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槍騎兵 - Wikipedia

やり騎兵きへい(そうきへい)はランスやり)を装備そうびした騎兵きへい

概要がいよう

編集へんしゅう

やり装備そうびする騎兵きへい世界中せかいじゅう存在そんざいするが一般いっぱんヨーロッパやり騎兵きへいをさすことがおおい。英語えいごではLancer(ランサー)、フランス語ふらんすごではLancier(ランシエ)、イタリアではLanciere(ランチエーレ)、ドイツではLanzierer(ランツィーラー)やUhlan または Ulanウーラン)、ポーランドではUłan(ウワン)とばれる兵科へいかやり騎兵きへいにあたる。

ヨーロッパでは、古代こだいから中世ちゅうせいにかけてやり騎兵きへいしゅ装備そうびとして使用しようされてきた[1]やり装備そうびした騎兵きへい突撃とつげきは、歩兵ほへいにとっておおきな脅威きょういであった[1]中世ちゅうせい中期ちゅうきから中世ちゅうせい後半こうはんのヨーロッパではランスを主要しゅよう武器ぶきとするじゅう騎兵きへいじゅう装備そうび騎士きしふくまれていたが、じゅう騎兵きへい全員ぜんいん騎士きしというわけではなく、おおくは職業しょくぎょう軍人ぐんじんで、騎士きしつかえるものすくなくなかった[2]中国ちゅうごくにもランスに相当そうとうする兵器へいきとして槊(さく)もしくはうま矟とばれるものがあり、ずいすえたんゆうしんがその使つかとしてられる[3]

歩兵ほへい復興ふっこう騎兵きへい凋落ちょうらく銃器じゅうき導入どうにゅう発達はったつ説明せつめいされることがおおかったが、これはあやまった俗説ぞくせつであり、それどころか銃器じゅうき歩兵ほへいたい相対そうたいてき優位ゆういたもとうとする騎兵きへい導入どうにゅうされ一定いってい効果こうかすらあげた[4]。その背景はいけいにあったのはそもそも中世ちゅうせいにおいてすら騎士きしじゅう装甲そうこう騎兵きへい)は無敵むてきではなかったという事実じじつであり、中世ちゅうせいすすむにつれて騎士きし役割やくわり騎兵きへいやりたずさえての乗馬じょうば襲撃しゅうげきとくしていったことも事実じじつであり、てき隊列たいれつくず公算こうさんがもっとも見込みこめたのが騎乗きじょうした騎士きし突撃とつげきであったこととそのために中世ちゅうせい後期こうきいたって軍隊ぐんたいがしばしばすべての中心ちゅうしんかれらをえたことも事実じじつであるが、すで騎士きしじゅう装甲そうこう騎兵きへい)を運用うんようすることがかなわなかった中世ちゅうせい後期こうきのヨーロッパーのしょ地域ちいきやりやハルバードを代表だいひょうとする長柄ながえ武器ぶき武装ぶそうした歩兵ほへい訓練くんれんほどこして密集みっしゅう隊形たいけい防御ぼうぎょ隊形たいけいませ、騎士きしによる乗馬じょうば襲撃しゅうげき撃退げきたいする能力のうりょく獲得かくとくしていた[4]一方いっぽうでブリテン諸島しょとう人々ひとびとはこの密集みっしゅう歩兵ほへいやぶるという視点してんからたたかえくん理解りかいし、かれらはスコットランドじんとのしょ戦闘せんとうから、騎兵きへい規律きりつある歩兵ほへいたいやぶるためには、兵器へいきとく投射とうしゃ兵器へいき武装ぶそうした兵種へいしゅ支援しえん必要ひつようであることをまなび、独自どくじ戦術せんじゅつ発展はってんさせた結果けっかまれたのはゆみへい騎兵きへいとき下馬げばして密集みっしゅう装甲そうこう歩兵ほへいとなり、とき騎乗きじょうして乗馬じょうば襲撃しゅうげき敢行かんこうした)の柔軟じゅうなんせいのある共同きょうどうであり、ひゃくねん戦争せんそう戦場せんじょうにおけるイングランドぐん勝利しょうり根幹こんかんとなった[4]

つまり、中世ちゅうせいにおける騎士きしじゅう装甲そうこう騎兵きへい)の絶対ぜったいてき戦場せんじょうでの優位ゆういというものはあやまりであるが、ただし、これを過度かどにとらえることも、またあやまりであり、中世ちゅうせい末期まっきの15世紀せいきはむしろ板金ばんきんよろい技術ぎじゅつ最終さいしゅうてき完成かんせいした時期じきであり、じゅう装甲そうこう騎兵きへいちからもっとたかまり、騎兵きへい重要じゅうようされた時代じだいであったともいえる。当時とうじ軍隊ぐんたい比率ひりつると、騎兵きへい歩兵ほへい比率ひりつ同数どうすうかまたは、騎兵きへいほう多数たすうであった事例じれい事欠ことかかないが、じゅう装甲そうこう騎兵きへい強化きょうかは「やりぐみ」とばれる単位たんい強化きょうかであり、増強ぞうきょうされた「やりぐみ」はじゅう装甲そうこう騎兵きへい1めいとそれを支援しえんする2~5めい構成こうせいされ、フランス常備じょうびぐんいしずえとされるシャルル7せいみことのりれいぐんにおいては、じゅう装甲そうこう騎兵きへい1めいしたがえ騎兵きへい1めい騎乗きじょうゆみへい2めい従僕じゅうぼく小姓こしょうかく1めいからなるけい6めい戦闘せんとういん3めいふくむ)の騎乗きじょうへいとされた。騎乗きじょうゆみへい下馬げばしてたたかうことがおおく、ゆんではなく、とくにイタリアではいしゆみへいであることもあり、すなわち、「やりぐみ」とは衝撃しょうげきりょくもちいるじゅう装甲そうこう騎兵きへいぐん中核ちゅうかくとしつつ、支援しえん兵種へいしゅであるけい騎兵きへいゆみへいわせた戦闘せんとう単位たんいであり、これを強化きょうかすることは、銃器じゅうきだい規模きぼ導入どうにゅう以前いぜんに、ヨーロッパはふたたしょ兵科へいか協同きょうどうをより重視じゅうしする方向ほうこうにあったことを意味いみし、そして銃器じゅうきはさらに進展しんてんしていくこの変容へんよう対応たいおうするために、歩兵ほへいだけではなく、16世紀せいき初頭しょとう以降いこう騎兵きへいにももちいられていくことになる[4]

16世紀せいき初頭しょとうまでに騎兵きへいおおまかに、じゅう装甲そうこう騎兵きへいと、軽装けいそうよろいまと軽装けいそうかぶと騎兵きへい騎乗きじょうゆみへいまたはじゅうへい、そして東欧とうおうやアジア(イスラム)の影響えいきょうけたけい騎兵きへい分類ぶんるいされており、1548ねん著書ちょしょでデュ・ブレーは騎兵きへいしゅとして、じゅう装甲そうこう騎兵きへいけい装甲そうこう騎兵きへいけい騎兵きへい騎乗きじょう火縄銃ひなわじゅうへいの4つをげている[4]

