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三段目 - Wikipedia

さんだん

大相撲おおずもうにおける番付ばんづけ名称めいしょう

さんだん(さんだんめ)は、大相撲おおずもう番付ばんづけうえ階級かいきゅうで、6つある番付ばんづけじょう階級かいきゅう幕内まくうちじゅうりょう幕下まくしたさんだんじょだん序ノ口じょのくち)のうちうえから4番目ばんめ階級かいきゅうとなる。

呼称こしょう由来ゆらい

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呼称こしょう由来ゆらいは、番付ばんづけひょううえから3つだんにそのくらい力士りきし四股しこめいかれることに由来ゆらいしている。

特徴とくちょう

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さんだん力士りきしともなれば、いわゆる「お相撲すもうさん」らしいしっかりした体格たいかくとなり入門にゅうもん当初とうしょくらべても見違みちがえるほどであるが[注釈ちゅうしゃく 1]さんだんからうえ目指めざすには体格たいかく素質そしつだけでなく、すぐれた運動うんどう能力のうりょく技量ぎりょうがさらに要求ようきゅうされるため、部屋へやでの稽古けいこはげしく、より実戦じっせんてきなものとなっていく。その意味いみでも、さんだんすぐれた成績せいせきつづけられるかを、将来しょうらい関取せきとり昇進しょうしんできる可能かのうせいがあるかの見極みきわめにもちいる部屋へやおお[注釈ちゅうしゃく 2]。「さんだん昇進しょうしんすることが目標もくひょう」という言葉ことば期待きたいうすな(ことを自覚じかくしている)しん弟子でしたとえとして使つかわれ、のちに20だい錣山となる寺尾てらおつね入門にゅうもん当初とうしょさんだん昇進しょうしん目標もくひょうであった[1]。そうでなくともあしやさない履物はきものけることから、角界かくかいには“雪駄せったくまで頑張がんばる”という言葉ことばがある[2]

幕下まくしたづけ出力しゅつりょくはつ土俵どひょう場所ばしょは、番付ばんづけ編成へんせいじょう幕下まくした在位ざいいしている力士りきし」となされ、とう場所ばしょ成績せいせきほんわり同等どうとうあつかわれる関係かんけいじょう幕下まくしたづけ地位ちい最下位さいかいかく(60まいかく)となっていた1966ねん5月から2000ねん9がつまでのあいだには、幕下まくした最下位さいかい格付かくづけはつ土俵どひょう場所ばしょしてはじめて番付ばんづけ四股しこめいった地位ちいさんだんというケースもあった[注釈ちゅうしゃく 3]。その2000ねん9がつから2023ねん9がつまでは幕下まくしたづけ地位ちいが10まいかく・15まいかくとなっていたが、2023ねん9がつ場所ばしょ終了しゅうりょう幕下まくしたづけ地位ちい最下位さいかいかく(60まいかく)にもどったため、今後こんごは1966ねん5がつから2000ねん9がつまでの時期じき同様どうよう幕下まくしたづけはつ土俵どひょう場所ばしょしてさんだんはじめて番付ばんづけ四股しこめいるというケースがこりる。なお幕下まくしたづけ地位ちいが10まいかく・15まいかくとなっていた時期じきふくめて、幕下まくしたづけ出力しゅつりょく番付ばんづけ四股しこめいったのち休場きゅうじょうもしくは成績せいせき不振ふしんによりさんだん以下いか陥落かんらくするケースもある。

パソコンや携帯けいたい電話でんわ、スマートフォンが普及ふきゅうした平成へいせい以降いこうでは、さんだん昇進しょうしんあるいはさんだん以上いじょう在位ざいいすることがそれらの所持しょじみとめられる基準きじゅんとなる。きんおうしゅう下位かい時代じだい当時とうじ部屋へやのルールでさんだん以上いじょうでないと携帯けいたい電話でんわ自転車じてんしゃ、パソコンの所持しょじゆるされなかったため、じょだん昇進しょうしんした2003ねん3がつ場所ばしょはそれらを目当めあてにみぎひざ脱臼だっきゅうして強行きょうこう出場しゅつじょうした[3]

