天正 てんしょう 六 ろく 年 ねん (1578年 ねん )、織田 おだ 信長 のぶなが が安土 あづち 城 じょう にて相撲 すもう を観戦 かんせん 。両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん の「織田 おだ 信長 のぶなが 公 おおやけ 相撲 すもう 観覧 かんらん 之 の 図 ず 」
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現在 げんざい の日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい の前身 ぜんしん として、人的 じんてき ・組織 そしき 的 てき につながる相撲 すもう 興行 こうぎょう 組織 そしき は、江戸 えど 時代 じだい の江戸 えど および大坂 おおさか における相撲 すもう の組織 そしき である。大坂 おおさか の相撲 すもう 組織 そしき に関 かん しては、大坂 おおさか 相撲 すもう の項目 こうもく を参照 さんしょう のこと。ここでは、江戸 えど 時代 じだい 以来 いらい の江戸 えど 相撲 すもう の歴史 れきし について記述 きじゅつ する。
大小 だいしょう の刀 かたな を佩刀 はかせ し武士 ぶし と同 おな じ待遇 たいぐう であった力士 りきし [1]
興行 こうぎょう としての相撲 すもう が組織 そしき 化 か されたのは、江戸 えど 時代 じだい の始 はじ め頃 ごろ (17世紀 せいき )とされる。これは寺社 じしゃ が建立 こんりゅう や移築 いちく のための資金 しきん を集 あつ める興行 こうぎょう として行 おこな うものであり、これを「勧進 かんじん 相撲 すもう 」といった。1624年 ねん 、四谷 よつや 塩 しお 町 まち 長禅寺 ちょうぜんじ (笹 ささ 寺 てら )において明石 あかし 志賀之助 しがのすけ が行 おこな ったのが最初 さいしょ である。しかし勝敗 しょうはい をめぐり喧嘩 けんか が絶 た えず、浪人 ろうにん 集団 しゅうだん との結 むす びつきが強 つよ いという理由 りゆう から、1648年 ねん から幕府 ばくふ によってたびたび禁止 きんし 令 れい が出 だ されていた[2] 。
ところが、1657年 ねん の明 あかり 暦 れき の大火 たいか により多数 たすう の寺社 じしゃ 再建 さいけん が急務 きゅうむ となり、またあぶれた相撲 すもう 人 じん が生業 せいぎょう が立 た たず争 あらそ い事 ごと が収 おさ まらなかったため、1684年 ねん 、寺社 じしゃ 奉行 ぶぎょう の管轄 かんかつ 下 か において、職業 しょくぎょう としての相撲 すもう 団体 だんたい の結成 けっせい と、年寄 としより による管理 かんり 体制 たいせい の確立 かくりつ を条件 じょうけん として勧進 かんじん 相撲 すもう の興行 こうぎょう が許可 きょか された。この時 とき 、興行 こうぎょう を願 ねが い出 で た者 もの に、初代 しょだい の雷 かみなり 権 けん 太夫 たゆう がいて、それが年寄 としより 名跡 みょうせき の創 そう めともなった。最初 さいしょ の興行 こうぎょう は前々 まえまえ 年 ねん に焼失 しょうしつ し復興 ふっこう を急 いそ いでいた江戸 えど 深川 ふかがわ の富岡八幡宮 とみおかはちまんぐう 境内 けいだい で行 おこな われた。その後 ご 興行 こうぎょう は江戸 えど 市 し 中 ちゅう の神社 じんじゃ (富岡 とみおか や本所 ほんじょ 江島 えじま 杉山 すぎやま 神社 じんじゃ 、蔵前 くらまえ 八幡 やはた 、芝 しば 神明 しんめい 社 しゃ など)で不定期 ふていき に興行 こうぎょう していたが、1744年 ねん から季 き 節 ぶし 毎 ごと に年 とし 4度 ど 行 おこな われるようになった。この頃 ころ には勧進 かんじん の意味 いみ は薄 うす れて相撲 すもう 渡世 とせい が濃 こ くなり、1733年 ねん から花火 はなび 大会 たいかい が催 もよお されるなど江戸 えど の盛 さか り場 ば として賑 にぎ わいを見 み せていた両国橋 りょうごくばし 左岸 さがん の本所 ほんじょ 回向 えこう 院 いん で1768年 ねん に最初 さいしょ の大 だい 規模 きぼ な興行 こうぎょう が行 おこな われた。ここでの開催 かいさい が定着 ていちゃく したのは1833年 ねん のことである[3] 。
『相撲 すもう 傳書 でんしょ 』によると、この頃 ころ は土俵 どひょう はなく「人 ひと 方 かた 屋 や 」という見物人 けんぶつにん が直径 ちょっけい 7 - 9m (4 - 5間 あいだ )の人間 にんげん の輪 わ を作 つく り、その中 なか で取組 とりくみ が行 おこな われた。17世紀 せいき 半 なか ばには格闘技 かくとうぎ のリング のように柱 はしら の下 した へ紐 ひも などで囲 かこ った場所 ばしょ で行 おこな われた。それが後 のち に俵 たわら で囲 かこ んだ四角 しかく い土俵 どひょう になった。次 つぎ に1670年 ねん 頃 ごろ に土俵 どひょう の四隅 よすみ に四 よん 神 かみ を表 あらわ す4色 しょく の布 ぬの を巻 ま いた柱 はしら を立 た て、屋根 やね を支 ささ えた方 かた 屋 や の下 した に五 ご 斗 と 俵 たわら による3.94m(13尺 しゃく )の丸 まる い土俵 どひょう が設 もう けられた。18世紀 せいき 始 はじ めに俵 たわら を2分 ぶん の1にし地中 ちちゅう に半分 はんぶん に埋 う めた一 いち 重 じゅう 土俵 どひょう ができた。これに外 そと 円 えん をつけて二 に 重 じゅう 土俵 どひょう (これは「蛇 じゃ の目 め 土俵 どひょう 」とも言 い う)となった。これは内 うち 円 えん に16俵 ひょう 、外 そと 円 えん に20俵 ひょう 用 もち いることから「36俵 ひょう 」と呼 よ ばれた。
江戸 えど の他 ほか にも、この時期 じき には京都 きょうと や大 だい 坂 さか に相撲 すもう の集団 しゅうだん ができた。当初 とうしょ は朝廷 ちょうてい の権威 けんい 、大 だい 商人 しょうにん の財力 ざいりょく によって看板 かんばん 力士 りきし を多 おお く抱 かか えた京都 きょうと 、大坂 おおさか 相撲 すもう が江戸 えど 相撲 すもう をしのぐ繁栄 はんえい を見 み せた。興行 こうぎょう における力士 りきし の一覧 いちらん と序列 じょれつ を定 さだ めた番付 ばんづけ も、この頃 ころ から、相撲 すもう 場 じょう への掲示 けいじ 用 よう の板 いた 番付 ばんづけ だけでなく、市中 しちゅう に広 ひろ めるための木版 もくはん 刷 ず りの形式 けいしき が始 はじ まった。現存 げんそん する最古 さいこ の木版 もくはん 刷 ず りの番付 ばんづけ は、江戸 えど では1757年 ねん のものであるが、京都 きょうと や大坂 おおさか では、それよりも古 ふる いものが残 のこ されている。
しかし江戸 えど 相撲 すもう は、1789年 ねん 11月、司 つかさ 家 か の吉田 よしだ 追風 おいかぜ から二 に 代目 だいめ ・谷風 たにかぜ 梶之助 かじのすけ 、小 しょう 野川 のがわ 喜三郎 きさぶろう への横綱 よこづな 免許 めんきょ を実現 じつげん 。さらに征夷大将軍 せいいたいしょうぐん 徳川 とくがわ 家斉 いえなり 観戦 かんせん の1791年 ねん 上覧 じょうらん 相撲 すもう を成功 せいこう させる[4] 。雷電 らいでん 爲 ため 右 みぎ 衞門 えもん の登場 とうじょう もあって、この頃 ころ から江戸 えど 相撲 すもう が大 おお いに盛 も り上 あ がった。やがて、「江戸 えど で土俵 どひょう をつとめてこそ本当 ほんとう の力士 りきし 」という風潮 ふうちょう が生 う まれた。
各 かく 団体 だんたい 間 あいだ の往来 おうらい は比較的 ひかくてき 自由 じゆう であり、江戸 えど 相撲 すもう が京都 きょうと や大阪 おおさか へ出向 でむ いての合併 がっぺい 興行 こうぎょう (大 だい 場所 ばしょ )も恒例 こうれい としてほぼ毎年 まいとし 開催 かいさい された。力量 りきりょう も三 さん 者 しゃ でそれほどの差 さ はなく、この均衡 きんこう が崩 くず れ始 はじ めるのは幕末 ばくまつ から明治 めいじ にかけてのことである。
1827年 ねん 、江戸 えど 幕府 ばくふ が「江戸 えど 相撲 すもう 方 かた 取締 とりしまり 」という役 やく を江戸 えど 相撲 すもう の吉田 よしだ 司 つかさ 家 か に認 みと めた。
幕末 ばくまつ に「相撲 すもう VSレスリング 」や「相撲 すもう VSボクシング 」の異種 いしゅ 試合 しあい が行 おこな われた事 こと がある。また、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 海軍 かいぐん のマシュー・ペリー 提督 ていとく が黒船 くろふね で来航 らいこう した1853年 ねん 6月11日 にち )に、雷 かみなり 權 けん 太夫 たゆう や玉垣 たまがき 額 がく 之 の 助 すけ ら年寄 としより 総代 そうだい は文書 ぶんしょ により攘夷 じょうい 協力 きょうりょく を番所 ばんしょ に申 もう し出 で している。一方 いっぽう 、翌年 よくねん ペリーが再 さい 来日 らいにち して条約 じょうやく を締結 ていけつ した際 さい には、米国 べいこく へ返礼 へんれい として贈 おく られた米 こめ 200俵 ひょう を江戸 えど 相撲 すもう の力士 りきし たちが軽々 かるがる と運 はこ び、米 べい 軍人 ぐんじん を驚嘆 きょうたん させた。
1863年 ねん 6月3日 にち 、大阪 おおさか 北新地 きたしんち で壬生 みぶ 浪士 ろうし 組 ぐみ (後 ご の新選 しんせん 組 ぐみ )と死傷 ししょう 事件 じけん を起 お こした。大坂 おおさか 相撲 すもう の力士 りきし で死亡 しぼう したのは中頭 なかがみ の熊川 くまかわ 熊次郎 くまじろう (肥後 ひご 出身 しゅっしん )であった。この事件 じけん の手打 てう ちとして京都 きょうと での興行 こうぎょう では京都 きょうと 、大阪 おおさか の両 りょう 相撲 すもう が協力 きょうりょく した。力士 りきし の中 なか には、後 のち に勤皇 きんのう の志士 しし となった者 もの もいた。
明治 めいじ 中頃 なかごろ
訪米 ほうべい 中 ちゅう の常陸山 ひたちやま
明治維新 めいじいしん と文明開化 ぶんめいかいか に伴 ともな い、1871年 ねん 東京 とうきょう 府 ふ のいわゆる「裸体 らたい 禁止 きんし 令 れい 」により東京 とうきょう 相撲 すもう の力士 りきし は罰金 ばっきん 、鞭打 むちう ち刑 けい に処 しょ された。また、「相撲 すもう 禁止 きんし 論 ろん 」が浮上 ふじょう した事 こと もある。このような事態 じたい に対 たい し、自 みずか らも相撲 すもう をとることの多 おお かった明治天皇 めいじてんのう および その意 い を受 う けた伊藤 いとう 博文 ひろぶみ らの尽力 じんりょく により、1884年 ねん に天覧 てんらん 相撲 すもう が実現 じつげん され、大相撲 おおずもう が社会 しゃかい 的 てき に公認 こうにん されることにより危機 きき を乗 の り越 こ えることができた。この天覧 てんらん 相撲 すもう の力士 りきし は58連勝 れんしょう (史上 しじょう 3位 い )を記録 きろく した15代 だい 横綱 よこづな 初代 しょだい ・梅 うめ ヶ谷藤 たにふじ 太郎 たろう であった。
東京 とうきょう 大角力 おおずもう 協会 きょうかい (1889年 ねん に東京 とうきょう 相撲 すもう 会所 かいしょ から改称 かいしょう )と大阪 おおさか 相撲 すもう 協会 きょうかい ができ、組織 そしき としての形態 けいたい が確立 かくりつ した。1890年 ねん に入幕 にゅうまく から39連勝 れんしょう で大関 おおぜき に駆 か け上 あ がった初代 しょだい ・小 しょう 錦 にしき 八 はち 十 じゅう 吉 きち と横綱 よこづな 免許 めんきょ を受 う けた大関 おおぜき 初代 しょだい ・西 にし ノ海 うみ 嘉治 よしはる 郎 ろう のねじれ現象 げんしょう の解決 かいけつ のため、番付 ばんづけ に初 はじ めて〈横綱 よこづな 〉の表記 ひょうき が登場 とうじょう する。これはなかば偶然 ぐうぜん の産物 さんぶつ ではあったが、これをきっかけに横綱 よこづな ・大関 おおぜき が実質 じっしつ 的 てき な地位 ちい として確立 かくりつ していくようになる。
この頃 ころ から映像 えいぞう が映 うつ され出 だ し、小錦 こにしき や大砲 たいほう が映 うつ された貴重 きちょう な映像 えいぞう (1900年 ねん 撮影 さつえい )が現存 げんそん している。
20世紀 せいき の変 か わり目 め の頃 ころ には、横綱 よこづな 常陸 ひたち 山谷 さんや 右 みぎ エ門 もん (1896年 ねん に名古屋 なごや 相撲 すもう から大阪 おおさか 相撲 すもう へ、後 こう 広島 ひろしま 相撲 すもう から東京 とうきょう 相撲 すもう へ)と二 に 代目 だいめ ・梅 うめ ヶ谷藤 たにふじ 太郎 たろう の「梅 うめ 常陸 ひたち 時代 ときよ 」による東京 とうきょう 相撲 すもう の隆盛 りゅうせい が生 しょう じ、東京 とうきょう が相撲 すもう の中心 ちゅうしん という意識 いしき が広 ひろ がっていく。
1907年 ねん 、常陸山 ひたちやま が渡米 とべい した。この渡米 とべい は日本 にっぽん 国外 こくがい に相撲 すもう を本格 ほんかく 的 てき に紹介 しょうかい する最初 さいしょ の出来事 できごと であった。
1909年 ねん 6月2日 にち 、初 はつ の常設 じょうせつ 相撲 すもう 場 じょう となる両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん の落成 らくせい 。土俵入 どひょうい りは、東 ひがし の横綱 よこづな 、常陸山 ひたちやま と西 にし の横綱 よこづな 、梅 うめ ヶ谷 だに により行 おこな われた。これに並行 へいこう して投 な げ祝儀 しゅうぎ の禁止 きんし 、力士 りきし の羽織 はおり 袴 はかま での場所入 ばしょい り、行司 ぎょうじ の烏帽子 えぼし 直垂 ひたたれ 着用 ちゃくよう 、幟 のぼり ・積 せき 樽 だる の廃止 はいし 、東西 とうざい 制 せい の導入 どうにゅう などにより相撲 すもう の近代 きんだい スポーツ化 か がすすめられた。東西 とうざい 制 せい は団体 だんたい 優勝 ゆうしょう 制度 せいど であり、優勝旗 ゆうしょうき が授与 じゅよ された。時事新報 じじしんぽう 社 しゃ の優勝 ゆうしょう 額 がく 贈呈 ぞうてい により、現在 げんざい の優勝 ゆうしょう 制度 せいど が始 はじ まる。それまでは幕内 まくうち 力士 りきし の出場 しゅつじょう がなかった千秋楽 せんしゅうらく にも、幕内 まくうち 全 ぜん 力士 りきし が出場 しゅつじょう するようになり、名実 めいじつ 共 ども に10日間 にちかん 興行 こうぎょう の体裁 ていさい が整 ととの った。興行 こうぎょう 日数 にっすう は、1923年 ねん 5月から11日間 にちかん に増加 ぞうか した。
1910年 ねん 5月 がつ の夏場所 なつばしょ に行司 ぎょうじ の衣装 いしょう がそれまでの裃 かみしも 、袴 はかま から烏帽子 えぼし 、直垂 ひたたれ となった。
1913年 ねん 2月 がつ 、東京 とうきょう と大阪 おおさか の両 りょう 角力 すもう 協会 きょうかい が和解 わかい 。東西 とうざい 合併 がっぺい 大相撲 おおずもう を東京 とうきょう で開催 かいさい [5] 。
1915年 ねん 3月12日 にち 、紛争 ふんそう があり、興行 こうぎょう が無期 むき 延期 えんき となる[6] 。
1917年 ねん 11月29日 にち に両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん が火災 かさい で焼失 しょうしつ し、一時期 いちじき 靖国神社 やすくにじんじゃ 境内 けいだい で本場所 ほんばしょ が行 おこな われたこともあった。
