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小泉八雲 - Wikipedia

小泉こいずみ八雲やくも

イギリスの文学ぶんがくしゃ (1850-1904)

小泉こいずみ 八雲やくも(こいずみ やくも、1850ねん6月27にち - 1904ねん明治めいじ37ねん9月26にち)は、アイルランドけいギリシャまれの新聞しんぶん記者きしゃ探訪たんぼう記者きしゃ紀行きこうぶん作家さっか随筆ずいひつ小説しょうせつ日本にっぽん研究けんきゅう英文えいぶん学者がくしゃ

小泉こいずみこいずみ 八雲やくもやくも
小泉こいずみ八雲やくも(1889ねんごろ
誕生たんじょう パトリック・ラフカディオ・ハーン
1850ねん6月27にち
イオニア諸島しょとう合衆国がっしゅうこくレフカダとう
現在げんざいギリシャの旗 ギリシャりょう
死没しぼつ (1904-09-26) 1904ねん9月26にち(54さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょうゆたか多摩たまぐん大久保おおくぼむら西大久保にしおおくぼげん東京とうきょう新宿しんじゅく大久保おおくぼ
墓地ぼち 雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
随筆ずいひつ
英文えいぶん学者がくしゃほか
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
日本の旗 日本にっぽん
活動かつどう期間きかん 1894ねん - 1904ねん
代表だいひょうさく骨董こっとう
怪談かいだん
配偶はいぐうしゃ マティ・フォリー(1875ねん - 1877ねん
小泉こいずみセツ1891ねん - 1904ねん
子供こども 小泉こいずみ一雄かずお長男ちょうなん
稲垣いながきいわお次男じなん
小泉こいずみきよし三男さんなん小泉こいずみ寿々子すずこ(長女ちょうじょ)
親族しんぞく 小泉こいずみ曾孫そうそん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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名前なまえについて

編集へんしゅう

出生しゅっしょうめい英語えいごパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)、現代げんだいギリシャではパトリキオス・レフカズィオス・ヘルン (Πατρίκιος Λευκάδιος Χかいεいぷしろんρろーνにゅー)。ラフカディオ一般いっぱんてきにはファーストネームとしてられているが、実際じっさいミドルネームである。「パトリック」と「ハーン」はアイルランドけいで、「ラフカディオ」(レフカズィオス)は「レフカダとうの」をあらわすミドルネームである。

アイルランド守護しゅご聖人せいじんひじりパトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身じしんキリスト教きりすときょう教義きょうぎ懐疑かいぎてきであったため、このをあえて使用しようしなかったともいわれる。ファミリーネームは来日らいにち当初とうしょ「ヘルン」ともばれていたが、これは松江まつえ島根しまねけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうへの赴任ふにんめいずる辞令じれいに、「Hearn」を「ヘルン」と表記ひょうきしたのがひろまり、当人とうにんもそのようにばれることを非常ひじょうっていたことから定着ていちゃくしたもの[注釈ちゅうしゃく 1]。ただ、つま節子せつこには「ハーン」とむことをおしえたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部なんぶでは比較的ひかくてきおおせいである。

概要がいよう

編集へんしゅう

1896ねん明治めいじ29ねん)に日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくして「小泉こいずみ八雲やくも」と名乗なの[1]。「八雲やくも」は、一時期いちじき島根しまねけん松江まつえ在住ざいじゅうしていたことから、そこのきゅう国名こくめいれいせいこく)である出雲いずもこくにかかる枕詞まくらことばの「八雲やくもつ」にちなむとされる[2]日本にっぽん怪談かいだんばなし英語えいごでまとめた『怪談かいだん』を出版しゅっぱんした。ははキシラとうまれのギリシャじんで、アラブじんじっていたらしく、のちに八雲やくも自身じしん家族かぞく友人ゆうじんかって「自分じぶんには半分はんぶん東洋とうようじんながれているから、日本にっぽん文化ぶんか芸術げいじゅつ伝統でんとう風俗ふうぞく習慣しゅうかんなどにせっしてもこれをはだかんることができる」と自慢じまんしていた。父母ちちははつうじて、地球ちきゅうじょう東西とうざい南北なんぼく自分じぶんなかながれているという自覚じかくが、八雲やくも生涯しょうがい文学ぶんがく特徴とくちょうづけている。異国いこく情緒じょうちょもとめる時代じだい背景はいけいもあったが、八雲やくも生涯しょうがいつうじてアイルランドからフランスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく西にしインド諸島しょとう日本にっぽん放浪ほうろうつづけた。かつ、いかなる土地とちにあっても人間にんげん根底こんていにおいて同一どういつであることをうたがわなかった。シンシナティでは州法しゅうほうおかしてまで混血こんけつ黒人こくじん結婚けっこんしようとし、のちに小泉こいずみセツ家庭かていつにさいしても、なん抵抗ていこうかんじなかった[3]

2016ねん11月、愛知学院大学あいちがくいんだいがく教授きょうじゅによって1896ねん明治めいじ29ねん当時とうじ英国えいこく領事りょうじ書簡しょかんもとにした研究けんきゅう論文ろんぶん発表はっぴょうされ、小泉こいずみ八雲やくもがイギリスと日本にっぽんじゅう国籍こくせきだった可能かのうせいたかいことが示唆しさされている[4]。(後述こうじゅつ

経歴けいれき

編集へんしゅう

1850ねん当時とうじイギリスの保護ほごりょうであったレフカダとう1864ねんにギリシャに編入へんにゅう)にて、イギリス軍医ぐんいであったアイルランドじんちちチャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダとうおなイオニア諸島しょとうにあるキシラとう出身しゅっしんのギリシャじんははローザ・カシマティのもとに出生しゅっしょう生地きじレフカダ(現代げんだいギリシャ: レフカザ)しまからラフカディオというミドルネームがいた[3]

