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関東郡代 - Wikipedia

関東かんとうぐんだい

日本にっぽん江戸えど幕府ばくふ役職やくしょく

関東かんとうぐんだい(かんとうぐんだい)は、徳川とくがわ幕府ばくふ設置せっちした役職やくしょく。2設置せっちされた。

1792ねん寛政かんせい4ねん3がつ)より、1806ねん文化ぶんか3ねん)まで設置せっち部下ぶか以降いこう馬喰ばくろまち御用ごよう屋敷やしきつめ代官だいかんとして勤務きんむ

1864ねん元治もとはる元年がんねん11月)より、1867ねん慶応けいおう3ねん2がつ5にち)まで設置せっち関東かんとう在方ざいかたかけになる。

また、江戸えど時代じだいとおして関東かんとう代官だいかんあたま4いえのうちの一家いっかであった伊奈いなしょうした。

概要がいよう

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関東かんとう代官だいかんあたま

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天正てんしょう18ねん(1590ねん)に、伊奈いな忠次ただつぐ長谷川はせがわちょうつな彦坂ひこさか元正がんしょう大久保おおくぼ長安ながやすの4めい代官だいかんあたま俗称ぞくしょう)としてめいじられた。勘定かんじょう奉行ぶぎょう配下はいか

伊奈いなの「関東かんとう代官だいかん

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関東かんとう代官だいかんあたま伊奈いなは、せきはちしゅう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうやく30まんせき管轄かんかつする。行政ぎょうせい裁判さいばん年貢ねんぐ徴収ちょうしゅうなども仕切しきり、警察けいさつけん統括とうかつしていた。また将軍しょうぐん鷹狩たかがりをするためのたかじょう管理かんりおこなっている。

陣屋じんやははじめ武蔵むさしこく小室こむろげん埼玉さいたまけん北足立きたあだちぐん伊奈いなまち)の小室こむろ陣屋じんや。のち1629ねん寛永かんえい6ねん)に同国どうこく赤山あかやまげん埼玉さいたまけん川口かわぐち)のあか山城やましろへとうつされた。さらに武蔵むさしこく小菅こすがげん東京とうきょう葛飾かつしか小菅こすが)にも陣屋じんやがあり、家臣かしん代官だいかん配置はいちしていた。

徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入府にゅうふさい伊奈いな忠次ただつぐ関東かんとう代官だいかんあたまにんじたことにはじまり、その12だい200年間ねんかんにわたって伊奈いな関東かんとう代官だいかんあたま地位ちい世襲せしゅうした。1692ねん元禄げんろく5ねん飛騨ひだ高山たかやまはん領地りょうち幕府ばくふりょうとなったさいには6だい忠篤ただあつ飛騨ひだぐんだい一時いちじてき兼務けんむした。7だい忠順ただまさ富士山ふじさん宝永ほうえいだい噴火ふんかさいすな除川よけがわ奉行ぶぎょうにんじられた。

本来ほんらい関東かんとう代官だいかんあたま勘定かんじょう奉行ぶぎょう支配しはいにあった。しかし、8だいちゅうだいとおる年間ねんかんにはたかじょう支配しはい公金こうきん貸付かしつけ中心ちゅうしんとした「かけ用向ようむき」の地位ちいき、1733ねんとおる18ねん)には勘定かんじょう吟味ぎんみやく兼任けんにんしており、関東かんとう代官だいかんあたま老中ろうじゅう直属ちょくぞく支配しはいはいることになった。

さらに12だいちゅうみこと1785ねん天明てんめい5ねん)には奥向おくむき御用ごよう兼帯けんたいとなり、その2ねんには小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらかくとなるなど、郡代ぐんだい代官だいかんとは別格べっかく地位ちいきずいた。伊奈いなの「関東かんとうぐんだい自称じしょうもこうした特殊とくしゅ地位ちい背景はいけいにあったとかんがえられている。しかしこのころ伊奈いな当主とうしゅ地位ちいめぐいえ騒動そうどうき、讒言ざんげんによって1792ねん寛政かんせい4ねん)3がつちゅうみこと関東かんとう代官だいかんあたま罷免ひめん改易かいえきされてしまった。

