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騎兵 きへい (きへい、英 えい : cavalry, trooper )は、兵種 へいしゅ の一 ひと つで、動物 どうぶつ 、主 おも に馬 うま に騎乗 きじょう して戦闘 せんとう 行動 こうどう を取 と る兵士 へいし である。最初 さいしょ はロバが使用 しよう されていたが、後 のち に馬 うま が主流 しゅりゅう になった[1] 。最古 さいこ の騎兵 きへい は動物 どうぶつ が曳行する戦車 せんしゃ に乗 の った兵士 へいし であった[2] が、後 のち に動物 どうぶつ に跨 またが る騎兵 きへい に移行 いこう していった[3] 。
シベリア出兵 しゅっぺい における大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 連隊 れんたい
現代 げんだい における騎兵 きへい の例 れい (スウェーデン の衛兵 えいへい )
騎兵 きへい は相対 そうたい 的 てき に高 たか い機動 きどう 力 ちから ・攻撃 こうげき 力 りょく を誇 ほこ り、作戦 さくせん の幅 はば を広 ひろ げ、偵察 ていさつ 、伝令 でんれい 、警戒 けいかい など後方 こうほう 支援 しえん でも活躍 かつやく した。また、軽 けい 騎兵 きへい ・重 じゅう 騎兵 きへい と分類 ぶんるい されることもあり、前者 ぜんしゃ は機動 きどう 力 りょく を、後者 こうしゃ は攻撃 こうげき 力 りょく 及 およ び防御 ぼうぎょ 力 りょく を重視 じゅうし している。狭義 きょうぎ には乗馬 じょうば したまま戦闘 せんとう するものだけを騎兵 きへい と呼 よ び、下馬 げば して戦闘 せんとう するものを乗馬 じょうば 歩兵 ほへい (mounted infantry) と呼 よ んで区別 くべつ することもある。
現代 げんだい では騎兵 きへい の任務 にんむ を引 ひ き継 つ いで装甲車 そうこうしゃ やヘリコプター に搭乗 とうじょう する機動 きどう 性 せい に富 と んだ部隊 ぶたい も「騎兵 きへい 」と呼 よ ぶことがある。
古代 こだい エジプト の戦車 せんしゃ 。
イッソスの戦 たたか い
有史 ゆうし に残 のこ る最古 さいこ の騎兵 きへい は、紀元前 きげんぜん 2500年 ねん 、メソポタミア のシュメール絵 え に描 えが かれた戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい である。最初 さいしょ は馬 うま の存在 そんざい が知 し られておらず、ロバが使用 しよう されていた[4] 。馬 うま にまたがる騎兵 きへい への移行 いこう は、新 しん アッシリア のレリーフに残 のこ されており、アッシュールナツィルパル2世 せい の治世 ちせい が最初 さいしょ である。裸馬 はだかうま に御者 ぎょしゃ が盾 たて を持 も ち、弓 ゆみ 兵 へい とまたがるもので速度 そくど は遅 おそ く、馬 うま の腎臓 じんぞう を傷 いた めた[3] 。
近年 きんねん 、ウクライナ のデレイフカ遺跡 いせき から出土 しゅつど した馬 うま の頭骨 とうこつ のうち、下 しも 顎骨 がっこつ の第 だい 二 に 前 まえ 臼歯 きゅうし が磨耗 まもう しているものが数 すう 体 たい 見 み つかっている。これは乗用 じょうよう 馬 ば に使用 しよう し第 だい 二 に 前 まえ 臼歯 きゅうし と接 せっ し摩耗 まもう 痕 こん を残 のこ す馬具 ばぐ であるハミ を咬 か ませていた事 こと を窺 うかが わせるもので、ハミ留 と め具 ぐ (鏡板 かがみいた )とも考 かんが えられている有 ゆう 孔 あな の鹿角 かつの 製品 せいひん とともに出土 しゅつど した。デレイフカ遺跡 いせき の馬 うま 遺体 いたい は騎乗 きじょう の技術 ぎじゅつ は紀元前 きげんぜん 4000年 ねん に既 すで に確立 かくりつ されていることを窺 うかが わせるものであるとする仮説 かせつ があり議論 ぎろん を呼 よ んだが、その後 ご 放射 ほうしゃ 性 せい 炭素 たんそ 年代 ねんだい 測定 そくてい により馬 うま 遺体 いたい の年代 ねんだい が紀元前 きげんぜん 8世紀 せいき 以降 いこう のスキタイ 期 き であることが指摘 してき され、発表 はっぴょう 者 しゃ は現在 げんざい 、騎乗 きじょう の推定 すいてい 開始 かいし 年代 ねんだい を1000年 ねん 以上 いじょう 下 さ げている。尚 なお 、乗用 じょうよう 馬 ば 以外 いがい の駄馬 だうま や農耕 のうこう 馬 ば など馬 うま を引 ひ いて歩 ある く時 とき にはハミ は必要 ひつよう にならない。
古代 こだい ギリシア では歩兵 ほへい による密集 みっしゅう 戦術 せんじゅつ が主流 しゅりゅう で、馬 うま は指揮 しき 官 かん が使 つか う補助 ほじょ 的 てき な役割 やくわり でしかなかった。近年 きんねん の研究 けんきゅう では既 すで に地中海 ちちゅうかい 世界 せかい では大型 おおがた の鞍 くら が発明 はつめい されており、旧 きゅう 説 せつ で言 い われているほどには騎乗 きじょう は困難 こんなん でなかったとは言 い われるが、鐙 あぶみ (あぶみ)が発明 はつめい されるまでは馬上 まけ で武器 ぶき を扱 あつか うのは困難 こんなん であり、幼 おさな い頃 ころ からの鍛練 たんれん が必要 ひつよう な特殊 とくしゅ 技能 ぎのう であった。中国 ちゅうごく やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕 のうこう 地域 ちいき では馬 うま を育 そだ てる事 こと に費用 ひよう が嵩 かさ むため、所有 しょゆう 出来 でき るのは金持 かねも ちや有力 ゆうりょく 者 しゃ に限 かぎ られていたようである。牧畜 ぼくちく を行 おこな って暮 く らしていたマケドニア 人 ひと の王 おう ピリッポス2世 せい は、マケドニア部族 ぶぞく の子弟 してい を集 あつ めた重 じゅう 騎兵 きへい 部隊 ぶたい (ヘタイロイ )や服属 ふくぞく させた周辺 しゅうへん 国 こく から徴募 ちょうぼ した軽 けい 騎兵 きへい 部隊 ぶたい を組織 そしき した。ピリッポス2世 せい の子 こ のアレクサンドロス大王 だいおう は徴発 ちょうはつ されたファランクスと騎兵隊 きへいたい による鉄床 かなとこ 戦術 せんじゅつ でアケメネス朝 あさ ペルシャを滅 ほろ ぼし広大 こうだい な領域 りょういき を征服 せいふく したが、スキタイの騎兵 きへい には苦戦 くせん を強 し いられ撤退 てったい を余儀無 よぎな くさせられた。
アジアでは、紀元前 きげんぜん 20世紀 せいき 頃 ごろ から中国 ちゅうごく のオルドス や華北 かほく へ遊牧民 ゆうぼくみん の北狄 ほくてき が進出 しんしゅつ し、周囲 しゅうい の農耕 のうこう 民 みん との交流 こうりゅう や戦争 せんそう による生産 せいさん 技術 ぎじゅつ の長足 ちょうそく の進歩 しんぽ が見 み られ馬具 ばぐ や兵器 へいき が発達 はったつ 、後 のち に満州 まんしゅう からウクライナまで広 ひろ く拡散 かくさん する遊牧 ゆうぼく 文化 ぶんか や馬具 ばぐ 等 とう が発展 はってん した。
