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町奉行 - Wikipedia

町奉行まちぶぎょう

江戸えど時代じだい幕府ばくふしょはんいた、領内りょうない都市とし行政ぎょうせい司法しほう担当たんとうする役職やくしょく一般いっぱん町奉行まちぶぎょうとのみ場合ばあい幕府ばくふ役職やくしょくである江戸えどまち奉行ぶぎょう (Q4262763) のみを

町奉行まちぶぎょう(まちぶぎょう)とは、江戸えど時代じだい職名しょくめいで、領内りょうない都市とし町方まちかた)の行政ぎょうせい司法しほう担当たんとうする役職やくしょく幕府ばくふだけでなくしょはんもこの役職やくしょく設置せっちしたが、一般いっぱん町奉行まちぶぎょうとのみ場合ばあい幕府ばくふ役職やくしょくである江戸えど町奉行まちぶぎょうのみをす。また、江戸えど以外いがい天領てんりょう都市とし幕府ばくふ町奉行まちぶぎょう大坂おおさか町奉行まちぶぎょうなど地名ちめいかん遠国おんごく奉行ぶぎょう総称そうしょうする。なお、こう北条ほうじょうれいのように、江戸えど時代じだい以前いぜん町奉行まちぶぎょうという役職やくしょくもちいられたこともある。

江戸えど幕府ばくふ

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江戸えど幕府ばくふ職名しょくめいでは江戸えど町奉行まちぶぎょう公称こうしょうたんに「町奉行まちぶぎょう」であった[1]大坂おおさか京都きょうと駿府すんぷ町奉行まちぶぎょうがすべて地名ちめいかんしていたのとことなる[1]

以下いかでは役職やくしょくとしての江戸えど町奉行まちぶぎょうについて記述きじゅつし、また幕府ばくふ機関きかんとしての江戸えど町奉行まちぶぎょうしょについても記述きじゅつする(以後いご特別とくべつことわりが場合ばあい奉行ぶぎょうとは町奉行まちぶぎょう奉行ぶぎょうしょとは町奉行まちぶぎょうしょす)。

奉行ぶぎょうしょく

編集へんしゅう

町奉行まちぶぎょう寺社じしゃ奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうとあわせてさん奉行ぶぎょうしょうされた。町奉行まちぶぎょう地方ちほうかんとされたが奉行ぶぎょう同様どうよう評定ひょうじょうしょ一座いちざ一員いちいんでもあった[2]

基本きほんてき定員ていいん2人ふたり。それぞれ北町きたまち奉行ぶぎょうしょみなみ町奉行まちぶぎょうしょつかさどったが、月番つきばんせいであり南北なんぼく管轄かんかつけていたわけではない[3]任期にんきさだめはない[2]。ごく初期しょきには大名だいみょう任命にんめいされていたが、のちには旗本はたもと任命にんめいされた。旗本はたもと町奉行まちぶぎょう石高こくだかは3000せき程度ていどであった[3]

町奉行まちぶぎょう旗本はたもと役職やくしょくとしては最高さいこうのもの(格式かくしき大目おおめづけほうたかい)で、目付めつけから遠国おんごく奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうひとし司法しほう民政みんせい財政ざいせいなどの経験けいけんんだもの任命にんめいされた[4]とく目付めつけ経験けいけんしていることが重要じゅうようされた。

町奉行まちぶぎょう江戸えど民政みんせい担当たんとうする役職やくしょくで、その管轄かんかつにおいて「まちさわ」という法令ほうれいすとともに行政ぎょうせいけん裁判さいばんけんゆうした[5]

その職務しょくむよっ午前ごぜん10ごろ)には江戸城えどじょう登城とじょうし、老中ろうじゅうとうへの報告ほうこくわせ、役職やくしょくしゃとの公用こうよう文書ぶんしょ交換こうかんとうおこない、午後ごご奉行ぶぎょうしょ決裁けっさい裁判さいばんおこなうとうもので、江戸えど町人ちょうにん司法しほう行政ぎょうせい治安ちあん維持いじいちにな役職やくしょくであったため職務しょくむ多忙たぼうきわめた。移動いどうさいにはかごり、25にん程度ていど同心どうしん従者じゅうしゃともなうなどしており、時代じだいげきられるような町奉行まちぶぎょう一人ひとり現場げんばおもむいたり捜査そうさすることは実際じっさいにはありえないことだった[6]。また、時代じだいげきでは白洲しらすのその町奉行まちぶぎょう斬首ざんしゅ獄門ごくもん遠島えんとう被疑ひぎしゃにいいわたしているが、実際じっさいには、町奉行まちぶぎょうだけの権限けんげんでいいわたせる刑罰けいばつは、なかしょばらまでで、じゅう追放ついほう田畑たはた家屋かおくじき家財かざい没収ぼっしゅううえ武蔵むさし山城やましろひとしじゅうこくおよ東海道とうかいどうすじ木曽きそすじへの禁止きんし以上いじょうおも刑罰けいばつ老中ろうじゅう上申じょうしんし、採決さいけつたねばならず[7]実際じっさいには町奉行まちぶぎょうおく右筆ゆうひつ吟味ぎんみかた調書ちょうしょ提出ていしゅつし、おく右筆ゆうひつ公事こうじかたじょうしょ過去かこ判例はんれいもと判決はんけつあん作成さくせいする)、老中ろうじゅうさらには将軍しょうぐん最終さいしゅう決裁けっさいなければけい確定かくてい出来できない[8]裁判さいばん詳細しょうさい記録きろくされのち裁判さいばんでは判例はんれいとして参照さんしょうされていたが、関東大震災かんとうだいしんさいによりおおくが焼失しょうしつした[7]

