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火消 - Wikipedia

火消ひけし

江戸えど時代じだい消防しょうぼう組織そしきとその構成こうせいいん
町火消まちびけしから転送てんそう

火消ひけし火消ひけ(ひけし)とは、江戸えど時代じだい消防しょうぼう組織そしきとその構成こうせいいんである[注釈ちゅうしゃく 1]

東京とうきょう名所めいしょ八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図(部分ぶぶん)、歌川うたがわ広重ひろしげ(3代目だいめ)、明治維新めいじいしん火消ひけし出初でぞめしき

概要がいよう

編集へんしゅう

消防しょうぼう組織そしきとしての火消ひけしは、江戸えどにおいては江戸えど幕府ばくふにより、頻発ひんぱつする火事かじ対応たいおうする防火ぼうか消火しょうか制度せいどとしてさだめられた。武士ぶしによって組織そしきされた武家ぶけ火消ひけし(ぶけびけし)と、町人ちょうにんによって組織そしきされた町火消まちびけし(まちびけし)に大別たいべつされる。武家ぶけ火消ひけし幕府ばくふ直轄ちょっかつ旗本はたもと担当たんとうしたてい火消ひけし(じょうびけし)と、大名だいみょうやくとしてめいじられた大名だいみょう火消ひけし(だいみょうびけし)にけて制度せいどされたため、わせて3系統けいとう消防しょうぼう組織そしき存在そんざいしていた[1]

江戸えど時代じだい初期しょきには火消ひけし制度せいどさだめられておらず、度重たびかさなる大火たいか契機けいきにまず武家ぶけ火消ひけし制度せいどされ、発達はったつしていった。江戸えど時代じだい中期ちゅうきはいると、とおる改革かいかくによって町火消まちびけし制度せいどされる。そののち、江戸えど時代じだい後期こうきから幕末ばくまつにかけては、町火消まちびけし武家ぶけ火消ひけしわって江戸えど消防しょうぼう活動かつどう中核ちゅうかくになうようになっていった。江戸えど以外いがい大都市だいとしかくはん城下町じょうかまちなどでも、それぞれ火消ひけし制度せいどさだめられていた。これらの消防しょうぼう組織そしきは、明治維新めいじいしんのち廃止はいし改編かいへんされるが、その系譜けいふ現代げんだい消防署しょうぼうしょ消防しょうぼうだんへとつながっている。

消防しょうぼう組織そしき構成こうせいいんとしての火消ひけしは、火消ひけし人足ひとあし(ひけしにんそく)ともいう。てい火消ひけし配下はいかであった臥煙がえん(がえん)、町火消まちびけし中核ちゅうかくをなした鳶人足とびにんそく(とびにんそく、鳶職とびしょく)などがあげられる。組織そしきごとの対抗心たいこうしん気性きしょうあらさから、「加賀かがとんびてい火消ひけし喧嘩けんか」や「ぐみ喧嘩けんか」などの騒動そうどうこすこともあった。火消ひけし人足ひとあしによる消火しょうか方法ほうほうは、火事場かじば周辺しゅうへん建物たてもの破壊はかい延焼えんしょうふせ破壊はかい消防しょうぼう除去じょきょ消火しょうかほう)がもちいられ、明和めいわ年間ねんかんごろからは竜吐水りゅうどすい(りゅうどすい、木製もくせいしゅ押ポンプ)なども補助ほじょてき使用しようされた。

江戸えど火事かじ

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あかりれき大火たいか

火消ひけし制度せいどは、江戸えどにおいて発展はってんげ、その構成こうせいいんが1まんにん上回うわまわ時期じきなが存在そんざいしただい規模きぼなものであった。これは、慶長けいちょう6ねん1601ねん)から慶応けいおう3ねん1867ねん)の267年間ねんかん大火たいかだけで49かい小火ぼやふくめると1798かいもの火事かじ発生はっせいした[注釈ちゅうしゃく 2]という、江戸えど特異とくい事情じじょうおおきく影響えいきょうしている。

江戸えど武家ぶけ火消ひけし

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江戸えど時代じだい初期しょき

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい初期しょき江戸えどでは、火消ひけし制度せいどさだめられていなかった。江戸城えどじょう火事かじとなった場合ばあいには老中ろうじゅう若年寄わかどしより大番組おおばんぐみ書院しょいん番組ばんぐみ鉄砲てっぽうぐみなどの旗本はたもとめいじて消火しょうかおこなった。江戸えどちゅうにおいては、大名だいみょう屋敷やしき旗本はたもと屋敷やしきなど武家ぶけ火事かじとなった場合ばあい付近ふきん大名だいみょう旗本はたもと自身じしんで、長屋ながや商家しょうかなど町人ちょうにんでの火事かじ町人ちょうにん自身じしん消火しょうかおこなうという状態じょうたいであり、組織そしきてき消防しょうぼう制度せいど存在そんざいしなかった。幕府ばくふ慶長けいちょう18ねん1613ねん)にした禁令きんれいでは、町人ちょうにん火事かじ武家ぶけ奉公人ほうこうにんけつけることをきんじており、武家ぶけ町人ちょうにん明確めいかく区分くぶんする方針ほうしんであったことも影響えいきょうしている[注釈ちゅうしゃく 3]

奉書ほうしょ火消ひけし

編集へんしゅう

奉書ほうしょ火消ひけし(ほうしょびけし)は、寛永かんえい6ねん1629ねん)、だい3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ時代じだいにはじまる火消ひけし[3]

これは火事かじさい老中ろうじゅうで「奉書ほうしょ」をしょ大名だいみょうおくり、召集しょうしゅうして消火しょうかたらせるというものである。この方法ほうほうは、火事かじきてから奉書ほうしょ用意よういして大名だいみょう使者ししゃし、使者ししゃけて大名だいみょう家臣かしん現場げんばかうという、迅速じんそくさにけるものであった。また、けつける大名だいみょう家臣かしんにしても、常時じょうじより消火しょうか訓練くんれんおこなっているわけではなく、火事かじたいして有効ゆうこう手段しゅだんとはならなかった。

所々ところどころ火消ひけし

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江戸えど中心ちゅうしん地名ちめい

所々ところどころ火消ひけし(しょしょびけし)は、寛永かんえい16ねん1639ねん)にはじまる火消ひけし

同年どうねん江戸城えどじょう本丸ほんまる火事かじとなったことを契機けいきに、江戸城えどじょうない紅葉山もみじやま霊廟れいびょうたいする消防しょうぼうやくを、譜代ふだい大名だいみょう森川もりかわ重政しげまさめいじたことがはじまりである[4]。この所々ところどころ火消ひけしは、後述こうじゅつ大名だいみょう火消ひけしなか担当たんとう場所ばしょさだめられていたものであり、幕府ばくふにとってのじゅう要地ようち火事かじからまもるためもうけられた、せんもん火消役ひけしやくであった。

所々ところどころ火消ひけしさだめられた場所ばしょ元禄げんろく年間ねんかんにかけて増加ぞうかし、江戸城えどじょう各所かくしょをはじめ、寛永寺かんえいじ増上寺ぞうじょうじなどの寺社じしゃ両国橋りょうごくばし永代えいたいきょうなどの橋梁きょうりょう本所ほんじょべいくらなどのくらを、36大名だいみょう担当たんとうするようになった[5]。のちにとおる7ねん1722ねん)、だい8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねにより、重要じゅうよう11箇所かしょをそれぞれ1大名だいみょう担当たんとうさせる方式ほうしき改編かいへんされた。担当たんとう場所ばしょは、江戸城えどじょうないの5箇所かしょ紅葉山もみじやま霊廟れいびょう大手おおてかたさくら田方たがたまる吹上ふきあげ)、しろがいぞう3箇所かしょ浅草あさくさ米蔵よねぞう本所ほんじょ米蔵よねぞう本所ほんじょ猿江さるえ材木ざいもくぞう)、寺社じしゃ3箇所かしょ上野寛永寺うえのかんえいじしば増上寺ぞうじょうじ湯島ゆしま聖堂せいどう)である。江戸城えどじょうないさい重要じゅうようたいする所々しょしょ火消ひけし譜代ふだい大名だいみょうめいじられ、外様とざま大名だいみょうめいじられたのは本所ほんじょべいくらなど江戸城えどじょうがい施設しせつであった。

