(Translated by https://www.hiragana.jp/)
紀三井寺 - Wikipedia

紀三井寺きみいでら

日本にっぽん和歌山わかやまけん和歌山わかやまにある仏教ぶっきょう寺院じいん

紀三井寺きみいでら(きみいでら)は、和歌山わかやまけん和歌山わかやま紀三井寺きみいでら[1]にある救世観音くせかんのんむね(ぐぜかんのんしゅう)[2]総本山そうほんざん寺院じいん山号さんごう三井山みいやま院号いんごう護国ごこくいん本尊ほんぞんじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつじゅういちめん観音かんのん)。寺号じごう金剛こんごうたからてらであるが、紀三井寺きみいでら名前なまえられている。西国さいこくさんじゅうさんしょだい2ばん札所ふだしょ

紀三井寺きみいでら
境内けいだい
所在地しょざいち 和歌山わかやまけん和歌山わかやま紀三井寺きみいでら1201
位置いち 北緯ほくい3411ふん06.6びょう 東経とうけい13511ふん24.1びょう / 北緯ほくい34.185167 東経とうけい135.190028 / 34.185167; 135.190028座標ざひょう: 北緯ほくい3411ふん06.6びょう 東経とうけい13511ふん24.1びょう / 北緯ほくい34.185167 東経とうけい135.190028 / 34.185167; 135.190028
山号さんごう 三井山みついやま
院号いんごう 護国ごこくいん
宗旨しゅうし 真言宗しんごんしゅう
宗派しゅうは 救世観音くせかんのんむね真言宗しんごんしゅう山階やましな
寺格じかく 総本山そうほんざん
勅願ちょくがんしょ
関東かんとう祈祷きとうしょ
本尊ほんぞん じゅういちめん観音かんのん秘仏ひぶつ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
創建そうけんねん つてたからひさし元年がんねん770ねん
開山かいさん つてためこう
正式せいしきめい 三井山金剛寶寺護國院
別称べっしょう 紀三井寺きみいでら
札所ふだしょとう 西国さいこくさんじゅうさんしょだい2ばん
文化財ぶんかざい 楼門ろうもん鐘楼しゅろう多宝塔たほうとうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
本堂ほんどう開山かいさんどう大師堂だいしどうほか(けん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
日本にっぽん名水めいすいひゃくせん
日本にっぽんさくら名所めいしょ100せん
公式こうしきサイト 紀三井寺きみいでらのホームページ
法人ほうじん番号ばんごう 6170005000386 ウィキデータを編集
紀三井寺の位置(和歌山県内)
紀三井寺
紀三井寺きみいでら
紀三井寺きみいでら (和歌山わかやまけん)
テンプレートを表示ひょうじ

本尊ほんぞん真言しんごん:おん まかきゃろにきゃ そわか

詠歌えいか:ふるさとをはるばるここに紀三井寺きみいでら はなちかくなるらん

概要がいよう 編集へんしゅう

寺号じごう金剛こんごうたからてらしょうし、宗教しゅうきょう法人ほうじんとしての公称こうしょう護国ごこくいんであるが、ふるくから紀三井寺きみいでらられる。楼門ろうもんまえ石柱せきちゅうには「三井山みいやま護国ごこくいん」、本堂ほんどうまえ石柱せきちゅうには「紀三井寺きみいでら」とある。「三井山みいやま金剛こんごうたからてら」「金剛こんごうたからてら護国ごこくいん」ともいう。宗派しゅうはとしては真言宗しんごんしゅう山階やましなぞくしていたが、1951ねん昭和しょうわ26ねん)に独立どくりつして救世観音くせかんのんむね総本山そうほんざん名乗なのり、山内やまうちいん6かてらおよび末寺まつじ14かてら包括ほうかつする[3]

てらいき紀ノ川きのかわ河口かこう平野へいや南部なんぶにあるめい草山くさやま(なくさやま、標高ひょうこう228.7m)の西側にしがわ中腹ちゅうふく標高ひょうこう50mあたり)にあって、境内けいだいから和歌浦わかうらわん一望いちぼうのもとにおさめる[3]山内さんない三井みついすい(さんせいすい:吉祥きっしょうすい清浄せいじょうすい楊柳ようりゅうすい)は紀三井寺きみいでら由来ゆらいとされ、いずれも水源すいげんには慶安けいあん3ねん1650ねん)のとしとそれぞれの名水めいすいこくめいした砂岩さがんせい水槽すいそうがある。これらの水槽すいそう紀州きしゅうはんあるじ徳川とくがわ頼宣よりのぶいのちによりもうけられたものである[4]。また、三井みついすい1922ねん大正たいしょう11ねん)に昭和しょうわ天皇てんのう和歌浦わかうら投宿とうしゅくしたさい調理ちょうり用水ようすいとして献上けんじょうされたほか、1985ねん昭和しょうわ60ねん)3がつ環境庁かんきょうちょうげん環境省かんきょうしょう)が選定せんていした「名水めいすいひゃくせん」にえらばれている[5]境内けいだい観桜かんおう名所めいしょとして名高なだかく、日本にっぽんさくら名所めいしょ100せんにもえらばれている[6]。また、本堂ほんどうかってひだりさくら和歌山わかやま地方ちほう気象台きしょうだいソメイヨシノ標本ひょうほん指定していされており、近畿きんき地方ちほうではもっとはや開花かいかすることが通例つうれいであることから、「近畿きんき地方ちほうはるてら」としてもられている。

