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騎兵 - Wikipedia

騎兵きへい

うまってたたか兵士へいし

騎兵きへい(きへい、えい: cavalry, trooper)は、兵種へいしゅひとつで、動物どうぶつおもうま騎乗きじょうして戦闘せんとう行動こうどう兵士へいしである。最初さいしょはロバが使用しようされていたが、のちうま主流しゅりゅうになった[1]最古さいこ騎兵きへい動物どうぶつが曳行する戦車せんしゃった兵士へいしであった[2]が、のち動物どうぶつまたが騎兵きへい移行いこうしていった[3]

シベリア出兵しゅっぺいにおける大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん騎兵きへい連隊れんたい
現代げんだいにおける騎兵きへいれいスウェーデン衛兵えいへい

騎兵きへい相対そうたいてきたか機動きどうちから攻撃こうげきりょくほこり、作戦さくせんはばひろげ、偵察ていさつ伝令でんれい警戒けいかいなど後方こうほう支援しえんでも活躍かつやくした。また、けい騎兵きへいじゅう騎兵きへい分類ぶんるいされることもあり、前者ぜんしゃ機動きどうりょくを、後者こうしゃ攻撃こうげきりょくおよ防御ぼうぎょりょく重視じゅうししている。狭義きょうぎには乗馬じょうばしたまま戦闘せんとうするものだけを騎兵きへいび、下馬げばして戦闘せんとうするものを乗馬じょうば歩兵ほへい (mounted infantry) とんで区別くべつすることもある。

現代げんだいでは騎兵きへい任務にんむいで装甲車そうこうしゃヘリコプター搭乗とうじょうする機動きどうせいんだ部隊ぶたいも「騎兵きへい」とぶことがある。

歴史れきしじょう騎兵きへい

編集へんしゅう
 
古代こだいエジプト戦車せんしゃ
 
イッソスのたたか

有史ゆうしのこ最古さいこ騎兵きへいは、紀元前きげんぜん2500ねんメソポタミアのシュメールえがかれた戦車せんしゃ部隊ぶたいである。最初さいしょうま存在そんざいられておらず、ロバが使用しようされていた[4]うまにまたがる騎兵きへいへの移行いこうは、しんアッシリアのレリーフにのこされており、アッシュールナツィルパル2せい治世ちせい最初さいしょである。裸馬はだかうま御者ぎょしゃたてち、ゆみへいとまたがるもので速度そくどおそく、うま腎臓じんぞういためた[3]

近年きんねんウクライナデレイフカ遺跡いせきから出土しゅつどしたうま頭骨とうこつのうち、しも顎骨がっこつだいまえ臼歯きゅうし磨耗まもうしているものがすうたいつかっている。これは乗用じょうよう使用しようだいまえ臼歯きゅうしせっ摩耗まもうこんのこ馬具ばぐであるハミませていたことうかがわせるもので、ハミ鏡板かがみいた)ともかんがえられているゆうあな鹿角かつの製品せいひんとともに出土しゅつどした。デレイフカ遺跡いせきうま遺体いたい騎乗きじょう技術ぎじゅつ紀元前きげんぜん4000ねんすで確立かくりつされていることをうかがわせるものであるとする仮説かせつがあり議論ぎろんんだが、その放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていによりうま遺体いたい年代ねんだい紀元前きげんぜん8世紀せいき以降いこうスキタイであることが指摘してきされ、発表はっぴょうしゃ現在げんざい騎乗きじょう推定すいてい開始かいし年代ねんだいを1000ねん以上いじょうげている。なお乗用じょうよう以外いがい駄馬だうま農耕のうこうなどうまいてあるときにはハミ必要ひつようにならない。

古代こだいギリシアでは歩兵ほへいによる密集みっしゅう戦術せんじゅつ主流しゅりゅうで、うま指揮しきかん使つか補助ほじょてき役割やくわりでしかなかった。近年きんねん研究けんきゅうではすで地中海ちちゅうかい世界せかいでは大型おおがたくら発明はつめいされており、きゅうせつわれているほどには騎乗きじょう困難こんなんでなかったとはわれるが、あぶみ(あぶみ)が発明はつめいされるまでは馬上まけ武器ぶきあつかうのは困難こんなんであり、おさなころからの鍛練たんれん必要ひつよう特殊とくしゅ技能ぎのうであった。中国ちゅうごくやイラク、シリア、ギリシャなどの農耕のうこう地域ちいきではうまそだてること費用ひようかさむため、所有しょゆう出来できるのは金持かねもちや有力ゆうりょくしゃかぎられていたようである。牧畜ぼくちくおこなってらしていたマケドニアひとおうピリッポス2せいは、マケドニア部族ぶぞく子弟していあつめたじゅう騎兵きへい部隊ぶたいヘタイロイ)や服属ふくぞくさせた周辺しゅうへんこくから徴募ちょうぼしたけい騎兵きへい部隊ぶたい組織そしきした。ピリッポス2せいアレクサンドロス大王だいおう徴発ちょうはつされたファランクスと騎兵隊きへいたいによる鉄床かなとこ戦術せんじゅつアケメネスあさペルシャをほろぼし広大こうだい領域りょういき征服せいふくしたが、スキタイの騎兵きへいには苦戦くせんいられ撤退てったい余儀無よぎなくさせられた。

アジアでは、紀元前きげんぜん20世紀せいきごろから中国ちゅうごくオルドス華北かほく遊牧民ゆうぼくみん北狄ほくてき進出しんしゅつし、周囲しゅうい農耕のうこうみんとの交流こうりゅう戦争せんそうによる生産せいさん技術ぎじゅつ長足ちょうそく進歩しんぽられ馬具ばぐ兵器へいき発達はったつのち満州まんしゅうからウクライナまでひろ拡散かくさんする遊牧ゆうぼく文化ぶんか馬具ばぐとう発展はってんした。

