小泉 八雲
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パトリック・ラフカディオ・ハーン 1850 ![]() ( ![]() | |
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1894 | |
『 『 | |
マティ・フォリー(1875 | |
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名前 について
アイルランドの
概要
1896
2016
経歴
1850
1851
フランスやイギリスのダラム
1890
1904
年譜
- 1850
年 - レフカダ島 にて誕生 。 - 1852
年 - ダブリンに移住 。 - 1854
年 -精神 を病 んだ母 がギリシャのキシラ島 へ帰国 。 - 1856
年 -父母 が離婚 し、父 は再婚 。 - 1863
年 - フランスの神学校 に移 るも帰国 し、ダラム大学 セント・カスバーツ・カレッジ(後 のアショウ・カレッジ)入学 。 - 1865
年 - カレッジの回転 ブランコで遊 んでいる最中 にロープの結 び目 が左 眼 に当 たって失明 。以後 左 眼 の色 が右 眼 とは異 なるようになったため、写真 は右側 からのみ撮 らせるようになる。 - 1866
年 -父 が西 インドから帰国 途中 に病死 。大叔母 は破産 した。 - 1867
年 -大叔母 の破産 を受 けてダラム大学 セント・カスバーツ・カレッジを退学 [5]、ロンドンに行 く。 - 1869
年 - リヴァプールからアメリカ合衆国 のニューヨークへ移民 船 で渡 り、シンシナティに行 く。 - 1872
年 - トレード・リスト紙 の副 主筆 。 - 1874
年 - インクワイアラー社 に入社 。マティ・フォリーと結婚 [6]。オハイオ州 では当時 違法 だった黒人 との結婚 で、正式 な届 け出 が受理 された形跡 はない[7]。結婚式 は最初 に頼 んだ牧師 から拒絶 され、次 に依頼 した黒人 牧師 が司式 した[6]。 - 1875
年 - マティとの結婚 も一因 となり、インクワイアラー社 を退社 [8]。 - 1876
年 - インクワイアラー社 のライバル会社 だった、シンシナティ・コマーシャル社 に入社 。 - 1877
年 -離婚 、シンシナティの公害 による目 への悪影響 を避 け、ニューオーリンズへ行 く。 - 1879
年 - アイテム社 の編集 助手 。食堂 「不景気 屋 」を経営 するも失敗 。 - 1882
年 - アイテム社 退社 、タイムズ・デモクラット社 の文芸 部長 になる。この時期 の彼 の主 な記事 はニューオーリンズのクレオール文化 、ブードゥー教 など。 - 1884
年 - 8月 末 から1か月 余 り、メキシコ湾内 のグランド島 に滞在 する。ニューオーリンズで開催 された万国博覧会 の会場 で農 商務省 官僚 の服部 一三 に展示 物 など日本 文化 を詳 しく説明 され、この時 、高峰 譲吉 に会 う。 - 1887
年 - 1889年 - フランス領 西 インド諸島 マルティニーク島 に旅行 。 - 1890
年 - ネリー・ブライと世界 一周 旅行 の世界 記録 を無理 やり競 わされた女性 ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国 でのハーンの公式 伝記 の著者 )から旅行 の帰国 報告 を受 けた際 に、いかに日本 は清潔 で美 しく人々 も文明 社会 に汚染 されていない夢 のような国 であったかを聞 き、ハーンが生涯 を通 し憧 れ続 けた美女 でもあり、かつ年下 ながら優秀 なジャーナリストとして尊敬 していたビスランドの発言 に激 しく心 を動 かされ、急遽 日本 に行 くことを決意 する。なお、来日 の動機 は、このころ英訳 された古事記 に描 かれた日本 に惹 かれたとの説 [9]もある。- ハーバー・マガジンの