このような騎兵きへいたちが主役しゅやくとなったのが15世紀せいきまつから16世紀せいき前半ぜんはんにかけてのイタリア戦争せんそうであり、この戦争せんそうでは騎兵きへいかぎらず、様々さまざま兵種へいしゅあたらしいたたかかたためされており、なかでも銃器じゅうきはこのときまでに、アルケブスじゅうしょう口径こうけい軽量けいりょう火縄銃ひなわじゅう)とばれるかたしきの、現代げんだいでもなじみのある小銃しょうじゅうかたちをとるようになっていた。じゅう装甲そうこう騎兵きへいちょうやりへい不足ふそくしていたスペインぐんは、1503ねんチェニョーラのたたかにおいて、いまだに発展はってん途上とじょうであるアルケブスじゅう武装ぶそうした歩兵ほへいでも野戦やせん陣地じんちわせれば、じゅう装甲そうこう騎兵きへいれることを証明しょうめいした。これは1世紀せいきまえなが訓練くんれん一定いってい以上いじょう体格たいかく必要ひつようとしたちょうゆみへいげたことをより簡単かんたん実現じつげんできるようになったことを意味いみし、ひとつのなされているが、この戦術せんじゅつそのものには真新まあたらしいてんはほとんどなく、ちょうゆみへいうん用例ようれいくわえ、はん世紀せいきまえから先進せんしんてき地域ちいきでは、銃器じゅうき陣地じんちわせてもちいていた。列強れっきょうたたかいで実証じっしょうされたことは趨勢すうせい決定けっていづけるかぜとなり、くわえて、すで有効ゆうこうせい確認かくにんされていたちょうやりへい野戦やせん陣地じんちわりにもちいるなどの応用おうようが、そのにはのこされていた[4]。これにたいするじゅう装甲そうこう騎兵きへいがわ反応はんのうは、当初とうしょ装甲そうこう強化きょうかとしてあらわれた。初期しょきのアルケブスじゅう威力いりょくよわく、よろいあつみをすことは15世紀せいき以来いらい技術ぎじゅつてき完成かんせいされつつあった板金ばんきんよろい能力のうりょくからかんがえても現実げんじつてき回答かいとうではあったのだが、銃器じゅうき威力いりょくすにつれ、よろい実用じつよう支障ししょうるほどにおもくなり、要求ようきゅうされる軍馬ぐんばしち供給きょうきゅう能力のうりょく限界げんかいたっし、かれらは巨大きょだいになり、ゆっくりとうご標的ひょうてきとなりつつあり、くわえて戦略せんりゃく状況じょうきょう変化へんかじゅう装甲そうこう騎兵きへいにとって不利ふりはたらいた。大砲たいほう発達はったつは、15世紀せいき末期まっきから16世紀せいき前半ぜんはんにかけて従来じゅうらい城郭じょうかく無力むりょくし、野戦やせん発生はっせいりつげ、16世紀せいき前半ぜんはんまでに野戦やせんちから発揮はっきするじゅう装甲そうこう騎兵きへい重要じゅうようせいはむしろたかまっており、長柄ながら武器ぶきにした密集みっしゅう歩兵ほへいたいたしかにじゅう装甲そうこう騎兵きへい白兵はくへい乗馬じょうば襲撃しゅうげき撃退げきたいできたが、べつ手段しゅだんにより、歩兵ほへい隊列たいれつみだせれば、じゅう装甲そうこう騎兵きへいによる打撃だげき圧倒的あっとうてきではあった。しかし、1450ねんごろから発達はったつつづけていたりょう堡式築城ちくじょうじゅつ大砲たいほう発達はったつするかたち普及ふきゅうはじめると、おさむしろせんにおける攻撃こうげきがわ防御ぼうぎょがわ有利ゆうり不利ふりふたた防御ぼうぎょがわ優位ゆういへとかたむき、このあたらしい戦略せんりゃく環境かんきょう騎兵きへいもっともとめられた能力のうりょくは、輜重しちょう護衛ごえいてき輜重しちょうたい襲撃しゅうげき現地げんち徴発ちょうはつといった支援しえん任務にんむのための機動きどうせいであった。威力いりょく銃器じゅうき対応たいおうして、装甲そうこう重量じゅうりょうしていたじゅう装甲そうこう騎兵きへいは、鈍重どんじゅうになりつつあり、この任務にんむにはまった不適ふてきであり、こうした理由りゆうからじゅう装甲そうこう騎兵きへいは、より機動きどうせいのある騎兵きへいせきゆずるようになっていったが、野戦やせんにおけるじゅう装甲そうこう騎兵きへいちからは、かつてよりはおとろえたとはいっても、いまだにあなどりがたかったために16世紀せいき中葉ちゅうようにおいてはじゅう装甲そうこう騎兵きへい完全かんぜんりはしなかった[4]

しかし、機動きどうせい重視じゅうしする風潮ふうちょうじゅう装甲そうこうとは反対はんたい軽装けいそうという思想しそう確実かくじつつよめたが、これはよろい強度きょうど向上こうじょうさせるよりも、歩兵ほへいたい攻撃こうげきする速度そくど向上こうじょうさせて好機こうきをつかみることを、あるいは敵対てきたいする騎兵隊きへいたい機動きどうせい上回うわまわることを目的もくてきとするかんがえであり、また、費用ひよう負担ふたんにおいてもえない戦乱せんらん疲弊ひへいした貴族きぞくにとってじゅう装甲そうこう騎兵きへいもとめられる装備そうび軍馬ぐんば準備じゅんびきびしすぎるために、かれらは結果けっかとしてけい装甲そうこう騎兵きへいにならざるをず、これがけい装甲そうこう騎兵きへい増加ぞうか傾向けいこう後押あとおしした[4]

たい銃器じゅうきだけでえば、簡素かんそされた甲冑かっちゅうまもり、軽量けいりょうされた騎兵きへいやり武装ぶそうした騎兵きへいは、ふくすうかい射撃しゃげきえなくとも、素早すばや歩兵ほへいたい接近せっきんして攻撃こうげきすることが可能かのうなはずであり、必要ひつよう部分ぶぶんだけによろい限定げんていすることにより、まだ板金ばんきんあつみをすことも可能かのうだとかんがえられ、16世紀せいき後半こうはんけい装甲そうこう騎兵きへいは、板金ばんきんせいよろいどうりょううでふとももの前面ぜんめんかぎることで重量じゅうりょう削減さくげんをしたななふん甲冑かっちゅうや、さらに不要ふよう部分ぶぶんけずり、ほぼ上半身じょうはんしんだけとなったはん甲冑かっちゅうけ、機動きどうりょく防御ぼうぎょりょく両立りょうりつ目指めざしており、当時とうじのイングランドぐんではかれらのことを「軽装けいそうやり騎兵きへい」とぶことがおおいが、たんに「やり騎兵きへい」とぶこともしばしばあった[4]

こうして1570年代ねんだいまでにけい装甲そうこう騎兵きへいはより迅速じんそく攻撃こうげき可能かのうじゅう騎兵きへいとしてその立場たちば確立かくりつしており、くわえて軽装けいそうかれらに持久じきゅうりょく一定いってい汎用はんようせいあたえたのだが、けい装甲そうこう騎兵きへい隆盛りゅうせい一瞬いっしゅんであった、すでにこのときにはかれらの立場たちばうば短銃たんじゅう騎兵きへい戦場せんじょう存在そんざいしていたからである[4]

一方いっぽう騎乗きじょう火縄銃ひなわじゅうへいけい騎兵きへいは、おさむしろせん主体しゅたい戦略せんりゃく環境かんきょうおおいに役立やくだ騎兵きへいしゅであり、騎乗きじょうゆみいしゆみへい中世ちゅうせい戦争せんそういち要素ようそであり、銃器じゅうき発達はったつしたがい、かれらが武器ぶき銃器じゅうきえたのは自然しぜんながれであり、また、銃器じゅうき騎兵きへい採用さいようはじめた時期じき意外いがいはやく、1460ねんにはすで騎士きしじゅうまわ姿すがた記録きろくえがかれており、すくなくとも1496ねんまでに騎乗きじょうして小銃しょうじゅうあつか部隊ぶたいがヨーロッパの戦場せんじょう登場とうじょうした[4]

けい騎兵きへいにおいても中世ちゅうせいからの伝統でんとうがあり、フランスみことのりれいぐん所属しょぞく騎乗きじょうゆみへい「デルシェ」は次第しだいゆみて、かるやりもちいての乗馬じょうば戦闘せんとう主体しゅたいとするけい騎兵きへいとなり、

イベリア半島はんとうにおいてはアラブふうけい騎兵きへい「ヒネーテ」が、レコンキスタにおいておおいに活躍かつやくし、スペインぐんけい騎兵きへい主力しゅりょくとなるだけではなく、諸国しょこくにおけるけい騎兵隊きへいたい模範もはんともなり、くわえて16世紀せいきオスマン帝国ていこく西進せいしん一時期いちじきいきおいをうしなうと、バルカン半島ばるかんはんとう起源きげんとするけい騎兵きへいもヨーロッパに流入りゅうにゅうはじめた[4]