匈奴きょうどスキタイ・キンメリアとう遊牧民ゆうぼくみん騎馬きば遊牧民ゆうぼくみん)は、騎兵きへい育成いくせいすぐれ、騎馬きば機動きどうりょくかしたひろ行動こうどう範囲はんい強力きょうりょく攻撃こうげきりょくで、しばしば中国ちゅうごく北部ほくぶインド北西ほくせいイランアナトリア欧州おうしゅう農耕のうこう地帯ちたいおどかした。遊牧民ゆうぼくみん騎射きしゃ技術ぎじゅつすぐれており、パルティア匈奴きょうど・スキタイとう遊牧民ゆうぼくみんすぐれた騎乗きじょう技術ぎじゅつ農耕のうこうみんつたわっていったが、遊牧民ゆうぼくみん通常つうじょう生活せいかつ同様どうよう集団しゅうだん騎馬きばへいとしてたたかったのにたいし、農耕のうこうみんではくるまうまかせた戦車せんしゃ使つかうことがおおかった。

共和きょうわせいローマカルタゴハンニバルひきいる各国かっこく傭兵ようへいたいに、騎兵きへい活用かつようした包囲ほうい戦術せんじゅつカンナエのたたかはじめとするたたかいにおいて手痛ていた敗北はいぼくきっした。ギリシャのしょポリスとおなじく市民しみんへい中核ちゅうかくとするローマは歩兵ほへいだけでなく騎兵きへい部隊ぶたいもまた国民こくみんから召集しょうしゅうしていた(エクイテス)が、カルタゴがわのイベリア騎兵きへいヌミディア騎兵きへいくらべて質量しつりょうともに問題もんだいがあり、カンナエのたたかいでは同盟どうめい騎兵きへいわせてもカルタゴぐん半数はんすう程度ていどしかあつめられなかった。そのガイウス・マリウスの軍制ぐんせい改革かいかく創設そうせつされた補助ほじょぐんアウクシリア)をつうじてぞくしゅうないから騎兵きへいつのようになった。とはいえローマの戦術せんじゅつ基本きほんてき歩兵ほへい中心ちゅうしんであり、騎兵きへいてき騎兵きへいによる歩兵ほへい包囲ほういふせいだり、歩兵ほへい勝利しょうりのち追撃ついげきせんもちいられることほとんどだった。

中国ちゅうごくでは春秋しゅんじゅう時代じだいまでは戦車せんしゃぐん主力しゅりょくであった。戦術せんじゅつ発達はったつした戦国せんごく時代じだいはいると、機動きどうりょくすぐもちやす騎兵きへい重要じゅうようされるようになった。兵法ひょうほうしょの『』でも騎兵きへい重要じゅうようせいかれている。ちょうたけれいおう反対はんたい意見いけんってえびすふく騎射きしゃ騎馬きば遊牧民ゆうぼくみんふく着用ちゃくようし、騎射きしゃおこな訓練くんれん方法ほうほう)をれたことはこの時代じだい軍制ぐんせい変革へんかく象徴しょうちょうする出来事できごとである。しかし中原なかはら地域ちいきではうま養殖ようしょく必要ひつよう草原そうげんとぼしいゆえ騎兵きへい育成いくせい費用ひようたかく、しばらくはいしゆみ長柄ながら兵器へいきもちいた歩兵ほへいぐん主力しゅりょくつづけた。いしゆみ普通ふつうゆみよりちょう射程しゃていこう威力いりょくであり、騎兵きへいたいしても有効ゆうこうだった。前漢ぜんかんたけみかど時代じだい以降いこうになると、定住ていじゅうしない匈奴きょうど騎兵きへい対抗たいこうするため本格ほんかくてき騎兵きへい部隊ぶたい編制へんせいされるようになり、匈奴きょうど服属ふくぞくさせ西域せいいき支配しはいした。また、こうかんたかし服属ふくぞくさせた遊牧民ゆうぼくみんみなみ匈奴きょうどがらすなどから騎兵きへいつのった。

また、ゾウ生息せいそく地域ちいきでは、これを調教ちょうきょうして騎乗きじょうするせんぞうばれる類似るいじ兵種へいしゅ存在そんざいし、インドでは15世紀せいき中頃なかごろまで使用しようされた。

中世ちゅうせい

編集へんしゅう
 
中世ちゅうせいヨーロッパ騎士きし(1213ねんミュアのたたか
 
マムルーク騎兵きへい
 
タタール騎兵きへい

あぶみ4世紀せいきまでに中国ちゅうごく発明はつめいされ、7世紀せいきまでにはひがしヨーロッパつたわったとされている。あぶみ使用しようすることにより、騎兵きへいうまよろいまつわった自身じしん体重たいじゅうったやりほこ矛先ほこさき集中しゅうちゅうさせ攻撃こうげきすることが可能かのうとなり、騎兵きへい機動きどうりょくして強大きょうだい攻撃こうげきりょく期待きたいできるようになった。これらの理由りゆうから、モンゴル高原こうげん遊牧民ゆうぼくみん中国ちゅうごく南北なんぼくあさ時代じだい北朝ほくちょうずいきむ中東ちゅうとうサーサーンあさ欧州おうしゅうひがしマ帝国まていこくフランスなどでは、騎手きしゅ全身ぜんしんよろい装着そうちゃくし、騎馬きばにもよろい装着そうちゃくさせるなど騎兵きへいじゅう武装ぶそうすすんだ(じゅうそう騎兵きへい)。欧州おうしゅう地域ちいきではうましゅ改良かいりょうにより大柄おおがらちからつよじゅう種馬たねうま出現しゅつげんしていたことも騎兵きへいじゅうそうささえたが、騎兵きへい過剰かじょうなまでの装甲そうこうは、魯鈍ろどんじゅう種馬たねうま利用りよう重量じゅうりょう増加ぞうかから機動きどうりょく結果けっかをまねいた。じゅう装備そうび装甲そうこう騎兵きへいは、けい騎兵きへい歩兵ほへい陣形じんけい側面そくめんまたは後方こうほう温存おんぞんされ、戦闘せんとう最終さいしゅう段階だんかいてき歩兵ほへい突破とっぱする戦力せんりょくとしてもちいられた。モンゴルだかげん中央ちゅうおうアジアキプチャク草原そうげんなどのきたアジアでも騎兵きへいじゅう装甲そうこうすすんだが、ヨーロッパにおけるような過度かどじゅうそうにはいたらず機動きどうりょくうしなわれることはなかった。

