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名字 - Wikipedia

名字みょうじ

近代きんだい以前いぜん日本にっぽんにおける名字みょうじ
苗字みょうじから転送てんそう
人名じんめい > (ファミリーネーム) > せい > 名字みょうじ苗字みょうじ

名字みょうじまたは苗字みょうじ(みょうじ、英語えいご: surname)は、日本にっぽんいえ家系かけい家族かぞく)ののこと。法律ほうりつじょう民法みんぽう750じょう、790じょうなど)[ちゅう 1]通俗つうぞくてきにはせい(せい)ともいう。

概説がいせつ

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世界せかいてきにはイギリスドイツのように移民いみんあつまるくにでは名字みょうじかずおおくなり、世界中せかいじゅう名字みょうじあつまる状態じょうたいであるが[1]中国ちゅうごく韓国かんこくでは一文字いちもんじせい原則げんそくとされているので種類しゅるいすくなく、とく韓国かんこくではやく280種類しゅるいしかない[1]

日本にっぽん名字みょうじ

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日本にっぽん名字みょうじは、元来がんらい名字みょうじ(なあざな)」とばれ、中国ちゅうごくから日本にっぽんはいってきた「(あざな)」の一種いっしゅであったとおもわれる。公卿くぎょうなどははやくから邸宅ていたくのある地名ちめい称号しょうごうとしていたが、これが公家くげ武家ぶけにおける名字みょうじとして発展はってんしていった。近世きんせい以降いこう、「苗字みょうじ」とくようになったが、戦後せんご当用漢字とうようかんじで「なえ」のみに「ミョウ」がくわえられなかったためふたたび「名字みょうじ」とくのが一般いっぱんになった[よう出典しゅってん]以下いかぶんでは表記ひょうき統一とういつするため固有こゆうめい法令ほうれいめい書籍しょせきめいのぞき「名字みょうじ」と記載きさいする。

名字みょうじ」と「せいまたは「」はかつてはことなるものであった。たとえば清和せいわはじめ新田にったりゅう自称じしょうした徳川とくがわ家康いえやす場合ばあいは、「徳川とくがわ次郎じろう三郎さぶろうげん朝臣あそん家康いえやす」あるいは「みなもと朝臣あそん徳川とくがわ次郎じろう三郎さぶろう家康いえやす」となり、「徳川とくがわ」が「名字みょうじ」、「次郎じろう三郎さぶろう」が「通称つうしょう」、「みなもと」が「(うじ)」ないし「せい本姓ほんせい)」、「朝臣あそん」が「せい(カバネ)」(古代こだい存在そんざいしたいえ家格かかく)、「家康いえやす」が「いみな(いみな)」(本名ほんみょう実名じつめい)となる。

日本にっぽんでの名字みょうじかずは、たとえば「斎藤さいとう」と「斉藤さいとう」をべつとしてカウントし、「河野こうの」を「こうの」と「かわの」で区別くべつしてべつにカウントするなどという方法ほうほうをとれば、一説いっせつには20まんしゅにもたっするなどともわれるが[1]、20まんしゅおおすぎる、実際じっさいには10まんしゅほどだろう、という見解けんかいしめ意見いけんもあり、正確せいかく推定すいていむずかしい[1]。しかし世界せかいてきればおおいほうであることは事実じじつである。これほど名字みょうじえた要因よういんとして、日本人にっぽんじん他国たこく地域ちいきくらべて「同族どうぞく」という意識いしきよりも「いえ」の意識いしき重要じゅうようし、同族どうぞくであってもあえて名字みょうじえて「いえ」を明確めいかくにしたり、地名ちめいもちいて「いえ」をあきらかにしたからとかんがえられる。 また明治めいじしん政府せいふが、国民こくみん名字みょうじつことを義務付ぎむづけ、その結果けっか庶民しょみんはそれまでもともと通称つうしょうとしていた名字みょうじ正式せいしき名乗なのしたれいほかに、あらたな名字みょうじ名乗なのったれいもあり、明治めいじ時代じだい一気いっき名字みょうじかずえた、という意見いけんがある[1]一説いっせつによると、幕末ばくまつ明治めいじくらべると、一気いっきすうばいえたという[1]

日本人にっぽんじん名字みょうじ由来ゆらいは、様々さまざま分類ぶんるいほうがあるが、つぎのように分類ぶんるいすることもできる[1]

渡辺わたなべ高橋たかはし佐々木ささき石川いしかわ長谷川はせがわ三浦みうら千葉ちばなど[1]
山本やまもと山田やまだもり池田いけだなど[1]
ひがし西にしきたみなみ喜多きた辰巳たつみいぬいなど[1]
服部はっとり鍛冶たんや庄司しょうじ東海林しょうじ犬飼いぬかい鵜飼うかい公文こうぶんなど[1]
  • 藤原ふじわら由来ゆらい[1](ただしそのおおくは藤原ふじわら血縁けつえんてき関係かんけいにないとかんがえられる[2]
佐藤さとう伊藤いとう安藤あんどう加藤かとうなど[1]