全体ぜんたいてきじゅう装甲そうこう騎兵きへい衰退すいたいなかで、武器ぶき変化へんかはじまり、つまりはじゅう騎兵きへい銃器じゅうき採用さいようして攻撃こうげきりょくすという思想しそうであり、すでに1300年代ねんだい初頭しょとうから、長柄ながら武器ぶき武装ぶそうした歩兵ほへい密集みっしゅう隊形たいけいやぶるために、ゆみへい進出しんしゅつさせ、その射撃しゃげきにより歩兵ほへい隊列たいれつせきすきみ、そしてじゅう装甲そうこう騎兵きへいがこの隊列たいれつやぶるという戦術せんじゅつ一般いっぱんされてきていた。ここから、じゅう騎兵きへい自身じしん道具どうぐつという概念がいねんまれた。ホイールロックしき短銃たんじゅうじゅう騎兵きへいあたえた影響えいきょうおおきく、とくに1540年代ねんだい以降いこうにおいて短銃たんじゅうにしたドイツしき騎兵きへい「レイター」が活躍かつやくしたことはじゅう騎兵きへい武装ぶそうとしての短銃たんじゅう地位ちい確実かくじつなものとした。ドイツのシュマルカルデン戦争せんそうやフランスのユグノー戦争せんそうにおいて、ドイツじんたちは騎兵きへい短銃たんじゅうわせがきわめて有効ゆうこうであることを証明しょうめいし、じゅう装甲そうこう騎兵きへいけい装甲そうこう騎兵きへい騎乗きじょう火縄銃ひなわじゅうへい短銃たんじゅうまえにして屈服くっぷく余儀よぎなくされ、たい歩兵ほへいせんにおいても「レイター」は能力のうりょく発揮はっきした。すで騎乗きじょうからのアルケブスじゅうによる射撃しゃげき長柄ながえ武器ぶき武装ぶそうした密集みっしゅう歩兵ほへいたい有効ゆうこうであることは1547ねんのピンキー・クルーのたたかいでスコットランドじん歩兵ほへいたい壊滅かいめつさせて証明しょうめいされていたが、1562ねんドルーのたたかではじゅうへい友軍ゆうぐん騎兵隊きへいたい援護えんごいたスイスやりへい方陣ほうじんたいし、「レイター」の継続けいぞくてき短銃たんじゅう射撃しゃげきおおいに威力いりょく発揮はっきし、そのをヨーロッパにとどろかせた。フランスで発達はったつしたドイツまれの短銃たんじゅう騎兵きへいつぎなるヨーロッパの戦場せんじょうである低地ていち諸国しょこく地方ちほう、そしてふたたびドイツへと伝播でんぱすることになり、短銃たんじゅう騎兵きへいやり西にしヨーロッパの戦場せんじょうからほとんどほうむった。その転換てんかんてんとして有名ゆうめいなのが1597ねんオラニエこうマウリッツによる軍制ぐんせい改革かいかく一環いっかんとしておこなわれた騎兵きへいやり廃止はいしであり、このときかれは「レイター」とおなじく短銃たんじゅうおも武器ぶきとした「むねかぶと騎兵きへい」とばれる騎兵きへいしゅをオランダぐん導入どうにゅうした。マウリッツは西にしヨーロッパにおけるへいじゅつ師範しはんてき人物じんぶつとなっていたために、以降いこうにおいて、当時とうじ西にしヨーロッパの資料しりょう短銃たんじゅう騎兵きへいのことをむねかぶと騎兵きへい呼称こしょうするようになる[4]

17世紀せいき初頭しょとう西にしヨーロッパの騎兵きへいむねかぶと騎兵きへいやり騎兵きへい騎銃きじゅう騎兵きへい(ハークバスじゅう騎兵きへいおよびビン銃びんじゅう騎兵きへい)、竜騎兵りゅうきへいであり、じゅう装甲そうこう騎兵きへい姿すがたし、けい装甲そうこう騎兵きへいは、おおくの場合ばあいやり騎兵きへい呼称こしょうされており、騎乗きじょう火縄銃ひなわじゅうへいは、乗馬じょうば戦闘せんとうおも任務にんむとした騎銃きじゅう騎兵きへい下馬げば戦闘せんとうおも任務にんむ竜騎兵りゅうきへいかれ、当時とうじ竜騎兵りゅうきへいは18世紀せいきとはことなり、依然いぜんとして騎乗きじょう歩兵ほへいであり、歩兵ほへいようのマスケットじゅうだけではなく、一部いちぶではちょうやり(パイク)を携帯けいたいすることすらあった。だい5の騎兵きへいしゅとしてけい騎兵きへい存在そんざいしていたとはいえ、すでさんじゅうねん戦争せんそう(1618ねん~1648ねん)もなかばをぎた時代じだいにおいて、けい騎兵きへいはほぼ絶滅ぜつめつしていた。16世紀せいき後半こうはんユグノー戦争せんそう参戦さんせんした将軍しょうぐんドゥ・ラ・ヌーいわく、短銃たんじゅうによる銃弾じゅうだん殺傷さっしょうりょく騎兵きへいやりよりもはるかにたかく、くわえて複数ふくすう所持しょじによりふくすうかい攻撃こうげき可能かのうとなり、取扱とりあつかいせいすぐれていることから乱戦らんせんにおいても有効ゆうこうであるとのことだが、これが全員ぜんいん一致いっち見解けんかいであるわけではなかった。たとえばヨーロッパで最初さいしょぐん大学だいがく校長こうちょうつとめたヴァルハウゼンが1616ねん騎兵きへいやり利点りてん主張しゅちょうし、これをるのはあやまりだと指摘してきしており、どう時期じきべつ系譜けいふつらなるやり騎兵きへい隆盛りゅうせいしていたポーランドの事例じれいしめすとおりに騎兵きへいやり短銃たんじゅう単純たんじゅんおとるとしめすのはむずかしいことであり、また、積極せっきょくてき短銃たんじゅう活用かつようしようとしたオランダのてきであるスペインが軽装けいそうやり騎兵きへい最後さいごまで維持いじした国家こっかひとつでもあり、すなわち、西にしヨーロッパにおけるやり騎兵きへい消滅しょうめつ短銃たんじゅう代表だいひょうされる戦術せんじゅつ技術ぎじゅつだけの問題もんだいではなく、16世紀せいきじゅう装甲そうこう騎兵きへい消滅しょうめつしたのとおなじくもっとおおきな背景はいけいかたられるべき問題もんだいでもある[4]

やり騎兵きへいてきした人的じんてき資源しげん貴族きぞくあるいはその傑出けっしゅつした能力のうりょくのある戦士せんし依存いぞんしており、つね少数しょうすうかぎられており、くわえて装備そうび軍馬ぐんば必要ひつよう費用ひようじゅう装甲そうこう騎兵きへいほどではないが、導入どうにゅうでも運用うんようでも高額こうがくにおよび、一方いっぽうむねかぶと騎兵きへい要求ようきゅうされる能力のうりょくは、ひとでも軍馬ぐんばでも、やり騎兵きへいくらべてきわめてひくく、その結果けっか導入どうにゅう費用ひよう運用うんよう費用ひようやすくなり、規模きぼ拡大かくだいがはるかに容易よういとなり、そしてこのすうてき優勢ゆうせいと、短銃たんじゅう技術ぎじゅつてき利点りてんわさり、すべてをけっしたのだが、これはポーランドにおいて最終さいしゅうてきやり騎兵きへい「フサリア」が軍事ぐんじ制度せいどとして崩壊ほうかいしたことをも説明せつめいできる事柄ことがらである[4]