大名だいみょう火消ひけし

編集へんしゅう

大名だいみょう火消ひけし(だいみょうびけし)は、寛永かんえい20ねん1643ねん)にはじまる火消ひけし[注釈ちゅうしゃく 4]

寛永かんえい18ねん1がつ29にち1641ねん3がつ10日とおか正月しょうがつ京橋きょうばしおけまちから発生はっせいした火事かじは、江戸えど大半たいはんくというおおきな被害ひがいした。このおけまち火事かじさいしては、将軍家しょうぐんけこう自身じしん大手おおてもん指揮しきり、奉書ほうしょにより召集しょうしゅうしたしょ大名だいみょうにも消火しょうか活動かつどうおこなわせたものの、火勢かせいめることはできなかった[5]消火しょうか陣頭じんとう指揮しきっていた大目おおめづけ加賀爪かがつめちゅうきよしけむかれて殉職じゅんしょく消火しょうか活動かつどうおこなっていた相馬そうまはんあるじ相馬そうま義胤よしたね事故じこ重傷じゅうしょうった。

幕府ばくふ関係かんけい役人やくにんおよびこれまでの奉書ほうしょ火消ひけし担当たんとうした大名だいみょうらをあつめて検討けんとうした結果けっかおけまち火事かじより2ねん寛永かんえい20ねん1643ねん)、幕府ばくふは6まんせき以下いか大名だいみょうから16いええらび、4くみ編成へんせいしてあらたな火消役ひけしやくもうけた[注釈ちゅうしゃく 5][7]従来じゅうらい奉書ほうしょ火消ひけし制度せいどしたものであり、この火消役ひけしやくえらばれた大名だいみょうみずからが指揮しきった。1まんせきにつき30にんずつの定員ていいん420にんを1くみとし、1くみ10日とおか交代こうたい消火しょうか活動かつどう担当たんとうした。火事かじ発生はっせいすると火元ひもとちか大名だいみょう出動しゅつどうし、武家ぶけ町人ちょうにん区別くべつなく消火しょうかおこなうとされていた。

大火たいか場合ばあいには従来じゅうらいどお老中ろうじゅうから奉書ほうしょおくり、正式せいしき召集しょうしゅうして消火しょうかたらせた。これはそれまでの奉書ほうしょ火消ひけし区別くべつしてぞう火消ひけし(ましびけし)とばれる。

大名だいみょう火消ひけし火事かじこると、華麗かれい火事かじ装束しょうぞくつつんだ家臣かしん隊列たいれつませ、現場げんばまで行進こうしんして消火しょうか活動かつどうたった。大名だいみょうみずからが火事場かじばかうこともあってその火事かじ装束しょうぞく次第しだい華美かび派手はでなものとなり、たびたび幕府ばくふによって規制きせいされている。しかし傾向けいこうわらず、なかには消火しょうか活動かつどうちゅう装束しょうぞく着替きがえを3おこなう大名だいみょうまであらわれ、そのため大勢おおぜい見物人けんぶつにんあつまってきたというれいもある[8]

あかりれき大火たいか以降いこう

編集へんしゅう

あかりれき3ねん1657ねん正月しょうがつ本郷ほんごうから発生はっせいした火事かじは、江戸えど歴史れきしじょう最悪さいあく被害ひがいとなった。あかりれき大火たいか振袖ふりそで火事かじ)とばれるこの火事かじのため、江戸城えどじょう天守閣てんしゅかく焼失しょうしつし、江戸えどちゅうやく68000にんともされる犠牲ぎせいしゃした[注釈ちゅうしゃく 6]

あかりれき大火たいかにより、従来じゅうらい方法ほうほうでは大火たいか対処たいしょできないことがあきらかになったため、以後いご江戸えど幕府ばくふ消防しょうぼう制度せいど確立かくりつちからそそいだ。江戸えどちゅう再建さいけんでは、大名だいみょう屋敷やしき旗本はたもと屋敷やしき寺社じしゃ一部いちぶ郊外こうがい移転いてんさせ、延焼えんしょうふせぐための火除ひよけ確保かくほした。また、瓦葺かわらぶき屋根やね土蔵どぞうづくなどの耐火たいか建築けんちく奨励しょうれいし、火事かじつよまちづくりを目指めざした。そして、あらたな消防しょうぼう組織そしきである方角ほうがく火消ひけしてい火消ひけし編成へんせいしている。

方角ほうがく火消ひけし

編集へんしゅう

方角ほうがく火消ひけし(ほうがくびけし)は、あかりれき3ねん(1657ねん)、だい4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな時代じだいにはじまる火消ひけし

あかりれき大火たいか直後ちょくご大名だいみょう12めいえらび、桜田さくらだすじ山手やまてすじ下谷しもたにすじの3くみ編成へんせいした火消役ひけしやくがはじまりである。大名だいみょう火消ひけし一種いっしゅで、担当たんとう区域くいき火事かじ発生はっせいするとけつけて消火しょうかたることとなっていた。元禄げんろく年間ねんかんにかけて東西とうざい南北なんぼくの4くみ改編かいへんされ、方角ほうがく火消ひけしばれるようになった。正徳まさのり2ねん1712ねん)、5方角ほうがく5くみ改編かいへんとおる元年がんねん1716ねん以降いこう大手おおてぐみ桜田さくらだぐみの2くみ(4めいずつけい8大名だいみょう)に改編かいへんされ、火事かじさいはそれぞれ大手門おおてもん桜田門さくらだもん集結しゅうけつした。大手おおてぐみ桜田さくらだぐみへの改編かいへんは、おも江戸城えどじょう延焼えんしょう防止ぼうし目的もくてきとして活動かつどうし、江戸城えどじょうない火事かじ以外いがいでは老中ろうじゅう指示しじけてから出動しゅつどうした。消火しょうか主力しゅりょくではなく、火元ひもとからはなれた場所ばしょふせぐため、ぼう大名だいみょう(ふせだいみょう)ともばれた。

担当たんとう参勤交代さんきんこうたい江戸えど滞在たいざいちゅう大名だいみょうからえらばれ、屋敷やしきでは通常つうじょうよりたか見櫓みやぐら建築けんちくゆるされた[注釈ちゅうしゃく 7]方角ほうがく火消ひけし所々しょしょ火消ひけし定員ていいん大名だいみょう石高いしたかによってことなっていた。1まんせき以上いじょうでは騎馬きば3-4足軽あしがる20にん中間ちゅうかん人足ひとあし30にん。10まんせき以上いじょうでは騎馬きば10足軽あしがる80にん中間ちゅうかん人足ひとあし140-150にん。20まんせき以上いじょう騎馬きば15-20足軽あしがる120-130にん中間ちゅうかん人足ひとあし250-300にん、などである。

てい火消ひけし

編集へんしゅう
 
名所めいしょ江戸えどひゃくけいより「びくにはしゆきちゅうひだりおく武家ぶけ火消ひけし見櫓みやぐら[10]

てい火消ひけし(じょうびけし、江戸えどちゅうていばん)は、万治まんじ元年がんねん1658ねん)9がつ8にち創設そうせつされた幕府ばくふ直轄ちょっかつ火消ひけし[11][注釈ちゅうしゃく 8]

あかりれき大火たいか翌年よくねん、4000せき以上いじょう旗本はたもと4めい秋山あきやまただしぼう近藤こんどうようはた内藤ないとう政吉まさきち町野まちのみゆきせん)をえらび、それぞれに与力よりき6めい同心どうしん30めい付属ふぞくさせてもうけられた。幕府ばくふ直轄ちょっかつ消防しょうぼう組織そしきであり、若年寄わかどしより所管しょかん菊間きくまつめ役職やくしょくであった。