興行 こうぎょう としての相撲 すもう が定着 ていちゃく することで、力士 りきし の待遇 たいぐう の近代 きんだい 化 か への要求 ようきゅう があらわれ、いくつかの紛擾 ふんじょう 事件 じけん が起 お きるようになった。東京 とうきょう 相撲 すもう では、1923年 ねん に三河 そうご 島 とう 事件 じけん と呼 よ ばれる力士 りきし 待遇 たいぐう の改善 かいぜん を求 もと めるストライキが発生 はっせい し、その処理 しょり を巡 めぐ って横綱 よこづな 大 だい 錦 にしき 卯 う 一郎 いちろう が廃業 はいぎょう する事件 じけん が起 お こる。大阪 おおさか 相撲 すもう においても同年 どうねん 龍神 りゅうじん 事件 じけん と呼 よ ばれる紛擾 ふんじょう が発生 はっせい し、力士 りきし 他 た 多 おお くの関係 かんけい 者 しゃ が廃業 はいぎょう し、大阪 おおさか 相撲 すもう の実力 じつりょく が低下 ていか する。1923年 ねん 9月 がつ 1日 にち の関東大震災 かんとうだいしんさい により両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん も屋根 やね 柱 ばしら などを残 のこ して焼失 しょうしつ 。1924年 ねん 1月 がつ 春場所 はるばしょ は、両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん 再建 さいけん 中 ちゅう のために名古屋 なごや で開催 かいさい された。それを不満 ふまん に思 おも った一部 いちぶ の力士 りきし は、本場所 ほんばしょ に出場 しゅつじょう しなかった[7] 。
1925年 ねん 、当時 とうじ の皇太子 こうたいし ・裕仁 ひろひと 親王 しんのう (後 ご の昭和 しょうわ 天皇 てんのう )の台覧 たいらん 相撲 すもう に際 さい して、皇太子 こうたいし の下賜 かし 金 きん により摂政 せっしょう 宮 みや 賜杯 しはい 、現在 げんざい の天皇 てんのう 賜杯 しはい が作 つく られる。これを契機 けいき に、東京 とうきょう ・大阪 おおさか の両 りょう 相撲 すもう 協会 きょうかい の合同 ごうどう が計画 けいかく され、技量 ぎりょう 審査 しんさ のための合同 ごうどう 相撲 すもう が開 ひら かれる。また、1926年 ねん 1月 がつ 場所 ばしょ から、今 いま までは優勝 ゆうしょう 掲額 けいがく のみであった個人 こじん 優勝 ゆうしょう 者 しゃ に賜杯 しはい が授与 じゅよ されることになり、個人 こじん 優勝 ゆうしょう 制度 せいど が確立 かくりつ する。
昭和 しょうわ 戦前 せんぜん から戦後 せんご 初期 しょき
編集 へんしゅう
1927年 ねん 、東京 とうきょう 相撲 すもう 協会 きょうかい と大阪 おおさか 相撲 すもう 協会 きょうかい が解散 かいさん し、大 だい 日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい が発足 ほっそく したのち、本場所 ほんばしょ は1月(両国 りょうこく )、3月(関西 かんさい )、5月(両国 りょうこく )、10月(関西 かんさい )の計 けい 4回 かい :11日間 にちかん で開催 かいさい (1929年 ねん は10月 がつ でなく9月 がつ )されるようになる。ただしこの時期 じき には、番付 ばんづけ 編成 へんせい は若干 じゃっかん の試行錯誤 しこうさくご も伴 ともな いながらも、1月と3月 がつ 、5月と10月 がつ のそれぞれを合算 がっさん して行 おこな われ、関西 かんさい 本場所 ほんばしょ では優勝 ゆうしょう 額 がく の授与 じゅよ も行 おこな われなかった。
この時期 じき 、勝負 しょうぶ に関 かん する様々 さまざま な改定 かいてい が行 おこな われた。1928年 ねん からラジオ 中継 ちゅうけい が始 はじ まったために[8] 、仕切 しき り線 せん と仕切 しき りの制限 せいげん 時間 じかん が設 もう けられた。個人 こじん 優勝 ゆうしょう 制度 せいど 確立 かくりつ の中 なか で、不戦勝 ふせんしょう ・不戦敗 ふせんぱい 制度 せいど の全面 ぜんめん 施行 しこう 、物言 ものい い のついた相撲 すもう での預 あず かり の廃止 はいし と取 と り直 なお し制度 せいど の導入 どうにゅう 、二 に 番 ばん 後 ご 取 と り直 なお しによる引 ひ き分 わ け の縮小 しゅくしょう 化 か がこの時期 じき に実施 じっし され、勝負 しょうぶ を争 あらそ うスポーツとしての要素 ようそ が強 つよ くなった。
1931年 ねん 4月 がつ の天覧 てんらん 相撲 すもう の際 さい 、二 に 重 じゅう 土俵 どひょう の内 うち 円 えん を無 な くし径 みち 4.55m(15尺 しゃく )の一 いち 重 じゅう 土俵 どひょう にした。またこの際 さい にそれまで四本柱 しほんばしら の下 した に座布団 ざぶとん を敷 し いて土俵 どひょう 上 じょう に据 す わっていた勝負 しょうぶ 検査 けんさ 役 やく を土俵 どひょう 下 か に降 お ろし現在 げんざい と同 おな じ配置 はいち の5人 にん とした。
1932年 ねん 1月 がつ に起 お こった春秋 しゅんじゅう 園 えん 事件 じけん で大 だい 規模 きぼ な待遇 たいぐう 改善 かいぜん 要求 ようきゅう を掲 かか げて多 おお くの力士 りきし が脱退 だったい したため、2月 がつ 、3月は各 かく 8日間 にちかん の変則 へんそく 興行 こうぎょう となり、脱退 だったい 組 ぐみ が関西 かんさい 角力 すもう 協会 きょうかい を翌年 よくねん 作 つく ったことで1933年 ねん から関西 かんさい 場所 ばしょ は廃止 はいし され、年 とし 2回 かい の開催 かいさい (1月 がつ 、5月 がつ )となった。
69連勝 れんしょう を記録 きろく した双葉 ふたば 山 さん の影響 えいきょう で興行 こうぎょう 日数 にっすう は1937年 ねん 5月場所 ばしょ より13日間 にちかん となり、1939年 ねん 5月場所 ばしょ より15日間 にちかん と移 うつ り変 か わる。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の影響 えいきょう が次第 しだい に相撲 すもう 界 かい にも及 およ び、1944年 ねん に両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん が大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん に接収 せっしゅう され、5月場所 ばしょ から本場所 ほんばしょ 開催 かいさい 地 ち を小石川 こいしかわ 後楽園 こうらくえん 球場 きゅうじょう に移 うつ した。そのために1月 がつ 場所 ばしょ 開催 かいさい は困難 こんなん になり、1944年 ねん には10月 がつ に本場所 ほんばしょ を繰 く り上 あ げて開催 かいさい した。1945年 ねん 5月場所 ばしょ は晴天 せいてん 7日間 にちかん 、神宮 じんぐう 外苑 がいえん 相撲 すもう 場 じょう (後 ご の明治 めいじ 神宮 じんぐう 第 だい 二 に 球場 きゅうじょう )で開催 かいさい 予定 よてい だったが空襲 くうしゅう などのために6月 がつ に延期 えんき 、両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん で傷痍 しょうい 将兵 しょうへい のみ招待 しょうたい しての晴天 せいてん 7日間 にちかん 非公開 ひこうかい で開催 かいさい された。今日 きょう まで唯一 ゆいいつ の本場所 ほんばしょ 非公開 ひこうかい 開催 かいさい である。これが戦争 せんそう 中 ちゅう 最後 さいご の本場所 ほんばしょ となった。ちなみにこれらの場所 ばしょ の幕下 まくした 以下 いか の取組 とりくみ は事前 じぜん に1944年 ねん の10月 がつ は神宮 じんぐう 外苑 がいえん 、1945年 ねん の6月 がつ は春日野 かすがの 部屋 へや で非公開 ひこうかい で行 おこな われ、このことを記念 きねん して、春日野 かすがの 部屋 へや では後々 あとあと まで稽古 けいこ 場 じょう に当時 とうじ の土 ど を保存 ほぞん していた。また、兵役 へいえき に就 つ いた力士 りきし や、戦死 せんし ・戦災 せんさい 死 し ・捕虜 ほりょ として抑留 よくりゅう された力士 りきし もいた。東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう で両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん や相撲 すもう 部屋 へや を焼失 しょうしつ 。
戦後 せんご には、各 かく 部屋 へや の離散 りさん 状態 じょうたい 、又 また は本場所 ほんばしょ 開催 かいさい などに対 たい して連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)に許可 きょか を仰 あお がなければならないなど様々 さまざま な問題 もんだい を抱 かか えながらも大相撲 おおずもう の復興 ふっこう は始 はじ まる。1945年 ねん 9月 がつ に土俵 どひょう を16尺 しゃく (約 やく 4.84m)と大 おお きくし、焼失 しょうしつ した両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん を若干 じゃっかん 修復 しゅうふく し、本場所 ほんばしょ の秋場所 あきばしょ (11月:10日間 にちかん )が開催 かいさい された。土俵 どひょう については力士 りきし 会 かい の反対 はんたい で元 もと の大 おお きさ4.55m(15尺 しゃく )に戻 もど された。1946年 ねん に両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん が連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ によって接収 せっしゅう されメモリアルホールとして改装 かいそう された。そのこけら落 お としとして、同年 どうねん の11場所 ばしょ (13日間 にちかん )が行 おこな われた。連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ によって本場所 ほんばしょ 開催 かいさい を年 とし 3回 かい 認 みと められたが、メモリアルホールを使用 しよう することは許可 きょか されず、1947年 ねん には明治 めいじ 神宮 じんぐう 外苑 がいえん 相撲 すもう 場 じょう にて行 おこな うこととなる。青天井 あおてんじょう のこの相撲 すもう 場 じょう では正月 しょうがつ 場所 ばしょ は行 おこな われず、6月 がつ 、11月、又 また は1948年 ねん の5月 がつ をそれぞれ執 と り行 おこな うに留 とど まった。同 おな じ年 ねん の1948年 ねん の秋場所 あきばしょ (10月 がつ :11日間 にちかん )には、戦後 せんご 初 はつ の大阪 おおさか 場所 ばしょ が大阪 おおさか 市 し 福島 ふくしま 公園 こうえん 内 ない に建築 けんちく された仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん で開催 かいさい された。この時期 じき に、優勝 ゆうしょう 決定 けってい 戦 せん や三 さん 賞 しょう 制度 せいど の制定 せいてい 、東西 とうざい 制 せい から系統 けいとう 別 べつ 総 そう 当 あ たり制 せい への変更 へんこう が行 おこな われた。
1949年 ねん になり日本橋 にほんばし の浜町 はまちょう 公園 こうえん 内 ない に仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん (木造 もくぞう )を建設 けんせつ し、ようやく1月 がつ 場所 ばしょ (13日間 にちかん )を開催 かいさい する。5月場所 ばしょ では戦後 せんご 初 はじ めて15日間 にちかん 行 おこな われ、以後 いご 興行 こうぎょう 期間 きかん は15日間 にちかん となる。この浜町 はまちょう 公園 こうえん の仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん は公園 こうえん 内 ない に設置 せっち されていたことが問題 もんだい となり、この2場所 ばしょ しか使用 しよう されず取 と り壊 こわ しとなった。そのため戦前 せんぜん に次期 じき 国技 こくぎ 館 かん 建設 けんせつ 用 よう に用意 ようい していた蔵前 くらまえ の土地 とち に仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん を建設 けんせつ することとなる。ところがこの浅草 あさくさ 蔵前 くらのまえ 仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん (蔵前 くらまえ 国技 こくぎ 館 かん )も消防署 しょうぼうしょ からの命令 めいれい によって仮設 かせつ であっても鉄筋 てっきん 造 づく りの国技 こくぎ 館 かん が必要 ひつよう となり、蔵前 くらまえ 仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん の鉄筋 てっきん 化 か をはかり、その後 ご 5か年 ねん 計画 けいかく として年々 ねんねん 充実 じゅうじつ されていった。
1950年 ねん から1952年 ねん は、本場所 ほんばしょ (1月 がつ 、5月、9月 がつ )が各 かく 15日間 にちかん 実施 じっし (ただし1952年 ねん は大阪 おおさか 場所 ばしょ が開 ひら かれず、3場所 ばしょ とも東京 とうきょう で開催 かいさい )。このうち大阪 おおさか は、1950年 ねん 9月 がつ 場所 ばしょ は阿倍野橋 あべのばし 畔 ほとり に、1951年 ねん 9月場所 ばしょ は難波 なんば (現在 げんざい の大阪 おおさか 府立 ふりつ 体育 たいいく 会館 かいかん 所在地 しょざいち )にそれぞれ仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん を建 た て興行 こうぎょう を行 おこな った。1952年 ねん に難波 なんば の仮設 かせつ 国技 こくぎ 館 かん を建替 たてか え、鉄骨 てっこつ 製 せい の大阪 おおさか 府立 ふりつ 体育館 たいいくかん (1987年 ねん から大阪 おおさか 府立 ふりつ 体育 たいいく 会館 かいかん )が竣工 しゅんこう 。翌 よく 1953年 ねん 3月 がつ 場所 ばしょ の会場 かいじょう となった。以後 いご 3月 がつ 場所 ばしょ は大阪 おおさか 開催 かいさい となり、現在 げんざい に至 いた る。
横綱 よこづな の相次 あいつ ぐ不成績 ふせいせき が問題 もんだい となり、1950年 ねん 4月 がつ に有識者 ゆうしきしゃ からなる横綱 よこづな 審議 しんぎ 委員 いいん 会 かい が発足 ほっそく した。全国 ぜんこく 的 てき にテレビ が普及 ふきゅう するに従 したが い、NHK の相撲 すもう のテレビ中継 ちゅうけい が始 はじ まる。一時 いちじ は民放 みんぽう 各社 かくしゃ も中継 ちゅうけい していたが、間 ま もなく撤退 てったい した。
栃 とち 錦 にしき と初代 しょだい ・若乃花 わかのはな の栃 とち 若 わか 時代 じだい が到来 とうらい し、年間 ねんかん の場所 ばしょ 数 すう が増 ふ えていく。1957年 ねん には11月場所 ばしょ (九州 きゅうしゅう 場所 ばしょ 、福岡 ふくおか スポーツセンター )、1958年 ねん には7月 がつ 場所 ばしょ (名古屋 なごや 場所 ばしょ 、名古屋 なごや 市 し 金山 かなやま 体育館 たいいくかん )を行 おこな うようになり、現在 げんざい のような6場所 ばしょ (1月 がつ 、3月、5月、7月 がつ 、9月、11月)、15日間 にちかん という体系 たいけい になった。また、1965年 ねん 1月 がつ 場所 ばしょ から完全 かんぜん 部屋 へや 別 べつ 総 そう 当 あ たり制 せい が実施 じっし され、それぞれ現在 げんざい に至 いた っている。
国会 こっかい で公益 こうえき 法人 ほうじん としての相撲 すもう 協会 きょうかい のあり方 かた について質疑 しつぎ が行 おこな われたこと(1957年 ねん 3月 がつ 2日 にち の衆議院 しゅうぎいん 予算 よさん 委員 いいん 会 かい [9] および4月 がつ 3日 にち の衆議院 しゅうぎいん 文教 ぶんきょう 委員 いいん 会 かい [10] )を受 う けて、相撲 すもう 茶屋 ちゃや 制度 せいど の改革 かいかく 、月給 げっきゅう 制 せい の導入 どうにゅう 、相撲 すもう 教習所 きょうしゅうじょ の設立 せつりつ などの改革 かいかく が行 おこな われた[11] 。また理事 りじ 長 ちょう に重要 じゅうよう 事項 じこう の建議 けんぎ を行 おこな える運営 うんえい 審議 しんぎ 委員 いいん 会 かい も発足 ほっそく し財界 ざいかい トップや政治 せいじ 家 か が名 な を連 つら ねた。横綱 よこづな 審議 しんぎ 委員 いいん 会 かい の内規 ないき もこの時期 じき に充実 じゅうじつ した。