寛政かんせい-文化ぶんかの「関東かんとうぐんだい

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1792ねん寛政かんせい4ねん)3がつ伊奈いな改易かいえきによってその強大きょうだい権限けんげん分割ぶんかつされた。まず、地方ちほう支配しはい勘定かんじょうしょ管轄かんかつとされ、後任こうにん関東かんとう代官だいかんとなった大貫おおぬきひかりゆたか篠山しのやま景義かげよしかけ用向ようむき職務しょくむ担当たんとうしたが、同月どうげつには勘定かんじょう奉行ぶぎょう久世くぜひろみん兼任けんにん関東かんとうぐんだいしょく設置せっちされた。関東かんとうぐんだいしたさき関東かんとう代官だいかん任命にんめいされた2めいくわえて3めい追加ついかされて5にん体制たいせい関東かんとう郡代ぐんだいづけ代官だいかんとなり郡代ぐんだい補佐ほさした。また、伊奈いなから接収せっしゅうした馬喰ばくろまち代官だいかん屋敷やしき郡代ぐんだい屋敷やしきあらためてかけ用向ようむきあつか鷹野たかの役所やくしょたかじょう支配しはい)と関東かんとう郡代ぐんだいづけ貸付かしつけかた役所やくしょ公金こうきん貸付かしつけ)を屋敷やしきない併設へいせつした。屋敷やしきには関東かんとう郡代ぐんだいづけ代官だいかんめて地方ちほう支配しはい鷹野たかの役所やくしょ関東かんとう郡代ぐんだいづけ貸付かしつけかた役所やくしょ職務しょくむおこなった。その、1797ねん寛政かんせい9ねん)に久世くぜ転任てんにんすると、あたらしく勘定かんじょう奉行ぶぎょうとなった中川なかがわ忠英ただひで関東かんとう郡代ぐんだいねた。ところが、1806ねん文化ぶんか3ねん)に中川なかがわ転任てんにんすると関東かんとうぐんだい設置せっちされず、同年どうねん火災かさい郡代ぐんだい屋敷やしき焼失しょうしつしたこともあってそのまま廃止はいしされた。同年どうねん郡代ぐんだい屋敷やしき跡地あとち馬喰ばくろまち御用ごよう屋敷やしき設置せっちされ、もと関東かんとう郡代ぐんだいづけ代官だいかん定員ていいんを3めいらしたうえ馬喰ばくろまち御用ごよう屋敷やしきつめ代官だいかんとして従来じゅうらい同様どうよう職務しょくむおこなっている。

幕末ばくまつの「関東かんとうぐんだい

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関東かんとうぐんだい廃止はいしせきはちしゅうまわりやく関東かんとう取締とりしまりやくなどを設置せっちして対応たいおうしようとしたが、幕末ばくまつ不穏ふおん社会しゃかい情勢じょうせい対応たいおうするのには不十分ふじゅうぶんであった。文久ぶんきゅう改革かいかく以後いご関東かんとう支配しはいなおさく議論ぎろんおこなわれていたが、1864ねん元治もとはる元年がんねん)の天狗てんぐとうらんによって関東かんとう地方ちほう中心ちゅうしん戦場せんじょうとなったことが幕府ばくふ衝撃しょうげきあたえた。同年どうねん11がつ関東かんとうぐんだいふたた設置せっちされた。関東かんとうぐんだい定員ていいんは4めいせきはちしゅうのうち2かこくずつを管轄かんかつ支配しはいした。原則げんそくとして現地げんち陣屋じんやにて職務しょくむおこなうため、以前いぜんのように勘定かんじょう奉行ぶぎょうとの兼務けんむられなかった。また、管轄かんかつするくにかんしては幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう以外いがいはた本領ほんりょう寺社じしゃりょうなどにたいしても訴訟そしょう治安ちあん維持いじかんする権限けんげん行使こうしすることが可能かのうであり、さら新田にった開発かいはつ治水ちすい灌漑かんがい酒造しゅぞう制限せいげん生糸きいと改印かいいんなどの民政みんせい経済けいざい政策せいさくかんする権限けんげんつよかった。関東かんとうぐんだいしたには組頭くみがしら以下いか属僚ぞくりょう設置せっちされ、さらに8めいいた関東かんとう代官だいかんすべ郡代ぐんだいづけとされた。将来しょうらい関東かんとう代官だいかん廃止はいしして関東かんとうぐんだいによる関東かんとう地方ちほう広域こういき直接ちょくせつ支配しはい意図いとしていたとみられているが、設置せっち当初とうしょから定員ていいん1めいき、その人事じんじ異動いどう将軍しょうぐん上洛じょうらく御供ごくうなどによって4めい全員ぜんいん現地げんち職務しょくむにあたることはなかった。そのため1867ねん慶応けいおう3ねん)1がつ26にちあらためてせきはちしゅう二分にぶん関東かんとう在方ざいかたかけ設置せっち関東かんとうぐんだいであった木村きむら勝教かつのり河津かわづゆうくに横滑よこすべりさせた。同年どうねん2がつ5にち関東かんとうぐんだい正式せいしき廃止はいしされた。

関東かんとうぐんだい一覧いちらん

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関東かんとう代官だいかん伊奈いな

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  1. 伊奈いな忠次ただつぐ(1590ねん - 1610ねん)(関東かんとう代官だいかんあたま
  2. 伊奈いな忠政ただまさ(1610ねん - 1618ねん)(関東かんとう代官だいかんあたま
  3. 伊奈いな忠治ただはる(1618ねん - 1653ねん
  4. 伊奈いな忠克ただかつ(1653ねん - 1665ねん
  5. 伊奈いな忠常ただつね(1666ねん - 1680ねん
  6. 伊奈いな忠篤ただあつ(1680ねん - 1697ねん)(飛騨ひだ郡代ぐんだい兼務けんむ
  7. 伊奈いな忠順ただまさ(1697ねん - 1712ねん
  8. 伊奈いなただし(1712ねん - 1750ねん)(勘定かんじょう吟味ぎんみやく兼務けんむ
  9. 伊奈いなただしたつ(1750ねん - 1754ねん
  10. 伊奈いなただしなだめ(1754ねん - 1769ねん)(勘定かんじょう奉行ぶぎょう兼務けんむ
  11. 伊奈いな忠敬ちゅうけい(1769ねん - 1778ねん
  12. 伊奈いなただしみこと(1778ねん - 1792ねん

