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大岡忠貫 - Wikipedia

大岡おおおか ただしぬき(おおおか ただつら)は、江戸えど時代じだい末期まっき大名だいみょう武蔵むさしこく岩槻いわつきはんだい8だい藩主はんしゅ大岡おおおかただしぼう11だい当主とうしゅ大岡おおおか忠恕ただひろ長男ちょうなん

 
大岡おおおかただしぬき
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん ひろし4ねん7がつ29にち1847ねん9月8にち
死没しぼつ 大正たいしょう9ねん1920ねん1がつ3にち
別名べつめい 正太郎しょうたろう通称つうしょう
墓所はかしょ 玉峰山たまみねさんりゅうもんてら
官位かんい したがえ主膳しゅぜんただし
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 武蔵むさしこく岩槻いわつきはんおも岩槻いわつきはん知事ちじ
氏族しぞく 大岡おおおか
父母ちちはは ちち大岡おおおか忠恕ただひろ
兄弟きょうだい ちゅうぬき稲葉いなば正善しょうぜん田沼たぬまひとし安藤あんどうぼう
つま 正室せいしつ土井どい利則としのりむすめ
継室けいしつ戸田とだただしいたりむすめ
むすめ大岡おおおかただしりょう正室せいしつ)、養子ようしちゅうりょう
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経歴けいれき

編集へんしゅう

1866ねん慶応けいおう2ねん)、ちち忠恕ただひろ隠居いんきょにより家督かとく相続そうぞくした。たけしゅう世直よなお一揆いっきではにんはん高崎たかさきはんとともに鎮圧ちんあつのために出兵しゅっぺいした。1868ねん慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん)、戊辰戦争ぼしんせんそうではしん政府せいふ恭順きょうじゅんし、ちゅうぬき東山ひがしやまみち総督そうとく岩倉いわくら具定ぐじょういのちにより、幕府ばくふ脱走だっそうへい追討ついとうにあたった。1869ねん明治めいじ2ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんちゅうぬき岩槻いわつきはん知事ちじ就任しゅうにんするが、1871ねん明治めいじ4ねん)からの廃藩置県はいはんちけんにより、岩槻いわつきはんはいはんとなり、はんごと罷免ひめんされる。1884ねん明治めいじ17ねん)7がつ8にち子爵ししゃく叙爵じょしゃくした[1]

1908ねん明治めいじ41ねん)4がつ13にち隠居いんきょ[2][3]家督かとく養嗣子ようししちゅうりょう相続そうぞくし、同年どうねん4がつ22にち子爵ししゃく襲爵しゅうしゃくした[2][4]

父母ちちはは

つま

子女しじょ

  • 大岡おおおか幸子さちこ次女じじょ) ー 子爵ししゃく大岡おおおかただしりょう夫人ふじん生母せいぼあきら継妻けいさい
  • 大岡おおおか米子よねこ桑田くわた房吉ふさきち夫人ふじん生母せいぼあきら継妻けいさい

養子ようし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい308ごう明治めいじ17ねん7がつ9にち
  2. ^ a b 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい上巻じょうかん、269-270ぺーじ
  3. ^ 官報かんぽうだい7440ごう明治めいじ41ねん4がつ18にち届出とどけでは4がつ16にち
  4. ^ 官報かんぽうだい7444ごう明治めいじ41ねん4がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
岩槻いわつき大岡おおおか初代しょだい
1884ねん - 1908ねん
次代じだい
大岡おおおかただしりょう