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熊野那智大社 - Wikipedia

熊野くまの那智なち大社たいしゃ

日本にっぽん和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろぐん那智勝浦なちかつうらまちにある神社じんじゃ

熊野くまの那智なち大社たいしゃ(くまのなちたいしゃ)は、和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろぐん那智勝浦なちかつうらまち那智山なちさんにある神社じんじゃ熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃともに、熊野くまの三山さんざん構成こうせいする。熊野くまのおっと須美すみ大神だいじん主祭しゅさいしんとする。かつては那智なち神社じんじゃ熊野くまのおっと須美すみ神社じんじゃ熊野くまの那智なち神社じんじゃなどと名乗なのっていた。また熊野くまのじゅうしょ権現ごんげんじゅうさんしょ権現ごんげん那智山なちさん権現ごんげんともいう。きゅう社格しゃかくかんぬさ中社なかやしろで、現在げんざい神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃ

熊野くまの那智なち大社たいしゃ
熊野那智大社拝殿
拝殿はいでん
所在地しょざいち 和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろぐん那智勝浦なちかつうらまち那智山なちさん1
位置いち 北緯ほくい3340ふん7.4びょう 東経とうけい13553ふん24.6びょう / 北緯ほくい33.668722 東経とうけい135.890167 / 33.668722; 135.890167座標ざひょう: 北緯ほくい3340ふん7.4びょう 東経とうけい13553ふん24.6びょう / 北緯ほくい33.668722 東経とうけい135.890167 / 33.668722; 135.890167
主祭しゅさいしん 熊野くまのおっと須美すみ大神だいじん
社格しゃかくひとし きゅうかんぬさ中社なかやしろ別表べっぴょう神社じんじゃ
創建そうけん つて仁徳天皇にんとくてんのう5ねん
本殿ほんでん様式ようしき 切妻きりづまづくりだいいち殿どのだい殿どのだいさん殿どのだいよん殿どのだい殿どの)、はちあいだしゃ流造ながれづくりだいろく殿どの
札所ふだしょとう 神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい3ばん和歌山わかやまだい3ばん
例祭れいさい 7がつ14にちおうぎさい那智なち火祭ひまつり)
地図ちず
熊野 那智大社の位置(和歌山県内)
熊野 那智大社
熊野くまの
那智なち大社たいしゃ
地図
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鳥居とりい
境内けいだい風景ふうけい

熊野くまの那智なち大社たいしゃ社殿しゃでんおよび境内けいだいは、ユネスコ世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう』(2004ねん平成へいせい16ねん〉7がつ登録とうろく)の構成こうせい資産しさん一部いちぶ[1]

熊野くまの三山さんざん成立せいりつまで

編集へんしゅう

熊野くまの権現ごんげん金剛こんごう蔵王ざおう宝殿ほうでんづくりこう日記にっき』によれば孝昭たかあき天皇てんのうころインドから渡来とらいしたはだかがた上人しょうにんじゅうしょ権現ごんげんまつったとされ、また『熊野くまの略記りゃっき』では仁徳天皇にんとくてんのうころ鎮座ちんざしたともつたえられるが、創成そうせい詳細しょうさい不明ふめい熊野くまの那智なち大社たいしゃ熊野くまの三山さんざんなかでも熊野くまのすわ神社じんじゃ本宮ほんぐう)・熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ新宮しんぐう)のしゃとはことなり、山中さんちゅう那智滝なちだき神聖しんせいする原始げんし信仰しんこうはじまるため、社殿しゃでん創建そうけんされたのはしゃよりもである。当初とうしょ那智滝なちだき正面しょうめんにあるげんたき神社じんじゃ社殿しゃでんがあった。

一説いっせつには、那智山なちさんおくにある妙法山みょうほうさんのぼるための禊祓みそぎはらいだった那智滝なちだき聖地せいちし、おっと須美すみしん勧請かんじょうされて当社とうしゃ滝本たきもと創建そうけんされたともいう。