江戸えど時代じだいまでの名字みょうじ

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公家くげ名字みょうじ

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古代こだい氏族しぞく制度せいど律令制りつりょうせい移行いこうしたのちに、氏族しぞく格式かくしきそのものよりもその本人ほんにんぞくする家系かけい家格かかくほう重要じゅうようになり、従来じゅうらいなかでもそのいえ区別くべつする必要ひつようあらわれた。たとえば、おな藤原ふじわらでも藤原ふじわらみなみ藤原ふじわらきた藤原ふじわらしき藤原ふじわらきょう藤原ふじわらきたなかでも道長みちなが頼通よりみちりゅうとそれ以外いがいといったようおななかでもかくちがいがあらわれている。

そのため、そのいえあらわすためにその出身しゅっしんけたのが名字みょうじはじまりとわれている。平安へいあん時代じだい貴族きぞく母親ははおや邸宅ていたくそだつため、その母方ははかた邸宅ていたくのある地名ちめいなどを名字みょうじにつけた。貴族きぞく初期しょき名字みょうじいちだいかぎりのもので、ごうといい家名かめいあらわすものではなかったが、平安へいあん時代じだい後期こうきからつまこんへとおおきくわり、父子ふし別々べつべつだった称号しょうごうちちからまごへと代々だいだいがれ、その家系かけいしめようになり家名かめいとなった(近衛このえきゅうじょう西園寺さいおんじなど)。この家名かめい武家ぶけ社会しゃかい以降いこう公家くげ名字みょうじとなり、明治維新めいじいしん以降いこうがれることとなる。

武士ぶし名字みょうじ

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平安へいあん時代じだい後期こうきになると律令制りつりょうせい崩壊ほうかいし、荘園しょうえん管理かんりみずか開拓かいたくした土地とち財産ざいさんまもるために武装ぶそう集団しゅうだんである武士ぶし出現しゅつげんする。武士ぶしみずからの支配しはいしている土地とち所有しょゆうけん主張しゅちょうするために自分じぶん所有しょゆうする土地とちほんぬき)( - みょう)の地名ちめい名字みょうじとして名乗なのり、それを代々だいだい継承けいしょうした。またそうかんであれば荘園しょうえん名称めいしょうを、郡司ぐんじであればぐん名称めいしょう名字みょうじとするものあらわれた。

鎌倉かまくら時代ときよになると武士ぶし所領しょりょう拡大かくだいし、おおきな武家ぶけになると全国ぜんこく各地かくち複数ふくすう所領しょりょうつようになった。鎌倉かまくら時代じだい武家ぶけ分割ぶんかつ相続そうぞくおおかったため、庶子しょし本家ほんけ以外いがい所領しょりょう相続そうぞくすれば、その相続そうぞくした所領しょりょう名字みょうじとして名乗なのるようになる。またさらなる土地とち開墾かいこんによって居住きょじゅういきえ、あらたな開墾かいこん地名ちめい名字みょうじとし、ますます武士ぶし名乗なの名字みょうじかず増大ぞうだいしていった。ただし、注意ちゅういすべきは、名字みょうじことなろうともせい本姓ほんせい)はおなじということである。

たとえば、新田にった義貞よしさだおとうと脇屋わきや義助よしすけだが、せい本姓ほんせい)でえばどちらもみなもとせいであり、みなもと義貞よしさだみなもと義助よしすけである。新田にったという名字みょうじは、源義家みなもとのよしいえ八幡やはた太郎たろう八幡やはた太郎たろうとは通称つうしょう)のよんなんみなもと義国よしくに足利あしかが式部しきぶ大夫たいふ義国よしくに足利あしかが義国よしくに母方ははかたさと地名ちめい式部しきぶ大夫たいふ役職やくしょく)の長男ちょうなんみなもと義重よししげが、新田にったそう開墾かいこんし、そこを所領しょりょうとし、藤原ふじわらただしみやび寄進きしんしてそうかん任命にんめいされたことから新田にったそうそうめい名字みょうじにしたことにはじまる。義助よしすけあに義貞よしさだ相続そうぞくした嫡宗から独立どくりつして新田にった荘内そうない脇屋わきやきょう分割ぶんかつ相続そうぞくしてんだことから、脇屋わきや自己じこ名字みょうじとし、脇屋わきや義助よしすけ名乗なのった。ただし、新田にったみなもと頼朝よりともから門葉もんようとしてみとめられなかったため、鎌倉かまくら時代じだいには幕府ばくふ文書ぶんしょに「みなもと○○」と署名しょめい記載きさいされることはなかった。[よう出典しゅってん]

