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紀伊国 - Wikipedia

紀伊きいこく

近国きんごくぞくするれいせいこくひと

紀伊きいこく(きいのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。南海なんかいどうぞくし、和歌山わかやまけん三重みえけん南西なんせいぞくする。

紀伊きいこく

-紀伊きいこく
-南海なんかいどう
別称べっしょう 紀州きしゅう(きしゅう)
きのくに
所属しょぞく 南海なんかいどう
相当そうとう領域りょういき 和歌山わかやまけん三重みえけん南部なんぶ
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 近国きんごく
ぐんさとかず 7ぐん55さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
紀伊きい国府こくふ 和歌山わかやまけん和歌山わかやま
紀伊きい国分寺こくぶんじ 和歌山わかやまけんかわ紀伊きい国分寺こくぶんじあと
紀伊きい国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい和歌山わかやまけん岩出いわで
一宮いちのみや 日前ひくま神宮じんぐうくにかか神宮じんぐう和歌山わかやまけん和歌山わかやま
丹生にゅううり神社じんじゃ和歌山わかやまけん伊都いとぐんかつらぎまち
伊太いた祁󠄀神社じんじゃ和歌山わかやまけん和歌山わかやま
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紀伊きい」の名称めいしょう由来ゆらい

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7世紀せいき成立せいりつした当初とうしょは、木国もっこく現代げんだい標準ひょうじゅん共通きょうつう表記ひょうき:きのくに)であった。名称めいしょう由来ゆらいとして、あめおお森林しんりんしげっている様相ようそうから「木国もっこく」と命名めいめいされた、というせつがある。また、いま和歌山わかやまけん北部ほくぶが、有力ゆうりょく豪族ごうぞくであるきの国造くにのみやつこ支配しはいしていた地域ちいきであるから「くに」というようになった、というせつもある。実際じっさいに、律令制りつりょうせい以前いぜん紀伊きいこく紀国きのくにづくり領土りょうどのみであり、熊野くまの国造くにのみやつこ領土りょうど牟婁むろぐん)をふくまなかった。

和銅わどう6ねん713ねん)に「みやび文字もじ文字もじ国名こくめいあらわすように」とのみことのりれいされたさい紀伊きいこく表記ひょうきするようになった。現代げんだい近畿きんき方言ほうげんでは「」(き)・「」(め)・「」(て)など1はくを2おとはく発音はつおんする特徴とくちょうがあるが、もともと当地とうち(またはである奈良なら)の発音はつおんで「木国もっこく」=「きぃ-の-くに」だったかた「きぃ」部分ぶぶんみやびし「紀伊きいこく」とした、とするせつがある[1]。その一方いっぽうで、まさ制定せいてい当初とうしょは「紀伊きいこく」=「き-の-くに」つまり「紀伊きい」(「」はだま)とまれていたものが、のち「部分ぶぶんに「い」のおとてた結果けっか紀伊きい」=「きい」というかた後代こうだい成立せいりつしたとするせつもある[注釈ちゅうしゃく 1]。ただし、いずれにおいても奈良なら時代じだい日本語にほんご発音はつおん不明ふめいてんおおく、はっきりしない。

領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい和歌山わかやまけん下記かきくわえた区域くいき相当そうとうする。

沿革えんかく

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7世紀せいき成立せいりつした。

紀伊きいこく歴史れきしふるく、『古事記こじき』には神武じんむ天皇てんのう大和やまとはいとき紀伊きい熊野くまのとおったとされるなど、事実じじつはともかく、奈良盆地ならぼんち地盤じばんとするヤマト王権おうけんからられたくにであった。王権おうけんは、海人あま集団しゅうだん部民ぶみん編成へんせいする海部かいふ設定せっていすすめた。また、忌部いむべ設定せっていは「きの集団しゅうだん」の在地ざいち祭祀さいしけんるがした。しかし、部民ぶみん設定せってい充分じゅうぶん展開てんかいしなかった。王権おうけんはつぎに国造くにのみやつこせい導入どうにゅうたむろくら設定せっていという方策ほうさくをとった。