ちちアイルランド出身しゅっしんプロテスタント・アングロ=アイリッシュである。イギリスぐん軍医ぐんい少佐しょうさとしてレフカダとう (Lefkada) のまちリュカディアに駐在ちゅうざいちゅうキシラとう(イタリアみではセリゴとう)の裕福ゆうふくギリシャじん名士めいしむすめであるローザ・カシマティと結婚けっこんした。カシマティはアラブじっているともつたえられる。ラフカディオは3にん男子だんし次男じなんで、長男ちょうなん夭折ようせつし、おとうとジェイムズは1854ねんまれ、のちにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく農業のうぎょういとなんだ[3]

1851ねんちち西にしインド転属てんぞくのため、この年末ねんまつよりはは通訳つうやくわりの女中じょちゅうともなわれ、ちち実家じっかかうべく出立しゅったつ途中とちゅうパリ1852ねん8がつ両親りょうしんとともにちちいえがあるダブリン到着とうちゃく移住いじゅうし、幼少ようしょう時代じだい同地どうちごす[3]

ちち西にしインド赴任ふにんちゅう1854ねん精神せいしんんだははがギリシアへ帰国きこくし、もなく離婚りこん成立せいりつ以後いご、ハーンは両親りょうしんにはほとんどうことなく、父方ちちかた大叔母おおおばサラ・ブレナン(いえはレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート)に厳格げんかくカトリック文化ぶんかなかそだてられた。この経験けいけん原因げんいんで、少年しょうねん時代じだいのハーンはキリスト教きりすときょうきらいになり、ケルトげんきょうドルイドきょう傾倒けいとうするようになった。

フランスイギリスダラム大学だいがく教育きょういくけたのち1869ねん渡米とべい得意とくいフランス語ふらんすごかし、20だい前半ぜんはんからジャーナリストとして頭角とうかくあらわはじめ、文芸ぶんげい評論ひょうろんから事件じけん報道ほうどうまで広範こうはん著述ちょじゅつ好評こうひょうはくす。

1890ねん明治めいじ23ねん)、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出版しゅっぱんしゃ通信員つうしんいんとして来日らいにち来日らいにち契約けいやく破棄はきし、日本にっぽん英語えいご教師きょうしとして教鞭きょうべんるようになり、翌年よくねん結婚けっこん三男さんなんいちじょもうけた。

松江まつえ熊本くまもと神戸こうべ東京とうきょうきょうつしながら日本にっぽん英語えいご教育きょういく最先端さいせんたん尽力じんりょくし、欧米おうべい日本にっぽん文化ぶんか紹介しょうかいする著書ちょしょ数多かずおおのこした。日本にっぽんでは『雨月物語うげつものがたり』『今昔こんじゃく物語ものがたり』などに題材だいざいった、古典こてん再話さいわ文学ぶんがくでもまれている。

長男ちょうなん一雄かずおにはアメリカで教育きょういくけさせたいとかんがみずか熱心ねっしん英語えいごおしえ、当時とうじ小石川こいしかわ茗荷谷みょうがたにレオニー・ギルモアおっと野口のぐち米次郎よねじろうイサム・ノグチ)に英語えいご個人こじん教授きょうじゅけさせた。

1904ねん明治めいじ37ねん)に狭心症きょうしんしょう死去しきょまん54さいぼつ松江まつえ時代じだい居住きょじゅうした住宅じゅうたくは、1940ねん昭和しょうわ15ねん)にくに史跡しせき指定していされている。

 
雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえんはか

評価ひょうかおよび論争ろんそう

編集へんしゅう

東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教師きょうしとなった日本にっぽん研究けんきゅうしゃでハーンとも交友こうゆうがあったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想げんそう日本にっぽんえがき、最後さいご日本にっぽん幻滅げんめつしたとした。ハーンのさいして歌誌かししんはな」にいた追悼ついとう文中ぶんちゅうでは「英文えいぶん学界がっかい頭角とうかくあらわせる消息しょうそくぶん大家たいかとして記憶きおくせられぬべし」と、ハーンの書簡しょかんぶんたか評価ひょうかしている[13]

ハーン研究けんきゅうしゃでもある比較ひかく文学ぶんがくしゃ平川ひらかわゆうひろしはチェンバレンのせつ反対はんたいして、ハーンは日本にっぽんあいあたたかいしん日本にっぽんえがいたとした。しかしやはり比較ひかく文学ぶんがくしゃ太田おおた雄三ゆうぞうはこれにたいし、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波いわなみ新書しんしょ)の書中しょちゅう反論はんろんした。

また、平川ひらかわ太田おおたおな研究けんきゅうしつ東大とうだい大学院だいがくいん比較ひかく文学ぶんがく比較ひかく文化ぶんか出身しゅっしん小谷野こやのあつし著書ちょしょ東大とうだい駒場こまんば学派がくは物語ものがたり』において、近年きんねんのハーン肯定こうていろんしゃおおくがどう研究けんきゅうしつ関係かんけいしゃであることを指摘してきしている。

平川ひらかわも『ラフカディオ・ハーン』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう)で、ハーンの筆致ひっち一部いちぶ誇張こちょうがあったことをみとめているが、現代げんだい日本にっぽんでの支持しじたかい。

1904ねん著作ちょさく『Japan-An Attempt at Interpretation』は、太平洋戦争たいへいようせんそうなかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたい日本にっぽん心理しんりせん重要じゅうよう役割やくわりたしたとされる。当時とうじのアメリカぐんじゅんしょうであり、ダグラス・マッカーサー軍事ぐんじ書記官しょきかん心理しんりせんのチーフであったボナー・フェラーズは、当時とうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく利用りようできる、日本人にっぽんじん心理しんり理解りかいするための最高さいこうほんであったとべたという[14]