このころ名字みょうじ家名かめいとしての性格せいかくよわく、いわゆる北条ほうじょうやすしとき江間えま太郎たろうしょうしたのちちち相模さがみもり就任しゅうにんは「相模さがみ太郎たろう」(相模さがみもり嫡男ちゃくなん)をしょうし、任官にんかんはもっぱらかんめいばれており、 「相模さがみ修理しゅうりあきらたい」としょうすることはあっても実際じっさい北条ほうじょうじょう)の名字みょうじ呼称こしょうされた事実じじつい。北条ほうじょう時宗じしゅう同様どうようであり、実際じっさい北条ほうじょう名字みょうじ名乗なのった北条ほうじょう少数しょうすうである[3]三浦みうらおなじ。これを重視じゅうしする見地けんちからは、当時とうじの「北条ほうじょう」や「三浦みうら」は居住きょじゅうあらわすものにぎず家名かめいとしての名字みょうじではない、南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう嫡子ちゃくし単独たんどく相続そうぞく主流しゅりゅうとなり、ほかの兄弟きょうだい改称かいしょうせず配下はいかとしてとどまるようになったことで、単独たんどく相続そうぞく前提ぜんていとした家産かさん成立せいりつすると、ちちから嫡男ちゃくなんへと家産かさん継承けいしょうする永続えいぞくせいった「いえ」が出現しゅつげんすることになる。永続えいぞくするいえ個々人ここじんから独立どくりつした組織そしきたいであり、そのような組織そしきたいしめ呼称こしょう家名かめいとして名字みょうじ成立せいりつしたと説明せつめいされている[4]

そして、室町むろまち時代ときよから江戸えど時代じだいになると、せい本姓ほんせい)は、もっぱら朝廷ちょうていから官位かんいもらうときなどに使用しようかぎられるようになり、そのような機会きかいたない一般いっぱん武士ぶしは、せい本姓ほんせい)を意識いしきすることはすくなくなった。事実じじつ江戸えど幕府ばくふ編纂へんさんした系図けいずしゅうると、旗本はたもとクラスでもせい本姓ほんせい不明ふめいいえ散見さんけんされる。一方いっぽうで、一般いっぱんひとであっても朝廷ちょうていつかえるときは、源平げんぺいふじたちばなといった適切てきせつせい本姓ほんせい)を名乗なのるものとされた。また、一部いちぶ学者がくしゃとう趣味しゅみてき擬古ぎこてき名乗なのることもあった。したがって、名字みょうじ支配しはい階級かいきゅう象徴しょうちょうとして固定こていされたが、せい本姓ほんせい)の有無うむ支配しはい階級かいきゅう象徴しょうちょうとして本質ほんしつてきなものではなかったのである。

公家くげ武士ぶしともども、名字みょうじした直接ちょくせつ接続せつぞくするのは通称つうしょうであり、いみな直接ちょくせつつなげる場合ばあいは、せい本姓ほんせい)にたいしてが通常つうじょうであった。ただし名字みょうじいみな直接ちょくせつつなげることも、皆無かいむではなかった[ちゅう 2]下級かきゅう武士ぶしにおいては、通称つうしょうのみでいみなたないものすくなくなかった。

庶民しょみん名字みょうじ

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古代こだい庶民しょみんおもに、豪族ごうぞく所有しょゆうみんたるきょくの「○○」というせい本姓ほんせい)をっていた。たとえば「大伴おおとも」「藤原ふじわら」というようなものである。しかしきょく廃止はいし支配しはいしゃ流動りゅうどうとともにその大半たいはんわすれられ、勝手かって名乗なのることもあった。

名字みょうじは、本姓ほんせいちがって天皇てんのうから下賜かしされる公的こうてきなものではなく、近代きんだいまでみずか名乗なのることが可能かのうだった。家人かじん自分じぶん土地とち名字みょうじとして名乗なのったり、あるもの恩賞おんしょうとして主人しゅじんから名字みょうじたまわったりもした。

1577~1610ねんまで日本にっぽん滞在たいざいしたジョアン・ロドリゲスは、漁師りょうし身分みぶんひく職人しょくにんのような最下さいかそう人々ひとびとのぞき、大衆たいしゅうみな名字みょうじっていると報告ほうこくしている[5]