町奉行まちぶぎょう役宅やくたく奉行ぶぎょう所内しょないにあった。激務げきむのため在任ざいにんちゅう死去しきょするものおおかった。

町奉行まちぶぎょう配下はいか直属ちょくぞく隠密おんみつまわ同心どうしんおよび、与力よりきと、配下はいかていまちまわ同心どうしんおよ臨時りんじまわ同心どうしんである(この隠密おんみつていまち臨時りんじの3つの同心どうしんをまとめてさんまわりぶ)。じか任命にんめいした御用聞ごようき小者こものくわわる。そのていまちまわ同心どうしんが、私的してきじかやと御用聞ごようきき、目明めあかしと、くだ使つかわれている。奉行ぶぎょう直属ちょくぞく配下はいかである与力よりき隠密おんみつまわ同心どうしんおよび、それぞれの同心どうしん将軍家しょうぐんけ家臣かしん旗本はたもとしくは御家人ごけにん)であり、実質じっしつてき世襲せしゅうせい奉行ぶぎょうしょつとめていた。奉行ぶぎょう老中ろうじゅう所轄しょかつ旗本はたもとであって、与力よりき同心どうしんたちとは直接ちょくせつ主従しゅうじゅう関係かんけいかった。奉行ぶぎょう主従しゅうじゅう関係かんけいにあった与力よりきうち与力よりき(うちよりき)とばれ、通常つうじょう与力よりきとは区別くべつされた。うち与力よりき将軍しょうぐんからは陪臣ばいしんにあたるので、本来ほんらい与力よりきよりは格下かくしたでありろくだかひくいが、実際じっさいには奉行ぶぎょう側近そっきんとして上席じょうせき与力よりき待遇たいぐうけることおおかった。講談こうだんなどでは南北なんぼく奉行ぶぎょうしょたがいに敵対てきたい関係かんけいにありなかわるかったかのように描写びょうしゃされるが、後述こうじゅつする南北なんぼく町奉行まちぶぎょうしょ関係かんけい月番つきばんせい管轄かんかつ)からもわかように、むしろ、奉行ぶぎょうほう余所者よそものであって信頼しんらい関係かんけいうすかったとされている。

このため奉行ぶぎょう与力よりきなつふゆ反物たんものおくったり、業務ぎょうむ多忙たぼうとき出勤しゅっきんしたものたちへけやまぐろ自腹じばらきょうしたり、火事場かじばへの出馬しゅつばさいには与力よりき同心どうしん弁当べんとう奉行ぶぎょう自腹じばら負担ふたんするひとし与力よりき同心どうしん歓心かんしんようとしていた[9]。また町奉行まちぶぎょうは2-5ねん異動いどうするため(20ねんちか在職ざいしょくした大岡おおおか忠相ただすけや18ねんちか在職ざいしょくした根岸ねぎし鎮衛ひとしまれであり例外れいがいである)、職務しょくむかんする知識ちしき代々だいだいいでいる、与力よりき同心どうしん制御せいぎょすることむずかしく、地位ちいたかいものの職務しょくむについては配下はいか与力よりきいなりになりがちであったという[10]

奉行ぶぎょうしょ

編集へんしゅう

奉行ぶぎょうしょとして北町きたまち奉行ぶぎょうしょ南町みなみまち奉行ぶぎょうしょ設置せっちされたが、これは相対そうたいてき位置いち関係かんけい職務しょくむかんしては月番つきばんせいをとっていたのであり南北なんぼく管轄かんかつけていたわけではない[3]

なお、1702ねん元禄げんろく15ねんうるう8がつ - 1719ねんとおる4ねん)1がつというみじかあいだではあるがちゅう町奉行まちぶぎょうしょというものも設置せっちされた。設置せっちされた理由りゆう職務しょくむ内容ないようはあまりさだかではないが、南北なんぼく町奉行まちぶぎょうしょ補助ほじょやくとして設置せっちされたとされる。

1631ねん幕府ばくふ町奉行まちぶぎょうしょてるまで、町奉行まちぶぎょうしょは、町奉行まちぶぎょうにんぜられたものがその邸宅ていたく白州はくしゅうつくってその職務しょくむおこなっていた。

町奉行まちぶぎょうしょ名称めいしょうは、その役職やくしょくからであるため、町人ちょうにんたちからは番所ばんしょ(ごばんしょ)や役所やくしょばれていた。南町みなみまち奉行ぶぎょうしょみなみ番所ばんしょ)は現在げんざい有楽町ゆうらくちょうマリオン付近ふきんに、北町きたまち奉行ぶぎょうしょ北番きたばんしょ)が東京とうきょうえき八重洲やえす北口きたぐち付近ふきんかれていた[11]通常つうじょう奉行ぶぎょうしょ厳重げんじゅう警備けいびされていたがとしいち6月7にち中橋なかはし天王てんのう祭礼さいれいのときだけは表門おもてもんひらいて神輿しんよむかれ、また奉行ぶぎょう与力よりき同心どうしん家族かぞく親類しんるいなどが男女だんじょわず奉行ぶぎょうしょ内部ないぶ見学けんがくすることをゆるしていた。そのさい見学けんがくおとずれるもの着飾きかざった衣服いふくけていたという[12]