天皇てんのう皇后こうごう紀伊きい行幸ぎょうこう史料しりょうあらわれた確実かくじつれいは、ひとし明天めいてんすめらぎ658ねんひとしあかり4ねんきの温湯ぬるゆ牟呂むろ温湯ぬるゆ行幸ぎょうこうである。 この11月に有馬ありま皇子おうじ事件じけんきた[注釈ちゅうしゃく 2]

奈良なら時代じだい官衙かんが遺跡いせき確実かくじつれいとして、御坊ごぼう堅田かただ遺跡いせきげられる。この遺跡いせきでは、まわりにしがらみへいをめぐらしており、そのうちにはひさしのついた掘立柱ほったてばしら建物たてもの中心ちゅうしん建物たてもの全体ぜんたいとして「コ」のじょうてられており、そでには倉庫そうこぐんくみてられていたようである。この堅田かただ遺跡いせきは8世紀せいき前半ぜんはんから後半こうはんにかけての遺跡いせきで、付近ふきんに「西郡にしごおり」ののこっているところからかんがえて、日高ひだかぐん衙跡に比定ひていされている。

平安へいあん時代じだい後期こうき熊野くまの三山さんざん熊野くまの本宮ほんぐう熊野くまの新宮しんぐう熊野くまの那智なち連合体れんごうたい)が成立せいりつし、太上天皇だじょうてんのう上皇じょうこう)による熊野くまの御幸みゆきがおこなわれるようになると、熊野くまの古道ふるみち整備せいびされ熊野くまのまい流行はやった。その紀州きしゅう三井寺みいでらとされた紀三井寺きみいでら空海くうかい高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじ道成寺どうじょうじ根来寺ねごろじなど大寺おおてら大社たいしゃ紀州きしゅうてられた。

平安へいあん時代じだい末期まっきには、とく有田ありたぐん湯浅ゆあさ地方ちほう中心ちゅうしん湯浅ゆあさとう武士ぶしだんくち熊野くまの田辺たなべおく熊野くまの新宮しんぐう付近ふきん熊野くまの別当べっとう総帥そうすいとする熊野くまの水軍すいぐん発達はったつ勢力せいりょくばした。この湯浅ゆあさとう武士ぶしだんたいらかた熊野くまの水軍すいぐん源氏げんじかたとして源平げんぺい合戦かっせんうけたまわ寿ことぶきひさしらん)にも関与かんよした。

南北なんぼくあさ時代じだい湯浅ゆあさとう中心ちゅうしん南朝なんちょう勢力せいりょくつよくにひとつだった。
南北なんぼくあさ合一ごういつ畠山はたけやま守護しゅごであったが、寺社じしゃ勢力せいりょく強力きょうりょくなために、その支配しはいりょく限定げんていてきなものにとどまった。

戦国せんごく時代じだいには、ルイス・フロイスが「紀州きしゅうにはよっいつつの共和きょうわこくてき存在そんざいがあり、いかなる権力けんりょくしゃもそれをほろぼすことができなかった[2]」とべているとおり、雑賀さいかしゅう代表だいひょうされる国人くにびとしゅ寺社じしゃ勢力せいりょく割拠かっきょする状態じょうたいつづいた。紀伊きい割拠かっきょ状態じょうたいは1585ねん天正てんしょう13)の羽柴はしば秀吉ひでよしによる紀州きしゅう征伐せいばつによって終焉しゅうえんした。紀伊きいさい有力ゆうりょく勢力せいりょくである雑賀さいかしゅう根来寺ねごろじは、小牧こまき長久手ながくてたたかさい秀吉ひでよし留守るすじょう岸和田きしわだじょうだいさか侵攻しんこうしていたが撃退げきたいされ、秀吉ひでよし信雄のぶお家康いえやすらとの和睦わぼく雑賀さいかめをまねいた。秀吉ひでよしかたは3がつ20日はつか出兵しゅっぺいし、和泉いずみしょしろとして紀州きしゅうり、23にち根来寺ねごろじちした。紀州きしゅう国人くにびと各地かくち戦闘せんとうやぶれた残党ざんとうなどもくわわってちいさな太田おおたじょう抵抗ていこうしたが、秀吉ひでよし水攻みずぜめでやくいちヶ月かげつ降伏ごうぶくさせた。平定へいていかたなりをめいじ、あと秀長ひでながまかせ、和歌山わかやまじょう築造ちくぞうした。

