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堀秀政 - Wikipedia

ほり秀政ひでまさ

日本にっぽん戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう

ほり 秀政ひでまさ(ほり ひでまさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう大名だいみょう織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしつかえ、最終さいしゅうてき越前えちぜんこくきたしょう大名だいみょうとなった。

 
ほり 秀政ひでまさ
ほり秀政ひでまさぞう長慶寺ちょうけいじ所蔵しょぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん22ねん1553ねん
死没しぼつ 天正てんしょう18ねん5月27にち1590ねん6月28にち
改名かいめい ほりきく千代ちよ幼名ようみょう)→ほり秀政ひでまさ
別名べつめい 通称つうしょう久太郎きゅうたろう
渾名あだな名人めいじん久太郎きゅうたろう
戒名かいみょう 高嶽たかおかみちあきらひがしじゅいん しゃくみちあきら
墓所はかしょ 長慶寺ちょうけいじ[1]福井ふくいけん福井ふくい西木田にしきだ
海蔵寺かいぞうじ神奈川かながわけん小田原おだわら早川はやかわ
林泉寺りんせんじ新潟にいがたけん上越じょうえつ中門前なかもんぜん
官位かんい したがえよん侍従じじゅう左衛門さえもんとく
主君しゅくん 織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし
氏族しぞく 藤原ふじわらきたじんりゅう斎藤さいとうぞくほり
父母ちちはは ちちほりしげるじゅうははしょう
兄弟きょうだい 秀政ひでまさ多賀たがしげるしゅ利重とししげさんせい
秀治しゅうじおやりょう村上むらかみ但馬たじままもる近藤こんどう政成まさなり
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うえ茜部あかなべじょうあとほり秀政ひでまさ生誕せいたん岐阜ぎふけん岐阜ぎふ茜部本郷あかなべほんごう

生涯しょうがい

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信長のぶなが側近そっきん

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天文てんもん22ねん1553ねん)、斎藤さいとう道三どうさん家臣かしんであるほりしげるじゅう長男ちょうなんとして美濃みのこく厚見あつみぐん茜部あかなべまれる。おさなころ一向いっこうそうそうとなっていた伯父おじほり掃部太夫たゆうもと従兄じゅうけい奥田おくだ直政なおまさほり直政なおまさともそだてられたという。

最初さいしょ大津おおつちょうあきらいで木下きのした秀吉ひでよしつかえ、えいろく8ねん1565ねん)に13さいわかさで織田おだ信長のぶなが小姓こしょう側近そっきんとしててられた。16さいで、室町むろまち幕府ばくふ15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき仮住かりずまいの本圀寺ほんごくじ普請ふしん奉行ぶぎょうになうなど、各種かくしゅ奉行ぶぎょうしょくつとめ、側近そっきんとしての地位ちい確立かくりつする。信長のぶなが側近そっきんには秀政ひでまさのほかに、かんちょうよりゆき福富ふくとみ秀勝ひでかつ大津おおつちょうあきら矢部やべ家定いえさだ長谷川はせがわ秀一ひでかずばん重元しげもとらがいる。

秀政ひでまさ次第しだい奉行ぶぎょうしょくだけでなく戦場せんじょうでも活躍かつやくするようになる。織田おだぐん主要しゅよう合戦かっせんである天正てんしょう3ねん1575ねん)の越前えちぜん一向いっこう一揆いっき討伐とうばつ参加さんか天正てんしょう5ねん1577ねん)の紀伊きい雑賀さいか討伐とうばつせんでは信長のぶなが本陣ほんじんからはなれ、佐久間さくましんもり羽柴はしば秀吉ひでよしらとともにいちたいひきいる。翌年よくねん有岡ありおかじょうたたかでは、ばんかんらと鉄砲てっぽうたいひきいる。天正てんしょう7ねん1579ねん)の安土あづち宗論しゅうろんのときすが長谷川はせがわらと奉行ぶぎょうつとめる。よく天正てんしょう8ねん1580ねん)、バテレン屋敷やしき造営ぞうえい奉行ぶぎょうかん長谷川はせがわらとつとめる。同年どうねん信長のぶなが蜂須賀はちすか正勝まさかつあて書状しょじょうふくじょうす、などがある。