さんじゅうねん戦争せんそう戦場せんじょうで、やり騎兵きへい姿すがたはほとんどなくなり、1600ねんまでに、かつて一般いっぱんてきであった騎兵きへいやり西にしヨーロッパからられて、軽装けいそうやり騎兵きへい騎士きし名残なごりのこしていたフランスのじゅう装甲そうこう騎兵きへい「シャンダムリ」もしゅ武器ぶき短銃たんじゅうえ、むねかぶと騎兵きへいとなり、さんじゅうねん戦争せんそうにおける基本きほんてき騎兵きへいは、じゅう騎兵きへいとしてのむねかぶと騎兵きへいちゅう騎兵きへいとしての騎銃きじゅう騎兵きへい竜騎兵りゅうきへいけい騎兵きへい構成こうせいされた。当時とうじ騎兵きへいしゅかんする議論ぎろん中心ちゅうしんむねかぶと騎兵きへい騎銃きじゅう騎兵きへい比較ひかくにあり、むねかぶと騎兵きへいじゅう騎兵きへいとして野戦やせんにおける決勝けっしょう兵種へいしゅとしての地位ちいめ、かれらの乗馬じょうば襲撃しゅうげき正面しょうめんからのたたかいならば、ほかのあらゆる騎兵きへい撃破げきは可能かのうであった。一方いっぽう騎銃きじゅう騎兵きへい理論りろんじょうむねかぶと騎兵きへい支援しえん兵種へいしゅであり、騎兵きへいよう小銃しょうじゅう(アルケブスじゅうビン銃びんじゅう、バンドリアじゅうなど)を武器ぶきとしており、騎乗きじょう火縄銃ひなわじゅうへいとする射撃しゃげき重視じゅうしした騎兵きへいであり、騎乗きじょう歩兵ほへいとしての役割やくわりもとめられた当時とうじ竜騎兵りゅうきへいとはことなり、かれらはこのときすでしん騎兵きへいとして、乗馬じょうば戦闘せんとう主体しゅたいとする騎兵きへい変容へんようしていた。その結果けっか騎銃きじゅう騎兵きへい軽装けいそうかしての機動きどうちょう射程しゃてい騎銃きじゅうもちいる射撃しゃげきときにはけんにしての乗馬じょうば襲撃しゅうげき、サブウェポンである短銃たんじゅうもちいての近距離きんきょり射撃しゃげきなど、戦術せんじゅつてき役割やくわりをこなす汎用はんよう騎兵きへいとなっていた。この2つの騎兵きへいしゅ時代じだいすすむにつれ、ほとんどちがいがなくなり、その過程かていまれたのが、「軽装けいそうむねかぶと騎兵きへい」とばれる、よろい一部いちぶ削減さくげんし、騎銃きじゅうつようになったむねかぶと騎兵きへいであり、胸当むねあてとかぶと支給しきゅうされた騎銃きじゅう騎兵きへいでもあり、軽装けいそうむねかぶと騎兵きへいしょう戦闘せんとうで、「じゅう騎銃きじゅう騎兵きへい会戦かいせんにおいて相応そうおう役割やくわりたし、これらは意図いとてき場合ばあい資金しきんてき問題もんだいである場合ばあいもあり、まずしいむねかぶと騎兵きへい胸当むねあてのみでまもって武装ぶそう短銃たんじゅう2ちょうのみであり、裕福ゆうふく騎銃きじゅう騎兵きへい軽装けいそうむねかぶと騎兵きへいとほとんどわらなかった[4]

スウェーデンおうグスタフ・アドルフはスウェーデン騎兵きへい改革かいかくし、その結果けっかさんじゅうねん戦争せんそうんだが、当時とうじのスウェーデン騎兵きへい貧弱ひんじゃく軍馬ぐんば経験けいけん兵士へいしからなり、むねかぶと騎兵きへい存在そんざいしないにひとしく、かれ自軍じぐん主力しゅりょく騎兵きへいであった騎銃きじゅう騎兵きへいから騎銃きじゅううばり、短銃たんじゅうけんのみをおも武器ぶきとし、甲冑かっちゅう胸当むねあてとてとめんひらいたかぶとのみを支給しきゅうしたが、これは騎銃きじゅう騎兵きへい廃止はいしであり、主力しゅりょく騎兵きへい軽装けいそうむねかぶと騎兵きへいといえる。軍馬ぐんば貧弱ひんじゃくさにくわえて、戦地せんちにおいて簡単かんたん甲冑かっちゅうすらスウェーデンぐん不足ふそくしたことから軽装けいそうむねかぶと騎兵きへいとすらべない場合ばあいおおかったうえに、後年こうねんになるにつれ、甲冑かっちゅう価値かち低下ていかして、困難こんなんして供給きょうきゅうするほどのものではなくなっていたために、グスタフ・アドルフのスウェーデン騎兵きへいは、北部ほくぶドイツのしん教徒きょうとたちの軍隊ぐんたいためされていた軽装けいそう騎兵きへいぞくする騎兵きへいぶべきであったとおもわれる。かれがこのような改革かいかくおこなった背景はいけいにはポーランドのやり騎兵きへい「フサリア」にたいする自軍じぐん騎兵きへいよわさにくわえ、むねかぶと騎兵きへい存在そんざいしない状態じょうたい支援しえん兵種へいしゅである騎銃きじゅう騎兵きへい不要ふようであるという思想しそう存在そんざいであり、わって重視じゅうしされたのが汎用はんようせいであり、軽装けいそう騎兵きへいはこれまで騎銃きじゅう騎兵きへいになっていた偵察ていさつ任務にんむ会戦かいせんがいでの小競こぜいなどの任務にんむをこなすと同様どうように、会戦かいせんにおいては密集みっしゅう乗馬じょうば襲撃しゅうげきおこなった。かれらは会戦かいせんでの決勝けっしょう兵種へいしゅとくしたむねかぶと騎兵きへいや、会戦かいせんがいでの活動かつどうとくけい騎兵きへいくらべ、それぞれの任務にんむでは二流にりゅう能力のうりょくしか発揮はっきできなかったが、費用ひようたい効果こうかにおいてはきわめてすぐれていた。17世紀せいきちゅう諸国しょこくはこの汎用はんようせいたか騎兵きへい模倣もほうしていき、これは単純たんじゅんに「騎兵きへい」としょうする騎兵きへいしゅとなった。また、かれは1631ねん竜騎兵りゅうきへい役割やくわりさい定義ていぎして、当時とうじにおいては騎乗きじょう歩兵ほへいでしかなかった竜騎兵りゅうきへいに、騎乗きじょうにおいても射撃しゃげき戦闘せんとうもとめ、騎銃きじゅう騎兵きへいになっていた役割やくわりわせることとした。このながれも時代じだいすすむにつれ、普遍ふへんし、最終さいしゅうてきに18世紀せいきいたって竜騎兵りゅうきへい密集みっしゅう乗馬じょうば襲撃しゅうげきおこなえるしん騎兵きへいとなった[4]

さんじゅうねん戦争せんそうちゅうにスウェーデンぐんおな理由りゆうからその諸国しょこくむねかぶと騎兵きへい甲冑かっちゅう軽装けいそうすすんだが、むねかぶと騎兵きへいという騎兵きへいしゅびた。一部いちぶむねかぶと騎兵きへい甲冑かっちゅう完全かんぜんったが、依然いぜんとして大柄おおがら軍馬ぐんばにまたがり、必要ひつよう最低限さいていげんよろいまつわった騎兵きへい乗馬じょうば襲撃しゅうげきは、会戦かいせんにおいて必要ひつようとされていた。17世紀せいきはじまりに甲冑かっちゅう姿すがた理想りそうであったむねかぶと騎兵きへいは、軽装けいそうむねかぶと騎兵きへい軽装けいそう騎兵きへい影響えいきょうけ、よろいらし、17世紀せいきわりには胸当むねあてとてのみをのこかたちとなり、17世紀せいき後半こうはんにおいて「騎兵きへい」はかつての専門せんもんしていた多様たよう騎兵きへいしゅ役割やくわりすべ内包ないほうし、ほどこせじょうじゅう騎兵きへい選抜せんばつ騎兵きへい)も、むねかぶと騎兵きへいも、一般いっぱん騎兵きへいも「騎兵きへい」というひとつの種類しゅるい統合とうごうされた。この言葉ことば特定とくてい騎兵きへいしゅというよりもじゅう騎兵きへいとしての役割やくわり、つまり乗馬じょうば襲撃しゅうげき重心じゅうしんいた汎用はんようせいのある、あらゆる種類しゅるい騎兵きへいあらわすものとなすべきである。のこりの騎兵きへいしゅであるけい騎兵きへいについては有名ゆうめいみっつの種類しゅるいがあり、そのすべてが東欧とうおう起源きげん騎兵きへいであり、クロアチアけい騎兵きへい「クロアート」、ハンガリーけい騎兵きへい「フサール」、コサックけい騎兵きへい「コサック」である。これらけい騎兵きへいのうちフサールは17世紀せいきちゅう民族みんぞくせいうしない、西にしヨーロッパ諸国しょこく普遍ふへんし、ハンガリーじん以外いがい多様たよう人々ひとびとがその役割やくわりをつとめるようになったために以後いごのフサールは「驃騎兵ひょうきへい」とぶべきである。クロアートはほとんど驃騎兵ひょうきへい同化どうかした。コサックのみは独自どくじせいうしなわなかったが、その活動かつどう範囲はんいはポーランドおよびロシア周辺しゅうへんかぎられた[4]