身体しんたい外見がいけん

編集へんしゅう
 
かお左側ひだりがわえる八雲やくもうえ)。友人ゆうじんのミッチェル・マクドナルド(した)とともに。
  • もともと強度きょうど近視きんしであったが、さらに晩年ばんねん右目みぎめ視力しりょくおとろえ、たかさが98センチメートルもあるつくえ使用しようしてかみちかづけランプのひかりあかるくして執筆しっぴつおこなった。
  • 16さいのときに怪我けがひだり失明しつめいして隻眼せきがんとなって以降いこう白濁はくだくした左目ひだりめ嫌悪けんおし、晩年ばんねんいたるまで、写真しゃしんられるときにはかならかお右側みぎがわのみをカメラにけるか、あるいはうつむくかして、けっして失明しつめいしたひだりうつらないポーズをとっている。
たゞざいしゃくばかりのしょう丈夫じょうふ灰色はいいろのセビロをつけ、折襟おりえりのフランネルの襯衣に、こまかくろきネクタイを無造作むぞうさむすびつけたり。かおどうしょくはなはやゝたかせまく、うす口髭くちひげありてあいくるしくまれるくちびるなかば蔽ひ、あごやゝとがり、がくやゝひろく、黒褐色こっかっしょく頭髪とうはつにはすこしくしろこんへたり。されどもっと不思議ふしぎなるは其眼なり。みぎひだりぎてひろひらき、たかで、しかして其左にはしろまくかゝりてギロギロとうごとき一種いっしゅかいなきにしもあらず。されどくもらぬみぎむしろやさしきいろびたり。』『やがてむねのポケットより虫眼鏡むしめがねさまいち近眼きんがんきょうをとりて、これをそのきたる一眼いちがんてゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されどはなはだなつかしき微笑びしょうくちびるうかべつゝ、とうかお一瞥いちべつされしときは、こと意外いがい一種いっしゅ滑稽こっけいかんおこさゞるをざりき。突如とつじょそのくちびるよりはろうかなれどするどくはあらぬ音声おんせいとばっちでぬ。えい文学ぶんがく講義こうぎはじまれる也。づる言葉ことばつゆよどみたるところなく、まこと整然せいぜんとして珠玉しゅぎょくをなし、すでにしてきょううごき、ねつはり、滔々とうとうとしてすうせん身辺しんぺんふうしょうじ、すわみぎ幽玄ゆうげんべつ乾坤けんこん現出げんしゅつするにおよびて、とう全然ぜんぜんその魔力まりょくためめにせられぬ。爾来じらいさんねんあいだあまり一回いっかいとしてその講義こうぎれっするをもっ最大さいだい愉快ゆかいおもはざるはなかりき。(原文げんぶんママ)[15]

執筆しっぴつ関係かんけい

編集へんしゅう
  • 非常ひじょうふでまめであり、避暑ひしょ自宅じたくはなれているあいだ、あとにのこったつまセツ毎日まいにちおくった手紙てがみ数多かずおおのこされている。ハーンは日本語にほんごがわからずつま英語えいごがわからないため、それらは夫妻ふさいあいだだけでつうじる特殊とくしゅ仮名かめい言葉ことばかれている。
  • 原稿げんこうは9かいなおさなければまともにならない」とし、文章ぶんしょうにこだわった。たとえば「雪女ゆきおんな」の結文けつぶん「Never again was she seen」のsの3連続れんぞく風呂ふろ[注釈ちゅうしゃく 2]代表だいひょうれいとしてあげる[16]
  • 著作ちょさく原稿げんこうりょうにはこだわっていたが貯蓄ちょちくにまったく関心かんしんがなく、くなった当時とうじ小泉こいずみには遺産いさんとなるものがほとんどのこっていなかった。当時とうじ小泉こいずみにはつま親類しんるい縁者えんじゃおお同居どうきょしており、著述ちょじゅつぎょう英語えいご教師きょうしとしての収入しゅうにゅうはほぼ全額ぜんがくかれらの生活せいかつてられていた。
  • アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく新聞しんぶん記者きしゃをしていたとき「オールド・セミコロン(古風こふう句読点くとうてん)」というニックネームをつけられたことがある[17]句読点くとうてんひとつであってもいち切手きってくわえさせないというほど自分じぶん文章ぶんしょうにこだわりをっていたことをしている。
  • 英語えいご教師きょうしとしては、よく学生がくせい作文さくぶんをさせた。優秀ゆうしゅう学生がくせいには賞品しょうひんとして、自腹じばら用意よういした英語えいごほんをプレゼントしていた[注釈ちゅうしゃく 3]
  • アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく在住ざいじゅうちゅう勤勉きんべんならせいとなり、日本にっぽんでは学校がっこう教育きょういくかたわら14年間ねんかんに13さつほんいた[18]
  • tsunamiという英語えいごみな英語えいごにしたのはスマトラ島すまとらとうおき地震じしん (2004ねん)からであるが、最初さいしょ英語えいごとして紹介しょうかいしたのはハーンの 1897ねん作品さくひん生神うるかみ」の英語えいごばん"A Living God"からである。
 