匈奴 きょうど ・スキタイ ・キンメリア等 とう の遊牧民 ゆうぼくみん (騎馬 きば 遊牧民 ゆうぼくみん )は、騎兵 きへい の育成 いくせい に優 すぐ れ、騎馬 きば の機動 きどう 力 りょく を活 い かした広 ひろ い行動 こうどう 範囲 はんい と強力 きょうりょく な攻撃 こうげき 力 りょく で、しばしば中国 ちゅうごく 北部 ほくぶ やインド 北西 ほくせい 部 ぶ 、イラン 、アナトリア 、欧州 おうしゅう の農耕 のうこう 地帯 ちたい を脅 おど かした。遊牧民 ゆうぼくみん は騎射 きしゃ の技術 ぎじゅつ に優 すぐ れており、パルティア ・匈奴 きょうど ・スキタイ等 とう の遊牧民 ゆうぼくみん の優 すぐ れた騎乗 きじょう 技術 ぎじゅつ は農耕 のうこう 民 みん に伝 つた わっていったが、遊牧民 ゆうぼくみん は通常 つうじょう の生活 せいかつ と同様 どうよう 、集団 しゅうだん の騎馬 きば 兵 へい として戦 たたか ったのに対 たい し、農耕 のうこう 民 みん では車 くるま を馬 うま に引 ひ かせた戦車 せんしゃ を使 つか うことが多 おお かった。
共和 きょうわ 政 せい ローマ はカルタゴ のハンニバル 率 ひき いる各国 かっこく 傭兵 ようへい 隊 たい に、騎兵 きへい を活用 かつよう した包囲 ほうい 戦術 せんじゅつ でカンナエの戦 たたか い を始 はじ めとする戦 たたか いにおいて手痛 ていた い敗北 はいぼく を喫 きっ した。ギリシャの諸 しょ ポリスと同 おな じく市民 しみん 兵 へい を中核 ちゅうかく とするローマは歩兵 ほへい だけでなく騎兵 きへい 部隊 ぶたい もまた自 じ 国民 こくみん から召集 しょうしゅう していた(エクイテス )が、カルタゴ側 がわ のイベリア騎兵 きへい やヌミディア 騎兵 きへい に比 くら べて質量 しつりょう ともに問題 もんだい があり、カンナエの戦 たたか いでは同盟 どうめい 騎兵 きへい を合 あ わせてもカルタゴ軍 ぐん の半数 はんすう 程度 ていど しか集 あつ められなかった。その後 ご 、ガイウス・マリウスの軍制 ぐんせい 改革 かいかく で創設 そうせつ された補助 ほじょ 軍 ぐん (アウクシリア )を通 つう じて属 ぞく 州 しゅう 内 ない から騎兵 きへい を募 つの る様 よう になった。とはいえローマの戦術 せんじゅつ は基本 きほん 的 てき に歩兵 ほへい 中心 ちゅうしん であり、騎兵 きへい は敵 てき 騎兵 きへい による歩兵 ほへい の包囲 ほうい を防 ふせ いだり、歩兵 ほへい が勝利 しょうり を得 え た後 のち の追撃 ついげき 戦 せん に用 もち いられる事 こと が殆 ほとん どだった。
中国 ちゅうごく では春秋 しゅんじゅう 時代 じだい までは戦車 せんしゃ が軍 ぐん の主力 しゅりょく であった。戦術 せんじゅつ の発達 はったつ した戦国 せんごく 時代 じだい に入 はい ると、機動 きどう 力 りょく に優 すぐ れ用 もち い易 やす い騎兵 きへい が重要 じゅうよう 視 し されるようになった。兵法 ひょうほう 書 しょ の『呉 ご 子 こ 』でも騎兵 きへい の重要 じゅうよう 性 せい が説 と かれている。趙 ちょう の武 たけ 霊 れい 王 おう が反対 はんたい 意見 いけん を押 お し切 き って胡 えびす 服 ふく 騎射 きしゃ (騎馬 きば 遊牧民 ゆうぼくみん の服 ふく を着用 ちゃくよう し、騎射 きしゃ を行 おこな う訓練 くんれん 方法 ほうほう )を取 と り入 い れたことはこの時代 じだい の軍制 ぐんせい 変革 へんかく を象徴 しょうちょう する出来事 できごと である。しかし中原 なかはら 地域 ちいき では馬 うま の養殖 ようしょく に必要 ひつよう な草原 そうげん が乏 とぼ しいゆえ騎兵 きへい の育成 いくせい 費用 ひよう が高 たか く、しばらくは弩 いしゆみ や長柄 ながら 兵器 へいき を用 もち いた歩兵 ほへい が軍 ぐん の主力 しゅりょく を占 し め続 つづ けた。弩 いしゆみ は普通 ふつう の弓 ゆみ より長 ちょう 射程 しゃてい ・高 こう 威力 いりょく であり、騎兵 きへい に対 たい しても有効 ゆうこう だった。前漢 ぜんかん の武 たけ 帝 みかど の時代 じだい 以降 いこう になると、定住 ていじゅう しない匈奴 きょうど の騎兵 きへい に対抗 たいこう するため本格 ほんかく 的 てき な騎兵 きへい 部隊 ぶたい が編制 へんせい されるようになり、匈奴 きょうど を服属 ふくぞく させ西域 せいいき を支配 しはい した。また、後 こう 漢 かん や魏 たかし も服属 ふくぞく させた遊牧民 ゆうぼくみん の南 みなみ 匈奴 きょうど や烏 がらす 桓 などから騎兵 きへい を募 つの った。
また、ゾウ の生息 せいそく 地域 ちいき では、これを調教 ちょうきょう して騎乗 きじょう する戦 せん 象 ぞう と呼 よ ばれる類似 るいじ 兵種 へいしゅ も存在 そんざい し、インド では15世紀 せいき の中頃 なかごろ まで使用 しよう された。
中世 ちゅうせい ヨーロッパ の騎士 きし (1213年 ねん ・ミュアの戦 たたか い )
マムルーク 騎兵 きへい 。
タタール 騎兵 きへい 。
鐙 あぶみ は4世紀 せいき までに中国 ちゅうごく で発明 はつめい され、7世紀 せいき までには東 ひがし ヨーロッパ へ伝 つた わったとされている。鐙 あぶみ を使用 しよう することにより、騎兵 きへい は馬 うま と鎧 よろい を纏 まつわ った自身 じしん の体重 たいじゅう を手 て に持 も った槍 やり や矛 ほこ の矛先 ほこさき に集中 しゅうちゅう させ攻撃 こうげき することが可能 かのう となり、騎兵 きへい は機動 きどう 力 りょく に増 ま して強大 きょうだい な攻撃 こうげき 力 りょく を期待 きたい できるようになった。これらの理由 りゆう から、モンゴル高原 こうげん の遊牧民 ゆうぼくみん 、中国 ちゅうごく の南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい の北朝 ほくちょう や隋 ずい や金 きむ 、中東 ちゅうとう のサーサーン朝 あさ 、欧州 おうしゅう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく やフランス などでは、騎手 きしゅ が全身 ぜんしん 鎧 よろい を装着 そうちゃく し、騎馬 きば にも鎧 よろい を装着 そうちゃく させるなど騎兵 きへい の重 じゅう 武装 ぶそう 化 か が進 すす んだ(重 じゅう 装 そう 騎兵 きへい )。欧州 おうしゅう 地域 ちいき では馬 うま 種 しゅ 改良 かいりょう により大柄 おおがら で力 ちから の強 つよ い重 じゅう 種馬 たねうま が出現 しゅつげん していたことも騎兵 きへい の重 じゅう 装 そう 化 か を支 ささ えたが、騎兵 きへい の過剰 かじょう なまでの装甲 そうこう 化 か は、魯鈍 ろどん な重 じゅう 種馬 たねうま の利用 りよう と重量 じゅうりょう の増加 ぞうか から機動 きどう 力 りょく を殺 そ ぐ結果 けっか をまねいた。重 じゅう 装備 そうび の装甲 そうこう 騎兵 きへい は、軽 けい 騎兵 きへい や歩兵 ほへい 陣形 じんけい の側面 そくめん または後方 こうほう に温存 おんぞん され、戦闘 せんとう の最終 さいしゅう 段階 だんかい で敵 てき 歩兵 ほへい を突破 とっぱ する戦力 せんりょく として用 もち いられた。モンゴル高 だか 原 げん や中央 ちゅうおう アジア 、キプチャク草原 そうげん などの北 きた アジアでも騎兵 きへい の重 じゅう 装甲 そうこう 化 か は進 すす んだが、ヨーロッパにおけるような過度 かど の重 じゅう 装 そう 化 か には至 いた らず機動 きどう 力 りょく が失 うしな われることはなかった。