17世紀せいきわったとき西にしヨーロッパ騎兵きへいは、普遍ふへんしたハンガリー起源きげんけい騎兵きへいである驃騎兵ひょうきへい乗馬じょうば戦闘せんとうじくあしうつしつつあったなか騎兵きへいである竜騎兵りゅうきへい会戦かいせんにおける主力しゅりょく騎兵きへいであるじゅう騎兵きへいたる騎兵きへいの3種類しゅるい大別たいべつされることとなった。また、武装ぶそうからはほぼ完全かんぜん騎兵きへいやり廃止はいしされたが、一方いっぽうで、独自どくじ発展はってんげていたポーランドでは、バルカン半島ばるかんはんとう起源きげんけい騎兵きへい西欧せいおう装甲そうこう騎兵きへいざった系譜けいふであるやり騎兵きへい「フサリア」とその支援しえん兵種へいしゅである「パンツェルニ」が、騎兵きへいやりにする騎兵きへいしゅとしてびており、18世紀せいきまつ西にしヨーロッパに還流かんりゅうしてふたた騎兵きへいやり復活ふっかつさせる要因よういんとなった[4]

騎兵きへいしゅ変容へんよう概観がいかんすれば、短銃たんじゅう騎兵きへいやりおとらぬことはあきらかであり、むしろ短銃たんじゅうやり愛着あいちゃくつづけた「フサリア」ですら、手放てばなすことがなかった万能ばんのう兵器へいきとなるが、16~17世紀せいきにおける短銃たんじゅう騎兵きへい戦術せんじゅつとして悪名あくめいたかいのが騎兵きへい大隊だいたいによるカラコール(旋回せんかい射撃しゃげき戦術せんじゅつであり、これは一般いっぱんてき縦隊じゅうたいがたである程度ていど距離きょりになるまでてき速歩はやあし接近せっきんし、横列おうれつごとに馬首うまくびめぐらせながら短銃たんじゅう射撃しゃげきおこない、そして装填そうてん再度さいど射撃しゃげきそなえるために隊形たいけいさい後尾こうびまわるとともに、つづいてうしろのれつすす斉射せいしゃかえ戦術せんじゅつとしてられている。ただし、カラコールという戦術せんじゅつ名称めいしょうただしくない可能かのうせいがあり、たとえば西にしヨーロッパにおいて最初さいしょ騎兵きへい戦術せんじゅつ教本きょうほんしるしたクルーソーは、突進とっしんしてきた騎兵きへいたいし、左右さゆうひらいて側面そくめん、あるいは背後はいごから逆襲ぎゃくしゅうする機動きどうとしてカラコールをえがいているが、これはあきらかに旋回せんかい射撃しゃげき機動きどうとはことなり、クルーソーはむねかぶと騎兵きへい同士どうし戦闘せんとうとしてこれを開設かいせつしているが、たいやり騎兵きへい戦術せんじゅつとしてもとく有効ゆうこうであり、マウリッツがスペインぐんやり騎兵きへいへの対抗たいこうさくとしてオランダぐんむねかぶと騎兵きへいにこの軌道きどう実施じっしさせている。しかし、名称めいしょうがどのようなものであるにせよ、旋回せんかい射撃しゃげきのカラコール戦術せんじゅつ実際じっさい戦場せんじょうとくに「レイター」によってもちいられている。もっとも、「レイター」もつねにこの戦術せんじゅつ採用さいようしたわけではなく、たとえば「レイター」が活躍かつやくした初期しょき時代じだいたる1553ねんのジーヴァスハウゼンのたたかいにおいて、かれらはてき白色はくしょく見分みわけられるほどにいちじるしく接近せっきんし、それから短銃たんじゅうって突進とっしんしたとわれており、また、1562ねんのフランス、ドルーのたたかにおいて「レイター」のカラコール戦術せんじゅつ銃器じゅうき的確てきかく支援しえんいたスイスやりへい方陣ほうじん一方いっぽうてき攻撃こうげきおこない、甚大じんだい被害ひがいあたえた。これは旧来きゅうらい騎兵きへいやり主力しゅりょく武器ぶきとしたじゅう装甲そうこう騎兵きへいやり騎兵きへいではまったく、不可能ふかのうなことであり、火縄銃ひなわじゅう騎兵きへいがスコットランドじん騎兵隊きへいたい甚大じんだい損害そんがいあたえた1547ねんのピンキー・クルーのたたかいの再現さいげんでもあった。これが意味いみするのはカラコール戦術せんじゅつあるいは騎乗きじょうからの持続じぞくてき射撃しゃげき戦術せんじゅつが、間違まちがいなく、かつてじゅう騎兵きへいくるしめたちょうやりへい密集みっしゅう隊形たいけいたいするじゅう騎兵きへいがわ回答かいとうであったことであり、このてんだけをとってもカラコール戦術せんじゅつ意味いみのあるものではあったが、現代げんだいにおいてカラコール戦術せんじゅつおろかな戦術せんじゅつ筆頭ひっとうがりつづけている。たしかに、このころにおいて銃器じゅうき支援しえんいた密集みっしゅう歩兵ほへいたいはほとんど存在そんざいしなくなっており、そして一定いっていりょうじゅうへいちょうやりへい協調きょうちょうさせた密集みっしゅう歩兵ほへいたい相手あいてにしたときに、射撃しゃげきせんにおいてのないこの戦術せんじゅつ非常ひじょう不利ふりおちいった。また、さい装填そうてんためさい前列ぜんれつ後退こうたいする瞬間しゅんかんねらってのやり騎兵きへい逆襲ぎゃくしゅうたいしても脆弱ぜいじゃくであり、くわえて要求ようきゅうされる精密せいみつうごきは戦場せんじょう実施じっしするには複雑ふくざつすぎて、練度れんどひくいレイターたちにはあま機動きどうであったともいえる[4]

短銃たんじゅう騎兵きへいやりよりも殺傷さっしょうりょく取扱とりあつかいせいすぐれ、やりあつか騎兵きへいよりもひくしつ軍馬ぐんば練度れんど運用うんよう可能かのうであることからかずそろえることが可能かのうであり、その結果けっか旧来きゅうらいじゅう装甲そうこう騎兵きへいやり騎兵きへい西にしヨーロッパから絶滅ぜつめつした[4]