てい火消ひけしちょう火消役ひけしやくである(先述せんじゅつ知行ちぎょう4,000せき以上いじょう旗本はたもと[11]与力よりき同心どうしんのもとで直接ちょくせつ消火しょうか活動かつどう従事じゅうじしたものは「臥煙がえんけむり)」とばれた[11]。4めい旗本はたもとには専用せんよう火消ひけし屋敷やしき火消ひけし用具ようぐあたえ、臥煙がえんせんもん火消ひけし人足ひとあし)をやと費用ひようとして300にん扶持ふち加算かさんした。4箇所かしょ火消ひけし屋敷やしきはそれぞれ御茶ノ水おちゃのみずこうじまち半蔵門はんぞうもんがい飯田いいだまち小石川こいしかわ伝通院でんづういんまえもうけられ、すべて江戸城えどじょう北西ほくせいであった。この屋敷やしき配置はいちは、ふゆおお北西ほくせいふうによる、江戸城えどじょう延焼えんしょうふせぐためである[12]。それぞれの担当たんとう地域ちいき火事かじ発生はっせいすると、出動しゅつどうして武家ぶけ町人ちょうにん区別くべつなく消火しょうか活動かつどうたった。てい火消ひけし火事場かじば治安ちあん維持いじ担当たんとうし、鉄砲てっぽう所持しょじ演習えんしゅう許可きょかされていた。なお、消火しょうかだけでなく緩急かんきゅうあるときは、火消役ひけしやく配下はいかひきいて、小姓こしょうぐみ背後はいごくこととされており戦場せんじょうでも火事かじ装束しょうぞくもちいることとされていた[11]

翌年よくねん正月しょうがつの1がつ4にちには、老中ろうじゅう稲葉いなば正則まさのりひきいるてい火消ひけし4くみ上野うえの東照宮とうしょうぐう集結しゅうけつして気勢きせいをあげ、出初でぞめ(でぞめ)をおこなった。これが出初でぞめしきのはじまりとなり、以降いこう毎年まいとし1がつ4にちには上野うえの東照宮とうしょうぐう出初でぞめおこなわれるようになった[13]

まん2ねん・3ねんにかけて代官だいかんまちなど4箇所かしょ寛文ひろふみ2ねん1662ねん)と元禄げんろく8ねん1695ねん)にも日本橋にほんばし浜町はまちょうなどが追加ついかもうけられ、わせて15くみ江戸城えどじょうりまくように配置はいちされた。しかし、宝永ほうえい元年がんねん1704ねん以降いこうは10くみ定員ていいん1280めい)での編成へんせいとなる[11][注釈ちゅうしゃく 9]。このため、総称そうしょうしてじゅうにん屋敷やしきじゅうにん火消ひけしなどともばれた[11]。10箇所かしょ火消ひけし屋敷やしき場所ばしょは、赤坂あかさか溜池ためいけ屋敷やしき赤坂あかさか御門みかど外屋敷とやしき飯田いいだ町屋敷まちやしき市ヶ谷いちがや御門みかど外屋敷とやしき小川おがわ町屋敷まちやしき御茶おちゃ水屋みずやじき半蔵はんぞう御門みかど外屋敷とやしき駿河台するがだい屋敷やしき八代やしろしま河岸かわぎし屋敷やしき四谷よつや御門みかどない屋敷やしきであった[11]

てい火消ひけしめいじられた旗本はたもとは、妻子さいしとともに火消ひけし屋敷やしき居住きょじゅうした。火消ひけし屋敷やしきやく3000つぼひろ敷地しきちち、緊急きんきゅう出動しゅつどうよううま準備じゅんびされていた。敷地しきちないには3たけやく9.1m)の見櫓みやぐらもうけられ、合図あいずのため太鼓たいこ半鐘はんしょうがそなえられていた。この火消ひけし屋敷やしきが、現在げんざい消防署しょうぼうしょ原型げんけいである。屋敷やしきないには臥煙がえん寝起ねおきする詰所つめしょがあり、よるにはながい1ほん丸太まるたまくらとしてならんで就寝しゅうしんした。よる火事かじ連絡れんらくはいると、不寝番ふしんばんがこの丸太まるたはしづちはたき、臥煙がえん一斉いっせいこして出動しゅつどうした。出動しゅつどうたっては火事かじ装束しょうぞくにつけ、まといばん先頭せんとうて、騎馬きばてい火消ひけし与力よりきつづいて同心どうしん臥煙がえんという順番じゅんばん隊列たいれつみ、火事場かじばかった。

とおる改革かいかく

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徳川とくがわ吉宗よしむね

江戸えど時代じだい中期ちゅうきはいり、8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね時代じだいには、とおる改革かいかくおこなわれた。改革かいかくでは消防しょうぼう制度せいど見直みなおしも実施じっしされ、所々しょしょ火消ひけし方角ほうがく火消ひけし改編かいへん火事場かじばまわりやく新設しんせつなどがおこなわれた。さらに、しょ大名だいみょう自衛じえい消防しょうぼう組織そしきである各自かくじ火消ひけしたいし、近所きんじょ火事かじ出動しゅつどう義務ぎむ拡大かくだいするなど、武家ぶけ消防しょうぼう体制たいせい強化きょうかされた。町人ちょうにん火事かじたいするおおきな改革かいかくとしては、大岡おおおか忠相ただすけ主導しゅどうした、町人ちょうにん消防しょうぼう組織そしきである町火消まちびけし制度せいどがあげられる(後述こうじゅつ町火消まちびけし参照さんしょう)。

各自かくじ火消ひけし

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各自かくじ火消ひけし(かくじびけし)は、しょ大名だいみょう自身じしん組織そしきした火消ひけし

はじまりは自身じしん大名だいみょう屋敷やしき防火ぼうか消火しょうかするための消防しょうぼう組織そしきであり、はやくから存在そんざいしていた[注釈ちゅうしゃく 10]天和てんわ元年がんねん1681ねん)ごろから、近所きんじょ火事かじきた場合ばあい家来けらい消火しょうかさせるよう幕府ばくふから指示しじていたが、とおる2ねん1717ねん)、近隣きんりん火事かじたいする出動しゅつどう義務付ぎむづけられ、近所きんじょ火消ひけし(きんじょびけし)ともばれた。よく3ねんには、上屋敷かみやしきだけでなく、中屋敷なかやしき下屋敷しもやしきからも出動しゅつどうするようにめいじられている。さだめられた出動しゅつどう範囲はんいによりさん町火消まちびけし町火消まちびけしはち町火消まちびけしなどの別称べっしょうもあった[注釈ちゅうしゃく 11]大名だいみょう縁戚えんせき屋敷やしき菩提寺ぼだいじへ、範囲はんいえてけつける場合ばあいは、見舞みまい火消ひけし(みまいびけし)としょうしたという[16]

各自かくじ火消ひけし大名だいみょう火消ひけし)としては、3くみゆうした加賀かがはん前田まえだ加賀かがとんび(かがとび、喧嘩けんかとんび)が、その派手はで装束しょうぞく比類ひるいないはたらきぶりで有名ゆうめいである[17]加賀かがとんび行列ぎょうれつ歌川うたがわ豊国ほうこく歌川うたがわ国芳くによしにより浮世絵うきよえとしてえがかれた。また、河竹かわたけ黙阿弥もくあみさく歌舞伎かぶき演目えんもくめくら長屋ながやうめ加賀かがとんび』にも登場とうじょうしている。

旗本はたもとたいしては、とおる7ねん1722ねん)に飛火とびひぼう組合くみあい(とびひふせぎくみあい)65くみをつくらせ、組合くみあいないでの火事かじ出動しゅつどうするようめいじている。

幕末ばくまつにかけての武家ぶけ火消ひけし活動かつどう

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とおる改革かいかくによる町火消まちびけし確立かくりつ幕末ばくまつにかけて江戸えど消防しょうぼう体制たいせい武家ぶけ火消ひけし主体しゅたいから町火消まちびけし主体しゅたいへと移行いこうしていく。もとぶん元年がんねん1736ねん以降いこう方角ほうがく火消ひけし江戸城えどじょう風上かざかみ火事かじ大火たいか場合ばあいのみ出動しゅつどうあらためられる。寛政かんせい4ねん1792ねん)には、てい火消ひけし町人ちょうにん出動しゅつどうしないことになった(かぜつよきた火事かじのみは例外れいがいであった)。文政ぶんせい2ねん1819ねん)にはてい火消ひけし出動しゅつどう範囲はんい江戸えど郭内かくない限定げんていされ、かくがい町火消まちびけし担当たんとうとなった。こうした武家ぶけ火消ひけし出動しゅつどう範囲はんい減少げんしょうは、町火消まちびけし能力のうりょく幕府ばくふみとめられたためであった。