八雲やくもあいしたはなかけ地蔵じぞう
  • 熊本くまもと時代じだい時間じかんがあるとだい高等こうとう学校がっこううらにある小峰こみね墓地ぼちかよい、そこにあるはなけた地蔵じぞうはなかけ地蔵じぞう」をこよなくあいしたとされる[19]
  • 八雲やくも生誕せいたんギリシャレフカダとう詩人しじん公園こうえんには、日本にっぽん松江まつえ新宿しんじゅくからおくられた八雲やくもぞうがある。
  • 八雲やくもえんで、レフカダ出生しゅっしょう)と新宿しんじゅく終焉しゅうえん)、ニューオーリンズ松江まつえがそれぞれ姉妹しまい都市としになっている[20]
  • 熊本くまもとでは、いえだい旧居きゅうきょ)から人力車じんりきしゃ現在げんざい子飼こがい商店しょうてんがいとおけてだい高等こうとう学校がっこうかよっていた。これにちなんで、だい旧居きゅうきょから子飼こがい商店しょうてんがい入口いりくちまでは、「八雲やくもどおり」とづけられた[21]
  • マツムシスズムシくさひばり(クサヒバリ小型こがたコオロギ)などをい、その声音こわねでていた[22][23]随筆ずいひつむし音楽家おんがくか』(1897ねん)には、日本にっぽんむしりの歴史れきしむし12しゅ値段ねだん記録きろくされている[24][25]。『くさひばり』では、自身じしんっていたくさひばりをくしたかなしみがえがかれる[24][26][27]小泉こいずみ八雲やくも記念きねんかんに「小泉こいずみ八雲やくも愛用あいようむしかご」が収蔵しゅうぞうされている[22][28]
  • 日本にっぽんしょく苦手にがてであり、家族かぞくとはべつ料理りょうりべていた。来日らいにち直後ちょくご日本にっぽんしょくべていたが、体調たいちょうくずしてからは洋食ようしょく中心ちゅうしん生活せいかつになった。コース料理りょうりのようにひとつの料理りょうりわるとさら片付かたづけていた。日本にっぽんしょくなかでもうなぎ奈良ならづけきだったが、いとこんにゃくはむしていることからきらいだったという[29]
  • 2016ねん11月25にち愛知学院大学あいちがくいんだいがく竹下たけした修子のぶこ教授きょうじゅが、小泉こいずみ八雲やくも国籍こくせき離脱りだつ当時とうじのイギリスがみとめず日本にっぽんとの「じゅう国籍こくせきだった可能かのうせいたかい」という研究けんきゅう論文ろんぶん公表こうひょうした[4]新潟にいがたけん南魚沼みなみうおぬま池田いけだ記念きねん美術館びじゅつかん小泉こいずみ八雲やくもかんする1896ねん明治めいじ29ねん)の公開こうかい書簡しょかん現存げんそんしており、この書簡しょかん当時とうじ島根しまねけんがイギリス領事りょうじ照会しょうかいした小泉こいずみ八雲やくも日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくかんする手続てつづきについての返答へんとうがかかれているものとのことで、そのなかに「(日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくは)日本にっぽんがわ手続てつづきだけで完了かんりょうする」と記載きさいされているという。これが意味いみするところは「英国えいこくがわ手続てつづきはい」つまりは「国籍こくせき離脱りだつにはおうじない」という姿勢しせいあらわれで、小泉こいずみ八雲やくもよりまえにイギリスじん男性だんせい日本人にっぽんじん女性じょせい婿入むこいりするかたち婚姻こんいんしたところイギリスは書簡しょかんで「(前略ぜんりゃく到底とうていゆるがたい」と国籍こくせき離脱りだつみとめなかったということで、イギリスはその姿勢しせいくずしておらず、小泉こいずみ八雲やくもじゅう国籍こくせきだった可能かのうせいたかいと結論けつろんづけられたものである。

八雲やくもをめぐる人々ひとびと

編集へんしゅう
 
八雲やくもひだり)とつま・セツ(みぎ
セツつま
つまセツは日本語にほんごめないおっとのリクエストにおうじて日本にっぽん民話みんわ伝説でんせつかたかせるため、普段ふだんからそれらの資料しりょう収集しゅうしゅうつとめた。彼女かのじょ以外いがい家族かぞく使用人しようにん近隣きんりん住民じゅうみん、また旅先たびさき出会であった人々ひとびとはなし題材だいざいにした作品さくひんおおい。
浅野あさの和三郎わさぶろうおし心霊しんれい研究けんきゅう
浅野あさのだいいち大本おおもと事件じけん陳弁ちんべんしょでハーンの印象いんしょう回想かいそうしている[30]。また、「自分じぶんじゅうねんまえ当時とうじ回顧かいこしてると、小泉こいずみ講堂こうどうたけにはモいちいれつて聴講ちょうこうしたいやうな気分きぶんがする」と回顧かいこする[31]。『えい文学ぶんがく』のなかではハーンについて「其真実しんじつせき米国べいこくにもあらず、また日本にっぽんにもあらずして、美文びぶん世界せかいり」としるした[31]
田部たなべ隆次りゅうじおし
田部たなべ早稲田大学わせだだいがく委嘱いしょくいた伝記でんき小泉こいずみ八雲やくも〜ラフカディオ・ヘルン〜」のなかで、ふるくから日本にっぽんめい八雲やくも」については「音読おんよみにするとハウンになる」こととの関連かんれん指摘してきされることがおおかったらしいことに関連かんれんし「八雲やくもはハウンにつうじるというかんがえはすこしもなかった」と明記めいきしている。
田部たなべ重治しげはるおし田部たなべ隆次りゅうじおとうと
田部たなべ隆次りゅうじおとうと田部たなべ重治しげはるあにからハーンの逸話いつわき「英文えいぶん学界がっかいそぞろあるき」(『英語えいご青年せいねん』1967ねん9がつごう)として発表はっぴょうした[31]。それによれば、ハーンは学生がくせい題名だいめいあたえて感想かんそう随筆ずいひつ懸賞けんしょうおこない、受賞じゅしょうしゃには文学ぶんがく全集ぜんしゅうあたえた[31]田部たなべ浅野あさの大谷おおや正信まさのぶ戸沢とざわ正保まさやすいたる受賞じゅしょうしたという[31]
川田かわたじゅんおし
東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくでは学生がくせい信望しんぼうあつく、解任かいにんのときははげしい留任りゅうにん運動うんどうきた。川田かわたじゅんは「ヘルン先生せんせいのいない文科ぶんかまなぶことはない」といって法科ほうかうたてした。後年こうねんこのはなし真偽しんぎたずねられた川田かわたはそれが事実じじつであるとこたえ、後任こうにん夏目なつめ漱石そうせきについても「夏目なつめなんて、あんなもん問題もんだいになりゃしない」とった。
本田ほんだ増次郎ますじろう熊本くまもとだい高等こうとう学校がっこう時代じだい同僚どうりょう
本田ほんだによると、失明しつめいした左目ひだりめはひどくており、右目みぎめ強度きょうど近視きんしで、ページにがくをこすりつけていちずつわないとめないほどで、背中せなかがり変形へんけいしていたという[32]。また、本田ほんだ回想かいそうによると、ハーンは一種いっしゅ人間にんげんぎらいになっていたが、しろ人種じんしゅなかにいるよりは日本人にっぽんじんなかにいるほうがさわらないとかんじていた[32]。そして本田ほんださらに、小泉こいずみ性格せいかくについて病的びょうてきなほど神経質しんけいしつ猜疑心さいぎしんつよく、「文学ぶんがくしゃ作品さくひんかいして敬服けいふくするにしたことはない。個人こじんてきなおいをするとひどく失望しつぼうさせられるからだ。ハーンもこの一般いっぱん原則げんそく例外れいがいではなかった」とかたっている[32]
内ヶ崎うちがさき作三郎さくさぶろう衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょう
内ヶ崎うちがさき田部たなべ隆次りゅうじちょ小泉こいずみ八雲やくも』に序文じょぶん小泉こいずみ八雲やくも先生せんせいなつけふ」をせ、このなかで「されど先生せんせいきよんだうたふがごときこえがかすかに微笑びしょうたたえゆる口辺こうへんよりるるをときは、そのこと自身じしん一種いっしゅ魔力まりょくであった」とべて浅野あさのおなじく“魔力まりょく”の表現ひょうげん使つかった[33][34]
西田にしだ幾太郎いくたろう哲学てつがくしゃ
西田にしだ田部たなべのハーン伝記でんき序文じょぶんで「ヘルン万象ばんしょう背後はいご心霊しんれい活動かつどうるといふよう一種いっしゅふか神秘しんぴ思想しそういた文学ぶんがくしゃであつた。かれは我々われわれ単純たんじゅんなる感覚かんかく感情かんじょうおく過去かこいくせん年来ねんらいせい脈搏みゃくはくかんじたのみならず、肉体にくたいてき表現ひょうげん一々いちいちうえにも祖先そせん以来いらいいくせいれい活動かつどうた。(中略ちゅうりゃくには、この世界せかい固定こていせる物体ぶったい世界せかいではない、過去かこ過去かこから未来みらい未来みらいわた霊的れいてき進化しんか世界せかいである。」とべ、ハーンの神秘しんぴ主義しゅぎ指摘してきしている[35]
巖谷いわや國士くにお(フランス文学ぶんがくしゃ
巖谷いわや自著じちょオデュッセウスたび」(『作家さっかたび平凡社へいぼんしゃ)で「うつんだ土地とち列挙れっきょしただけでも、興味きょうみぶかい事実じじつおもいあたる。しまこのんだということだ…琉球りゅうきゅう諸島しょとうまで航海こうかいする計画けいかくまで…」「ハーンの生涯しょうがい旅程りょていからられるもうひとつの事実じじつは、ロンドンやパリやニューヨークにはきょつかず、いわゆる辺境へんきょうえらんでんだということである」などと小泉こいずみについてひょうしている。