現在げんざい奈良ならけん上北山かみきたやまむら下北山しもきたやまむらは、もと牟婁むろぐん一部いちぶであったが、のち大和やまとこく吉野よしのぐん編入へんにゅうされた。[3]

現在げんざい三重みえけん尾鷲おわせ紀北きほくまちだいまち南部なんぶにしき地区ちくは、もと志摩しまこくえいおそれぐん一部いちぶであったが、天正てんしょう10ねん1582ねん)にしん宮城みやぎおも堀内ほりうちぜんにより紀伊きいこく牟婁むろぐん編入へんにゅうされた。

関ヶ原せきがはらたたかのち浅野あさの幸長よしながにゅうふうした(紀州きしゅうはん)。1619ねん浅野あさの安芸あき広島ひろしまてんふうされると、徳川とくがわ家康いえやすじゅうなん徳川とくがわ頼宣よりのぶ和歌山わかやまにゅうふうし、幕末ばくまつまで紀州きしゅう徳川とくがわ統治とうちした。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML
 
守神まもりがみしゃ和歌山わかやま府中ふちゅう)の紀伊きい国府こくふあと
 
府中ふちゅう遺跡いせき守神まもりがみしゃおく
2019ねん発掘はっくつ調査ちょうさ

国府こくふめいくさぐん存在そんざいした。『和名わみょうしょう』や『だい』の記載きさいからは10世紀せいき以降いこうには和歌山わかやま府中ふちゅう守神まもりがみしゃ付近ふきん北緯ほくい3416ふん4.75びょう 東経とうけい13514ふん1.30びょう / 北緯ほくい34.2679861 東経とうけい135.2336944 / 34.2679861; 135.2336944 (紀伊きい国府こくふ推定すいてい守神まもりがみしゃ))に所在しょざいしたと推定すいていされ、それ以前いぜんについては和歌山わかやま府中ふちゅうとするせつのほか岡田おかだ遺跡いせき岩出いわで)とするせつげられている。2019ねんれいもと年度ねんど)の府中ふちゅう遺跡いせき和歌山わかやま府中ふちゅう)における発掘はっくつ調査ちょうさでは奈良なら時代じだい推定すいてい国府こくふ関連かんれん遺構いこうとして大型おおがた建物たてものへいみとめられており、10世紀せいき以前いぜんにも和歌山わかやま府中ふちゅう国府こくふ存在そんざいした可能かのうせい示唆しさされている[4]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ1313しゃ小社しょうしゃ1815しゃけい3128しゃ記載きさいされている(紀伊きいこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ13しゃ以下いかしめすもので、熊野くまのはやだま神社じんじゃ以外いがい名神めいしん大社たいしゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[5]

※はじめのぐんめいは『延喜えんぎしき』・『和名わみょうしょう』による。 ※ぐんのちは8世紀せいき史料しりょうえるさとめい

江戸えど時代じだいはん

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紀伊きいこくはん一覧いちらん
はんめい 居城いじろ 藩主はんしゅ
紀州きしゅうはん 和歌山わかやまじょう 桑山くわやま (1600ねん~1601ねん、2まんせき)→大和やまと新庄しんじょうはん2まんせきてんふう

浅野あさの (1601ねん~1619ねん、37まん6せんせき)→安芸あき広島ひろしまはん42まんせきてんふう
紀州きしゅう徳川とくがわ (1619ねん~1871ねん、55まん5せんせき