江戸えど時代じだいには苗字みょうじ帯刀たいとう制限せいげんされたことから、庶民しょみんおおくには「名字みょうじがなかった[6]」とかたられることがある。しかし、1952ねんほら富雄とみお研究けんきゅう契機けいきに、そのような時代じだいでも私的してきには貧農ひんのうすらも名字みょうじち、行事ぎょうじとう使用しようしていた事例じれい全国ぜんこくから大量たいりょう報告ほうこくされ、庶民しょみん名字みょうじがなかったというのが学問がくもんてき否定ひていされた[7]明治めいじ以降いこう名字みょうじっていなかったか不明ふめいとなっていた場合ばあいにはあらたに「はじめ」しなければならなかったさい歴史れきしじょう有名ゆうめい人物じんぶつ名字みょうじさかな野菜やさいなどを戸籍こせき登録とうろくしたれいがおもしろおかしくつたえられたので、庶民しょみん名字みょうじっていなかったという「俗説ぞくせつ」がまれたのだと説明せつめいされている[8]とく農村のうそん上層じょうそうでは名字みょうじとはべつせい本姓ほんせい源平げんぺいふじたちばな)を名乗なのものもあり、甲斐かいこく地主じぬし依田よだみんみなもと長安ながやす」(1674~1758)のように、みなもとせい百官ひゃっかんめい自称じしょうするものさえいたことが確認かくにんされている[9]

女性じょせいめいおっといえ名字みょうじ

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中世ちゅうせいせい本姓ほんせい)はまれながらのものでも名字みょうじは、まだげん住所じゅうしょしめすようなものだった。そのため、既婚きこん女性じょせいもその居住きょじゅう地名ちめいで「稲毛いなげ女房にょうぼう」などとばれた(吾妻あづまきょう)。夫婦ふうふどう名字みょうじれい主張しゅちょうされている(高橋たかはし秀樹ひでき)[10]

また当時とうじ文書ぶんしょ比較ひかく検討けんとうから、鎌倉かまくら時代じだいには「藤原ふじわらおんな」のように実家じっかせい本姓ほんせい)を名乗なの人名じんめい表記ひょうき依然いぜん主流しゅりゅうだったが、南北なんぼくあさ時代じだいには衰退すいたいし、個人こじんめいのみを名乗なのるか、既婚きこん女性じょせいは「~後家ごけ」のようにもっぱら、「つまとしての名称めいしょうを」名乗なのることが一般いっぱんしていったことがあきらかにされている(細川ほそかわ涼一りょういち[11]公家くげ摂関せっかんでも正室せいしつ婚家こんか主要しゅよう一員いちいん認識にんしきされ、婚家こんか名字みょうじつま社会しゃかいてき地位ちいばれるようになり(れい九条くじょうしょうけいむすめじょういんぼう正室せいしつ経子けいこじょう北政所きたのまんどころ伏見ふしみみやさだあつし親王しんのうむすめじょうはれりょう正室せいしつ子女しじょおう二条北にじょうきた政所まんどころなど)、夫婦ふうふどう名字みょうじだったと主張しゅちょうされている(後藤ごとうみち[12]

これにたいしては、女房にょうぼうつま後家ごけなどをそのひと自身じしん名前なまえ要素ようそみとめない立場たちば[13]主張しゅちょうされている。このような立場たちばからは、公的こうてき活動かつどうみとめられていなかった女性じょせいには、名字みょうじ無縁むえん存在そんざいであった。この場合ばあいつま名字みょうじ夫婦ふうふべつ名字みょうじであったが、公儀こうぎ公務こうむかかわりがなかったつまにとって名字みょうじ重要じゅうようではなかった、「〇〇女房にょうぼう△△」「〇〇内儀ないぎ△△」の表示ひょうじ十分じゅうぶんであったと主張しゅちょうされる[14]。もっとも、仮名かめい(けみょう)は本来ほんらい固有名詞こゆうめいしではなく続柄つづきがらあらわすもので、「太郎たろう」は長男ちょうなん、「だいひめ」は長女ちょうじょ、「小太郎こたろう」は太郎たろう長男ちょうなん字義じぎである[15]

平安へいあん鎌倉かまくら時代じだいには女性じょせい出自しゅつじせい(本姓ほんせい)をもち文書ぶんしょ署名しょめいしているれいおおいが、いえ社会しゃかいとなった中世ちゅうせい後期こうき以降いこう女性じょせい家長かちょうとの続柄つづきがら表示ひょうじするのが通例つうれい史料しりょう女性じょせい名字みょうじ確認かくにんするのは困難こんなんとされる。ただ、まれには女性じょせいあきらかに名字みょうじかんした文書ぶんしょ登場とうじょうすることもあり[16]室町むろまち時代じだい丹波たんばこく山国やまぐにそう百姓ひゃくしょう文書ぶんしょには夫婦ふうふどう苗字みょうじ記録きろくさんれいほど存在そんざいする。井戸いどむら江口えぐち菩提寺ぼだいじ寄進きしんで「江口えぐち沙弥さやどうせん禅門ぜんもんどうみょうたま禅尼ぜんに夫婦ふうふ」としるしたケース、どうそう枝郷えだごう下黒田しもくろだむらぼうにおいて、夫婦ふうふむすめ田地でんちあたえるゆずじょうに「ぼうひめぼうまた二郎じろう」と署名しょめいしたケース、同村どうそん鶴野つるの兵衛ひょうえ二郎じろう井本いもととついだあねの「さいま」に山林さんりんゆずったあてしょが「井本いもとさいま」となっていたケースの事例じれいから、すくなくとも同地どうちでは夫婦ふうふどう名字みょうじ一般いっぱんてきだったとされる[17]