待遇たいぐう
地位ちい 幕内まくうち横綱よこづな - 前頭まえがしら じゅうりょう 幕下まくした さんだん じょだん 序ノ口じょのくち
まげ だい銀杏いちょう 丁髷ちょんまげ
十両じゅうりょうとの対戦たいせんおよび弓取ゆみとりしき巡業じゅんぎょうちゅう初切しょっきり出演しゅつえん床山とこやま練習れんしゅうだい引退いんたい断髪だんぱつしきさいだい銀杏いちょう容認ようにん
ふく 紋付もんつき羽織はおりはかま 着物きもの羽織はおり外套がいとう襟巻えりまき着用ちゃくよう 着物きもの羽織はおり 着物きもの浴衣ゆかたもしくはウール)
おび 博多帯はかたおび ベンベルグ
かさ 番傘ばんがさじゃ目傘めがさ 洋傘ようがさ
履物はきもの 足袋たび雪駄せったたたみき) 足袋たび雪駄せった(エナメルせい 素足すあし雪駄せった(エナメルせい 素足すあし下駄げた
稽古けいこまわ 白色はくしょく木綿こわた 黒色こくしょく木綿こわた
まわ 博多織はかたおり繻子しゅすいろ事実じじつじょう自由じゆう 黒色こくしょく木綿こわた
がり まわしの共布ともぎれ ひも
足袋たびいろ しろ くろ
ひかえの敷物しきもの 私物しぶつ座布団ざぶとんいろ・デザインは自由じゆう 共用きょうよう座布団ざぶとんむらさき一色いっしょく たたみちょく幕下まくした上位じょういばんおよび十両じゅうりょうとの対戦たいせんじゅうりょうおな座布団ざぶとん
つきごとの収入しゅうにゅう 月額げつがく給与きゅうよ -
場所ばしょごとの収入しゅうにゅう 力士りきし褒賞ほうしょうきん 場所ばしょ手当てあて奨励しょうれいきん

さんだん地位ちいから雪駄せったくことがゆるされる。また、最高さいこうさんだん以上いじょうかつ日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい在籍ざいせき5ねん以上いじょう実績じっせきたしたまん20さい以上いじょうものには、「相撲すもう指導しどう適格てきかくしゃ認定にんてい講習こうしゅうかい受講じゅこう要件ようけんあたえられる(新規しんき講習こうしゅうかい平成へいせい20ねん最後さいごおこなわれず、平成へいせい24ねん講習こうしゅうかい自体じたい廃止はいしされた[4])。

取組とりくみ

本場所ほんばしょでは通常つうじょう15日間にちかんで7ばん相撲すもう[注釈ちゅうしゃく 4]

定員ていいん

定員ていいん東西とうざい90まいけい180にんである(2022ねん5がつ場所ばしょから)。ただしさんだんづけ力士りきしはこれにふくめない。

従来じゅうらい、1984ねん1がつ場所ばしょから2022ねん3がつ場所ばしょまでは、東西とうざい100まいけい200にんであったが、力士りきしすう減少げんしょうともない、2022ねん5がつ場所ばしょから東西とうざい90まいけい180にん削減さくげんされた[5]

それ以前いぜんさかのぼると、1967ねん5がつ場所ばしょ東西とうざい100まい200にん→1970ねん9がつ場所ばしょ東西とうざい80まい160にん→1976ねん5がつ場所ばしょ東西とうざい90まい180にん(→1984ねん1がつ場所ばしょ東西とうざい100まい200にん→2022ねん5がつ場所ばしょ東西とうざい90まい180にん)という変遷へんせんをたどっている。さらにそのまえまい場所ばしょ変動へんどうしていたが、戦後せんご最少さいしょう人数にんずうは1948ねん5がつ場所ばしょと1948ねん10がつ場所ばしょにおける43にんであり、東西とうざい枚数まいすうは1948ねん5がつ場所ばしょ東西とうざい21まい(さんだんかく番付ばんづけがい1にん)、1948ねん10がつ場所ばしょで22まい(22まい西にしのみ)となっていた。一方いっぽう史上しじょう最多さいた人数にんずうは1961ねん11月場所ばしょにおける239にん(枚数まいすうは120まい、120まいひがしのみ)となっている。