ヨーロッパ では重 じゅう 騎兵 きへい である騎士 きし が戦争 せんそう の花形 はながた となり、槍 やり で近接 きんせつ 攻撃 こうげき を行 おこな うことがよしとされ、弓 ゆみ などの射的 しゃてき 武器 ぶき を敬遠 けいえん する風潮 ふうちょう や儀礼 ぎれい 化 か した騎士 きし 同士 どうし による一 いち 騎 き 討 う ち が戦争 せんそう の体系 たいけい となるなかで大 おお いに栄 さか えた。また騎士 きし による競技 きょうぎ も盛 さか んとなった。中世 ちゅうせい 後期 こうき になり、それまでの儀礼 ぎれい 的 てき な戦闘 せんとう が敵 てき 戦力 せんりょく の壊滅 かいめつ を目的 もくてき とする殲滅 せんめつ 戦 せん に変 か わっていくと、歩兵 ほへい 戦力 せんりょく の重要 じゅうよう 性 せい が高 たか まった。歩兵 ほへい は密集 みっしゅう 陣形 じんけい をつくり、長 ちょう 弓 ゆみ (ロングボウ )や弩 いしゆみ 弓 ゆみ (クロスボウ )のような投射 とうしゃ 武器 ぶき やハルバード (Halberd 槍 やり 斧 おの 鉤 かぎ 形状 けいじょう 長柄 ながえ 武器 ぶき )やパイク (5-6mの長 ちょう 槍 やり )のような長柄 ながえ 武器 ぶき で騎士 きし に対抗 たいこう した。歩兵 ほへい の対 たい 騎兵 きへい 戦術 せんじゅつ が整備 せいび されるとともに、戦場 せんじょう での騎士 きし の重要 じゅうよう 度 ど は次第 しだい に減少 げんしょう していった。
東 ひがし アジア では大 だい 規模 きぼ な民族 みんぞく 移動 いどう による影響 えいきょう も相 あい まって、数 すう 百 ひゃく 年 ねん ぶりに安定 あんてい した統一 とういつ 中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう として現出 げんしゅつ した唐 から 帝国 ていこく ではそれ以前 いぜん の王朝 おうちょう と比 くら べて騎兵 きへい の重 じゅう 装備 そうび 化 か が進 すす み、常備 じょうび 軍 ぐん の中 なか における騎兵 きへい 部隊 ぶたい の割合 わりあい も大 おお きく増 ふ えた。唐 とう はこの騎兵 きへい 戦力 せんりょく を主力 しゅりょく とした強力 きょうりょく な遠征 えんせい 軍 ぐん を用 もち い、北方 ほっぽう 遊牧民 ゆうぼくみん の大国 たいこく であった西 にし ・東 ひがし 突厥 、東北 とうほく アジア の最強 さいきょう 国 こく であった高句麗 こうくり を次々 つぎつぎ と滅 ほろ ぼし、ユーラシア大陸 たいりく における随一 ずいいち の超 ちょう 大国 たいこく として君臨 くんりん した。唐 から 滅亡 めつぼう 後 ご に良 りょう 馬 ば の産地 さんち であった燕 つばめ 雲 くも 十 じゅう 六 ろく 州 しゅう や河 かわ 套平原 へいげん がそれぞれ契 ちぎり 丹 に や西 にし 夏 なつ などの異 い 民族 みんぞく によって併合 へいごう されたため、宋 そう は強力 きょうりょく な騎兵 きへい 部隊 ぶたい を編成 へんせい することができず、他国 たこく との戦争 せんそう において終始 しゅうし 劣勢 れっせい に立 た たされることになった。弩 いしゆみ や火薬 かやく を用 もち いた兵器 へいき などがこの時代 じだい にて大 おお きく発達 はったつ したのも宋 そう が遼 りょう や金 きむ の騎兵 きへい に対抗 たいこう するために遠距離 えんきょり 武器 ぶき を重視 じゅうし したことによる影響 えいきょう であるとの説 せつ がある。
遊牧民 ゆうぼくみん 族 ぞく の騎馬 きば 軍団 ぐんだん はこの時代 じだい の最強 さいきょう の軍隊 ぐんたい である。モンゴル高原 こうげん や中央 ちゅうおう アジアなど遊牧民 ゆうぼくみん の生息 せいそく 域 いき は常 つね に良 りょう 馬 ば の供給 きょうきゅう 源 げん であり、さらに農耕 のうこう 国家 こっか の軍隊 ぐんたい には欠 か かせない補給 ほきゅう を無視 むし できる遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ の特性 とくせい ゆえ、一 いち 度 ど でも強力 きょうりょく な指導 しどう 者 しゃ が現 あらわ れればフン帝国 ていこく 、突厥帝国 ていこく やモンゴル帝国 ていこく のように、ユーラシア大陸 たいりく の複数 ふくすう 地域 ちいき に跨 またが って巨大 きょだい 帝国 ていこく を築 きず いた。これらの帝国 ていこく が崩壊 ほうかい した後 のち も、モンゴル系 けい やテュルク系 けい 民族 みんぞく はその強力 きょうりょく な軍事 ぐんじ 力 りょく を基 もと にイスラム世界 せかい やインド などでマムルーク (奴隷 どれい 軍人 ぐんじん )として力 ちから を持 も ち、時 とき には在来 ざいらい 勢力 せいりょく に代 か わって政権 せいけん を掌握 しょうあく することもあった。
ポーランド のフサリア 隊 たい (1604年 ねん )
ヨーロッパではパイク の登場 とうじょう や火器 かき の発達 はったつ 、テルシオ 戦術 せんじゅつ の普及 ふきゅう により、旧来 きゅうらい の重 じゅう 武装 ぶそう し槍 やり 突撃 とつげき で敵 てき を粉砕 ふんさい する騎兵 きへい は姿 すがた を消 け すようになった。かわって登場 とうじょう したのが、銃 じゅう で武装 ぶそう した乗馬 じょうば 歩兵 ほへい である竜騎兵 りゅうきへい や、胸 むね 甲 かぶと 騎兵 きへい 、火縄銃 ひなわじゅう 騎兵 きへい といった火器 かき を活用 かつよう する騎兵 きへい であった。一部 いちぶ ではカラコール などの技巧 ぎこう 的 てき な戦術 せんじゅつ も見 み られた。しかし17世紀 せいき 頃 ごろ になると、ポーランド王国 おうこく 大元帥 だいげんすい スタニスワフ・コニェツポルスキ 、スウェーデン 王 おう グスタフ・アドルフ 、フランス 王 おう ルイ14世 せい らによって、発達 はったつ した火器 かき の利用 りよう と共 とも に騎兵 きへい のサーベル突撃 とつげき などを復活 ふっかつ させた近代 きんだい 的 てき な運用 うんよう 方法 ほうほう が生 う み出 だ され、騎兵 きへい は歩兵 ほへい 、砲兵 ほうへい に並 なら ぶ3兵種 へいしゅ の一 ひと つとなった。なお、重 じゅう 騎兵 きへい の装甲 そうこう をも銃器 じゅうき が貫通 かんつう できるようになると全身 ぜんしん 甲冑 かっちゅう はもはや不合理 ふごうり なものとなり、装甲 そうこう の面積 めんせき を限定 げんてい して全身 ぜんしん 甲冑 かっちゅう より厚 あつ く重 おも い鉄板 てっぱん を用 もち いた胸 むね 甲 かぶと (Kürass、当初 とうしょ は頭 あたま から膝下 ひざもと までを覆 おお う甲冑 かっちゅう )を重 じゅう 騎兵 きへい は用 もち いるようになった。時代 じだい が進 すす むと、より簡素 かんそ な背 せ 当 あ てと胸当 むねあ てで文字通 もじどお り胸部 きょうぶ を覆 おお う程度 ていど にまで重 じゅう 騎兵 きへい の胸 むね 甲 かぶと は縮小 しゅくしょう されていった。