1961年 ねん には年寄 としより の停年 ていねん 制 せい が実施 じっし された(「停年 ていねん 」の表記 ひょうき については後述 こうじゅつ )。1966年 ねん には法人 ほうじん 名 めい を日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい に改称 かいしょう 。1967年 ねん には前頭 まえがしら ・十両 じゅうりょう の枚数 まいすう 削減 さくげん も実施 じっし した。1968年 ねん には役員 やくいん 選挙 せんきょ の制度 せいど を改定 かいてい 、1969年 ねん には勝負 しょうぶ 判定 はんてい にビデオ映像 えいぞう の使用 しよう を開始 かいし した。
1965年 ねん にはソ連 それん 、1973年 ねん には中国 ちゅうごく 、1981年 ねん にはメキシコと海外 かいがい 公演 こうえん が行 おこな われ、国際 こくさい 的 てき な認知 にんち が始 はじ まる。
1970年 ねん 頃 ごろ になると、力士 りきし と暴力団 ぼうりょくだん とのかかわり、八百長 やおちょう が疑 うたが われる内容 ないよう の相撲 すもう の横行 おうこう 、力士 りきし の健康 けんこう 問題 もんだい 等 とう の諸 しょ 問題 もんだい が明 あき らかとなり、1971年 ねん 12月には再 ふたた び国会 こっかい で協会 きょうかい のあり方 かた が取 と り上 あ げられた[12] [13] 。これを受 う けた協会 きょうかい 理事 りじ 会 かい において、中学校 ちゅうがっこう 在籍 ざいせき 中 ちゅう の入門 にゅうもん の禁止 きんし (当時 とうじ 在籍 ざいせき していた中学生 ちゅうがくせい 力士 りきし は、中学校 ちゅうがっこう 卒業 そつぎょう まで東京 とうきょう 場所 ばしょ の日曜 にちよう ・祝日 しゅくじつ のみの出場 しゅつじょう となる)、公傷 こうしょう 制度 せいど の導入 どうにゅう (2003年 ねん 11月場所 ばしょ 限 かぎ りで廃止 はいし されるまで続 つづ く)、相撲 すもう 競技 きょうぎ 監察 かんさつ 委員 いいん 会 かい の設置 せっち 、行司 ぎょうじ の完全 かんぜん 年功序列 ねんこうじょれつ を廃 はい し成績 せいせき 考課 こうか を導入 どうにゅう 等 とう の改革 かいかく を打 う ち出 だ した[14] (いずれも1972年 ねん 1月 がつ 場所 ばしょ より施行 しこう )。
1985年 ねん 1月 がつ 、現在 げんざい の国技 こくぎ 館 かん が両国 りょうごく 駅 えき 近 ちか くに完成 かんせい し、再 ふたた び両国 りょうこく に相撲 すもう が戻 もど った。蔵前 くらまえ 国技 こくぎ 館 かん は旧 きゅう 軍 ぐん 放出 ほうしゅつ 資材 しざい を用 もち いて建 た てられたため、新 あたら しい国技 こくぎ 館 かん の建築 けんちく が検討 けんとう されていた。相撲 すもう 協会 きょうかい など関係 かんけい 者 しゃ は、相撲 すもう と縁 えん の深 ふか い回向 えこう 院 いん のある両国 りょうこく 界隈 かいわい に建設 けんせつ 地 ち を定 さだ めた。そして約 やく 3年 ねん 、総 そう 工費 こうひ およそ150億 おく 円 えん をかけ両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん が落成 らくせい となった[15] 。
相撲 すもう 、立合 たちあ い (2010年 ねん )
土俵 どひょう と各 かく 配置 はいち (行司 ぎょうじ ・力士 りきし ・勝負 しょうぶ 審判 しんぱん ・控 ひか え力士 りきし ・力水 ちからみず ・塩 しお )
平成 へいせい 初期 しょき に千代 ちよ の富士 ふじ 貢 みつぐ 以下 いか 横綱 よこづな が相次 あいつ いで引退 いんたい し一 いち 時 じ 的 てき に横綱 よこづな が不在 ふざい になる。この時期 じき は大型 おおがた のハワイ 出身 しゅっしん 力士 りきし が台頭 たいとう し、6代 だい 小 しょう 錦 にしき 八 はち 十 じゅう 吉 きち が横綱 よこづな 昇進 しょうしん 目前 もくぜん まで行 い く。その後 ご 、曙 あけぼの 太郎 たろう 、武蔵丸 むさしまる 光洋 みつひろ がそれぞれ横綱 よこづな 昇進 しょうしん 、優勝 ゆうしょう 回数 かいすう を二 に ケタに乗 の せる。また、二子山 ふたごやま 部屋 へや が部屋 へや 師匠 ししょう の11代 だい 二子山 ふたごやま (元 もと 大関 おおぜき ・初代 しょだい 貴 たか ノ花 はな )の息子 むすこ である若乃花 わかのはな 勝 かち ・貴乃花 たかのはな 光司 こうじ を中心 ちゅうしん に多 おお くの関取 せきとり を輩出 はいしゅつ した。若乃花 わかのはな ・貴乃花 たかのはな は特 とく に女性 じょせい ファンの獲得 かくとく に成功 せいこう し、若貴 わかたか ブーム と呼 よ ばれた。1993年 ねん 頃 ごろ から2000年 ねん 頃 ごろ にかけては、この4横綱 よこづな がしのぎを削 けず った。貴乃花 たかのはな は優勝 ゆうしょう 22回 かい に達 たっ し、一代 いちだい 年寄 としより の資格 しかく を得 え た。
2000年代 ねんだい 半 なか ばになると二子山 ふたごやま 部屋 へや の勢 いきお いは衰 おとろ え、ハワイ出身 しゅっしん 力士 りきし は姿 すがた を消 け す。入 い れ替 か わって朝 あさ 青 あお 龍 りゅう 明徳 あきのり 以下 いか 、スピード重視 じゅうし のモンゴル出身 しゅっしん 力士 りきし が登場 とうじょう する。朝 あさ 青 あお 龍 りゅう は2005年 ねん に史上 しじょう 初 はつ の年間 ねんかん 全 ぜん 場所 ばしょ 制覇 せいは を達成 たっせい 、次 つ いで横綱 よこづな になった白 はく 鵬 ほう 翔 しょう は2010年 ねん に63連勝 れんしょう 、2015年 ねん に優勝 ゆうしょう 回数 かいすう 記録 きろく を更新 こうしん するなど、ともに一 いち 時代 じだい を築 きず いた。次 つ いで日馬 くさま 富士 ふじ 公平 こうへい 、鶴 つる 竜 りゅう 力 りょく 三郎 さぶろう が横綱 よこづな に昇進 しょうしん するなど、モンゴル出身 しゅっしん 力士 りきし が圧倒的 あっとうてき に優位 ゆうい な時代 じだい が続 つづ いている。同 どう 時期 じき にヨーロッパ出身 しゅっしん 力士 りきし も登場 とうじょう し、ブルガリア 出身 しゅっしん の琴 きん 欧 おう 洲 しま 勝紀 かつのり とエストニア 出身 しゅっしん の把 わ 瑠都凱斗 が大関 おおぜき にまで上 のぼ った。日本人 にっぽんじん 力士 りきし の中 なか では稀 まれ 勢 ぜい の里 さと 寛 ひろし が横綱 よこづな に昇進 しょうしん している。
2000年 ねん 後半 こうはん から不祥事 ふしょうじ が相次 あいつ ぎ、2007年 ねん には時津風 ときつかぜ 部屋 へや 力士 りきし 暴行 ぼうこう 死 し 事件 じけん 、2008年 ねん には力士 りきし による大麻 たいま 取締 とりしまり 法 ほう 違反 いはん 事件 じけん の責任 せきにん を取 と る形 かたち で理事 りじ 長 ちょう が辞任 じにん 、2010年 ねん には野球 やきゅう 賭博 とばく 問題 もんだい 、2011年 ねん には八百長 やおちょう 問題 もんだい が発覚 はっかく してそれぞれ本場所 ほんばしょ に影響 えいきょう を及 およ ぼした。その後 ご も力士 りきし 間 あいだ での暴力 ぼうりょく 事件 じけん 、立 たて 行司 ぎょうじ によるセクシャルハラスメント 行為 こうい の発覚 はっかく 、道路 どうろ 交通 こうつう 法 ほう 違反 いはん (無 む 免許 めんきょ 運転 うんてん )行為 こうい 、「女人 にょにん 禁制 きんせい 」の問題 もんだい などが存在 そんざい する[16] [17] [18] [19] [20] 。
2014年 ねん 1月 がつ 30日 にち 、公益 こうえき 財団 ざいだん 法人 ほうじん の登記 とうき を行 おこな い、新 しん 法人 ほうじん としてスタートした。財団 ざいだん 法人 ほうじん となった1925年 ねん 以来 いらい 89年 ねん ぶりの改組 かいそ で、引 ひ き続 つづ き税制 ぜいせい の優遇 ゆうぐう を受 う ける[21] 。
2019年 ねん 5月 がつ 場所 ばしょ より、アメリカ大統領 だいとうりょう 杯 はい の授与 じゅよ が始 はじ まる。
2020年 ねん 、新型 しんがた コロナウイルス の感染 かんせん 拡大 かくだい に際 さい しては、3月 がつ 場所 ばしょ を無 む 観客 かんきゃく 開催 かいさい [22] 、5月場所 ばしょ を中止 ちゅうし 、7月 がつ 場所 ばしょ は会場 かいじょう を名古屋 なごや から東京 とうきょう へ移 うつ し、観客 かんきゃく 数 すう を制限 せいげん したうえで開催 かいさい した[23] [24] 。9月場所 ばしょ も観客 かんきゃく 数 すう を制限 せいげん して開催 かいさい し、11月場所 ばしょ も福岡 ふくおか から東京 とうきょう に移 うつ して開催 かいさい された[25] 。また、協会 きょうかい 員 いん から罹患 りかん 者 しゃ が発生 はっせい し、死者 ししゃ も出 で た[26] 。
2021年 ねん 3月 がつ 場所 ばしょ 13日 にち 目 め 、三 さん 段 だん 目 め 取組 とりくみ において掬 すく い投 な げを食 く らった力士 りきし が頭 あたま から土俵 どひょう 上 じょう に転落 てんらく 、病院 びょういん に搬送 はんそう されて治療 ちりょう を受 う けていたが、同年 どうねん 4月 がつ に肺 はい 血栓 けっせん による急性 きゅうせい 呼吸 こきゅう 不全 ふぜん のため死亡 しぼう した[27] 。土俵 どひょう 上 じょう での取組 とりくみ による事故 じこ で死亡 しぼう した初 はつ の事例 じれい となった。
横綱 よこづな (よこづな)は、大相撲 おおずもう の力士 りきし における最高 さいこう の称号 しょうごう であり、現行 げんこう の番付 ばんづけ 制度 せいど においては力士 りきし の最高 さいこう 位 い でもある。語源 ごげん 的 てき には、横綱 よこづな だけが腰 こし に締 し めることを許 ゆる されている白 しろ 麻 あさ 製 せい の綱 つな の名称 めいしょう に由来 ゆらい する。現在 げんざい の大相撲 おおずもう においては、横綱 よこづな は、全 すべ ての力士 りきし を代表 だいひょう する存在 そんざい であると同時 どうじ に、神 かみ の依 よ り代 だい であることの証 あかし とされている。それ故 こ 、横綱 よこづな 土俵入 どひょうい り は、病気 びょうき ・故障 こしょう 等 とう の場合 ばあい を除 のぞ き、現役 げんえき 横綱 よこづな の義務 ぎむ である。
横綱 よこづな は、天下 てんか 無双 むそう であるという意味 いみ を込 こ めて「日下 くさか 開山 かいさん 」(ひのしたかいさん )と呼 よ ばれることもある。
大相撲 おおずもう 内 ない での力士 りきし の地位 ちい は「番付 ばんづけ 」と呼 よ ばれる順位 じゅんい 表 ひょう で示 しめ される。
横綱 よこづな ・大関 おおぜき ・関脇 せきわけ ・小結 こむすび ・前頭 まえがしら ・十 じゅう 両 りょう を纏 まと めた総称 そうしょう が「関取 せきとり 」と呼 よ ばれ、そのうち十 じゅう 両 りょう を除 のぞ く横綱 よこづな から前頭 まえがしら を纏 まと めた総称 そうしょう が「幕内 まくうち 」と呼 よ ばれる。大相撲 おおずもう では、この「幕内 まくうち 」を最 さい 上位 じょうい とし、以下 いか 、十 じゅう 両 りょう ・幕下 まくした ・三 さん 段 だん 目 め ・序 じょ 二 に 段 だん ・序ノ口 じょのくち と続 つづ く6つの階層 かいそう から成 な り立 りつ り、幕下 まくした 以下 いか を纏 まと めた総称 そうしょう は「取的 とりてき 」と呼 よ ばれる。各 かく 力士 りきし は一 いち 場所 ばしょ ごとに自分 じぶん が所属 しょぞく する階層 かいそう 内 ない で決 き められた数 かず の取 と り組 く みを行 おこな い、その成績 せいせき によって各 かく 階層 かいそう 内 ない での順位 じゅんい 付 づ けや各 かく 階層 かいそう 間 あいだ の昇進 しょうしん や降格 こうかく が行 おこな われる。なお、番付 ばんづけ 上 じょう においては序ノ口 じょのくち が最下位 さいかい であるが、序ノ口 じょのくち で負 ま け越 こ し が続 つづ いたり、休場 きゅうじょう が続 つづ いたりすると序ノ口 じょのくち から陥落 かんらく し、番付 ばんづけ の範疇 はんちゅう に含 ふく まれない「番付 ばんづけ 外 がい 」と呼 よ ばれる立場 たちば になる。また、「番付 ばんづけ 外 がい 」で一定 いってい の成績 せいせき を収 おさ め、次 つぎ の場所 ばしょ で序ノ口 じょのくち として出場 しゅつじょう する権利 けんり を獲得 かくとく した立場 たちば の者 もの を「新 しん 序 じょ 」と呼 よ ぶが、これも番付 ばんづけ の範疇 はんちゅう には含 ふく まれない[注 ちゅう 1] 。
昇進 しょうしん と降格 こうかく
編集 へんしゅう
番付 ばんづけ は基本 きほん 的 てき に勝 か ち越 こ せ ば上 あ がり、負 ま け越 こ せ ば下 さ がる。
ただし、同 おな じ地位 ちい で同 おな じ成績 せいせき をあげても、場所 ばしょ によって昇進 しょうしん ・降格 こうかく 幅 はば が大 おお きく異 こと なる事例 じれい がこれまで数多 かずおお く発生 はっせい している。これは「番付 ばんづけ は生 い き物 もの 」と称 しょう され、他 た の力士 りきし の成績 せいせき との兼 か ね合 あ いや各 かく 階層 かいそう の定員 ていいん が決 き められている事 こと から来 く るものである。
それとは別 べつ に三 さん 役 やく や横綱 よこづな への昇進 しょうしん のかかるケースで不公平 ふこうへい 感 かん が問題 もんだい 視 し されることがある。横綱 よこづな や大関 おおぜき への昇進 しょうしん には特 とく に優秀 ゆうしゅう な成績 せいせき が求 もと められるが、その基準 きじゅん が定常 ていじょう 的 てき な基準 きじゅん となっていないため、昇進 しょうしん にあたりその都度 つど 昇進 しょうしん の可否 かひ を検討 けんとう することとなっている[32] 。その昇進 しょうしん の基準 きじゅん や条件 じょうけん が客観 きゃっかん 性 せい の明 あき らかな数値 すうち 基準 きじゅん ではないため、物議 ぶつぎ を醸 かも し問題 もんだい となる場合 ばあい が多 おお い。背景 はいけい には、出身 しゅっしん 地 ち や人種 じんしゅ による人気 にんき の格差 かくさ や看板 かんばん である横綱 よこづな ・大関 おおぜき の人数 にんずう を確保 かくほ したい興行 こうぎょう 上 じょう の理由 りゆう があると考 かんが えられる[33] 。
本場所 ほんばしょ の対戦 たいせん の組 く み合 あ わせを取組 とりくみ と呼 よ ぶ。関取 せきとり は15日間 にちかん すべて、取的 とりてき は隔日 かくじつ のペースで7番 ばん とる(1960年 ねん 7月 がつ 場所 ばしょ 以降 いこう )。取組 とりくみ は場所 ばしょ 中 ちゅう に随時 ずいじ 編成 へんせい されて、原則 げんそく 前日 ぜんじつ 午後 ごご に発表 はっぴょう される。
