「稲 いね むら」(稲叢 いなむら )とは積 つ み重 かさ ねられた稲 いね の束 たば のこと。稲 いね は刈 か り取 と りのあと天日 てんじつ で干 ほ してから脱穀 だっこく するが、上 うえ のように稲架 はさ (はさ )に架 か けられた状態 じょうたい を「稲 いね むら」と呼 よ ぶ。 ただし脱穀 だっこく 後 ご の藁 わら の山 やま も「稲 いね むら」と言 い うことがあり、史実 しじつ で燃 も やされたのは脱穀 だっこく 後 ご の藁 わら である。
村 むら の高台 たかだい に住 す む庄屋 しょうや の五 ご 兵衛 ひょうえ は、地震 じしん の揺 ゆ れを感 かん じたあと、海水 かいすい が沖合 おきあい へ退 しりぞ いていくのを見 み て津波 つなみ の来襲 らいしゅう に気付 きづ く。祭 まつ りの準備 じゅんび に心 しん 奪 うば われている村人 むらびと たちに危険 きけん を知 し らせるため、五 ご 兵衛 ひょうえ は自分 じぶん の田 た にある刈 か り取 と ったばかりの稲 いね の束 たば (稲 いね むら)に松明 たいまつ で火 ひ をつけた。火事 かじ と見 み て、消火 しょうか のために高台 たかだい に集 あつ まった村人 むらびと たちの眼下 がんか で、津波 つなみ は猛威 もうい を振 ふ るう。五 ご 兵衛 ひょうえ の機転 きてん と犠牲 ぎせい 的 てき 精神 せいしん によって村人 むらびと たちはみな津波 つなみ から守 まも られた。
広川 ひろかわ 町 まち 役場 やくば 前 まえ の「稲 いね むらの火 ひ 広場 ひろば 」にある浜口 はまぐち 梧陵の銅像 どうぞう
1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )、小泉 こいずみ 八雲 やくも (ラフカディオ・ハーン)は、英語 えいご によって "A Living God " を著 あらわ した。西洋 せいよう と日本 にっぽん との「神 かみ 」の考 かんが え方 かた の違 ちが いについて触 ふ れた文章 ぶんしょう であり、この中 なか で人並 ひとなみ はずれた偉業 いぎょう を行 おこな ったことによって「生 い き神 がみ 様 さま 」として慕 した われている紀州 きしゅう 有田 ありた の農村 のうそん の長 ちょう 「浜口 はまぐち 五 ご 兵衛 ひょうえ 」の物語 ものがたり を紹介 しょうかい した[1] 。
小泉 こいずみ 八雲 やくも は作中 さくちゅう にも触 ふ れられている明治 めいじ 三陸 さんりく 地震 じしん 津波 つなみ の情報 じょうほう を聞 き き、この作品 さくひん を記 しる したと推測 すいそく されている。ただし地震 じしん の揺 ゆ れ方 かた や津波 つなみ の襲来 しゅうらい 回数 かいすう など、史実 しじつ と異 こと なる部分 ぶぶん も多 おお い[1] 。また「地震 じしん から復興 ふっこう を遂 と げたのち、五 ご 兵衛 ひょうえ が存命 ぞんめい 中 ちゅう にもかかわらず神社 じんじゃ が建 た てられた」とする点 てん は誤 あやま りである。
広 ひろ 村 むら の隣 となり 町 まち である湯浅 ゆあさ 町 まち 出身 しゅっしん で、濱口 はまぐち 儀 ただし 兵衛 ひょうえ らが創設 そうせつ した耐久 たいきゅう 中学校 ちゅうがっこう の卒業生 そつぎょうせい である中井 なかい 常蔵 じょうぞう (なかい つねぞう、1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )12月12日 にち - 1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )1月 がつ 24日 にち )[3] は、和歌山 わかやま 県 けん 師範 しはん 学校 がっこう 在学 ざいがく 中 ちゅう 、英語 えいご テキストで小泉 こいずみ 八雲 やくも の「A Living God」を読 よ み、感銘 かんめい を受 う けた[1] 。