歴史れきし 編集へんしゅう

ひらきそう 編集へんしゅう

伝承でんしょうによれば、たからひさし元年がんねん770ねん)、とうそうためこうが、日本にっぽん各地かくち行脚あんぎゃしていたときめい草山くさやま山頂さんちょうから一筋ひとすじひかりはっせられているのをた。ひかりもとをたどってめい草山くさやまのぼったためこうは、そこで金色きんいろ千手観音せんじゅかんのん感得かんとくした。ためこうみずかじゅういちめん観音かんのんぞう彫刻ちょうこくし、胎内たいないほとけとしてその金色きんいろ千手観音せんじゅかんのんぞう奉納ほうのうし、草堂そうどうつくって安置あんちし、千手観音せんじゅかんのん秘仏ひぶつとしておさめたのが紀三井寺きみいでらはじまりであるという。めい草山くさやまみっつの霊泉れいせんきよし浄水じょうすい楊柳ようりゅうすい吉祥きっしょうすい)があることから「三井山みついやま」という山号さんごうになったといわれるが、『紀伊きいぞく風土記ふどき』は付近ふきんきゅう地名ちめい毛見けみ(けみ)」(毛見けみうら)がてんじたものとつたえる[7]

中世ちゅうせいから近世きんせい 編集へんしゅう

平安へいあん時代じだい末期まっきにはこう白河しらかわ法皇ほうおうによってとうてら勅願ちょくがんしょさだめられ、以後いご隆盛りゅうせいきわめた。

紀三井寺きみいでら中世ちゅうせい寺領じりょう記録きろくについて、『紀伊きいぞく風土記ふどき』はつぎのようにつたえる。

前略ぜんりゃくあわせてよんじゅうきゅうまち中世ちゅうせい以後いご寺領じりょうとす。天正てんしょうじゅうさんねん豊臣とよとみ太閤たいこう征伐せいばつときみな没収ぼっしゅうせらる。此ノときてらつてふるところ綸旨りんじ院宣いんぜん種々しゅじゅ文書ぶんしょとうみなしっす。 — 紀伊きいぞく風土記ふどき[8]

このため、中世ちゅうせい紀三井寺きみいでらについてくわしいことはからないが、各種かくしゅ資料しりょうから断片だんぺんてき見出みいだされる記述きじゅつからは、日前ひくまこくかかしゃふか関係かんけいにあるとられていたことがかる。よしみただし4ねん1238ねん)の日前宮にちぜんぐう文書ぶんしょによれば、毛見けみきょう日前宮にちぜんぐうりょうぞくし、めい草山くさやまを「三井みつい神山かみやま」としょうしているほか、日前ひくまこくかかしゃ神主かんぬし57だい国造くにのみやつこきの俊文としふみ詠歌えいかにもめい草山くさやまえる。また、おうひさし年間ねんかん1394ねん - 1428ねん)には、日前ひくまこくかかしゃ祭礼さいれい警固けいご兵士へいしおくったという。その興国寺こうこくじ開山かいさんたる心地ここちさとしこころ法燈ほうとう国師こくし)がまねかれて、紀三井寺きみいでらみなみ紀三井寺きみいでらそうみょうはちすのために建立こんりゅうされた報恩寺ほうおんじ仏殿ぶつでん落慶らっけい法要ほうよういとなんだと興国寺こうこくじ記録きろくにある[7]

前出ぜんしゅつとおり、中世ちゅうせい紀三井寺きみいでら寺領じりょうは49まちさんしたが、天正てんしょう13ねん1585ねん羽柴はしば秀吉ひでよしによる紀州きしゅう征伐せいばつさい没収ぼっしゅうされてうしなわれた。慶長けいちょう6ねん1601ねん)、和歌山わかやまじょうあるじ浅野あさの幸長よしながにより紀三井寺きみいでらむらないの13いし寄進きしんされた。いで、紀州きしゅう徳川とくがわ初代しょだい徳川とくがわ頼宣よりのぶによって8せき燈明とうみょうりょうをが寄進きしんされたほか、境内けいだい地子じしめんじられ、正保まさやす4ねん1647ねん)には境内けいだいにおける殺生せっしょうきんじられている[8]