幕末ばくまつ歌人かじん竹村たけむら勢子せこのように婚姻こんいん実家じっか名字みょうじ署名しょめいしたれい散見さんけんされる[18]。しかし、それが掲載けいさいされている『平田ひらた先生せんせい門人もんじん姓名せいめいろく』では、生家せいか登録とうろくされている既婚きこん女性じょせい勢子せこふくめ5めいであるのにたいし、婚家こんか登録とうろくされているのは10めいであるため、勢子せこれいをもって、「夫婦ふうふ名字みょうじ原則げんそくだった」というのは疑問ぎもんだとの批判ひはんがある(しば桂子けいこ)[19]

中世ちゅうせい夫婦ふうふどう名字みょうじだったとすると、なぜ近世きんせいべつ名字みょうじ事例じれい登場とうじょうしたか問題もんだいとなるが、家名かめいとしての名字みょうじ父子ふし相承そうしょうされ父系ふけい血統けっとう標識ひょうしきたる(本姓ほんせい)と同化どうかしたことへのあらわれではないかというせつがある(大藤おおふじおさむ[20]

もっとも、近世きんせいでは夫婦ふうふ名字みょうじかんする法的ほうてき規制きせい存在そんざいせず女性じょせい名称めいしょう表記ひょうきには多様たようせいがあった。 ただし、名字みょうじ原理げんり(ちちから父系ふけい血統けっとう継承けいしょうされる)と慣習かんしゅうから夫婦ふうふべつ名字みょうじであり既婚きこん女性じょせい名字みょうじ認識にんしき基本きほんてきには生家せいかつらなった。 そうしたなかで近世きんせい後期こうきには婚家こんかへの帰属きぞく意識いしきからつまおっと名字みょうじしょうする女性じょせいあらわれていたとの主張しゅちょうもある[21]

当時とうじ女性じょせいは「諏訪すわ宇右衛門えもんむすめ きた」「百姓儀右衛門女房 しげ」「大和屋やまとや宇蔵うぞうどう家母かぼ まさ」などとばれ、そもそも女性じょせい人名じんめい表記ひょうきちちおっと息子むすこなどの当主とうしゅ名称めいしょう続柄つづきがら記載きさいし、「婚姻こんいんにより名字みょうじわる・わらない」という観点かんてん[22]

明治めいじ以後いご名字みょうじ

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明治めいじしん政府せいふ幕府ばくふ同様どうよう当初とうしょは「名字みょうじ公称こうしょう」を許可きょかせいにする政策せいさくをそのまま維持いじしていた。幕府ばくふ否定ひていのために慶応けいおう4ねん9月5にち1868ねん10がつ20日はつか幕府ばくふから許可きょかて、「公称こうしょう」をみとめられていた富農ふのう一部いちぶ農民のうみん町人ちょうにん名字みょうじすべ禁止きんしした。慶応けいおう4ねん1がつ27にち(1868ねん2がつ20日はつか)には、鳥羽とば伏見ふしみたたかにより徳川とくがわ慶喜よしのぶ朝敵ちょうてき(のち華族かぞく)となったのをけて、江戸えど幕府ばくふからのたまものせい(功績こうせきせいたまうこと)由来ゆらいで「松平まつだいら」の名字みょうじもちいることを禁止きんしした。これによって、一族いちぞくぜんいえ復姓ふくせい命令めいれいしたがい、松平まつだいらせい廃棄はいきして本姓ほんせい(たまものせいまえせい)にもどし、分流ぶんりゅう一部いちぶ改姓かいせいした [23]。  その一方いっぽう、(明治めいじ)政府せいふ功績こうせきしゃには、苗字みょうじ公称こうしょう帯刀たいとうみとめることもあった。明治めいじ2ねん7がつ1869ねん8がつ以降いこう武家ぶけ政権せいけんより天皇てんのう親政しんせいもどったことから、「大江おおえ朝臣あそん孝允たかよし木戸きど」のようにせい本姓ほんせい)を名乗なのることとした時期じきもあった。