明治めいじ以降いこう奉行ぶぎょうしょこわされてしまったが、きた東京とうきょうえき八重洲やえすくち北側きたがわ付近ふきん)・みなみ有楽町ゆうらくちょうマリオン・有楽町ゆうらくちょうイトシア)のりょう町奉行まちぶぎょうしょ存在そんざいしていたとされる場所ばしょには、いまでも石碑せきひっている。ただし、いずれも幕末ばくまつにおける町奉行まちぶぎょうしょ位置いちであり、文化ぶんか2ねん1805ねん以後いご固定こていされた場所ばしょ相応そうおうしている。

与力よりき南北なんぼく奉行ぶぎょうしょに25めいずつ、同心どうしんは100めいずついた。50まんにん町人ちょうにん人口じんこうくらべると南北なんぼくわせて250にん程度ていどという非常ひじょうすくない人数にんずう治安ちあん維持いじ行政ぎょうせい防災ぼうさいにあたっていたのである。とくに、犯罪はんざい捜査そうさなどの警察けいさつ業務ぎょうむにあたるのはさんまわりていまわり隠密おんみつまわり臨時りんじまわり)だが、ていまわり同心どうしんが3-5めい程度ていど隠密おんみつまわり臨時りんじまわりくわえても南北なんぼくわせて30めい程度ていどというしょう人数にんずう江戸えど治安ちあん維持いじたっていた。このためじょうまわり同心どうしんたち自腹じばら目明めあかし(おかっ引)をやとっていたほか、放火ほうか盗賊とうぞくについては武官ぶかん先手せんてぐみやく火付ひつき盗賊とうぞくあらためかたとして取締とりしまりにたった[13]

時代じだいによって職種しょくしゅなどは変化へんかしたが、おおむ以下いかのような組織そしきになっていた。とくちゅうかぎり、うち与力よりきさんまわり以外いがいは、与力よりき-同心どうしんという構造こうぞうになっていた[14]

  • 町奉行まちぶぎょう
    • うち与力よりき町奉行まちぶぎょう家臣かしん奉行ぶぎょう秘書ひしょやく
    • としつがえかた人事じんじ出納すいとう奉行ぶぎょうしょ全体ぜんたい管理かんり与力よりき筆頭ひっとうかく) - 同心どうしん
    • 吟味ぎんみかた訴訟そしょう審理しんりけい執行しっこう) - 同心どうしん
    • 赦帳かたせんようかた人別にんべつ調ちょうかけ恩赦おんしゃ資料しりょう作成さくせい、『せんようるいしゅう』の編纂へんさん人別にんべつ調査ちょうさ) - 同心どうしん
    • たとえかた判例はんれい記録きろく調査ちょうさ) - 同心どうしん
    • ほん所見しょけんまわり本所ほんじょ深川ふかがわかんする事柄ことがら担当たんとう江戸えど初期しょき本所ほんじょ奉行ぶぎょうという独立どくりつした役職やくしょく担当たんとうしていた) - 同心どうしん
    • 養生ようじょう所見しょけんまわり小石川こいしかわ養生ようじょうしょ管理かんり) - 同心どうしん
    • ろう屋敷やしき見廻みまわ伝馬てんままちろう屋敷やしき取締とりしまり。実務じつむ牢屋ろうや奉行ぶぎょう配下はいか担当たんとう) - 同心どうしん
    • じょうきょうかけ幕府ばくふ普請ふしんしたはし維持いじ管理かんり) - 同心どうしん
    • 町会ちょうかい所見しょけんまわり市中しちゅう町会ちょうかいしょ事務じむ管理かんり) - 同心どうしん
    • さる町会ちょうかいしょ見廻みまわ浅草あさくさ蔵前くらまえ札差ふださし業務ぎょうむ管理かんり) - 同心どうしん
    • 古銅こどう吹所見廻みまわ市中しちゅう古銅こどう業務ぎょうむ監督かんとく) - 同心どうしん
    • こうつもるあらため防火ぼうかのため河岸かわぎし監視かんし) - 同心どうしん
    • 町火消まちびけし人足ひとあしあらため町火消まちびけし消火しょうか活動かつどう指揮しき) - 同心どうしん
    • かぜれつ見廻みまわ強風きょうふう昼夜ちゅうや巡回じゅんかい火災かさい警戒けいかい) - 同心どうしん
    • 人足ひとあし寄場よせばていかけ人足ひとあし寄場よせば事務じむ監督かんとく) - 同心どうしん
    • さんまわり同心どうしんのみ)
      • ていまわり同心どうしん犯罪はんざい捜査そうさ犯人はんにん逮捕たいほ
      • 臨時りんじまわり同心どうしんていまわり同心どうしん補佐ほさ
      • 隠密おんみつまわり同心どうしん奉行ぶぎょう直属ちょくぞくして偵察ていさつ

職務しょくむ管轄かんかつ

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町奉行まちぶぎょうは「御府内ごふない」とばれた江戸えど区域くいきのうちまち屋敷やしきのある地域ちいき管轄かんかつし、まちさわという法令ほうれいすとともに行政ぎょうせいけん裁判さいばんけんをもつしょくであった[5]