室町むろまち時代ときよには西国さいこくさんじゅうさんしょないし熊野くまのもう隆盛りゅうせいにより、おおくの参詣さんけいしゃおとずれた。中世ちゅうせい紀三井寺きみいでらおおくの僧侶そうりょいん一体いったいこんしかとして一山ひとやま形成けいせいする一山ひとやま寺院じいんであって[9]妻帯さいたいそう寺僧じそうとなり、本堂ほんどうわきには造営ぞうえい修造しゅうぞうのための勧進かんじんになこく今日きょうこくてら[10]があったという。寺僧じそうなかからは、法用ほうようつとめる法橋ほっきょうとしてとしろう14めいてられ、これをとうてら詠歌えいかでもある花山院かさんのいん[11]えい宣旨せんじによって許可きょかされたというが、そのなが宣旨せんじ伝来でんらいしない[12]こく比丘尼びくにてらであって、観音かんのんかげぎゅうたまたからしるし木版もくはん所持しょじし、参詣さんけいしゃはいさつしていた[13]

こくてらには複数ふくすう勧進かんじん関連かんれん文書ぶんしょ伝来でんらいする。ぶんやす6ねん1449ねん)の勧進かんじんじょうは、嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)になんらかの壊滅かいめつてき打撃だげき(おそらく南朝なんちょう残党ざんとう紀伊きい守護しゅご畠山はたけやま衝突しょうとつによる兵火へいか)があったことを示唆しさする内容ないようしるされ、しょどう再建さいけんしたものの、なおも未成みせいであった多宝塔たほうとう復興ふっこうのための勧進かんじんであった[8]だいひさし2ねん1522ねん)の勧進かんじんじょうでは、堂舎どうしゃ修理しゅうりのための勧進かんじんあおいでおり、堂塔どうとう再興さいこう修復しゅうふくこくによってになわれてきたことがかる[8]。また、元禄げんろく11ねん1698ねん)の「こくてら移転いてんづけ口上こうじょうしょ」は、天正てんしょう13ねん1585ねん)にこく比丘尼びくにはるいにしえ羽柴はしば秀吉ひでよし紀州きしゅうめにさいして、秀吉ひでよしとの直接ちょくせつ交渉こうしょうのぞんで山内やまうち安堵あんど証文しょうもんたことにより焼討やきうち回避かいひした[14]つたえており、このように積極せっきょくてき活動かつどうしめしたこくは、しょ寺社じしゃにもられるように堂舎どうしゃ再興さいこう修復しゅうふくつうじて、それまで以上いじょうおおきな役割やくわりたし、寺内てらうちにおける地位ちいたかめた[15]

秀吉ひでよし紀州きしゅうめの翌年よくねん天正てんしょう14ねん1586ねん)に本願ほんがんぼう創建そうけんされ、あかりれき年間ねんかん1655ねん - 1658ねん)に護国ごこくいん改称かいしょうした。のちほんぼうとなる護国ごこくいんはそれ自体じたい本願ほんがん勢力せいりょくであり[16]初代しょだい本願ほんがんにんじられた良純よしずみぼうは、吉原よしわらむら出身しゅっしんせいはやしであったとつたえられる[8]近世きんせいにおける徳川とくがわ政権せいけん寺院じいん政策せいさくは、当初とうしょ、それに先立さきだ織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしのそれとおなじく、武装ぶそう解除かいじょ中世ちゅうせい以来いらい寺領じりょう没収ぼっしゅう、およびあらたな朱印しゅいんりょう賦与ふよであったが、のちに寛文ひろふみ5ねん1665ねん)の諸宗しょしゅう寺院じいん法度はっとにおいて一山ひとやま寺院じいんたいする統一とういつした政策せいさくされ、その一環いっかんとして寺内てらうち秩序ちつじょ勧進かんじん活動かつどうへの制限せいげんおこなわれたことにより、本願ほんがん勢力せいりょく地歩ちほ後退こうたいさせられた[17]紀三井寺きみいでらでは、宝永ほうえい2ねん1705ねん)にこくてら山麓さんろく楼門ろうもんがい移転いてんさせられ[8]たかられき3ねん1735ねん)には紀三井寺きみいでら本末ほんまつ関係かんけいむすばれて、かつては寺内てらうち有力ゆうりょくいんであったこくてらはいち末寺まつじ格下かくさげされた[18]