黒船くろふね来航らいこうから2ねん安政あんせい2ねん1855ねん)、てい火消ひけしが2くみ削減さくげんされて8くみとなる。文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)には方角ほうがく火消ひけし火事場かじばまわりやく廃止はいしされ、所々しょしょ火消ひけし削減さくげんされて担当たんとうが11箇所かしょから3箇所かしょとなった。慶応けいおう2ねん1866ねん)にはてい火消ひけし8くみ半減はんげんされて4くみに、よく慶応けいおう3ねんには1くみ128めいのみの構成こうせいとなり、江戸えど消防しょうぼう体制たいせい町火消まちびけし全面ぜんめんてき依存いぞんするようになる。このてい火消ひけし大幅おおはば削減さくげんは、幕府ばくふ洋式ようしき軍備ぐんび拡大かくだい原因げんいんであり、大名だいみょう火消ひけし削減さくげん文久ぶんきゅう改革かいかくによる参勤交代さんきんこうたい緩和かんわ原因げんいんであった[注釈ちゅうしゃく 12]

明治めいじ元年がんねん1868ねん)、しん政府せいふによって武家ぶけ火消ひけしはすべて廃止はいしされ、わりの消防しょうぼう組織そしきとして火災かさい防御ぼうぎょたいもうけられた。火災かさい防御ぼうぎょたい兵部ひょうぶしょう所属しょぞくし、すめらぎじょう江戸城えどじょう)の消防しょうぼう担当たんとうするとさだめられたが、翌年よくねんには廃止はいしされている。

江戸えど町火消まちびけし

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みせ火消ひけし

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みせ火消ひけし(たなびけし)は、町人ちょうにん自身じしん組織そしきした火消ひけし[注釈ちゅうしゃく 13]

幕府ばくふ町人ちょうにん火事かじたいし、慶安けいあん元年がんねん1648ねん)に「かくまち人足ひとあしを10にんずつそなえておくこと、消火しょうか参加さんかしたものには褒美ほうびを・参加さんかしなかったものにはばちあたえる(要約ようやく)」とのさわした。こうして火事かじさい動員どういんされた町人ちょうにんみせ火消ひけしあるいは駆付かけつけ火消ひけし(かけつけびけし)と[19]。しかし、武家ぶけ火消ひけしのように制度せいどされたものではなかった。

あかりれき大火たいか万治まんじ元年がんねん1658ねん)、みなみ伝馬てんままちなど23まち火消ひけし人足ひとあし167にんあつめ、共同きょうどう消火しょうかたるめの火消ひけし組合くみあいもうける[20]。この火消ひけし人足ひとあし町名ちょうめいしるしのついた羽織はおり着用ちゃくようするなど、町火消まちびけし原型げんけいといえる。幕府ばくふもこの火消ひけし組合くみあいみとめ、地域ちいきにも同様どうよう活動かつどうもとめた。しかし、火消ひけし人足ひとあし常時じょうじやといは負担ふたんおおきいことから、23まち以外いがいにはひろがりをせなかった。

町火消まちびけし

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名所めいしょ江戸えどひゃくけいより「馬喰ばくろまち初音はつね馬場ばば中央ちゅうおう町火消まちびけし見櫓みやぐら[10]

町火消まちびけし(まちびけし)は、だい8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね時代じだいにはじまる町人ちょうにんによる火消ひけしほとんどが身体しんたい能力のうりょくたか鳶職とびしょく構成こうせいされた。

財政ざいせい安定あんてい目標もくひょうひとつとなったとおる改革かいかくにおいて、火事かじによる幕府ばくふ財政ざいせいへの悪影響あくえいきょうおおきいため、消防しょうぼう制度せいど確立かくりつ重要じゅうよう課題かだいとなった。とおる2ねん1717ねん)にみなみ町奉行まちぶぎょうとなった大岡おおおか忠相ただすけは、よく3ねん名主なぬしたちや徳川とくがわ吉宗よしむねおおやけ信任しんにんあつかったとき儒学じゅがくしゃ荻生おぎゅう徂徠そらい意見いけんれ、火消ひけし組合くみあい組織そしき目的もくてきとした町火消まちびけし設置せっちれいす。町火消まちびけし町奉行まちぶぎょう指揮しきにおかれ、その費用ひようかくまち負担ふたんするとさだめられた。これにより、火事かじさいには1まちにつき30にんずつ、火元ひもとから風上かざかみの2まちふうわき左右さゆう2まちけい6まち180にん体制たいせい消火しょうかたることになった。しかし、まちひろさや人口じんこうにはおおきながあり、地図ちずじょう地域ちいきりをおこなったものの、混乱こんらんするばかりでうまく機能きのうしなかった。

とおる5ねん1720ねん)、地域ちいきりを修正しゅうせいし、やく20まちごとを1くみとし、隅田川すみだがわから西にし担当たんとうするいろはぐみ47くみと、ひがし本所ほんじょ深川ふかがわ担当たんとうする16くみ町火消まちびけしもうけられた。同時どうじ各組かくくみ目印めじるしとしてそれぞれまとい(まとい)とのぼり(のぼり)をつくらせた。これらは混乱こんらんする火事場かじばでの目印めじるしにするという目的もくてきがあったが、次第しだい各組かくくみ象徴しょうちょうするものとなっていった。とおる15ねん1730ねん)には、いろは47くみ一番いちばんぐみからじゅう番組ばんぐみまで10のだいぐみけ、だいまといあたえて統括とうかつし、よりおおくの火消ひけし人足ひとあし火事場かじばあつめられるように改編かいへんした。一方いっぽうかくまちごとの火消ひけし人足ひとあしかず負担ふたん考慮こうりょして15にん半減はんげんされ、町火消まちびけし全体ぜんたいでの定員ていいんは17596にんから9378にんとなった[21]

のちに、「んぐみ」に相当そうとうする「本組ほんぐみ」がさん番組ばんぐみくわわっていろはよんはちくみとなり、本所ほんじょ深川ふかがわの16くみきたぐみ中組なかぐみ南組みなみぐみの3くみけて統括とうかつされた。もとぶん3ねん1738ねん)にはだいぐみのうち、くみ名称めいしょうわるいとしてよん番組ばんぐみ番組ばんぐみに、なな番組ばんぐみろく番組ばんぐみ吸収きゅうしゅう合併がっぺいされ、だいぐみは8くみとなった。このとし定員ていいんは10642にんで、そのうち鳶人足とびにんそくが4077にんてん人足ひとあしが6565にんであった[22]鳶人足とびにんそくみせ人足ひとあしちがいについては後述こうじゅつ)。

町火消まちびけし毎年まいとし正月しょうがつの1がつ4にちに、各組かくくみ町内ちょうない梯子乗はしごの木遣きや披露ひろうする初出しょしゅつ(はつで)をおこなった。これは、てい火消ひけしおこなっていた出初でぞめならってはじめられたものである。

 
いろはぐみとそのまとい落合おちあいかおるいく

いろはぐみ

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いろはよんはちくみは、いろは文字もじをそれぞれのくみ名称めいしょうとした(「いぐみ」「ろぐみ」「めぐみ」など)。いろは文字もじのうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「ひゃく」「せん」「まん」「ほん」にえて使用しようされた。これは、くみ名称めいしょうが「へ=」「ら=」「ひ=」「わり」につうじることをきらったためであるという[注釈ちゅうしゃく 14]。いろはよんはちくみのうち、「めぐみ」は文化ぶんか2ねん(1805ねん)に「ぐみ喧嘩けんか」をこしたことでられ、明治めいじ時代じだいには竹柴たけしばはじめすいさく歌舞伎かぶき演目えんもくかみ明恵あきえ和合わごう取組とりくみ』にもげられた。