また、叔父おじである蓮照寺れんしょうじ住職じゅうしょくそだてられた関係かんけいで、本願寺ほんがんじとの交渉こうしょうにあたり、石山いしやま本願寺ほんがんじとの和睦わぼく紀州きしゅうさぎもりへの退城たいじょううながし、交渉こうしょう奮闘ふんとうしていたことも想像そうぞうされる。のち秀政ひでまさは、本願寺ほんがんじ顕如けんにょから「しゃくみちあきら」の法名ほうみょうあたえられている[2]

天正てんしょう9ねん1581ねん)のだい天正てんしょう伊賀いがらんにおいて信楽しがらきくちからの部隊ぶたいひきい、山城やましろたたかなどをそよいている。この功績こうせきならびに荒木あらき村重むらしげ討伐とうばつ越前えちぜん一向いっこうそう制圧せいあつ功績こうせきにより、このとし織田おだ信長のぶながから長浜ながはま城主じょうしゅ2まん5,000せきあたえられた。

天正てんしょう10ねん1582ねん)の甲州こうしゅう征伐せいばつでは信長のぶながしたがって甲信こうしんはいるが、すで織田おだ信忠のぶただ武田たけだほろぼしたのちだったため戦闘せんとうには参加さんかしなかった。本能寺ほんのうじへん直前ちょくぜんには、明智あけち光秀みつひで徳川とくがわ家康いえやす接待せったいやくはずされたあと、丹羽にわ長秀ながひでともにこれをつとめており、この接待せったいえたのち備中びっちゅう秀吉ひでよししたかっている。

山崎やまざきたたかいと清洲きよす会議かいぎ

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天正てんしょう10ねん(1582ねん6月2にち本能寺ほんのうじへんこって信長のぶなが死去しきょしたとき秀政ひでまさ秀吉ひでよしぐんかんとして備中びっちゅうこくにいたが、信長のぶなが死去しきょほうると秀吉ひでよしともいそ上方かみがたもどって山崎やまざきたたかさんじんし、中川なかがわ清秀きよひで高山たかやま右近うこんらと先陣せんじんつとめる。秀政ひでまさ光秀みつひで援護えんごにきた明智あけち秀満ひでみつさか本城ほんじょうみ、敗北はいぼくさとった秀満ひでみつ先祖せんぞ代々だいだい家宝かほう秀政ひでまさ家老がろう直政なおまさゆずむねげたのちに、しろはな自害じがいした。

山崎やまざきたたか6月27にちひらかれた清洲きよす会議かいぎにより、秀政ひでまさ丹羽にわ長秀ながひでわって近江おうみこく佐和さわ山城やましろ所領しょりょう9まんせき拝領はいりょうし(佐和山さわやまきたしょうじょうめの恩賞おんしょうとしてたまわったという史料しりょうもある)、さん法師ほうしくら入地いりじ代官だいかん守役もりやくうけたまわった。その秀政ひでまさ秀吉ひでよし家臣かしんとなり、天正てんしょう10ねん(1582ねん10がつ20日はつかづけ書状しょじょうには羽柴はしば名字みょうじ使用しようしている。これにより秀吉ひでよし一族いちぞく以外いがいはじめて羽柴はしば名字みょうじあたえられたのは秀政ひでまさであったとかんがえられている[3]

きたしょう

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天正てんしょう11ねん1583ねん)4がつ秀吉ひでよし越前えちぜんきたしょう柴田しばた勝家かついえめた。家康いえやす秀吉ひでよしてた書状しょじょうには「はたまた久太郎きゅうたろう秀政ひでまさかたとりでへ、柴田しばたりかかりこうのところ、すなはち合戦かっせんおよび、くずされ、あまた討られそうろえば、さだめて比類ひるいなき心地ここちよくこう云々うんぬん」と秀政ひでまさ軍功ぐんこうめている。戦後せんごしたがえ左衛門さえもんとく叙任じょにん従兄弟いとこ六右衛門ろくうえもん一向いっこうむね蓮照寺れんしょうじ住職じゅうしょくとなっていた関係かんけいで、本願寺ほんがんじかたとの交渉こうしょうをもった。

長久手ながくてたたかいときたしょう城主じょうしゅ

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天正てんしょう12ねん1584ねん)の小牧こまき長久手ながくてたたかでは、味方みかたぐん大敗たいはいきっしたが、自軍じぐんさんけ、余勢よせいった家康いえやすかた大須賀おおすがやすしだか榊原さかきばら康政やすまさらをせし、挟撃きょうげきして敗走はいそうさせた。その家康いえやす本隊ほんたいとはたたかわず退却たいきゃくする。