とうてらながらく真言宗しんごんしゅう山階やましな寺院じいんであったが、1951ねん昭和しょうわ26ねん)に独立どくりつして救世観音くせかんのんむね(ぐぜかんのんしゅう)の総本山そうほんざんとなった。

近年きんねんではバリアフリーを強化きょうかしており、2020ねんれい2ねん)11月13にちには山腹さんぷく駐車ちゅうしゃじょうから本堂ほんどうむすエレベーター設置せっちされた[19]いで、2022ねんれい4ねん)4がつ5にちには紀三井寺きみいでらケーブルが完成かんせいし、楼門ろうもんしたケーブルカーえきもうけられ、山腹さんぷくえきまでがれるようになった[20]。ここからびるみちすすむとエレベーターにることができる。

境内けいだい 編集へんしゅう

 
本堂ほんどう
 
さくらつつまれた本堂ほんどう
 
絵馬えま殿どの
 
仏殿ぶつでん
 
紀三井寺きみいでらのケーブルカー「文左衛門ぶんざえもん」(2023ねん

JR紀三井寺きみいでらえきから徒歩とほ10ふんほどのところに境内けいだい入口いりくち楼門ろうもんつ。そこから231だんきゅう石段いしだんのぼりきったところが境内けいだい中心ちゅうしんで、正面しょうめん六角ろっかくどう右手みぎて2002ねん平成へいせい14ねん建立こんりゅうしん仏殿ぶつでん左手ひだりてには本堂ほんどうなどがつ。本堂ほんどうわき石段いしだんをさらにのぼったところには多宝塔たほうとうなどがある。楼門ろうもんしたにはケーブルカーがあり、そこから平坦へいたんみちすすむとエレベーターに接続せつぞくしている。このエレベーターで本堂ほんどうよこにまでける。

