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大岡忠相 - Wikipedia

大岡おおおか忠相ただすけ

日本にっぽん江戸えど時代じだい中期ちゅうき旗本はたもと大名だいみょう西にし大平おおひらはん初代はつよ藩主はんしゅ

大岡おおおか 忠相ただすけ(おおおか ただすけ)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき幕臣ばくしん大名だいみょう大岡おおおか忠世ただよ当主とうしゅで、西にし大平おおひらはん初代しょだい藩主はんしゅ生家せいか旗本はたもと大岡おおおか忠吉ただよしで、ちち美濃みのまもる大岡おおおかただしだかはは北条ほうじょうおもむすめ忠相ただすけ子孫しそん代々だいだい西にし大平おおひらはんぎ、明治めいじ時代じだいむかえた。大岡おおおかただしぼうだい4だい当主とうしゅで、9だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげ御側おそば用人ようにんとして幕政ばくせいにおいても活躍かつやくした大岡おおおか忠光ただみつのち岩槻いわつきはんおも)とはとお縁戚えんせき忠相ただすけ忠光ただみつちち忠利ただとしがはとこ)にたり、忠相ただすけとも同族どうぞくよしみつうじている。

 
大岡おおおか 忠相ただすけ
大岡おおおか忠相ただすけぞう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん のべたから5ねん1677ねん
死没しぼつ たかられき元年がんねん12月19にち[1]1752ねん2がつ3にち
改名かいめい 忠義ちゅうぎ[2]忠相ただすけ
別名べつめい もとめ市十郎いちじゅうろうちゅうみぎ衛門えもん通称つうしょう
戒名かいみょう まつうんいん殿どの前越まえごししゅう刺史ししきょうほまれ仁山にやまたかしよしだい居士こじ
墓所はかしょ まど月山がっさんきよしてら慈雲じうんやまみずてら
官位かんい したがえ能登のとまもる越前えちぜんまもるおくしたがえよん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ書院しょいんばん目付めつけ山田やまだ奉行ぶぎょう
普請ふしん奉行ぶぎょう江戸えど南町みなみまち奉行ぶぎょう
寺社じしゃ奉行ぶぎょうけん奏者そうしゃばん
主君しゅくん 徳川とくがわ綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐよしはじめ家重いえしげ
はん 三河みかわこく西にし大平おおひらはんあるじ
氏族しぞく 藤原ふじわらせい大岡おおおか
父母ちちはは ちち大岡おおおかただしだかはは北条ほうじょうおもむすめ[2]
養父ようふ大岡おおおか忠真ただざね
兄弟きょうだい ちゅうひん忠顕ただあき忠相ただすけちゅうあつちゅうつね
女子じょし島津しまつひさたけしつ
つま 正室せいしつ大岡おおおか忠真ただざねむすめ
市十郎いちじゅうろうちゅうよろし新三郎しんざぶろうむすめ中山ちゅうざんいさおしつ
養女ようじょ松平まつだいらきんなえおんな[3]中川なかがわ忠利ただとししつ島津しまつひさしつ
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人物じんぶつ

編集へんしゅう

8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねすすめたとおる改革かいかく町奉行まちぶぎょうとしてささえ、江戸えど市中しちゅう行政ぎょうせいたずさわったほか、評定ひょうじょうしょ一座いちざくわわり、関東かんとう地方ちほう御用ごようかけ奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょうつとめた。越前えちぜんまもるだったことと『大岡おおおか政談せいだん』や時代じだいげきでのめい奉行ぶぎょうとしてイメージをつうじて、現代げんだいでは大岡越前守おおおかえちぜんのかみまたは大岡越前守おおおかえちぜんのかみ忠相ただすけおおやけとしてられている。通称つうしょうもとめ、のち市十郎いちじゅうろうちゅうみぎ衛門えもんいみな忠義ちゅうぎ、のち忠相ただすけ

生涯しょうがい

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大岡おおおか七宝しっぽうとく大岡おおおか忠相ただすけもちいた図案ずあん家紋かもん

出生しゅっしょうから町奉行まちぶぎょう就任しゅうにんまで

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1700いし旗本はたもと大岡おおおかただしだかよんおとことして江戸えどまれる。貞享ていきょう3ねん1686ねん)、同族どうぞくの1920せき旗本はたもと大岡おおおか忠真ただざね大岡おおおかただしみぎ衛門えもん)の養子ようしとなり、忠真ただざねむすめ婚約こんやくする。貞享ていきょう4ねん1687ねん)には5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしはじめて目見まみする。元禄げんろく9ねん1696ねん)に従兄じゅうけいにあたる大岡おおおか忠英ただひで事件じけん連座れんざして閉門へいもん処置しょちとなる。翌年よくねんゆるされ、養父ようふ病死びょうしのため元禄げんろく13ねん1700ねん)、家督かとくのこりょうぎ、忠世ただよ3だい当主とうしゅとなる。