まず御府内ごふないについては当初とうしょ区域くいき曖昧あいまいだったため、各所かくしょからしばしば幕府ばくふたいしてわせがおこなわれた[15]。そのため幕府ばくふ1818ねん文政ぶんせい元年がんねん)に「しゅ引絵」を作成さくせいしてその範囲はんいしめした[15]。これにより江戸えど範囲はんい地図ちずじょうあかせんしゅ)で正式せいしきさだめられたが、同時どうじ町奉行まちぶぎょう管轄かんかつする範囲はんいくろせんぼく)でしめされた。「しゅ引絵」によると御府内ごふない範囲はんいは、ひがし亀戸かめいど小名木おなぎ西にしかくはず代々木よよぎみなみ南品川みなみしながわきた上尾あげおひさあたりまでとされた[15]。これは東京とうきょう15すなわ市制しせい施行しこう東京とうきょう範囲はんいとほぼ一致いっちする。

さらに御府内ごふないのうち町奉行まちぶぎょう管轄かんかつしたのは町屋敷まちやしきのある地域ちいきのみで、大名だいみょう旗本はたもと支配しはいする武家ぶけ屋敷やしきや、寺社じしゃ奉行ぶぎょう支配しはいする寺社じしゃりょう管轄かんかつがいであった[16]明治めいじ初期しょき調査ちょうさでは江戸えどは6わり武家ぶけ、2わり寺社じしゃで、町奉行まちぶぎょう管轄かんかつしたまちのこりの2わりだった[16]

町奉行まちぶぎょうだけでなく大名だいみょう旗本はたもと寺社じしゃ奉行ぶぎょう代官だいかんなどと両方りょうほう支配しはいける地域ちいき町並まちなみという[17]。1713ねん正徳しょうとく3ねん)、江戸えど近郊きんこう代官だいかん支配しはい地域ちいきのうちまち地域ちいき町並まちなみとなり、年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう代官だいかん犯罪はんざいじん身柄みがら確保かくほ町奉行まちぶぎょう管轄かんかつとなった[18]。また1746ねんのべとおる3ねん)には寺社じしゃ門前もんぜんまりを寺社じしゃ奉行ぶぎょうから町奉行まちぶぎょう移管いかんした[17]

訴訟そしょう月番つきばんせい

編集へんしゅう

先述せんじゅつのとおりきた町奉行まちぶぎょうしょ南町みなみまち奉行ぶぎょうしょ相対そうたいてき位置いち関係かんけいで、職務しょくむかんしては月番つきばんせいをとっていたのであり南北なんぼく管轄かんかつけていたわけではない[3]

月番つきばんたる町奉行まちぶぎょうしょ大門おおもんひらいてあらたな訴訟そしょうけた[3]非番ひばんつきになった町奉行まちぶぎょうしょ大門おおもんじてわきしょうもんのみをけ、前月ぜんげつ受理じゅりした訴訟そしょう審理しんりなどをおこなった[3]

また意思いし疎通そつうはかるため、月番つきばん奉行ぶぎょうしょあつまって連絡れんらく協議きょうぎおこなうち寄合よりあい(ないよりあい)という仕組しくみもあった[3]

これは民事みんじ訴訟そしょう受付うけつけきたみなみ交替こうたい受理じゅりしていたことをすものであり、月番つきばんでない奉行ぶぎょうしょは、月番つきばんのときに受理じゅりして処理しょりとなっている訴訟そしょう処理しょりとう奉行ぶぎょう職権しょっけん開始かいしする刑事けいじ事件じけん処理しょりなどの通常つうじょう業務ぎょうむは、月番つきばんであるかかにかかわらず、つねおこなわれていた。現在げんざいうところの管轄かんかつ区域くいき南北なんぼく奉行ぶぎょうしょったのではなく、南北なんぼく双方そうほう奉行ぶぎょうしょにいたまわかた同心どうしん各自かくじ地域ちいき指定していした。

南北なんぼくという名称めいしょうは、奉行ぶぎょうしょ所在地しょざいち位置いち関係かんけいによりそうばれていたということであり、南北なんぼく正式せいしき呼称こしょうではなく公式こうしきには一律いちりつ町奉行まちぶぎょうとのみばれた。したがって1つの奉行ぶぎょうしょ移転いてんされたことによって、かく奉行ぶぎょうしょあいだ位置いち関係かんけい変更へんこうされると、移転いてんされなかった奉行ぶぎょうしょ呼称こしょう変更へんこうされることになる。宝永ほうえい4ねん(1707ねん)に本来ほんらい北町きたまち奉行ぶぎょうしょであった常盤ときわ橋門はしかどない役宅やくたく一番いちばん南側みなみがわ数寄屋すきや橋門はしかどない移転いてんしたさいには、その場所ばしょゆえにみなみ町奉行まちぶぎょうしょばれるようになり、従来じゅうらい鍛冶たんやきょうないにあったみなみ町奉行まちぶぎょうしょちゅう町奉行まちぶぎょうしょに、おなじく呉服ごふく橋門はしかどないにあったなか町奉行まちぶぎょうしょきた町奉行まちぶぎょうしょとなった。

商売しょうばい関係かんけい事務じむ

編集へんしゅう

商売しょうばい関係かんけい事務じむについては南北なんぼく窓口まどぐちけられており、呉服ごふく木綿こわた薬種やくしゅ問屋とんや案件あんけんみなみ町奉行まちぶぎょうしょ書物しょもつさけ廻船かいせん材木ざいもく問屋とんや案件あんけん北町きたまち奉行ぶぎょうしょといったようにそれぞれちが業種ぎょうしゅっていた[3][19]