ヨーロッパではじゅう騎兵きへいである騎士きし戦争せんそう花形はながたとなり、やり近接きんせつ攻撃こうげきおこなうことがよしとされ、ゆみなどの射的しゃてき武器ぶき敬遠けいえんする風潮ふうちょう儀礼ぎれいした騎士きし同士どうしによるいち戦争せんそう体系たいけいとなるなかでおおいにさかえた。また騎士きしによる競技きょうぎさかんとなった。中世ちゅうせい後期こうきになり、それまでの儀礼ぎれいてき戦闘せんとうてき戦力せんりょく壊滅かいめつ目的もくてきとする殲滅せんめつせんわっていくと、歩兵ほへい戦力せんりょく重要じゅうようせいたかまった。歩兵ほへい密集みっしゅう陣形じんけいをつくり、ちょうゆみロングボウ)やいしゆみゆみクロスボウ)のような投射とうしゃ武器ぶきハルバード(Halberd やりおのかぎ形状けいじょう長柄ながえ武器ぶき)やパイク(5-6mのちょうやり)のような長柄ながえ武器ぶき騎士きし対抗たいこうした。歩兵ほへいたい騎兵きへい戦術せんじゅつ整備せいびされるとともに、戦場せんじょうでの騎士きし重要じゅうよう次第しだい減少げんしょうしていった。

ひがしアジアではだい規模きぼ民族みんぞく移動いどうによる影響えいきょうあいまって、すうひゃくねんぶりに安定あんていした統一とういつ中国ちゅうごく王朝おうちょうとして現出げんしゅつしたから帝国ていこくではそれ以前いぜん王朝おうちょうくらべて騎兵きへいじゅう装備そうびすすみ、常備じょうびぐんなかにおける騎兵きへい部隊ぶたい割合わりあいおおきくえた。とうはこの騎兵きへい戦力せんりょく主力しゅりょくとした強力きょうりょく遠征えんせいぐんもちい、北方ほっぽう遊牧民ゆうぼくみん大国たいこくであった西にしひがし突厥東北とうほくアジア最強さいきょうこくであった高句麗こうくり次々つぎつぎほろぼし、ユーラシア大陸たいりくにおける随一ずいいちちょう大国たいこくとして君臨くんりんした。から滅亡めつぼうりょう産地さんちであったつばめくもじゅうろくしゅうかわ平原へいげんがそれぞれちぎり西にしなつなどの民族みんぞくによって併合へいごうされたため、そう強力きょうりょく騎兵きへい部隊ぶたい編成へんせいすることができず、他国たこくとの戦争せんそうにおいて終始しゅうし劣勢れっせいたされることになった。いしゆみ火薬かやくもちいた兵器へいきなどがこの時代じだいにておおきく発達はったつしたのもそうりょうきむ騎兵きへい対抗たいこうするために遠距離えんきょり武器ぶき重視じゅうししたことによる影響えいきょうであるとのせつがある。

遊牧民ゆうぼくみんぞく騎馬きば軍団ぐんだんはこの時代じだい最強さいきょう軍隊ぐんたいである。モンゴル高原こうげん中央ちゅうおうアジアなど遊牧民ゆうぼくみん生息せいそくいきつねりょう供給きょうきゅうげんであり、さらに農耕のうこう国家こっか軍隊ぐんたいにはかせない補給ほきゅう無視むしできる遊牧ゆうぼく生活せいかつ特性とくせいゆえ、いちでも強力きょうりょく指導しどうしゃあらわれればフン帝国ていこく突厥帝国ていこくモンゴル帝国ていこくのように、ユーラシア大陸たいりく複数ふくすう地域ちいきまたがって巨大きょだい帝国ていこくきずいた。これらの帝国ていこく崩壊ほうかいしたのちも、モンゴルけいテュルクけい民族みんぞくはその強力きょうりょく軍事ぐんじりょくもとイスラム世界せかいインドなどでマムルーク奴隷どれい軍人ぐんじん)としてちからち、ときには在来ざいらい勢力せいりょくわって政権せいけん掌握しょうあくすることもあった。

近世きんせい

編集へんしゅう
 
ポーランドフサリアたい(1604ねん

ヨーロッパではパイク登場とうじょう火器かき発達はったつテルシオ戦術せんじゅつ普及ふきゅうにより、旧来きゅうらいじゅう武装ぶそうやり突撃とつげきてき粉砕ふんさいする騎兵きへい姿すがたすようになった。かわって登場とうじょうしたのが、じゅう武装ぶそうした乗馬じょうば歩兵ほへいである竜騎兵りゅうきへいや、むねかぶと騎兵きへい火縄銃ひなわじゅう騎兵きへいといった火器かき活用かつようする騎兵きへいであった。一部いちぶではカラコールなどの技巧ぎこうてき戦術せんじゅつられた。しかし17世紀せいきごろになると、ポーランド王国おうこく大元帥だいげんすいスタニスワフ・コニェツポルスキスウェーデンおうグスタフ・アドルフフランスおうルイ14せいらによって、発達はったつした火器かき利用りようとも騎兵きへいのサーベル突撃とつげきなどを復活ふっかつさせた近代きんだいてき運用うんよう方法ほうほうされ、騎兵きへい歩兵ほへい砲兵ほうへいならぶ3兵種へいしゅひとつとなった。なお、じゅう騎兵きへい装甲そうこうをも銃器じゅうき貫通かんつうできるようになると全身ぜんしん甲冑かっちゅうはもはや不合理ふごうりなものとなり、装甲そうこう面積めんせき限定げんていして全身ぜんしん甲冑かっちゅうよりあつおも鉄板てっぱんもちいたむねかぶと(Kürass、当初とうしょあたまから膝下ひざもとまでをおお甲冑かっちゅう)をじゅう騎兵きへいもちいるようになった。時代じだいすすむと、より簡素かんそてと胸当むねあてで文字通もじどお胸部きょうぶおお程度ていどにまでじゅう騎兵きへいむねかぶと縮小しゅくしょうされていった。