綱吉つなよし時代じだいに、寄合よりあい旗本はたもとやくから元禄げんろく15ねん1702ねん)には書院しょいんばんとなり、翌年よくねんには元禄げんろくだい地震じしんともな復旧ふっきゅう普請ふしんのためのかり奉行ぶぎょう一人ひとりつとめる。宝永ほうえい元年がんねん1704ねん)にはあたま宝永ほうえい4ねん1707ねん)には使番つかいばんとなり、宝永ほうえい5ねん1708ねん)には目付めつけ就任しゅうにんし、幕府ばくふ官僚かんりょうとして成長せいちょうする。宝永ほうえい6ねん1709ねん)には嫡男ちゃくなんちゅうよろし誕生たんじょうする。

6だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶ時代じだい正徳まさのり2ねん1712ねん正月しょうがつ遠国おんごく奉行ぶぎょうのひとつである山田やまだ奉行ぶぎょう伊勢いせ奉行ぶぎょう)の17代目だいめ就任しゅうにん佐野さの直行なおゆきあとやくで、相役あいやく渡辺わたなべあきら同年どうねん4がつには任地にんちおもむいている。同年どうねんにはしたがえ能登のとまもる叙任じょにん正徳しょうとく3ねん1713ねん)には交代こうたいし、翌年よくねんふたた赴任ふにんしている。

在職ざいしょくちゅうには、奉行ぶぎょう支配しはいまくりょう紀州きしゅう徳川とくがわりょうあいだでの係争けいそうがしばしば発生はっせいしており、山田やまだげん伊勢いせ)と松坂まつさかげん松阪まつさか)との境界きょうかいめぐ訴訟そしょうでは、紀州きしゅうはんりょう松坂まつさか有利ゆうりだった前例ぜんれいしたがわずに公正こうせいさばいたという。当時とうじ紀州きしゅう藩主はんしゅで、のち将軍しょうぐんしょく就任しゅうにん忠相ただすけ抜擢ばってきするよしはじめは、事実じじつじょう一方いっぽう当事とうじしゃだったにもかかわらず、忠相ただすけ公正こうせいさばきぶりをみとめたという。山田やまだ奉行ぶぎょう時代じだい忠相ただすけ吉宗よしむねあいだえんができたとする同様どうよう巷説こうせついくつかあるが、実際じっさいには奉行ぶぎょう時代じだい忠相ただすけにはりょうとの係争けいそう裁定さいていする権限けんげんはなく、後代こうだい成立せいりつしたものであるとかんがえられている[4]。また遠国おんごく奉行ぶぎょう江戸えどまち奉行ぶぎょうという昇進しょうしんコースは順当じゅんとうなものであり、60だい就任しゅうにんすることがおおかった町奉行まちぶぎょうに40だい就任しゅうにんしたことは、とりたてて抜擢ばってき人事じんじなどではないと指摘してきされる。山田やまだ松坂まつさかとの境界きょうかいめぐ訴訟そしょうについては、紀州きしゅうはんとの境域きょういき問題もんだい解決かいけつしたのはだい18だい大岡おおおか越前えちぜんではなくだい10代桑山くわやまさだせい桑山くわのやま丹後たんごもりあらため下野げやもり)であることは「寛文ひろふみじゅうねんがつじゅうにち寛文ひろふみななねんじゅういちがつじゅうにち桑山くわやま丹後たんごもりって確定かくていした神領しんりょう前山さきやま境域きょういきたい幕府ばくふより朱印しゅいんじょう下付かふされた」と「山田やまだ奉行ぶぎょう役所やくしょ旧記きゅうき」に記録きろくされており、山田やまださんぽう会合かいごう山田やまだ法式ほうしき」にも桑山くわやまさだせい奉行ぶぎょう紀州きしゅうはんもうれ、寛文ひろふみ7ねん11月に解決かいけつしたとしるされている。これを大岡おおおか越前えちぜん業績ぎょうせきとしたのは、とおる以降いこう歌舞伎かぶき題材だいざいねらったつくばなしせつがある。

7だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家継いえつぐ時代じだいとおる元年がんねん1716ねん)には普請ふしん奉行ぶぎょうとなり、江戸えど土木どぼく工事こうじ屋敷やしきわり指揮しきする。大久保おおくぼただしあとやくで、相役あいやく島田しまだまさしたつ朽木くちきじょうもり同年どうねん8がつには徳川とくがわ吉宗よしむね将軍しょうぐん就任しゅうにんし、解任かいにんされた新井あらい白石はくせき間部まべ詮房あきふさらの屋敷やしきだいにもたずさわっている。忠相ただすけよくとおる2ねん1717ねん)、江戸えどまち奉行ぶぎょうみなみ町奉行まちぶぎょう)となる。松野まつのすけよしあとやくで、相役あいやくきた町奉行まちぶぎょう中山なかやま時春ときはるちゅう町奉行まちぶぎょう坪内つぼうちじょうかんつぼ内定ないていかん名乗なのりが忠相ただすけおなじ「能登のとまもる」であったため、このときに忠相ただすけは「越前えちぜんまもる」とあらためる。

町奉行まちぶぎょう時代じだい活躍かつやく

編集へんしゅう
 
徳川とくがわ吉宗よしむね

よしはじめとおる改革かいかくばれる幕政ばくせい改革かいかく着手ちゃくしゅするが、忠相ただすけしょ改革かいかくのうち町奉行まちぶぎょうとして江戸えど都市とし政策せいさくたずさわることになり、評定ひょうじょうしょ一座いちざにもくわわり司法しほうにもたずさわった。このころ奉行ぶぎょうしょ体制たいせい機構きこう改革かいかくおこなわれており、ちゅう町奉行まちぶぎょう廃止はいしされりょう町奉行まちぶぎょうしょ支配しはい領域りょういき拡大かくだいし、忠相ただすけ就任しゅうにんには町奉行まちぶぎょう権限けんげん強化きょうかされていた。とおる4ねん1719ねん)には本所ほんじょ奉行ぶぎょう廃止はいしして本所ほんじょ深川ふかがわ地域ちいき編入へんにゅうし、奉行ぶぎょうしょ機構きこう改革かいかくおこなう。とおる8ねん1723ねん)には相役あいやく中山なかやま時春ときはる辞任じにんし、あとやく諏訪すわよりゆきあつしとなる。

市政しせいにおいては、まちだい廃止はいしとおる6ねん)や町名ちょうめいぬし減員げんいんなどまちせい改革かいかくおこなう一方いっぽう木造もくぞう家屋かおく過密かみつ地域ちいきである町人ちょうにんいき防火ぼうか体制たいせい再編さいへんのため、とおる3ねん1718ねん)には町火消まちびけし組合くみあい創設そうせつして防火ぼうか負担ふたん軽減けいげんはかり、とおる5ねん1720ねん)にはさらに町火消まちびけし組織そしきを「いろはよんじゅうななくみ(のちによんじゅうはちくみ)」のしょうぐみさい編成へんせいした。また、瓦葺かわらぶき屋根やね土蔵どぞうなど防火ぼうか建築けんちく奨励しょうれい火除ひよけ設定せってい制度せいど確立かくりつなどをおこなう。これらの政策せいさく一部いちぶまち名主なぬし反発はんぱつまねいたものの、江戸えど防火ぼうか体制たいせい強化きょうかされた。とおる10ねん1725ねん)9がつには2,000せき加増かぞうされ3,920せきとなる。風俗ふうぞく取締とりしまりでは私娼ししょう禁止きんし心中しんちゅうの賭博とばくなどの取締とりしまりを強化きょうかする。

とおる6ねん1721ねん)12月には吉宗よしむね設置せっちしていた目安めやすばこ小川おがわしょうせんから施薬せやくいん設置せっち嘆願たんがんする投書とうしょがあった[5]吉宗よしむね有馬ありまりん施薬せやくいん設立せつりつめいじ、忠相ただすけきた町奉行まちぶぎょう中山なかやま時春ときはるとともに小石川こいしかわ養生ようじょうしょ設置せっち尽力じんりょくしている[5]

下層かそうみん対策たいさくでは、このほか与力よりき藤枝ふじえだただしまた左衛門さえもん)をつうじて紹介しょうかいされた青木あおき昆陽こんよう文蔵ぶぞう)を書物しょもつ奉行ぶぎょう任命にんめいし、飢饉ききん対策たいさく作物さくもつとして試作しさくされていたサツマイモ栽培さいばい助成じょせいする。将軍しょうぐん吉宗よしむね主導しゅどうした米価べいか対策たいさくではべい会所かいしょ設置せっち公定こうてい価格かかく徹底てってい指導しどうおこない、物価ぶっか対策たいさくではかぶ仲間なかま公認こうにんなど組合くみあい政策せいさく指導しどうし、貨幣かへい政策せいさくでは流通りゅうつうりょう拡大かくだい進言しんげんしている。

現在げんざいでは、書籍しょせき最終さいしゅうページに「奥付おくづけ」が記載きさいされるが、これは、少数しょうすうながら自発じはつてき奥付おくづけけている書籍しょせきはあったものを、とおる6ねん1721ねん)に大岡おおおか越前えちぜん奥付おくづけ義務ぎむさせたことにより一般いっぱんした。

