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岩槻藩 - Wikipedia

岩槻いわつきはん

武蔵むさしこく所在しょざいしたはん

岩槻いわつきはん(いわつきはん)は、武蔵むさしこく埼玉さいたまぐん現在げんざい埼玉さいたまけんさいたま岩槻いわつき太田おおた3丁目ちょうめ)に存在そんざいしたはん居城きょじょう岩槻いわつきじょう

はんふみ

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岩槻いわつき戦国せんごく時代じだいにはこう北条ほうじょう領国りょうごくで、本拠ほんきょである相模さがみこく小田原おだわらじょう重要じゅうよう拠点きょてんのひとつとなされていた。岩槻いわつきじょう長禄ちょうろく元年がんねん(1457ねん)に扇谷おうぎや上杉うえすぎつかえていた太田おおた道真みちざね道灌どうかん父子ふし敵対てきたい関係かんけいにあった古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじそなえて築城ちくじょうしたのがはじまりとかんがえられてきたが、近年きんねんでは古河ふるかわこう方方かたがた成田なりたただしとうによる築城ちくじょうるのが主流しゅりゅうとなっている。

その北条ほうじょう台頭たいとう扇谷おうぎや上杉うえすぎほろび、その旧臣きゅうしんである太田おおたただし北条ほうじょうたいして抵抗ていこうつづけたものの、結局けっきょく岩槻いわつきじょう北条ほうじょうささえじょうとなる。北条ほうじょうがこの岩槻いわつき重要じゅうようしろなしていたことがうかがえる史料しりょうに『北条ほうじょう岩槻いわつきじょうしょ奉行ぶぎょうつめばんなみおきてしょ』がある。それによると、天正てんしょう5ねん(1577ねん岩槻いわつきじょうには、しょうはた120ほんやり600ほん鉄砲てっぽう50あまりていゆみ40あまりちょう歩兵ほへい250余人よにん馬上もうえ500などの1,580めいに、足軽あしがるふくめておよそ5,000にん軍勢ぐんぜい常駐じょうちゅうしていたことがわかる。

豊臣とよとみ政権せいけん時代じだいとなり、天正てんしょう18ねん(1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつこう北条ほうじょう降伏ごうぶく関東かんとうあらたに入部にゅうぶした徳川とくがわ家康いえやす岩槻いわつき関東かんとう支配しはい拠点きょてんのひとつとなし、譜代ふだいちゅう譜代ふだい家臣かしん家康いえやす三河そうご時代じだいさん奉行ぶぎょう一人ひとりである高力こうりききよしちょうに2まんせきあたえて入部にゅうぶさせている。これが岩槻いわつきはんたてはんである。しんちょう嫡男ちゃくなん高力こうりきただしちょう父親ちちおや先立さきだって死去しきょし、しんちょう慶長けいちょう3ねん(1608ねん)に死去しきょした。そのあと嫡孫ちゃくそん高力こうりきただしぼうまましいだが、ちゅうぼう元和がんわ5ねん(1619ねん)9がつ遠江とおとうみ浜松はままつはんうつされ、岩槻いわつきはんはいはんとなり幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうとなった。