チャルディラーンのたたかではオスマン帝国ていこく歩兵ほへい常備じょうびぐんサファヴィーあさ騎馬きば軍団ぐんだん相手あいて勝利しょうりしたり、文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきでも鉄砲てっぽう武装ぶそうした日本にっぽんぐんあきら騎兵隊きへいたいやぶるなどした。

近代きんだい

編集へんしゅう

フリードリヒ大王だいおうらが活躍かつやくした18世紀せいき中頃なかごろ当時とうじ成熟せいじゅくした近代きんだい軍制ぐんせいにおいて、騎兵きへい一般いっぱん以下いかの3しゅ専門せんもん分化ぶんかした。

じゅう騎兵きへい
大型おおがたうまり、騎馬きば突撃とつげきてき歩兵ほへい隊列たいれつ粉砕ふんさいするエリート騎兵きへい防御ぼうぎょよう胸当むねあてをけたものはむねかぶと騎兵きへいなどともわれる。銃器じゅうき発達はったつによりけい騎兵きへい吸収きゅうしゅうされるかたち次第しだい衰退すいたいした。だいいち世界せかい大戦たいせんまでは存在そんざいしたが、その完全かんぜんられなくなった。
けい騎兵きへい
小型こがたアラブ馬あらぶばけい武装ぶそう騎兵きへい偵察ていさつ奇襲きしゅう追撃ついげき使つかわれた。ハンガリー騎兵きへいをモデルにサーベル装備そうびしたユサール代表だいひょうてきであるが、ポーランド騎兵きへいウーラン)をモデルにやり武装ぶそうしたやり騎兵きへいや、りょう騎兵きへいばれるものもあった。
竜騎兵りゅうきへい
ふるくはうま移動いどう下馬げばしてたたか乗馬じょうば歩兵ほへいしたが、のち中型ちゅうがた騎兵きへい全般ぜんぱんすようになる。くにによりけい騎兵きへいぞくしたり、じゅう騎兵きへいぞくしたりした。

このよう騎兵きへい戦術せんじゅつ変化へんかは、戦争せんそうからとおのいていた日本にっぽんなどの地域ちいきではこらなかった。

19世紀せいき前半ぜんはんナポレオン戦争せんそう時代じだいに、騎兵きへいふたた全盛ぜんせいむかえ、フランスの元帥げんすいミュラ代表だいひょうされるように戦場せんじょう花形はながたとなったが、そのマスケットじゅうよりすぐれたライフルほどこせじょう構造こうぞう普及ふきゅうこうそうしき小銃しょうじゅう機関きかんじゅうなどの登場とうじょうにより、騎兵きへい射撃しゃげきてきでしかなくなり、攻撃こうげきりょくとしての役割やくわりうしなわれてしまった。19世紀せいき後半こうはんひろしふつ戦争せんそうにおけるフランス騎兵隊きへいたいプロイセンぐん圧倒的あっとうてき火力かりょくまえになすじゅつもなく全滅ぜんめつした悲劇ひげき歴史れきしきざまれている。一方いっぽうのプロイセン騎兵きへい正面しょうめん戦力せんりょくとしては投入とうにゅうされず、索敵さくてき斥候せっこう伝令でんれいとして活用かつようされることで勝利しょうり貢献こうけんした。

1794ねんから1795ねん冬期とうきに、ゾイデルうみ凍結とうけつしテセルとう周辺しゅうへん身動みうごきがとれなくなっていたオランダ艦隊かんたいが、氷上ひかみ突入とつにゅうしたフランス騎兵きへい砲兵ほうへい包囲ほうい捕獲ほかくされたという非常ひじょうめずらしい戦果せんか記録きろくされている(デン・ヘルダーでのオランダ艦隊かんたい捕獲ほかく英語えいご: Capture of the Dutch fleet at Den Helder[5]

現代げんだい

編集へんしゅう
 
パリ行進こうしんするフランスじゅう騎兵きへいたい(1914ねん8がつ)。
 
ボフォース 37mmたい戦車せんしゃほうでドイツ戦車せんしゃ部隊ぶたい攻撃こうげきするポーランド陸軍りくぐんだい10騎兵きへい旅団りょだん
 
日本にっぽんぐん騎兵きへい(1938ねん東京とうきょう

近代きんだいせん移行いこうすると徐々じょじょ騎兵きへい評価ひょうかくだることなった。とくにち戦争せんそう機関きかんじゅう塹壕ざんごうせんなどは主流しゅりゅうになり、コサック騎兵きへいれる戦果せんかから、騎兵きへい是非ぜひわれるようになる。

だいいち世界せかい大戦たいせんにウーラン将校しょうこうとして参戦さんせんしたマンフレート・フォン・リヒトホーフェンすで活躍かつやくすくないと判断はんだんして航空こうくう部隊ぶたいへと転属てんぞくした。戦闘せんとうりとして活躍かつやくエースパイロットとなったが、転属てんぞくもウーラン時代じだい軍服ぐんぷく着用ちゃくようしていた。

