大岡おおおか 忠英ただひで(おおおか ただふさ、慶安けいあん3年ねん(1650年ねん) - 元禄げんろく9年ねん2月がつ5日にち(1696年ねん3月8日にち))は、江戸えど時代じだい前期ぜんきの旗本はたもと。旗本はたもと・大岡おおおか佐たすく渡守わたしもり忠ただし種しゅの次男じなん。大岡おおおか忠相ただすけの従兄じゅうけいにあたる。大番おおばん士し。通称つうしょうは三之さんの丞すすむ。五ご左衛門さえもん。妻つまは高田たかだ庄しょう右みぎ衛門えもん政信まさのぶの娘むすめ。
大目おおめ付づけを務つとめた旗本はたもとの大岡おおおか忠ただし種しゅの次男じなんとして生うまれた。寛文ひろふみ7年ねん(1667年ねん)に書院しょいん番ばんとなり、寛文ひろふみ9年ねん(1669年ねん)に300俵ひょうを賜たまわる。天和てんわ2年ねん(1682年ねん)に父ちちの蔵米くらまい500俵ひょうを分与ぶんよされ、先さきの300俵ひょうは収おさむ公おおやけとなる。元禄げんろく9年ねん(1696年ねん)、旧きゅう島原しまばら藩はん主あるじ高力こうりき隆たかし長ちょうの子こで上役うわやくであった大だい番頭ばんがしらの高力こうりき忠弘ただひろに養子ようし願ねがいに伺うかがい、屋敷やしき内ないで口論こうろんの末すえに忠弘ただひろを殺害さつがいして自刃じじんし[1]お家いえ断絶だんぜつとなった。享年きょうねん46。この事件じけんにより、大岡おおおか忠相ただすけら一族いちぞくは連座れんざして閉門へいもん処分しょぶんとなった。