チャルディラーンの戦 たたか い ではオスマン帝国 ていこく の歩兵 ほへい 常備 じょうび 軍 ぐん がサファヴィー朝 あさ の騎馬 きば 軍団 ぐんだん を相手 あいて に勝利 しょうり したり、文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき でも鉄砲 てっぽう で武装 ぶそう した日本 にっぽん の軍 ぐん が明 あきら の騎兵隊 きへいたい を打 う ち破 やぶ るなどした。
フリードリヒ大王 だいおう らが活躍 かつやく した18世紀 せいき 中頃 なかごろ 、当時 とうじ の成熟 せいじゅく した近代 きんだい 軍制 ぐんせい において、騎兵 きへい は一般 いっぱん に以下 いか の3種 しゅ に専門 せんもん 分化 ぶんか した。
重 じゅう 騎兵 きへい
大型 おおがた の馬 うま に乗 の り、騎馬 きば 突撃 とつげき で敵 てき 歩兵 ほへい の隊列 たいれつ を粉砕 ふんさい するエリート騎兵 きへい 。防御 ぼうぎょ 用 よう の胸当 むねあ てを付 つ けたものは胸 むね 甲 かぶと 騎兵 きへい などとも言 い われる。銃器 じゅうき の発達 はったつ により軽 けい 騎兵 きへい に吸収 きゅうしゅう される形 かたち で次第 しだい に衰退 すいたい した。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん までは存在 そんざい したが、その後 ご は完全 かんぜん に見 み られなくなった。
軽 けい 騎兵 きへい
小型 こがた のアラブ馬 あらぶば に乗 の る軽 けい 武装 ぶそう の騎兵 きへい 。偵察 ていさつ や奇襲 きしゅう 、追撃 ついげき に使 つか われた。ハンガリー騎兵 きへい をモデルにサーベル を装備 そうび したユサール が代表 だいひょう 的 てき であるが、ポーランド騎兵 きへい (ウーラン )をモデルに槍 やり で武装 ぶそう した槍 やり 騎兵 きへい や、猟 りょう 騎兵 きへい と呼 よ ばれるものもあった。
竜騎兵 りゅうきへい
古 ふる くは馬 うま で移動 いどう し下馬 げば して戦 たたか う乗馬 じょうば 歩兵 ほへい を指 さ したが、後 のち に中型 ちゅうがた の騎兵 きへい 全般 ぜんぱん を指 さ すようになる。国 くに により軽 けい 騎兵 きへい に属 ぞく したり、重 じゅう 騎兵 きへい に属 ぞく したりした。
この様 よう な騎兵 きへい の戦術 せんじゅつ の変化 へんか は、戦争 せんそう から遠 とお のいていた日本 にっぽん などの地域 ちいき では起 お こらなかった。
19世紀 せいき 前半 ぜんはん のナポレオン戦争 せんそう 時代 じだい に、騎兵 きへい は再 ふたた び全盛 ぜんせい を迎 むか え、フランスの元帥 げんすい ミュラ に代表 だいひょう されるように戦場 せんじょう の花形 はながた となったが、その後 ご マスケット銃 じゅう より優 すぐ れたライフル (施 ほどこせ 条 じょう )構造 こうぞう の普及 ふきゅう や後 こう 装 そう 式 しき 小銃 しょうじゅう 、機関 きかん 銃 じゅう などの登場 とうじょう により、騎兵 きへい は射撃 しゃげき の的 てき でしかなくなり、攻撃 こうげき 力 りょく としての役割 やくわり は失 うしな われてしまった。19世紀 せいき 後半 こうはん の普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう におけるフランス騎兵隊 きへいたい がプロイセン 軍 ぐん の圧倒的 あっとうてき 火力 かりょく の前 まえ になす術 じゅつ もなく全滅 ぜんめつ した悲劇 ひげき が歴史 れきし に刻 きざ まれている。一方 いっぽう のプロイセン騎兵 きへい は正面 しょうめん 戦力 せんりょく としては投入 とうにゅう されず、索敵 さくてき や斥候 せっこう 、伝令 でんれい として活用 かつよう されることで勝利 しょうり に貢献 こうけん した。
1794年 ねん から1795年 ねん の冬期 とうき に、ゾイデル海 うみ が凍結 とうけつ しテセル島 とう 周辺 しゅうへん で身動 みうご きがとれなくなっていたオランダ艦隊 かんたい が、氷上 ひかみ 突入 とつにゅう したフランス騎兵 きへい と砲兵 ほうへい に包囲 ほうい 捕獲 ほかく されたという非常 ひじょう に珍 めずら しい戦果 せんか も記録 きろく されている(デン・ヘルダーでのオランダ艦隊 かんたい の捕獲 ほかく (英語 えいご : Capture of the Dutch fleet at Den Helder ) )[5]
パリ を行進 こうしん するフランス重 じゅう 騎兵 きへい 隊 たい (1914年 ねん 8月 がつ )。
ボフォース 37mm対 たい 戦車 せんしゃ 砲 ほう でドイツ戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい を攻撃 こうげき するポーランド陸軍 りくぐん 第 だい 10騎兵 きへい 旅団 りょだん 。
日本 にっぽん 軍 ぐん の騎兵 きへい (1938年 ねん 。東京 とうきょう )
近代 きんだい 戦 せん で移行 いこう すると徐々 じょじょ に騎兵 きへい の評価 ひょうか は下 くだ ることなった。特 とく に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で機関 きかん 銃 じゅう 、塹壕 ざんごう 戦 せん などは主流 しゅりゅう になり、コサック騎兵 きへい が破 わ れる戦果 せんか から、騎兵 きへい の是非 ぜひ が問 と われるようになる。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん にウーラン将校 しょうこう として参戦 さんせん したマンフレート・フォン・リヒトホーフェン は既 すで に活躍 かつやく の場 ば が少 すく ないと判断 はんだん して航空 こうくう 部隊 ぶたい へと転属 てんぞく した。戦闘 せんとう 機 き 乗 の りとして活躍 かつやく しエースパイロット となったが、転属 てんぞく 後 ご もウーラン時代 じだい の軍服 ぐんぷく を着用 ちゃくよう していた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では馬上 もうえ 戦闘 せんとう はわずかな例 れい を除 のぞ いて見 み られなくなり、馬 うま は主 おも に移動 いどう や運送 うんそう での使用 しよう が多 おお くなり、各国 かっこく の騎兵 きへい は自動車 じどうしゃ 化 か と機械 きかい 化 か が促進 そくしん されて機動 きどう 歩兵 ほへい 、装甲 そうこう 部隊 ぶたい としての役割 やくわり が濃 こ くなっていた。