平均へいきんすると戦意せんい練度れんどひくかった16世紀せいき騎兵きへいはそれゆえたて隊形たいけいらざるをなかったが、一方いっぽうしつひく兵士へいし訓練くんれんするための教練きょうれんにより、騎兵きへい組織そしき確実かくじつすすみ、フランスの短銃たんじゅう騎兵きへいはその行動こうどうがいわゆるカラコール戦術せんじゅつおちいることもあった。内戦ないせんであると同時どうじ宗教しゅうきょう戦争せんそう側面そくめんユグノー戦争せんそうでは、射撃しゃげきせんのちけんにしててき肉薄にくはくし、接近せっきんせんをすることもしばしばあった。そしてレイターの流儀りゅうぎれたかれらは個々ここ局面きょくめんではじゅう装甲そうこう騎兵きへい圧倒あっとうされることもあったが、大抵たいてい場合ばあいははるかにかる武装ぶそうと、軽快けいかい軍馬ぐんば、そしてけん短銃たんじゅう利用りようし、その機動きどうりょくたんれつ隊形たいけいをとるてきやぶった。また、騎兵きへいしゅとの共同きょうどうすすみ、すでに16世紀せいき前半ぜんはんにおいて、騎乗きじょう火縄銃ひなわじゅうへいなどをやり騎兵きへい前方ぜんぽう配置はいちして利用りようするという戦術せんじゅつ習慣しゅうかんされており、かれらはじゅう装甲そうこう騎兵きへいやり騎兵きへいなどのじゅう騎兵きへい攻撃こうげき先立さきだって支援しえん射撃しゃげきおこない、てき隊列たいれつせきすきんだ。おおくの場合ばあいはこれを支援しえんする短銃たんじゅう騎兵きへい後方こうほうにはひかえており、「レイター」とやり騎兵きへいませて相互そうご支援しえんさせることもおこなわれるようになり、じゅうへい騎兵きへい協同きょうどう進展しんてんし、1587ねんのクートラのたたかいやそのの1590ねんのイヴリーのたたかいにおいて証明しょうめいされたように歩兵ほへい協同きょうどうしつつ射撃しゃげき刀剣とうけんに、襲歩しゅうほ白兵はくへい乗馬じょうば襲撃しゅうげき仕掛しかけるこの戦術せんじゅつきわめて効果こうかてきであった。刀剣とうけんでの突撃とつげきはスウェーデン騎兵きへいにとっても不可欠ふかけつ戦術せんじゅつであったが、すでにドイツ騎兵きへいにとっても重要じゅうよう戦術せんじゅつとなっており、ブレジンスキーによれば、1630ねんまでにかれらはカラコールへのこだわりをてており、戦意せんいさえかたまっていれば、むねかぶと騎兵きへいよろいはスウェーデン騎兵きへい刀剣とうけんたいしても有効ゆうこうであり、むねかぶと騎兵きへい至近しきん距離きょり短銃たんじゅうもちいることをも可能かのうとしており、スウェーデンぐん騎兵きへい圧倒あっとうすることもあった[4]

17世紀せいき後半こうはんから18世紀せいき初頭しょとうにかけて騎兵きへいたちの接近せっきん戦時せんじ主要しゅよう武器ぶき短銃たんじゅうから刀剣とうけんわったが、これは騎兵きへいからよろいだい部分ぶぶんえたことで、短銃たんじゅう殺傷さっしょうりょく不要ふようとなり、接近せっきんせん長引ながびいたさいには、騎兵きへい短銃たんじゅう銃床じゅうしょうよりも刀剣とうけん信頼しんらいしたからである。射撃しゃげきのち刀剣とうけんえて接近せっきんせんおこなうためにカラコールてき軌道きどうりにくくさせる効果こうかもあった。じゅうだけをたよりとする場合ばあい、どうしても接近せっきんせんにおいての不安ふあんさき場合ばあいがありえたからである[4]

騎兵きへい攻撃こうげきてきもちいるべきこと、いきおいをころさぬためにも、そして騒音そうおんにより不要ふよう混乱こんらんまねかないためにも刀剣とうけん武器ぶきとすること、銃火じゅうかにより損耗そんこうさい前列ぜんれつ発生はっせいしたさい混乱こんらん最小限さいしょうげんするために、隊列たいれつたてふか兵士へいし軍馬ぐんば前進ぜんしん圧力あつりょくかんじる最低さいてい限度げんどまでうすくすること、攻撃こうげき開始かいしぜん段階だんかいでは歩兵ほへいふく兵種へいしゅ援護えんごもとめ、可能かのうかぎてき混乱こんらんさせる、最後さいご素早すばや全速力ぜんそくりょく突進とっしんする、交戦こうせんわれば味方みかた援護えんごけながら迅速じんそくさい集結しゅうけつして、つぎ交戦こうせんそなえる、だい戦術せんじゅつのレベルでは損耗そんこう予備よびつね多数たすう確保かくほして、決定的けっていてき瞬間しゅんかんにこれをとうずること。これらが近世きんせい西にしヨーロッパの戦場せんじょうから兵士へいしたちがまなった白兵はくへい乗馬じょうば襲撃しゅうげき原理げんりであった[4]

そして、身体しんたいおよばずして隊形たいけいくずすとはすなわち心理しんり世界せかいであり、騎兵きへい武器ぶきとして刀剣とうけんやりこのまれた理由りゆうでもある。様々さまざま欠点けってんがあったにしろ、短銃たんじゅう騎兵きへい接近せっきんせんよう武器ぶきとして刀剣とうけんまさ部分ぶぶんもあり、それがために17世紀せいき前半ぜんはんからなかごろにかけて接近せっきんせんでは、短銃たんじゅう刀剣とうけんがしばしば戦場せんじょうった。しかし、武器ぶきとしての単純たんじゅん比較ひかく評価ひょうかほか心理しんりてきて、せま白刃はくじん人間にんげん根源こんげんてき恐怖きょうふしんはたらきかけるものであり、まわしになんのあるやりこのまれたのも、やりさき心理しんりてきちから多分たぶん影響えいきょうおよぼしていた。巨大きょだいうまたい刀剣とうけん、あるいはやりさき心理しんりはたらきかける恐怖きょうふちからによっててき規律きりつ隊形たいけいみだし、軍事ぐんじてき危害きがい達成たっせいしたのだ。最終さいしゅうてきじゅう騎兵きへいによる乗馬じょうば襲撃しゅうげき刀剣とうけんのみをたよりにするようになったが、刀剣とうけん優越ゆうえつせい明確めいかくなものではなく、短銃たんじゅう騎兵きへい弱体じゃくたいしたわけでもなく、接近せっきんせんでの殺傷さっしょうりょくつね騎兵きへいやり刀剣とうけんっており、騎兵きへいやり対抗たいこうする目的もくてきたっしたがためにメインウェポンとしての短銃たんじゅう姿すがた傾向けいこうにあった。そしてやりさき刀剣とうけん白刃はくじんち、短銃たんじゅうたない心理しんりてきちからもまた重要じゅうようであった[4]