  • 本堂ほんどう和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - たかられき9ねん1759ねん再建さいけん観音堂かんのんどうともしょうす。入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき、はしらあいだ正面しょうめん側面そくめんともあいだで、千鳥ちどり破風はふし、正面しょうめんには唐破風からはふがたさんあいだこうはいもうける。にじはりがたぬきもちい、あたまぬきはなし、たいせ、組物くみものさん手先てさきつめぐみとするなど、細部さいぶには禅宗ぜんしゅうさまもちいられている。秘仏ひぶつ本尊ほんぞんじゅういちめん観音かんのんぞうがんぼとけ千手観音せんじゅかんのんぞうなどは、現在げんざい裏手うらてだい光明こうめい殿どのうつされている。高欄こうらん擬宝珠ぎぼうしゅ金具かなぐ寛政かんせい元年がんねん1789ねん奉納ほうのうのもの。西国さいこくさんじゅうさんしょ札所ふだしょとしておおくの巡礼じゅんれいしゃむかれられるよう、外陣がいじん開放かいほうとする[21]。また、西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞんした33たい観音かんのんぞうまつられている。
  • だい光明こうめい殿どの - 本堂ほんどう裏手うらてむねつづきに耐震たいしん耐火たいか収蔵しゅうぞう原則げんそく非公開ひこうかい)で、1983ねん昭和しょうわ58ねん)に完成かんせいした。殿内とのうち中央ちゅうおう厨子ずしないにはかってひだり秘仏ひぶつ本尊ほんぞんじゅう一面観いちめんかん音像おんぞうみぎひめがんぼとけ千手観音せんじゅかんのんぞう安置あんちされる。紀三井寺きみいでら本尊ほんぞんとされるのはじゅう一面観いちめんかん音像おんぞうだが、千手観音せんじゅかんのんぞう本尊ほんぞん同様どうよう崇敬すうけいされている。両像りょうぞうとも50ねんいちひらけとびら秘仏ひぶつである[22]厨子ずしがいかってみぎには梵天ぼんてんぞう本尊ほんぞんとはべつじゅう一面観いちめんかん音像おんぞうひだりには帝釈天たいしゃくてんぞう毘沙門天びしゃもんてんぞう安置あんちする(毘沙門天びしゃもんてんぞうのぞく5たい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)。
    • じゅういちめん観音かんのん立像りつぞう - ぞうだか161.5センチメートル[23]とうてら秘仏ひぶつ本尊ほんぞんいち木造もくぞう素地そじ仕上しあげ。頭部とうぶのプロポーションがおおきく、素朴そぼくほうぞうで、平安へいあん時代じだい、10世紀せいきごろさく推定すいていされる。
    • 千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう - ぞうだか183.0センチメートル。平安へいあん時代じだい、10 - 11世紀せいきさく本尊ほんぞんとともに安置あんちされる秘仏ひぶつで、いち木造もくぞう素地そじ仕上しあげとする。千手観音せんじゅかんのん彫像ちょうぞうは42をもってせんとみなすのが通例つうれいだが、ほんぞう奈良なら唐招提寺とうしょうだいじぞうなどと同様どうよう大手おおて42ほんほか多数たすう小手こてあらわす「しんすうせんぞうである。
    • 梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう - ぞうだか163.9および161.2センチメートル。平安へいあん時代じだい、10 - 11世紀せいきさく本尊ほんぞんりょうわき安置あんちされ、「梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん」としょうされているが、じょう帛(じょうはく)、てんころもけたぞうよう菩薩ぼさつぞうのそれであり、本来ほんらい観音かんのん菩薩ぼさつぞうとしてつくられた可能かのうせいたかい。梵天ぼんてんぞうほう素朴そぼくで、彩色さいしきはほとんど剥落はくらくし、頭上ずじょうには円筒えんとうがたかんむりがあるのにたいし、帝釈天たいしゃくてんぞうころもぶんわざこまかく、彩色さいしきがよくのこるなど、両像りょうぞう作風さくふうにはあきらかな相違そういがあり、元来がんらいいちではなかったとみられる。
    • じゅういちめん観音かんのん立像りつぞう - ぞうだか156.7センチメートル。平安へいあん時代じだい、10 - 11世紀せいきさくいち木造もくぞう彩色さいしきはほとんど剥落はくらくだい光明こうめい殿どのないかってみぎはし安置あんちころもぶんりが簡略かんりゃくで、素朴そぼく作風さくふうぞうである。
  • 絵馬えま殿どの - 本堂ほんどう接続せつぞくしている。
  • 大願たいがんほら - 1987ねん昭和しょうわ62ねん)11月14にち建立こんりゅう絵馬えま殿どの地下ちかにある。まつられている救世きゅうせい観世音菩薩かんぜおんぼさつ立像りつぞう愛知あいちけん常滑とこなめしょう名工めいこう片岡かたおか静観せいかんさくで、鋳物いもの仏像ぶつぞうとしては日本にっぽん最大さいだいである。また、西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞん・33まいまつる。
  • 松下まつした講堂こうどう - 1969ねん昭和しょうわ44ねん)に松下まつした幸之助こうのすけ寄進きしんによって建立こんりゅう
  • 庫裏くり
  • 書院しょいん御殿ごてん和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 紀州きしゅう徳川とくがわ御成おなり御殿ごてん
  • 開山かいさんどう和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • 多宝塔たほうとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)- 室町むろまち時代ときよ建立こんりゅうさんあいだそう多宝塔たほうとうづくりぶんやす6ねん1449ねん)の勧進かんじん縁起えんぎ伝来でんらいすることからどう時期じき建立こんりゅう推定すいていされる。よんてんばしらない内陣ないじん五智ごち如来にょらい坐像ざぞう安置あんちする[24]各種かくしゅさま彫刻ちょうこく須弥壇しゅみだん室町むろまち時代じだい中期ちゅうき様式ようしきしめ[25]