家族かぞく親族しんぞく

編集へんしゅう
 
長男ちょうなん 一雄かずお、17さい
小泉こいずみ
れつろく』によれば、初代しょだい小泉こいずみわたるみぎ衛門えもんは「本国ほんごく近江おうみ現在げんざい滋賀しがけん)、生国しょうごく因幡いなば現在げんざい鳥取とっとりけん)」のさむらいだった。はじめ、讃岐さぬき丸亀まるがめはんよんまんせんせき藩主はんしゅである山崎やまざきおさむよりゆきつかえて家老がろうつとめていた。しかしあかりれき3ねん1657ねん)、山崎やまざきおさむよりゆき嗣子ししなくしてぼっしてじょふうとなり、わってかつての松江城まつえじょうおも京極きょうごくただしだかおいにして養子ようし高和こうわにゅうふうするにおよんで、わたるみぎ衛門えもん丸亀まるがめって江戸えど現在げんざい東京とうきょう)にた。翌年よくねん万治まんじ元年がんねん1658ねん)、わたるみぎ衛門えもんは、江戸えど出雲いずも松平まつへいである松平まつだいら直政なおまさ召抱めしかかえられ、はじめは使番つかいばん(つかいばん)、のちじゅうめい足軽あしがる)を統率とうそつするものあたま(ものがしら)をつとめた。その小泉こいずみ代目だいめわたるみぎ衛門えもんじゅうにん士分しぶんさむらい統率とうそつする番頭ばんがしら(ばんがしら)をつとめて以来いらい代々だいだいセツちちはち代目だいめわたるみぎ衛門えもんいたるまで、一定いってい期間きかんしゃあたまないしそれにじゅんじた役職やくしょくつとめたのち番頭ばんがしら(ばんがしら)にすすんでおり、また、嫡子ちゃくしには家督かとく相続そうぞく同時どうじくみがい(くみはずれ)という格式かくしきあたえられている。この格式かくしきは、直接ちょくせつほかのさむらい采配さいはいはいらないことを意味いみし、『くもはん職制しょくせい』の編者へんしゃが「いちこくちゅう貴族きぞく」と表現ひょうげんした上士じょうしかぎってあたえられた待遇たいぐうだった。ただしいえろくは、一雄かずお田部たなべ隆次りゅうじしるしたひゃくせきあやまりと做すべきで、『代々だいだい御給ごきゅうちょう』・『れつろく』・『旧藩きゅうはん事蹟じせきとう古文書こもんじょ一致いっちして300せきだったことをしめしている。小泉こいずみ八雲やくも・セツ夫妻ふさいまご小泉こいずみとき(エッセイスト、2009ねん7がつ8にち死去しきょ)、小泉こいずみうるう稲垣いながき明男あきお種市たねいち八重子やえこ佐々木ささき京子きょうこ曾孫そうそん小泉こいずみ民俗みんぞく学者がくしゃ[28]島根しまね県立けんりつ島根しまね女子じょし短期大学たんきだいがくじゅん教授きょうじゅ)がいる。
(前代ぜんだいりゃく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家せんげ俊秀としひで
(76だい出雲いずも国造くにのみやつこ
千家せんげ俊信としのぶ
 