その職務しょくむ

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その職務しょくむとして、老中ろうじゅういのちけて目付めつけいのもと御目見おめみ以下いか幕臣ばくしんまたはしょはん家臣かしん刑事けいじ裁判さいばんおこなった[2]

町奉行まちぶぎょう一覧いちらん

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初期しょきは、きたみなみりょう町奉行まちぶぎょうかれておらず、ひとつの奉行ぶぎょうっており、正式せいしき町奉行まちぶぎょうという役職やくしょくではなかったが事実じじつじょうおなはたらきをっていた。正式せいしき町奉行まちぶぎょうという官職かんしょくができたのは、きたみなみ町奉行まちぶぎょう設置せっちされてからである。また、途中とちゅうちゅう町奉行まちぶぎょう設置せっちされたが、わずか17ねん廃止はいしされた。

人名じんめいについては苗字みょうじかんめいいみな記述きじゅつしていく。

いち奉行ぶぎょうしょ時代じだい

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  1. 天野あまの三郎兵衛さぶろべえかんけい
  2. 神田かんだ与兵衛よへえせいだか
  3. きし助兵衛すけべえ正久まさひさ
  4. 板倉いたくら四郎しろうみぎ衛門えもん勝重かつしげ天正てんしょう18ねん(1590ねん) - 慶長けいちょう5ねん(1600ねん))
  5. 彦坂ひこさかしょう刑部おさかべ元成もとなり彦坂ひこさか元正がんしょう)(天正てんしょう18ねん(1590ねん) - 慶長けいちょう5ねん(1600ねん))
  6. 青山あおやま常陸ひたちかいちゅうなり慶長けいちょう6ねん(1601ねん) - 慶長けいちょう11ねん(1606ねん))
  7. 内藤ないとう修理しゅうりあきら清成きよなり慶長けいちょう6ねん(1601ねん) - 慶長けいちょう11ねん(1606ねん))