また、在任ざいにんちゅうとおる7ねん(1722ねん)には弛緩しかんしていた江戸えど近郊きんこう秩序ちつじょ再建さいけんのため、地方ちほう御用ごよう拝命はいめいして農政のうせいにもたずさわり、役人やくにん集団しゅうだんひきいて武蔵野むさしの新田しんでん上総かずさこく新田しんでん支配しはい小田原おだわらはんりょう酒匂川さかわがわ普請ふしんなどにたずさわっており、さらに儒教じゅきょう思想しそう浸透しんとうさせるため忠孝ちゅうこうしゃへの褒賞ほうしょう積極せっきょくてきっている。

 
もとぶん小判こばん文字もじ小判こばん

もとぶん元年がんねん(1736ねん)5がつ12にち幕府ばくふ町奉行まちぶぎょう大岡おおおか忠相ただすけ勘定かんじょう奉行ぶぎょう細田ほそだ最高さいこう責任せきにんしゃとした貨幣かへい改鋳かいちゅう実施じっしする[6]当日とうじつ大岡おおおかによりはっせられたまちさわには、通貨つうか不足ふそく状況じょうきょう解決かいけつするため、貨幣かへいしつとす改鋳かいちゅう実施じっししたと明言めいげんされている。改鋳かいちゅう直後ちょくご商人しょうにんらによる良質りょうしつきゅうぎん退蔵たいぞうによってぎん高騰こうとうしたため、同年どうねん6がつ26にち大岡おおおかぎんだかとなった理由りゆううべ<ほん両替りょうがえまち駿河するがまち両替りょうがえしょう10にん奉行ぶぎょうしょした。しかし、病気びょうき他国たこくかけているなどの理由りゆうで、手代てだい主人しゅじん名代なだいとして出向でむいた。忠相ただすけ主人しゅじんらのわりに手代てだいらを詰問きつもんしたが満足まんぞく回答かいとうられなかったため、かれらを全員ぜんいん伝馬てんままち牢屋ろうや投獄とうごくした。これにあわてた両替りょうがえしょうまち家主やぬしたちのすうじゅうかいにわたる嘆願たんがん忠相ただすけはききいれなかった。同年どうねん8がつ12にち忠相ただすけ突然とつぜん寺社じしゃ奉行ぶぎょう転任てんにんし、もう1人ひとり町奉行まちぶぎょうきた町奉行まちぶぎょう)の稲生いのう正武まさたけが8がつ19にちろう許可きょかするまで、手代てだいらは53にちものあいだ牢屋ろうやかれた[7]

寺社じしゃ奉行ぶぎょう時代じだいから晩年ばんねん

編集へんしゅう
 
大岡おおおか墓所はかしょきよしてら

もとぶん元年がんねん1736ねん)8がつ12にち寺社じしゃ奉行ぶぎょうとなり、評定ひょうじょうしょ一座いちざつづつとめる。寺社じしゃ奉行ぶぎょう時代じだいには、もとぶん3ねん1738ねん)にかり完成かんせいした公事こうじかたじょうしょ追加ついか改定かいてい触書ふれがき編纂へんさんかかわり、公文書こうぶんしょ収集しゅうしゅう整理せいり青木あおき昆陽こんようめいじてきゅう徳川とくがわりょう古文書こもんじょ収集しゅうしゅうさせ、これも分類ぶんるい整理せいりする。寺社じしゃ奉行ぶぎょう時代じだいには2,000せき加増かぞうされ5,920せきとなり、あしだかぶんくわえ1まんせき大名だいみょうかくとなった。寺社じしゃ奉行ぶぎょうしょく定員ていいんおよそ4めい)は本来ほんらい大名だいみょう役職やくしょくであり、奏者そうしゃばん定員ていいん20〜30めい)を兼帯けんたいすることが通例つうれいであるが、足高あしたかせいにより就任しゅうにんした忠相ただすけ場合ばあい依然いぜんとして正式せいしき身分みぶん旗本はたもとであり、大名だいみょうでなければなれない奏者そうしゃばん兼帯けんたいしなかったため、奏者そうしゃばん兼帯けんたいする寺社じしゃ奉行ぶぎょう同役どうやく大名だいみょうたち奏者そうしゃばんたちからしいたげられたというはなしのこる。そもそも江戸城えどじょうないにおいて、奏者そうしゃばんには伺候しこうする詰所つめしょ伺候しこうせきつめせき。いわゆる控室ひかえしつ)が指定していされていたが、寺社じしゃ奉行ぶぎょうしょく単独たんどく詰所つめしょ用意よういされていなかった。通例つうれいでは寺社じしゃ奉行ぶぎょう奏者そうしゃばん兼帯けんたいであるので、奏者そうしゃばんせき伺候しこうしていればよかったが忠相ただすけはそうではないため、奏者そうしゃばん面々めんめんは「ここは(大名だいみょう格式かくしきである)奏者そうしゃばん詰所つめしょである。」として、はた本格ほんかくのため奏者そうしゃばんではない忠相ただすけりをきんじた。このためすうねんわた忠相ただすけは、江戸城えどじょうない固有こゆう詰所つめしょたないままに寺社じしゃ奉行ぶぎょうつとめていた。すうねんにこの事態じたいにようやくがついた将軍しょうぐん吉宗よしむねにより、“寺社じしゃ奉行ぶぎょう専用せんようしょ”が制定せいていされて忠相ただすけにも控室ひかえしつあたえられることとなり、さらに寛延かんえい元年がんねん1748ねん)10がつ奏者そうしゃばん兼任けんにん同時どうじ足高あしたかぶん正式せいしき加増かぞうとしてあたえられ、三河みかわこく西にし大平おおひらげん岡崎おかざき)1まんせきりょうすることとなり正式せいしき大名だいみょうとなる。町奉行まちぶぎょうから大名だいみょうとなったのは、江戸えど時代じだいつうじて忠相ただすけのみである。