幕内 まくうち 最高 さいこう 優勝 ゆうしょう は1909年 ねん 6月 がつ 場所 ばしょ 、新聞 しんぶん 社 しゃ による最高 さいこう 成績 せいせき 者 しゃ への優勝 ゆうしょう 額 がく 贈呈 ぞうてい によって事実 じじつ 上 じょう 始 はじ まった。当初 とうしょ は物言 ものい い がついた相撲 すもう であえて決着 けっちゃく をつけない預 あずか り や、取 と り組 く み編成 へんせい 後 ご に一方 いっぽう の力士 りきし が休場 きゅうじょう した場合 ばあい 、相手 あいて 力士 りきし も休場 きゅうじょう 扱 あつか いとなる制度 せいど などあって、これらが優勝 ゆうしょう 争 あらそ いを左右 さゆう することも少 すく なくなかった。その後 ご 、預 あずか りの廃止 はいし や不戦勝 ふせんしょう 制度 せいど 、同点 どうてん の場合 ばあい の優勝 ゆうしょう 決定 けってい 戦 せん の導入 どうにゅう などがありつつ、白星 しろぼし 数 すう の優劣 ゆうれつ で優勝 ゆうしょう を争 あらそ う大筋 おおすじ は変 か わらぬまま現在 げんざい に至 いた っている。
優勝 ゆうしょう 制度 せいど の不公平 ふこうへい
編集 へんしゅう
同 おな じ幕内 まくうち に属 ぞく して(2014年 ねん 現在 げんざい の定員 ていいん は42名 めい )幕内 まくうち 最高 さいこう 優勝 ゆうしょう を争 あらそ う立場 たちば であっても、上位 じょうい と下位 かい で15日間 にちかん の対戦 たいせん 相手 あいて がまったく違 ちが うことなどへの批判 ひはん もあり[34] 、過去 かこ に横綱 よこづな ・大関 おおぜき とまったく対戦 たいせん せずに全勝 ぜんしょう した時津 とぎつ 山 さん 仁一 ひとかず や、十 じゅう 両 りょう 力士 りきし への敗戦 はいせん があった佐田 さだ の山 やま 晋 すすむ 松 まつ の優勝 ゆうしょう が物議 ぶつぎ を醸 かも した例 れい がある。そのため、現在 げんざい では幕内 まくうち 下位 かい で優勝 ゆうしょう 争 あらそ いの先頭 せんとう または2番手 ばんて につけている力士 りきし を、終盤 しゅうばん に横綱 よこづな ・大関 おおぜき と対戦 たいせん させることで[注 ちゅう 2] 、優勝 ゆうしょう の価値 かち の公平 こうへい 化 か を図 はか っている。
所属 しょぞく 部屋 へや ごとの対戦 たいせん 相手 あいて の不公平 ふこうへい もしばしば問題 もんだい 視 し される。近年 きんねん の例 れい では、二子山 ふたごやま 部屋 へや や武蔵川 むさしがわ 部屋 へや の幕内 まくうち 力士 りきし が上位 じょうい に集中 しゅうちゅう していた[注 ちゅう 3] 、1990年代 ねんだい 後半 こうはん から2000年代 ねんだい 初頭 しょとう に、個人 こじん 別 べつ 総 そう 当 あ たり制 せい の導入 どうにゅう が話題 わだい になったことがあった。養成 ようせい 員 いん (幕下 まくした 以下 いか の力士 りきし )時代 じだい は大部屋 おおべや で共同 きょうどう 生活 せいかつ を送 おく るという相撲 すもう 部屋 へや のしきたりが、個人 こじん 別 べつ 総 そう 当 あ たり制 せい の実現 じつげん を妨 さまた げる要因 よういん となっている。
現行 げんこう 制度 せいど では、大相撲 おおずもう の力士 りきし を志望 しぼう する者 もの (男性 だんせい 限定 げんてい )は、新 しん 弟子 でし 検査 けんさ を受検 じゅけん し、体格 たいかく 検査 けんさ 及 およ び内臓 ないぞう 検査 けんさ に合格 ごうかく しなければならない。国籍 こくせき は不問 ふもん だが、「外国 がいこく 出身 しゅっしん 力士 りきし は各 かく 部屋 へや 1人 にん ずつ」という規定 きてい が存在 そんざい する。2019年 ねん 2月 がつ に力士 りきし (競技 きょうぎ 者 しゃ )規定 きてい の一部 いちぶ が改正 かいせい となり、入 い れ墨 ずみ の禁止 きんし も明文化 めいぶんか された[35] [36] 。
関取 せきとり の報酬 ほうしゅう
編集 へんしゅう
大相撲 おおずもう 力士 りきし の報酬 ほうしゅう 制度 せいど は、地位 ちい によって与 あた えられる給与 きゅうよ ・手当 てあて と、成績 せいせき 給 きゅう に相当 そうとう する力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん (給金 きゅうきん )と、いわゆる2階 かい 建 だ てになっている。
(2019年 ねん 1月 がつ 現在 げんざい )
項目 こうもく
横綱 よこづな
大関 おおぜき
三 さん 役 やく (関脇 せきわけ ・小結 こむすび )
平幕 ひらまく (前頭 まえがしら )
十 じゅう 両 りょう
月額 げつがく 給与 きゅうよ
300万 まん 円 えん
250万 まん 円 えん
180万 まん 円 えん
140万 まん 円 えん
110万 まん 円 えん
年額 ねんがく 給与 きゅうよ
3,600万 まん 円 えん
3,000万 まん 円 えん
2,160万 まん 円 えん
1,680万 まん 円 えん
1,320万 まん 円 えん
年額 ねんがく 賞与 しょうよ
600万 まん 円 えん
500万 まん 円 えん
360万 まん 円 えん
280万 まん 円 えん
220万 まん 円 えん
特別 とくべつ 手当 てあて
120万 まん 円 えん
90万 まん 円 えん
30万 まん 円 えん
出張 しゅっちょう 手当 てあて
115.5万 まん 円 えん
99.7万 まん 円 えん
85万 まん 円 えん
74.5万 まん 円 えん
68.2万 まん 円 えん
力士 りきし 補助 ほじょ 金 きん
7.5万 まん 円 えん
7.5万 まん 円 えん
7.5万 まん 円 えん
7.5万 まん 円 えん
7.5万 まん 円 えん
力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん (1場所 ばしょ )
60万 まん 円 えん
40万 まん 円 えん
24万 まん 円 えん
24万 まん 円 えん
16万 まん 円 えん
年額 ねんがく 報酬 ほうしゅう
4,803万 まん 円 えん
3,937.2万 まん 円 えん
2,786.5万 まん 円 えん
2,186万 まん 円 えん
1,711.7万 まん 円 えん
力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん は、本場所 ほんばしょ ごとの最低 さいてい 支給 しきゅう 金額 きんがく (年額 ねんがく 報酬 ほうしゅう では6場所 ばしょ 分 ぶん で計算 けいさん )。
十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう の力士 りきし (関取 せきとり )には、次 つぎ の通 とお りの金額 きんがく が月額 げつがく 給与 きゅうよ として支給 しきゅう される。そのため、11月場所 ばしょ において十 じゅう 両 りょう で負 ま け越 こ し、1月 がつ 場所 ばしょ で幕下 まくした に陥落 かんらく した場合 ばあい でも12月 がつ 分 ぶん の給与 きゅうよ は支給 しきゅう される。幕下 まくした 陥落 かんらく が確実 かくじつ になり引退 いんたい の意思 いし を固 かた めた力士 りきし が、翌月 よくげつ 分 ぶん の給与 きゅうよ 確保 かくほ のため引退 いんたい 届 とどけ 提出 ていしゅつ を番付 ばんづけ 編成 へんせい 会議 かいぎ 後 ご まで遅 おく らせ、翌 よく 場所 ばしょ の番付 ばんづけ に名 な を残 のこ すケースも多 おお い。
給与 きゅうよ 額 がく は原則 げんそく として年 とし 1回 かい 、理事 りじ 会 かい において見直 みなお すこととなっている。給与 きゅうよ 額 がく は2001年 ねん に現行 げんこう の金額 きんがく となって以降 いこう 2018年 ねん まで据 す え置 お きだったが、2018年 ねん 11月の理事 りじ 会 かい の決定 けってい により、2019年 ねん 1月 がつ 場所 ばしょ から十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう の力士 りきし の給料 きゅうりょう が増額 ぞうがく されている[37] 。
賞与 しょうよ は、9月と12月にそれぞれ月額 げつがく 給与 きゅうよ の1カ月 かげつ 分 ぶん が支給 しきゅう される。したがって、年額 ねんがく 賞与 しょうよ は月額 げつがく 給与 きゅうよ の2カ月 かげつ 分 ぶん である。賞与 しょうよ の支給 しきゅう 月 がつ が世間 せけん 一般 いっぱん の6月と12月 がつ と違 ちが っているのは、以前 いぜん に支給 しきゅう されていた巡業 じゅんぎょう 手当 てあて が賞与 しょうよ に変 か わったためである。
本場所 ほんばしょ 特別 とくべつ 手当 てあて
編集 へんしゅう
本場所 ほんばしょ 特別 とくべつ 手当 てあて は、小結 こむすび 以上 いじょう の力士 りきし に対 たい して本場所 ほんばしょ ごとに年 とし 6回 かい 支給 しきゅう される。11日間 にちかん 以上 いじょう 出場 しゅつじょう した場合 ばあい は全額 ぜんがく 、6日 にち -10日 とおか 間 あいだ 出場 しゅつじょう した場合 ばあい は3分 ぶん の2、5日間 にちかん 以下 いか の出場 しゅつじょう の場合 ばあい は3分 ぶん の1が支給 しきゅう され、全休 ぜんきゅう (不戦敗 ふせんぱい も含 ふく む)の場合 ばあい は支給 しきゅう されない。
横綱 よこづな :200,000円 えん
大関 おおぜき :150,000円 えん
関脇 せきわけ ・小結 こむすび :50,000円 えん
出張 しゅっちょう 手当 てあて は、3月 がつ 場所 ばしょ 、7月 がつ 場所 ばしょ 、11月場所 ばしょ の年 とし 3回 かい 、各 かく 場所 ばしょ ごとに次 つぎ の通 とお りの1日 にち 分 ぶん 支給 しきゅう 金額 きんがく を35日 にち 分 ぶん [注 ちゅう 4] 支給 しきゅう される。
横綱 よこづな :宿泊 しゅくはく 費 ひ 8,000円 えん 、日当 にっとう 3,000円 えん
大関 おおぜき :宿泊 しゅくはく 費 ひ 7,500円 えん 、日当 にっとう 2,000円 えん
関脇 せきわけ ・小結 こむすび :宿泊 しゅくはく 費 ひ 6,500円 えん 、日当 にっとう 1,600円 えん
平幕 ひらまく :宿泊 しゅくはく 費 ひ 5,700円 えん 、日当 にっとう 1,400円 えん
十 じゅう 両 りょう :宿泊 しゅくはく 費 ひ 5,300円 えん 、日当 にっとう 1,200円 えん
力士 りきし 補助 ほじょ 金 きん は、1月 がつ 場所 ばしょ 、5月場所 ばしょ 、9月場所 ばしょ の年 とし 3回 かい 、髪結 かみゆい の補助 ほじょ 金 きん として支給 しきゅう される。
横綱 よこづな から十枚目 じゅうまいめ (十 じゅう 両 りょう )まで:一律 いちりつ 25,000円 えん
力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん
編集 へんしゅう
場所 ばしょ ごとに過去 かこ に残 のこ した成績 せいせき に応 おう じて支給 しきゅう される。計算 けいさん の基礎 きそ となる持 も ち給金 きゅうきん (支給 しきゅう 標準 ひょうじゅん 額 がく )の累積 るいせき は序ノ口 じょのくち から始 はじ まり、持 も ち給金 きゅうきん を4000倍 ばい した金額 きんがく が十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう の力士 りきし (関取 せきとり )に支給 しきゅう される。持 も ち給金 きゅうきん は勝 か ち越 こ し 1点 てん につき50銭 ぜに ずつ累積 るいせき され[注 ちゅう 5] 、負 ま け越 こ し や休場 きゅうじょう などでの減額 げんがく はない。金星 かなぼし や幕内 まくうち 最高 さいこう 優勝 ゆうしょう では大 おお きな加算 かさん (後述 こうじゅつ )があるほか、十 じゅう 両 りょう ・幕内 まくうち (関脇 せきわけ と小結 こむすび を含 ふく む)・大関 おおぜき ・横綱 よこづな と持 も ち給金 きゅうきん の最低 さいてい 額 がく が決 き まっており、昇進 しょうしん 時 じ に累積 るいせき 額 がく がその金額 きんがく に満 み たなければ番付 ばんづけ に応 おう じた最低 さいてい 額 がく まで引 ひ き上 あ げられる。
力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん の最低 さいてい 支給 しきゅう 標準 ひょうじゅん 額 がく
番付 ばんづけ
持 も ち給金 きゅうきん (最低 さいてい 額 がく )
最低 さいてい 支給 しきゅう 額 がく (1場所 ばしょ ごと)
横綱 よこづな
150円 えん
60万 まん 円 えん
大関 おおぜき
100円 えん
40万 まん 円 えん
幕内 まくうち
60円 えん
24万 まん 円 えん
十 じゅう 両 りょう
40円 えん
16万 まん 円 えん
力士 りきし 養成 ようせい 員 いん の報酬 ほうしゅう
編集 へんしゅう
幕下 まくした 以下 いか は「力士 りきし 養成 ようせい 員 いん 」と呼 よ ばれ、給与 きゅうよ と力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん は支給 しきゅう されないが、場所 ばしょ 手当 てあて と本場所 ほんばしょ の成績 せいせき による幕下 まくした 以下 いか 奨励 しょうれい 金 きん (勝 か ち星 ぼし 1つごとに支給 しきゅう される勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん と勝 か ち越 こ した数 かず に応 おう じて支給 しきゅう される勝越 かちこし 金 きん )が本場所 ほんばしょ ごとに年 とし 6回 かい 支給 しきゅう される。
幕下 まくした :165,000円 えん
三 さん 段 だん 目 め :110,000円 えん
序 じょ 二 に 段 だん :88,000円 えん
序ノ口 じょのくち :77,000円 えん
(2019年 ねん 1月 がつ 現在 げんざい )
項目 こうもく
幕下 まくした
三 さん 段 だん 目 め
序 じょ 二 に 段 だん
序ノ口 じょのくち
場所 ばしょ 手当 てあて
165,000円 えん
110,000円 えん
88,000円 えん
77,000円 えん
年額 ねんがく 報酬 ほうしゅう
990,000円 えん
660,000円 えん
528,000円 えん
462,000円 えん
勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん (1つあたり)
2,500円 えん
2,000円 えん
1,500円 えん
1,500円 えん
勝越 かちこし 金 きん (1つあたり)
6,000円 えん
4,500円 えん
3,500円 えん
3,500円 えん
成績 せいせき による場所 ばしょ ごとの収入 しゅうにゅう の計算 けいさん 式 しき を示 しめ すと次 つぎ のようになる。
7戦 せん 全敗 ぜんぱい :場所 ばしょ 手当 てあて のみ
1勝 しょう 6敗 はい :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 1勝 しょう 分 ぶん
2勝 しょう 5敗 はい :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 2勝 しょう 分 ぶん
3勝 しょう 4敗 はい :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 3勝 しょう 分 ぶん
4勝 しょう 3敗 はい :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 4勝 しょう 分 ぶん +勝越 かちこし 金 きん 1点 てん 分 ぶん
5勝 しょう 2敗 はい :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 5勝 しょう 分 ぶん +勝越 かちこし 金 きん 3点 てん 分 ぶん
6勝 しょう 1敗 はい :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 6勝 しょう 分 ぶん +勝越 かちこし 金 きん 5点 てん 分 ぶん
7戦 せん 全勝 ぜんしょう :場所 ばしょ 手当 てあて +勝星 かちぼし 奨励 しょうれい 金 きん 7勝 しょう 分 ぶん +勝越 かちこし 金 きん 7点 てん 分 ぶん