通信員 としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立 ち寄 り、4月 4日 横浜 港 に着 く。その直後 、トラブルにより契約 を破棄 する。横浜 では、1887年 にハーンが『ハーパース・バザー』に発表 した「Rabyah's Last Ride」の熱烈 な読者 だった在日 英国 人 学校 ビクトリア・パブリック・スクール校長 のチャールズ・ハワード・ヒントンがハーンを家 に招 き同校 での教職 も与 えたが、ヒントンの妻 がハーンの隻眼 を嫌 がり決別 する[10][11]。なお、ヒントンの妻 のマリーは、数学 者 ジョージ・ブールとやはり数学 者 のマリー・エベレスト・ブール(エベレスト山 の由来 となったジョージ・エベレストの姪 )との間 の娘 である。このときのハーンの教 え子 にエドワード・B・クラークがいる。 - 7
月 、アメリカ合衆国 で知 り合 った服部 一三 (この当時 は文部省 普通 学務 局長 )の斡旋 で、島根 県 尋常 中学校 (現 ・島根 県立 松江北 高等 学校 )と島根 県 尋常 師範 学校 (現 ・島根大学 )の英語 教師 に任 じられる。 - 8
月 30日 、松江 到着 。
- ハーバー・マガジンの
- 1891
年 - 1894
年 -神戸 市 のジャパンクロニクル社 に就職 、神戸 に転居 する。 - 1896
年 -東京 帝国 大学 文科 大学 の英 文学 講師 に就職 。日本 に帰化 し「小泉 八雲 」と名乗 る。秋 に牛込 区 市谷富久 町 (現 ・新宿 区 )に転居 する(1902年 の春 まで在住 )。
評価 および論争
ハーン
また、
1904
エピソード
身体 、外見
- もともと
強度 の近視 であったが、さらに晩年 は右目 の視力 も衰 え、高 さが98センチメートルもある机 を使用 して紙 を目 に近 づけランプの光 を明 るくして執筆 を行 った。 - 16
歳 のときに怪我 で左 眼 を失明 して隻眼 となって以降 、白濁 した左目 を嫌悪 し、晩年 に到 るまで、写真 を撮 られるときには必 ず顔 の右側 のみをカメラに向 けるか、あるいはうつむくかして、決 して失明 した左 眼 が写 らないポーズをとっている。
たゞ見 る身 材 五 尺 ばかりの小 丈夫 、身 に灰色 のセビロをつけ、折襟 のフランネルの襯衣に、細 き黒 きネクタイを無造作 に結 びつけたり。顔 は銅 色 、鼻 はやゝ高 く狭 く、薄 き口髭 ありて愛 くるしく緊 まれる唇 辺 を半 ば蔽ひ、顎 やゝ尖 り、額 やゝ広 く、黒褐色 の濃 き頭髪 には少 しく白 を混 へたり。されど最 も不思議 なるは其眼なり。右 も左 を度 を過 ぎて広 く開 き、高 く突 き出 で、而 して其左眼 には白 き膜 かゝりてギロギロと動 く時 は一種 の怪 気 なきにしもあらず。されど曇 らぬ右 眼 は寧 ろやさしき色 を帯 びたり。』『やがて胸 のポケットより虫眼鏡 様 の一 近眼 鏡 をとり出 て、之 をその明 きたる一眼 に当 てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚 だなつかしき微笑 を唇 辺 に浮 べつゝ、余 等 の顔 を一瞥 されし時 は、事 の意外 に一種 滑稽 の感 を起 さゞるを得 ざりき。突如 その唇 よりは朗 かなれど鋭 くはあらぬ音声 迸 り出 でぬ。英 文学 史 の講義 は始 まれる也。出 づる言葉 に露 よどみたる所 なく、洵 に整然 として珠玉 をなし、既 にして興 動 き、熱 加 はり、滔々 として数 千 語 、身辺 風 を生 じ、坐 右 幽玄 の別 乾坤 を現出 するに及 びて、余 等 は全然 その魔力 の為 めに魅 せられぬ。爾来 三 年 の間 余 は一回 としてその講義 に列 するを以 て最大 の愉快 と思 はざるはなかりき。(原文 ママ)[15]