1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )に文部省 もんぶしょう による国語 こくご 教科書 きょうかしょ の教材 きょうざい 公募 こうぼ (当時 とうじ は国定 こくてい 教科書 きょうかしょ )が行 おこな われた。当時 とうじ は南部 なんぶ 町 まち (現在 げんざい の日高 ひだか 郡 ぐん みなべ町 まち )の南部 なんぶ 小学校 しょうがっこう で訓導 くんどう を務 つと めていた[3] 中井 なかい は、"A Living God " を児童 じどう 向 む けに翻訳 ほんやく ・再 さい 構成 こうせい し、「燃 もえ ゆる稲 いね むら」として応募 おうぼ した。中井 なかい の作品 さくひん では、具体 ぐたい 的 てき な年代 ねんだい や場所 ばしょ などの記述 きじゅつ が省 はぶ かれ、普遍 ふへん 的 てき な物語 ものがたり として構成 こうせい されている。この作品 さくひん はそのまま国語 こくご 教材 きょうざい として採用 さいよう され、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )から1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )まで「稲 いね むらの火 ひ 」と題 だい されて掲載 けいさい された。
中井 なかい は1945年 ねん 、終戦 しゅうせん を機 き に日高 ひだか 郡 ぐん 切目 きりめ 小学 しょうがく 校長 こうちょう を最後 さいご として教職 きょうしょく を退 しりぞ き、酒販 しゅはん 店 てん の経営 けいえい にあたるとともに、南部 なんぶ 町 まち 町 まち 会議 かいぎ 員 いん などの公職 こうしょく を務 つと めた[3] 。1987年 ねん (昭和 しょうわ 62年 ねん )9月 がつ には、国土庁 こくどちょう から防災 ぼうさい 功績 こうせき 者 しゃ 表彰 ひょうしょう を受 う けている[3] 。
「稲 いね むらの火 ひ 」は、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )刊行 かんこう の尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう 5年生 ねんせい 用 よう の国語 こくご 教科書 きょうかしょ 「小学 しょうがく 国語 こくご 読本 とくほん 巻 まき 十 じゅう 」(第 だい 4期 き 国定 こくてい 教科書 きょうかしょ 、サクラ読本 とくほん )に掲載 けいさい された。続 つづ く第 だい 5期 き 国定 こくてい 教科書 きょうかしょ (アサヒ読本 とくほん )の「初等 しょとう 科 か 国語 こくご 六 ろく 」にも引 ひ き続 つづ き掲載 けいさい され、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )まで用 もち いられた。
地震 じしん 学者 がくしゃ の今村 いまむら 明恒 あきつね は、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )に『『稲 いね むらの火 ひ 』の教 おし え方 かた について』を著 あらわ している[4] 。
2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )度 ど より利用 りよう される光村 みつむら 図書 としょ 出版 しゅっぱん の小学 しょうがく 5年生 ねんせい 用 よう 教科書 きょうかしょ 『国語 こくご 五 ご 銀河 ぎんが 』には、「百 ひゃく 年 ねん 後 ご のふるさとを守 まも る」のタイトルで、防災 ぼうさい 学者 がくしゃ の河田 かわた 惠 めぐみ 昭 あきら が書 か いた浜口 はまぐち 儀 ただし 兵衛 ひょうえ の伝記 でんき が掲載 けいさい された。「百 ひゃく 年 ねん 後 ご のふるさとを守 まも る」では、「稲 いね むらの火 ひ 」の一部 いちぶ 採録 さいろく を行 おこな うとともに、そのモデルとなった浜口 はまぐち 儀 ただし 兵衛 ひょうえ の事績 じせき を紹介 しょうかい し、津波 つなみ 後 ご の復興 ふっこう 事業 じぎょう も含 ふく めて描 えが いている。これを「稲 いね むらの火 ひ の64年 ねん ぶりの復活 ふっかつ 」として紹介 しょうかい するメディアもあった[5] 。