ドイツ軍 ぐん はポーランドへ侵攻 しんこう したが、ポーランド軍 ぐん の騎兵 きへい は戦車 せんしゃ の側面 そくめん に回 まわ り込 こ んで対 たい 戦車 せんしゃ 兵器 へいき で攻撃 こうげき していた。騎馬 きば 突撃 とつげき は敵 てき 歩兵 ほへい への奇襲 きしゅう や掃討 そうとう に用 もち いられた。ドイツ軍 ぐん では独 どく ソ戦 せん 末期 まっき のブダペスト包囲 ほうい 戦 せん の際 さい には騎兵 きへい 師団 しだん を投入 とうにゅう しており、ティーガーII を装備 そうび したFHH重 じゅう 戦車 せんしゃ 大隊 だいたい と2個 こ 騎兵 きへい 師団 しだん で編成 へんせい されたハルコネック騎兵 きへい 軍団 ぐんだん が連携 れんけい してソビエト赤軍 せきぐん を攻撃 こうげき 、一定 いってい の成果 せいか をあげている。また、イタリア軍 ぐん はブラウ作戦 さくせん で、サヴォイア騎兵 きへい 連隊 れんたい が騎兵 きへい 突撃 とつげき を行 おこな い成果 せいか を出 だ した。現在 げんざい 装甲車 そうこうしゃ 部隊 ぶたい に改変 かいへん されたサヴォイア騎兵 きへい 連隊 れんたい はこの戦績 せんせき を顕彰 けんしょう し、装甲車 そうこうしゃ に当時 とうじ の軍馬 ぐんば 達 たち の名前 なまえ を冠 かん している。ソ連 それん 軍 ぐん ではコサック騎兵 きへい が突撃 とつげき を敢行 かんこう したこともあった。戦争 せんそう 末期 まっき には東 ひがし ポンメルン攻勢 こうせい においてポーランド人民 じんみん 軍 ぐん の第 だい 1独立 どくりつ 騎兵 きへい 旅団 りょだん のうち2個 こ 中隊 ちゅうたい が、イタリア戦線 せんせん においてはアメリカ軍 ぐん 第 だい 10山岳 さんがく 師団 しだん 所属 しょぞく の偵察 ていさつ 騎兵 きへい 中隊 ちゅうたい が騎兵 きへい 突撃 とつげき を成功 せいこう させている。これが、欧州 おうしゅう 戦線 せんせん で成功 せいこう した最後 さいご の騎兵 きへい 突撃 とつげき と伝 つた えられている。
イギリス軍 ぐん では、1942年 ねん 3月 がつ にビルマ戦線 せんせん で行 おこな われた戦闘 せんとう が最後 さいご の騎兵 きへい 突撃 とつげき として知 し られている。アーサー・サンデマン大尉 たいい の指揮 しき する英 えい 印 しるし 軍 ぐん 騎乗 きじょう 歩兵 ほへい 部隊 ぶたい はビルマ中部 ちゅうぶ のトングー近郊 きんこう で日本 にっぽん 軍 ぐん に遭遇 そうぐう したが、それを当時 とうじ 付近 ふきん で活動 かつどう していた友軍 ゆうぐん の中国 ちゅうごく 遠征 えんせい 軍 ぐん と誤認 ごにん してそのまま接近 せっきん し、サンデマン大尉 たいい を含 ふく む多数 たすう が戦死 せんし した[6] 。騎乗 きじょう 歩兵 ほへい はあくまで戦闘 せんとう 時 じ には下馬 げば する部隊 ぶたい であり、サンデマン大尉 たいい らが騎兵 きへい 突撃 とつげき を行 おこな ったこと自体 じたい を疑問 ぎもん 視 し する見方 みかた もある[7] 。
その後 ご は伝令 でんれい ・偵察 ていさつ 任務 にんむ や大砲 たいほう の牽引 けんいん 、物資 ぶっし の輸送 ゆそう 運搬 うんぱん に使 つか われていたが、それも鉄道 てつどう や自動車 じどうしゃ などの登場 とうじょう により、徐々 じょじょ にその姿 すがた を消 け す事 こと となった。今日 きょう では、道路 どうろ 網 もう の整備 せいび 状 じょう 況 きょう の悪 わる い第 だい 三 さん 世界 せかい や山岳 さんがく 地帯 ちたい において馬 うま の軍事 ぐんじ 利用 りよう の例 れい がみられる。
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大 だい 鎧 よろい と弓 ゆみ で武装 ぶそう した武士 ぶし
元 もと 寇の文 ぶん 永 なが の役 やく における鳥飼 とりかい 潟 かた の戦 たたか い で竹崎 たけざき 季 き 長 ちょう の後方 こうほう より駆 か け、元 もと 軍 ぐん に弓 ゆみ を射 い る肥前 ひぜん 国 こく 御家人 ごけにん ・白石 しらいし 通泰 みちやす の手勢 てぜい 。墨書 ぼくしょ に「白石 しらいし 六郎 ろくろう 通泰 みちやす /其勢百 ひゃく 余 よ 騎 き /後陣 ごじん よりかく」。(『蒙 こうむ 古 こ 襲来 しゅうらい 絵詞 えことば 』前 ぜん 巻 まき ・絵 え 5・第 だい 17紙 し )
一ノ谷 いちのや の戦 たたか い での鵯越 ひよどりごえ の逆 ぎゃく 落 お としを描 えが いた『源平 げんぺい 合戦 かっせん 図 ず 屏風 びょうぶ 』「一ノ谷 いちのたに 」
日本 にっぽん の騎兵 きへい は、大陸 たいりく と異 こと なる独特 どくとく な発展 はってん を遂 と げた。
日本 にっぽん 列島 れっとう では古墳 こふん 時代 じだい の4世紀 せいき 末 まつ から5世紀 せいき に家畜 かちく としての馬 うま が九州 きゅうしゅう に伝来 でんらい し、方形 ほうけい 周 しゅう 溝 みぞ 墓 ぼ や古墳 こふん の副葬品 ふくそうひん として馬 うま 骨 こつ や馬 うま 歯 ぱ 、馬具 ばぐ が出土 しゅつど しており、乗馬 じょうば として用 もち いられたと考 かんが えられている。
律令 りつりょう 国家 こっか の時代 じだい 、天武天皇 てんむてんのう は武官 ぶかん に対 たい して用兵 ようへい ・乗馬 じょうば の訓練 くんれん に関 かん する発令 はつれい をし、大宝 たいほう 律令 りつりょう と養老 ようろう 律令 りつりょう を通 つう じて学制 がくせい で騎兵隊 きへいたい が強調 きょうちょう された。
ヤマト王権 おうけん と対立 たいりつ した蝦夷 えぞ は狩猟 しゅりょう で培 つちか った騎射 きしゃ を主体 しゅたい に戦 たたか う軽 けい 騎兵 きへい であった。騎射 きしゃ の技術 ぎじゅつ は俘囚 ふしゅう によって伝 つた わり、武士 ぶし たちは乗馬 じょうば と弓 ゆみ の技術 ぎじゅつ を「弓馬 きゅうば の道 みち 」と呼 よ び戦闘 せんとう 技術 ぎじゅつ として尊 とうと ぶようになった。これ以降 いこう は騎兵 きへい であることは武士 ぶし の身分 みぶん を示 しめ すものでもあった(詳 くわ しくは武士 ぶし 、士分 しぶん の項 こう を参照 さんしょう のこと)。封建 ほうけん 制 せい の発展 はってん した中世 ちゅうせい の日本 にっぽん において、武士 ぶし 達 たち は西洋 せいよう の封建 ほうけん 領主 りょうしゅ (騎士 きし )のように、自身 じしん らは騎兵 きへい として武装 ぶそう し、郎党 ろうとう 、従卒 じゅうそつ からなる徒歩 とほ の兵 へい を引 ひ きつれ戦争 せんそう を行 おこな った。
ヨーロッパの騎士 きし が槍 やり による突撃 とつげき を好 この んだのに対 たい し、日本 にっぽん の武士 ぶし は弓 ゆみ を主力 しゅりょく とし、薙刀 なぎなた や大 だい 太刀 たち などの打物 うちもの は矢 や が無 な くなってから使用 しよう する武器 ぶき であった。また大陸 たいりく の遊牧民 ゆうぼくみん や蝦夷 えぞ が軽装 けいそう で馬上 まけ で取 と り回 まわ しが良 よ い短 たん 弓 ゆみ を使 つか う軽装 けいそう 短 たん 弓 ゆみ 騎兵 きへい であったのに対 たい し、日本 にっぽん の武士 ぶし は重 じゅう 装備 そうび である大 だい 鎧 よろい を纏 まと い、威力 いりょく を重視 じゅうし した長 ちょう 弓 ゆみ (和 かず 弓 ゆみ )を使 つか う重 じゅう 装 そう 長 ちょう 弓 ゆみ 騎兵 きへい であった。この類型 るいけい は日本 にっぽん 独自 どくじ である。
日本 にっぽん において、騎兵 きへい の戦術 せんじゅつ に長 た けていた指揮 しき 官 かん としては、一ノ谷 いちのや の戦 たたか い で騎兵 きへい を生 い かした奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき で勝利 しょうり した源義経 みなもとのよしつね がいる。
日本 にっぽん の騎兵 きへい が海外 かいがい の軍隊 ぐんたい と交戦 こうせん した例 れい として元 もと 寇 がある。文 ぶん 永 なが の役 やく において、九州 きゅうしゅう に出動 しゅつどう した御家人 ごけにん は元 もと 軍 ぐん と激戦 げきせん を繰 く り広 ひろ げた。