はし火消ひけし

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町人ちょうにんにより組織そしきされた火消ひけしとしては、とおる7ねん1722ねん)に成立せいりつしたはし火消ひけし(はしびけし)もあげられる。これは橋台きょうだい商売しょうばいをしていた髪結床かみゆいどこに、橋梁きょうりょう消防しょうぼうめいじたものである。はし付近ふきんおおもうけられていた髪結床かみゆいどこみせは、粗末そまつなものがおお火事かじさい危険きけんがあるため、撤去てっきょするか地代じだい徴収ちょうしゅうしてはし防火ぼうか費用ひようてることが検討けんとうされていた。これにたい髪結床かみゆいどこ職人しょくにんたちは、自身じしん火消ひけし道具どうぐそろきょう防火ぼうか担当たんとうしたいともうる。町奉行まちぶぎょう大岡おおおか忠相ただすけはこのもうみとめ、髪結床かみゆいどこによるはし火消ひけし成立せいりつした。また、ちかくにはしのないやま髪結床かみゆいどこは、火事かじきたら南北なんぼく町奉行まちぶぎょうしょけつけることがめいじられた。

とおる20ねん1735ねん)、はし防火ぼうか担当たんとう町火消まちびけしへとわり、火事かじ場合ばあい髪結床かみゆいどこ職人しょくにんはすべて町奉行まちぶぎょうしょけつけることとなった。のちに天保てんぽう13ねん1842ねん)、天保てんぽう改革かいかくにより髪結床かみゆいどこ組合くみあい解散かいさんすると、町奉行まちぶぎょうしょへのけつけは名主なぬしたちにめいじられている[23]

幕末ばくまつにかけての町火消まちびけし活動かつどう

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町火消まちびけし出動しゅつどう範囲はんいは、当初とうしょ町人ちょうにん限定げんていされていた。しかしいろはぐみ成立せいりつには、町人ちょうにん隣接りんせつする武家ぶけ火事かじであり、められそうにない場合ばあい消火しょうかおこなうこととなった。とおる7ねん(1722ねん)には2まちやく218m)以内いない武家ぶけ屋敷やしき火事かじであれば消火しょうかすることがめいじられる。以降いこうとおる16ねん1731ねん)に幕府ばくふ施設しせつであるはま御殿ごてんかり米蔵よねぞう防火ぼうかが「すぐみ」などにめいじられたことをはじめ、各地かくち米蔵よねぞう金座きんざ神社じんじゃ橋梁きょうりょうなど重要じゅうよう消防しょうぼう町火消まちびけしめいじられていった。

のべとおる4ねん1747ねん)の江戸城えどじょうまる火災かさいにおいては、はじめて町火消まちびけし江戸城えどじょうないまで出動しゅつどうすることとなった。まる全焼ぜんしょうしたが、てい火消ひけし大名だいみょう火消ひけし消火しょうかした後始末あとしまつおこない、幕府ばくふから褒美ほうびあたえられた。以後いご天保てんぽう9ねん1838ねん)の西にしまる出火しゅっかどう15ねん1844ねん)の本丸ほんまる出火しゅっかなどで江戸城えどじょうない出動しゅつどうし、目覚めざましいはたらきをせたことにより、いずれも褒美ほうびあたえられている。

幕末ばくまつには、てい火消ひけしが1くみのみに改編かいへんされるなど武家ぶけ火消ひけし大幅おおはば削減さくげんされ、江戸えど消防しょうぼう活動かつどう完全かんぜん町火消まちびけしへとゆだねられた。さらに、町火消まちびけし活動かつどう消防しょうぼうのみにとどまらず、黒船くろふね来航らいこうには市中しちゅう警備けいびを、戊辰戦争ぼしんせんそうときには治安ちあん維持いじ活動かつどうおこなっている。また、元治もとはる元年がんねん1864ねん)の長州ちょうしゅう征討せいとうにおいて、長州ちょうしゅうはん江戸えど藩邸はんてい破壊はかい町火消まちびけしめいじられており、鳥羽とば伏見ふしみたたか敗北はいぼくには町火消まちびけし兵事へいじ訓練くんれんおこなうなど、衰退すいたいする幕府ばくふ兵力へいりょくとしてもうとするうごきもあった[注釈ちゅうしゃく 15]

明治めいじ5ねん1872ねん)、しん政府せいふによって町火消まちびけし消防しょうぼうぐみ39くみへとあらためられ、その活動かつどう現在げんざい消防しょうぼうだんへとつながっていく。のちに大正たいしょう元年がんねん1912ねん)、町火消まちびけし成立せいりつ以降いこう殉職じゅんしょくした火消ひけし慰霊いれい顕彰けんしょう目的もくてきとし、浅草寺せんそうじに「消防しょうぼう殉職じゅんしょくしゃ表彰ひょうしょう」が建立こんりゅうされた。だい2世界せかい大戦たいせんまでは11月3にちに、戦後せんごは5月25にち慰霊いれいさいおこなわれている[注釈ちゅうしゃく 16]


江戸えど以外いがいでの火消ひけし

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江戸えど以外いがい大都市だいとしかくはん城下町じょうかまちでも、火消ひけし存在そんざいしたが、江戸えどのようにだい規模きぼ制度せいどされたものとはならなかった[よう出典しゅってん]

金沢かなざわ

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例外れいがいてき加賀かがはん前田まえだ本国ほんごく金沢かなざわまちでは、1000せき以上いじょう藩士はんし10めい火消役ひけしやくとし、見櫓みやぐらそなえた屋敷やしき常時じょうじ火事かじ装束しょうぞく待機たいきさせるなど、消防しょうぼう組織そしき整備せいびされていた。町内ちょうないには82箇所かしょもの梯子はしごもうけられ、家々いえいえ屋根やねにはみずれる天水てんすいおけ常備じょうびされていた。かぜつよには町人ちょうにん男女だんじょわず用心ようじん巡回じゅんかいをさせるなど、江戸えどよりもすすんだ防火ぼうか体制たいせいがとられていた。江戸えどにおいて加賀かがとんび活躍かつやくした背景はいけいには、こうした加賀かがはん充実じゅうじつした防災ぼうさい制度せいどがあるという[26]

京都きょうと

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京都きょうと消防しょうぼう体制たいせいは、京都きょうと所司代しょしだいおよ町奉行まちぶぎょうしょ指揮しき町人ちょうにん出動しゅつどうする町火消まちびけし近隣きんりんしょはんによる京都きょうと火消ひけし京都きょうとつね火消ひけしなどがあったが、時期じきにより制度せいど変遷へんせんがある。安永やすなが8ねん(1779ねん)11月には、町奉行まちぶぎょうしょせんもん火消ひけし人足ひとあし雇用こようする町奉行まちぶぎょうしょ火消ひけし制度せいど発足ほっそくし、町奉行まちぶぎょうしょ指揮しき町火消まちびけし制度せいど廃止はいしされたが、その町人ちょうにん防火ぼうか活動かつどうをすることがなくなったわけではない。[27]

五重塔ごじゅうのとうのぞけば当時とうじ日本にっぽん最大さいだい建築けんちくぶつであった京都きょうと方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでんは、落雷らくらいにより寛政かんせい10ねん(1798ねん)に焼失しょうしつしたが、その過程かていは「らく東大とうだい仏殿ぶつでん出火しゅっか(国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター所蔵しょぞう)」に絵図えず記録きろくされており、その絵図えずでは火消ひけたち懸命けんめい消火しょうか活動かつどうにあたる姿すがたえがかれている。[28]

東京とうきょう

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明治維新めいじいしん東京とうきょう江戸えど)では町火消まちびけし消防しょうぼうぐみ改編かいへん制度せいどしていたが、全国ぜんこくてき統一とういつされた規則きそくつくられなかった。そのため、東京とうきょう以外いがいでの消防しょうぼう組織そしきは、かく市町村しちょうそん条例じょうれいにより、あるいは私的してきもうけられていた。この状態じょうたいは、明治めいじ27ねん1894ねん)に消防しょうぼうぐみ規則きそく制定せいていされ、警察けいさつ署長しょちょう監督かんとくする官設かんせつ消防しょうぼうぐみ誕生たんじょうするまでつづいた[29]