優勝ゆうしょう

優勝ゆうしょう賞金しょうきんは30まんえん

大相撲おおずもう本場所ほんばしょ幕下まくした以下いか取組とりくみではスイスしきトーナメント導入どうにゅうしている関係かんけいじょう[注釈ちゅうしゃく 5]、1984ねん1がつさんだん定員ていいんが200にんさだめられて以降いこうすべての場所ばしょで7せん全勝ぜんしょう力士りきしあらわれており、全勝ぜんしょう力士りきしが2にんあらわれて、千秋楽せんしゅうらく全勝ぜんしょう同士どうし優勝ゆうしょう決定けっていせんおこなわれる場所ばしょもしばしばである。さんだん全勝ぜんしょう力士りきし不在ふざいとなり、6しょう1はい同士どうし優勝ゆうしょう決定けっていせん発生はっせいしたケースは、幕下まくした以下いかほんわりが1場所ばしょ7ばんさだめられた1960ねん7がつ場所ばしょ以降いこう、3れい1964ねん9月場所ばしょ優勝ゆうしょうしゃわか北海ほっかい)・1970ねん11月場所ばしょおなじく青葉山あおばやま)・1974ねん1がつ場所ばしょおなじく弘乃ひろのうみ))しかない。

昇進しょうしん陥落かんらく要件ようけん

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さんだんかぎらず、「番付ばんづけもの」と俗称ぞくしょうされるように、成績せいせきよく場所ばしょ地位ちいとの関係かんけい一定いっていではない。平成へいせい以降いこう番付ばんづけ編成へんせい傾向けいこうをみると、以下いか成績せいせきげればよく場所ばしょ幕下まくした昇進しょうしん確実かくじつとされる。

  • 11まい以内いないで4しょう以上いじょう
  • 25まい以内いないで5しょう以上いじょう
  • 50まい以内いないで6しょう以上いじょう
  • 7せん全勝ぜんしょう番付ばんづけ優勝ゆうしょう有無うむわず無条件むじょうけん昇進しょうしん)。

さんだんには、はつ土俵どひょうから最速さいそく3場所ばしょ番付ばんづけがい序ノ口じょのくちじょだんかく1場所ばしょ)で昇進しょうしんすることが可能かのうである。

いずれも、2024ねん7がつ場所ばしょぜん時点じてん記録きろくである。

わかじょう宗彦むねひこ1993ねん3がつ場所ばしょ2001ねん9月場所ばしょ2002ねん11月場所ばしょ
唐津からつかい誠二せいじ2011ねん9月場所ばしょ2018ねん5月場所ばしょ、2019ねん3がつ場所ばしょ
優勝ゆうしょうともなわない7せん全勝ぜんしょうふくめると、唐津からつかい誠二せいじ4かい上述じょうじゅつ優勝ゆうしょう3かいくわえ、2016ねん3がつ場所ばしょ決定けっていせん敗退はいたい)が最多さいた。これにつづわかじょう宗彦むねひこ上述じょうじゅつ優勝ゆうしょう3かい)、川口かわぐち由貴ゆき1994ねん9月場所ばしょ1995ねん5月場所ばしょの2場所ばしょ決定けっていせん敗退はいたい、2002ねん5がつ場所ばしょ優勝ゆうしょう[注釈ちゅうしゃく 6])、きんふとしごうあきらただし2012ねん1がつ場所ばしょ2016ねん5月場所ばしょの2場所ばしょ優勝ゆうしょう2021とし5がつ場所ばしょ決定けっていせん敗退はいたい)も3かい