祭神さいじん熊野くまのおっと須美すみ大神だいじんであるがことかいおとこいのちことかい男神おかみ)とするせつがある。その熊野くまのおっと須美すみ大神だいじんよこしま美神びしんとされるが、熊野くまのひさ須毘いのちとするせつもある。[2]

仁徳天皇にんとくてんのう5ねん317ねん)に社殿しゃでん現在地げんざいち移転いてんされたとされる。

大同だいどう元年がんねん806ねん)の『しんしょうかくみことのりしょう』には天平てんぺい神護かんご2ねん766ねん熊野くまの速玉はやたま男神おかみ新宮しんぐう主神しゅしん)とともに熊野くまの牟須美神びしん記述きじゅつがあり、それぞれかみふうが4あてられている。しかし、そのさだかん元年がんねん859ねん)1がつ27にち同年どうねん5がつ28にちさだかん5ねん863ねん)3がつ2にち速玉はやたましんすわかみ本宮ほんぐう主神しゅしん)がしたがえじょうのぼりかいしたことかんする『日本にっぽんさんだい実録じつろく』の記事きじに牟須美神びしん(ないしおっと須美すみしん)の記述きじゅつがない。延長えんちょう5ねん927ねん延喜えんぎしきかみめいちょう牟婁むろぐん6座中ざちゅうにも熊野くまの速玉はやたま神社じんじゃ熊野くまのすわ神社じんじゃしゃのみがかれている。

一方いっぽう永観えいかん2ねん984ねん)の『三宝さんぼう絵詞えことば』では熊野くまの両所りょうしょとして速玉はやたましんとともに当社とうしゃ主神しゅしんおっと須美すみしんげている。本宮ほんぐう新宮しんぐうあわせて熊野くまの三山さんざんとする記述きじゅつえいたもつ3ねん1083ねん)9がつ4にちの『熊野くまの本宮ほんぐう別当べっとう三綱さんこう大衆たいしゅうとうかい』がもっとはやく、これまでにはさんやま共通きょうつうさんしょ権現ごんげんまつ神社じんじゃとして成立せいりつしていたとかんがえられる。また『ちゅう右記うき』のてんひとし2ねん1109ねん)10がつ27にちじょう藤原ふじわら宗忠むねただらの参拝さんぱい記録きろくから、このころまでに現在げんざい社地しゃちに遷祀されていたとされる。

那智なち一山ひとやま組織そしき

編集へんしゅう

那智なち一山ひとやま組織そしき平安へいあん時代じだい末期まっき形成けいせいしたとかんがえられるが当時とうじ史料しりょうのこされていない。近世きんせい後期こうき編纂へんさんされた『紀伊きいぞく風土記ふどき』などによれば、那智山なちさんには禰宜ねぎ神主かんぬしなどの神職しんしょく存在そんざいせず、那智山なちさん隣接りんせつしている如意にょいどうげんあおきしわたるてら)と神仏しんぶつ習合しゅうごうして一体化いったいかし、その全員ぜんいんしゃそうという修験しゅげんしゃいたる霊場れいじょうとなっていた。中世ちゅうせいはいり、熊野くまの三山さんざん管理かんりする京都きょうと熊野くまの三山さんざん検校けんぎょうした那智なち一山ひとやま管理かんり組織そしき那智なち執行しっこう滝本たきもと執行しっこう宿老しゅくろう在庁ざいちょうにもとづく合議ごうぎ制度せいど)が整備せいびされた。近世きんせいはいしゃそうひがし西にしけられたが、りょうにはそれぞれひがし長官ちょうかん西にし長官ちょうかんかれ、執行しっこうばれつつ一山ひとやま管理かんりした。またりょうしたには10にん構成こうせいする宿老しゅくろうをはじめ、12にんこう誦、75にん衆徒しゅと、66にんたきしゅう、85にん行人こうじん、12にん如法にょほう道場どうじょう役人やくにんと7にんこく本願ほんがん)などがいて組織そしき構成こうせいした。