翌年よくねん10がつ20日はつか下野げやこくうちから老中ろうじゅう青山あおやま忠俊ただとしが4まん5,000せきはいったが、元和がんわ9ねん(1623ねん)10がつ19にち忠俊ただとしだい3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ勘気かんきこうむって上総かずさ大多喜おおたきはんへ2まんせきげんうえうたてふうとなった。その相模さがみ小田原おだわらはんから阿部あべ正次まさつぐが5まん5,000せきはいる。正次まさつぐ寛永かんえい3ねん(1626ねん)4がつ6にち大坂おおさか城代じょうだい転出てんしゅつして知行ちぎょうを8まん6,000せき加増かぞうされる。正次まさつぐだいさかのち岩槻いわつき統治とうち嫡男ちゃくなん阿部あべまさしきよしが3まんせき担当たんとうした。しかしせいきよし寛永かんえい5ねん(1628ねん)8がつ早世そうせいしたため、正次まさつぐ次男じなん三浦みうらいでいた阿部あべ重次しげつぐ復姓ふくせい中国語ちゅうごくごばんし、寛永かんえい15ねん(1638ねん)11月7にち岩槻いわつきに5まん9,000せきはいった(重次しげつぐ同年どうねん老中ろうじゅうになっている)。正保まさやす4ねん(1647ねん)11月14にちちち正次まさつぐだいさか死去しきょすると、重次しげつぐ正式せいしき家督かとく相続そうぞくし、ちちのこりょうくわえさらに1まんせき加増かぞうされて都合つごう9まん9,000せき藩主はんしゅとなった。

慶安けいあん4ねん(1651ねん)に徳川とくがわ家光いえみつが薨じると、4がつ20日はつか重次しげつぐ殉死じゅんしし、あと阿部あべじょうだかいだ。しかしじょうだか万治まんじ2ねん(1659ねん)1がつ23にちに25さい早世そうせいした。じょうだかにはいち阿部あべ正邦まさくにがいたがまだ幼少ようしょうだったため、だいつなぎとして三浦みうらいでいたじょうだかおとうと阿部あべただしはる復姓ふくせいして家督かとくいだ。せいはるちち重次しげつぐのこりょうのうち1まん6,000せき上総かずさ大多喜おおたき新田しんでんはん)を相続そうぞくしていたので、これにあにのこりょうあわせて11まん5,000せき知行ちぎょうすることとなった。しかしはんないではせいはる後継こうけい不満ふまんものすくなくなく、寛文ひろふみ3ねん(1663ねん)12月になぎさ騒動そうどうばれる家臣かしん殺害さつがい事件じけんこった。このようなこともあって寛文ひろふみ11ねん(1671ねん)12月19にちせいはるあにのこりょう9まん9,000せき家督かとく正邦まさくにゆずり、自身じしん旧来きゅうらいの1まん6,000せき分家ぶんけした(これは大多喜おおたきはんとみなされる)。天和てんわ元年がんねん(1681ねん)、正邦まさくに丹後たんご宮津みやづはんうつりふうされた。

わって同年どうねん2がつ下野げや烏山からすやまはんから板倉いたくらしげるしゅが6まんせきはいり、もなく老中ろうじゅう就任しゅうにんしたが、3かげつには失脚しっきゃくして翌年よくねんには信濃しなの坂木さかきはんうつりふうされた。そのには常陸ひたち下館しもだてはんから老中ろうじゅう戸田とだ忠昌ただまさが5まん1,000せきはいる。忠昌ただまさ貞享ていきょう元年がんねん(1684ねん)に領内りょうない笹山ささやまむらはばななしゃく山城やましろほり建造けんぞうしたのち、貞享ていきょう3ねん(1686ねん)1がつに1まんせき加増かぞううえ下総しもうさ佐倉さくらはんうつりふうとなった。つづいて丹波たんば亀山かめやまはんから松平まつだいらただししゅうが4まん8,000せきはいる。ちゅうしゅう元禄げんろく10ねん(1697ねん)に但馬たじま出石いずしはんうつりふうとなったが、その理由りゆうには生類しょうるいあわれみのれいとの関係かんけいりざたされた。すなわち、この前年ぜんねん領内りょうないおおかみ子供こどもころすという事件じけん発生はっせいただししゅう事前じぜんまくかくから許可きょかてこのおおかみころしたが、それでもこれでだい5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし心証しんしょうそこない、これが辺鄙へんぴ出石いずしへのてんふうにつながったというものであるが、真偽しんぎのほどはさだかではない。