元 もと 寇における鎌倉 かまくら 武士 ぶし の様子 ようす をモンゴル帝国 ていこく の官吏 かんり ・王 おう 惲 は「兵 へい 杖 つえ には弓 ゆみ 刀 がたな 甲 かぶと あり、しかして戈 ほこ 矛 ほこ 無 な し。騎兵 きへい は結束 けっそく す。殊 こと に精 しらげ 甲 かぶと は往往 おうおう 黄金 おうごん を以って之 これ を為 な り、珠 たま 琲をめぐらした者 もの 甚々多 おお し、刀 かたな は長 なが くて極 きわ めて犀 さい なるものを製 せい り、洞 ほら 物 ぶつ に銃 じゅう し、過 か 。[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 但 ただし だ、弓 ゆみ は木 き を以って之 これ を為 な り、矢 や は長 なが しと雖えども、遠 とお くあたわず。人 ひと は則 のり ち勇敢 ゆうかん にして、死 し をみることを畏 おそ れず」[8] と鎌倉 かまくら 武士 ぶし が騎兵 きへい を密集 みっしゅう させて集団 しゅうだん で戦 たたか っていたことを指摘 してき している。『蒙 こうむ 古 こ 襲来 しゅうらい 絵詞 えことば 』絵 え 五 ご にも鎌倉 かまくら 武士 ぶし が騎兵 きへい を結束 けっそく させて集団 しゅうだん で戦 たたか っている様子 ようす が描 えが かれており、王 おう 惲の指摘 してき を裏付 うらづ けている。
馬 うま 装 そう
馬 うま 鎧 よろい
南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい のころから、日本 にっぽん はかつての騎兵 きへい を中心 ちゅうしん とした戦争 せんそう から歩兵 ほへい 中心 ちゅうしん の戦闘 せんとう に移行 いこう し、騎兵 きへい もそれ以前 いぜん とは異 こと なる運用 うんよう がされるようになっていった。足軽 あしがる が軍 ぐん の主力 しゅりょく となる事 こと で歩兵 ほへい 戦闘 せんとう が戦 せん の中心 ちゅうしん となり状況 じょうきょう によって降 お りて戦 たたか う事 こと も必要 ひつよう とされてきたのである。ルイス・フロイス は著書 ちょしょ 『日本 にっぽん 史 し 』第 だい 41章 しょう 、元 もと 亀 かめ 二 に 年 ねん (1571年 ねん )八 はち 月 がつ 、和田 わだ 惟政 これまさ が白井 しらい 河原 かわはら の戦 たたか い で騎馬 きば 武者 むしゃ を下馬 げば させ戦闘 せんとう した項 こう で、「交戦 こうせん の際 さい には徒歩 とほ で戦 たたか うのが日本 にっぽん の習慣 しゅうかん だから」と説明 せつめい している。
『軍法 ぐんぽう 侍 さむらい 用 よう 集 しゅう 』にも騎馬 きば を集結 しゅうけつ 運用 うんよう する陣形 じんけい が登場 とうじょう しており、馬 うま 、槍 やり 、鉄砲 てっぽう の運用 うんよう について言及 げんきゅう した長宗我部 ちょうそかべ 元親 もとちか の文書 ぶんしょ や『雑兵 ぞうひょう 物語 ものがたり 』などの当時 とうじ の文献 ぶんけん でも、その様子 ようす を窺 うかが い知 し る事 こと が出来 でき る。上記 じょうき のフロイスの記述 きじゅつ がある一方 いっぽう 、その4年 ねん 後 ご の天正 てんしょう 三 さん 年 ねん (1575年 ねん )の長篠 ながしの の戦 たたか い に徳川 とくがわ 家臣 かしん として従軍 じゅうぐん した水野 みずの 正 ただし 重 じゅう の書 しょ 上 じょう 「覚書 おぼえがき 故 こ 水野 みずの 左近 さこん 物語 ものがたり 」(譜 ふ 牒余録 ろく 巻 まき 三 さん )には戦闘 せんとう 中 ちゅう に武田 たけだ の騎馬 きば 武者 むしゃ が3~50騎 き の集団 しゅうだん で陣 じん 城前 しろまえ の柵 しがらみ まで攻 せ め寄 よ せてきた記述 きじゅつ があるし、評定 ひょうじょう での織田 おだ 信長 のぶなが の言葉 ことば として「武田 たけだ 家中 かちゅう の者 もの はよく馬 うま に乗 の り、敵陣 てきじん を乗 の り破 やぶ る由 よし き及 きおよ びたり、さらに手立 てだ てせよ」といい陣 じん 前 まえ に柵 しがらみ を備 そな えた事 こと が記述 きじゅつ されており、他 ほか にも騎馬 きば 隊 たい による騎乗 きじょう 戦闘 せんとう があった記述 きじゅつ は多 おお くのこされている。当時 とうじ 馬 うま 用 よう の鎧 よろい (馬 うま の博物館 はくぶつかん 所蔵 しょぞう )が存在 そんざい していた事 こと もあり乗馬 じょうば 戦闘 せんとう が皆無 かいむ だったという訳 わけ ではない。先述 せんじゅつ のフロイスの記述 きじゅつ もあくまで少数 しょうすう だった和田 わだ 勢 ぜい が多勢 たぜい の敵 てき に対 たい し密集 みっしゅう して挑 いど む為 ため に下馬 げば して戦 たたか ったまででその方 ほう が理 り に適 かな っていたからである(戦場 せんじょう の地形 ちけい が騎乗 きじょう 戦闘 せんとう に適 てき していたかも考慮 こうりょ しなければならない)。
また戦国 せんごく 後期 こうき になると各 かく 兵科 へいか 毎 ごと に集 あつ めて部隊 ぶたい を組 く む事 こと も行 おこな うようになっており(戦国 せんごく 遺文 いぶん 後 ご 北条 ほうじょう 氏 し 篇 へん 第 だい 3巻 かん 、1923号 ごう には北条 ほうじょう 氏直 うじなお が武蔵 むさし 岩 がん 附 ふ 衆 しゅ に当 あ てた書状 しょじょう にて小 しょう 旗 はた 、鑓 やり 、鉄砲 てっぽう 、弓 ゆみ 、歩 ふ 者 しゃ 、騎馬 きば の兵科 へいか 毎 ごと に奉行 ぶぎょう を置 お き総勢 そうぜい 1500人 にん 程 ほど の岩 いわ 附 ふ 衆 しゅ がそれぞれの兵科 へいか 毎 ごと に奉行 ぶぎょう に率 ひき いられて戦 たたか う様 よう に書 か かれている)後期 こうき には兵科 へいか 分 わ けが行 おこな われた。
重 じゅう 騎兵 きへい の優位 ゆうい 性 せい が低下 ていか した西欧 せいおう においては、火縄銃 ひなわじゅう を装備 そうび した新 あたら しい騎兵 きへい 、竜騎兵 りゅうきへい が登場 とうじょう したが、日本 にっぽん はそののち江戸 えど 時代 じだい に入 はい り、250年 ねん もの間 あいだ 戦争 せんそう がほとんどなくなったため、以降 いこう 、独自 どくじ に騎兵 きへい が発展 はってん することはなかった。
イラスト、16世紀 せいき
武士 ぶし の鎧 よろい と馬 うま の鎧 よろい
鴨 かも 緑 みどり 江 こう 会戦 かいせん
騎兵 きへい 第 だい 17連隊 れんたい (高田 たかだ )跡地 あとち に建 た てられた記念 きねん 碑 ひ (新潟 にいがた 県 けん 上越 じょうえつ 市 し 高田 たかだ 公園 こうえん 内 ない )
陸軍 りくぐん 騎兵 きへい 学校 がっこう での西 にし 竹一 たけいち による車 くるま 越 こ えのパフォーマンス