上 うえ に示 しめ した成績 せいせき の負 ま け数 すう には休場 きゅうじょう も含 ふく む。幕下 まくした 上位 じょうい 及 およ び序ノ口 じょのくち 下位 かい の八 はち 番 ばん 相撲 すもう の場合 ばあい は、負 ま け越 こ している場合 ばあい は勝越 かちこし 金 きん がないため7番 ばん 取 と って同 おな じ数 すう の白星 しろぼし を挙 あ げた力士 りきし と同 おな じになるが、勝 か ち越 こ している場合 ばあい は上 うえ の式 しき にそのまま当 あ てはまらず、勝越 かちこし 金 きん が偶数 ぐうすう 点 てん 分 ぶん になることが起 お こりうる。また今後 こんご 出 で る可能 かのう 性 せい はほぼないと思 おも われるが、引分 ひきわけ や痛 いた み分 わ け が絡 から んだ場合 ばあい も上 うえ の式 しき にそのまま当 あ てはまらないことが起 お こりうる。
このほか、本場所 ほんばしょ における電車 でんしゃ 賃 ちん が乗車 じょうしゃ 券 けん で支給 しきゅう される。
力士 りきし 養成 ようせい 員 いん でも、寝食 しんしょく は各々 おのおの 相撲 すもう 部屋 へや でできる(費用 ひよう は協会 きょうかい から部屋 へや 持 も ち親方 おやかた に対 たい して、力士 りきし 養成 ようせい 員 いん 1人 にん につき月額 げつがく 70,000円 えん 、年額 ねんがく 840,000円 えん が支給 しきゅう されている)うえに、共同 きょうどう の食事 しょくじ 「ちゃんこ 」もあるので、幕下 まくした 以下 いか の生活 せいかつ が続 つづ いても食 く いはぐれることはない。ただし慣習 かんしゅう としての部屋 へや への上納 じょうのう つまり「持 も ち出 だ し」もあるので必 かなら ずしも全額 ぜんがく が可 か 処分 しょぶん 所得 しょとく になるわけではない。特 とく に親方 おやかた 、部屋 へや の看板 かんばん である十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう の力士 りきし はかなりの額 がく を「持 も ち出 だ し」せねばならないが、逆 ぎゃく に部屋 へや に十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう 力士 りきし がいるかいないかで部屋 へや の生活 せいかつ 水準 すいじゅん 、ひいては本場所 ほんばしょ 成績 せいせき が大 おお きく異 こと なってくる。
副業 ふくぎょう の制約 せいやく など
編集 へんしゅう
各種 かくしゅ 表彰 ひょうしょう ・昇給 しょうきゅう ・賞金 しょうきん
編集 へんしゅう
番付 ばんづけ の幕内 まくうち ・十 じゅう 両 りょう ・幕下 まくした ・三 さん 段 だん 目 め ・序 じょ 二 に 段 だん ・序ノ口 じょのくち の各 かく 階級 かいきゅう 内 ない での最高 さいこう 成績 せいせき 者 しゃ が優勝 ゆうしょう となる。ただし最高 さいこう 成績 せいせき 者 しゃ が複数 ふくすう いる場合 ばあい は、優勝 ゆうしょう 決定 けってい 戦 せん が行 おこな われ、それを勝 か ち抜 ぬ いた1人 ひとり のみが優勝 ゆうしょう となる。力士 りきし が番付 ばんづけ の6階 かい 級 きゅう のいずれかで優勝 ゆうしょう すると、優勝 ゆうしょう 者 しゃ に対 たい して表彰 ひょうしょう が行 おこな われ、以下 いか の賞金 しょうきん が授与 じゅよ される。
幕内 まくうち 最高 さいこう 優勝 ゆうしょう - 1000万 まん 円 えん
十両 じゅうりょう 優勝 ゆうしょう - 200万 まん 円 えん
幕下 まくした 優勝 ゆうしょう - 50万 まん 円 えん
三 さん 段 だん 目 め 優勝 ゆうしょう - 30万 まん 円 えん
序 じょ 二 に 段 だん 優勝 ゆうしょう - 20万 まん 円 えん
序ノ口 じょのくち 優勝 ゆうしょう - 10万 まん 円 えん
幕内 まくうち 最高 さいこう 優勝 ゆうしょう の場合 ばあい 、力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん の加算 かさん による昇給 しょうきゅう もあり、全勝 ぜんしょう 以外 いがい の優勝 ゆうしょう は30円 えん 、全勝 ぜんしょう 優勝 ゆうしょう なら50円 えん が力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん に加算 かさん される。4000倍 ばい という倍率 ばいりつ からすると、実質 じっしつ ぞれぞれ12万 まん 円 えん 、20万 まん 円 えん の昇給 しょうきゅう となる。
千秋楽 せんしゅうらく には、勝 か ち越 こ した関脇 せきわけ 以下 いか の幕内 まくうち 力士 りきし に対 たい し、相撲 すもう 内容 ないよう 等 とう により選考 せんこう を経 へ て殊勲賞 しゅくんしょう ・敢闘 かんとう 賞 しょう ・技能 ぎのう 賞 しょう の三 さん 賞 しょう が贈 おく られ、表彰 ひょうしょう ・賞金 しょうきん の対象 たいしょう となる。三 さん 賞 しょう の賞金 しょうきん としては1つにつき200万 まん 円 えん が授与 じゅよ される。
平幕 ひらまく (前頭 まえがしら )の力士 りきし が横綱 よこづな に勝 か った場合 ばあい 、金星 かなぼし と呼 よ ばれ、力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん に10円 えん が加算 かさん される。4000倍 ばい という倍率 ばいりつ からすると、実質 じっしつ 4万 まん 円 えん の昇給 しょうきゅう となる。
金星 かなぼし による力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん の加算 かさん (昇給 しょうきゅう )そのものは当該 とうがい 場所 ばしょ を負 ま け越 こ していても有効 ゆうこう であるが、勝 か ち越 こ している場合 ばあい はそれとは別 べつ に三 さん 賞 しょう のうちの殊勲賞 しゅくんしょう に選 えら ばれることも多 おお い。
幕内 まくうち での取組 とりくみ によっては企業 きぎょう が懸賞 けんしょう 金 きん を提供 ていきょう するケースがあり、勝利 しょうり した力士 りきし に授与 じゅよ される。企業 きぎょう から提供 ていきょう される懸賞 けんしょう 金 きん は2019年 ねん 9月 がつ 以降 いこう は1本 ほん につき7万 まん 円 えん となっているが、納税 のうぜい 充当 じゅうとう 金 きん として3万 まん 円 えん 、協会 きょうかい の事務 じむ 経費 けいひ として1万 まん 円 えん が天引 てんび きされ、力士 りきし の手取 てど りは懸賞 けんしょう 金 きん 1本 ほん 当 あ たり3万 まん 円 えん となる。
横綱 よこづな に昇進 しょうしん した力士 りきし は、名誉 めいよ 賞 しょう として100万 まん 円 えん が授与 じゅよ される。
新 しん 大関 おおぜき に昇進 しょうしん した力士 りきし は、名誉 めいよ 賞 しょう として50万 まん 円 えん が授与 じゅよ される。ただし大関 おおぜき から陥落 かんらく した力士 りきし が大関 おおぜき に復帰 ふっき (再 さい 昇進 しょうしん )した場合 ばあい は授与 じゅよ されない。
また力士 りきし の例 れい ではないが、行司 ぎょうじ の場合 ばあい は、立 たて 行司 ぎょうじ に昇進 しょうしん すると、名誉 めいよ 賞 しょう として50万 まん 円 えん が授与 じゅよ される。
廃止 はいし された各種 かくしゅ 表彰 ひょうしょう
編集 へんしゅう
1909年 ねん 6月 がつ 場所 ばしょ から1931年 ねん 10月 がつ 場所 ばしょ までと、1940年 ねん 1月 がつ 場所 ばしょ から1947年 ねん 6月 がつ 場所 ばしょ までの期間 きかん には、優勝 ゆうしょう した片屋 かたや の関脇 せきわけ 以下 いか の最高 さいこう 成績 せいせき 力士 りきし が優勝 ゆうしょう 旗手 きしゅ として表彰 ひょうしょう されていた。
1955年 ねん 3月 がつ 場所 ばしょ から1965年 ねん 11月場所 ばしょ まで、関脇 せきわけ 以下 いか の最高 さいこう 成績 せいせき 者 しゃ (三 さん 賞 しょう と異 こと なり機械 きかい 的 てき に決 き まる)に与 あた えられる表彰 ひょうしょう として、雷電 らいでん 賞 しょう が行 おこな われていた。
二 に 位 い ・三 さん 位 い 力士 りきし に対 たい する表彰 ひょうしょう
編集 へんしゅう
1948年 ねん 10月 がつ 場所 ばしょ の1場所 ばしょ のみ、幕内 まくうち から序ノ口 じょのくち までの各 かく 段 だん の優勝 ゆうしょう (一 いち 位 い )力士 りきし の他 ほか 、二 に 位 い ・三 さん 位 い 力士 りきし に対 たい する表彰 ひょうしょう が存在 そんざい した。同 どう 場所 ばしょ は優勝 ゆうしょう が10勝 しょう 1敗 はい の西 にし 関脇 せきわけ 増 ぞう 位 い 山大 やまだい 志郎 しろう 、二 に 位 い が優勝 ゆうしょう 決定 けってい 戦敗 せんぱい 者 しゃ の西 にし 大関 おおぜき 東 ひがし 富士 ふじ 欽壹 、三 さん 位 い が9勝 しょう 2敗 はい の東 ひがし 大関 おおぜき 佐賀 さが ノ花 はな 勝巳 かつみ で、佐賀 さが ノ花 はな 勝巳 かつみ は西 にし 前頭 まえがしら 8枚 まい 目 め 高 こう 津山 つやま 芳信 よしのぶ との三 さん 位 い 決定 けってい 戦 せん を行 おこな って勝利 しょうり していた。1949年 ねん 10月 がつ 場所 ばしょ では、幕内 まくうち 以外 いがい で三 さん 位 い まで表彰 ひょうしょう されている。
力士 りきし の退職 たいしょく 金 きん
編集 へんしゅう
十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう の力士 りきし には、現役 げんえき 引退 いんたい 時 じ に退職 たいしょく 金 きん に相当 そうとう する養老 ようろう 金 きん および勤続 きんぞく 加算 かさん 金 きん (いわゆる一般 いっぱん 功労 こうろう 金 きん )が支給 しきゅう される。資格 しかく 者 しゃ は幕内 まくうち 連続 れんぞく 20場所 ばしょ 以上 いじょう または幕内 まくうち 通算 つうさん 25場所 ばしょ 以上 いじょう の者 もの で、それに満 み たない者 もの は非 ひ 資格 しかく 者 しゃ となる。ただし、現役 げんえき 中 ちゅう に協会 きょうかい から除名 じょめい 処分 しょぶん を受 う けた者 もの には支給 しきゅう されない。解雇 かいこ 処分 しょぶん された者 もの については理事 りじ 会 かい の付帯 ふたい 決議 けつぎ で一部 いちぶ または全部 ぜんぶ の支給 しきゅう が見送 みおく られることがある。
(2006年 ねん 1月 がつ 現在 げんざい 、単位 たんい :円 えん )
横綱 よこづな
大関 おおぜき
三 さん 役 やく
平幕 ひらまく
十 じゅう 両 りょう
資格 しかく 者 しゃ
15,000,000
10,000,000
7,630,000
7,630,000
4,750,000
非 ひ 資格 しかく 者 しゃ
--
--
7,630,000
4,750,000+(勤続 きんぞく 場所 ばしょ 数 すう -1)×120,000
1,150,000+(勤続 きんぞく 場所 ばしょ 数 すう -1)×150,000
勤続 きんぞく 加算 かさん 金 きん
編集 へんしゅう
番付 ばんづけ の各 かく 地位 ちい における勤続 きんぞく 場所 ばしょ 数 すう を乗 じょう じて、それぞれを加算 かさん した金額 きんがく が勤続 きんぞく 加算 かさん 金 きん の合計 ごうけい となる。下表 かひょう の( )内 ない の数字 すうじ は、非 ひ 資格 しかく 者 しゃ 。
(2006年 ねん 1月 がつ 現在 げんざい 、単位 たんい :円 えん )
横綱 よこづな
大関 おおぜき
三 さん 役 やく
平幕 ひらまく
十 じゅう 両 りょう
横綱 よこづな
500,000
400,000
250,000
200,000
150,000
大関 おおぜき
--
400,000
250,000
200,000
150,000
三 さん 役 やく
--
--
250,000
200,000 (150,000)
150,000
平幕 ひらまく
--
--
--
200,000 (150,000)
150,000
十 じゅう 両 りょう
--
--
--
--
150,000
特別 とくべつ 功労 こうろう 金 きん
編集 へんしゅう
横綱 よこづな ・大関 おおぜき には、現役 げんえき 引退 いんたい 時 じ に理事 りじ 会 かい の決議 けつぎ により養老 ようろう 金 きん および勤続 きんぞく 加算 かさん 金 きん とは別 べつ に特別 とくべつ 功労 こうろう 金 きん が支給 しきゅう される。
かつては、支給 しきゅう 額 がく は公表 こうひょう されていたが、2005年 ねん 4月 がつ 1日 にち から個人 こじん 情報 じょうほう 保護 ほご 法 ほう が施行 しこう されたことにより、同年 どうねん 5月 がつ 場所 ばしょ から支給 しきゅう 額 がく は非 ひ 公表 こうひょう となった。この措置 そち に対 たい しては公益 こうえき 法人 ほうじん たる財団 ざいだん 法人 ほうじん 日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい の方針 ほうしん として不適切 ふてきせつ であるとの意見 いけん もある。
力士 りきし には、地位 ちい によって以下 いか の待遇 たいぐう の違 ちが いがある。
地位 ちい
幕内 まくうち (横綱 よこづな - 前頭 まえがしら )
十 じゅう 両 りょう
幕下 まくした
三 さん 段 だん 目 め
序 じょ 二 に 段 だん
序ノ口 じょのくち
髷 まげ
大 だい 銀杏 いちょう
丁髷 ちょんまげ (十両 じゅうりょう との対戦 たいせん 時 じ および弓取 ゆみとり 式 しき 、巡業 じゅんぎょう 中 ちゅう の初切 しょっきり 出演 しゅつえん 、床山 とこやま の練習 れんしゅう 台 だい 、引退 いんたい 時 じ の断髪 だんぱつ 式 しき の際 さい は大 だい 銀杏 いちょう 容認 ようにん )
服 ふく
紋付 もんつき 羽織 はおり 袴 はかま
着物 きもの ・羽織 はおり (外套 がいとう ・襟巻 えりまき も着用 ちゃくよう 可 か )
着物 きもの ・羽織 はおり
着物 きもの (浴衣 ゆかた もしくはウール)
帯 おび
博多帯 はかたおび
ベンベルグ
傘 かさ
番傘 ばんがさ ・蛇 じゃ の目傘 めがさ
洋傘 ようがさ
履物 はきもの
足袋 たび に雪駄 せった (畳 たたみ 敷 じ き)
足袋 たび に雪駄 せった (エナメル製 せい )
素足 すあし に雪駄 せった (エナメル製 せい )
素足 すあし に下駄 げた
稽古 けいこ 廻 まわ し
白色 はくしょく ・木綿 こわた
黒色 こくしょく ・木綿 こわた
取 と り廻 まわ し
博多織 はかたおり 繻子 しゅす (色 いろ は事実 じじつ 上 じょう 自由 じゆう )
黒色 こくしょく ・木綿 こわた
下 さ がり
取 と り廻 まわ しの共布 ともぎれ
紐 ひも
足袋 たび の色 いろ
白 しろ
黒 くろ
控 ひか えの敷物 しきもの
私物 しぶつ の座布団 ざぶとん (色 いろ ・デザインは自由 じゆう )
共用 きょうよう の座布団 ざぶとん (紫 むらさき 一色 いっしょく )
畳 たたみ に直 ちょく 座 ざ (幕下 まくした 上位 じょうい 五 ご 番 ばん および十両 じゅうりょう との対戦 たいせん 時 じ は十 じゅう 両 りょう と同 おな じ座布団 ざぶとん )
月 つき ごとの収入 しゅうにゅう
月額 げつがく 給与 きゅうよ
-
場所 ばしょ ごとの収入 しゅうにゅう
力士 りきし 褒賞 ほうしょう 金 きん
場所 ばしょ 手当 てあて ・奨励 しょうれい 金 きん
このほかにも以下 いか のような違 ちが いがある。
大関 おおぜき 以上 いじょう の力士 りきし
三 さん 役 やく 以上 いじょう の力士 りきし
初日 しょにち と千秋楽 せんしゅうらく に行 おこな われる協会 きょうかい 挨拶 あいさつ で理事 りじ 長 ちょう と共 とも に土俵 どひょう に上 あ がる。
幕内 まくうち 以上 いじょう の力士 りきし
横綱 よこづな 土俵入 どひょうい りで露払 つゆはら いや太刀持 たちも ちを務 つと めることができる[注 ちゅう 9] 。
夏場 なつば (5月 がつ 場所 ばしょ から9月 がつ 場所 ばしょ )は染 そ め抜 ぬ きの着物 きもの を着用 ちゃくよう することができる。
十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう の力士 りきし