紀伊田辺きいたなべはん 田辺たなべしろ 安藤あんどう紀州きしゅうはん家老がろう、1619ねん~1871ねん、3まん8せんせき
紀伊きい新宮しんぐうはん しん宮城みやぎ 水野みずの紀州きしゅうはん家老がろう、1619ねん~1871ねん、3まん5せんせき

人物じんぶつ

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紀伊きいもり

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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だい 氏名しめい 在職ざいしょく期間きかん 出身しゅっしん
1 豊島としまゆうけい
としま ありつね
うけたまわ8ねん - しょう
1184ねん - しょう
豊島としま
2 佐原さはらよしれん
さはら よしつら
しょう - たてひとし3ねん
しょう - 1203ねん
佐原さはら
3 後鳥羽上皇ごとばじょうこうけい
たてひさし2ねん - うけたまわひさし3ねん
1207ねん - 1221ねん
-
4 三浦みうらよしむら
みうら よしむら
うけたまわひさし3ねん - しょう
1221ねん - しょう
三浦みうら
5 佐原さわられん
さはら いえつら
さだおう2ねん - よしみただし3ねん
1223ねん - 1237ねん
佐原さはら
6 北条ほうじょうひさとき
ほうじょう ひさとき
弘安ひろやす3ねん - しょう
1280ねん - しょう
赤橋あかばしりゅう北条ほうじょう
7 北条ほうじょうけん
ほうじょう ときかね
せいおう4ねん - しょう
1291ねん - しょう
普恩寺ふおんじりゅう北条ほうじょう
8 北条ほうじょう
しょう - 元弘もとひろ3ねん
しょう - 1333ねん
北条ほうじょう

室町むろまち幕府ばくふ

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だい 氏名しめい 在職ざいしょく期間きかん 出身しゅっしん
1 畠山はたけやま国清くにきよ
はたけやま くにきよ
たてたけし3ねん - かんおう2ねん
1336ねん - 1351ねん
河内かわうち畠山はたけやま
2 畠山はたけやま国清くにきよ
はたけやま くにきよ
のべぶん5ねん
1360ねん
河内かわうち畠山はたけやま
3 細川ほそかわはる
ほそかわ うじはる
おうやす6ねん - しょう
1373ねん - しょう
細川ほそかわ
4 細川ほそかわぎょうしゅう
ほそかわ なりひで
永和えいわ4ねん
1378ねん
細川ほそかわ
5 山名やまな義理ぎり
やまな よしただ
永和えいわ4ねん - 明徳めいとく2ねん
1378ねん - 1391ねん
山名やまな
6 大内おおうち義弘よしひろ
おおうち よしひろ
明徳めいとく3ねん - おうひさし6ねん
1392ねん - 1399ねん
周防すおう大内おおうち
7 畠山はたけやま基国もとくに
はたけやま もとくに
おうなが6ねん - おうなが13ねん
1399ねん - 1406ねん
河内かわうち畠山はたけやま
8 畠山はたけやまみつるけい
はたけやま みつのり
おうなが13ねん - おうなが15ねん
1406ねん - 1408ねん
河内かわうち畠山はたけやま
9 畠山はたけやま満家みついえ
はたけやま みついえ
おうなが15ねん - えいとおる5ねん
1408ねん - 1433ねん
河内かわうち畠山はたけやま
10 畠山はたけやま持国もちくに
はたけやま もちくに
えいとおる5ねん - 嘉吉よしきち元年がんねん
1433ねん - 1441ねん
河内かわうち畠山はたけやま
11 畠山はたけやま持永もちなが
はたけやま もちなが
嘉吉よしきち元年がんねん
1441ねん
河内かわうち畠山はたけやま
12 畠山はたけやま持国もちくに
はたけやま もちくに
嘉吉よしきち元年がんねん - とおるとく4ねん
1441ねん - 1455ねん
河内かわうち畠山はたけやま
13 畠山はたけやま義就よしなり
はたけやま よしひろ
とおるとく4ねん - 長禄ちょうろく4ねん
1455ねん - 1460ねん
河内かわうち畠山はたけやま
14 畠山はたけやま政長まさなが
はたけやま まさなが
長禄ちょうろく4ねん - 応仁おうにん元年がんねん
1460ねん - 1467ねん
河内かわうち畠山はたけやま
15 畠山はたけやま義就よしなり
はたけやま よしひろ
応仁おうにん元年がんねん
1467ねん
河内かわうち畠山はたけやま
16 畠山はたけやま政長まさなが
はたけやま まさなが
応仁おうにん元年がんねん - あかりおう2ねん
1467ねん - 1493ねん
河内かわうち畠山はたけやま
17 畠山はたけやまよしゆたか
はたけやま よしとよ
あかりおう2ねん - あきらおう8ねん
1493ねん - 1499ねん
そうしゅう畠山はたけやま
18 畠山はたけやま義英よしひで
はたけやま よしひで
あかりおう8ねん - えいただし元年がんねん
1499ねん - 1504ねん
そうしゅう畠山はたけやま
19 畠山はたけやま尚順ひさのぶ
はたけやま ひさよし
えいただし4ねん - えいただし14ねん
1507ねん - 1517ねん
しゅう畠山はたけやま
20 畠山はたけやま稙長たねなが
はたけやま たねなが
えいただし14ねん - 天文てんもん14ねん
1517ねん - 1545ねん
しゅう畠山はたけやま
21 畠山はたけやままさしこく
はたけやま まさくに
天文てんもん14ねん - 天文てんもん19ねん
1545ねん - 1550ねん
しゅう畠山はたけやま
22 はたけ山高やまたかまさし
はたけやま たかまさ
天文てんもん19ねん - しょう
1550ねん - しょう
しゅう畠山はたけやま