  • 春子はるこ稲荷いなり
  • さんしゃ権現ごんげん和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 白山しろやまたえ権現ごんげん熊野くまのさんしょ権現ごんげんきむつよし蔵王ざおう権現ごんげんまつる。みっつのしゃおおかこっている。
  • 大師堂だいしどう和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • 鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 安土あづち桃山ももやま時代じだい建立こんりゅう重層じゅうそうはかまこし入母屋いりもやづくりてらでんでは天正てんしょう16ねん1588ねん安部あべろく太郎たろう再建さいけんという。天明てんめい元年がんねん1781ねん)におさむ1937ねん昭和しょうわ12ねん)にだい修理しゅうりおこなった。きゅうかね文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきおり没収ぼっしゅうされて筑後ちくごこくうつされたが現存げんそんしない[8][26]
  • 六角ろっかくどう和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 寛延かんえい年間ねんかん1748ねん - 1751ねん)に初代しょだい代目だいめ雑賀さいかわたるひだりもんによる建立こんりゅう西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞんした33たい観音かんのんぞうまつ[27]
  • 大樟おこのぎ龍王りゅうおうしゃ - 祭神さいじんくすのきいつき和歌山わかやま指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 仏殿ぶつでん - 鉄筋てっきんコンクリートみやつこ3かいけんしん仏殿ぶつでんで、建物たてもの全体ぜんたいかたち五輪ごりんとうしている。2000ねん平成へいせい12ねん)に起工きこうし、2002ねん平成へいせい14ねん)に竣工しゅんこうたかさ25メートル。最上階さいじょうかい展望てんぼうだいとなっている。内部ないぶにはたかさ12メートルの木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうてらでは「だいせんじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつぞう」とぶ)を安置あんちする。この観音かんのんぞう仏師ぶっし松本まつもとあきらけい工房こうぼう作品さくひんで、京都きょうと工房こうぼう制作せいさくしたよせ木造もくぞうぞう現地げんちげたものである。耐震たいしんせい考慮こうりょして、内部ないぶには鉄製てつせい心棒しんぼうて、わくぞう固定こていしている。てらでは、寄木よせぎ立像りつぞうとしては日本一にっぽんいちのものであるとしている。ぞうは2002ねん平成へいせい14ねん)から制作せいさく開始かいしし、2007ねん平成へいせい19ねん)に完成かんせい2008ねん平成へいせい20ねん)5がつ21にちにゅうふつ落慶らっけい供養くようおこなわれた。
  • 白龍はくりゅう大明神だいみょうじんしゃ
  • 結縁けちえんざか - 本堂ほんどうへとかう231だんきゅう石段いしだん紀伊國屋きのくにや文左衛門ぶんざえもんわかころはは背負せおって観音かんのんさまにおまいりをしていたとき和歌浦わかうらわんあいだはさんで紀三井寺きみいでら真向まむかいにある玉津島たまつしま神社じんじゃ宮司ぐうじむすめ「おかよ」と出会であい、二人ふたりむすばれた、というはなし由来ゆらいとなっている。のちに、文左衛門ぶんざえもん玉津島たまつしま神社じんじゃ宮司ぐうじ出資しゅっしきんによってふね仕立したてて、蜜柑みかん材木ざいもく江戸えどおくって豪商ごうしょうとなった。
  • エレベーター - 2020ねんれい2ねん)11月13にち完成かんせい山腹さんぷく駐車ちゅうしゃじょうにあり、これで本堂ほんどうよこまでがることができる。
  • 紀三井寺きみいでらケーブル - 2022ねんれい4ねん)4がつ5にち完成かんせいしたケーブルカー楼門ろうもんしたもうけられている。
  • 西国さいこくさんじゅうさんしょ石仏いしぼとけぐん - 西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうのそれぞれの札所ふだしょ本尊ほんぞんした33たい石造せきぞう観音かんのんぞうが、エレベーターとケーブルカーとをむすんでいるみちならべられている。
  • 楼門ろうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - てらでんではえいただし6ねん1509ねん)に再建さいけん参道さんどう正面しょうめん境内けいだいへの入口いりくち楼門ろうもんさんあいだいちそう入母屋いりもやづくりえいろく2ねん1559ねん)に修理しゅうりされている。したかい中央ちゅうおうあいだ開放かいほうとびらがなく、正面しょうめんりょうわきあいだ仁王におうぞう安置あんちしている[24][28]
  • 石造せきぞう閻魔えんま大王だいおう坐像ざぞう - 2019ねんれい元年がんねん)12がつづくり
  • 祇園ぎおんしゃ
  • 塔頭たっちゅう
    • こくてら - かつては本堂ほんどうよこにあった有力ゆうりょく寺院じいんであったが、宝永ほうえい2ねん1705ねん)に現在地げんざいち移転いてんさせられた。
    • ひろしもんいん
    • 瀧本たきもといん
    • 松樹まつきいん
    • 宝蔵ほうぞういん
    • ぜんことぶきいん