執筆 関係
非常 に筆 まめであり、避暑 で自宅 を離 れている間 、あとに残 った妻 セツに毎日 書 き送 った手紙 が数多 く残 されている。ハーンは日本語 がわからず妻 は英語 がわからないため、それらは夫妻 の間 だけで通 じる特殊 な仮名 言葉 で書 かれている。- 「
原稿 は9回 書 き直 さなければまともにならない」とし、文章 にこだわった。例 えば「雪女 」の結文 「Never again was she seen」のsの3連続 を風呂 鞏[注釈 2]は代表 例 としてあげる[16]。 著作 の原稿 料 にはこだわっていたが貯蓄 にまったく関心 がなく、亡 くなった当時 小泉 家 には遺産 となるものがほとんど残 っていなかった。当時 小泉 家 には妻 の親類 縁者 が多 く同居 しており、著述 業 と英語 教師 としての収入 はほぼ全額 彼 らの生活 費 に充 てられていた。アメリカ合衆国 で新聞 記者 をしていたとき「オールド・セミコロン(古風 な句読点 )」というニックネームをつけられたことがある[17]。句読点 一 つであっても一 切手 を加 えさせないというほど自分 の文章 にこだわりを持 っていたことを指 している。英語 教師 としては、よく学生 に作文 をさせた。優秀 な学生 には賞品 として、自腹 で用意 した英語 の本 をプレゼントしていた[注釈 3]。アメリカ合衆国 在住 中 に勤勉 が習 い性 となり、日本 では学校 教育 の傍 ら14年間 に13冊 の本 を書 いた[18]。- tsunamiという
英語 を皆 が知 る英語 にしたのはスマトラ島 沖 地震 (2004年 )からであるが、最初 に英語 として紹介 したのはハーンの 1897年 の作品 「生神 」の英語 版 "A Living God"からである。
土地
熊本 時代 、時間 があると第 五 高等 学校 の裏 にある小峰 墓地 に通 い、そこにある鼻 の欠 けた地蔵 「鼻 かけ地蔵 」をこよなく愛 したとされる[19]。八雲 生誕 の地 、ギリシャのレフカダ島 の詩人 公園 には、日本 の松江 と新宿 から贈 られた八雲 の像 がある。八雲 の縁 で、レフカダ(出生 の地 )と新宿 区 (終焉 の地 )、ニューオーリンズ市 と松江 市 がそれぞれ姉妹 都市 になっている[20]。熊本 では、家 (第 二 旧居 )から人力車 で現在 の子飼 商店 街 を通 り抜 けて第 五 高等 学校 に通 っていた。これにちなんで、第 二 旧居 から子飼 商店 街 の入口 までは、「八雲 通 り」と名 づけられた[21]。
その他
- マツムシやスズムシ、
草 ひばり(クサヒバリ科 の小型 のコオロギ)などを飼 い、その声音 を愛 でていた[22][23]。随筆 『虫 の音楽家 』(1897年 )には、日本 の虫 売 りの歴史 や鳴 く虫 12種 の値段 が記録 されている[24][25]。『草 ひばり』では、自身 が飼 っていた草 ひばりを亡 くした悲 しみが描 かれる[24][26][27]。小泉 八雲 記念 館 に「小泉 八雲 愛用 の虫 籠 」が収蔵 されている[22][28]。 日本 食 は苦手 であり、家族 とは別 の料理 を食 べていた。来日 直後 は日本 食 を食 べていたが、体調 を崩 してからは洋食 中心 の生活 になった。コース料理 のように一 つの料理 を食 べ終 わると皿 を片付 けていた。日本 食 の中 でも鰻 と奈良 漬 は好 きだったが、糸 こんにゃくは虫 に似 ていることから嫌 いだったという[29]。- 2016