だい世界せかい大戦たいせんでは馬上もうえ戦闘せんとうはわずかなれいのぞいてられなくなり、うまおも移動いどう運送うんそうでの使用しようおおくなり、各国かっこく騎兵きへい自動車じどうしゃ機械きかい促進そくしんされて機動きどう歩兵ほへい装甲そうこう部隊ぶたいとしての役割やくわりくなっていた。 ドイツぐんポーランドへ侵攻しんこうしたが、ポーランドぐん騎兵きへい戦車せんしゃ側面そくめんまわんでたい戦車せんしゃ兵器へいき攻撃こうげきしていた。騎馬きば突撃とつげきてき歩兵ほへいへの奇襲きしゅう掃討そうとうもちいられた。ドイツぐんではどくせん末期まっきブダペスト包囲ほういせんさいには騎兵きへい師団しだん投入とうにゅうしており、ティーガーII装備そうびしたFHHじゅう戦車せんしゃ大隊だいたいと2騎兵きへい師団しだん編成へんせいされたハルコネック騎兵きへい軍団ぐんだん連携れんけいしてソビエト赤軍せきぐん攻撃こうげき一定いってい成果せいかをあげている。また、イタリアぐんブラウ作戦さくせんで、サヴォイア騎兵きへい連隊れんたい騎兵きへい突撃とつげきおこな成果せいかした。現在げんざい装甲車そうこうしゃ部隊ぶたい改変かいへんされたサヴォイア騎兵きへい連隊れんたいはこの戦績せんせき顕彰けんしょうし、装甲車そうこうしゃ当時とうじ軍馬ぐんばたち名前なまえかんしている。ソ連それんぐんではコサック騎兵きへい突撃とつげき敢行かんこうしたこともあった。戦争せんそう末期まっきにはひがしポンメルン攻勢こうせいにおいてポーランド人民じんみんぐんだい1独立どくりつ騎兵きへい旅団りょだんのうち2中隊ちゅうたいが、イタリア戦線せんせんにおいてはアメリカぐんだい10山岳さんがく師団しだん所属しょぞく偵察ていさつ騎兵きへい中隊ちゅうたい騎兵きへい突撃とつげき成功せいこうさせている。これが、欧州おうしゅう戦線せんせん成功せいこうした最後さいご騎兵きへい突撃とつげきつたえられている。

イギリスぐんでは、1942ねん3がつビルマ戦線せんせんおこなわれた戦闘せんとう最後さいご騎兵きへい突撃とつげきとしてられている。アーサー・サンデマン大尉たいい指揮しきするえいしるしぐん騎乗きじょう歩兵ほへい部隊ぶたいはビルマ中部ちゅうぶのトングー近郊きんこう日本にっぽんぐん遭遇そうぐうしたが、それを当時とうじ付近ふきん活動かつどうしていた友軍ゆうぐん中国ちゅうごく遠征えんせいぐん誤認ごにんしてそのまま接近せっきんし、サンデマン大尉たいいふく多数たすう戦死せんしした[6]騎乗きじょう歩兵ほへいはあくまで戦闘せんとうには下馬げばする部隊ぶたいであり、サンデマン大尉たいいらが騎兵きへい突撃とつげきおこなったこと自体じたい疑問ぎもんする見方みかたもある[7]

その伝令でんれい偵察ていさつ任務にんむ大砲たいほう牽引けんいん物資ぶっし輸送ゆそう運搬うんぱん使つかわれていたが、それも鉄道てつどう自動車じどうしゃなどの登場とうじょうにより、徐々じょじょにその姿すがたこととなった。今日きょうでは、道路どうろもう整備せいびじょうきょうわるだいさん世界せかい山岳さんがく地帯ちたいにおいてうま軍事ぐんじ利用りようれいがみられる。

日本にっぽんにおける騎兵きへい

編集へんしゅう

先史せんしから鎌倉かまくら時代じだいまで

編集へんしゅう
 
だいよろいゆみ武装ぶそうした武士ぶし
 
もと寇のぶんながやくにおける鳥飼とりかいかたたたか竹崎たけざきちょう後方こうほうよりけ、もとぐんゆみ肥前ひぜんこく御家人ごけにん白石しらいし通泰みちやす手勢てぜい墨書ぼくしょに「白石しらいし六郎ろくろう通泰みちやす/其勢ひゃく/後陣ごじんよりかく」。(『こうむ襲来しゅうらい絵詞えことばぜんまき5・だい17
 
一ノ谷いちのやたたかでの鵯越ひよどりごえぎゃくとしをえがいた『源平げんぺい合戦かっせん屏風びょうぶ』「一ノ谷いちのたに

日本にっぽん騎兵きへいは、大陸たいりくことなる独特どくとく発展はってんげた。

日本にっぽん列島れっとうでは古墳こふん時代じだいの4世紀せいきまつから5世紀せいき家畜かちくとしてのうま九州きゅうしゅう伝来でんらいし、方形ほうけいしゅうみぞ古墳こふん副葬品ふくそうひんとしてうまこつうま馬具ばぐ出土しゅつどしており、乗馬じょうばとしてもちいられたとかんがえられている。

律令りつりょう国家こっか時代じだい天武天皇てんむてんのう武官ぶかんたいして用兵ようへい乗馬じょうば訓練くんれんかんする発令はつれいをし、大宝たいほう律令りつりょう養老ようろう律令りつりょうつうじて学制がくせい騎兵隊きへいたい強調きょうちょうされた。

ヤマト王権おうけん対立たいりつした蝦夷えぞ狩猟しゅりょうつちかった騎射きしゃ主体しゅたいたたかけい騎兵きへいであった。騎射きしゃ技術ぎじゅつ俘囚ふしゅうによってつたわり、武士ぶしたちは乗馬じょうばゆみ技術ぎじゅつを「弓馬きゅうばみち」と戦闘せんとう技術ぎじゅつとしてとうとぶようになった。これ以降いこう騎兵きへいであることは武士ぶし身分みぶんしめすものでもあった(くわしくは武士ぶし士分しぶんこう参照さんしょうのこと)。封建ほうけんせい発展はってんした中世ちゅうせい日本にっぽんにおいて、武士ぶしたち西洋せいよう封建ほうけん領主りょうしゅ騎士きし)のように、自身じしんらは騎兵きへいとして武装ぶそうし、郎党ろうとう従卒じゅうそつからなる徒歩とほへいきつれ戦争せんそうおこなった。

ヨーロッパの騎士きしやりによる突撃とつげきこのんだのにたいし、日本にっぽん武士ぶしゆみ主力しゅりょくとし、薙刀なぎなただい太刀たちなどの打物うちものくなってから使用しようする武器ぶきであった。また大陸たいりく遊牧民ゆうぼくみん蝦夷えぞ軽装けいそう馬上まけまわしがたんゆみ使つか軽装けいそうたんゆみ騎兵きへいであったのにたいし、日本にっぽん武士ぶしじゅう装備そうびであるだいよろいまとい、威力いりょく重視じゅうししたちょうゆみかずゆみ)を使つかじゅうそうちょうゆみ騎兵きへいであった。この類型るいけい日本にっぽん独自どくじである。