時代 じだい が下 くだ り明治維新 めいじいしん 前後 ぜんこう からは、日本 にっぽん は富国強兵 ふこくきょうへい の政策 せいさく のもと、近代 きんだい 的 てき な騎兵隊 きへいたい の創設 そうせつ に着手 ちゃくしゅ した。騎兵 きへい の運用 うんよう については、幕末 ばくまつ に江戸 えど 幕府 ばくふ がヨーロッパから軍事 ぐんじ 顧問 こもん を招 まね き、インドシナ 駐留 ちゅうりゅう フランス軍 ぐん 士官 しかん の指導 しどう に基 もと づいて騎兵 きへい の訓練 くんれん が行 おこな われている。明治 めいじ 初期 しょき に日本 にっぽん 陸軍 りくぐん が創設 そうせつ されるとヨーロッパ種 しゅ が輸入 ゆにゅう されて軍馬 ぐんば の改良 かいりょう も行 おこな われ、秋山 あきやま 好古 よしふる らが中心 ちゅうしん となり、騎兵 きへい 運用 うんよう の研究 けんきゅう が行 おこな われた。秋山 あきやま は騎兵 きへい 科 か 創設 そうせつ にも関 かか わり、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう においては、馬 うま 格 かく で劣 おと る日本 にっぽん 馬 ば で、当時 とうじ 世界 せかい 最強 さいきょう と謳 うた われたロシアのコサック 騎兵 きへい に勝 か つため、機関 きかん 銃 じゅう の装備 そうび など、数々 かずかず の工夫 くふう をなした。秋山 あきやま 好古 よしふる は『本邦 ほんぽう 騎兵 きへい 用兵 ようへい 論 ろん 』において敵 てき 地 ち 深 ふか く侵入 しんにゅう し後方 こうほう 撹乱 かくらん にあたる挺進 ていしん 騎兵 きへい の必要 ひつよう 性 せい も説 と き、永沼 ながぬま 挺進 ていしん 隊 たい により実行 じっこう されている[9] 。 その為 ため 、秋山 あきやま は「日本 にっぽん 騎兵 きへい の父 ちち 」と呼 よ ばれる。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の軍縮 ぐんしゅく と軍備 ぐんび 近代 きんだい 化 か の中 なか で、運用 うんよう 経費 けいひ が高価 こうか で戦力 せんりょく 価値 かち も疑問 ぎもん 視 し された騎兵 きへい は、削減 さくげん の槍玉 やりだま にあげられ、歩兵 ほへい 師団 しだん 所属 しょぞく の騎兵 きへい 連隊 れんたい の規模 きぼ 縮小 しゅくしょう などが行 おこな われた。騎兵 きへい の乗馬 じょうば 戦闘 せんとう の全面 ぜんめん 廃止 はいし までも論争 ろんそう となり、騎兵 きへい 科 か の吉 よし 橋 はし 徳三郎 とくさぶろう 少将 しょうしょう が抗議 こうぎ の自殺 じさつ をする騒動 そうどう となった。結果 けっか 、乗馬 じょうば 戦闘 せんとう の全面 ぜんめん 廃止 はいし は無 な かったものの、機関 きかん 銃 じゅう の増加 ぞうか などによる乗馬 じょうば 歩兵 ほへい 化 か や、捜索 そうさく 連隊 れんたい の創設 そうせつ による機械 きかい 化 か が進 すす んだ。1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )には、歩兵 ほへい 科 か の流 なが れを汲 く む戦車 せんしゃ 兵 へい と統合 とうごう されて機甲 きこう 兵 へい となり、兵種 へいしゅ としての騎兵 きへい は消滅 しょうめつ した。騎兵 きへい の多 おお くは、西 にし 竹一 たけいち に代表 だいひょう されるように戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい の要員 よういん となっていった。
もっとも、機甲 きこう 兵 へい となってからも、主 おも に中国 ちゅうごく 戦線 せんせん での運用 うんよう を目的 もくてき として少数 しょうすう の乗馬 じょうば 騎兵 きへい が存続 そんぞく した。太平洋戦争 たいへいようせんそう 末期 まっき には、本土 ほんど 決戦 けっせん 時 どき の空挺 くうてい 部隊 ぶたい 迎撃 げいげき 用 よう に若干 じゃっかん の騎兵 きへい 部隊 ぶたい が新設 しんせつ された。なお、現在 げんざい のところ世界 せかい 最後 さいご の本格 ほんかく 的 てき な騎兵 きへい 戦闘 せんとう ・騎馬 きば 突撃 とつげき は、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )に行 おこな われた老 ろう 河口 かこう 作戦 さくせん での騎兵 きへい 第 だい 4旅団 りょだん ほかの戦闘 せんとう であるともいわれる。同 どう 旅団 りょだん は日本 にっぽん 最後 さいご の騎兵 きへい 旅団 りょだん である。3月27日 にち に老 ろう 河口 かこう 飛行場 ひこうじょう の乗馬 じょうば 襲撃 しゅうげき 、占領 せんりょう に成功 せいこう し、世界 せかい 戦史 せんし における騎兵 きへい の活躍 かつやく の最後 さいご を飾 かざ った[10] 。
現代 げんだい の軍 ぐん においては、実戦 じっせん を目的 もくてき とした大 だい 規模 きぼ な騎馬 きば 部隊 ぶたい を保有 ほゆう する国家 こっか はアルゼンチン、インド、中国 ちゅうごく 、チリなど地形 ちけい が険 けわ しい地域 ちいき がある一部 いちぶ のみである。ドイツやオーストリアなどの山岳 さんがく 部隊 ぶたい は、山岳 さんがく 地帯 ちたい での荷物 にもつ 搬送 はんそう にウマやロバを利用 りよう している。他 た の多 おお くの国家 こっか では、歴史 れきし ・伝統 でんとう ・閲兵 えっぺい の名誉 めいよ といった理由 りゆう から儀礼 ぎれい を目的 もくてき とした乗馬 じょうば 部隊 ぶたい を保護 ほご するに留 とど まっている。
インド陸軍 りくぐん の第 だい 61騎兵 きへい 連隊 れんたい は2023年 ねん の時点 じてん において、機械 きかい 化 か されていない純然 じゅんぜん たる騎兵 きへい 部隊 ぶたい として世界 せかい 最大 さいだい 規模 きぼ である。同 どう 連隊 れんたい は国内 こくない の治安 ちあん 維持 いじ ・警備 けいび のほか、式典 しきてん における儀仗 ぎじょう も担 にな っている。また同国 どうこく の国境警備隊 こっきょうけいびたい (BSF)は大隊 だいたい 規模 きぼ のラクダ騎兵 きへい を保有 ほゆう している。
中国 ちゅうごく は陸軍 りくぐん とロケット軍 ぐん において、車両 しゃりょう の通行 つうこう が困難 こんなん な山岳 さんがく 地帯 ちたい の国境 こっきょう 防衛 ぼうえい に現代 げんだい でも騎馬 きば 部隊 ぶたい を運用 うんよう している。
テロ やゲリラ などのいわゆる低 てい 強度 きょうど 紛争 ふんそう (LIC)の駆逐 くちく ・制圧 せいあつ において騎兵 きへい が使用 しよう されることもある。アメリカ軍 ぐん によるアフガニスタン侵攻 しんこう では、潜入 せんにゅう した特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい が現地 げんち 部族 ぶぞく とともに騎馬 きば で行動 こうどう する場面 ばめん もあった。また砂漠 さばく 地帯 ちたい では馬 うま の代 か わりにラクダ を使用 しよう することもある。