年 11月25日 、愛知学院大学 の竹下 修子 教授 が、小泉 八雲 の国籍 離脱 を当時 のイギリスが認 めず日本 との「二 重 国籍 だった可能 性 が高 い」という研究 論文 を公表 した[4]。新潟 県 南魚沼 市 の池田 記念 美術館 に小泉 八雲 に関 する1896年 (明治 29年 )の未 公開 書簡 が現存 しており、この書簡 は当時 の島根 県 がイギリス領事 に照会 した小泉 八雲 の日本 国籍 取得 に関 する手続 きについての返答 がかかれている物 との事 で、その中 に「(日本 国籍 の取得 は)日本 側 の手続 きだけで完了 する」と記載 されているという。これが意味 するところは「英国 側 に手続 きは無 い」つまりは「国籍 離脱 には応 じない」という姿勢 の表 れで、小泉 八雲 より前 にイギリス人 男性 が日本人 女性 に婿入 りする形 で婚姻 したところイギリスは書簡 で「(前略 )到底 許 し難 い」と国籍 離脱 を認 めなかったということで、イギリスはその姿勢 を崩 しておらず、小泉 八雲 も二 重 国籍 だった可能 性 が高 いと結論 づけられたものである。
八雲 をめぐる人々
- セツ(
妻 ) 妻 セツは日本語 が読 めない夫 のリクエストに応 じて日本 の民話 ・伝説 を語 り聞 かせるため、普段 からそれらの資料 収集 に努 めた。彼女 以外 の家族 ・使用人 ・近隣 住民 、また旅先 で出会 った人々 の話 を題材 にした作品 も多 い。浅野 和三郎 (教 え子 、心霊 研究 家 )浅野 は第 一 次 大本 事件 の陳弁 書 でハーンの印象 を回想 している[30]。また、「自分 は二 十 余 年 前 の当時 を回顧 して見 ると、小泉 師 の講堂 丈 にはモ一 度 入 つて聴講 したいやうな気分 がする」と回顧 する[31]。『英 文学 史 』の中 ではハーンについて「其真実 の籍 は米国 にもあらず、又 日本 にもあらずして、美文 の世界 に在 り」と記 した[31]。田部 隆次 (教 え子 )田部 は早稲田大学 の委嘱 で書 いた伝記 「小泉 八雲 〜ラフカディオ・ヘルン〜」の中 で、古 くから日本 名 「八雲 」については「音読 みにするとハウンになる」こととの関連 を指摘 されることが多 かったらしいことに関連 し「八雲 はハウンに通 じるという考 えは少 しもなかった」と明記 している。田部 重治 (教 え子 田部 隆次 の弟 )田部 隆次 の弟 、田部 重治 は兄 からハーンの逸話 を聞 き「英文 学界 そぞろ歩 き」(『英語 青年 』1967年 9月 号 )として発表 した[31]。それによれば、ハーンは学生 に題名 を与 えて感想 ・随筆 の懸賞 を行 い、受賞 者 には文学 全集 を与 えた[31]。田部 、浅野 、大谷 正信 、戸沢 正保 達 が受賞 したという[31]。川田 順 (教 え子 )東京 帝国 大学 では学生 の信望 が厚 く、解任 のときは激 しい留任 運動 が起 きた。川田 順 は「ヘルン先生 のいない文科 で学 ぶことはない」といって法科 に転 科 した。後年 この話 の真偽 を尋 ねられた川田 はそれが事実 であると答 え、後任 の夏目 漱石 についても「夏目 なんて、あんなもん問題 になりゃしない」と言 った。本田 増次郎 (熊本 第 五 高等 学校 時代 の同僚 )本田 によると、失明 した左目 はひどく突 き出 ており、右目 は強度 の近視 で、ページに額 をこすりつけて一 字 ずつ追 わないと読 めないほどで、背中 が曲 がり変形 していたという[32]。また、本田 の回想 によると、ハーンは一種 の人間 嫌 いになっていたが、白 人種 の中 にいるよりは日本人 の中 にいるほうが気 に障 らないと感 じていた[32]。そして本田 は更 に、小泉 の性格 について病的 なほど神経質 で猜疑心 が強 く、「文学 者 は作品 を介 して敬服 するに越 したことはない。個人 的 なお付 き合 いをするとひどく失望 させられるからだ。ハーンもこの一般 原則 の例外 ではなかった」と語 っている[32]。内ヶ崎 作三郎 (衆議院 副 議長 )内ヶ崎 は田部 隆次 著 『小泉 八雲 』に序文 「小泉 八雲 先生 を懐 ふ」を寄 せ、この中 で「されど先生 の清 く澄 んだ歌 ふがごとき声 がかすかに微笑 を湛 ゆる口辺 より洩 るるを聞 く時 は、その事 自身 が一種 の魔力 であった」と述 べて浅野 と同 じく“魔力 ”の表現 を使 った[33][34]。