戦国せんごく大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての紀伊きいもり

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江戸えど時代じだい以前いぜん

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江戸えど時代じだい

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紀伊きいこく合戦かっせん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 紀伊國屋きのくにや文左衛門ぶんざえもん紀伊國屋きのくにや書店しょてんのように、後世こうせいにおいても「」をまないれいがある。
  2. ^ 孝徳天皇こうとくてんのうで、事件じけん有馬ありま皇子おうじへんという。『万葉集まんようしゅうまきの「挽歌ばんか」のこう有馬ありま皇子おうじうたしゅがおさめられている。
    有馬ありま皇子おうじみずかいたみてまつむすうたしゅ
    • いわだい(いわしろ)の 浜松はままつえだを むすび まこうくあらば またかへりみむ(2-141) いわだい現在げんざい日高ひだかぐん南部なんぶまち岩代いわしろ
    • いえにあれば めしを 草枕くさまくら たびにしあれば しいる(2-142)
  3. ^ 記載きさいはすでに新宮しんぐうはん田辺たなべはんとなっている。

出典しゅってん

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  1. ^ 狂言きょうげんにおける関西かんさいなまりせりふこう (PDF)名古屋女子大学なごやじょしだいがく
  2. ^ 中世ちゅうせい終焉しゅうえん――秀吉ひでよし太田おおたじょう水攻みずぜめをかんがえる』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2008ねんISBN 978-4-7924-0652-3 冒頭ぼうとうより。
  3. ^ 下北山しもきたやまむら 奈良ならけん下北山しもきたやまむらオフィシャルサイト
  4. ^ 府中ふちゅう遺跡いせきだい6発掘はっくつ調査ちょうさ現地げんち説明せつめいかい資料しりょう (PDF)公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん和歌山わかやま文化ぶんかスポーツ振興しんこう財団ざいだん)。
  5. ^ 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)pp. 522-525。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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列車れっしゃめい

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かつて存在そんざいした列車れっしゃめい

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鉄道てつどう駅名えきめい

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ほかのえきとの区別くべつなどの目的もくてきで「紀伊きい」をかんしているえき全部ぜんぶで25えきある。紀伊きいえきもある。