そのつぎには三河みかわ吉田よしだはんから老中ろうじゅう小笠原おがさわら長重ながしげが5まんせきはいる。長重ながしげ安永やすなが2ねん(1705ねん)に埼玉さいたまぐんないで1まんせき加増かぞうされ、翌年よくねんには検地けんち実施じっしして藩政はんせい基盤きばんかためようとしたが、やまい安永やすなが7ねん(1710ねん)5がつ18にち隠居いんきょあと次男じなん小笠原おがさわらちょうひろしいだ。翌年よくねん小笠原おがさわら遠江とおとうみ掛川かけがわはんうつされ、わって信濃しなの飯山いいやまはんから若年寄わかどしより永井ながいただしけいが3まん3,000せきはいる。しかしちょくけい同年どうねん6がつ3にち死去しきょし、あと永井ながいしょうたいらまましいだが、そのひさしたいら正徳まさのり4ねん(1714ねん)8がつ29にちに18さい夭折ようせつした。嗣子ししかったため、なおたいらおとうと永井ながいただしひね家督かとくいだ。ちょくひねたかられき6ねん(1756ねん)に、美濃みの加納かのうはんうつされた。

このように、藩主はんしゅがめまぐるしくわってはん支配しはい定着ていちゃくしなかったが、その旗本はたもとから若年寄わかどしより出世しゅっせした大岡おおおか忠光ただみつ藩主はんしゅとしてはいる。忠光ただみつは9だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげ御側おそば用人ようにんとして幕政ばくせい影響えいきょうりょくち、たかられき元年がんねん(1751ねん)4がつには代官だいかん支配しはいきゅう植村うえむらりょう上総かずさ勝浦かつうらはんあたえられていたが、たかられき6ねん(1756ねん)には2まんせき加増かぞうされ、本拠ほんきょ岩槻いわつきじょううつした。

これにともな勝浦かつうらりょう房総ぼうそうぶんりょうとして岩槻いわつきはん飛地とびちとなり、勝浦かつうら陣屋じんやをはじめとする役所やくしょ番所ばんしょくとともに、ぐん奉行ぶぎょう常駐じょうちゅうして代官だいかん支配しはいおこない、重要じゅうよう検案けんあん江戸えど藩邸はんてい指示しじあおいだ。夷隅いすみぐん南方なんぽうには奥山おくやまはやしがあり、山林さんりん資源しげん産出さんしゅつした。

岩槻いわつきはん大岡おおおか時代じだいにやっと藩政はんせい安定あんていしたものの、3だい藩主はんしゅ大岡おおおかただしよう時代じだいきた天明てんめいだい飢饉ききんはんない甚大じんだい被害ひがいけ、その天災てんさい相次あいついで藩政はんせい多難たなんきわめ、財政ざいせい窮乏きゅうぼうすすんだ。このためちゅうよう有能ゆうのう人材じんざい登用とうようきびしい倹約けんやくはしらとした藩政はんせい改革かいかく実施じっしする。5だい藩主はんしゅ大岡おおおか忠正ただまさ時代じだいには藩校はんこう勤学きんがくしょ武芸ぶげい稽古けいこしょ設置せっちされた。6だい藩主はんしゅ大岡おおおかただしかた奏者そうしゃばん若年寄わかどしより栄進えいしんしたが、このころきた米価べいか昂騰こうとうから領内りょうないだい規模きぼ百姓ひゃくしょう一揆いっきこった。