西田 幾太郎 (哲学 者 )西田 も田部 のハーン伝記 序文 で「ヘルン氏 は万象 の背後 に心霊 の活動 を見 るといふ様 な一種 深 い神秘 思想 を抱 いた文学 者 であつた。かれは我々 の単純 なる感覚 や感情 の奥 に過去 幾 千 年来 の生 の脈搏 を感 じたのみならず、肉体 的 表現 の一々 の上 にも祖先 以来 幾 世 の霊 の活動 を見 た。(中略 )氏 の眼 には、この世界 は固定 せる物体 の世界 ではない、過去 の過去 から未来 の未来 に亙 る霊的 進化 の世界 である。」と述 べ、ハーンの神秘 主義 を指摘 している[35]。巖谷 國士 (フランス文学 者 )巖谷 は自著 「オデュッセウスの旅 」(『作家 の旅 』平凡社 )で「移 り住 んだ土地 を列挙 しただけでも、興味 ぶかい事実 に思 いあたる。島 を好 んだということだ…琉球 諸島 まで航海 する計画 まで…」「ハーンの生涯 の旅程 から知 られるもうひとつの事実 は、ロンドンやパリやニューヨークには居 つかず、いわゆる辺境 を選 んで住 んだということである」などと小泉 について評 している。
家族 ・親族
系譜
小泉 家 - 『
列 士 録 』によれば、初代 の小泉 弥 右 衛門 は「本国 近江 (現在 の滋賀 県 )、生国 因幡 (現在 の鳥取 県 )」の侍 だった。はじめ、讃岐 丸亀 藩 四 万 五 千 石 の藩主 である山崎 治 頼 に仕 えて家老 を務 めていた。しかし明 暦 3年 (1657年 )、山崎 治 頼 が嗣子 なくして没 して除 封 となり、代 わってかつての松江城 の主 ・京極 忠 高 の甥 にして養子 の高和 が入 封 するに及 んで、弥 右 衛門 は丸亀 を去 って江戸 (現在 の東京 )に出 た。翌年 の万治 元年 (1658年 )、弥 右 衛門 は、江戸 で出雲 松平 家 の祖 である松平 直政 に召抱 えられ、初 めは使番 (つかいばん)、後 に二 十 名 の徒 (足軽 )を統率 する者 頭 (ものがしら)を務 めた。その後 、小泉 家 は二 代目 弥 右 衛門 が五 十 人 の士分 の侍 を統率 する番頭 (ばんがしら)を務 めて以来 、代々 セツの父 ・八 代目 弥 右 衛門 に至 るまで、一定 期間 者 頭 ないしそれに準 じた役職 を務 めた後 、番頭 (ばんがしら)に進 んでおり、また、嫡子 には家督 相続 と同時 に組 外 (くみはずれ)という格式 が与 えられている。この格式 は、直接 ほかの侍 の采配 下 に入 らないことを意味 し、『雲 藩 職制 』の編者 が「一 国 中 の貴族 」と表現 した上士 に限 って与 えられた待遇 だった。ただし家 禄 は、一雄 や田部 隆次 が記 した五 百 石 は誤 りと見 做すべきで、『代々 御給 帳 』・『列 士 録 』・『旧藩 事蹟 』等 古文書 は一致 して300石 だったことを示 している。小泉 八雲 ・セツ夫妻 の孫 に小泉 時 (エッセイスト、2009年 7月 8日 死去 )、小泉 閏 、稲垣 明男 、種市 八重子 、佐々木 京子 、曾孫 に小泉 凡(民俗 学者 [28]、島根 県立 島根 女子 短期大学 准 教授 )がいる。
記念 館 ・資料 館 など
小泉 八雲 旧居 (ヘルン旧居 、島根 県 松江 市 ) -国 の史跡 小泉 八雲 記念 館 (島根 県 松江 市 )焼津 小泉 八雲 記念 館 (静岡 県 焼津 市 )小泉 八雲 熊本 旧居 (熊本 県 熊本 市 )池田 記念 美術館 (新潟 県 南魚沼 市 ) -美術館 だが小泉 八雲 文学 資料 室 という常設 展示 がある。富山大学 附属 図書館 中央 図書館 ヘルン文庫 - 2014