寛延かんえい4ねん1751ねん)6がつ20日はつかには江戸城えどじょう西丸にしまるうつ大御所おおごしょとなっていた吉宗よしむね死去しきょする[8]。『大岡おおおか日記にっき』にれば忠相ただすけ前日ぜんじつの19にち夕方ゆうがた老中ろうじゅう若年寄わかどしより西丸にしまる登城とじょうしたことをしるしており、この吉宗よしむね危篤きとくったとかんがえられている[8]。『大岡おおおか日記にっき』にれば忠相ただすけ20日はつか半時はんときまえ午前ごぜん9まえ)に西丸にしまる登城とじょうし、かりあいだにおいて寺社じしゃ奉行ぶぎょう同役どうやく高家こうかしゅうらと老中ろうじゅう酒井さかいただしよせ松平まつだいらたけしもとから吉宗よしむねらされている[9]。『徳川とくがわ実紀みき』にれば23にち忠相ただすけをはじめとした葬儀そうぎ担当たんとうしゃさだめられ、27にち吉宗よしむね遺命いめいどおりに綱吉つなよしびょうへのごうそうおこなわれ、忠相ただすけ参列さんれつしている[10]。なお、『大岡おおおか日記にっき』は吉宗よしむね葬儀そうぎまえうるう6がつ8にちじょうを以って記述きじゅつえている[11]

大岡おおおか日記にっきうるう6がつ8にちじょうればこの忠相ただすけは4午前ごぜん10)に登城とじょうして吉宗よしむね葬儀そうぎ諸事しょじ手配てはいしているが、体調たいちょうがすぐれないため9時半じはん午後ごご1)には退出たいしゅつし、帰宅きたくしている[12]忠相ただすけ病状びょうじょうかんしては『大岡おおおか日記にっき』の寛延かんえい3ねん1750ねんごろから「悪寒おかん」「不快ふかい」「はら具合ぐあいしき」「熱気ねっき咽頭いんとうつう」などをしるしており、呼吸こきゅうけい消化しょうかけい疾患しっかんわずらっていたとかんがえられている[13]。『徳川とくがわ実紀みき』にれば、7がつ6にちには忠相ただすけ葬儀そうぎ担当たんとうしゃ褒賞ほうしょうされ、忠相ただすけ時服じふく5をあたえられている[13]

徳川とくがわ実紀みき』『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』にれば、忠相ただすけは11月2にち寺社じしゃ奉行ぶぎょう奏者そうしゃばん辞任じにん出願しゅつがんする[14]寺社じしゃ奉行ぶぎょう辞任じにんかんしては受理じゅりされたが、奏者そうしゃばん辞任じにんみとめられなかったという[13]。その自宅じたく療養りょうようするが、12月19にち死去しきょ享年きょうねん75[14]

法名ほうみょうまつくもいん殿どの前越まえごししゅう刺史ししきょうほまれ仁山にやまたかしよしだい居士こじ墓所はかしょ代々だいだい領地りょうちのある神奈川かながわけん茅ヶ崎ちがさきつつみまど月山がっさんきよしてら。また、東京とうきょう台東たいとう谷中たになか慈雲じうんやまみずてら