一 いち 人前 にんまえ の力士 りきし として扱 あつか われ、敬称 けいしょう である「関取 せきとり 」「**関 せき 」と呼 よ ばれる他 ほか 、力士 りきし 会 かい に参加 さんか できる。
幕下 まくした 以下 いか の力士 りきし が付 つ け人 びと として付 つ く[注 ちゅう 10] 。ちゃんこ作 づく り、掃除 そうじ 、買出 かいだ しなどの部屋 へや の雑用 ざつよう も原則 げんそく 免除 めんじょ 。
相撲 すもう 部屋 へや において個室 こしつ が与 あた えられるか、別居 べっきょ が許 ゆる される[注 ちゅう 11] 。
起床 きしょう 時間 じかん など生活 せいかつ の自由 じゆう 度 ど が飛躍 ひやく 的 てき に増 ま す[注 ちゅう 12] 。
結婚 けっこん が許 ゆる される。
巡業 じゅんぎょう ・本場所 ほんばしょ などの興行 こうぎょう で自分 じぶん の名前 なまえ が入 はい った幟 のぼり を立 た てることができる[注 ちゅう 13] 。
化粧 けしょう 回 まわ しを締 し めて土俵入 どひょうい り を行 おこな う[注 ちゅう 14] 。
支度 したく 部屋 へや に明 あかり 荷 に を持 も ち込 こ むことができる[注 ちゅう 15] 。
取組 とりくみ では、力水 ちからみず 、力紙 ちからがみ 、塩 しお を使用 しよう する[注 ちゅう 16] 。
優勝 ゆうしょう 力士 りきし に頼 たの まれて優勝旗 ゆうしょうき を持 も ち、優勝 ゆうしょう 力士 りきし と一緒 いっしょ にオープンカーに乗 の って優勝 ゆうしょう 行進 こうしん できる。
本場所 ほんばしょ や公式 こうしき の場 ば では髷 まげ を大 だい 銀杏 いちょう に結 ゆ う[注 ちゅう 17] 。
個人 こじん のサインを書 か くことが協会 きょうかい から許 ゆる される[注 ちゅう 18] [39] 。
歴史 れきし 的 てき に見 み て、力士 りきし は永 なが く薄給 はっきゅう で酷使 こくし されてきた。江戸 えど 時代 じだい には本場所 ほんばしょ の興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう は一部 いちぶ の年寄 としより たち(江戸 えど 相撲 すもう 会所 かいしょ 。現在 げんざい の日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい の前身 ぜんしん )によって山分 やまわ けされ、看板 かんばん となるような人気 にんき 力士 りきし 、花形 はながた 力士 りきし は別 べつ として、大半 たいはん の力士 りきし への給与 きゅうよ はなけなしのものだった。
三 さん 役 やく 力士 りきし ともなれば、大名 だいみょう 家 か からお抱 かか え とされ、藩士 はんし としての報償 ほうしょう を受 う け取 と り、また贔屓 ひいき 客 きゃく からの祝儀 しゅうぎ もあった。こうした力士 りきし は地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう へ出掛 でか ければ各地 かくち の興行 こうぎょう 主 ぬし (勧進元 かんじんもと )から引 ひ く手 て あまたであって、むしろ懐 ふところ は他 た の武士 ぶし 階級 かいきゅう より潤 うるお っていた。一方 いっぽう 、そうでない大半 たいはん の力士 りきし は、細々 こまごま と自主 じしゅ 興行 こうぎょう による「手 て 相撲 すもう 」で地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう を行 おこな い食 く いつないでいた。但 ただ し、いわゆる「力 ちから 人 じん 信仰 しんこう 」から来 く る善意 ぜんい の喜捨 きしゃ も多 おお く、本当 ほんとう に食 く うに困 こま るまで困窮 こんきゅう する力士 りきし は少 すく なかった。
本場所 ほんばしょ で「星 ほし を売 う る」、いわゆる八百長 やおちょう 行為 こうい も横行 おうこう していたと見 み られており、現在 げんざい でも度々 たびたび 、八百長 やおちょう 行為 こうい の存在 そんざい が指摘 してき されている。但 ただ し、その真相 しんそう 解明 かいめい は八百長 やおちょう 行為 こうい を名指 なざ しされた者 もの が八百長 やおちょう 行為 こうい を認 みと めることはないため、事情 じじょう 聴取 ちょうしゅ も内輪 うちわ の狎 な れ合 あ いで済 す まされ、尻 しり すぼみに終 お わる。これには、そもそも格闘技 かくとうぎ で年 とし 90回 かい (十 じゅう 両 りょう 以上 いじょう は1場所 ばしょ 15番 ばん ×年 とし 6場所 ばしょ )もガチンコ で試合 しあい を行 おこな うというのはアスリートの肉体 にくたい 的 てき に不可能 ふかのう で、それを行 おこな おうともすれば力士 りきし の生命 せいめい に対 たい する危険 きけん はより高 たか くなってしまうという意見 いけん もある[40] 。
明治 めいじ に入 はい って以降 いこう も、大名 だいみょう 家 か が藩閥 はんばつ 政治 せいじ の有力 ゆうりょく 者 しゃ に成 な り代 か わっただけで、こうした状況 じょうきょう は変 か わらなかった。そのため力士 りきし による待遇 たいぐう 改善 かいぜん 要求 ようきゅう は度々 たびたび おこり、昭和 しょうわ における春秋 しゅんじゅう 園 えん 事件 じけん はその最後 さいご にして最大 さいだい のものだった。相撲取 すもうと りが相撲 すもう を取 と ることによって生計 せいけい が立 た つようになったのは、昭和 しょうわ に入 はい ってからと言 い って良 よ い。1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )、こうした相撲 すもう 界 かい の体質 たいしつ は国会 こっかい で問題 もんだい 視 し され、それ以降 いこう は月給 げっきゅう 制 せい 等 とう による力士 りきし の待遇 たいぐう 改善 かいぜん の試 こころ みが進 すす んだ。それでも、年 とし 6場所 ばしょ および地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう により一 いち 年間 ねんかん のほとんどを拘束 こうそく される力士 りきし たちに対 たい しては、「時給 じきゅう で見 み れば世界 せかい でもっとも可哀想 かわいそう なプロスポーツ選手 せんしゅ 」という声 こえ があり、横綱 よこづな でも他 た のプロスポーツ選手 せんしゅ のトップクラスと比 くら べると相当 そうとう に収入 しゅうにゅう は安 やす い。
また、金銭 きんせん 面 めん に関 かん しては、後援 こうえん 者 しゃ (タニマチ )からの祝儀 しゅうぎ が大 おお きな収入 しゅうにゅう 源 げん の一 ひと つになっている。各 かく 力士 りきし によってタニマチの大小 だいしょう はあるが、横綱 よこづな ・大関 おおぜき などへ有力 ゆうりょく な人物 じんぶつ がタニマチになった場合 ばあい 、優勝 ゆうしょう 時 じ には1,000万 まん 円 えん 以上 いじょう の祝儀 しゅうぎ が集 あつ められるという。特 とく に千代 ちよ の富士 ふじ の全 ぜん 盛時 せいじ は一 いち 晩 ばん で5,000万 まん 円 えん 集 あつ まったという。これは角界 かくかい では後援 こうえん 者 しゃ からの祝儀 しゅうぎ は給与 きゅうよ より大 おお きな比重 ひじゅう を占 し めているという現実 げんじつ がある。年寄 としより 株 かぶ の取得 しゅとく 資金 しきん 、部屋 へや 経営 けいえい の資金 しきん 、有力 ゆうりょく 学生 がくせい 相撲 すもう 選手 せんしゅ の獲得 かくとく 資金 しきん 等 とう も含 ふく めて、角界 かくかい はタニマチなしでは成 な りたない構造 こうぞう となっている。
力士 りきし の労働 ろうどう 契約 けいやく について
編集 へんしゅう
一般 いっぱん に力士 りきし は日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい と労働 ろうどう 契約 けいやく を結 むす び雇用 こよう される給与 きゅうよ 所得 しょとく 者 しゃ とされており、他 た のプロスポーツ選手 せんしゅ の大半 たいはん が個人 こじん 事業 じぎょう 主 ぬし であることに対 たい して労働 ろうどう 条件 じょうけん を異 こと にする部分 ぶぶん があるためこういった収入 しゅうにゅう 面 めん に関 かん する話題 わだい では一律 いちりつ に比較 ひかく できないとも指摘 してき される。実際 じっさい に小錦 こにしき は自身 じしん の大関 おおぜき 在位 ざいい 時代 じだい (1987年 ねん 7月 がつ 場所 ばしょ から1993年 ねん 11月場所 ばしょ )の月給 げっきゅう について「100万 まん 円 えん くらい。僕 ぼく たちは着物 きもの を着 き るけど、安 やす くても一 ひと つ30万 まん 円 えん 」と証言 しょうげん しており、地位 ちい に見合 みあ った着物 きもの など必需 ひつじゅ 品 ひん を自費 じひ で購入 こうにゅう することを考 かんが えれば安 やす いとする主張 しゅちょう をしたことがある。同時 どうじ に「僕 ぼく の時代 じだい は、どんな幕内 まくうち 力士 りきし でも(懸賞 けんしょう は)必 かなら ずあった」とも話 はな しており、さらに「僕 ぼく も200万 まん 近 ちか く貰 もら っていた。一番 いちばん いいときに」と自身 じしん の全盛期 ぜんせいき には場所 ばしょ の懸賞 けんしょう 金 きん が1ヶ月 かげつ 分 ぶん の給料 きゅうりょう を上回 うわまわ っていた事実 じじつ も明 あ かした。[41] [42] この時代 じだい に及 およ んでも尚 なお 、協会 きょうかい から支給 しきゅう される月給 げっきゅう だけでは関取 せきとり 個人 こじん の生活 せいかつ にも不足 ふそく が生 しょう じる前提 ぜんてい が生 しょう じていたのである。2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )に力士 りきし ・年寄 としより の給料 きゅうりょう 増額 ぞうがく が記録 きろく されてから2019年 ねん 1月 がつ に力士 りきし の給料 きゅうりょう 増額 ぞうがく まで据 す え置 お きとなっていた時期 じき があった。2008年 ねん には当時 とうじ の力士 りきし 会 かい 会長 かいちょう の朝 あさ 青 あお 龍 りゅう が「せめて場所入 ばしょい り用 よう の交通 こうつう 費 ひ ぐらい何 なに とかしてくれ」と相撲 すもう 協会 きょうかい に賃上 ちんあ げを要求 ようきゅう したが首脳 しゅのう 陣 じん に相手 あいて にされなかったという報告 ほうこく もあり、協会 きょうかい の財政 ざいせい 状況 じょうきょう があまりよくなかったとされる[43] 。ただし2015年 ねん の冬季 とうき ボーナスは「もし俺 おれ に何 なに かあったら、(給料 きゅうりょう の底上 そこあ げを)頼 たの むぞ」と北 きた の湖 うみ が協会 きょうかい 関係 かんけい 者 しゃ に伝 つた えていたことなどが影響 えいきょう し、2014年 ねん と比 くら べて3割 わり ほどアップしたという[44] 。
とはいえ、力士 りきし が労働 ろうどう 者 しゃ として相撲 すもう 協会 きょうかい に雇用 こよう されているのか、その特別 とくべつ な能力 のうりょく をプロとして提供 ていきょう することを委任 いにん しているのか、実 じつ は契約 けいやく 上 じょう 曖昧 あいまい である。たとえば日馬 くさま 富士 ふじ の貴 たか ノ岩 いわ への傷害 しょうがい 事件 じけん の際 さい に白 はく 鵬 ほう や鶴 つる 竜 りゅう まで減給 げんきゅう 処分 しょぶん になったのは、弁護士 べんごし の山口 やまぐち 元一 げんいち によると「労働 ろうどう 基準 きじゅん 法 ほう 91条 じょう が定 さだ める制裁 せいさい 制限 せいげん の幅 はば を超 こ えていました。これは日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい が力士 りきし 所属 しょぞく 契約 けいやく について、雇用 こよう 契約 けいやく たる性質 せいしつ を否定 ひてい していることを示 しめ しています」とのこと[45] 。なお、2011年 ねん の大相撲 おおずもう 八百長 やおちょう 問題 もんだい で解雇 かいこ された蒼 あお 国 こく 来 らい が起 お こした訴訟 そしょう における東京 とうきょう 地裁 ちさい の判決 はんけつ は、相撲 すもう 協会 きょうかい と力士 りきし との間 あいだ で結 むす ばれている契約 けいやく は「準 じゅん 委任 いにん 契約 けいやく 」(=力士 りきし は個人 こじん 事業 じぎょう 主 ぬし である )としている[46] 。
一方 いっぽう で、福利 ふくり 厚生 こうせい や引退 いんたい 時 じ の退職 たいしょく 金 きん 制度 せいど 、税法 ぜいほう 上 じょう の取 と り扱 あつか い等 とう では、他 た のプロスポーツより充実 じゅうじつ していて、見方 みかた によってはむしろ一般 いっぱん 企業 きぎょう に勤 つと める労働 ろうどう 者 しゃ に近 ちか い。例 たと えば、国技 こくぎ 館内 かんない には力士 りきし のみならず一般 いっぱん の診療 しんりょう も受 う け付 つ ける診療 しんりょう 所 しょ (公益 こうえき 財団 ざいだん 法人 ほうじん 日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい 診療 しんりょう 所 しょ 。通称 つうしょう 「相撲 すもう 診療 しんりょう 所 しょ 」[47] )があること、健康 けんこう 保険 ほけん 組合 くみあい (日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい 健康 けんこう 保険 ほけん 組合 くみあい [48] )を独自 どくじ に運営 うんえい していること、厚生 こうせい 年金 ねんきん 制度 せいど を導入 どうにゅう していること、また税金 ぜいきん 面 めん においては給与 きゅうよ 所得 しょとく や退職 たいしょく 所得 しょとく が適用 てきよう されることにより、自身 じしん の報酬 ほうしゅう を事業 じぎょう 所得 しょとく として申告 しんこく する他 ほか のプロスポーツ選手 せんしゅ には無 な い手厚 てあつ い控除 こうじょ が受 う けられること等 とう である。1969年 ねん 3月 がつ 11日 にち には国税庁 こくぜいちょう が力士 りきし 等 とう に対 たい する課税 かぜい について個別 こべつ 通達 つうたつ [49] を行 おこな っていて、これにより後援 こうえん 会 かい から受 う け取 と る祝儀 しゅうぎ などを含 ふく めて力士 りきし が得 え る有形 ゆうけい 無形 むけい の収入 しゅうにゅう について適切 てきせつ な形 かたち で租税 そぜい 計算 けいさん を行 おこな うことが可能 かのう となっている。[注 ちゅう 19] 収入 しゅうにゅう の無 な い幕下 まくした 以下 いか の力士 りきし であっても社会 しゃかい 保険 ほけん に加入 かにゅう することが可能 かのう であり、この場合 ばあい は保険 ほけん 料 りょう は全額 ぜんがく 協会 きょうかい 負担 ふたん となる[50] 。
一般 いっぱん の個人 こじん 事業 じぎょう 主 ぬし の場合 ばあい のように相撲 すもう 部屋 へや が銀行 ぎんこう の融資 ゆうし を受 う けるケースもあるが、新興 しんこう の部屋 へや の場合 ばあい は12代 だい 中立 ちゅうりつ の中立 ちゅうりつ 部屋 へや の例 れい のように難航 なんこう する場合 ばあい もある。この例 れい の場合 ばあい 、多 おお くの銀行 ぎんこう の担当 たんとう 者 しゃ から断 ことわ られた末 すえ に最後 さいご のつもりで尋 たず ねた銀行 ぎんこう の担当 たんとう 者 しゃ が相撲 すもう に理解 りかい を持 も っていたことからようやく融資 ゆうし を受 う けられるようになった[51] 。
