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大岡忠英 - Wikipedia

大岡おおおか忠英ただひで

江戸えど時代じだい武士ぶし

大岡おおおか 忠英ただひで(おおおか ただふさ、慶安けいあん3ねん1650ねん) - 元禄げんろく9ねん2がつ5にち1696ねん3月8にち))は、江戸えど時代じだい前期ぜんき旗本はたもと旗本はたもと大岡おおおかたすく渡守わたしもりただししゅ次男じなん大岡おおおか忠相ただすけ従兄じゅうけいにあたる。大番おおばん通称つうしょう三之さんのすすむ左衛門さえもんつま高田たかだしょうみぎ衛門えもん政信まさのぶむすめ

大目おおめづけつとめた旗本はたもと大岡おおおかただししゅ次男じなんとしてまれた。寛文ひろふみ7ねん1667ねん)に書院しょいんばんとなり、寛文ひろふみ9ねん1669ねん)に300ひょうたまわる。天和てんわ2ねん1682ねん)にちち蔵米くらまい500ひょう分与ぶんよされ、さきの300ひょうおさむおおやけとなる。元禄げんろく9ねん1696ねん)、きゅう島原しまばらはんあるじ高力こうりきたかしちょう上役うわやくであっただい番頭ばんがしら高力こうりき忠弘ただひろ養子ようしねがいにうかがい、屋敷やしきない口論こうろんすえ忠弘ただひろ殺害さつがいして自刃じじん[1]いえ断絶だんぜつとなった。享年きょうねん46。この事件じけんにより、大岡おおおか忠相ただすけ一族いちぞく連座れんざして閉門へいもん処分しょぶんとなった。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』には、高力こうりき家臣かしん斬殺ざんさつされたとある。

参考さんこう文献ぶんけん

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