紀伊きいぞく風土記ふどき』によると、近世きんせいのある時期じきひがし執行しっこうったのは那智なち最古さいこ家柄いえがらという潮崎しおざきみことかちいんで、山内やまうちでもさい重要じゅうようとされるたき権現ごんげんまつり、たきしゅ行人こうじん統轄とうかつし、近世きんせいのある時期じきに、西にし執行しっこう西にしせんたきいん担当たんとうしたのち米良めら実方じつかたいんわったという。みことかちいん実方じつかたいんおよびばれるぼういんは、中世ちゅうせい近世きんせいつうじ、全国ぜんこく各地かくち旦那だんな檀那だんなじょうからの参詣さんけいしゃめる宿坊しゅくぼういとなんでいた。仁平にだいら元年がんねん1151ねん)2がつ15にちの『みなもと義国よしくに寄進きしんじょううつし』に那智なち高坊たかぼう記載きさいされている。このほかにもとして熊野くまの別当べっとういえ一族いちぞくもいた。

さんやま成立せいりつ以降いこう

編集へんしゅう

ちょうあきながうけたまわ3ねん1134ねん)2がつ1にちじょうによると、平安へいあん時代じだい後期こうきにはさんやまともてんあきら大神おおがみふく御子みこしんしょ王子おうじ眷属けんぞくしんよんしょ明神みょうじんくわえ、現在げんざいのようなじゅうしょ権現ごんげんまつかたちととのった。しかし那智なち別格べっかく滝宮たつのみやくわえてじゅうさんしょ権現ごんげんとなっており、かんれき元年がんねん1379ねん)11月13にちの『あませいしゅう田地でんち寄進きしんじょううつし』などに記録きろくのこっている。

平安へいあん時代じだい末期まっきには鳥羽とば上皇じょうこうこう白河しらかわ法皇ほうおう後鳥羽上皇ごとばじょうこうなどが幾度いくど熊野くまの三山さんざんあしはこび、おおいににぎわっている。

たてひとし元年がんねん1201ねん)10がつ19にちには後鳥羽上皇ごとばじょうこう那智山なちさん参詣さんけいし、そのけんれき2ねん1212ねん)に上皇じょうこうから寄進きしんされた熊野くまの新宮しんぐうりょう・190せきのうち12せき那智なちしゃあたえられた。

承久じょうきゅうらんでは後鳥羽上皇ごとばじょうこうらがやぶれて熊野くまの有力ゆうりょく支持しじしゃうしなったが、わって修験しゅげんどう発達はったつともない、さんやま先達せんだつによる組織そしきづくりがさかんとなった。さだおう2ねん1223ねん)11月19にちには一山ひとやま焼失しょうしつしたが、らによって再建さいけんされている。

南北なんぼくあさ時代じだいには、熊野くまの勢力せいりょく勧誘かんゆうするために両朝りょうちょうからあて護摩ごまきょうりょうなどの名目めいもく寄進きしんおこなわれ、貞和さだかず2ねん1346ねん)8がつ18にちには熊野くまの三山さんざん検校けんぎょう道昭みちあきじゅんきさきが、那智山なちさん兵部ひょうぶきょう律師りっしぼう駿河するがこく北安東きたあんどう荘内そうない安堵あんどしたれいなどがある。

つづ室町むろまち時代ときよには各地かくち神領しんりょう荘園しょうえんからの収入しゅうにゅう減少げんしょうし、那智山なちさん権現ごんげんでも年貢ねんぐまい駿河するがこく長田ながた安東あんどうりょうそうおよび美作みさくこく勝田かつたそうからのみになった。このため、有力ゆうりょく先達せんだつ活動かつどう重要じゅうようさをし、社頭しゃとう修理しゅうりなども熊野くまの山伏やまぶし比丘尼びくにじゅうこくひじりなどの勧進かんじんたよるようになった。文明ぶんめい10ねん1478ねん)に畿内きないへのやくによるむねべつぜに那智山なちさん造営ぞうえいおこなったが、弘治こうじ年間ねんかんじゅうしょ権現ごんげん造営ぞうえいさいは、さんさつ庶を勧進かんじん結縁けちえんさせている。15世紀せいき後半こうはん以降いこうには、山内やまうち堂塔どうとう社殿しゃでん修理しゅうりのために勧進かんじんおこな本願ほんがんしょとして、妙法山みょうほうさん阿弥陀寺あみだじ浜ノ宮はまのみや陀洛山寺やまでらをはじめ御前ごぜん庵主あんしゅだいぜんいんたき庵主あんしゅ那智なち阿弥あみ理性りせいいんといった本願ほんがんしょにより造営ぞうえい修造しゅうぞうになわれるようになり、那智なちなな本願ほんがんまたは那智なちななこくなどとしょうされた。なお、こくはこのなな本願ほんがんすという見方みかたもある。