明治めいじ3ねん1870ねん)になると法制ほうせい学者がくしゃ細川ほそかわじゅん次郎じろうや、戸籍こせき制度せいどによる近代きんだい重視じゅうしする大蔵省おおくらしょう主導しゅどうにより、庶民しょみんへの名字みょうじ公称こうしょう原則げんそくきんじる政策せいさく転換てんかんされた。同年どうねん9月19にち10月13にち)の太政官だじょうかん布告ふこくだい608ごう平民へいみん苗字みょうじ許可きょかれい」で平民へいみん全体ぜんたいへの苗字みょうじ公称こうしょうすることを許可きょかした。戦後せんごに9月19にちが「苗字みょうじ」であるのは、これに由来ゆらいしている。これは「上下じょうげ区別くべつ」を重視じゅうしした江戸えど時代じだい社会しゃかいにおいて、幕府ばくふによって創設そうせつした身分みぶん標識ひょうしき機能きのう格式かくしき破棄はき目的もくてきで、一般いっぱん庶民しょみんへの名字みょうじ公称こうしょう許可きょか政府せいふ(幕府ばくふ)が特別とくべつあたえるものだったのをやめ、自由じゆうしたのであった。 しかし、庶民しょみんがわ必要ひつようおうじたものではなく、庶民しょみんにとっては名字みょうじ人名じんめいとして必要ひつよう不可欠ふかけつなものではなかったので、その結果けっか名字みょうじ名乗なのるも名乗なのらないも各自かくじ勝手かって状態じょうたいになった[24]

明治めいじ4ねん10月12にち1871ねん11月24にち)にはせいしかばね(セイシ)しょうれいされ、以後いご日本人にっぽんじん公的こうてきせい本姓ほんせい)を名乗なのることはなくなった。せい用語ようご混乱こんらんしていたが、この時点じてん太政官だじょうかん布告ふこくじょうは、源平げんぺいふじたちばな大江おおえなどのいわゆる(ウジ、本姓ほんせい)は「せい」、朝臣あそん宿禰すくねなどのせい(カバネ)は「しかばね」というように分類ぶんるいしたのである。

明治めいじ5ねん5月7にち1872ねん6月12にち)の「通称つうしょう実名じつめいひとつにていむるごと」(太政官だじょうかん布告ふこくだい149ごう)により公的こうてき本名ほんみょうひとつにさだまり、登録とうろくされた戸籍こせきじょう氏名しめいは、同年どうねん8がつ24にち9月26にち)の太政官だじょうかん布告ふこくにより、簡単かんたん変更へんこうできなくなった[25]

明治めいじ8ねん1875ねん)2がつ13にち平民へいみん苗字みょうじ必称義務ぎむれいにより、国民こくみんはみな公的こうてき名字みょうじつことになった。 「自今じこんかなら苗字みょうじあいうたうべく、もっとも祖先そせん以来いらい苗字みょうじ分明ふんみょうむかいあらたに苗字みょうじしつらえくべし」という太政官だじょうかん布告ふこくで、全日本ぜんにほん国民こくみんへの公称こうしょう苗字みょうじ義務ぎむさせた。「これからはかなら苗字みょうじ名乗なのりなさい。祖先そせん以来いらい苗字みょうじからないものは、あらたに苗字みょうじをつけなさい」という意味いみである。

徴兵ちょうへい制度せいど(明治めいじ6ねん施行しこう)を厳格げんかく実行じっこうするため、徴兵ちょうへい事務じむ必要ひつようから依然いぜんとして名字みょうじ使用しようしていない平民へいみんおおいという事実じじつ政府せいふ国民こくみん管理かんりうえ不都合ふつごう判断はんだんし、国民こくみんいちにん一人ひとりの「氏名しめい」の管理かんり徹底てっていするため名字みょうじ使用しよう強制きょうせいする布告ふこくであった[26]明治めいじになって名字みょうじとどさいには、自分じぶん名字みょうじ創作そうさくして名乗なのることもあった(たとえば与謝野よさの鉄幹てっかんちち礼厳れいごん先祖せんぞ伝来でんらい細見さいけんというをあえて名乗なのらず、故郷こきょう与謝よさぐん地名ちめいから与謝野よさのという名字みょうじ創作そうさくした)。僧侶そうりょ神官しんかんなどに適当てきとうにつけてもらうということもあった[27]れいすくない。

つま名字みょうじ

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また婚姻こんいんつま名字みょうじについては、明治めいじ8ねん(1875ねん)、石川いしかわけんより「とついだ婦女ふじょは、終身しゅうしんその生家せいか実家じっか)のとするか、おっといえ名字みょうじしょうするのか」との伺があり、同年どうねん11月9にち内務省ないむしょう判断はんだんこま太政官だじょうかん伺をした。