「稲 いね むらの火 ひ 」は濱口 はまぐち 儀 ただし 兵衛 ひょうえ (梧陵)の史実 しじつ に基 もと づいてはいるものの、実際 じっさい とは異 こと なる部分 ぶぶん がある。これは小泉 こいずみ 八雲 やくも の誤解 ごかい にもとづくものであり、翻訳 ほんやく ・再話 さいわ をおこなった地元 じもと 出身 しゅっしん の中井 なかい 常蔵 じょうぞう もあえて踏襲 とうしゅう した。史実 しじつ と物語 ものがたり の違 ちが いは国定 こくてい 教科書 きょうかしょ 採用 さいよう 時 じ にも認識 にんしき されていたが、五 ご 兵衛 ひょうえ の犠牲 ぎせい 的 てき 精神 せいしん という主題 しゅだい と、八雲 やくも ・中井 なかい による文章 ぶんしょう 表現 ひょうげん の美 うつく しさから、安政 あんせい 南海 なんかい 地震 じしん 津波 つなみ の記録 きろく としての正確 せいかく 性 せい よりも教材 きょうざい としての感銘 かんめい が優先 ゆうせん された[4] 。
物語 ものがたり では地震動 じしんどう について「今 いま の地震 じしん は別 べつ に烈 はげ しいといふ程 ほど のものではなかった」と書 か かれているが、濱口 はまぐち 梧陵は地震 じしん の様子 ようす を手記 しゅき の中 なか で「其激烈 げきれつ なる事前 じぜん 日 び の比 ひ に非 ひ ず。瓦 かわら 飛 と び、壁 かべ 崩 くず れ、塀 へい 倒 たお れ、塵 ちり 烟 けむり 空 そら を蓋 ぶた ふ」と記 しる しており[6] 、宇佐美 うさみ 龍夫 たつお は広 ひろ 村 むら の震度 しんど を5-6程度 ていど と推定 すいてい している[7] 。地震 じしん の揺 ゆ れ方 かた や、津波 つなみ 襲来 しゅうらい 前 まえ に潮 しお が大 おお きく引 ひ いたという描写 びょうしゃ は、出版 しゅっぱん 直前 ちょくぜん に起 おこ った明治 めいじ 三陸 さんりく 津波 つなみ から小泉 こいずみ 八雲 やくも がその示唆 しさ を得 え た可能 かのう 性 せい が考 かんが えられている[4] 。
農村 のうそん の高台 たかだい に住 す む年老 としお いた村長 そんちょう とされている五 ご 兵衛 ひょうえ に対 たい して、史実 しじつ の儀 ぎ 兵衛 ひょうえ はまだ35歳 さい の指導 しどう 的 てき な商人 しょうにん で、その家 いえ は町中 まちなか にあった。また、津波 つなみ の発生 はっせい 日 び が12月24日 にち 〈新暦 しんれき 換算 かんさん 〉で真冬 まふゆ であり、儀 ぎ 兵衛 ひょうえ が燃 も やしたのは稲穂 いなほ のついた稲 いね の束 たば ではなく、脱穀 だっこく を終 お えた藁 わら の山 やま (これも「稲 いね むら」と呼 よ ぶことがある)である。また、儀 ぎ 兵衛 ひょうえ が火 ひ を付 つ けたのは津波 つなみ を予知 よち してではなく、津波 つなみ が来襲 らいしゅう してからであり、暗闇 くらやみ の中 なか で村人 むらびと に安全 あんぜん な避難 ひなん 路 ろ を示 しめ すためだった。
「稲 いね むらの火 ひ 」には描 えが かれていないが、儀 ぎ 兵衛 ひょうえ の偉業 いぎょう は災害 さいがい に際 さい して迅速 じんそく な避難 ひなん に貢献 こうけん したことばかりではなく、被災 ひさい 後 ご も将来 しょうらい 再 ふたた び同様 どうよう の災害 さいがい が起 お こることを慮 おもんばか り、私財 しざい を投 とう じて防潮 ぼうちょう 堤 つつみ を築造 ちくぞう した点 てん にもある。これにより広川 ひろかわ 町 まち の中心 ちゅうしん 部 ぶ では、昭和 しょうわ の東 ひがし 南海 なんかい 地震 じしん ・南海 なんかい 地震 じしん による津波 つなみ に際 さい して被害 ひがい を免 まぬか れた。