天正てんしょう9ねん1581ねん)には堀内ほりうちぜん那智山なちさんへの支配しはい強化きょうかしたこと反発はんぱつした社家しゃけろうぼう武力ぶりょく決起けっきし、ぎゃくぜんろうぼう攻撃こうげきし、本殿ほんでんなどの社殿しゃでん焼失しょうしつしている。一方いっぽう那智山なちさんないじつむくい実方じつかたいん堀内ほりうちいて那智なち一山ひとやま二分にぶんされ、ろうぼうがわやぶれると同年どうねん6がつ3にち一族いちぞくひがしがくぼうなどのあとしょくじつほういんあたえられたという。

近世きんせい以降いこう

編集へんしゅう

慶長けいちょう6ねん1601ねん)1がつ4にちの『熊野くまの那智なち山神さんじんりょう注文ちゅうもんうつし』によると神領しんりょうは633せきあまりとなっている。同年どうねんには紀州きしゅうはんあるじ浅野あさの幸長よしながによって那智山なちさん市野々いちののむら二河にこうむらげん那智勝浦なちかつうらまち)に300せきあたえられた。寛政かんせい10ねん1798ねん大晦日おおみそか参拝さんぱいした高遠こうえんはん砲術ほうじゅつ坂本さかもと天山あまやまは、建造けんぞうぶつ壮麗そうれい香炉こうろにはえず、社人しゃにんしゃそうかずおおことを『紀南きなんゆう嚢』にしるしている。

近世きんせい末期まっき那智なち大社たいしゃにはすうおおくのしゃ僧坊そうぼうしゃがあったが、明治めいじ時代じだいになり神仏しんぶつ習合しゅうごうはいされると、熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃでは仏堂ぶつどうすべはいされたが、当社とうしゃでは如意にょいどう有名ゆうめい西国さいこくさんじゅうさんしょだい一番いちばん札所ふだしょであったため、ひとまずやぶ却はしなかった。

1873ねん明治めいじ6ねん)にけんしゃ指定していされるととも那智なち神社じんじゃしょうし、さらに熊野くまのおっと須美すみ神社じんじゃ改称かいしょうした。よく1874ねん明治めいじ7ねん)には如意にょいどうあおきしわたるてらとして当社とうしゃから独立どくりつした。なお、明治めいじ初期しょき神仏しんぶつ分離ぶんりさい境内けいだいにあった行者ぎょうじゃどうこわされたが、2023ねんれい5ねん)10がつあおきしわたるてら境内けいだい再建さいけんされた(熊野くまの修験しゅげん那智山なちさん行者ぎょうじゃどう[3]

1921ねん大正たいしょう10ねん)にかんぬさ中社なかやしろ昇格しょうかくして熊野くまの那智なち神社じんじゃ改称かいしょうする。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)に神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃれつされている。1963ねん昭和しょうわ38ねん)に熊野くまの那智なち大社たいしゃ改称かいしょうした。