さんだんまで陥落かんらくしたもとさんやく

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さんだんかく行司ぎょうじさんだん呼出よびだし

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行司ぎょうじ呼出よびだし共通きょうつう事項じこう

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行司ぎょうじ呼出よびだしのうち、さんだん相当そうとうする階級かいきゅうものさんだんかく行司ぎょうじさんだん呼出よびだしぶ。本場所ほんばしょほんわりでは1にち取組とりくみなかで、1人ひとりにつき、12にちまでは6ばん前後ぜんこう、13にち以降いこうは4ばんまたは3ばん前後ぜんこう担当たんとうする(さばく・げる)が、取組とりくみすうによって担当たんとうばんすう増減ぞうげんすることがある。さんだん取組とりくみ担当たんとうするほか、行司ぎょうじ呼出よびだし人数にんずう取組とりくみばんすう関係かんけいで、下位かいものじょだん取組とりくみ担当たんとうすることがあるが、ぎゃくじょだんかく行司ぎょうじじょだん呼出よびだし上位じょういしゃさんだん取組とりくみ担当たんとうする場合ばあいもある。またさんだん優勝ゆうしょう決定けっていせんさんだんかく行司ぎょうじさんだん呼出よびだしつとめる。

さんだんかく行司ぎょうじさんだん呼出よびだし以下いかは、定員ていいんさだまっておらず、人数にんずう状況じょうきょうにより変動へんどうするが、幕内まくうちかく行司ぎょうじ幕内まくうち呼出よびだし幕下まくしたかく行司ぎょうじ幕下まくした呼出よびだしくらべると、1つの地位ちい人数にんずうすくない傾向けいこうになる。

さんだんかく行司ぎょうじ

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さんだんかく以下いか行司ぎょうじは、十両じゅうりょうかく以上いじょう行司ぎょうじびととなる。さんだんかく行司ぎょうじ装束しょうぞくきくつづり軍配ぐんばいぼうひもいろは、あお実際じっさいには緑色みどりいろ)またはくろとなっており(実際じっさいには現時点げんじてんでは現役げんえき全員ぜんいんあお緑色みどりいろ)を使用しよう)、裸足はだし土俵どひょうがる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 相撲すもう診療しんりょうしょ医師いしであるはやしみつるろくは、著書ちょしょ相撲すもう診療しんりょうしょ医師いし力士りきしたちのしんわざからだ 』(法研ほうけん、1996ねん12がつ)のなかで、「幕内まくうちから序ノ口じょのくちまでの力士りきしなかで、もっとからだ脂肪しぼうりつたかいのがさんだん力士りきしである」とあきらかにした。
  2. ^ 中島なかじま隆信たかのぶ大相撲おおずもう経済けいざいがく』(東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、2003ねん9がつ)では、前掲ぜんけいはやし医師いしのデータを分析ぶんせきし、「さんだん出世しゅっせかれ」とく。さんだん将来しょうらい関取せきとり昇進しょうしんできる見込みこみのすくない力士りきし滞留たいりゅうする地位ちいであるとしている。
  3. ^ 1974ねん3がつ場所ばしょ野村のむらそういち関脇せきわけ出羽でわはな)・1985ねん3がつ場所ばしょ小林こばやしさん秀昭ひであき小結こむすび両国りょうこく)など8れい
  4. ^ 初日しょにちから12にちまでは2にちごとに1ばんまれ、最後さいごの3日間にちかんあいだに7番目ばんめまれる。
  5. ^ どう部屋へや力士りきしあいだ親族しんぞく関係かんけいなど、厳密げんみつ規定きてい無視むしすると、スイスしきトーナメントでは出場しゅつじょう力士りきし128めいちゅう1めい必然ひつぜんてきに7連勝れんしょうとなる。
  6. ^ 川口かわぐちとう場所ばしょ直後ちょくご番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ期間きかんちゅう)に引退いんたいしたため、番付ばんづけ在位ざいいした最終さいしゅう場所ばしょかくだん優勝ゆうしょうという、非常ひじょうめずらしい経歴けいれきのこした。

出典しゅってん

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  1. ^ Sports Graphic Number (文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)2019ねん2がつ28にちごう p44
  2. ^ 週刊しゅうかんポスト2018ねん3がつ23・30にちごう
  3. ^ わかしゅころ地獄じごくでした…」きんおうしゅうはなぜスピード出世しゅっせできたのか?(2/3ページ)web Sportiva 2019.07.14(2019ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  4. ^ 夏期かき相撲すもう大会たいかいとう催事さいじについてー平成へいせい24ねん
  5. ^ さんだんを90まいまで削減さくげんへ 力士りきしすう減少げんしょう 産経新聞さんけいしんぶん 2022ねん3がつ31にち

関連かんれん項目こうもく

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