力士 りきし が引退 いんたい 後 こう 協会 きょうかい に残 のこ らない時 とき や年寄 としより が停年 ていねん を待 ま たずに退職 たいしょく する場合 ばあい などには廃業 はいぎょう という言葉 ことば を用 もち いてきたが、現役 げんえき 幕内 まくうち 力士 りきし であった旭道山 きょくどうざん 和 かず 泰 やすし が衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば し当選 とうせん したことがきっかけとなり、語感 ごかん もあまり良 よ くないことから1996年 ねん 11月17日 にち から次 つぎ のように表現 ひょうげん を改 あらた めた。
区分 くぶん
改称 かいしょう 前 まえ
改称 かいしょう 後 ご
力士 りきし
廃業 はいぎょう
引退 いんたい
引退 いんたい
年寄 としより
廃業 はいぎょう
退職 たいしょく
停年 ていねん 、退職 たいしょく
満 まん 65歳 さい (誕生 たんじょう 日 び の前日 ぜんじつ )を以って年寄 としより は定年 ていねん 退職 たいしょく となるが、日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい では停年 ていねん の表現 ひょうげん を用 もち いる。年 とし を取 と ることをやめ、余生 よせい を楽 たの しんでもらいたいという意 い をこめてのことである。なお、2014年 ねん 11月16日 にち からは停年 ていねん になった年寄 としより の再 さい 雇用 こよう 制度 せいど が発足 ほっそく しており、この制度 せいど の適用 てきよう を受 う けた年寄 としより は給与 きゅうよ が停年 ていねん 前 まえ より低 ひく くなり、部屋 へや を持 も つことができないなどの制約 せいやく はあるものの70歳 さい までは日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい に残 のこ ることができる。
因習 いんしゅう 的 てき な問題 もんだい
編集 へんしゅう
横綱 よこづな 審議 しんぎ 委員 いいん 会 かい と言 い う諮問 しもん 機関 きかん や、一部 いちぶ の事務職 じむしょく を外部 がいぶ から採用 さいよう している以外 いがい 、すべて元 もと 力士 りきし (年寄 としより )によって運営 うんえい され、その閉鎖 へいさ 性 せい は繰 く り返 かえ し指摘 してき される。かつてはおおむね年寄 としより は短命 たんめい であり、年寄 としより 株 かぶ もむしろ余 あま り気味 ぎみ なことが通例 つうれい だったが、近年 きんねん では空 あ き株 かぶ がほとんどない状況 じょうきょう が続 つづ いている。結果 けっか として年寄 としより 株 かぶ の高騰 こうとう を招 まね き(額面 がくめん は9桁 けた 、億 おく 単位 たんい に達 たっ している)、1998年 ねん 5月 がつ には「準 じゅん 年寄 としより 」制度 せいど の導入 どうにゅう などで対応 たいおう したが(2006年 ねん 末 すえ 廃止 はいし )、それでも数々 かずかず のトラブルが発生 はっせい している。小錦 こにしき 、若乃花 わかのはな (花田 はなた 虎 とら 上 じょう )、曙 あけぼの といった、大関 おおぜき ・横綱 よこづな を務 つと め人気 にんき もあった力士 りきし たちが次々 つぎつぎ 協会 きょうかい を退職 たいしょく している理由 りゆう としては、芸能 げいのう 界 かい や格闘技 かくとうぎ 、プロレス など他 た 分野 ぶんや に新天地 しんてんち を求 もと めたい気持 きも ちがあるが、親方 おやかた になっても将来 しょうらい が保証 ほしょう されていない現状 げんじょう であり、そうした先行 さきゆ きの不透明 ふとうめい 感 かん も一因 いちいん としてあると言 い われている。
また、その閉鎖 へいさ 性 せい のため旧態 きゅうたい 依然 いぜん の封建 ほうけん 的 てき 体質 たいしつ が色濃 いろこ く残 のこ り、一部 いちぶ の部屋 へや では俗 ぞく に「かわいがり 」と言 い われる(稽古 けいこ 名目 めいもく での)私刑 しけい が横行 おうこう していた。2007年 ねん には時津風 ときつかぜ 部屋 へや 力士 りきし 暴行 ぼうこう 死 し 事件 じけん が発覚 はっかく 。愛知 あいち 県警 けんけい が双 そう 津 つ 竜 りゅう 順一 じゅんいち らを立件 りっけん する事態 じたい にまで至 いた り、日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい 北 きた の湖 うみ 敏 さとし 満 みつる 理事 りじ 長 ちょう (第 だい 55代 だい 横綱 よこづな )が文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう より呼 よ び出 だ され事情 じじょう を説明 せつめい する騒 さわ ぎとなっている。また、時津風 ときつかぜ 部屋 へや では日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい による事情 じじょう 聴取 ちょうしゅ についてマスメディアが駆 か け付 つ けた際 さい に時津風 ときつかぜ 部屋 へや 所属 しょぞく 力士 りきし が憤慨 ふんがい しカメラマンに暴行 ぼうこう する事件 じけん も発生 はっせい している。2010年 ねん 9月 がつ にも、元 もと 十 じゅう 両 りょう ・大 だい 勇武 ゆうぶ 龍泉 りゅうせん が12代 だい 芝田 しばた 山 さん (第 だい 62代 だい 横綱 よこづな ・大 だい 乃国 )から暴行 ぼうこう を受 う けたとして被害 ひがい 届 とどけ を警視庁 けいしちょう に提出 ていしゅつ 。親方 おやかた は書類 しょるい 送検 そうけん されたが2011年 ねん 1月 がつ 起訴 きそ 猶予 ゆうよ となり、2012年 ねん 12月に両者 りょうしゃ の間 あいだ で和解 わかい が成立 せいりつ した。
また、力士 りきし 養成 ようせい 員 いん への手当 てあて 金 きん の親方 おやかた による着服 ちゃくふく 疑惑 ぎわく とそれによるトラブルも繰 く り返 かえ し指摘 してき され続 つづ けているが、関取 せきとり になったときに力士 りきし として認 みと められるという慣習 かんしゅう ゆえに、対応 たいおう が取 と られた様子 ようす は当然 とうぜん ない。
出身 しゅっしん 地 ち による参加 さんか 機会 きかい の不 ふ 均等 きんとう
編集 へんしゅう
理事 りじ 会 かい の申 もう し合 あ わせにより各 かく 部屋 へや の外国 がいこく 出身 しゅっしん 者 しゃ (日本 にっぽん 国籍 こくせき 取得 しゅとく 者 しゃ も含 ふく む)の採用 さいよう は1人 ひとり までとされており、個人 こじん の出身 しゅっしん 地 ち により参加 さんか 機会 きかい が不 ふ 均等 きんとう になっている。
年寄 としより の国籍 こくせき 要件 ようけん
編集 へんしゅう
年寄 としより になるためには、日本 にっぽん 国籍 こくせき が必要 ひつよう である。運営上 うんえいじょう の閉鎖 へいさ 性 せい 問題 もんだい もあるが、これは日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい が文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 所轄 しょかつ の公益 こうえき 財団 ざいだん 法人 ほうじん であることが大 おお きい。外国 がいこく 出身 しゅっしん で役 やく 力士 りきし を務 つと める者 もの もおり、元 もと 高見山 たかみやま の12代 だい 東関 ひがしせき や第 だい 67代 だい 横綱 よこづな ・武蔵丸 むさしまる の15代 だい 武蔵川 むさしがわ など日本 にっぽん 国籍 こくせき を取得 しゅとく (帰化 きか )して相撲 すもう 協会 きょうかい に残 のこ る者 もの もいる。
その一方 いっぽう 、横綱 よこづな ・大関 おおぜき を務 つと めた力士 りきし が引退 いんたい 後 ご に角界 かくかい を離 はな れる場合 ばあい もあるが、その事情 じじょう は様々 さまざま である。第 だい 64代 だい 横綱 よこづな ・曙 あけぼの は日本 にっぽん 国籍 こくせき を取得 しゅとく 済 ず みで、引退 いんたい 時 じ に曙 あけぼの 親方 おやかた として東関 ひがしせき 部屋 へや の部屋 へや 付 つ きとなっている。年寄 としより 名跡 みょうせき の取得 しゅとく を希望 きぼう していたが、師匠 ししょう の12代 だい 東関 ひがしせき が金銭 きんせん 観念 かんねん の甘 あま さ[52] を見 み て経営 けいえい 者 しゃ の側面 そくめん もある部屋 へや 継承 けいしょう 者 しゃ として適格 てきかく と判断 はんだん しなかったという[53] 。第 だい 68代 だい 横綱 よこづな ・朝 あさ 青 あお 龍 りゅう は2010年 ねん 1月 がつ 16日 にち 未明 みめい に一般人 いっぱんじん に対 たい する暴行 ぼうこう 事件 じけん を起 お こしたため、同年 どうねん 2月 がつ 4日 にち に相撲 すもう 協会 きょうかい の引退 いんたい 勧告 かんこく に従 したが って引責 いんせき 引退 いんたい をしている。また元 もと 大関 おおぜき ・把 わ 瑠都 は角界 かくかい のしきたりや慣習 かんしゅう に馴染 なじ めず、引退 いんたい 後 ご も角界 かくかい に残 のこ る意向 いこう は無 な かったという[54] 。
日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい 主催 しゅさい の大相撲 おおずもう は土俵 どひょう 上 うえ への女性 じょせい の立 た ち入 い りを認 みと めていない。
2000年 ねん に大阪 おおさか 府 ふ 知事 ちじ に就任 しゅうにん した日本 にっぽん 初 はつ の女性 じょせい 都道府県 とどうふけん 知事 ちじ である太田 おおた 房江 ふさえ は春場所 はるばしょ の優勝 ゆうしょう 力士 りきし に大阪 おおさか 府知事 ふちじ 賞 しょう を直接 ちょくせつ 授与 じゅよ することを日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい 側 がわ に要求 ようきゅう したが、認 みと められなかった。
2007年 ねん 9月19日 にち (秋場所 あきばしょ 11日 にち 目 め )には観客 かんきゃく の40歳 さい 前後 ぜんこう の女性 じょせい が土俵 どひょう に乱入 らんにゅう する事件 じけん が発生 はっせい している。これに関 かん して日刊 にっかん スポーツは「約 やく 1400年 ねん の大相撲 おおずもう の歴史 れきし で初 はじ めて女人 にょにん 禁制 きんせい が破 やぶ られた」としている[55] 。日本 にっぽん 相撲 すもう 協会 きょうかい 側 がわ ではこれについて、この女性 じょせい が土俵 どひょう 内 ない には入 はい っていないため伝統 でんとう は破 やぶ られていないとしている[56] 。
2018年 ねん 4月 がつ 4日 にち 、巡業 じゅんぎょう 先 さき の舞鶴 まいづる 市 し で多々 たた 見 み 良三 りょうぞう 市長 しちょう が土俵 どひょう 上 じょう であいさつ中 ちゅう に倒 たお れ、救命 きゅうめい のため医療 いりょう 従事 じゅうじ 者 しゃ の女性 じょせい が土俵 どひょう に上 あ がったが、相撲 すもう 協会 きょうかい はこの女性 じょせい に対 たい して土俵 どひょう を降 お りるよう場内 じょうない アナウンスで促 うなが した[57] 。これについて八角 はっかく 理事 りじ 長 ちょう は「人命 じんめい にかかわる状況 じょうきょう には不適切 ふてきせつ な対応 たいおう でした」と謝罪 しゃざい している(「女性 じょせい は土俵 どひょう から降 お りてください」騒動 そうどう )[58] 。
この女人 にょにん 禁制 きんせい の風習 ふうしゅう は明治 めいじ 期 き の「違 たがえ 式 しき 詿違条例 じょうれい 」発令 はつれい と「神道 しんとう の穢 けが れ感 かん 」を利用 りよう し「虚構 きょこう の伝統 でんとう 」が創 つく られたとされる[59] 。
日本 にっぽん の相撲 すもう の歴史 れきし においては室町 むろまち 時代 ときよ から女 おんな 相撲 すもう も存在 そんざい しているが、団体 だんたい も違 ちが い、同 どう 一 いち 興行 こうぎょう も行 おこな われていない[59] 。1957年 ねん に大相撲 おおずもう の四国 しこく 巡業 じゅんぎょう において女 おんな 相撲 すもう の大関 おおぜき 若緑 わかみどり が勧進元 かんじんもと 挨拶 あいさつ をしたのは、第 だい 39代 だい 横綱 よこづな ・前田山 まえだやま と第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で相撲 すもう をやめてしまった若緑 わかみどり が懇意 こんい であったことからのはからいであった[60] [61] 。固辞 こじ する若緑 わかみどり に対 たい し、前田山 まえだやま は「責任 せきにん はとるから」と頼 たの み込 こ み、若緑 わかみどり は土俵 どひょう 上 じょう に立 た ったという[62] 。
志願 しがん 者 しゃ の減少 げんしょう と意識 いしき の変容 へんよう
編集 へんしゅう
近年 きんねん の日本 にっぽん では力士 りきし を志 こころざ す人数 にんずう は減少 げんしょう しており、2007年 ねん の名古屋 なごや 場所 ばしょ にて行 おこな われた新 しん 弟子 でし 検査 けんさ の受検 じゅけん 者 しゃ 数 すう は初 はじ めてゼロであった(2018年 ねん の名古屋 なごや 場所 ばしょ で二 に 度目 どめ の受検 じゅけん 者 しゃ ゼロ)[注 ちゅう 20] 。それと併 あわ せて、大学 だいがく 相撲 すもう 出身 しゅっしん 者 しゃ および外国 がいこく 人 じん による力士 りきし 数 すう の増加 ぞうか により、「宗教 しゅうきょう 色 しょく を帯 お びた伝統 でんとう 的 てき な儀式 ぎしき 」よりも「一般 いっぱん スポーツ競技 きょうぎ の一種 いっしゅ 」と捉 とら えている力士 りきし 数 すう が増 ふ えている。
相撲 すもう 茶屋 ちゃや 問題 もんだい
本場所 ほんばしょ の観戦 かんせん チケットの販売 はんばい は相撲 すもう 茶屋 ちゃや を前身 ぜんしん とする国技 こくぎ 館 かん サービス株式会社 かぶしきがいしゃ が行 おこな っているが、一部 いちぶ の常連 じょうれん 客 きゃく への優遇 ゆうぐう が根強 ねづよ く、一般 いっぱん の観客 かんきゃく の枡席 ますせき 券 けん 入手 にゅうしゅ は困難 こんなん な状況 じょうきょう が続 つづ いている。
観客 かんきゃく 席 せき での喫煙 きつえん
大相撲 おおずもう の公演 こうえん 中 ちゅう 、升席 ますせき では喫煙 きつえん が認 みと められていたが、健康 けんこう 増進 ぞうしん 法 ほう の施行 しこう に伴 ともな い、2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )1月 がつ 場所 ばしょ から全館 ぜんかん 禁煙 きんえん となった(室内 しつない スポーツの観覧席 かんらんせき で唯一 ゆいいつ タバコが吸 す えた場所 ばしょ が大相撲 おおずもう の升席 ますせき であったが、以前 いぜん から他 た の観客 かんきゃく や力士 りきし の健康 けんこう や防災 ぼうさい 面 めん からも異常 いじょう との指摘 してき も多 おお く、ようやく重 おも い腰 こし を上 あ げた形 かたち である)。そのため、升席 ますせき で使用 しよう していた灰皿 はいざら が相撲 すもう 博物館 はくぶつかん に寄贈 きぞう された。灰皿 はいざら は陶製 とうせい の物 もの であるが、木 き 枠 わく に入 はい っているなど特殊 とくしゅ な形状 けいじょう をしている。
座布団 ざぶとん 投 な げ
金星 かなぼし などの番狂 ばんくる わせがあった時 とき や横綱 よこづな が負 ま けた時 とき 、観客 かんきゃく が土俵 どひょう に向 む かって座布団 ざぶとん を投 な げる光景 こうけい が見 み られることがある。2008年 ねん 11月の大相撲 おおずもう 九州 きゅうしゅう 場所 ばしょ からは、座布団 ざぶとん 投 な げ自体 じたい を危険 きけん 行為 こうい とみなして厳 きび しく取 と り締 し まることになり、マス席 せき の座布団 ざぶとん は、これまでの1人 ひとり 用 よう の正方形 せいほうけい 4枚 まい から2人 ふたり 用 よう (縦 たて 1メートル25、横 よこ 50センチ)の座布団 ざぶとん 2枚 まい に変更 へんこう し、さらに2枚 まい をひもで結 むす んでつなげた形 かたち に変 か わった。これにより、1人 ひとり でも座布団 ざぶとん に座 すわ っていれば座布団 ざぶとん を投 な げられない仕組 しく みになった。しかし、重 おも さが2枚 まい 計 けい 4.8キロとなって投 な げられた場合 ばあい の危険 きけん 性 せい が増 ま したということで、同 どう 場所 ばしょ 以降 いこう は、座布団 ざぶとん 投 な げが確認 かくにん された場合 ばあい は警察 けいさつ に通報 つうほう するという厳罰 げんばつ 化 か がなされた(詳細 しょうさい は「座布団 ざぶとん の舞 まい 」の項 こう を参照 さんしょう )。