火消ひけし人足ひとあし

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臥煙がえん(がえん、けむり)はてい火消ひけしかかえられた火消ひけし人足ひとあしてい火消ひけし火事場かじばおこなう消火しょうか活動かつどう主力しゅりょくである。消防しょうぼうのためにやとわれた丸抱まるがかえであり、とんびなどの本業ほんぎょうっていた町火消まちびけし火消ひけし人足ひとあしとはことなる。火事場かじば死亡しぼうした臥煙がえんは、四谷よつやにあったけむりてら現存げんそんしていない)にほうむられた[30]真冬まふゆでも法被はっぴ1まいごし、全身ぜんしんものをしたものがおおかった。普段ふだん火消ひけし屋敷やしき大部屋おおべやらしていたが、博打ばくち喧嘩けんか騒動そうどうこすこともあった。臥煙がえんかなら江戸えどでなければ採用さいようされず、まげやつ銀杏いちょう(やっこいちょう)という、特殊とくしゅいきかたをした。出動しゅつどうときには、しろ足袋たびに、真新まあたらしいろくしゃくをつけ、半纏はんてんいちまいだけですらもない。

また、まちては商家しょうかぜに緡(ぜにさし)[注釈ちゅうしゃく 17]りし、購入こうにゅうしなかった商家しょうかたいしては報復ほうふくとして、火事かじのときに騒動そうどうまぎれその家屋かおく破壊はかいするなど、町人ちょうにんには評判ひょうばんわる存在そんざいであった。

みせ人足ひとあし鳶人足とびにんそく

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町火消まちびけし構成こうせいいんは、当初とうしょてん店子たなこ)・奉公人ほうこうにんなど、みせ人足ひとあし(たなにんそく)とばれる一般いっぱん町人ちょうにんであった。これは、とおる4ねん1719ねん)に名主なぬしたいし、鳶職とびしょくじんやとわないようにとのさわされていたためである[注釈ちゅうしゃく 18]。しかし、江戸えど時代じだい消火しょうか活動かつどうは、延焼えんしょうふせぐため火災かさい付近ふきんから建物たてもの破壊はかいしていくという破壊はかい消防しょうぼうおもであり、一般いっぱん町人ちょうにんよりも鳶職とびしょくじん適性てきせいがあることはあきらかであった。名主なぬしたちの、大勢おおぜいみせ人足ひとあしすよりも少数しょうすうとんびしたほう有効ゆうこうであるとのうったえもあって、町火消まちびけし中心ちゅうしんとんび生業せいぎょうとする鳶人足とびにんそく(とびにんそく)によって構成こうせいされるようになっていった[注釈ちゅうしゃく 19]

鳶人足とびにんそくたいしては、町内ちょうないからあしとめぜに[注釈ちゅうしゃく 20]をはじめ、頭巾ずきん法被はっぴ股引ももひきなどの火事かじ装束しょうぞく支給しきゅうされていた。また、火事かじ出動しゅつどうした場合ばあいにはあしとめぜにとはべつ手当てあてが支給しきゅうされた。火事かじこると、さだめられた火消ひけし人足ひとあしのうちからまず鳶人足とびにんそく出動しゅつどうさせ、大火たいか場合ばあいのこりのみせ人足ひとあし出動しゅつどうさせた。

町火消まちびけし構成こうせい

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町火消まちびけし町奉行まちぶぎょう指揮しきかれ、町火消まちびけし統率とうそつする頭取とうどり(とうどり、人足ひとあし頭取とうどり)、いろはぐみなどの各組かくくみ統率とうそつするあたま(かしら、組頭くみがしら)、まとい梯子はしごわせて道具どうぐ)、たいらじん(ひらびと、鳶人足とびにんそく)、土手どてぐみ(どてぐみ、しも人足ひとあし火消ひけしかずにはふくまれない)といった構成こうせいになっていた。頭取とうどりにはいちろうろう御職おしょく階級かいきゅうがあり、御職おしょく顔役かおやくともばれ、江戸えどちゅうひろられる存在そんざいであった。江戸えど全体ぜんたいやく270にんいた頭取とうどり[注釈ちゅうしゃく 21]は、力士りきし与力よりきならんで江戸えど三男さんなん(えど・さんおとこ)とばれ人気にんきがあり、江戸えど代表だいひょうでもあった[33]

火消ひけし人足ひとあしによる喧嘩けんかは、火事場かじばでの喧嘩けんかと、火事かじとは無関係むかんけい喧嘩けんかとに大別たいべつできる。前者ぜんしゃ火消ひけし人足ひとあし同士どうしによる消火しょうか活動かつどう功名こうみょうあらそいがおも原因げんいんであり、消口けしくちあらそ(けしくちあらそい)とばれた。後者こうしゃ火消ひけし人足ひとあし気性きしょうあらさや地元じもとでの縄張なわば意識いしきなどが原因げんいんであり、喧嘩けんか相手あいておな火消ひけし人足ひとあしとはかぎらない。町火消まちびけし同士どうしでの喧嘩けんかでは、死者ししゃたり、仲直なかなおりのため多大ただい費用ひようをかけた手打てうちしきおこなわれたりと、おおきなさわぎになることも度々どどであった。文政ぶんせい元年がんねん1818ねん)の「ちぐみ」と「をくみ」の手打てうちしきでは、両国りょうこく座敷ざしきげ、江戸えどちゅう組合くみあいから1000にんえる人々ひとびとあつまり、められた作法さほう口上こうじょうによってあさから夕方ゆうがたまで盛大せいだいおこなわれている[5]

消口けしくちあらそ

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火消ひけし火事場かじば到着とうちゃくすると、くみ名前なまえいた木札きふだけしさつ、けしふだ)を近所きんじょ軒先のきさきかかげ、まとい屋根やねのぼらせて集合しゅうごう目印めじるしにするとともに、だれ活動かつどうしているのかをらしめた。けしさつ褒美ほうびけるときの証拠しょうこでもあったため、からけつけたにもかかわらず自身じしんくみさつ勝手かってえるもの、まとい屋根やねから無理むりやりろして自身じしんくみ火事場かじばろうとするものなどがあらわれ、肝心かんじん消火しょうか活動かつどうをせずに喧嘩けんかをはじめることも頻繁ひんぱんであった。幕府ばくふはしばしばさわして火事場かじばでの喧嘩けんか禁止きんししたが、江戸えど時代じだい初期しょきには武家ぶけ火消ひけし同士どうしで、町火消まちびけし誕生たんじょう武家ぶけ火消ひけし町火消まちびけしで、武家ぶけ火消ひけし衰退すいたいすると町火消まちびけし同士どうしで、といった具合ぐあい功名こうみょうあらそいはえず、喧嘩けんかがなくなることはなかった。

とおる3ねん1718ねん)、てい火消ひけし加賀かがとんびあいだきた喧嘩けんかでは、現場げんばでの消口けしくちあらそいからはじまり、死者ししゃしたてい火消ひけしがわ仙石せんごく兵庫ひょうご加賀かが藩主はんしゅ前田まえだ綱紀つなのり賠償ばいしょうもとめる事態じたいとなる。老中ろうじゅうへのうったえ、町奉行まちぶぎょう大岡おおおか忠相ただすけによる調査ちょうさつづき、最終さいしゅうてきには将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね仙石せんごく兵庫ひょうご厳重げんじゅう注意ちゅういあたえる結末けつまつ[注釈ちゅうしゃく 22]となる、だい騒動そうどうであった。

ぐみ喧嘩けんか

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文化ぶんか2ねん1805ねん正月しょうがつしば神宮じんぐう境内けいだいおこなわれていた勧進かんじん相撲すもう見物けんぶつで、鳶人足とびにんそく入場にゅうじょうめぐってはじまった[注釈ちゅうしゃく 23]あらそいは、力士りきしじゅうすうにんとめぐみ火消ひけし人足ひとあし100にん以上いじょうとの喧嘩けんか発展はってんした。

この喧嘩けんかおおきな話題わだいとなり、文政ぶんせい5ねん1822ねん)の市村いちむら曾我そがうるう正月しょうがつ』・明治めいじ5ねん1872ねん)の中村なかむら恋慕れんぼ相撲すもうはるがおさわ』・明治めいじ23ねん1890ねん)の新富しんとみかみ明恵あきえ和合わごう取組とりくみ』と、3にわたって芝居しばいされた。

火消ひけし道具どうぐ

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詳細しょうさいはそれぞれの内部ないぶリンクを参照さんしょう

まとい火事かじ装束しょうぞく

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ぐみまとい東映太秦映画村とうえいうずまさえいがむら再現さいげんされたもの)