車両 しゃりょう ・航空機 こうくうき を用 もち いる部隊 ぶたい の内 うち 「(軽 けい 防御 ぼうぎょ で)機敏 きびん かつ迅速 じんそく に展開 てんかい ・撤収 てっしゅう が可能 かのう な部隊 ぶたい 」という、近代 きんだい 以前 いぜん の騎兵 きへい と同 おな じ意味合 いみあ いを持 も つ部隊 ぶたい が「騎兵 きへい 」の名称 めいしょう を冠 かん していることがある。具体 ぐたい 的 てき 一 いち 例 れい として、AMX-10RC装甲車 そうこうしゃ を装備 そうび するフランス外人 がいじん 部隊 ぶたい 第 だい 1外人 がいじん 騎兵 きへい 連隊 れんたい や、ベトナム戦争 せんそう 時代 じだい にはヘリボーン 部隊 ぶたい 、現在 げんざい は機甲 きこう 部隊 ぶたい に再編 さいへん されたアメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 1騎兵 きへい 師団 しだん など。スペイン語 ご 圏 けん のラテンアメリカ 諸国 しょこく では、自動車 じどうしゃ 化 か 歩兵 ほへい 部隊 ぶたい のことを騎兵 きへい と称 しょう する場合 ばあい もあり、この場合 ばあい はロシアの自動車 じどうしゃ 化 か 狙撃 そげき 兵 へい に近 ちか い意味合 いみあ いで使 つか われる。
警察 けいさつ では依然 いぜん として多 おお く使 つか われており、欧米 おうべい を中心 ちゅうしん とした各国 かっこく 警察 けいさつ においては儀礼 ぎれい だけでなく警備 けいび の手段 しゅだん として騎馬 きば 隊 たい はまま用 もち いられるが、日本 にっぽん では儀礼 ぎれい 目的 もくてき で少数 しょうすう の部隊 ぶたい が編成 へんせい されているに過 す ぎない。代表 だいひょう 的 てき な例 れい は京都 きょうと 府 ふ 警察 けいさつ の平安 へいあん 騎馬 きば 隊 たい など。詳 くわ しくは騎馬 きば 警官 けいかん の項目 こうもく を参照 さんしょう 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では幾 いく つかの州 しゅう のハイウェイパトロールが「State Trooper」を公式 こうしき の通称 つうしょう として使用 しよう し、階級 かいきゅう にも巡査 じゅんさ 相当 そうとう の「Trooper」が用意 ようい されていることがある。これは自動車 じどうしゃ が登場 とうじょう する前 まえ から馬 うま でパトロールしていた名残 なご り。Trooperは騎兵 きへい や騎馬 きば 警官 けいかん を意味 いみ する単語 たんご であり、State Trooperは直訳 ちょくやく すると「州 しゅう 騎兵 きへい 」の意味 いみ になるが、もちろん騎馬 きば 警官 けいかん を除 のぞ いては馬 うま は使 つか わない。
オリンピック馬術 ばじゅつ 競技 きょうぎ では1948年 ねん のロンドンオリンピック までは男子 だんし の騎兵隊 きへいたい 将校 しょうこう のみに参加 さんか 資格 しかく が限 かぎ られていた。1952年 ねん のヘルシンキオリンピック 以降 いこう は制限 せいげん がなくなった。
^ サイモン・アングリム『戦闘 せんとう 技術 ぎじゅつ の歴史 れきし 1 古代 こだい 編 へん 』創 そう 元 もと 社 しゃ 129頁 ぺーじ
^ サイモン・アングリム『戦闘 せんとう 技術 ぎじゅつ の歴史 れきし 1 古代 こだい 編 へん 』創 そう 元 もと 社 しゃ 128頁 ぺーじ
^ a b サイモン・アングリム『戦闘 せんとう 技術 ぎじゅつ の歴史 れきし 1 古代 こだい 編 へん 』創 そう 元 もと 社 しゃ 142頁 ぺーじ
^ サイモン・アングリム『戦闘 せんとう 技術 ぎじゅつ の歴史 れきし 1 古代 こだい 編 へん 』創 そう 元 もと 社 しゃ 128-129頁 ぺーじ
^ このエピソードを記 き する多数 たすう の文献 ぶんけん があるが、たとえば以下 いか を参照 さんしょう 。Hendrik Willem van Loon, The Rise of the Dutch Kingdom, 1795-1813: A Short Account of the Early Development of the Modern Kingdom of the Netherlands , Garden City, NY: Doubleday, 1915, p. 105; Samuel van Valkenburg ed., America at War: A Geographical Analysis , New York: Prentice-Hall, 1942, p. 103.
^ Schafer, Elithabeth D. (2016), “Cavalry, Horse”, in Tucker, Spencer C., World War II: The Definitive Encyclopedia and Document Collection [5 volumes]: The Definitive Encyclopedia and Document Collection , ABC-CLIO, pp. 376
^ Rothwell, Steve (2017), “F.F.3, Burma Frontier Force” , The Burma Campaign , http://www.rothwell.force9.co.uk/burmaweb/FF3.htm 2019年 ねん 6月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 王 おう 惲『秋 あき 澗先生 せんせい 大全 たいぜん 文集 ぶんしゅう 』巻 まき 四 よん 十 じゅう 汎 ひろし 海 うみ 小 しょう 録 ろく 「兵仗 ひょうじょう 有 ゆう 弓 ゆみ 刀 がたな 甲 かぶと 、而無戈 ほこ 矛 ほこ 、騎兵 きへい 結束 けっそく 。殊 こと 精 せい 甲 かぶと 往往 おうおう 代 だい 黄金 おうごん 為之 ためゆき 、絡 からま 珠 たま 琲者甚衆、刀 かたな 製 せい 長 ちょう 極 ごく 犀 さい 、鋭 するど 洞 ほら 物 ぶつ 而過、但 ただし 弓 ゆみ 以木為之 ためゆき 、矢 や 雖長、不能 ふのう 遠 とお 。人 ひと 則 そく 勇敢 ゆうかん 視 し 死 し 不 ふ 畏 かしこ 。」(川越 かわごえ 泰博 やすひろ 1975 , p. 28)引文断 だん 句 く 錯誤 さくご ,當 とう 作 さく 「兵仗 ひょうじょう 有 ゆう 弓 ゆみ 刀 がたな 甲 かぶと 而無戈 ほこ 矛 ほこ 。騎兵 きへい 結束 けっそく 殊 こと 精 しらげ ,甲 かぶと 往往 おうおう 以黄金 きむ 為之 ためゆき ,絡 からま 珠 たま 琲者甚衆。刀 かたな 製 せい 長 ちょう ,極 ごく 犀 さい 鋭 するど ,洞 ほら 物 ぶつ 而過。但 ただし 弓 ゆみ 以木為之 ためゆき ,矢 や 雖長不能 ふのう 遠 とお 。人 ひと 則 そく 勇敢 ゆうかん ,視 し 死 し 不 ふ 畏 かしこ 。」
^ 『図説 ずせつ ・日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 兵器 へいき ・全 ぜん 戦闘 せんとう 集 しゅう ―決定 けってい 版 ばん (歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう シリーズ)』(学研 がっけん 、2007年 ねん 3月 がつ 1日 にち )p126
^ 欧米 おうべい では、戦史 せんし 上 じょう 最後 さいご の騎馬 きば 突撃 とつげき 成功 せいこう 例 れい として、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の独 どく ソ戦 せん におけるイタリア軍 ぐん 騎兵 きへい の戦 せん 例 れい (1942年 ねん )などが挙 あ げられることが多 おお い。
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