経歴けいれき

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大岡おおおか政談せいだん

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江戸えどまち奉行ぶぎょう時代じだい裁判さいばん見事みごとさや、江戸えど市中しちゅう行政ぎょうせいのほか地方ちほう御用ごようつとひろ知名度ちめいどがあったことなどから、忠相ただすけ庶民しょみんあいだめい奉行ぶぎょう人情味にんじょうみあふれる庶民しょみん味方みかたとして認識にんしきされ、庶民しょみん文化ぶんか興隆こうりゅうであったこともかさなり、どう時代じだいから後年こうねんにかけて創作そうさく大岡おおおか政談せいだん」として写本しゃほん講談こうだん人々ひとびとひろがった。「徳川とくがわたかしいちぼう」、「村井むらいちょうあん」、「越後えちご伝吉でんきち」、「ほとり倉重くらしげ四郎しろう」、「後藤ごとう半四郎はんしろう」、「小間物こまもの彦兵衛ひこべえ」、「煙草たばこ喜八きはち」、「しばられ地蔵じぞう」、「かんさば」、「さんぽういち両損りょうそん」などのエピソードがある。これらは日本にっぽんにおけるサスペンス小説しょうせつ原初げんしょてき形態けいたいしめすものとえる。忠相ただすけ没後ぼつごから講釈こうしゃくによる原型げんけいつくられると、幕末ばくまつから明治めいじにかけて発展はってんし、歌舞伎かぶきなどの素材そざいなどに使つかわれ、また現代げんだいにいたってもTVドラマされている。

史学しがくてき検証けんしょうでは、かずある物語ものがたりのうち忠相ただすけ町奉行まちぶぎょう時代じだい実際じっさいさばいたのはとおる12ねん1727ねん)の「白子しらこくま事件じけん」のみであることが指摘してきされている[15]現代げんだいに「大岡おおおかさばき」としてつたえられているもののおおくは、関東かんとうぐんだい忠相ただすけ同僚どうりょうである北町きたまち奉行ぶぎょう中山なかやま時春ときはる裁定さいていしたもの(「ちょくすけ権兵衛ごんべえ[16])や忠相ただすけぼつ事件じけんふくまれている。 また佐竹さたけたけしは、旧約きゅうやく聖書せいしょれつおうにあるソロモンおう英知えいちとして、たがいに実子じっし主張しゅちょうし1にん2人ふたり母親ははおやたいする調停ちょうてい伝承でんしょうなど、聖書せいしょなどにしるされる裁判さいばん物語ものがたりがイスラムけん経由けいゆし、きたそうめい判官ほうがんつつみ故事こじ(「しばられ地蔵じぞう」と同様どうよう逸話いつわ)になったのち、エピソードに翻案ほんあんされふくまれたとするせつ提唱ていしょうえいろく3ねん1560ねん)に、豊後ぶんごでイエズスかい宣教師せんきょうしがクリスマスにソロモン裁判さいばんげきおこなったという記録きろくもあり、木村毅きむらきは『比較ひかく文学ぶんがくしん視界しかい』「ソロモン裁判さいばん大岡おおおか政談せいだん」(昭和しょうわ50ねん1975ねん))でチベットの伝説でんせつ釈尊しゃくそん釈迦しゃか)の伝説でんせつ日本にっぽんのキリシタンの影響えいきょうまぎんだとする。 中東ちゅうとうけい(インドけいでは釈迦しゃか前世ぜんせい物語ものがたり)では、実子じっし母親ははおやのうちいちにんひとおにとしている[17]

通常つうじょう大岡おおおか庶民しょみん味方みかた正義せいぎ武士ぶしとして物語ものがたり登場とうじょうする。だが、学習院大学がくしゅういんだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ大石おおいしまき三郎さぶろうは、大岡おおおかかんする伝記でんき史料しりょうとしてしんずるにりるのは『大岡おおおか忠相ただすけ日記にっき』がほとんど唯一ゆいいつのものである、とする。この日記にっきは、私生活しせいかつしるしたいわゆる日記にっきではなく、公人こうじんとしての忠相ただすけ職務しょくむろくであり、行政ぎょうせい官僚かんりょうとしての町奉行まちぶぎょう活写かっしゃしており、大岡おおおか政談せいだんとほとんど関係かんけいないことがしめされている。

しかし、町火消まちびけ制度せいど創設そうせつ小石川こいしかわ養生ようじょうしょ設置せっちなどの事例じれいに「政治せいじはかくあるべし」という江戸えど庶民しょみん願望がんぼう仮託かたくされて、「政談せいだん」に結晶けっしょうされたという見方みかたもされている。