三井みついすい 編集へんしゅう

 
三井みついすい

和歌山わかやま指定してい名勝めいしょう紀三井寺きみいでらてらめいのもととなったとされる「清浄せいじょうすい」、「楊柳ようりゅうすい」、「吉祥きっしょうすい」の3つのみずである。紀三井寺きみいでら三井みついすい(さんせいすい)として名水めいすいひゃくせん選定せんていされている(1985ねん昭和しょうわ60ねん〉)[5]清浄せいじょうすい参道さんどう石段いしだん途中とちゅう右側みぎがわにある小滝こだきである。楊柳ようりゅうすいはそこから小道こみちはいったたりにある井戸いど吉祥きっしょうすい境内けいだいからいったん楼門ろうもんみぎきた)へすうひゃくメートルおこなったところにある井戸いどである。楊柳ようりゅうすい吉祥きっしょうすい荒廃こうはいしていたのを20世紀せいきまつ復旧ふっきゅう整備せいびしたものである[29]

文化財ぶんかざい 編集へんしゅう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい 編集へんしゅう

  • 護国ごこくいん楼門ろうもん 1むね - 1908ねん明治めいじ41ねん)4がつ23にち指定してい[30]
  • 護国ごこくいん鐘楼しゅろう 1むね - 1908ねん明治めいじ41ねん)4がつ23にち指定してい[31]
  • 護国ごこくいん多宝塔たほうとう 1むね - 1908ねん明治めいじ41ねん)4がつ23にち指定してい[32]
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう - がんぼとけ秘仏ひぶつ
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう - 秘仏ひぶつ本尊ほんぞん
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう
  • 木造もくぞう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい仏像ぶつぞうはいずれも平安へいあん時代じだい中期ちゅうきから後期こうき作品さくひんである。

和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい 編集へんしゅう

  • 護国ごこくいん本堂ほんどう 1むね - 1974ねん昭和しょうわ49ねん)4がつ9にち指定してい[21]
  • 護国ごこくいん開山かいさんどう 1むね - 2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ15にち指定してい[33]
  • 護国ごこくいんろくかくどう 1むね - 2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ15にち指定してい[33]
  • 護国ごこくいん大師堂だいしどう 1むね - 2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ15にち指定してい[33]
  • 護国ごこくいんさんしゃ権現ごんげん 3むね - 2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ15にち指定してい[33]
  • 護国ごこくいん書院しょいん 1むね - 2016ねん平成へいせい28ねん)3がつ15にち指定してい[33]

和歌山わかやま指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい 編集へんしゅう

  • 木造きづくりたかし部立ぶだてぞう 1
  • 絹本けんぽんちょしょく地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう 1ぶく
  • 木彫きぼり釈迦如来しゃかにょらいぞう 1 - 彫刻ちょうこく遍照院へんしょういん所有しょゆう。1969ねん昭和しょうわ44ねん)12月11にち指定してい
  • こくてらほん着色ちゃくしょく紀三井寺きみいでら縁起えんぎ絵図えず紀三井寺きみいでら参詣さんけい曼荼羅まんだら)・ほん着色ちゃくしょく熊野くまのかんしんじゅうかい曼荼羅まんだら かく1ぶく - 絵画かいが1969ねん昭和しょうわ44ねん)12月11にち指定してい[34]

和歌山わかやま指定してい名勝めいしょう 編集へんしゅう

  • 紀三井寺きみいでら三井みついすい 3箇所かしょ - 1967ねん昭和しょうわ42ねん)2がつ14にち指定してい
    • 吉祥きっしょうすい
    • 清浄せいじょうすい
    • 楊柳ようりゅうすい

和歌山わかやま指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ 編集へんしゅう

  • 紀三井寺きみいでらくすのきいつき 1ほん - 1967ねん昭和しょうわ42ねん)2がつ14にち指定してい
  • 紀三井寺きみいでらおうどう 1ほん - 1969ねん昭和しょうわ44ねん)12月11にち指定してい

年中ねんじゅう行事ぎょうじ 編集へんしゅう

前後ぜんご札所ふだしょ 編集へんしゅう

西国さいこくさんじゅうさんしょ
1 あおきしわたるてら - 2 紀三井寺きみいでら護国ごこくいん - 3 粉河寺こかわでら

交通こうつう 編集へんしゅう

周辺しゅうへん 編集へんしゅう

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • 大高おおだか 康正こうせい、2012、『参詣さんけい曼荼羅まんだら研究けんきゅう』、岩田いわた書院しょいん ISBN 978-4-87294-765-6
  • 平凡社へいぼんしゃへん)、1997、『大和やまと紀伊きい寺院じいん神社じんじゃだい事典じてん』、平凡社へいぼんしゃ ISBN 4582134025
  • 吉井よしい 敏幸としゆき、1984、「近世きんせい初期しょきいち山寺やまでらいん寺僧じそう集団しゅうだん」、『日本にっぽん研究けんきゅう』(266)、日本にっぽん研究けんきゅうかいNAID 40002929775 pp. 45-72