きた町奉行まちぶぎょう

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  1. 米津よねつ勘兵衛かんべえせい慶長けいちょう9ねん(1604ねん)3がつ6にち - 寛永かんえい元年がんねん(1624ねん)11月22にち
  2. ほり式部しきぶしょう輔直寛永かんえい8ねん(1631ねん)10がつ5にち - 寛永かんえい15ねん(1638ねん)1がつ28にち
  3. 酒井さかい因幡いなばまもるちゅう寛永かんえい15ねん(1638ねん)5がつ16にち - 寛永かんえい16ねん(1639ねん)5がつ18にち
  4. 朝倉あさくら石見いわみまもるざいじゅう寛永かんえい16ねん(1639ねん)7がつ18にち - 慶安けいあん3ねん(1650ねん)11月19にち
  5. 石谷いしがや左近さこん将監しょうげん貞清さだきよ慶安けいあん4ねん(1651ねん)6がつ18にち - 万治まんじ2ねん(1659ねん)1がつ28にち
  6. 村越むらこし長門ながとまもる吉勝よしかつまん2ねん(1659ねん)2がつ9にち - 寛文ひろふみ7ねん(1667ねんうるう2がつ16にち
  7. 島田しまだ出雲いずもまもるもりせい寛文ひろふみ7ねん(1667ねんうるう2がつ21にち - のべたから9ねん(1681ねん)3がつ27にち
  8. 北条ほうじょう安房あわもりひらたのべたから9ねん(1681ねん)4がつ6にち - 元禄げんろく6ねん(1693ねん)12月15にち
  9. 川口かわぐち摂津せっつもりそうひさし元禄げんろく6ねん(1693ねん)12月15にち - 元禄げんろく11ねん(1698ねん)12月1にち
  10. 保田やすだ越前えちぜんまもる宗郷そうごう元禄げんろく11ねん(1698ねん)12月1にち - 宝永ほうえい元年がんねん(1704ねん)10がつ1にち
  11. 松野まつの河内かわうちまもるじょよし宝永ほうえい元年がんねん(1704ねん)10がつ1にち - 宝永ほうえい4ねん(1707ねん)4がつ22にち
  12. 丹羽にわ遠江とおとうみまもるちょうもり宝永ほうえい4ねん(1707ねん)4がつ22にち - 正徳まさのり4ねん(1714ねん)1がつ16にち
  13. 中山なかやま出雲いずも守時もりときはる正徳しょうとく4ねん(1714ねん)1がつ28にち - とおる8ねん(1723ねん)6がつ29にち
  14. 諏訪すわ美濃みのまもるよりゆきあつしとおる8ねん(1723ねん)7がつ20日はつか - とおる16ねん(1731ねん)9がつ19にち
  15. 稲生いのう下野しもの守正もりまさたけとおる16ねん(1731ねん)9がつ19にち - もとぶん3ねん(1738ねん)2がつ15にち
  16. 石河いしかわ土佐とさまもる政朝まさとももとぶん3ねん(1738ねん)2がつ28にち - のべとおる元年がんねん(1744ねん)6がつ11にち
  17. 能勢のせ肥後守ひごのかみよりゆきいちのべとおる元年がんねん(1744ねん)6がつ11にち - たかられき3ねん(1753ねん)3がつ28にち
  18. 依田よだ和泉いずみもり政次まさじたかられき3ねん(1753ねん)4がつ7にち - 明和めいわ6ねん(1769ねん)8がつ15にち
  19. 曲淵まがりぶち甲斐かい守景もりかげやや明和めいわ6ねん(1769ねん)8がつ15にち - 天明てんめい7ねん(1787ねん)6がつ1にち
  20. 石河いしかわ土佐とさまもる政武まさたけ天明てんめい7ねん(1787ねん)6がつ10日とおか - 9月19にち
  21. 柳生やぎゅう主膳しゅぜん正久まさひさどおり天明てんめい7ねん(1787ねん)9がつ27にち - 天明てんめい8ねん(1788ねん)9がつ10日とおか
  22. 初鹿野はじかの河内かわうちまもるしんきょう天明てんめい8ねん(1788ねん)9がつ10日とおか - 寛政かんせい3ねん(1791ねん)12月20にち
  23. 小田切おだぎり土佐とさまもるちょくとし寛政かんせい4ねん(1792ねん)1がつ18にち - 文化ぶんか8ねん(1811ねん)4がつ20日はつか
  24. 永田ながた備後びんごもり正道せいどう文化ぶんか8ねん(1811ねん)4がつ26にち - 文政ぶんせい2ねん(1819ねん)4がつ22にち
  25. 榊原さかきばら主計かずえあたま忠之ただゆき文政ぶんせい2ねん(1819ねんうるう4がつ1にち - 天保てんぽう7ねん(1836ねん)9がつ20日はつか
  26. 大草おおくさ安房あわもり高好たかよし天保てんぽう7ねん(1836ねん)9がつ20日はつか - 天保てんぽう11ねん(1840ねん)1がつ18にち
  27. 遠山とおやま左衛門尉さえもんのじょう景元かげもと天保てんぽう11ねん(1840ねん)3がつ2にち - 天保てんぽう14ねん(1843ねん)2がつ24にち
  28. 阿部あべ遠江とおとうみ守正もりまさぞう天保てんぽう14ねん(1843ねん)2がつ24にち - 10月1にち
  29. 鍋島なべしま内匠たくみあたま直孝なおたか天保てんぽう14ねん(1843ねん)10がつ10日とおか - よしみひさし元年がんねん(1848ねん)11月8にち
  30. 牧野まきの駿河するが守成しゅせいつなよしみなが元年がんねん(1848ねん)11月8にち - よしみなが2ねん(1849ねん)7がつ6にち
  31. 井戸いど対馬つしまもりさとしひろしよしみなが2ねん(1849ねん)8がつ4にち - 安政あんせい3ねん(1856ねん)11月18にち
  32. 跡部あとべ甲斐かい守良もりよし安政あんせい3ねん(1856ねん)11月18にち - 安政あんせい5ねん(1858ねん)5がつ24にち
  33. 石谷いしがや因幡いなばまもるきよしきよし安政あんせい5ねん(1858ねん)5がつ24にち - 文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)6がつ5にち
  34. 小笠原おがさわら長門ながとまもる長常ながつね文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)6がつ5にち - 10月17にち
  35. 浅野あさの備前びぜんもりちょう文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)10がつ17にち - 文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)4がつ16にち
  36. 佐々木ささき信濃しなのまもるあきらはつ文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)4がつ16にち - 4がつ23にち
  37. 阿部あべ越前えちぜん守正もりまさがい文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)4がつ23にち - 元治もとはる元年がんねん(1864ねん)3がつ4にち
  38. 都筑つづき駿河するがまもるみねあきら元治もとはる元年がんねん(1864ねん)3がつ14にち - 7がつ6にち
  39. 池田いけだ播磨はりままもるよりゆきかた元治もとはる元年がんねん(1864ねん)7がつ6にち - 慶応けいおう2ねん(1866ねん)6がつ29にち
  40. 井上いのうえ信濃しなのまもるせいただし慶応けいおう2ねん(1866ねん)6がつ29にち - 慶応けいおう3ねん(1867ねん)12月28にち
  41. 杉浦すぎうら武三郎たけさぶろうしゅう慶応けいおう3ねん(1867ねん)10がつ27にち - 慶応けいおう4ねん(1868ねん)5がつ2にち
  42. 小出こいで大和やまとまもる秀実ひでみ慶応けいおう3ねん(1867ねん)12月27にち - 慶応けいおう4ねん(1868ねん)2がつ16にち
  43. 石川いしかわ河内かわうち守利もりとしせい慶応けいおう4ねん(1868ねん)2がつ17にち - 5月20にち