アヘン戦争せんそうきよしやぶれたとのほうまくかく震撼しんかんさせると、その余波よは海防かいぼう強化きょうかめいじられた岩槻いわつきはん大砲たいほう鋳造ちゅうぞうなどで財政ざいせい逼迫ひっぱくした。ひろし2ねん(1845ねん)4がつ1にちには前年ぜんねん炎上えんじょうした江戸城えどじょう本丸ほんまる普請ふしん奉行ぶぎょうつとめたこうにより3,000せき加増かぞうされたが、それも文字もじどおりのいしみずだった。ちゅうかたよしみひさし5ねん(1852ねん)7がつ4にち死去しきょあと大岡おおおか忠恕ただひろいだ。忠恕ただひろ時代じだいには幕末ばくまつ動乱どうらん天災てんさいかさなり、さらには岩槻いわつきじょう本丸ほんまる焼失しょうしつなどの不幸ふこう相次あいついで、財政ざいせい破綻はたん寸前すんぜんとなった。このようななか忠恕ただひろ慶応けいおう2ねん(1866ねん)3がつ29にち隠居いんきょして家督かとく長男ちょうなん大岡おおおかただしぬきゆずった。慶応けいおう3ねん12月(1868ねん1がつ)の江戸えど薩摩さつま藩邸はんてい焼討やきうち庄内しょうないはん上山うえやまはん鯖江さばえはんともくわわる。しかしよく慶応けいおう4ねんはじまった戊辰戦争ぼしんせんそうでは一転いってんしてしん政府せいふ帰順きじゅんし、幕府ばくふぐん追討ついとうこうげた。翌年よくねん版籍はんせき奉還ほうかんちゅうぬきはんごととなり、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん岩槻いわつきはんはいはんとなる。大岡おおおかはその子爵ししゃくじょせられた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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高力こうりき

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2まんせき 譜代ふだい

  1. 高力こうりききよしちょう(きよなが) したがえ 河内かわうちまもる
  2. 高力こうりきただしちょう(まさなが) したがえ 土佐とさまもる
  3. 高力こうりきただしぼう(ただふさ) したがえ 左近さこん大夫たいふ

青山あおやま

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5まん5せんせき 譜代ふだい

  1. 青山あおやま忠俊ただとし(ただとし) したがえ 伯耆ほうきもり

阿部あべ

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5まん5せんせき→8まん6せんせき→4まん6せんせき→5まん9せんせき→9まん9せんせき→11まん5せんせき→9まん9せんせき 譜代ふだい

  1. 阿部あべ正次まさつぐ(まさつぐ) したがえよん 備中びっちゅうもり
  2. 阿部あべ重次しげつぐ(しげつぐ) したがえよん 山城やましろまもる
  3. 阿部あべじょうだか(さだたか) したがえ 備中びっちゅうもり
  4. 阿部あべただしはる(まさはる) したがえ 伊予いよもり
  5. 阿部あべ正邦まさくに(まさくに) したがえ 対馬つしまもり

板倉いたくら

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6まんせき 譜代ふだい

  1. 板倉いたくらしげるしゅ(しげたね) したがえよん 内膳ないぜんせい

戸田とだ

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5まん1せんせき 譜代ふだい

  1. 戸田とだ忠昌ただまさ(ただまさ) したがえよん 山城やましろまもる 侍従じじゅう

松平まつだいら藤井ふじい

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4まん8せんせき 譜代ふだい

  1. 松平まつだいらただししゅう(ただちか) したがえよん 伊賀いがまもる 侍従じじゅう

小笠原おがさわら

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5まんせき 譜代ふだい

  1. 小笠原おがさわら長重ながしげ(ながしげ) したがえよん侍従じじゅう佐渡さわたりまもる
  2. 小笠原おがさわらちょうひろし(ながひろ) したがえ山城やましろまもる

永井ながい

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3まん3せんせき 譜代ふだい

  1. 永井ながいただしけい(なおひろ) したがえ 伊賀いがまもる
  2. 永井ながいしょうたいら(なおひら) したがえ 伊賀いがまもる
  3. 永井ながいただしひね(なおのぶ) したがえ 伊賀いがまもる