その結果けっか明治めいじ9ねん1876ねん3月17にち太政官だじょうかん指令しれいとして、つま名字みょうじは「所生しょせい」つまり婚前こんぜんのものとし夫婦ふうふべつとされた[28]つまふくめない狭義きょうぎ家族かぞく概念がいねん(血族けつぞくしゃのみ)があり、つま自身じしん出身しゅっしん血縁けつえん重視じゅうしした江戸えど時代じだい支配しはいしゃそう(武士ぶし村落そんらく支配しはいしゃ豪商ごうしょうなど)の意識いしき延長えんちょうがあったのが理由りゆうである[29]。この指令しれいには全国ぜんこく地方ちほう官庁かんちょうから疑問ぎもん批判ひはんされた[30]戸籍こせき実務じつむあつかいも地方ちほうごとに対応たいおうかれたが、つま名字みょうじ記載きさいしないものが多数たすうであった[31]夫婦ふうふどう名字みょうじべつ名字みょうじかはきわめて近代きんだいてき問題もんだいで、そもそも「氏名しめい成立せいりつとそれによる国家こっかによる国民こくみん管理かんりおこなわれるまで存在そんざいしなかった[32]

一方いっぽうで、箕作みつくり麟祥りんしょうらの起草きそう明治めいじ10・11ねん民法みんぽう草案そうあんでは「つまは其夫のせいもちい[33]」と規定きてい(188じょう)、その草案そうあんおよび法典ほうてん一貫いっかんして夫婦ふうふどう名字みょうじ規定きてい採用さいようしている[34]。そのかく草案そうあんでも、つまおっと血族けつぞくではないがおっとしたがうべきもの夫婦ふうふ同氏どうしであり、つま家族かぞくふくめる広義こうぎ家族かぞく概念がいねんでとらえている。これは不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせい必要ひつようから欧米おうべい法典ほうてん参考さんこうにされたのでキリストきょうてき夫婦ふうふ一体いったいろん影響えいきょうがうかがわれると主張しゅちょうする論者ろんしゃもいる[35]

幕末ばくまつ1847ねんまれの井上いのうえみさおは、明治めいじ23ねん(1890ねん)論文ろんぶんで、当時とうじ最新さいしん草案そうあんにつき、たしかに古代こだいとはことなるが、「しかれども幕府ばくふ以来いらい実際じっさいおっとしょうし、げんいまおっとしょう戸籍こせき実務じつむごときもべつ実家じっかしめさず」と指摘してきし、夫婦ふうふどう名字みょうじ規定きてい当時とうじ実態じったいしたがったものであることを説明せつめいしている[36]同年どうねんの『おんながく雑誌ざっし』242ごう掲載けいさいされた「問答もんどう細君さいくんたるものの姓氏せいしこと)」でも、「およそおっとあるの婦人ふじんは、おおくそのおっといえせいもちいひおるようはべるが、みぎはいかがのものにや」とされており、実態じったいとしておおくのつま便宜上べんぎじょうおっといえ名字みょうじもちいていることがあきらかにされている[37]

明治めいじ政府せいふ指令しれい如何いかにかかわらず、「つま生家せいか名乗なのること」は士族しぞくそうには儒教じゅきょうてき伝統でんとう慣習かんしゅうであり、折井おりいよし耶子は、公称こうしょうゆるされてなかった平民へいみんたちは旧例きゅうれいらず、おっといえ名乗なのるのはむしろ「〇〇夫人ふじん」としてばれることで西欧せいおうてき夫婦ふうふいち体感たいかん主張しゅちょうするあたらしい慣習かんしゅうとしてかんがえられていたとのせつとなえている[38]

嫁入よめいこん婿入むこいこんがあった婚姻こんいん慣習かんしゅう観点かんてんから、明治めいじ23ねん法律ほうりつだい98ごうきゅう民法みんぽう人事じんじへんだい243じょう2こうは「戸主こしゅおよ家族かぞくは其家のしょう[39]」としており、どう民法みんぽう民法みんぽうてん論争ろんそう施行しこう延期えんきされたが、この条文じょうぶん明治めいじ31ねん法律ほうりつだい9ごう明治めいじ民法みんぽうだい746じょうにそのまま継承けいしょうされた[40]

明治めいじ31ねん1898ねん)に明治めいじ民法みんぽう家族かぞくほう公布こうふされつまかんしてはその明治めいじ23ねんきゅう民法みんぽう規定きてい踏襲とうしゅうされた。婚姻こんいんによっておっといえはいったつまおっといえ改姓かいせいすることによって夫婦ふうふ同氏どうしになった。

1898ねん明治めいじ31ねん民法みんぽう立案りつあんした法典ほうてん調査ちょうさかい委員いいん江戸えど時代じだいまれの富井とみい政章まさあき横田よこた国臣くにおみ(1894ねん)[41]うめ謙次郎けんじろう(1910ねん)[42]奥田おくだ義人よしひと(1899ねん)[43]らは同様どうように、夫婦ふうふどう名字みょうじ規定きていは、当時とうじ日本にっぽん慣習かんしゅう立法りっぽうだという主張しゅちょうをしているが、江戸えど時代じだい以前いぜんについては「法律ほうりつ誤判ごはん」だという後世こうせい歴史れきし主張しゅちょうもある(ほら富雄とみお[44]