やり騎兵きへいという兵科へいかはその大本おおもとのルーツを中世ちゅうせい騎士きしにたどることができ、高速こうそく戦場せんじょうめぐり、突撃とつげきによりてき戦列せんれつたいし、壊滅かいめつてき被害ひがいあたえられる騎士きし中世ちゅうせい前期ぜんきごろより戦場せんじょう主役しゅやくとなっており、12世紀せいき軍事ぐんじてき栄光えいこう最高潮さいこうちょうにあった騎士きしは、その投射とうしゃ武器ぶき歩兵ほへいやりによる脅威きょうい上昇じょうしょうからじゅう装甲そうこうはじめ、13世紀せいきから中世ちゅうせいわりまでかなりじゅうそう突撃とつげき兵科へいかとなった。歩兵ほへい革命かくめい軍事ぐんじ革命かくめいによる歩兵ほへい能力のうりょく拡大かくだいはこれを促進そくしんし、騎士きしより派生はせいするジャンダルムやデミランサーといった各種かくしゅじゅうそう騎兵きへいは16世紀せいきころには12世紀せいきかるさをうしなっていたがために16世紀せいきなかばにきたピストルの発明はつめいにより、これらの兵科へいか淘汰とうたされた。じゅうそうぎる騎兵きへいやりによる突撃とつげき戦法せんぽう歩兵ほへいちょうやりたいしては効果こうかうすく、火薬かやくてさらに強力きょうりょくとなった投射とうしゃ武器ぶきまえではちかづくのも困難こんなんであったがために、西欧せいおうにおいてはやり騎兵きへい一旦いったん滅亡めつぼうむかえたが、東欧とうおうにおいては事情じじょうことなった。ちょうやりのちにマスケットじゅう装備そうびした歩兵ほへい密集みっしゅう陣形じんけい中心ちゅうしんであった西欧せいおうとはことなり、東欧とうおう各国かっこく相手あいてにした脅威きょういみじかやり火縄銃ひなわじゅうにはフリントロックしきマスケットじゅう)などを装備そうびしたオスマンぐん各種かくしゅ近接きんせつ歩兵ほへい波状はじょう攻撃こうげきであり、十分じゅうぶん騎兵きへい運動うんどう迂回うかいなどが容易よういおこなえる戦場せんじょうであった。これらの歩兵ほへいには依然いぜんとして騎兵きへいによる突撃とつげき戦法せんぽう必要ひつようで、正面しょうめん突撃とつげき頻度ひんどこそったものの、やり騎兵きへい迂回うかい突撃とつげき十分じゅうぶん決定的けっていてき突撃とつげきとなりた。じゅうそうやり騎兵きへい火力かりょくがる戦場せんじょう生存せいぞん困難こんなんとなっていたが、軽装けいそうやり騎兵きへい戦場せんじょう活躍かつやくする余地よち十分じゅうぶんのこされており、軽装けいそうしたやり騎兵きへい重要じゅうようせいがるけい騎兵きへい任務にんむにおいて使用しよう可能かのうであるという利点りてん存在そんざいした。このような土壌どじょう民族みんぞくてき要因よういんによるやり騎兵きへい復興ふっこう運動うんどう合致がっちし、やり騎兵きへい復興ふっこう運動うんどうまれた。ナポレオン戦争せんそう時代じだいにおけるやり騎兵きへい復興ふっこう運動うんどうにはこのような背景はいけい存在そんざいした。[4]

17世紀せいきのポーランド騎兵きへいはウーランに代表だいひょうされるけいやり騎兵きへいとフサリアに代表だいひょうされるじゅうそうやり騎兵きへいの2つの騎兵きへい主軸しゅじく構成こうせいされていたが、18世紀せいきごろにポーランドの財政ざいせい悪化あっかするとおもそう騎兵きへいより安価あんかなウーランの重要じゅうようせいたかまり、1775ねんにポーランドはじゅうそうのフサリア騎兵きへい廃止はいしすべての騎兵きへいをウーランしきあらためたうえに、ウーランの兵科へいかめいを「国民こくみん騎兵きへい」とあらためた。この騎兵きへい1792ねんロシア・ポーランド戦争せんそう、およびコシチュシュコの反乱はんらんにおいてある程度ていど活躍かつやくせたが、ポーランド滅亡めつぼうともなって消滅しょうめつ、しかし、ポーランド分割ぶんかつ参加さんかした各国かっこくはウーラン部隊ぶたい自軍じぐんない編成へんせいしたためにポーランドしきやり騎兵きへいはヨーロッパにひろまることとなった。このような背景はいけいがあったためにナポレオン戦争せんそう時期じきやり騎兵きへい突撃とつげき兵科へいかであるじゅう騎兵きへいではなく、偵察ていさつ哨戒しょうかい捜索そうさく騎兵きへいまく作成さくせいなどをおこなけい騎兵きへいとして編成へんせいされた。各国かっこくやり騎兵きへい編成へんせいも、じゅうそう騎兵きへいであるむねかぶと騎兵きへい編成へんせいではなく、中級ちゅうきゅう騎兵きへい竜騎兵りゅうきへいけい騎兵きへいのユサール、騎馬きばりょうへい編成へんせいをとることがおおかったが、けい騎兵きへいてき運用うんようおもであったとはいえ、会戦かいせん投入とうにゅうされることもままあり、とくやり突撃とつげきにおいてきょくがたなっており、たい騎兵きへい戦闘せんとう有利ゆうりとされ、また、方陣ほうじんたいし、リーチでまさやりたい歩兵ほへいにてきょくがたなちょくけんより効果こうかてきであったとされた。そのような意味いみでは一種いっしゅの「万能ばんのう騎兵きへいてき側面そくめんがあったことは否定ひていできないが、これはやり騎兵きへいかぎったはなしではなく、けい騎兵きへいでも同様どうようであり、たとえば、銃器じゅうき部隊ぶたいおおっていた騎馬きばりょうへい銃器じゅうきによる騎馬きばへいせん騎兵きへいまく形成けいせい得意とくいとしているが突撃とつげき可能かのうであった。一方いっぽうじゅう騎兵きへいであるむねかぶと騎兵きへい突撃とつげき任務にんむにおいて特別とくべつ能力のうりょくっていたが、自前じまえのピストルをもちいたへいせんもある程度ていどおこなえた。また、じゅう騎兵きへいとしてナポレオン自身じしんへい任務にんむおこなわせないように厳命げんめいしたカラビニエすらも必要ひつようおうじてへいせんおこなった[4]

一般いっぱんてきやり騎兵きへい歩兵ほへいたいする強力きょうりょく存在そんざいとされ、その優位ゆうい根拠こんきょやりのリーチにあり、歩兵ほへい銃剣じゅうけんよりもとおくから攻撃こうげきできるためであるとされた。また、歩兵ほへいたいする攻撃こうげきだけではなく、追撃ついげきでも騎兵きへいやり威力いりょく発揮はっきしたが、その理由りゆう追撃ついげきされる歩兵ほへい騎兵きへい回避かいひするためにせる行動こうどうおこなったが、やりせている人間にんげんすこともできたためである。しかし、いくら歩兵ほへいたいして強力きょうりょくであろうとも歩兵ほへいんだ方陣ほうじんたいしては限定げんていてき効果こうかしかなく、方陣ほうじんくずした場合ばあいよりも方陣ほうじんくずすのに失敗しっぱいした場合ばあい方陣ほうじんくずすのを断念だんねんした場合ばあいおおい。騎兵きへいやり優位ゆういをもってしても、歩兵ほへい方陣ほうじんくずすことは困難こんなんであり、方陣ほうじん攻略こうりゃくにはしょ兵科へいか連合れんごうによる攻撃こうげきか、じゅう騎兵きへい必要ひつようであった。一方いっぽうで、騎兵きへいせんにおいては衝撃しょうげき能力のうりょくたかさがひろ認知にんちされてはいたものの、白兵戦はくへいせんにおいてのまわしのわるさが、懸念けねんとなっており、戦績せんせきるとけい騎兵きへいとの戦闘せんとうにおいてやり騎兵きへいおおくの勝利しょうりおさめており、突撃とつげき成功せいこうすればやり騎兵きへいけい騎兵きへい撃退げきたいされることがほとんどなく、また、竜騎兵りゅうきへいなどのなか騎兵きへいたいしても突撃とつげきおこなえば勝利しょうりおさめる可能かのうせいたかいが、フリートラントのように最終さいしゅうてき白兵戦はくへいせんにて敗北はいぼくしたれい存在そんざいし、各種かくしゅ親衛隊しんえいたい騎兵きへいむねかぶと騎兵きへいやカラビニエなどのじゅう騎兵きへいたいしての不利ふり存在そんざいし、ほとんどの戦闘せんとうやり騎兵きへい敗北はいぼくわっている。また、やりはひしゃげたり、れたり、さったままれなくなる場合ばあいがあり、すべてのくにやり騎兵きへい予備よび武器ぶきとしてサーベルを携帯けいたいした。さらに、やり馬上まけ使つかいこなすことがむずかしいことにかんしてどう時代じだい人間にんげんおおくが同意どういしており、やり使つかいこなすためには熟練じゅくれん必要ひつようで、ひとによってはそれにくわえあるしゅ才能さいのう必要ひつようとまでかんがえた。また、訓練くんれんおこなわず、やり使つかいこなせないやり騎兵きへい非常ひじょう戦力せんりょくてき価値かちひくいこととしてられており、ワーテルロー戦役せんえき参加さんかしたある将校しょうこうは「わるやり使づかいはわるけん使づかいよりも使つかものにならない」とべている[4]