天正てんしょう13ねん1585ねん)に秀吉ひでよし関白かんぱくになると、秀政ひでまさしたがえよん侍従じじゅうけん左衛門さえもんとく叙任じょにん同年どうねん紀州きしゅう征伐せいばつ千石せんごくほりじょうたたかだい太田おおたじょうたたか)や四国しこく平定へいていせんによる軍功ぐんこうにより丹羽にわ長秀ながひでのこりょう越前えちぜんこくきたしょうに18まんせきあたえられた。与力よりき加賀かが小松こまつ村上むらかみ義明よしあき加賀かが大聖寺だいしょうじ溝口みぞぐち秀勝ひでかつけられた。天正てんしょう14ねん1586ねん)には、長谷川はせがわ秀一ひでかずとともに昇殿しょうでんゆるされた。なお、秀政ひでまさ各地かくち転戦てんせんしているあいだ佐和山さわやまじょうには城代じょうだいとしてちちほりしげるじゅうおとうと多賀たがしげるしゅざいしろして統治とうちにあたった[4]

九州きゅうしゅう平定へいてい小田原おだわら征伐せいばつ

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天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう平定へいていにもさんじんし、秀政ひでまさ先鋒せんぽう部隊ぶたいまかされる。天正てんしょう16ねん1588ねん)、豊臣とよとみせい下賜かしされた[5]

天正てんしょう18ねん(1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつにもさんじんひだり備の大将たいしょうめいぜられる[6]箱根はこねくちのぼり、山中さんちゅうじょう陥落かんらく小田原おだわらはや川口かわぐちまでみ、海蔵寺かいぞうじ本陣ほんじんいた。しかし5がつ下旬げじゅん疫病えきびょうわずらい、5月27にち陣中じんちゅうにて急死きゅうしした。享年きょうねん38。

秀政ひでまさ遺体いたい本陣ほんじんとしていた小田原おだわら海蔵寺かいぞうじ一旦いったんほうむられたが、まげだけは領内りょうないかえられ、越前えちぜんこく北之庄きたのしょう居館きょかんちかくの長慶寺ちょうけいじはかてられた。長慶寺ちょうけいじ位牌いはい墓所はかしょのひとつがつたわり、どうてらでは毎年まいとし5月27にち供養くようさいおこなわれている[1][7]

また、家督かとくいだ長男ちょうなん秀治しゅうじ慶長けいちょう3ねん1598ねん)4がつ越後えちごこく春日山かすがやまてんふうとなったさいには、春日かすが山城やましろ山麓さんろくにある林泉寺りんせんじ改葬かいそうされる。林泉寺りんせんじには秀政ひでまさだけでなくちちしゅうじゅう長男ちょうなん秀治しゅうじはかてられ、堀家ほりいえ3だい菩提寺ぼだいじとなった。