まとい(まとい)は、江戸えど消防しょうぼうのシンボルであり、「まといした」とわれることすらあった[34]。もともとは、武士ぶし戦場せんじょうかかげていた家紋かもんつきの旗印はたじるし馬印うまじるし由来ゆらいするものである。当初とうしょのぼりがたまとい使用しようされていたが、のちに陀志(だし)とばれるおおきな頭部とうぶぶんと、馬簾ばれん(ばれん、まとい周囲しゅうい細長ほそなが厚紙あつがみかわしだげたもの)をそなえたかたわっている。各組かくくみ象徴しょうちょうするものとして様々さまざまなものがあり、豊臣とよとみ秀吉ひでよしから拝領はいりょうしたという伝承でんしょうのあった加賀かがとんびまといや、大岡おおおか忠相ただすけ考案こうあんまるだま四角よつかどだいわせた「いぐみ」のまとい[注釈ちゅうしゃく 24]などがあげられる。

 
火事かじ頭巾ずきん メトロポリタン美術館びじゅつかん

大名だいみょう火消ひけし火事かじ装束しょうぞくは、あたま火事かじ頭巾ずきん火事かじかぶと)、身体しんたいにはかわ羽織はおり胸当むねあて踏込ふみこめ(ふんごみ、あるいは野袴のばかま)といったものである。

 
かわ羽織はおり ランス美術館びじゅつかんぞう

火事かじ頭巾ずきんには豪華ごうかだてぶつや錣(しころ)がけられ、かわ羽織はおりには金糸きんし縁取へりとりや派手はで彩色さいしきほどこされるなど、華美かびであった。町火消まちびけし盛装せいそうは、しるし半天ばんてん腹掛はらがけ股引ももひきなどである。火事場かじばへはさらに刺子さしこ頭巾ずきんねこ頭巾ずきん部分ぶぶんだけがひらいている)、膝下ひざもとまである刺子さしこちょう半天ばんてんなどを出動しゅつどうした。半天ばんてん背中せなかにはくみもんが、えりにはくみめいめつけられていた。刺子さしこちょう半天ばんてんには裏地うらじ錦絵にしきえふう模様もようをつけた豪華ごうかなものもあったが、天保てんぽう改革かいかくによって規制きせいされている。

 
西にしとうおにわかまる刺子さしこちょう半天ばんてんギメ東洋とうよう美術館びじゅつかんぞう

消防しょうぼう用具ようぐ見櫓みやぐら

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水鉄砲みずでっぽう
 
江戸えど町中まちなか常設じょうせつされていた消防しょうぼうようおけ深川ふかがわ江戸えど資料しりょうかん

火事場かじばでは、消火しょうかのため様々さまざま道具どうぐもちいられた。梯子はしごは、はしご子持こもちばれたたいら鳶人足とびにんそくより上位じょういのものがあつかい、屋根やねのぼったりすいはこげる足場あしばとして使用しようされた。えにくいように、みずふくんだ青竹あおだけあたらしいものでつくられていた。

鳶口とびぐち(とびぐち)・とげまた(さすまた、ゆび俣)・のこなどは、火元ひもと周囲しゅうい建物たてもの破壊はかい延焼えんしょうふせぐために使用しようされた。鳶口とびぐちは、火消ひけしかならっていた道具どうぐとしてあげられ、しばしば喧嘩けんかにももちいられたため、幕府ばくふによってながさに制限せいげんもうけられていた。

竜吐水りゅうどすい(りゅうどすい)・どくりゅうすい(どくりゅうすい)・水鉄砲みずでっぽう玄蕃げんばおけ(げんばおけ、2人ふたりかつ大桶おおおけ)などは、みず火元ひもと直接ちょくせつかけたり、火消ひけし人足ひとあしみずをかけたりするために使用しようされた。竜吐水りゅうどすい木製もくせい押ポンプで、空気くうき圧力あつりょくもちすいを15mほどばすことができた。しかし、継続けいぞくてきみず供給きょうきゅうすることがむずかしく、それほど消火しょうかやくにたたなかったという。

そのほか、はら延焼えんしょうふせぐためのだい団扇うちわみずむしろ(みずむしろ、海草かいそうつくられみずひたして使つかう。ぬらすためにみずばこばれるものを使用しようした)なども火事場かじばもちいられた。

火事かじ早期そうき発見はっけんするためにもうけられた設備せつびとして、見櫓みやぐら梯子はしごがある。発見はっけんした火事かじらせたり、出動しゅつどう合図あいずとしては半鐘はんしょう板木はんぎ使用しようされ、火事場かじば遠近えんきんなどによってはたかたさだめられていた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 火消ひけし」という「し」をけた表記ひょうき幅広はばひろもちいられているが、参考さんこう文献ぶんけんであげた書籍しょせき基本きほんてきに「火消ひけし」の表記ひょうき採用さいようしているため、ほんこうでは冒頭ぼうとうぶんのぞき「火消ひけし」に統一とういつする。
  2. ^ 火事かじ回数かいすうについては研究けんきゅうしゃにより差異さい存在そんざいする。ここでは『江戸えど火事かじ』P.3の記述きじゅつ参考さんこう回数かいすう引用いんようした。
  3. ^ 火事かじまぎれての兵乱へいらんなどが警戒けいかいされ、治安ちあん維持いじ優先ゆうせんしていた[2]
  4. ^ 所々ところどころ火消ひけし方角ほうがく火消ひけし各自かくじ火消ひけしなどは、この大名だいみょう火消ひけし一種いっしゅである。
  5. ^ 水谷みずたに勝隆かつたか伊東いとう祐久ゆうく加藤かとう泰興たいこうなどにめいじられている。よく正保まさやす元年がんねん1644ねん)には10いえ3くみに、正保しょうほう3ねんには9いえ3くみに、慶安けいあん2ねん1649ねん)には10いえ3くみにと編成へんせいわっていく[6]
  6. ^ 犠牲ぎせいしゃかずは10まんにんだいとのせつもあるが、ここでは内閣ないかく防災ぼうさい部門ぶもん中央ちゅうおう防災ぼうさい会議かいぎ災害さいがい教訓きょうくん継承けいしょうかんする専門せんもん調査ちょうさかい」による平成へいせい16ねん3がつ報告ほうこくしょ[1]人数にんずうをあげた。
  7. ^ 大名だいみょう屋敷やしき見櫓みやぐら建築けんちくには制限せいげんがあり、方角ほうがく火消ひけしでは3たけやく9.1m)、それ以外いがい大名だいみょうでは建築けんちくゆるされた場合ばあいでも2たけ5しゃくやく7.6m)までであった[9]
  8. ^ 慶安けいあん3ねん1650ねん)、4000せき以上いじょう旗本はたもと2めい火消役ひけしやく任命にんめいしたことをてい火消ひけしのはじまりとするせつもある。1658ねんせつ-『江戸えど火事かじ』『江戸えどがく事典じてん』など、1650ねんせつ-『江戸えど火事かじ火消ひけし』『しん消防しょうぼう雑学ざつがく事典じてんていばん』など。
  9. ^ てい火消ひけし削減さくげん理由りゆうは、江戸えど幕府ばくふ財政難ざいせいなんにある。わって八王子はちおうじせんにん同心どうしん火消役ひけしやくめいじられたが、おおきな活動かつどうはなくやがて廃止はいしされた[14]
  10. ^ 米沢よねざわはん上杉うえすぎ場合ばあい、『上杉うえすぎ年譜ねんぷ寛永かんえい18ねん1641ねん)に火事かじ老中ろうじゅう奉書ほうしょにより出動しゅつどうした記録きろくで「防火ぼうかあたま」「火消ひけしかた」などの記述きじゅつられる[15]
  11. ^ この場合ばあいの「まち」は尺貫法しゃっかんほう単位たんいであり、1まちやく109m。
  12. ^ 参勤交代さんきんこうたいが3ねんに1江戸えど在留ざいりゅう期間きかんも100にちとなり、人質ひとじちであった大名だいみょう妻子さいし帰国きこくゆるされたため、江戸えど藩邸はんてい人員じんいん大幅おおはば減少げんしょう火消役ひけしやく維持いじできなくなった[18]
  13. ^ みせ火消ひけしかんしては、「なにをもってみせ火消ひけしぶか」「誕生たんじょう時期じき活動かつどう時期じきはいつか」などで諸説しょせつがある。「江戸えどにおけるみせ火消ひけし動向どうこう」では、みせ火消ひけしかんする研究けんきゅう不足ふそく指摘してきしたうえで、町火消まちびけし誕生たんじょう幕末ばくまつにいたるまで、みせ火消ひけし江戸えど消防しょうぼうおおきな役割やくわりたしていたとしている。
  14. ^ 「ひ」が「」につうじるためけられたことには異論いろんがないが、文字もじえられた理由りゆうとしては、語呂ごろわるいから・言葉ことばつうじるから・「ん」は元々もともといろは文字もじふくまれないから、といった様々さまざませつがある。よん番組ばんぐみなな番組ばんぐみ吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた理由りゆうも、「よん」「ななしつ」につうじるため、など諸説しょせつがある。詳細しょうさいについては参考さんこう文献ぶんけん外部がいぶリンクを参照さんしょう
  15. ^ このことにかんして、山本やまもと純美じゅんび著書ちょしょにおいて「本末転倒ほんまつてんとうもはなはだしい」「消防しょうぼう制度せいど誤用ごようめずらしいれい」とひょうしている[24]
  16. ^ 町火消まちびけし時代じだいから昭和しょうわ14ねん1939ねん)までの殉職じゅんしょくしゃ118にんしるされている[25]
  17. ^ 寛永かんえい通宝つうほうなどぜに中央ちゅうおうあなとおしてたばにするため使用しようする、ほそなわひものこと。
  18. ^ 翌年よくねんにはしょ大名だいみょうたいしても、火消ひけし人足ひとあしとして鳶職とびしょくじんやとわないようにとめいじている。これは、ごろからまち乱暴らんぼうはたらいたり、火事かじのときに遺恨いこんのあるものへ報復ほうふくするなど、とんび生業せいぎょうとする火消ひけし問題もんだい行動こうどうおおかったためである[31]
  19. ^ 「せぐみ」の場合ばあい火消ひけし人足ひとあし281にんを、鳶人足とびにんそく70にんえることがみとめられている[32]
  20. ^ 本業ほんぎょうとんび遠方えんぽう出向でむくことをきんじ、かぜつよなどには番屋ばんやめて警戒けいかいさせるための費用ひよう
  21. ^ 江戸えど火事かじ火消ひけし』P.63による。『江戸えど火事かじ』P.97ではひろし年間ねんかん頭取とうどりが177にんいたとしている。
  22. ^ 加賀かがとんび消火しょうかえかけたところに、仙石せんごく兵庫ひょうごくみんだとみとめられたため。
  23. ^ こうした興行こうぎょうでは、地元じもと鳶人足とびにんそくであれば入場にゅうじょう自由じゆうであったが、このときは地元じもと以外いがいのものをれて入場にゅうじょうしようとしたことがあらそいの原因げんいんである。
  24. ^ まるたま芥子からしだまで、四角よつかどだいますをあらわす。また、まるたまてんで、四角よつかどだいをあらわすという天地てんち陰陽いんようせつもある[35]