  • 忠相ただすけ持病じびょうがあり、悪化あっかにより公務こうむ欠席けっせきしたことがある(『大岡おおおか忠相ただすけ日記にっき』より)。
  • 勤務きんむちゅうはいつもひげ使つかいながら仕事しごとをしていた。肖像しょうぞうにもひげきでひげ姿すがたえがかれたものがある。
  • 文化ぶんか13ねん(1816ねん成立せいりつの『世事せじ見聞けんぶんろく』によれば、あるとき徳川とくがわ吉宗よしむね忠相ただすけに「そのほう何人なんにんくらいころしたか」とわれた。忠相ただすけは「にんころしました」とこたえた。吉宗よしむねわらって「二人ふたりとはひゃくぶんいちか、それともせんぶんいちか(本当ほんとうひゃくにん、いやせんにんだろう)」。忠相ただすけは「死刑しけいにふさわしいつみおかして処刑しょけいされたものは、わたしころしたのではありません。わたしころしたともうげた二人ふたりのうち、一人ひとりわたしの僉議(調しらべ)がきびしすぎたために、おかしてもいないつみ自白じはくして処刑しょけいされたもので、もう一人ひとり死刑しけいになるほどのつみではなかったのに、判決はんけつくだまえ牢死ろうしろうない病死びょうし)したものです」とこたえた。忠相ただすけは「わたしきびしく調しらべて自白じはくさせましたが、そのもの様子ようすがどこかになり、じっくりと時間じかんをかけて調しらべていくうちに真犯人しんはんにん判明はんめいしました。しかし、自白じはくしたものは、すでに死刑しけいしょされていました」とこたえ、冤罪えんざい無実むじつ人間にんげんいたらしめたことを後々あとあとまでやんでいたという[18]
  • 世事せじ見聞けんぶんろく』には、「もっときとおるころまで牢死ろうしじんいたりまれなることにてありしとゆ」とある。忠相ただすけ町奉行まちぶぎょうだったとおるころは、未決囚みけつしゅう一人ひとり獄死ごくしさせただけでも忠相ただすけ後悔こうかいするほど獄死ごくししゃすくなかったという。『世事せじ見聞けんぶんろく』があらわされた文化ぶんか年間ねんかんは、江戸えどだけで獄死ごくししゃ毎年まいとしせんにんえるほどろうない環境かんきょう劣悪れつあくであった[19]
  • 大岡おおおかだい14だい当主とうしゅクノくのル食品るしょくひん社長しゃちょうつとめた大岡おおおかただし1924ねん - 2018ねん12月14にち)はことなるがみはおなじ「ただすけ」である[20]

大岡おおおか文書ぶんしょ

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大岡おおおか文書ぶんしょ(三河国額田郡西大平大岡家文書)は『大岡おおおか日記にっき』(大岡越前守おおおかえちぜんのかみ忠相ただすけ日記にっき)や『とおるせんようるいしゅう』や将軍家しょうぐんけないしょなど忠相ただすけ中心ちゅうしん忠相ただすけ以前いぜん将軍家しょうぐんけ朱印しゅいんじょうなどをふくめた文書ぶんしょぐんで、昭和しょうわ43ねん1968ねん)に大岡おおおかから国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん寄託きたくされている。『せんようるいしゅう』は忠相ただすけ町奉行まちぶぎょう時代じだい編纂へんさんさせた判例はんれいしゅうで、忠相ただすけ評定ひょうじょうしょ時代じだいから寺社じしゃ奉行ぶぎょう時代じだい死後しご幕末ばくまつまで編纂へんさんつづけられた。