大岡おおおか

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2まんせき→2まん3せんせき 譜代ふだい

  1. 大岡おおおか忠光ただみつ(ただみつ) したがえよん 出雲いずもまもる
  2. 大岡おおおか忠喜ちゅうき(ただよし) したがえ 兵庫ひょうごあたま
  3. 大岡おおおかただしよう(ただとし) したがえ 式部しきぶしょう
  4. 大岡おおおかただしれつ(ただやす) したがえ 丹後たんごもり
  5. 大岡おおおか忠正ただまさ(ただまさ) したがえ 主膳しゅぜんただし
  6. 大岡おおおかただしかた(ただかた) したがえ 主膳しゅぜんただし
  7. 大岡おおおか忠恕ただひろ(ただゆき) したがえ 兵庫ひょうごあたま
  8. 大岡おおおかただしぬき(ただつら) したがえ 主膳しゅぜんただし

ささえはん

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阿部あべ家時いえときだい以下いかささえはんがあった。

幕末ばくまつ領地りょうち

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きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース』より。(155むら・3まん2,563せきあまり

明治維新めいじいしんのち埼玉さいたまぐん3むらきゅう幕府ばくふりょう1むらきゅう寺社じしゃりょう2むら)、葛飾かつしかぐん2むらきゅう幕府ばくふりょう1むらきゅう関宿せきやどはんりょう1むら)がくわわった。