年 、レフカダに日本 とギリシャ各地 からの献金 によってLefcadio(スペル注意 ) Hearn Historical Centerがオープンした。 - イギリスのダラム
大学 にもハーンの名 を冠 した文化 センターがある。 小泉 八雲 旧居 跡 (東京 都 新宿 区 富久 町 ) -成 女 学園 の前 に「旧居 跡 」の石碑 がある[36]。小泉 八雲 終焉 の地 (東京 都 新宿 区 大久保 ) -大久保 小学校 の脇 に「旧居 跡 」と「終焉 の地 」の石碑 がある(新宿 区内 の旧居 跡 は富久 町 と大久保 の2箇所 ある)[37]。小泉 八雲 記念 公園 (東京 都 新宿 区 大久保 ) - 「終焉 の地 」の石碑 から徒歩 1分 ほどの場所 にある。胸像 や記念 プレートなどがある[38]。
-
旧居 跡 (新宿 区 富久 町 ) -
旧居 跡 (新宿 区 大久保 ) -
小泉 八雲 記念 公園 の庭園 。右 端 に胸像 (新宿 区 大久保 )
作品
Category:
来日 以前 の著作
飛花落葉 集 (Stray Leaves from Strange Literature) 1884年 - ゴンボ・ゼーブ ("Gombo Zhèbes") 1885
年 - クレオール
料理 (La Cuisine Creole: A Collection of Culinary Recipes) 1885年 中国 怪談 集 (Some Chinese Ghosts) 1887年 - チータ (Chita: A Memory of Last Island) 1889
年 - ユーマ (Youma, the Story of a West-Indian Slave) 1890
年 仏 領 西 インドの二 年間 (Two Years in the French West Indies) 1890年
来日 後 の著作
知 られぬ日本 の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年 -鳥取 のふとんの話 、日本人 の微笑 、他 東 の国 より (Out of the East) 1895年 心 (Kokoro) 1896年 -小説 やエッセイなど15編 の短 編集 [39]。きみこ、あみだ寺 の比丘尼 、ハル、他 - A Living God 1896
年 -稲 むらの火 [40] 仏陀 の国 の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields) 1897年 -生神 [41]、人形 の墓 、勝五郎 の転生 、他 異国 風物 と回想 (Exotics and Retrospectives) 1898年 霊 の日本 にて (In Ghostly Japan) 1899年 影 (Shadowings) 1900年 -和解 、死骸 にまたがる男 、他 日本 雑録 (A Japanese Miscellany) 1901年 -守 られた約束 、破 られた約束 、果 心 居士 のはなし、梅津 忠兵衛 、漂流 、他 骨董 (Kotto) 1902年 -幽霊 滝 の伝説 、茶碗 の中 、常識 、他 怪談 (kwaidan) 1904年 -耳 なし芳一 のはなし、むじな、ろくろ首 、雪女 、葬 られた秘密 、食 人 鬼 、他 日本 一 つの解明 (Japan: An Attempt at Interpretation) 1904年 天 の河 綺 譚 その他 (The Romance of the Milky Way and other studies and stories) 1905年
ちりめん本
猫 を描 いた少年 (The boy who drew cats) 1898年 化 け蜘蛛 (The goblin spider) 1899年 団子 をなくしたお婆 さん (The old woman who lost her dumpling) 1902年 - ちんちん
小袴 (Chin Chin Kobakama) 1903年 若返 りの泉 (The Fountain of Youth) 1922年