寛政かんせい-文化ぶんか

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  1. 久世くぜひろみん(1792ねん - 1797ねん
  2. 中川なかがわ忠英ただひで(1797ねん - 1820ねん)(こののち廃止はいし

幕末ばくまつ

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  1. 花房はなぶさしょく(1864ねん)(定員ていいん4めい
  2. 松平まつだいら正之まさゆき(1864ねん - 1865ねん
  3. 杉浦すぎうらただしいん(1864ねん - 1865ねん
  4. やぶ忠良ただよし(1865ねん
  5. 小出こいでゆうつね(1865ねん
  6. 木村きむら勝教かつのり(1865ねん - 1867ねん
  7. 根岸ねぎしまもる(1865ねん - 1866ねん
  8. 井上いのうえきよしただし(1866ねん
  9. 小栗おぐりまさしやすし(1866ねん - 1867ねん
  10. 河津かわづゆうくに(1866ねん - 1867ねん

郡代ぐんだい屋敷やしきあと

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江戸えど時代じだい初期しょき関東かんとうぐんだい伊奈いな郡代ぐんだい屋敷やしき跡地あとちは、現在げんざい東京とうきょう拘置こうちしょになっている。柳原やなぎはら土手どてげん柳原やぎわらどおり)に移転いてん関東かんとう郡代ぐんだい屋敷やしき跡地あとちには中央ちゅうおう教育きょういく委員いいんかいによる「郡代ぐんだい屋敷やしきあと」の標識ひょうしきてられている(東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばし馬喰ばくろまち2丁目ちょうめ7−2、ひがし日本橋にほんばし交番こうばんよこ)[1]。1806ねん焼失しょうしつ馬喰ばくろまち御用ごよう屋敷やしきとなった以降いこう郡代ぐんだい屋敷やしき通称つうしょうされた。郡代ぐんだい屋敷やしき周辺しゅうへんには地方ちほうから出頭しゅっとうするもののための宿泊しゅくはくしょ御用ごよう宿やど公事こうじ宿やど)が多数たすうでき[2]郡代ぐんだい廃止はいし幕末ばくまつ明治めいじにかけては浜町はまちょう蠣殻まちしば神明しんめい境内けいだいなどとなら売春ばいしゅんくつとしてもられたが、警察けいさつにより大正たいしょう5ねん(1916ねん)に一掃いっそうされた[3]

かつては、伊奈いなによって世襲せしゅうされたせきはちしゅう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう民治たみじつかさど地方ちほうかんであるとかんがえられていたが、近年きんねん研究けんきゅうによって、伊奈いな実際じっさい任命にんめいされていたのは「代官だいかんあたま(関東かんとう代官だいかんあたま)」であり、江戸えど幕府ばくふにおける関東かんとうぐんだい職制しょくせい伊奈いな改易かいえき対応たいおうして設置せっちされたものであること、伊奈いなの「関東かんとうぐんだい」は実際じっさいには3だい伊奈いな忠治ただはる以後いご伊奈いな宗家そうけ当主とうしゅわたししょうしていたものにぎず、伊奈いな宗家そうけ断絶だんぜつ再建さいけん運動うんどう過程かていであたかも伊奈いな断絶だんぜつ以前いぜんから関東かんとうぐんだい職制しょくせい存在そんざいしたかのように創作そうさくされた可能かのうせいたか[4]とする見方みかた有力ゆうりょくされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 郡代ぐんだい屋敷やしきあと VIVA-EDO
  2. ^ 日本にっぽんがくだい 17 ごう名著めいちょ刊行かんこうかい, 1991, p55
  3. ^ くわちゅう永井ながい荷風かふう青空あおぞら文庫ぶんこ
  4. ^ 太田おおた尚宏なおひろ「『関東かんとうぐんだい』の呼称こしょう職制しょくせい幕府ばくふ代官だいかん伊奈いな支配しはい構造こうぞう解明かいめい前提ぜんていとして―」(所収しょしゅう:『徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだい34ごう、2000ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 三野みの行徳ぎょうとく関東かんとうぐんだい」(『江戸えど幕府ばくふだい事典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2009ねんISBN 978-4-642-01452-6
  • 村上むらかみただし、「徳川とくがわ関東かんとう入国にゅうこく川崎かわさき市域しいき-7-」、かわさき図書館としょかんだより だい8ごう、2005ねん

関連かんれん項目こうもく

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