外資 がいし 系 けい 企業 きぎょう ・他国 たこく からの表彰 ひょうしょう
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外資 がいし 系 けい 企業 きぎょう
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1961年 ねん から1991年 ねん まで、パンアメリカン航空 こうくう 賞 しょう が優勝 ゆうしょう 力士 りきし に送 おく られていた。この贈呈 ぞうてい にはパンアメリカン航空 こうくう 極東 きょくとう 支配人 しはいにん のデビッド・ジョーンズ が、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特 どくとく のい回 いまわ しで始 はじ まる、方言 ほうげん なども取 と り入 い れた、ウィットに富 と んだ表彰状 ひょうしょうじょう の読 よ み上 あ げを行 おこな い、好評 こうひょう を博 はく していた。ジョーンズの注目 ちゅうもく 度 ど が非常 ひじょう に高 たか かったため、多 おお くの国々 くにぐに から友好 ゆうこう 杯 はい などの賞 しょう が増 ふ えるきっかけともなった。しかし、1991年 ねん 5月 がつ 場所 ばしょ を最後 さいご に同 どう 賞 しょう は廃 はい され(パンナム自体 じたい その約 やく 半年 はんとし 後 ご に倒産 とうさん )、ジョーンズも2005年 ねん 2月 がつ 2日 にち に逝去 せいきょ している。
フランス共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう 杯 はい ・日 にち 仏 ふつ 友好 ゆうこう 杯 はい
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「フランス共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう 杯 はい 」は、知 ち 日 び 派 は で大 だい の大相撲 おおずもう ファンと自他 じた ともに認 みと めていた第 だい 五 ご 共和 きょうわ 国 こく 第 だい 五 ご 代 だい 大統領 だいとうりょう ・ジャック・シラク が設 もう けた優勝 ゆうしょう 力士 りきし に対 たい する大統領 だいとうりょう 顕彰 けんしょう だったが、2007年 ねん 5月 がつ にニコラ・サルコジ が第 だい 六 ろく 代 だい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん すると、これをあっさりと廃止 はいし してしまった。シラクとの対比 たいひ を自己 じこ の選挙 せんきょ 戦 せん の推進 すいしん 力 りょく としていたサルコジは、「坊主 ぼうず 憎 にく けりゃ袈裟 けさ まで」の方便 ほうべん をあらゆる分野 ぶんや で繰 く り広 ひろ げた。その結果 けっか 、シラクが幕内 まくうち 力士 りきし の名 な を諳 そら んじるほどの相撲 すもう 通 どおり だったものとは正 せい 反対 はんたい に、サルコジは「あんなのは長 なが い髪 かみ を結 ゆ った太 ふと った男 おとこ たちがやる、決 けっ して美 うつく しいとは言 い えないスポーツにすぎません」 と大相撲 おおずもう を一方 いっぽう 的 てき にこき下 お ろすこととなり、これが事実 じじつ 上 じょう の選挙 せんきょ 公約 こうやく の一 ひと つにまでなってしまったためである。
2011年 ねん の名古屋 なごや 場所 ばしょ から「日 にち 仏 ふつ 友好 ゆうこう 杯 はい 」として復活 ふっかつ 。副賞 ふくしょう としてピエール・エルメ 監修 かんしゅう の黄金 おうごん マカロン (22個 こ )が贈呈 ぞうてい されるが、生菓子 なまがし という性質 せいしつ 上 じょう 、後日 ごじつ の受注 じゅちゅう 製造 せいぞう となっているため、本場所 ほんばしょ での表彰 ひょうしょう 式 しき では巨大 きょだい マカロンのオブジェが土俵 どひょう に登場 とうじょう している[63] [64] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう 杯 はい
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「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう 杯 はい 」は、前々 まえまえ から相撲 すもう に興味 きょうみ を持 も っていた、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 第 だい 四 よん 十 じゅう 五 ご 代 だい 大統領 だいとうりょう ・ドナルド・トランプ が令 れい 和 わ 元年 がんねん (2019年 ねん )五 ご 月 がつ 場所 ばしょ 観戦 かんせん 時 じ に設 もう けた優勝 ゆうしょう 力士 りきし に対 たい する大統領 だいとうりょう 顕彰 けんしょう のこと。朝 あさ 乃山 が受賞 じゅしょう した[65] 。なお、翌年 よくねん 以降 いこう も五 ご 月 がつ 場所 ばしょ の優勝 ゆうしょう 力士 りきし に贈呈 ぞうてい する予定 よてい となっている[66] 。
大相撲 おおずもう を主題 しゅだい とした作品 さくひん
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大相撲 おおずもう (データイースト 、1984年 ねん )
出世 しゅっせ 大相撲 おおずもう (テクノスジャパン (後 ご のアークシステムワークス (著作 ちょさく 権 けん 保有 ほゆう および発売 はつばい ))、1984年 ねん )
つっぱり大相撲 おおずもう (テクモ (後 ご のコーエーテクモゲームス )、1987年 ねん )
寺尾 てらお のどすこい大相撲 おおずもう (ジャレコ 、1989年 ねん )
SDバトル大相撲 おおずもう 平成 へいせい ヒーロー場所 ばしょ (バンプレスト (後 ご のバンダイナムコゲームス )、1990年 ねん )
千代 ちよ の富士 ふじ の大 だい 銀杏 いちょう (FACE 、1990年 ねん )
スーパー大相撲 おおずもう 熱戦 ねっせん 大 だい 一番 いちばん (ナムコ (後 ご のバンダイナムコゲームス)、1992年 ねん )
大相撲 おおずもう 魂 たましい (タカラ (後 ご のタカラトミー )、1992年 ねん )
つっぱり大相撲 おおずもう 平成 へいせい 版 ばん (テクモ (後 ご のコーエーテクモゲームス )、1992年 ねん )
つっぱり大相撲 おおずもう 立身出世 りっしんしゅっせ 編 へん (テクモ(後 ご のコーエーテクモゲームス)、1993年 ねん )
若貴 わかたか 大相撲 おおずもう 夢 ゆめ の兄弟 きょうだい 対決 たいけつ (イマジニア、1993年 ねん )
ああ播磨灘 はりまなだ (1993年 ねん )
横綱 よこづな 物語 ものがたり (KSS (後 ご のソフトガレージ )、1994年 ねん )
64大相撲 おおずもう (ボトムアップ、1997年 ねん )
64大相撲 おおずもう 2(ボトムアップ、1998年 ねん )
どすこい伝説 でんせつ (ケイエスエス、1999年 ねん )
日本 にっぽん 相撲 すもう 協會 きょうかい 公認 こうにん 日本 にっぽん 大相撲 おおずもう (コナミ 、2000年 ねん )
日本 にっぽん 相撲 すもう 協會 きょうかい 公認 こうにん 日本 にっぽん 大相撲 おおずもう 格闘 かくとう 編 へん (コナミ、2001年 ねん )
SIMPLE1500シリーズ Vol.58 THE すもう(D3パブリッシャー 、2001年 ねん )
日本 にっぽん 相撲 すもう 協會 きょうかい 公認 こうにん 日本 にっぽん 大相撲 おおずもう 激闘 げきとう 本場所 ほんばしょ 編 へん (コナミ、2002年 ねん )
つっぱり大相撲 おおずもう Wii部屋 へや (テクモ、2009年 ねん )
みんなで大相撲 おおずもう (Japan Internet Technologies、2011年 ねん )
大相撲 おおずもう カード決戦 けっせん (HINATA、2013年 ねん )
大相撲 おおずもう ごっつぁんバトル(HINATA開発 かいはつ 、バンダイナムコエンターテインメント配信 はいしん 、2017年 ねん )
現在 げんざい 刊行 かんこう 中 ちゅう
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かつて刊行 かんこう していた雑誌 ざっし
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「鬼 おに 無双 むそう シリーズ」「世界 せかい 最強 さいきょう の国技 こくぎ SUMOU」
ニコニコ動画 どうが における相撲 すもう の映像 えいぞう にロボットアニメ や対戦 たいせん 格闘 かくとう ゲーム のような派手 はで なエフェクトを入 い れたMADムービー で、単 たん に「SUMOU」と呼 よ ばれることもある。ニコニコ動画 どうが で再生 さいせい 数 すう の多 おお い人気 にんき 動画 どうが のひとつであり、2015年 ねん に開催 かいさい されたニコニコ超 ちょう 会議 かいぎ では、相撲 すもう 協会 きょうかい 協力 きょうりょく の下 しも 現役 げんえき の力士 りきし がリアルタイムでMADムービーを再現 さいげん する「リアルSUMOU」が開催 かいさい され[67] 、同年 どうねん のACC CM FESTIVALではインタラクティブ部門 ぶもん で”ACCゴールド”を受賞 じゅしょう した[68] 。2017年 ねん の超 ちょう 会議 かいぎ でも同様 どうよう のイベントが開催 かいさい された。
大相撲 おおずもう ファンの著名 ちょめい 人 じん
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^ ただし「番付 ばんづけ 外 がい 」や「新 しん 序 じょ 」も力士 りきし の経歴 けいれき を説明 せつめい する場合 ばあい は解 と かり易 やす くするために番付 ばんづけ の一種 いっしゅ として扱 あつか う。
^ 横綱 よこづな 対 たい 大関 おおぜき の対戦 たいせん カードや大関 おおぜき 対 たい 大関 おおぜき の対戦 たいせん カードを減 へ らして下位 かい の優勝 ゆうしょう 争 あらそ い力士 りきし と横綱 よこづな や大関 おおぜき との対戦 たいせん カードを組 く んでいる。
^ 横綱 よこづな ・大関 おおぜき のみ表記 ひょうき するが、二子山 ふたごやま 部屋 へや の貴乃花 たかのはな ,若乃花 わかのはな ,貴ノ浪 たかのなみ 、武蔵川 むさしがわ 部屋 へや の武蔵丸 むさしまる ,出島 でじま ,武双山 むそうやま ,雅 まさ 山 やま などで、表記 ひょうき した力士 りきし は、横綱 よこづな 対 たい 横綱 よこづな や横綱 よこづな 対 たい 大関 おおぜき の対戦 たいせん カードが他 た の力士 りきし に比 くら べて減 へ る事 こと になる。
^ 番付 ばんづけ 発表 はっぴょう 日 び から本場所 ほんばしょ 初日 しょにち 前日 ぜんじつ までの13日間 にちかん 、本場所 ほんばしょ 15日間 にちかん 、本場所 ほんばしょ 千秋楽 せんしゅうらく 翌日 よくじつ から本場所 ほんばしょ 千秋楽 せんしゅうらく の翌 よく 日曜日 にちようび までの7日間 にちかん (この間 あいだ は休 やす みとなり、休 やす み明 あ けから巡業 じゅんぎょう が始 はじ まる)の合計 ごうけい 。
^ ゆえに、勝 か ち越 こ しは給金 きゅうきん 直 なお し とも言 い われる。
^ ただし、現役 げんえき 力士 りきし の自動車 じどうしゃ 運転 うんてん は内規 ないき で禁止 きんし (運転 うんてん 免許 めんきょ の取得 しゅとく そのものは可 か )されているため、別 べつ に運転 うんてん 手 しゅ を確保 かくほ する必要 ひつよう がある。
^ ただし、紫 むらさき 馬簾 ばれん は関脇 せきわけ 以下 いか でも、横綱 よこづな の太刀持 たちも ち・露払 つゆはら いを務 つと める者 もの は例外 れいがい 的 てき に使用 しよう が可能 かのう 。また、大関 おおぜき を陥落 かんらく した者 もの も引 ひ き続 つづ き使 つか える。
^ 引退 いんたい 時 じ に大関 おおぜき から陥落 かんらく していた場合 ばあい であってもこの権利 けんり は維持 いじ される。
^ ただし、出世 しゅっせ が早 はや いなどの理由 りゆう で大 だい 銀杏 いちょう が結 ゆわ えない力士 りきし は務 つと められない。
^ 地位 ちい が上 あ がるほど人数 にんずう も増 ふ える。
^ 幕下 まくした 以下 いか の力士 りきし は、共同 きょうどう の部屋 へや で寝起 ねお きする。
^ 幕下 まくした 以下 いか の力士 りきし より遅 おそ い時間 じかん に稽古 けいこ 場 じょう に現 あらわ れることが多 おお い。
^ これらは一般 いっぱん に後援 こうえん 会 かい から寄贈 きぞう される事 こと が多 おお い。
^ 十両 じゅうりょう と幕内 まくうち は別 べつ に行 おこな われる。
^ 横綱 よこづな は3個 こ 、横綱 よこづな 以外 いがい は1個 いっこ 。陥落 かんらく した者 もの を含 ふく めて幕下 まくした 以下 いか では使 つか えない。
^ 幕下 まくした 上位 じょうい の取組 とりくみ の場合 ばあい で、進行 しんこう が早 はや い場合 ばあい は塩 しお を使用 しよう することがある。
^ 大 だい 銀杏 いちょう はあくまで「正装 せいそう 」であり、関取 せきとり でも稽古 けいこ の時 とき など、普段 ふだん 結 ゆ う髷 まげ は丁髷 ちょんまげ である。また、幕下 まくした 以下 いか の力士 りきし 養成 ようせい 員 いん でも本場所 ほんばしょ で十 じゅう 両 りょう 力士 りきし と対 たい する場合 ばあい や弓取 ゆみと り式 しき を行 おこな う者 もの 、初 しょ っ切 き り 、断髪 だんぱつ 式 しき の時 とき は大 だい 銀杏 いちょう が結 ゆわ える他 ほか 、床山 とこやま が練習 れんしゅう するために大 だい 銀杏 いちょう を結 ゆ うことはある。
^ 十両 じゅうりょう 経験 けいけん 者 しゃ であっても現在 げんざい の番付 ばんづけ が幕下 まくした 以下 いか の場合 ばあい は不可 ふか 。
^ また、幕内 まくうち 力士 りきし の場合 ばあい は納税 のうぜい 対策 たいさく として懸賞 けんしょう 金 きん の一部 いちぶ (2014年 ねん 5月 がつ 以降 いこう は26,700円 えん )が納税 のうぜい 充当 じゅうとう 金 きん として天引 てんび きされ、力士 りきし 本人 ほんにん の名義 めいぎ で協会 きょうかい がプールし、納税 のうぜい 額 がく に不足 ふそく が生 しょう じた時 とき はここから充当 じゅうとう されるようになっている。
^ 留意 りゅうい すべき事項 じこう として名古屋 なごや 場所 ばしょ の新 しん 弟子 でし 検査 けんさ の受検 じゅけん 者 しゃ 数 すう は例年 れいねん 少 すく なく、高校 こうこう ・大学 だいがく を中退 ちゅうたい して受検 じゅけん する者 もの が減少 げんしょう していることも一因 いちいん である。
風見 かざみ 明 あきら 『相撲 すもう 、国技 こくぎ となる』2002年 ねん 9月 がつ 大修館書店 たいしゅうかんしょてん ISBN 4-469-26502-0 競技 きょうぎ 場 じょう が「国技 こくぎ 館 かん 」と名付 なづ けられた経緯 けいい などが詳 くわ しく述 の べられている。
用語 ようご ・名鑑 めいかん
概論 がいろん ・制度 せいど ・伝統 でんとう
団体 だんたい ・施設 しせつ
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