 
 
 
 
 
みこと
(77だい出雲いずも国造くにのみやつこ
きよし
 
 
 
 
 
小泉こいずみしんしゅ
 
乙部おとべ次郎じろう兵衛ひょうえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みことまご
(78だい出雲いずも国造くにのみやつこ
塩見しおみぞうみぎ衛門えもんおんな
 
 
 
 
 
小泉こいずみいわこけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みこときよし
(79だい出雲いずも国造くにのみやつこ
チエ
 
 
 
 
 
みなと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊福たかとみ
(80だい出雲いずも国造くにのみやつこ
みこと
(81だい出雲いずも国造くにのみやつこ
セツ
 
 
 
小泉こいずみ八雲やくも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後代こうだいりゃく)

記念きねんかん資料しりょうかんなど

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作品さくひん

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Category:小泉こいずみ八雲やくも参照さんしょうのこと。

 
られぬ日本にっぽん面影おもかげ (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894ねん

来日らいにち以前いぜん著作ちょさく

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  • 飛花落葉ひからくようしゅう (Stray Leaves from Strange Literature) 1884ねん
  • ゴンボ・ゼーブ ("Gombo Zhèbes") 1885ねん
  • クレオール料理りょうり (La Cuisine Creole: A Collection of Culinary Recipes) 1885ねん
  • 中国ちゅうごく怪談かいだんしゅう (Some Chinese Ghosts) 1887ねん
  • チータ (Chita: A Memory of Last Island) 1889ねん
  • ユーマ (Youma, the Story of a West-Indian Slave) 1890ねん
  • ふつりょう西にしインドの年間ねんかん (Two Years in the French West Indies) 1890ねん

来日らいにち著作ちょさく

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ちりめんほん

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長谷川はせがわ武次郎たけじろう刊行かんこうした日本にっぽんむかしはなしシリーズ (Japanese Fairy Tale) のうち、5作品さくひん八雲やくもによるもの。

  • ねこえがいた少年しょうねん (The boy who drew cats英語えいごばん) 1898ねん
  • 蜘蛛くも (The goblin spider) 1899ねん
  • 団子だんごをなくしたおばあさん (The old woman who lost her dumpling) 1902ねん
  • ちんちん小袴こはかま (Chin Chin Kobakama) 1903ねん
  • 若返わかがえりのいずみ (The Fountain of Youth) 1922ねん

著作ちょさくしゅう

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  • 小泉こいずみ八雲やくも全集ぜんしゅうぜん17かん別巻べっかん1かんだいいち書房しょぼう落合おちあい貞三郎ていさぶろう大谷おおや正信まさのぶ田部たなべ隆次りゅうじわけ)、1926ねん - 1928ねんNCID BA31554769NDLJP:1020344
  • 小泉こいずみ八雲やくも作品さくひんしゅうぜん12かん[42]平井ひらい呈一ていいちわけ恒文社こうぶんしゃ、1964ねん - 1967ねんNCID BN08514823OCLC 21305178大半たいはん新装しんそう(オンデマンドばんも)再刊さいかん
  • 『ラフカディオ・ハーン著作ちょさくしゅうぜん15かん恒文社こうぶんしゃ西脇にしわき順三郎じゅんざぶろうもりあきら監修かんしゅう)、1980ねん - 1988ねんNCID BN00283035OCLC 26170683
  • 尖塔せんとう登攀とうはん 小泉こいずみ八雲やくも初期しょき文集ぶんしゅう がいよんへん恒文社こうぶんしゃ佐藤さとう春夫はるおわけ新版しんぱん1996ねん6がつ ISBN 4-7704-0878-1
  • 小泉こいずみ八雲やくも作品さくひんしゅうぜん3かんもりあきらほかやく河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1977ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこぜん6さつ)で改訂かいていばん