戦後せんごあたらしい憲法けんぽう立脚りっきゃくして「いえ制度せいど法的ほうてきにはなくなった。 明治めいじ民法みんぽう改正かいせい作業さぎょうはじめられた当初とうしょおっと名字みょうじへの同氏どうし原則げんそくとし、つまへの同氏どうし例外れいがいてきみとめるおっと優位ゆうい夫婦ふうふ同氏どうしあんであったが、 両性りょうせい平等びょうどうはんするという主張しゅちょうもあり 「夫婦ふうふは、婚姻こんいんさいさだめるところにしたがい、おっとまたつましょうする」(民法みんぽう750じょう 昭和しょうわ22ねん公布こうふ(1947ねん))となった。

外来がいらい名字みょうじ

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現代げんだいになって国際こくさいがすすむにつれて日本にっぽん帰化きかする外国がいこくじんかならずしも「日本にっぽんふう」の氏名しめいでなくても許可きょかされるようになり[45]、アメリカじんだったドナルド・キーンは「キーン ドナルド」で、大相撲おおずもうあさあか龍太郎りゅうたろうは「バダルチ ダシニャム」で日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくしている。ぎゃくつづみりょくも恵理えりさんぬしアレサンドロはくほうしょうのようにあらたにつくったものもいる。

外国がいこくじん結婚けっこんしてあらためる(1984ねん戸籍こせきほう改正かいせいれいえ、外国がいこく由来ゆらい名字みょうじ日本人にっぽんじんえてきている。なかでも中東ちゅうとうけん父親ちちおや名字みょうじ継承けいしょうする習慣しゅうかんがあるため、日本人にっぽんじん女性じょせい結婚けっこん日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくしても、アラビアやペルシャ名字みょうじをそのままカタカナ表記ひょうき使用しようしていることおおい(ダルビッシュゆう父親ちちおやなど)。

幽霊ゆうれい名字みょうじ

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近年きんねん刊行かんこうされている雑学ざつがくほん名字みょうじ関連かんれんほん記載きさいされているちんせいせい難読なんどくせいには、架空かくうのものや江戸えど時代じだいおどけしょから引用いんようされたものがおおい。このように実在じつざい確認かくにんできない名字みょうじ存在そんざい佐久間さくますぐるが「名前なまえ風土記ふどき」(読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1971)で指摘してきしていたが、森岡もりおかひろしはそれに「幽霊ゆうれい名字みょうじ」という名称めいしょうあたえた[46]森岡もりおかは、これらの幽霊ゆうれい名字みょうじがないことを証明しょうめいするためにはすべての戸籍こせき調しらべる必要ひつようがあるため困難こんなんであり、また名字みょうじ関連かんれんほん自分じぶん名字みょうじ記載きさいされていなければ読者どくしゃから苦情くじょうるが、存在そんざいしない名字みょうじ掲載けいさいされていても苦情くじょうることはないため、なかなかすことができない、としている[47]

森岡もりおかによれば、一番いちばんなが名字みょうじは5文字もじの「左衛門さえもん三郎さぶろう」(さえもんさぶろう)と「勘解由小路かげゆこうじ」(かでのこうじ)のふたつだけで、これ以外いがいの「十二月じゅうにがつさんじゅういちにち(ひづめ)」などは実在じつざいしない、つまり幽霊ゆうれい名字みょうじだという[48]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 現行げんこう民法みんぽうにおける性格せいかくについては「いえ」だけでなく、学者がくしゃあいだ議論ぎろんがある。戸田とだ博史ひろふみ夫婦ふうふかんがえる』世界せかい思想しそうしゃ、2004ねん ISBN 4790710750
  2. ^ たとえば、s:太平たいへい/まきだいじゅうよんでは新田にった義貞よしさだという表記ひょうきなんあらわれる。

出典しゅってん

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  9. ^ 大藤おおふじ(2012)53ぺーじ
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  13. ^ 大藤おおふじ(1998)193ぺーじ熊谷くまがい(1970)136-138ぺーじ
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  15. ^ 奥富おくとみ敬之たかゆき苗字みょうじ名前なまえ事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2007ねん、178ぺーじ
  16. ^ 大藤おおふじ(2012)56ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 戸田とだ博史ひろふみ『『いえ』にさぐ苗字みょうじとなまえ』雄山閣ゆうざんかく、1986ねん4がつISBN 9784639005650
  • 大藤おおふじおさむ近世きんせい農民のうみんいえむら国家こっか吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1998ねん
  • 大藤おおふじおさむ日本人にっぽんじんせい苗字みょうじ名前なまえ 人名じんめいきざまれた歴史れきし吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2012ねん
  • 熊谷くまがいひらくさく婚姻こんいんほう成立せいりつ序説じょせつ酒井さかい書店しょてん、1970ねん
  • 坂田さかたさとし苗字みょうじ名前なまえ歴史れきし吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん4がつISBN 9784642056113

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