出典しゅってん

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  1. ^ 江戸えど火事かじ火消ひけし』P.23
  2. ^ 江戸えど火消ひけし制度せいど成立せいりつ展開てんかい」P.95
  3. ^ 消防しょうぼう博物館はくぶつかん歴史れきし案内あんない江戸えど火消ひけしへん武家ぶけ火消ひけし誕生たんじょう
  4. ^ 江戸えど火消ひけし制度せいど成立せいりつ展開てんかい」P.102
  5. ^ a b c 元禄げんろく武鑑ぶかん』による。(『江戸えどがく事典じてん』P.577)
  6. ^ 江戸えど火消ひけし制度せいど成立せいりつ展開てんかい」P.98
  7. ^ 初回しょかい任命にんめいいちくみ水谷みずたに勝隆かつたか伊東いとう祐久ゆうく亀井かめい茲政松平まつだいらえいおや 、くみ加藤かとう泰興たいこう京極きょうごく高和こうわ秋月あきづきたねはる松平まつだいら定房さだふさ さんくみ有馬ありまかんじゅん稲葉いなばおさむどおり木下きのした俊治しゅんじ青山あおやま幸利ゆきとし よんくみ稲葉いなば信通のぶみち古田ふるたしげるつね九鬼くき久隆ひさたか井上いのうえ正利まさとし
  8. ^ 江戸えど火事かじ火消ひけし』P.49
  9. ^ 江戸えど火事かじ』P.37
  10. ^ a b 江戸えど消防しょうぼう 創立そうりつじゅう周年しゅうねん記念きねん』P.74
  11. ^ a b c d e f g 白井しらい和雄かずお. “江戸えど時代じだい消防しょうぼう事情じじょう5”. 一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん 消防しょうぼう防災ぼうさい科学かがくセンター. 2020ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  12. ^ 江戸えど火消ひけし制度せいど成立せいりつ展開てんかい」P.100
  13. ^ 東京とうきょう消防しょうぼうひゃくねんあゆみ』P.21
  14. ^ 江戸えど事典じてん』P.43
  15. ^ 江戸えど火消ひけし制度せいど成立せいりつ展開てんかい」P.112
  16. ^ 江戸えど火事かじ』P.39
  17. ^ 江戸えどさん火消ひけし図鑑ずかん』P.196
  18. ^ 町火消まちびけしたちの近代きんだい』P.42
  19. ^ 黒木くろき 1999, p. 68.
  20. ^ 黒木くろき 1999, pp. 69–70.
  21. ^ 江戸えど火事かじ』P.82
  22. ^ 江戸えど火事かじ火消ひけし』P.59
  23. ^ 江戸えど火事かじ』P.90
  24. ^ 江戸えど火事かじ火消ひけし』P.93
  25. ^ 江戸えどさん火消ひけし図鑑ずかん』P.225
  26. ^ 江戸えど火事かじ火消ひけし』P.52
  27. ^ きょうのまちなみ
  28. ^ [https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832 国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター公式こうしきTwitter 蔵書ぞうしょ紹介しょうかい]
  29. ^ 町火消まちびけしたちの近代きんだい』P.146
  30. ^ 江戸えどさん火消ひけし図鑑ずかん』P.193
  31. ^ 町火消まちびけしたちの近代きんだい』P.18
  32. ^ 町火消まちびけしたちの近代きんだい』P.21
  33. ^ 江戸えど火事かじ』P.98
  34. ^ 江戸えどさん火消ひけし図鑑ずかん』P.197
  35. ^ 江戸えどさん火消ひけし図鑑ずかん』P.198

参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき

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  • 池上いけがみ彰彦あきひこ江戸えど火消ひけし制度せいど成立せいりつ展開てんかい」『江戸えどまちじん研究けんきゅう だい5かん西山にしやま松之助まつのすけへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1978ねん
  • 小沢おざわ詠美えいみ江戸えどにおけるみせ火消ひけし動向どうこう」『徳川とくがわ幕府ばくふきょ大都市だいとし江戸えど竹内たけうちまことへん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2003ねん
  • 加藤かとうたかへん江戸えど事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねん
  • 黒木くろきたかし江戸えど火事かじどうなりしゃ、1999ねん 
  • 社団しゃだん法人ほうじん江戸えど消防しょうぼう記念きねんかい江戸えど消防しょうぼう 創立そうりつじゅう周年しゅうねん記念きねん東京とうきょう消防庁しょうぼうちょう監修かんしゅう非売品ひばいひん、2004ねん
  • 鈴木すずきあつし町火消まちびけしたちの近代きんだい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1999ねん
  • 東京とうきょう消防庁しょうぼうちょう東京とうきょう消防しょうぼうひゃくねんあゆみ』東京とうきょう消防しょうぼうひゃくねん記念きねん行事ぎょうじ推進すいしん委員いいんかいへん非売品ひばいひん、1980ねん
  • 東京とうきょう消防庁しょうぼうちょう江戸えど火消ひけし研究けんきゅうかい監修かんしゅう江戸えどさん火消ひけし図鑑ずかん岩崎いわさき美術びじゅつしゃ、1988ねん
  • 西山にしやま松之助まつのすけへん江戸えどがく事典じてん弘文こうぶんどう、1994ねん
  • 山本やまもと純美じゅんび江戸えど火事かじ火消ひけし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1993ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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