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ 紀伊きいこくめいくさぐん紀州きしゅう徳川とくがわりょう紀三井寺きみいでらむら(のちの和歌山わかやまけん海草かいそうぐん紀三井寺きみいでらまち大字だいじ紀三井寺きみいでら
  2. ^ 宗派しゅうはみはつぎのサイトによる。救世観音くせかんのんむね”. 教団きょうだんデータベース. 宗教しゅうきょう情報じょうほうリサーチセンター(公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん国際こくさい宗教しゅうきょう研究所けんきゅうじょ. 2020ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 平凡社へいぼんしゃ[1997: 222]
  4. ^ 平凡社へいぼんしゃ[1997: 226]
  5. ^ a b 紀三井寺きみいでら三井みついすい”. 環境省かんきょうしょう. 2018ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  6. ^ 近畿きんき”. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にほんさくらのかい. 2015ねん3がつ21にち閲覧えつらん
  7. ^ a b この段落だんらく平凡社へいぼんしゃ[1997: 223]による。
  8. ^ a b c d e f g 平凡社へいぼんしゃ[1997: 224]
  9. ^ 吉井よしい[1984: 54]
  10. ^ こくてら山門さんもんよこにあるが、これは近世きんせいにおけるほんぼう護国ごこくいんとのそうろん結果けっかである(吉井よしい[1984: 67-68])。
  11. ^ 詠歌えいかについてはつぎのウェブサイトを参照さんしょう紀三井寺きみいでら詠歌えいか”. 紀三井寺きみいでら. 2015ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  12. ^ 平凡社へいぼんしゃ[1997: 223]
  13. ^ 大高おおだか[2012: 216-217]
  14. ^ 吉井よしい[1984: 65]
  15. ^ 吉井よしい[1984: 65-66]
  16. ^ 大高おおだか[2012: 217]
  17. ^ 吉井よしい[1984: 66-67]
  18. ^ 吉井よしい[1984: 68]
  19. ^ エレベーターが完成かんせい”. 紀三井寺きみいでら公式こうしきサイト (2021ねん3がつ2にち). 2022ねん3がつ2にち閲覧えつらん
  20. ^ 全国ぜんこくてきにもめずらしい…紀三井寺きみいでらにケーブルカー設置せっち貫主かんしゅ体力たいりょくめんあきらめていたひともご参拝さんぱいを」”. 読売新聞よみうりしんぶん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ). (2022ねん4がつ5にち). オリジナルの2022ねん4がつ5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220405114600/https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220405-OYT1T50104/ 2022ねん4がつ5にち閲覧えつらん 
  21. ^ a b 護国ごこくいん紀三井寺きみいでら本堂ほんどう/1むね”. わかやま文化財ぶんかざいガイド. 和歌山わかやまけん. 2015ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  22. ^ 2008ねんから2010ねんにかけて、花山はなやま法皇ほうおういちせんねん記念きねんして西国さいこくさんじゅうさんしょぜん札所ふだしょ寺院じいん結縁けちえん開帳かいちょう実施じっしされるのにあわせて、これらのぞう特別とくべつひらけとびらされた。ひらきとびら期間きかん2008ねん平成へいせい20ねん)10がつ10日とおか - 10がつ20日はつか2009ねん平成へいせい21ねん)10がつ10日とおか - 10がつ20日はつか、および2010ねん平成へいせい22ねん)3がつ1にち - 3がつ10日とおか
  23. ^ ぞうだか久野くのけんへん仏像ぶつぞう巡礼じゅんれい事典じてんしんていばん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1994)による。以下いかおなじ。
  24. ^ a b 平凡社へいぼんしゃ[1997: 225]
  25. ^ 護国ごこくいん紀三井寺きみいでら多宝塔たほうとう/1”. わかやま文化財ぶんかざいガイド. 和歌山わかやまけん. 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  26. ^ 護国ごこくいん紀三井寺きみいでら鐘楼しゅろう/1むね”. わかやま文化財ぶんかざいガイド. 和歌山わかやまけん. 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  27. ^ 紀三井寺きみいでらまめ辞典じてん1”. 紀三井寺きみいでら. 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  28. ^ 護国ごこくいん紀三井寺きみいでら楼門ろうもん/1むね”. わかやま文化財ぶんかざいガイド. 和歌山わかやまけん. 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  29. ^ 紀三井寺きみいでら三井みついすい”. 紀三井寺きみいでら. 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  30. ^ 護国ごこくいん楼門ろうもん1908ねん明治めいじ41ねん〉4がつ23にち指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース文化庁ぶんかちょう) 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  31. ^ 護国ごこくいん鐘楼しゅろう1908ねん明治めいじ41ねん〉4がつ23にち指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース文化庁ぶんかちょう) 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  32. ^ 護国ごこくいん多宝塔たほうとう1908ねん明治めいじ41ねん〉4がつ23にち指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース文化庁ぶんかちょう) 2015ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  33. ^ a b c d e 和歌山わかやまけん教育きょういく委員いいんかいけん指定してい文化財ぶんかざい有形ゆうけい文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ
  34. ^ 以下いか和歌山わかやま指定してい文化財ぶんかざいについてつぎのウェブサイトを参照さんしょう和歌山わかやま指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん”. 和歌山わかやま教育きょういく委員いいんかい. 2018ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  35. ^ 石段いしだん210だんはやけでまいろう 紀三井寺きみいでら来年らいねん1がつはつ開催かいさい - 産経さんけいニュース(2017ねん12月5にちづけ、2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク 編集へんしゅう