日本にっぽんにおいて、騎兵きへい戦術せんじゅつけていた指揮しきかんとしては、一ノ谷いちのやたたか騎兵きへいかした奇襲きしゅう攻撃こうげき勝利しょうりした源義経みなもとのよしつねがいる。

日本にっぽん騎兵きへい海外かいがい軍隊ぐんたい交戦こうせんしたれいとしてもとがある。ぶんながやくにおいて、九州きゅうしゅう出動しゅつどうした御家人ごけにんもとぐん激戦げきせんひろげた。

もと寇における鎌倉かまくら武士ぶし様子ようすをモンゴル帝国ていこく官吏かんりおうは「へいつえにはゆみがたなかぶとあり、しかしてほこほこし。騎兵きへい結束けっそくす。ことしらげかぶと往往おうおう黄金おうごんを以ってこれり、たま琲をめぐらしたもの甚々おおし、かたなながくてきわめてさいなるものをせいり、ほらぶつじゅうし、[訳語やくご疑問ぎもんてん]ただしだ、ゆみを以ってこれり、ながしと雖えども、とおくあたわず。ひとのり勇敢ゆうかんにして、をみることをおそれず」[8]鎌倉かまくら武士ぶし騎兵きへい密集みっしゅうさせて集団しゅうだんたたかっていたことを指摘してきしている。『こうむ襲来しゅうらい絵詞えことばにも鎌倉かまくら武士ぶし騎兵きへい結束けっそくさせて集団しゅうだんたたかっている様子ようすえがかれており、おう惲の指摘してき裏付うらづけている。

南北なんぼくあさ時代じだい江戸えど時代じだい

編集へんしゅう
 
うまそう
 
うまよろい

南北なんぼくあさ時代じだいのころから、日本にっぽんはかつての騎兵きへい中心ちゅうしんとした戦争せんそうから歩兵ほへい中心ちゅうしん戦闘せんとう移行いこうし、騎兵きへいもそれ以前いぜんとはことなる運用うんようがされるようになっていった。足軽あしがるぐん主力しゅりょくとなること歩兵ほへい戦闘せんとうせん中心ちゅうしんとなり状況じょうきょうによってりてたたかこと必要ひつようとされてきたのである。ルイス・フロイス著書ちょしょ日本にっぽんだい41しょうもとかめねん(1571ねんはちがつ和田わだ惟政これまさ白井しらい河原かわはらたたか騎馬きば武者むしゃ下馬げばさせ戦闘せんとうしたこうで、「交戦こうせんさいには徒歩とほたたかうのが日本にっぽん習慣しゅうかんだから」と説明せつめいしている。

軍法ぐんぽうさむらいようしゅう』にも騎馬きば集結しゅうけつ運用うんようする陣形じんけい登場とうじょうしており、うまやり鉄砲てっぽう運用うんようについて言及げんきゅうした長宗我部ちょうそかべ元親もとちか文書ぶんしょや『雑兵ぞうひょう物語ものがたり』などの当時とうじ文献ぶんけんでも、その様子ようすうかがこと出来できる。上記じょうきのフロイスの記述きじゅつがある一方いっぽう、その4ねん天正てんしょうさんねん(1575ねん)の長篠ながしのたたか徳川とくがわ家臣かしんとして従軍じゅうぐんした水野みずのただしじゅうしょじょう覚書おぼえがき 水野みずの左近さこん物語ものがたり」(牒余ろくまきさん)には戦闘せんとうちゅう武田たけだ騎馬きば武者むしゃが3~50集団しゅうだんじん城前しろまえしがらみまでせてきた記述きじゅつがあるし、評定ひょうじょうでの織田おだ信長のぶなが言葉ことばとして「武田たけだ家中かちゅうものはよくうまり、敵陣てきじんやぶよしきおよびたり、さらに手立てだてせよ」といいじんまえしがらみそなえたこと記述きじゅつされており、ほかにも騎馬きばたいによる騎乗きじょう戦闘せんとうがあった記述きじゅつおおくのこされている。当時とうじうまようよろいうま博物館はくぶつかん所蔵しょぞう)が存在そんざいしていたこともあり乗馬じょうば戦闘せんとう皆無かいむだったというわけではない。先述せんじゅつのフロイスの記述きじゅつもあくまで少数しょうすうだった和田わだぜい多勢たぜいてきたい密集みっしゅうしていどため下馬げばしてたたかったまででそのほうかなっていたからである(戦場せんじょう地形ちけい騎乗きじょう戦闘せんとうてきしていたかも考慮こうりょしなければならない)。

また戦国せんごく後期こうきになるとかく兵科へいかごとあつめて部隊ぶたいことおこなうようになっており(戦国せんごく遺文いぶん北条ほうじょうへんだい3かん、1923ごうには北条ほうじょう氏直うじなお武蔵むさしがんしゅてた書状しょじょうにてしょうはたやり鉄砲てっぽうゆみしゃ騎馬きば兵科へいかごと奉行ぶぎょう総勢そうぜい1500にんほどいわしゅがそれぞれの兵科へいかごと奉行ぶぎょうひきいられてたたかようかれている)後期こうきには兵科へいかけがおこなわれた。

じゅう騎兵きへい優位ゆういせい低下ていかした西欧せいおうにおいては、火縄銃ひなわじゅう装備そうびしたあたらしい騎兵きへい竜騎兵りゅうきへい登場とうじょうしたが、日本にっぽんはそののち江戸えど時代じだいはいり、250ねんものあいだ戦争せんそうがほとんどなくなったため、以降いこう独自どくじ騎兵きへい発展はってんすることはなかった。