みなみ町奉行まちぶぎょう

編集へんしゅう
  1. 土屋つちや権右衛門ごんうえもん重成しげなり慶長けいちょう9ねん(1604ねん) - 慶長けいちょう16ねん(1611ねん)7がつ
  2. 島田しまだ弾正だんじょうちゅう利正としまさ慶長けいちょう18ねん(1613ねん)12月 - 寛永かんえい8ねん(1631ねん)10がつ5にち
  3. 加賀爪かがつめみんしょう輔忠きよし寛永かんえい8ねん(1631ねん)10がつ5にち - 寛永かんえい17ねん(1640ねん)1がつ23にち
  4. 神尾かみお備前びぜんもりもとかち寛永かんえい17ねん(1640ねん)5がつ18にち - まん4ねん(1661ねん)3がつ8にち
  5. 渡辺わたなべ大隅おおすみまもるつなさだまん4ねん(1661ねん)4がつ12にち - 寛文ひろふみ13ねん(1673ねん)1がつ23にち
  6. 宮崎みやざき若狭わかさ守重もりしげなり寛文ひろふみ13ねん(1673ねん)1がつ23にち - のべたから8ねん(1680ねん)2がつ23にち
  7. 松平まつだいら隼人はやとせいちゅうふゆのべたから8ねん(1680ねん)2がつ26にち - 8がつ12にち
  8. 甲斐かいしょう飛騨ひだもり正親まさちかのべたから8ねん(1680ねん)8がつ30にち - 元禄げんろく3ねん(1690ねん)12月13にち
  9. 能勢のせ出雲いずもまもるよりゆきしょう元禄げんろく3ねん(1690ねん)12月23にち - 元禄げんろく10ねん(1697ねん)4がつ3にち
  10. 松前まさき伊豆いずまもるよしみひろ元禄げんろく10ねん(1697ねん)4がつ14にち - 元禄げんろく16ねん(1703ねん)11月13にち
  11. はやし土佐とさまもる忠和ただかず元禄げんろく16ねん(1703ねん)11月15にち - 宝永ほうえい2ねん(1705ねん)1がつ28にち
  12. 坪内つぼうち能登のとまもるていかん宝永ほうえい2ねん(1705ねん)4がつ28にち - 宝永ほうえい4ねん(1707ねん)4がつ22にち
  13. 松野まつの河内かわうちまもるじょよし宝永ほうえい4ねん(1707ねん)4がつ22にち- とおる2ねん(1717ねん)2がつ2にち
  14. 大岡越前守おおおかえちぜんのかみ忠相ただすけとおる2ねん(1717ねん)2がつ3にち - もとぶん元年がんねん(1736ねん)8がつ12にち
  15. 松波まつなみ筑後ちくご守正もりまさはるもとぶん元年がんねん(1736ねん)8がつ12にち - もとぶん4ねん(1739ねん)9がつ1にち
  16. 水野みずの備前びぜんもり勝彦かつひこもとぶん4ねん(1739ねん)9がつ1にち - もとぶん5ねん(1740ねん)12月3にち
  17. しま長門ながとまもる祥正よしまさもとぶん5ねん(1740ねん)12月28にち - のべとおる3ねん(1746ねん)6がつ15にち
  18. 馬場ばば讃岐さぬきもりなおしげるのべとおる3ねん(1746ねん)7がつ2にち - 寛延かんえい3ねん(1750ねん)1がつ26にち
  19. 山田やまだ肥後ひご守利もりとしのべ寛延かんえい3ねん(1750ねん)3がつ16にち - たかられき3ねん(1753ねん)11月24にち
  20. 土屋つちや越前えちぜん守正もりまさかたたかられき3ねん(1753ねん)12月24にち - 明和めいわ5ねん(1768ねん)5がつ19にち
  21. 牧野まきの大隅おおすみ守成しゅせいけん明和めいわ5ねん(1768ねん)5がつ26にち - 天明てんめい4ねん(1784ねん)3がつ12にち
  22. 山村やまむら信濃しなの守良もりよし天明てんめい4ねん(1784ねん)3がつ12にち - 寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)9がつ7にち
  23. 池田いけだ筑後ちくごまもるちょうめぐみ寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)9がつ7にち - 寛政かんせい7ねん(1795ねん)6がつ28にち
  24. 坂部さかべ能登のとまもる広高ひろたか寛政かんせい7ねん(1795ねん)6がつ28にち[20] - 寛政かんせい8ねん(1796ねん)9がつ28にち
  25. 村上むらかみ肥後ひご守義もりよしれい寛政かんせい8ねん(1796ねん)9がつ28にち - 寛政かんせい10ねん(1798ねん)10がつ22にち
  26. 根岸ねぎし肥前ひぜんもり鎮衛寛政かんせい10ねん(1798ねん)11月11にち - 文化ぶんか12ねん(1815ねん)11月9にち
  27. 岩瀬いわせ加賀かがまもる文化ぶんか12ねん(1815ねん)11月24にち - 文政ぶんせい3ねん(1820ねん)2がつ8にち
  28. 荒尾あらお但馬たじま守成しゅせいあきら文政ぶんせい3ねん(1820ねん)3がつ17にち - 文政ぶんせい4ねん(1821ねん)1がつ23にち
  29. 筒井つつい和泉いずみもり政憲まさのり文政ぶんせい4ねん(1821ねん)1がつ29にち - 天保てんぽう12ねん(1841ねん)4がつ28にち
  30. 矢部やべ駿河するがまもるていけん天保てんぽう12ねん(1841ねん)4がつ28にち - 12月21にち
  31. 鳥居とりい甲斐守かいのかみちゅう耀天保てんぽう12ねん(1841ねん)12月28にち - 天保てんぽう15ねん(1844ねん)9がつ6にち
  32. 跡部あとべ能登のと守良もりよし天保てんぽう15ねん(1844ねん)9がつ15にち - ひろし2ねん(1845ねん)3がつ15にち
  33. 遠山とおやま左衛門尉さえもんのじょう景元かげもとひろし2ねん(1845ねん)3がつ15にち - よしみなが5ねん(1852ねん)3がつ24にち
  34. 池田いけだ播磨はりままもるよりゆきかたよしみなが5ねん(1852ねん)3がつ30にち - 安政あんせい4ねん(1857ねん)12月28にち
  35. 伊沢いさわ美作みさくまもる政義まさよし安政あんせい4ねん(1857ねん)12月28にち - 安政あんせい5ねん(1858ねん)10がつ9にち
  36. 池田いけだ播磨はりままもるよりゆきかた安政あんせい5ねん(1858ねん)10がつ9にち - 文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)5がつ26にち
  37. 黒川くろかわ備中びっちゅうもりもりやすし文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)5がつ28にち - 文久ぶんきゅう2ねん(1862ねんうるう8がつ25にち
  38. 小栗おぐり豊後ぶんごまもる忠順ただまさ文久ぶんきゅう2ねん(1862ねんうるう8がつ25にち - 12月1にち
  39. 井上いのうえ信濃しなのまもるせいただし文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)12月1にち - 文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)8がつ1にち
  40. 佐々木ささき信濃しなのまもるあきらはつ文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)8がつ2にち - もと元年がんねん(1864ねん)6がつ29にち
  41. 松平まつだいら石見いわみ守康もりやすただし元治もとはる元年がんねん(1864ねん)6がつ29にち - 11月20にち
  42. 有馬ありま出雲いずも守則しゅそくあつ元治もとはる元年がんねん(1864ねん)11月22にち - 12月21にち
  43. 根岸ねぎし肥前ひぜん守衛しゅえい元治もとはる元年がんねん(1864ねん)12月21にち - 慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)11月2にち
  44. 山口やまぐち駿しゅん河守こうもり直毅なおき慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)11月2にち - 慶応けいおう2ねん(1866ねん)8がつ5にち
  45. 有馬ありま阿波あわ守則しゅそくあつ慶応けいおう2ねん(1866ねん)8がつ5にち - 10月24にち
  46. 駒井こまい相模さがみもりしんきょう慶応けいおう2ねん(1866ねん)10がつ24にち - 慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ5にち
  47. 朝比奈あさひな甲斐守かいのかみ昌広まさひろ慶応けいおう3ねん(1867ねん)7がつ4にち - 慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ15にち) - 町奉行まちぶぎょうなみ
  48. 黒川くろかわ近江おうみまもるもりやすし慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ10日とおか - 3月5にち
  49. 松浦まつうらえつちゅうもりしんじまこと慶応けいおう4ねん(1868ねん)3がつ5にち - 3がつ10日とおか
  50. 佐久間さくま鐇五ろう信義しんぎ慶応けいおう4ねん(1868ねん)3がつ25にち - 5月20にち) - 官位かんいなし:幕末ばくまつ混乱こんらんのため