祭神さいじん

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おもて 熊野くまの那智なち大社たいしゃ社殿しゃでん祭神さいじん本地ほんじふつ
社殿しゃでん 祭神さいじん 本地ほんじふつ
うえしゃ だいいち殿しんがり 瀧宮たつのみや だいおのれ貴命きめいたき権現ごんげん 千手観音せんじゅかんのん
だい殿どの しょうしょう殿どの いえ御子みこ大神だいじんくにつねたてみこと 阿弥陀如来あみだにょらい
だいさん殿どの ちゅう御前ごぜん 御子みこ速玉はやたま大神だいじん 薬師やくし如来にょらい
だいよん殿どの 西にし御前ごぜん 熊野くまのおっと須美すみ大神だいじん 千手観音せんじゅかんのん
だい殿しんがり 若宮わかみや てんあきら大神おおがみ じゅういちめん観音かんのん
ちゅうよんしゃ だいろく殿どの はち社殿しゃでん ぜんみや しのぶみのるみみみこと 地蔵じぞう菩薩ぼさつ
ひじりみや 瓊々きねみこと りゅういつき菩薩ぼさつ
みや 彦火みこと 如意輪観音にょいりんかんのん
子守こもりみや 草葺くさぶきごういのち 聖観音しょうかんのん
したよんしゃ いちまんみやじゅうまんみや くにせまづちみことゆたか斟渟みこと 文殊もんじゅ菩薩ぼさつ普賢菩薩ふげんぼさつ
米持よねもち金剛こんごう 泥土でいどみこと 釈迦如来しゃかにょらい
飛行ひこう夜叉やしゃ 大戸おおとみちみこと 不動明王ふどうみょうおう
勧請かんじょうじゅうしょ めんあしみこと 釈迦如来しゃかにょらい

境内けいだい

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参道さんどうなが石段いしだんうえは、みぎあおきしわたるてらがあり、しゅだい鳥居とりい大社たいしゃ境内けいだいつづいている。拝殿はいでんおくにはすずもん瑞垣みずがきはさんで本殿ほんでんがあり、かってみぎから滝宮たつのみやだいいち殿どの)、あかしまこと殿どのだい殿どの)、ちゅう御前ごぜんだいさん殿どの)、西にし御前ごぜんだいよん殿どの)、若宮わかみやだい殿どの)がならんでいる。正殿せいでんだいよん殿どのもっとおおきく、若宮わかみやひだり手前てまえにははちしゃ殿どのだいろく殿どの)がある。

なお、現在げんざいやまうえ社殿しゃでんがあるものの、前述ぜんじゅつのように元来がんらい那智滝なちだき社殿しゃでんがありたきかみまつったものだとかんがえられる。那智なちたきは「いちたき」で、その上流じょうりゅうたきわせて那智なち四十八滝しじゅうはったきがあり、熊野くまの修験しゅげん修行しゅぎょうとなっている。熊野くまの三山さんざんほかの2しゃ熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ)では、明治めいじ神仏しんぶつ分離ぶんりれいにより仏堂ぶつどうはいされたが、那智なちでは如意にょいどうのこされ、やがてあおきしわたるてらとして復興ふっこうした。あおきしわたるてら西国さいこくさんじゅうさんしょ一番いちばん札所ふだしょである。那智山なちさんからくだった那智なちはまには補陀落ふだらく渡海とかい拠点きょてんとなった陀洛山寺やまでら熊野くまのさんしょ権現ごんげんなぎさ王子おうじ)がある。

別宮べつみや

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文化財ぶんかざい

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瑞垣みずがきしに社殿しゃでんをみる。中央ちゅうおうだい殿どの
 
瑞垣みずがきしに社殿しゃでんをみる。中央ちゅうおう横長よこなが社殿しゃでんだいろく殿どの、そのひだりけん彦社。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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建造けんぞうぶつ

