大岡おおおか 忠恕ただひろ(おおおか ただゆき / ただのり)は、江戸えど時代じだい後期こうきの大名だいみょう。武蔵むさし岩槻いわつき藩はん藩はん第だい7代だい藩主はんしゅ。大岡おおおか忠ただし房ぼう家か10代当主とうしゅ。大岡おおおか忠ただし固かたの三男さんなん。
天保てんぽう9年ねん(1838年ねん)12月1日にち、将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよしに拝謁はいえつする。同年どうねん12月がつ16日にち、従したがえ五ご位い下兵庫しもひょうご頭あたまに叙任じょにんする。嘉よしみ永ひさし5年ねん(1852年ねん)8月がつ25日にち、父ちち忠ちゅう固かたの死去しきょにより家督かとくを相続そうぞくする。文久ぶんきゅう2年ねん(1862年ねん)に公武こうぶ合体がったいの一環いっかんとして、孝明天皇こうめいてんのうの妹いもうと・和宮かずのみやが14代だい将軍しょうぐん・徳川とくがわ家茂いえもちに降嫁こうかの際さい、幕府ばくふより道中どうちゅう警備けいびを命めいじられて助じょ郷さとと人馬じんばのほか34名めいの藩士はんしを駆出かりだしている。この負担ふたんにより藩はん内ないの村むら々は疲弊ひへいした。
このほかに幕末ばくまつの動乱どうらんや天災てんさい、岩槻いわつき城じょう本丸ほんまるの焼失しょうしつなど災害さいがいにも遭あい、藩はんの財政ざいせい破綻はたんに苦くるしむ治世ちせいだった。慶応けいおう2年ねん(1866年ねん)3月29日にち、隠居いんきょし、長男ちょうなん忠ちゅう貫ぬきに家督かとくを譲ゆずった。慶応けいおう4年ねん3月がつ8日にち、江戸えどから岩槻いわつきに移住いじゅうする。明治めいじ3年ねん(1870年ねん)3月がつ25日にち、明治天皇めいじてんのうに拝謁はいえつする。明治めいじ4年ねん(1871年ねん)11月14日にち、東京とうきょうに移住いじゅうする。明治めいじ13年ねん(1880年ねん)に死去しきょ。享年きょうねん58。
父母ちちはは
正室せいしつ
子女しじょ