ちゅう町奉行まちぶぎょう

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  1. 丹羽にわ遠江とおとうみまもるちょうもり元禄げんろく15ねん(1702ねんうるう8がつ15にち - 宝永ほうえい4ねん(1707ねん)4がつ22にち
  2. 坪内つぼうち能登のとまもるていかん宝永ほうえい4ねん(1707ねん)4がつ22にち - とおる4ねん(1719ねん)1がつ28にち

地方ちほうしょはん

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しょはんにも町奉行まちぶぎょうしょくかれることがあった。

町奉行まちぶぎょうはんが「町方まちかた」として指定していした地域ちいき管轄かんかつする役職やくしょくであり、通常つうじょう町方まちかたおおくははんちょうのある城下町じょうかまち陣屋じんやまち)に限定げんていされたため、町奉行まちぶぎょうという役職やくしょく管轄かんかつもそこに限定げんていされた。ただし、広島ひろしまはんにおける尾道おのみち奉行ぶぎょう長州ちょうしゅうはん山口やまぐち奉行ぶぎょう三田尻みたじり奉行ぶぎょう新潟にいがたじょうまえ越後えちご長岡ながおかはんにあった新潟にいがたまち奉行ぶぎょうのように、はんちょう以外いがいにも町方まちかた指定していしたケースもある。

また柳河やなかわはん寺社じしゃ町役まちやく戸田とだ時代じだい大垣おおがきはん寺社じしゃ町奉行まちぶぎょうのように寺社じしゃ奉行ぶぎょう統合とうごうされるはん存在そんざいした。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、13ぺーじISBN 978-4750337104 
  2. ^ a b c 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、21ぺーじISBN 978-4750337104 
  3. ^ a b c d e f g h 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、20ぺーじISBN 978-4750337104 
  4. ^ 山本やまもと博文ひろぶみ江戸えど組織そしきじん』(2008ねん 新潮しんちょう文庫ぶんこ)51-52ぺーじ
  5. ^ a b 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、16-17ぺーじISBN 978-4750337104 
  6. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P53-54
  7. ^ a b 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “江戸えど時代じだい奉行ぶぎょう慎重しんちょうだった? 当時とうじ貴重きちょうな「裁判さいばん記録きろく発見はっけん | NHK”. NHKニュース. 2022ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P82-84
  9. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』62-63ぺーじ
  10. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』68-70ぺーじ
  11. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P55
  12. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P57-58
  13. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P46-48
  14. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P49
  15. ^ a b c 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、14ぺーじISBN 978-4750337104 
  16. ^ a b 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、17ぺーじISBN 978-4750337104 
  17. ^ a b 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、18ぺーじISBN 978-4750337104 
  18. ^ 石井いしい良助りょうすけ江戸えど町奉行まちぶぎょう明石書店あかししょてん、17-18ぺーじISBN 978-4750337104 
  19. ^ 山本やまもと江戸えど組織そしきじん』P60-61
  20. ^ 東京とうきょう中央ちゅうおう区立くりつ京橋きょうばし図書館としょかん 1985, p. 128.

参考さんこう文献ぶんけん

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ちゅう町奉行まちぶぎょう関係かんけい資料しりょう

外部がいぶリンク

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