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  • 熊野くまの那智なち大社たいしゃ 8むね - 1995ねん平成へいせい7ねん)12月26にち指定してい[4]
    • だいいち殿どの滝宮たつのみや[5]
    • だい殿どのあかしまこと殿どの[6]
    • だいさん殿どのちゅう御前ごぜん[7]
    • だいよん殿どの西にし御前ごぜん[8]
    • だい殿どの若宮わかみや[9]
    • だいろく殿どのはち社殿しゃでん[10]
    • けん彦社[11]
    • すずもんおよ瑞垣みずがき[12]
左右さゆう並列へいれつするだいいち殿どのからだい殿どの、これらのひだり前方ぜんぽうかぎだいろく殿どの、その手前てまえけん彦社、これらをかこんですずもんおよ瑞垣みずがきけい8むねくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。だいいち殿どのからだいろく殿どの天正てんしょう9ねん1581ねん)の堀内ほりうちぜんとのたたかいで焼失しょうしつしたのち再建さいけんで、しゃぞう文書ぶんしょによればよしみひさし7ねん1854ねん)までに竣工しゅんこうしている。けん彦社はやや年代ねんだいくだり、金具かなぐめいから慶応けいおう3ねん1867ねん)の建立こんりゅう推定すいていされる[13]
かく社殿しゃでん屋根やねはいずれもひのきがわき。だいいち殿どのからだい殿どのまでの本殿ほんでん熊野くまのづくりといわれ、切妻きりづまづくりつまりの社殿しゃでん正面しょうめんひさしもうけ、四方しほうえんをめぐらした形式けいしきである。社殿しゃでん正面しょうめんしとみ(しとみ)とし、すだれってかがみけている。だいいち殿どのからだい殿どのはいずれもどう形式けいしきであるが、那智なち大社たいしゃ主神しゅしん熊野くまのおっと須美すみ大神だいじんまつだいよん殿どののみやや規模きぼおおきい。また、みぎはしだいいち殿どのはやや後退こうたいした位置いちてられている。だいろく殿どのはちあいだしゃ流造ながれづくりけん彦社はいちあいだしゃ流造ながれづくりとする。これらの社殿しゃでん形式けいしき配置はいちは『いちへん上人しょうにんでん』など、中世ちゅうせい絵画かいが資料しりょうにみえるものとひとしく、ふるくからがれていることがわかる。これら社殿しゃでんぐん江戸えど時代じだい後期こうき再建さいけんではあるが、規模きぼおおきくしつたか建築けんちくで、中世ちゅうせい以来いらい景観けいかんいまつたえるものとして価値かちたか[13]

美術びじゅつ工芸こうげいひん

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  • 金銀きんぎんそう宝剣ほうけんこしらえ 後藤ごとうみがくじょうさく i 寛永かんえいじゅうさんねん正月しょうがつ徳川とくがわ頼宣よりのぶ寄進きしんめいじアリ どう鍍金めっきぎんばこ 1箇箇ここ
  • 熊野くまの那智なち大社たいしゃ文書ぶんしょ 46かん、11さつ、2じょう、2まい
  • 古銅こどうしるし 1顆

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

くに指定してい史跡しせき

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くに指定してい名勝めいしょう

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  • 那智なち大滝おおたき

くに指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ

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和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 木造もくぞう役行者えんのぎょうじゃどうわきさむらいぞう :鍚杖 3
  • 木造もくぞう熊野くまのじゅうしょ権現ごんげん神像しんぞう 15
  • 木造もくぞう女神めがみ坐像ざぞう 1
  • 熊野くまの曼荼羅まんだら 1幀 - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい[15]
  • 熊野くまの権現ごんげん曼荼羅まんだら 1ぶく - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい
  • 那智山なちさん絵図えず 1ぶく - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい
  • 那智山なちさんみや曼荼羅まんだら 1幀 - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい
  • 熊野くまの那智なち大社たいしゃ奉納ほうのうきょう 65めんいにしえきょう 2めんきょう 63めん
  • 唐櫃からびつ 1だい
  • 大湯おおゆがま 1くち
  • 鬼面きめん 1めん
  • 木造もくぞううるしぬり瓶子へいじ 2くち
  • 宸翰しんかんぱい 1へん
  • てつ燈籠どうろう 1
  • 神輿しんよ 2
  • どうせいきん 1個いっこ
  • どうづくり擬宝珠ぎぼうしゅ 3
  • どう燈籠どうろうぶた 1個いっこ
  • 熊野くまの那智なち大社たいしゃ奉納ほうのうきょうるい 17めん
  • 花山はなやま法皇ほうおうかごしょ出土しゅつど器物きぶつ 2 石櫃いしびつ 1個いっこ
  • 那智山なちさん経塚きょうづか出土しゅつどひん 一括いっかつ