『濱口 はまぐち 梧陵手記 しゅき 』に記 しる された概要 がいよう は以下 いか の様 よう なものであった[6] 。
十一月 じゅういちがつ 四 よん 日 にち (1854年 ねん 12月23日 にち )四 よっ つ時 じ (9時 じ 過 か 頃 ごろ )に強震 きょうしん (安政 あんせい 東海 とうかい 地震 じしん )があり、震 ぶる い止 や んだ後 のち 海岸 かいがん で異常 いじょう な潮 しお の動 うご きがあり黒 くろ い高浪 たかなみ が現 あらわ れた。大震 たいしん の後 のち は海嘯 つなみ が来 く るとして、村民 そんみん らを八幡宮 はちまんぐう へ避難 ひなん させた。
五日 いつか (1854年 ねん 12月24日 にち )になり、海面 かいめん が穏 おだ やかとなったため村民 そんみん らは家 いえ に戻 もど った。午後 ごご に村民 そんみん 2名 めい が井戸 いど の異常 いじょう な水位 すいい 低下 ていか を訴 うった え出 で 、何 なに か地異 ちい が起 おこ るのではと恐 おそ れていた処 しょ に夕方 ゆうがた 七 なな つ時 じ 頃 ごろ (16時半 じはん 頃 ごろ )大 だい 震動 しんどう があり暫 しばら くして静 しず まった。村 むら 内 ない を巡視 じゅんし する際 さい 、西南 せいなん 方向 ほうこう から巨 きょ 砲 ほう を連発 れんぱつ するような響 ひび きが数 すう 回 かい あり、海岸 かいがん に行 い った処 しょ 未 いま だ異変 いへん が認 みと められなかったが、心 しん を休 やす める遑もなく、怒涛 どとう 早 はや くも民 みん 屋 や を襲 おそ うと叫 さけ びがあり、疾走 しっそう するなか激浪 げきろう が広川 ひろかわ を遡 さかのぼ り人家 じんか が崩 くず れ流 なが れていくのが見 み えた。自 みずか らも瞬時 しゅんじ に潮流 ちょうりゅう に半身 はんしん を没 ぼっ し辛 かろ うじて丘陵 きゅうりょう に漂着 ひょうちゃく すると、背後 はいご には押流 おしなが される者 もの 、流 りゅう 材 ざい に身 み を寄 よ せる者 もの と悲惨 ひさん な光景 こうけい が広 ひろ がっていた。
一旦 いったん 八幡宮 はちまんぐう に行 い くと悲鳴 ひめい を揚 あ げて親 おや 、子 こ 、兄弟 きょうだい を捜 さが す声 こえ が溢 あふ れ、日 にち が暮 く れ壮者 そうしゃ 十 じゅう 余 よ 名 めい とともに松明 たいまつ を焚 た いて救助 きゅうじょ に向 む かうも流 ながれ 材 ざい が道 みち を塞 ふさ ぎ歩行 ほこう を妨 さまた げていたが、十 じゅう 余 あまり の稲 いね むらに点火 てんか して安全 あんぜん な地 ち を表示 ひょうじ した処 しょ 、これを頼 たよ りに万死 ばんし に一生 いっしょう を得 え た者 もの が少 すく なくなかった。暫 しばら くして八幡 はちまん 神社 じんじゃ 近 ちか くの一本松 いっぽんまつ に引 ひ き上 あ げた頃 ころ に最大 さいだい の激浪 げきろう が襲来 しゅうらい し、火 ひ のついた稲 いね むらが漂 ただよ い流 なが されていく様子 ようす を見 み て天災 てんさい の恐 おそれ るべきを感 かん じさせられた。
日本 にっぽん において、津波 つなみ に関 かん する物語 ものがたり のうち広 ひろ く知 し られた作品 さくひん である。発生 はっせい が予測 よそく される東 ひがし 南海 なんかい 地震 じしん ・南海 なんかい 地震 じしん などでの津波 つなみ 災害 さいがい に対 たい する防災 ぼうさい 意識 いしき を喚起 かんき する物語 ものがたり として注目 ちゅうもく されている。2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )3月 がつ に和歌山 わかやま 県 けん で開催 かいさい された「西太平洋 にしたいへいよう 地震 じしん ・津波 つなみ 防災 ぼうさい シンポジウム」に際 さい して気象庁 きしょうちょう が「稲 いね むらの火 ひ 」に関 かん するパンフレットを作成 さくせい しており、インターネット上 じょう で公開 こうかい されている[8] 。
