しょうしつ した[212] 。
^ 当時 とうじ の日本 にっぽん スポーツ界 かい にボランティアという概念 がいねん は存在 そんざい せず、スポーツイベントにおいて初 はじ めてボランティアが公募 こうぼ され組織 そしき 的 てき に活動 かつどう したのは、約 やく 1世紀 せいき 後 ご の1985年 ねん 夏季 かき ユニバーシアード においてである[218] 。
^ 居留 きょりゅう 地 ち の設計 せっけい に当 あ たったジョン・ウィリアム・ハートが1870年 ねん 7月 がつ (明治 めいじ 3年 ねん 6月 がつ /7月 がつ )に作成 さくせい した居留 きょりゅう 地 ち の地図 ちず には、旧 きゅう 生田川 いけだがわ 右岸 うがん の土手下 どてした の湿地 しっち 帯 たい に「RESERVED FOR RECREATION GROUND(レクリエーショングラウンド予定 よてい 地 ち )」と記載 きさい されている。このことは後 のち に居留 きょりゅう 外国 がいこく 人 じん がグラウンド設置 せっち を要求 ようきゅう する根拠 こんきょ となった[221] 。
^ 1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )、空襲 くうしゅう により焼失 しょうしつ 。1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )、下山手通 しもやまてどおり 2丁目 ちょうめ に再建 さいけん された[252] 。
^ a b c 聖和 せいわ 大学 だいがく は2009年 ねん (平成 へいせい 21年 ねん )4月 がつ 1日 にち に学校 がっこう 法人 ほうじん 関西学院 かんせいがくいん と合併 がっぺい した(“学校 がっこう 法人 ほうじん 関西学院 かんせいがくいん と合併 がっぺい しました。 ”. 関西学院大学 かんせいがくいんだいがく . 2010年 ねん 4月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。 )。
^ 小野浜 おのはま 新田 しんでん の墓地 ぼち が設 もう けられたのは(旧 きゅう )生田川 いけだがわ 河口 かこう [320] 左岸 さがん [321] 堤防 ていぼう 下 か の砂地 すなじ [320] [322] で、地面 じめん を深 ふか く掘 ほ ると水 みず が出 で てくるため浅 あさ く掘 ほ って埋葬 まいそう せざるを得 え なかったが、そのせいで洪水 こうずい などの被害 ひがい に遭 あ いやすかった[320] [323] 。
^ 居留 きょりゅう 地 ち 東北 とうほく 部 ぶ に外国 がいこく 人 じん 商人 しょうにん が経営 けいえい する工場 こうじょう が、西部 せいぶ の海岸 かいがん 沿 ぞ いに日本人 にっぽんじん が経営 けいえい する商店 しょうてん や銀行 ぎんこう が建設 けんせつ され、その周囲 しゅうい に住宅 じゅうたく 街 がい が形成 けいせい された[56] 。
^ これについて文学 ぶんがく 者 しゃ の今城 いましろ 八 はち 州 しゅう 子 こ は、神戸 こうべ は古来 こらい より「異国 いこく の人 ひと が移動 いどう する際 さい の通 とお り道 みち に位置 いち していたため一 いち 端 はし の異 い 文化 ぶんか 理解 りかい の素地 そじ はあったと言 い える」と述 の べている[335] 。
^ 2つの居留 きょりゅう 地 ち (横浜 よこはま (関内 かんない )・山手 やまて )の合計 ごうけい 。
^ 8つの居留 きょりゅう 地 ち (大浦 おおうら ・下松 くだまつ ・梅 うめ ヶ崎 さき ・出島 でじま ・新地 さらち ・広馬場 ひろばば ・東山手 ひがしやまて ・南山手 みなみやまて )の合計 ごうけい 。
出典 しゅってん
参考 さんこう 文献 ぶんけん 関連 かんれん 項目 こうもく