総合そうごうするとやり騎兵きへい兵科へいかたいして圧倒的あっとうてき優位ゆういであるとはえないものの、突撃とつげきおこなえるおおくの状況じょうきょう優位ゆういであった。しかし、会戦かいせんにおいておおきな戦果せんかげたやり騎兵きへい部隊ぶたいのほとんどは各国かっこく親衛隊しんえいたい騎兵きへいであり、騎馬きばりょうへいへいせんひいでており、ユサールが奇襲きしゅう得意とくいとしたように、通常つうじょうやり騎兵きへい突撃とつげき追撃ついげき得意とくいであった[5]

騎兵きへいやり騎兵きへいのリーチをばすが、騎兵きへい同士どうし戦闘せんとうで、乱戦らんせんではあつかいにくいため、やり騎兵きへい接戦せっせん格闘かくとうでサブウェポンとして装備そうびしていたサーベルをより効果こうかてき武器ぶきとしてくこともめずらしくなかった[5]。サーベルをくことによってやり騎兵きへい乱戦らんせんにも対応たいおうできた[1]

ぎゃくえば、騎兵きへいやり歩兵ほへい相手あいてたたかとき不可欠ふかけつだった[5]騎兵きへいやり銃剣じゅうけん方陣ほうじんんだ歩兵ほへい相手あいて有効ゆうこう白兵戦はくへいせん武器ぶきだった[5]

けい騎兵きへいとしてのやり騎兵きへい機動きどうりょく敗走はいそうするてきへい容易たやす追撃ついげきすることを可能かのうとし、追撃ついげきせんではじゅう騎兵きへい以上いじょう効果こうかがあった[1]

また、のままに襲撃しゅうげきくわえるやり騎兵きへい小競こぜいにも有効ゆうこうであったが、騎兵きへい同士どうし乱戦らんせんではながやり前述ぜんじゅつのようにあつかいにくく邪魔じゃまで、サーベルにてきわないために、この弱点じゃくてんおぎなうため、やり騎兵きへい連帯れんたいでは一部いちぶ兵士へいし騎兵きへいやり装備そうびさせず、騎兵きへいやり兵士へいしをサーベルをおも武器ぶきとする兵士へいし援護えんごするようにしていた[6]

 
1939ねんのポズナンだい15ウーラン連隊れんたい再現さいげん

18世紀せいきから19世紀せいきなかばまで、やり騎兵きへい騎兵きへいとともに各地かくち戦場せんじょう活躍かつやくした[5]。しかし、機関きかんじゅう発明はつめいライフルじゅう標準ひょうじゅんによる火器かき威力いりょく増大ぞうだい突撃とつげきはば塹壕ざんごうせん一般いっぱんなど、歩兵ほへい防御ぼうぎょりょくおおきく強化きょうかされるにおよんで突撃とつげき自殺じさつ行為こういとなり、やり騎兵きへいのみならず騎兵きへい自体じたいがその存在そんざい意義いぎうしなっていった[5]20世紀せいきはいると、軍隊ぐんたい機械きかいすすみ、騎兵きへい車両しゃりょう踏破とうはできない整地せいちでのみ使用しようされるようになった。その役割やくわり突撃とつげきではなく、偵察ていさつ後方こうほう破壊はかいおもになった。どくせんにおけるコサック騎兵きへいによるドイツぐん輸送ゆそうたい襲撃しゅうげきなどがいちれいである。どろゆきおおわれたロシアでは、うま整地せいち踏破とうは能力のうりょくやく場合ばあいおおかった。

各国かっこく機械きかいすすむにつれて、騎兵きへいという兵科へいか消滅しょうめつしていき、やり騎兵きへい存在そんざいしなくなった。ただし、イギリスのクイーンズ・ロイヤルやり騎兵きへい連隊れんたいのように、一種いっしゅ名誉めいよ称号しょうごうとして現在げんざいでも各国かっこくやり騎兵きへい連隊れんたいのこされている。これらはおおくが機械きかい部隊ぶたい空挺くうてい部隊ぶたいである。

装備そうび戦術せんじゅつ

編集へんしゅう

やり騎兵きへい活躍かつやくした18世紀せいきから19世紀せいき装備そうびおよび戦術せんじゅつ以下いかのようなものだった。17世紀せいきにおいては戦闘せんとうよう騎兵きへいやり戦場せんじょう武器ぶきとして使つかわれることはほとんどなかった[7]

一般いっぱんてきやり騎兵きへい装備そうびは、騎兵きへいやりサーベルヘルメットビン銃びんじゅうだった。[5]ランスの全長ぜんちょうは2メートルから3メートル前後ぜんこうで、先端せんたんにはしばしばしょうはたがつけられた。サーベルはてき騎兵きへいとの乱戦らんせんになった場合ばあい必要ひつようだった。[5]騎兵きへいやりはサーベルにくらべて小回こまわりがかず、ふところにもぐりこまれると不利ふりになるからである。[5]

また、騎兵きへいやり使つかいこなすには、時間じかんをかけて複雑ふくざつ訓練くんれんおこな必要ひつようがあった。[7]そのため、訓練くんれんよう騎兵きへいやり存在そんざいしている。[7]

ヘルメットはじゅう騎兵きへいのものとおなじものを使用しようしたが、くまかわぼうなどで代用だいようしている場合ばあいおおかった。ポーランドのウーランは、チャプカばれる頭頂とうちょう四角形しかっけいいたけた独特どくとく帽子ぼうしをかぶっていた。上記じょうきのようにポーランドやり騎兵きへい他国たこく模倣もほうされたため、フランスやプロイセンのやり騎兵きへいでもチャプカをこうむっていることがあった。当時とうじ騎兵きへいれいれず、やり騎兵きへいもモールやかざたい(サッシュ)などで派手はで着飾きかざっていた。

やり騎兵きへいしゅ任務にんむ歩兵ほへい隊列たいれつ破砕はさい、およびてき歩兵ほへい掃討そうとうであった。やり騎兵きへい数列すうれつ横列おうれつんで突撃とつげきした。正面しょうめん突撃とつげき自殺じさつ行為こういであるため、よほどのことでもないかぎ実行じっこうすることはかった。普通ふつう機動きどうりょくかし、てき歩兵ほへい側面そくめんないし背面はいめんまわんでから突撃とつげきした。また、移動いどう隊形たいけい変更へんこう隊列たいれつみだれたときもねらった。ときにはてき歩兵ほへい発砲はっぽうさい装填そうてんにかかっている瞬間しゅんかんねらって突撃とつげきする場合ばあいもあった(マスケットじゅうさい装填そうてんに20びょうから30びょう程度ていどかかる)。ただし、大半たいはん軍事ぐんじ指揮しきかんは、成功せいこうしても損害そんがいおおくなる突撃とつげきをできるだけけようとしたため、砲兵ほうへい歩兵ほへい火力かりょくによっててきくずれるか、あるいは撤退てったいはじめたころやり騎兵きへい投入とうにゅうすることがおおかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 図解ずかい ナポレオンの時代じだい 武器ぶき防具ぼうぐ戦術せんじゅつ大全たいぜん. レッカしゃ 
  2. ^ マーティン・J・ドアティ. 図説ずせつ 中世ちゅうせいヨーロッパ 武器ぶき防具ぼうぐ戦術せんじゅつ百科ひゃっか. はら書房しょぼう 
  3. ^ 篠田しのだ耕一こういち. 武器ぶき防具ぼうぐ 中国ちゅうごくへん. しん紀元きげんしゃ 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 近世きんせい近代きんだい騎兵きへい合同ごうどう. サークル騎兵きへいばつ 
  5. ^ a b c d e f g h i 戦闘せんとう技術ぎじゅつ歴史れきし4 ナポレオンの時代じだいへん. そうもとしゃ 
  6. ^ R・G・グラント. 兵士へいし歴史れきし大図おおずあきら. そうもとしゃ 
  7. ^ a b c ハーピー・J・S・ウィザーズ. 世界せかい刀剣とうけん歴史れきし図鑑ずかん. はら書房しょぼう 

関連かんれん項目こうもく

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