高祖母こうそぼ

父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

  • 市川いちかわ

子女しじょ

養女ようじょ

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
テレビドラマ
映画えいが
漫画まんが

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ 系図けいず纂要』では12月16にち
  2. ^ a b 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか
  3. ^ 系図けいず纂要』
  4. ^ 宇野うのおさむひらめ大岡越前守おおおかえちぜんのかみ忠相ただすけ
  5. ^ a b 山口やまぐち静子しずこ. “小石川こいしかわ養生ようじょうしょ初期しょき医療いりょう活動かつどうについて”. 2020ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  6. ^ 徳川とくがわ実紀みき
  7. ^ 両替りょうがえ年代ねんだい」「もとぶん金銀きんぎん引替いちけん」「ぎんきりちんづけ両替りょうがえ店員てんいん処罰しょばつ」『東京とうきょう稿こう産業さんぎょうへんだいじゅうよん
  8. ^ a b 大石おおいし(2006)、p.234
  9. ^ 大石おおいし(2006)、pp.234 - 235
  10. ^ 大石おおいし(2006)、pp.235 - 237
  11. ^ 大石おおいし(2006)、p.235
  12. ^ 大石おおいし(2006)、p.237
  13. ^ a b c 大石おおいし(2006)、p.238
  14. ^ a b 大石おおいし(2006)、p.239
  15. ^ 大岡おおおか忠相ただすけ』(大石おおいしまなぶちょ吉川弘文館よしかわこうぶんかん)274-277ぺーじ、『実録じつろく 江戸えど悪党あくとう』(山下やました昌也まさやちょ学研がっけん新書しんしょ)44ぺーじ、『江戸えどめい奉行ぶぎょう』(丹野たんのあらわちょ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ)78-79ぺーじ
  16. ^ 殺人さつじんはんちょくすけとは別人べつじん権兵衛ごんべえだといいはっていたおとこを、裁判さいばん最後さいごに「これちょくすけ」とび、つい返事へんじをしたところをとらえたというエピソード。
  17. ^ 吉澤よしざわ孔三こうぞうろう へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション だい 息子むすこそう」『世界せかい童話どうわ大系たいけい.だい10かん(印度いんどへん)』世界せかい童話どうわ大系たいけい刊行かんこうかい、1925ねん10がつhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978860/171 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション だい 息子むすこそうひ 一人ひとりおんなおとこをつれて、溜池ためいけのそばにきました。そしてまづおとこ水浴すいよくをさせたあとで、自分じぶんみずにつかつてゐますと。一人ひとりおんなおにとおりかかりました。おんなおには、いけのはたであそんでゐるおとこると、それをべてたくてたまらなくなりました。で、やさしい言葉ことばしばらくおとこをあやしてゐましたが、やがてそのをとつて、とつとつとけだしました。母親ははおやたいさうおどろいて、そのあとをおいつかけました。そしておいつつくがはやいか、「わたしの子供こどもぬすんで、どこへつれてくんです。」となじりました。するとじょおにはすましかえしつて、「子供こどもぬすんだとはだれのことです。これはわたしの子供こどもですよ。」とうんひました。かうしてにんうんそうつてゐますうちに、段々だんだんひとだかりがして、たうとうマホサダーのにつきました。マホサダーはにんおんなからはなしくと、地面じめん一本いっぽんせんをひいて、「さあ、このうえ子供こどもたせるがいい。そして一人ひとり兩手りょうてを、一人ひとり兩足りょうあしを摑んで、ひきつぱりくらをしなさい。それにつたものが、本當ほんとう母親ははおやです。」とうんひました。そこでにんおんなは、地面じめんじょういて、そのうえ子供こどもをおくなり、一人ひとり兩手りょうてを、一人ひとり兩脚りょうきゃくを摑んで、一生いっしょうけんめいにひきつぱりました。おとこいたくてたまりませんので、おおきなこえしました。そのこえくと、母親ははおやあいさうになつて、おぼえず摑んでゐるはなしました。
    マホサダーはこれをると、人々ひとびとたいつて、「子供こどもやさしいのは、母親ははおやしんだらうか。それとも他人たにんしんだらうか。」とたずねました。「それはうんふまでもなく、母親ははおやしんですよ。」と、人々ひとびとこたえへました。「それでは、子供こどもをはなしたのが母親ははおやだらうか。はなさなかつたのが母親ははおやだらうか。」とマホサダーがたずねました。「勿論もちろん子供こどもはなしたのが母親ははおやですよ。」と、人々ひとびとこたえへました。するとマホサダーは、「そのとおりぢや。」とうんつて、おんなおにしながら、「このおんなは、まばたきをしない、眞赤まっかをしてゐるし、それはあきらつても、かげ地面じめんにうつらない。だからおにだといふことがすぐわかる。」とうんひました。おんなおにおそにゅうつて、子供こどもぬすんだことを白狀はくじょうしてしまひました。おうさまはそれをおきになつて、マホサダーにかいひたいとおこうへになりました。しかし大臣だいじんはやはりいろんなことをうんつて、それをおめしました。』
  18. ^ 氏家うじいえ幹人みきひと江戸えど時代じだいつみばちくさおもえしゃ、2015ねん、185-186ぺーじ 
  19. ^ 氏家うじいえ幹人みきひと江戸えど時代じだいつみばちくさおもえしゃ、2015ねん、187ぺーじ 
  20. ^ 大岡おおおかただし輔氏が死去しきょ もとクノくのル食品るしょくひん社長しゃちょう. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2018ねん12月17にち). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39044320X11C18A2CZ8000/ 2021ねん9がつ17にち閲覧えつらん 
  21. ^ ちょう高速こうそく参勤交代さんきんこうたい リターンズ」追加ついかキャスト7めい古田ふるた新太あらた大岡おおおか越前えちぜん”. 映画えいがナタリー (2016ねん2がつ5にち). 2016ねん2がつ5にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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江戸えど時代じだい随筆ずいひつ忠相ただすけについての逸話いつわ収録しゅうろく

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
大岡おおおか忠真ただざね
大岡おおおか宗家そうけ
1700ねん - 1751ねん
次代じだい
大岡おおおかただしよろし