明治めいじ以降いこう

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かもみどりこう会戦かいせん
 
騎兵きへいだい17連隊れんたい高田たかだ跡地あとちてられた記念きねん新潟にいがたけん上越じょうえつ高田たかだ公園こうえんない
 
陸軍りくぐん騎兵きへい学校がっこうでの西にし竹一たけいちによるくるまえのパフォーマンス

時代じだいくだ明治維新めいじいしん前後ぜんこうからは、日本にっぽん富国強兵ふこくきょうへい政策せいさくのもと、近代きんだいてき騎兵隊きへいたい創設そうせつ着手ちゃくしゅした。騎兵きへい運用うんようについては、幕末ばくまつ江戸えど幕府ばくふがヨーロッパから軍事ぐんじ顧問こもんまねき、インドシナ駐留ちゅうりゅうフランスぐん士官しかん指導しどうもとづいて騎兵きへい訓練くんれんおこなわれている。明治めいじ初期しょき日本にっぽん陸軍りくぐん創設そうせつされるとヨーロッパしゅ輸入ゆにゅうされて軍馬ぐんば改良かいりょうおこなわれ、秋山あきやま好古よしふるらが中心ちゅうしんとなり、騎兵きへい運用うんよう研究けんきゅうおこなわれた。秋山あきやま騎兵きへい創設そうせつにもかかわり、にち戦争せんそうにおいては、うまかくおと日本にっぽんで、当時とうじ世界せかい最強さいきょううたわれたロシアのコサック騎兵きへいつため、機関きかんじゅう装備そうびなど、数々かずかず工夫くふうをなした。秋山あきやま好古よしふるは『本邦ほんぽう騎兵きへい用兵ようへいろん』においててきふか侵入しんにゅう後方こうほう撹乱かくらんにあたる挺進ていしん騎兵きへい必要ひつようせいき、永沼ながぬま挺進ていしんたいにより実行じっこうされている[9]。 そのため秋山あきやまは「日本にっぽん騎兵きへいちち」とばれる。

だいいち世界せかい大戦たいせん軍縮ぐんしゅく軍備ぐんび近代きんだいなかで、運用うんよう経費けいひ高価こうか戦力せんりょく価値かち疑問ぎもんされた騎兵きへいは、削減さくげん槍玉やりだまにあげられ、歩兵ほへい師団しだん所属しょぞく騎兵きへい連隊れんたい規模きぼ縮小しゅくしょうなどがおこなわれた。騎兵きへい乗馬じょうば戦闘せんとう全面ぜんめん廃止はいしまでも論争ろんそうとなり、騎兵きへいよしはし徳三郎とくさぶろう少将しょうしょう抗議こうぎ自殺じさつをする騒動そうどうとなった。結果けっか乗馬じょうば戦闘せんとう全面ぜんめん廃止はいしかったものの、機関きかんじゅう増加ぞうかなどによる乗馬じょうば歩兵ほへいや、捜索そうさく連隊れんたい創設そうせつによる機械きかいすすんだ。1941ねん昭和しょうわ16ねん)には、歩兵ほへいながれを戦車せんしゃへい統合とうごうされて機甲きこうへいとなり、兵種へいしゅとしての騎兵きへい消滅しょうめつした。騎兵きへいおおくは、西にし竹一たけいち代表だいひょうされるように戦車せんしゃ部隊ぶたい要員よういんとなっていった。

もっとも、機甲きこうへいとなってからも、おも中国ちゅうごく戦線せんせんでの運用うんよう目的もくてきとして少数しょうすう乗馬じょうば騎兵きへい存続そんぞくした。太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきには、本土ほんど決戦けっせんどき空挺くうてい部隊ぶたい迎撃げいげきよう若干じゃっかん騎兵きへい部隊ぶたい新設しんせつされた。なお、現在げんざいのところ世界せかい最後さいご本格ほんかくてき騎兵きへい戦闘せんとう騎馬きば突撃とつげきは、1945ねん(昭和しょうわ20ねん)におこなわれたろう河口かこう作戦さくせんでの騎兵きへいだい4旅団りょだんほかの戦闘せんとうであるともいわれる。どう旅団りょだん日本にっぽん最後さいご騎兵きへい旅団りょだんである。3月27にちろう河口かこう飛行場ひこうじょう乗馬じょうば襲撃しゅうげき占領せんりょう成功せいこうし、世界せかい戦史せんしにおける騎兵きへい活躍かつやく最後さいごかざった[10]

現代げんだい騎兵きへい

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現代げんだいぐんにおいては、実戦じっせん目的もくてきとしただい規模きぼ騎馬きば部隊ぶたい保有ほゆうする国家こっかはアルゼンチン、インド、中国ちゅうごく、チリなど地形ちけいけわしい地域ちいきがある一部いちぶのみである。ドイツやオーストリアなどの山岳さんがく部隊ぶたいは、山岳さんがく地帯ちたいでの荷物にもつ搬送はんそうにウマやロバを利用りようしている。おおくの国家こっかでは、歴史れきし伝統でんとう閲兵えっぺい名誉めいよといった理由りゆうから儀礼ぎれい目的もくてきとした乗馬じょうば部隊ぶたい保護ほごするにとどまっている。

インド陸軍りくぐんだい61騎兵きへい連隊れんたいは2023ねん時点じてんにおいて、機械きかいされていない純然じゅんぜんたる騎兵きへい部隊ぶたいとして世界せかい最大さいだい規模きぼである。どう連隊れんたい国内こくない治安ちあん維持いじ警備けいびのほか、式典しきてんにおける儀仗ぎじょうになっている。また同国どうこく国境警備隊こっきょうけいびたい(BSF)は大隊だいたい規模きぼのラクダ騎兵きへい保有ほゆうしている。

中国ちゅうごく陸軍りくぐんロケットぐんにおいて、車両しゃりょう通行つうこう困難こんなん山岳さんがく地帯ちたい国境こっきょう防衛ぼうえい現代げんだいでも騎馬きば部隊ぶたい運用うんようしている。

テロゲリラなどのいわゆるてい強度きょうど紛争ふんそう(LIC)の駆逐くちく制圧せいあつにおいて騎兵きへい使用しようされることもある。アメリカぐんによるアフガニスタン侵攻しんこうでは、潜入せんにゅうした特殊とくしゅ部隊ぶたい現地げんち部族ぶぞくとともに騎馬きば行動こうどうする場面ばめんもあった。また砂漠さばく地帯ちたいではうまわりにラクダ使用しようすることもある。