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ 登戸のぶとむら一部いちぶ現在げんざい埼玉さいたまけん鴻巣こうのす一部いちぶ
  2. ^ 大松おおまつむら全域ぜんいき並塚ならびつかむら一部いちぶ現在げんざい埼玉さいたまけん越谷こしがや北葛飾きたかつしかぐん杉戸すぎとまちかく一部いちぶ
  3. ^ 富岡とみおかむら下成しもなり木村きむら上分かみぶん全域ぜんいきみなみ小曾木おそきむら一部いちぶ現在げんざい東京とうきょう青梅おうめ一部いちぶ
  4. ^ 谷中やなかむらもと西にし谷原やはらむら西にし谷原新田やはらしんでん)・もとひがし谷原やはらむらひがし谷原新田やはらしんでん)・上大増新田かみおおまししんでん下大増新田しもおおまししんでん増富ましとみむら増戸ましとむら平野ひらのむら長宮ながみやむら大野島おおのしまむら増長ましながむら大口おおぐちむら大谷おおやむら大戸おおどむら新方須賀にいがたすかむら大森おおもりむら三之宮さんのみやむら恩間新田おんましんでん大道だいどうむら大竹おおたけむら恩間おんまむら大泊おおとまりむら薄谷すすきやむら市宿いちじゅくまちふとしみぎ衛門えもんぶん久保くぼ宿やどむら新町しんまち横町よこちょう林道りんどうまち冨士ふじ宿やどまちしん曲輪くるわまち渋江しぶえむら田中たなかむらひだり太夫たゆう新田しんでん斎藤さいとう新田にった辻村つじむら笹山ささやまむら黒浜くろはまむら本宿ほんしゅくむら平林寺へいりんじむら馬込まごめむら加倉かくらむら谷下やしたむらかぎ上新田かみしんでんかぎ上村うえむら尾ヶ崎おがさき新田しんでん木曾きそりょうむら村国むらくにむら全域ぜんいき西新井にしあらいむら岡泉おかいずみむら樋ノ口といのくちむら不動岡ふどうおかむら上中条かみちゅうじょうむら千駄野せんだのむらまごじゅうろうむらかく一部いちぶ現在げんざい埼玉さいたまけんさいたま岩槻いわつき越谷こしがや春日部かすかべ蓮田はすだ白岡しらおか久喜くき加須かぞ熊谷くまがやかく一部いちぶ
  5. ^ 赤沼あかぬまむら一部いちぶ現在げんざい埼玉さいたまけん比企ひきぐん鳩山はとやままち一部いちぶ
  6. ^ 久須美くすみむら猿田さるたむら下赤工しもあかだくみむら上赤工かみあかだくみむら中藤なかとうむら下郷しもごう全域ぜんいき川寺かわでらむら川崎かわさきむらかく一部いちぶ現在げんざい埼玉さいたまけん飯能はんのう日高ひだかかく一部いちぶ
  7. ^ 東方とうほうむら一部いちぶ現在げんざい埼玉さいたまけん深谷ふかや一部いちぶ
  8. ^ 内浦うちうらむら天津てんしんむら浜荻はまおぎむらはまなみたいむら貝渚かいすかむら天面あまつらむら磯村いそむら横渚よこすかむら現在げんざい千葉ちばけん鴨川かもがわ一部いちぶ
  9. ^ 和田わだむら現在げんざい千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう和田わだまち和田わだ
  10. ^ 祇園ぎおんむら一部いちぶ現在げんざい千葉ちばけん木更津きさらづ一部いちぶ
  11. ^ 麻生原あそばるむら黒川くろかわむら石神いしがみむら戸面とづらむら月出つきでむら現在げんざい千葉ちばけん市原いちはら一部いちぶ
  12. ^ 新官しんかんきょう七本ななもとむら関谷せきやむら墨名となむら勝浦かちうらむら串浜くしはまむら松部まつべむら鵜原うばらむら台宿だいしゅくむら名木なぎむら中里なかさとむら宮田みやたむら中島なかじまむら法華ほっけむら荒川あらかわむら山田やまだむら小羽戸こばどむら大楠おおくすむら芳賀はがむら白井久保しらいくぼむら新戸しんとむら宿戸しゅくどむら白木しろきむら中谷なかたにむら平田ひらたむら笛倉ふえぐらむら平沢ひらさわむら小内こうちむら百鉾もふくむら弥喜用やきようむら南畑みなみはたむら川安かわやす戸村とむら湯倉ゆぐらむら三条さんじょうむら田代たしろむら弓木ゆみきむら庄司しょうじむら中埜なかのむら市野川いちのかわむら松尾まつおむらしょうふえむら板屋いたやむら紙敷かみしきむら伊保田いほたむら宇筒原うとうばらむら筒森つつもりむら大田代おおただいむら小田代こただいむら面白おもじろむら小沢又こざわまたむら粟又あわまたむら葛藤くずふじむら全域ぜんいき谷上やがみむら引田ひきたむらかく一部いちぶ現在げんざい千葉ちばけん勝浦かちうらいすみ夷隅いすみぐん大多喜おおたきまち御宿おんじゅくまちかく一部いちぶ
  13. ^ 法目ほうめむら一部いちぶ現在げんざい千葉ちばけん茂原もはら一部いちぶ
  14. ^ 下谷しもたに新田にった依古島よこじま新田しんでん全域ぜんいき高津戸たかつどむら砂古瀬いさごぜむらかく一部いちぶ現在げんざい千葉ちばけん東金とうがね千葉ちばみどりかく一部いちぶ
  15. ^ うえ木津内きづうちむらした木津内きづうちむら全域ぜんいき現在げんざい埼玉さいたまけん北葛飾きたかつしかぐん杉戸すぎとまち一部いちぶ
  16. ^ 根小屋ねごやむら一部いちぶ現在げんざい茨城いばらきけん石岡いしおか一部いちぶ
  17. ^ 下大屋しもおおやむら全域ぜんいき東大室ひがしおおむろむら茂木もぎむら川原かわはら浜村はまむら武井たけいむらかく一部いちぶ現在げんざい群馬ぐんまけん前橋まえばし桐生きりゅうかく一部いちぶ
  18. ^ 山王さんのうむら全域ぜんいき横堀よこぼりむら一部いちぶ現在げんざい群馬ぐんまけん前橋まえばし一部いちぶ
  19. ^ 祝園ほうそのむら一部いちぶ現在げんざい京都きょうと相楽さがらぐん精華せいかまち一部いちぶ
先代せんだい
武蔵むさしこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1590ねん - 1871ねん 岩槻いわつきはん岩槻いわつきけん
次代じだい
埼玉さいたまけん