著作 集
- 『
小泉 八雲 全集 』全 17巻 ・別巻 1巻 、第 一 書房 (落合 貞三郎 、大谷 正信 、田部 隆次 訳 )、1926年 - 1928年 。NCID BA31554769、NDLJP:1020344。 - 『
小泉 八雲 作品 集 』全 12巻 [42]、平井 呈一 訳 、恒文社 、1964年 - 1967年 。NCID BN08514823、OCLC 21305178。大半 は新装 (オンデマンド版 も)再刊 - 『ラフカディオ・ハーン
著作 集 』全 15巻 、恒文社 (西脇 順三郎 ・森 亮 監修 )、1980年 - 1988年 。NCID BN00283035、OCLC 26170683。 - 『
尖塔 登攀 記 小泉 八雲 初期 文集 外 四 篇 』恒文社 、佐藤 春夫 訳 、新版 1996年 6月 ISBN 4-7704-0878-1 - 『
小泉 八雲 作品 集 』全 3巻 、森 亮 ほか訳 、河出書房新社 、1977年 。講談社 学術 文庫 (全 6冊 )で改訂 版
関連 人物
小泉 八雲 を取 り扱 った作品
参考 文献
親族 による伝記
小泉 一雄 『父 「八雲 」を憶う』警醒 社 、1931年 。全国 書誌 番号 :53013056小泉 一雄 『父 小泉 八雲 』小山 書店 、1950年 。全国 書誌 番号 :50003335、NCID BN11050924。小泉 節子 /小泉 一雄 『小泉 八雲 思 い出 の記 ・父 「八雲 」を憶う』恒文社 、1976年 2月 、新版 1986年 ほか。全国 書誌 番号 :75028245、NCID BN02220309。小泉 時 『ヘルンと私 』恒文社 、1990年 9月 。ISBN 4770407254小泉 凡『民俗 学者 ・小泉 八雲 ―日本 時代 の活動 から』恒文社 、1995年 11月。ISBN 4770408439小泉 凡『小泉 八雲 と妖怪 』(日本 の伝記 知 のパイオニア)玉川大学 出版 部 、2023年 8月 。ISBN 9784472060243
資料
小泉 時 ・小泉 凡編『文学 アルバム小泉 八雲 』恒文社 、2000年 4月 、新版 2008年 。ISBN 4770411332田部 隆次 『小泉 八雲 』早稲田大学 出版 部 、1914年 。NCID BN10927371、NDLJP:950739。梅本 順子 監修 ・解説 『西洋 人 たちの語 ったラフカディオ・ハーン初期 英文 伝記 集成 』復刻 集成 全 4巻 +別冊 解説 、エディション・シナプス、2008年 12月。ISBN 978-4-86166-102-0西川 盛雄 / アラン・ローゼン共編 『対訳 小泉 八雲 作品 抄 』平井 呈一 訳 ・小泉 凡挿 し絵 、恒文社 、1998年 9月 。ISBN 4-7704-0984-2丸山 学 『小泉 八雲 新 考 』北星 堂 書店 、1936年 。講談社 学術 文庫 、1996年 松本 ,健一 『神 の罠 :浅野 和三郎 、近代 知性 の悲劇 』新潮社 、1989年 10月 。ISBN 9784103684022。山田 和夫 「ハーンの太平洋 横断 と「雪女 」」-『英 米 文学 ・英 米 文化 試論 太平洋 横断 アメリカン・スタディーズの視座 から』(成田 興 史 編 、晃 学 出版 、2007年 、ISBN 978-4-903742-02-1)69-86頁 所収 - 『
小泉 八雲 辞典 』平川 祐 弘 監修 、恒文社 、2000年 、ISBN 978-4-770410-24-5 - 『
講座 小泉 八雲 』全 2巻 (ハーンの人 と周辺 、ハーンの文学 世界 )平川 祐 弘 ・牧野 陽子 編 、新 曜社、2009年 - 『
小泉 八雲 日本 の霊 性 を求 めて』池田 雅之 監修 、平凡社 〈別冊 太陽 日本 のこころ〉、2022年
伝記