なお、物語 ものがたり の中 なか で取 と り上 あ げられている、「異様 いよう に潮 しお が退 しりぞ く」「井戸 いど の水位 すいい が極端 きょくたん に下 さ がる」といった現象 げんしょう は、津波 つなみ の前 まえ に必 かなら ず起 お きるものではない が、津波 つなみ が発生 はっせい する時 とき に見 み られることがある特異 とくい 現象 げんしょう の1つであり、もしそのような現象 げんしょう を確認 かくにん したらただちに避難 ひなん することが望 のぞ ましい。
小泉 こいずみ 八雲 やくも の著作 ちょさく によって、この物語 ものがたり は日本 にっぽん 国外 こくがい でも知 し られている。
1993年 ねん 頃 ごろ アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく コロラド州 しゅう の小学校 しょうがっこう では、「稲 いね むらの火 ひ 」を英訳 えいやく した "The Burning of The rice Field "が副読本 ふくどくほん として使 つか われていた[9] 。
2004年 ねん のスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん では津波 つなみ による大 おお きな被害 ひがい が発生 はっせい 。2005年 ねん に神戸 こうべ 市 し で開催 かいさい された世界 せかい 防災 ぼうさい 会議 かいぎ で「稲 いね むらの火 ひ 」が紹介 しょうかい されて各国 かっこく の防災 ぼうさい 担当 たんとう 者 しゃ から注目 ちゅうもく された。アジア防災 ぼうさい センター では「アジア地域 ちいき における「稲 いね むらの火 ひ 」普及 ふきゅう プロジェクト」として、アジア8か国 こく で用 もち いられることを想定 そうてい したベンガル語 ご ・ヒンディー語 ご ・タミル語 ご ・ネパール語 ご ・英語 えいご ・シンハラ語 ご ・タガログ語 ご に訳 やく したテキストを配布 はいふ している[10] 。
2005年 ねん 1月 がつ 、インド洋 いんどよう 大津 おおつ 波 なみ をうけてジャカルタ で開催 かいさい された東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう 緊急 きんきゅう 首脳 しゅのう 会議 かいぎ でシンガポール のリー・シェンロン 首相 しゅしょう が当時 とうじ の小泉 こいずみ 純一郎 じゅんいちろう 総理 そうり 大臣 だいじん に「日本 にっぽん では小学校 しょうがっこう 教科書 きょうかしょ に『稲 いね むらの火 ひ 』という話 はなし があって、子供 こども の時 とき から津波 つなみ 対策 たいさく を教 おし えているというが、事実 じじつ か?」と尋 たず ねた。しかし、小泉 こいずみ 純一郎 じゅんいちろう は戦後 せんご 世代 せだい なのでこの話 はなし を知 し らなかった。東京 とうきょう の文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう に照会 しょうかい した際 さい も、誰 だれ も知 し らなかったということである[11] 。
2015年 ねん 12月4日 にち 、国連 こくれん 総会 そうかい 第 だい 2委員 いいん 会 かい は日本 にっぽん を含 ふく む142か国 こく の提案 ていあん により、この逸話 いつわ のもととなった11月5日 にち を「世界 せかい 津波 つなみ の日 ひ 」に制定 せいてい することを全会 ぜんかい 一致 いっち で決 き めた[12] 。
本 ほん エピソードに基 もと づいた楽曲 がっきょく 『稲 いね むらの火 ひ -濱口 はまぐち 梧陵小傳 しょうでん より- 』を2008年 ねん に発表 はっぴょう した。