関連かんれん人物じんぶつ

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小泉こいずみ八雲やくもあつかった作品さくひん

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参考さんこう文献ぶんけん

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親族しんぞくによる伝記でんき

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資料しりょう

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  • 小泉こいずみ小泉こいずみ凡編『文学ぶんがくアルバム 小泉こいずみ八雲やくも恒文社こうぶんしゃ、2000ねん4がつ新版しんぱん2008ねんISBN 4770411332
  • 田部たなべ隆次りゅうじ小泉こいずみ八雲やくも早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん、1914ねんNCID BN10927371NDLJP:950739
  • 梅本うめもと順子じゅんこ監修かんしゅう解説かいせつ西洋せいようじんたちのかたったラフカディオ・ハーン 初期しょき英文えいぶん伝記でんき集成しゅうせい復刻ふっこく集成しゅうせいぜん4かん別冊べっさつ解説かいせつ、エディション・シナプス、2008ねん12月。ISBN 978-4-86166-102-0
  • 西川にしかわ盛雄もりお / アラン・ローゼン共編きょうへん対訳たいやく 小泉こいずみ八雲やくも作品さくひんしょう平井ひらい呈一ていいちやく小泉こいずみ恒文社こうぶんしゃ、1998ねん9がつISBN 4-7704-0984-2
  • 丸山まるやままなぶ小泉こいずみ八雲やくもしんこう北星ほくせいどう書店しょてん、1936ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1996ねん
  • 松本まつもと, 健一けんいちかみわな : 浅野あさの和三郎わさぶろう近代きんだい知性ちせい悲劇ひげき新潮社しんちょうしゃ、1989ねん10がつISBN 9784103684022 
  • 山田やまだ和夫かずお「ハーンの太平洋たいへいよう横断おうだんと「雪女ゆきおんな」」-『えいべい文学ぶんがくえいべい文化ぶんか試論しろん 太平洋たいへいよう横断おうだんアメリカン・スタディーズの視座しざから』(成田なりたきょうへんあきらがく出版しゅっぱん、2007ねんISBN 978-4-903742-02-1)69-86ぺーじ所収しょしゅう
  • 小泉こいずみ八雲やくも辞典じてん平川ひらかわゆうひろ監修かんしゅう恒文社こうぶんしゃ、2000ねんISBN 978-4-770410-24-5
  • 講座こうざ 小泉こいずみ八雲やくもぜん2かん(ハーンのひと周辺しゅうへん、ハーンの文学ぶんがく世界せかい平川ひらかわゆうひろし牧野まきの陽子ようこへんしん曜社、2009ねん
  • 小泉こいずみ八雲やくも 日本にっぽんれいせいもとめて』 池田いけだ雅之まさゆき監修かんしゅう平凡社へいぼんしゃ別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ〉、2022ねん
  • 牧野まきの陽子ようこ『ラフカディオ・ハーン 文化ぶんか体験たいけんてに』中公新書ちゅうこうしんしょ、1992ねん1がつISBN 4-12-101056-6
  • 太田おおた雄三ゆうぞう『ラフカディオ・ハーン―虚像きょぞう実像じつぞう岩波いわなみ新書しんしょ、1994ねん5がつISBN 4-00-430336-2
  • 工藤くどう美代子みよこゆめ途上とじょう ラフカディオ・ハーンの生涯しょうがい<アメリカへん>』集英社しゅうえいしゃ、1997ねん2がつISBN 4-08-774247-4。ランダムハウス講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、2008ねん
  • 工藤くどう美代子みよこ聖霊せいれいしま ラフカディオ・ハーンの生涯しょうがい<ヨーロッパへん>』集英社しゅうえいしゃ、1999ねん10がつISBN 4-08-774431-0。ランダムハウス講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、2008ねん
  • 工藤くどう美代子みよこかみ々のくに ラフカディオ・ハーンの生涯しょうがい<日本にっぽんへん>』集英社しゅうえいしゃ、2003ねん4がつISBN 4-08-774643-7。ランダムハウス講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、2008ねん
  • ジョナサン・コット『さまようたましい―ラフカディオ・ハーンの遍歴へんれき真崎まさき義博よしひろやく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1994ねん3がつISBN 4-16-348890-1
  • エリザベス・スティーブンスン『評伝ひょうでんラフカディオ・ハーン』遠田えんだまさるやく恒文社こうぶんしゃ、1984ねん8がつISBN 4770405677
  • 平川ひらかわゆうひろし『ラフカディオ・ハーン 植民しょくみん・キリスト教化きょうか文明開化ぶんめいかいかミネルみねるァ書房ぁしょぼう<MINERVA歴史れきし文化ぶんかライブラリー3>、2004ねん3がつISBN 4-623-04044-5
  • 平川ひらかわゆうひろし小泉こいずみ八雲やくも 西洋せいよう脱出だっしゅつゆめ新潮社しんちょうしゃ、1981ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1994ねん新版しんぱんは「著作ちょさくしゅうつとむまこと出版しゅっぱん
  • 小泉こいずみ八雲やくも 回想かいそう研究けんきゅう平川ひらかわゆうひろへん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1992ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 一般いっぱんてきには本人ほんにんが「サギ」(heron) と発音はつおんていたからったとされる。
  2. ^ ふろ かたし。広島ひろしまラフカディオハーンのかい代表だいひょうもと修道しゅうどう高校こうこう英語えいご教師きょうし
  3. ^ 西川にしかわ盛雄もりお / アラン・ローゼン共編きょうへん『ラフカディオ・ハーンのえい作文さくぶん教育きょういく』(つる書房しょぼう)がハーンの添削てんさくぶりをしめしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 小泉こいずみ八雲やくも(こいずみ やくも)文京ぶんきょう
  2. ^ 小泉こいずみ小泉こいずみへん増補ぞうほ新版しんぱん文学ぶんがくアルバム小泉こいずみ八雲やくも恒文社こうぶんしゃ、2008ねん、105ぺーじぺーじ セツのやしなえ祖父そふ稲垣いながきまんみぎ衛門えもんが『古事記こじき』にある日本にっぽん最古さいこ和歌わかからとって名付なづけた、とある。
  3. ^ a b c d 小泉こいずみはち雲集うんしゅう』(新潮社しんちょうしゃ 平成へいせい9ねん11月20にちばん
  4. ^ a b 小泉こいずみ八雲やくもは「じゅう国籍こくせき」? 新潟にいがた南魚沼みなみうおぬま美術館びじゅつかん 公開こうかい書簡しょかん判明はんめい産経さんけいニュース/産経新聞さんけいしんぶん2016ねん11月26にち 1250ふん掲載けいさい記事きじ
  5. ^ 小泉こいずみ八雲やくも生涯しょうがい”. 小泉こいずみ八雲やくも記念きねんかん. 2018ねん1がつ7にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 工藤くどう美代子みよこゆめ途上とじょう ラフカディオ・ハーンの生涯しょうがい【アメリカへん】』集英社しゅうえいしゃ、1997ねん、p.55
  7. ^ 工藤くどう、1997ねん、p.35