和歌山わかやまけん指定してい史跡しせき

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  • 山上さんじょう不動堂ふどうどうあと
  • 亀山天皇かめやまてんのう卒塔婆そとうば建立こんりゅうあと
  • 花山はなやま法皇ほうおうかごしょあと
  • とみ王子おうじあと
  • 中世ちゅうせい行幸ぎょうこうけいはくしょあと

和歌山わかやまけん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ

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  • 那智なちくすのき - 1958ねん昭和しょうわ33ねん)4がつ1にち指定してい[16][17]
  • 那智山なちさんきゅう参道さんどうすぎ並木なみき - 1958ねん昭和しょうわ33ねん)4がつ1にち指定してい[18]
  • ヤマザクラ名木めいぼくしゅう衡桜(那智なち大社たいしゃ社務しゃむしょまえ) - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい[19]
  • えだたれザクラ那智なち大社たいしゃ本殿ほんでんみずひろしぎわ)- 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい[20]
  • モッコク大樹たいじゅ那智なち大社たいしゃ実方じつかたいん前庭ぜんてい)- 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい[21]

和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

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  • 牛頭ごず 1個いっこ - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい[15]
  • 那智山なちさん田楽でんがく資料しりょう一括いっかつ 9てん - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい
  • 熊野くまの那智山なちさんさい様式ようしき図絵ずえ 1ぶく - 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ14にち指定してい

和歌山わかやまけん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

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  • 那智なち火祭ひまつり - 1960ねん昭和しょうわ35ねん〉8がつ16にち指定してい[15]

那智勝浦なちかつうらまち指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 那智なち大社たいしゃせき燈篭どうろう 1

行事ぎょうじ

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那智なち大社たいしゃうしおう(がらすうしおう)

れい大祭たいさい

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うしおうにまつわる行事ぎょうじ

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このほか神事しんじとしては熊野くまのうしおううしおうたからしるしがらすうしおう)のはじめにまつわるものが正月しょうがつおこなわれる。1月1にちには午前ごぜん3那智なちたきおくの「しょみず」を若水わかみずとしてみ、1がつ2にちにそのみずがらすうしおう神璽しんじすりはじしきおこなう。1月8にちにはたきつぼのまえたき神社じんじゃでのがらすうしおう神璽しんじさいがある。たきまえ設定せっていした祭壇さいだんのぼったうしおうげ、神職しんしょくやなぎえだいたといわれるかしいたはげしくち、邪気じゃきをはらう。うしおう社務しゃむしょ配布はいふされる[22]

前後ぜんご札所ふだしょ

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神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
2 あおきしわたるてら - 3 熊野くまの那智なち大社たいしゃ - 4 熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ

周辺しゅうへん情報じょうほう

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交通こうつう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい、2005、『世界せかい遺産いさん 紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう』、世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい和歌山わかやまけん奈良ならけん三重みえけん、pp.39,75
  2. ^ 日本にっぽん神様かみさま事典じてん川口かわぐち謙二けんじ編著へんちょ)、柏書房かしわしょぼう、1999ねんISBN 978-4-7601-1824-3 
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 篠原しのはら四郎しろう熊野くまの大社たいしゃ』(学生がくせいしゃ初版しょはん1969ねん改訂かいてい新版しんぱん2001ねんISBN 4-311-40718-1
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 31 和歌山わかやまけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ、1983ねん、オンデマンドばん2001ねん
  • 阪本さかもと敏行としゆき熊野くまの三山さんざん熊野くまの別当べっとう』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねんISBN 4-7924-0587-4
  • 熊野くまの那智なち大社たいしゃ文書ぶんしょ目録もくろく』(文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい保護ほご美術びじゅつ工芸こうげい、1977ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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