車両しゃりょう航空機こうくうきもちいる部隊ぶたいうち「(けい防御ぼうぎょで)機敏きびんかつ迅速じんそく展開てんかい撤収てっしゅう可能かのう部隊ぶたい」という、近代きんだい以前いぜん騎兵きへいおな意味合いみあいを部隊ぶたいが「騎兵きへい」の名称めいしょうかんしていることがある。具体ぐたいてきいちれいとして、AMX-10RC装甲車そうこうしゃ装備そうびするフランス外人がいじん部隊ぶたいだい1外人がいじん騎兵きへい連隊れんたいや、ベトナム戦争せんそう時代じだいにはヘリボーン部隊ぶたい現在げんざい機甲きこう部隊ぶたい再編さいへんされたアメリカ陸軍りくぐんだい1騎兵きへい師団しだんなど。スペインけんラテンアメリカ諸国しょこくでは、自動車じどうしゃ歩兵ほへい部隊ぶたいのことを騎兵きへいしょうする場合ばあいもあり、この場合ばあいはロシアの自動車じどうしゃ狙撃そげきへいちか意味合いみあいで使つかわれる。

警察けいさつでは依然いぜんとしておお使つかわれており、欧米おうべい中心ちゅうしんとした各国かっこく警察けいさつにおいては儀礼ぎれいだけでなく警備けいび手段しゅだんとして騎馬きばたいはままもちいられるが、日本にっぽんでは儀礼ぎれい目的もくてき少数しょうすう部隊ぶたい編成へんせいされているにぎない。代表だいひょうてきれい京都きょうと警察けいさつ平安へいあん騎馬きばたいなど。くわしくは騎馬きば警官けいかん項目こうもく参照さんしょう

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではいくつかのしゅうのハイウェイパトロールが「State Trooper」を公式こうしき通称つうしょうとして使用しようし、階級かいきゅうにも巡査じゅんさ相当そうとうの「Trooper」が用意よういされていることがある。これは自動車じどうしゃ登場とうじょうするまえからうまでパトロールしていた名残なごり。Trooperは騎兵きへい騎馬きば警官けいかん意味いみする単語たんごであり、State Trooperは直訳ちょくやくすると「しゅう騎兵きへい」の意味いみになるが、もちろん騎馬きば警官けいかんのぞいてはうま使つかわない。

オリンピック馬術ばじゅつ競技きょうぎでは1948ねんロンドンオリンピックまでは男子だんし騎兵隊きへいたい将校しょうこうのみに参加さんか資格しかくかぎられていた。1952ねんヘルシンキオリンピック以降いこう制限せいげんがなくなった。

騎兵きへい主題しゅだいとした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ サイモン・アングリム『戦闘せんとう技術ぎじゅつ歴史れきし1 古代こだいへんそうもとしゃ129ぺーじ
  2. ^ サイモン・アングリム『戦闘せんとう技術ぎじゅつ歴史れきし1 古代こだいへんそうもとしゃ128ぺーじ
  3. ^ a b サイモン・アングリム『戦闘せんとう技術ぎじゅつ歴史れきし1 古代こだいへんそうもとしゃ142ぺーじ
  4. ^ サイモン・アングリム『戦闘せんとう技術ぎじゅつ歴史れきし1 古代こだいへんそうもとしゃ128-129ぺーじ
  5. ^ このエピソードをする多数たすう文献ぶんけんがあるが、たとえば以下いか参照さんしょう。Hendrik Willem van Loon, The Rise of the Dutch Kingdom, 1795-1813: A Short Account of the Early Development of the Modern Kingdom of the Netherlands, Garden City, NY: Doubleday, 1915, p. 105; Samuel van Valkenburg ed., America at War: A Geographical Analysis, New York: Prentice-Hall, 1942, p. 103.
  6. ^ Schafer, Elithabeth D. (2016), “Cavalry, Horse”, in Tucker, Spencer C., World War II: The Definitive Encyclopedia and Document Collection [5 volumes]: The Definitive Encyclopedia and Document Collection, ABC-CLIO, pp. 376 
  7. ^ Rothwell, Steve (2017), “F.F.3, Burma Frontier Force”, The Burma Campaign, http://www.rothwell.force9.co.uk/burmaweb/FF3.htm 2019ねん6がつ27にち閲覧えつらん 
  8. ^ おう惲『あき先生せんせい大全たいぜん文集ぶんしゅうまきよんじゅう ひろしうみしょうろく兵仗ひょうじょうゆうゆみがたなかぶと、而無ほこほこ騎兵きへい結束けっそくことせいかぶと往往おうおうだい黄金おうごん為之ためゆきからまたま琲者甚衆、かたなせいちょうごくさいするどほらぶつ而過、ただしゆみ以木為之ためゆき雖長、不能ふのうとおひとそく勇敢ゆうかんかしこ。」(川越かわごえ泰博やすひろ 1975, p. 28)引文だん錯誤さくごとうさく兵仗ひょうじょうゆうゆみがたなかぶと而無ほこほこ騎兵きへい結束けっそくことしらげかぶと往往おうおう以黄きむ為之ためゆきからまたま琲者甚衆。かたなせいちょうごくさいするどほらぶつ而過。ただしゆみ以木為之ためゆき雖長不能ふのうとおひとそく勇敢ゆうかんかしこ。」
  9. ^ 図説ずせつにち戦争せんそう兵器へいきぜん戦闘せんとうしゅう決定けっていばん (歴史れきしぐんぞうシリーズ)』(学研がっけん、2007ねん3がつ1にち)p126
  10. ^ 欧米おうべいでは、戦史せんしじょう最後さいご騎馬きば突撃とつげき成功せいこうれいとして、だい世界せかい大戦たいせんどくせんにおけるイタリアぐん騎兵きへいせんれい(1942ねん)などがげられることがおおい。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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騎兵きへい」のつもの

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