  8. ^ 工藤くどう、1997ねん、p.58
  9. ^ 出雲いずも 縁結えんむすびのたびへ!~古事記こじき編纂へんさん1300ねん 神話しんわさと物語ものがたり - NHK歴史れきし秘話ひわヒストリア2012ねん11月7にち放送ほうそう
  10. ^ A Fantastic Journey: The Life and Literature of Lafcadio Hearn Paul Murray, Psychology Press, 1993, p128, p355
  11. ^ Rabyah's Last Ride(さいろく)Los Angels Herald, Volume 45, Number 16, 27 October 1895
  12. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.35
  13. ^ チヤムブレン「ラフカデイオ・ハアン」」小花こばなきよしいずみやく、『しんはなだいじゅうかんいちごう竹柏なぎかい、1911ねん1がつ
  14. ^ John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page280-281、ジョン・ダワー敗北はいぼくきしめて』、下巻げかん、8ページ。岩波書店いわなみしょてん、2001ねん
  15. ^ 松本まつもと 1989, pp. 24–25.
  16. ^ 小泉こいずみ八雲やくも られぬ面影おもかげ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2016ねん4がつ25にち
  17. ^ 小泉こいずみ小泉こいずみへん増補ぞうほ新版しんぱん文学ぶんがくアルバム小泉こいずみ八雲やくも恒文社こうぶんしゃ、2008ねん、51ぺーじぺーじ 
  18. ^ 平川ひらかわゆうひろし小泉こいずみ八雲やくもとカミガミの世界せかい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1988ねん、126ぺーじぺーじ 
  19. ^ 小峯こみね墓地ぼち石仏いしぼとけ八雲やくも関連かんれん) - 【まんゆう!くまもと】 - ウェイバックマシン(2016ねん10がつ2にちアーカイブぶん
  20. ^ 姉妹しまい提携ていけい情報じょうほう Archived 2012ねん10がつ27にち, at the Wayback Machine. - 自治体じちたい国際こくさい協会きょうかい
  21. ^ 熊本くまもとにちにち新聞しんぶん1998ねん5がつ25にち夕刊ゆうかん8めん
  22. ^ a b むし かそけきものの声音こわねあい”. 小泉こいずみ八雲やくも記念きねんかん. 2024ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  23. ^ 小泉こいずみ八雲やくもむしコーナー、展示てんじ追加ついかしました!”. 兵庫ひょうご県立けんりつ じん自然しぜん博物館はくぶつかん (2009ねん8がつ10日とおか). 2024ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  24. ^ a b 加納かのう康嗣やすつぐむし文化ぶんかむし名所めいしょむしり』HSK、2011ねん9がつ1にちISBN 9784902424102 
  25. ^ 昆虫こんちゅうシリーズ35 むし コオロギ、キリギリスの仲間なかま”. あきたもりづくり活動かつどうサポートセンター. 2022ねん5がつ17にち閲覧えつらん
  26. ^ 企画きかくてん小泉こいずみ八雲やくも」『骨董こっとう』のおはなし”. 明星大学めいせいだいがく (2020ねん12月24にち). 2022ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  27. ^ 10月の新刊しんかん草雲雀くさひばり刊行かんこうせて 小泉こいずみ八雲やくもあいした日本人にっぽんじん姿すがた 葉室はむろ”. 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 月刊げっかんジェイ・ノベル2015ねん11がつごう. 2024ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  28. ^ a b しまとりひとひと 八雲やくも記念きねんかんコーディネーター 小泉こいずみ祥子さちこさん”. 朝日新聞あさひしんぶん (2022ねん10がつ10日とおか). 2024ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  29. ^ えるしょく文化ぶんかより、えない怪異かいい関心かんしん小泉こいずみ八雲やくも日本にっぽん料理りょうり小泉こいずみ凡さんに”. 山陰さんいん中央ちゅうおう新報しんぽうデジタル (2024ねん5がつ9にち). 2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  30. ^ 松本まつもと 1989, p. 22.
  31. ^ a b c d e 松本まつもと 1989, p. 51-53.
  32. ^ a b c 本田ほんだ増次郎ますじろう自叙伝じじょでん「ある日本人にっぽんじんコスモポリタンの物語ものがたり」の紹介しょうかい長谷川はせがわ勝政かつまさ本田ほんだ増次郎ますじろうWeb記念きねんかん
  33. ^ 松本まつもと 1989, pp. 21–26.
  34. ^ 松本まつもと 1989, p. 26.
  35. ^ 松本まつもと 1989, p. 27.
  36. ^ 小泉こいずみ八雲やくも旧居きゅうきょあと”. 新宿しんじゅく観光かんこう振興しんこう協会きょうかい. 2024ねん2がつ15にち閲覧えつらん
  37. ^ 小泉こいずみ八雲やくも終焉しゅうえん”. 新宿しんじゅく観光かんこう振興しんこう協会きょうかい. 2024ねん2がつ20日はつか閲覧えつらん
  38. ^ 小泉こいずみ八雲やくも記念きねん公園こうえん”. 新宿しんじゅく (2023ねん7がつ21にち). 2024ねん2がつ15にち閲覧えつらん
  39. ^ Kokoro: Hints and Echoes of Japanese Inner LifeArchive.org
  40. ^ ぶくかず伸夫のぶお (2020ねん8がつ24にち). “19世紀せいき後半こうはん黒船くろふね地震じしん台風たいふう疫病えきびょうなどの災禍さいかをくぐりけ、明治維新めいじいしんかう”. Yahoo!ニュース. https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020ねん12月3にち閲覧えつらん 
  41. ^ いねむらの”. 気象庁きしょうちょう. 2021ねん4がつ25にち閲覧えつらん。 “ハーンの"A Living God"を児童じどうけに翻訳ほんやくさい構成こうせいしたのが「いねむらの」である。”
  42. ^ 最終巻さいしゅうかんは『全訳ぜんやく 小泉こいずみ八雲やくも作品さくひんしゅう だい12かん 小泉こいずみ節子せつこおも」、小泉こいずみ一雄かずおちち八雲やくも」を憶う」』、本書ほんしょ単行たんこうばん小泉こいずみ八雲やくも』で度々たびたび再刊さいかん
  43. ^ 25年度ねんど後期こうきあさドラ「ばけばけ」制作せいさく決定けってい モデルは小泉こいずみ八雲やくもつま小泉こいずみセツ”. シネマトゥデイ (2024ねん6がつ12にち). 2024ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  44. ^ 2025年度ねんど後期こうき 連続れんぞくテレビ小説しょうせつ「ばけばけ」制作せいさく決定けってい!”. ドラマ情報じょうほう. NHK (2024ねん6がつ12にち). 2024ねん6がつ22にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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