牧野 陽子 『ラフカディオ・ハーン異 文化 体験 の果 てに』中公新書 、1992年 1月 。ISBN 4-12-101056-6太田 雄三 『ラフカディオ・ハーン―虚像 と実像 』岩波 新書 、1994年 5月 。ISBN 4-00-430336-2工藤 美代子 『夢 の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯 <アメリカ編 >』集英社 、1997年 2月 。ISBN 4-08-774247-4。ランダムハウス講談社 文庫 、2008年 工藤 美代子 『聖霊 の島 ラフカディオ・ハーンの生涯 <ヨーロッパ編 >』集英社 、1999年 10月 。ISBN 4-08-774431-0。ランダムハウス講談社 文庫 、2008年 )工藤 美代子 『神 々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯 <日本 編 >』集英社 、2003年 4月 。ISBN 4-08-774643-7。ランダムハウス講談社 文庫 、2008年 - ジョナサン・コット『さまよう
魂 ―ラフカディオ・ハーンの遍歴 』真崎 義博 訳 、文藝春秋 、1994年 3月 。ISBN 4-16-348890-1 - エリザベス・スティーブンスン『
評伝 ラフカディオ・ハーン』遠田 勝 訳 、恒文社 、1984年 8月 。ISBN 4770405677 平川 祐 弘 『ラフカディオ・ハーン植民 地 化 ・キリスト教化 ・文明開化 』ミネル ヴァ書房 <MINERVA歴史 ・文化 ライブラリー3>、2004年 3月 。ISBN 4-623-04044-5平川 祐 弘 『小泉 八雲 西洋 脱出 の夢 』新潮社 、1981年 /講談社 学術 文庫 、1994年 。新版 は「著作 集 」勉 誠 出版 - 『
小泉 八雲 回想 と研究 』平川 祐 弘 編 、講談社 学術 文庫 、1992年
脚注
注釈
出典
- ^
小泉 八雲 (こいずみ やくも)(文京 区 ) - ^
小泉 時 ・小泉 凡編 『増補 新版 文学 アルバム小泉 八雲 』恒文社 、2008年 、105頁 頁 。セツの養 祖父 ・稲垣 万 右 衛門 が『古事記 』にある日本 最古 の和歌 からとって名付 けた、とある。 - ^ a b c d 『
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最終巻 は『全訳 小泉 八雲 作品 集 第 12巻 小泉 節子 「思 い出 の記 」、小泉 一雄 「父 「八雲 」を憶う」』、本書 も単行 判 『小泉 八雲 』で度々 再刊 。 - ^ “25
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関連 項目
外部 リンク
小泉 八雲 :作家 別 作品 リスト -青空 文庫 - Hearn, Lafcadio, 1850-1904(Project Gutenberg)
- Online Books by Lafcadio Hearn
- ラフカディオ・ハーン (
小泉 八雲 )一 ギリシャ人 研究 者 としての見解 クレリ・パパパヴル博士 インタビュー (概要 ) 島根 ゆかりの文学 者 小泉 八雲 二人 の偉大 な日本 紹介 者 ハーンとモラエス -京都外国語大学 三 成清 香 「海 を渡 った物語 -ラフカディオハーンと再話 、そして女性 -」博士 論文 甲 第 17号 、宇都宮大学 、2016年 、NAID 500001344479。小泉 八雲 |新潟 市 會津 八 一 記念 館 松江 市立 図書館 八 雲 資料 室 小泉 八雲 記念 館 | Lafcadio Hearn Memorial Museum焼津 小泉 八雲 記念 館 国 指定 史跡 小泉 八雲 旧居 (ヘルン旧居 )- ラフカディオ・ハーン・リンク
集 - 「
小泉 八雲 (ラフカディオ・ハーン)について調 べる」(島根 県立 図書館 ) - レファレンス協同 データベース