人物じんぶつ逸話いつわ

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  • 名人めいじん左衛門さえもん」(『たけ家事かじ[8]・『名将めいしょう言行げんこうろく』)、「名人めいじん太郎たろう」(『常山つねやまおさむだん』)とばれたが、それはしたもの使つかしんもちいたため(『常山つねやまおさむだん』)[9]、あるいは天下てんか指南しなんしてのあるまじきひとだったからだという(『名将めいしょう言行げんこうろく』)[10]
  • 山崎やまざきたたかいのさい天王山てんのうざんるため、だいいちじん堀尾ほりお吉晴よしはるがまずやまのぼり、その秀政ひでまさつづいてのぼろうとしたとき、家臣かしんほり七郎しちろう兵衛ひょうえが「山上さんじょう味方みかたがもしやぶれたら、かならずやきょうくずれとなりましょう。みちえておのぼください」といさめたため、みちえてのぼったところ、たして堀尾ほりおぜいくずれ、秀政ひでまさはそのよこからみ、てきしょう松田まつだまさしこん鉄砲てっぽうらしたという(『名将めいしょう言行げんこうろく[11])。ほり七郎しちろう兵衛ひょうえは、従兄弟いとこほり直政なおまさあにむね(あるいはみち)と推定すいていされ、むねは、最初さいしょ足利あしかが義輝よしてるつかえ、義輝よしてる死後しご織田おだ信長のぶながつかえていた人物じんぶつ
  • 小牧こまき長久手ながくてたたかいのとき銃声じゅうせいがして、つづいておとがしないので不審ふしんおもっていると、 田中たなか吉政よしまさいちでやってて、「うしろでせんがあるからいそそなえをめよ」といいすててさきとおった。秀政ひでまさは「そのほう旗本はたもと小姓こしょうあたまだ。そのような使つかいはたん使つかい若者わかものつとめるべきことで、みずかではない」とい、「銃声じゅうせいつづいておとがしないのは、味方みかた敗軍はいぐんちがいない」とっていると、たして味方みかたやぶれ、大須賀おおすが榊原さかきばららのてきかってきたという(『名将めいしょう言行げんこうろく[11])。
  • 九州きゅうしゅう征伐せいばつさい近臣きんしん山下やました甚五兵衛ひょうえというもの乱心らんしんして、秀政ひでまさ背後はいごからりかかった。秀政ひでまさかえりざまに山下やましたったが、そのとき山下やましたうしろをあるいていた直政なおまさも、山下やました背後はいごからった。秀政ひでまさ直政なおまさに「自分じぶんさきだった」とこえけた。こときゅうだったのに、はやくそのような言葉ことばけたことこそがすごいとひとみなったという(『名将めいしょう言行げんこうろく』)[11]
  • あるとき、奉行ぶぎょう従者じゅうしゃものとが荷物にもつ軽重けいちょうあらそうのをいて、秀政ひでまさみずからがその荷物にもつ背負せおってあるいてみた。そして「自分じぶんはあのものよりちからっているが、いちばかり背負せおったらつかれるだろう。てないというのももっともだ」とだんくだしたという(『常山つねやまおさむだん』)[9]
  • あるとき、行軍こうぐんちゅう旗持はたもちがおくとがめられたのを、秀政ひでまさみずかはた背負せおってこころみ「さては自分じぶんうまあしいせいだろう」とって、あしよわうまえたところ、旗持はたもちはおくれなくなったという(『常山つねやまおさむだん』)[9]
  • 上記じょうきほり秀政ひでまさぞう長慶寺ちょうけいじ所蔵しょぞう)は秀政ひでまさ自身じしんえがいた自画像じがぞうだとわれている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 戦国せんごく名将めいしょうほり秀政ひでまさ供養くよう福井ふくい長慶寺ちょうけいじ 2009ねん5月28にちづけ中日新聞ちゅうにちしんぶんより。2009ねん6がつ14にち検索けんさく確認かくにん
  2. ^ 蓮照寺れんしょうじ文書ぶんしょ
  3. ^ 村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし」『駒沢こまざわ史学しがく』49ごう、1996ねん
  4. ^ あたらしおさむ彦根ひこね だい1かん(通史つうしへん 古代こだい中世ちゅうせい)}』彦根ひこね編集へんしゅう委員いいんかい、2007ねん1がつ
  5. ^ 村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし」『駒沢こまざわ史学しがく』49ごう、1996ねん
  6. ^ 一番いちばん村上むらかみ義明よしあき柴田しばたみなもと左衛門さえもんかつあきらばん溝口みぞぐち秀勝ひでかつほり直政なおまさ神子田みこだ八右衛門はちえもんぼう、この備、隔日かくじつ交代こうたいいち番手ばんてつとめる。さんばん丹羽にわ長重ながしげみぎ備の大将たいしょうとし、ほり秀政ひでまさひだり備の大将たいしょうとし、よんばん木村きむら常陸ひたちかいばん長谷川はせがわ秀一ひでかずろくばん織田おだ秀信ひでのぶらはかくのぞ鉄砲てっぽうたい供出きょうしゅつする(『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』)
  7. ^ 長慶寺ちょうけいじ座標ざひょう北緯ほくい3603ふん15びょう 東経とうけい13612ふん52びょう / 北緯ほくい36.054211 東経とうけい136.214472 / 36.054211; 136.214472
  8. ^ たけ家事かじまきだいじゅうさん”. 近代きんだいデジタルライブラリー. 2013ねん10がつ31にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c 常山つねやまおさむだんまきじゅうはちほり秀政ひでまさ名人めいじん太郎たろうといひし”. 近代きんだいデジタルライブラリー. 2013ねん10がつ31にち閲覧えつらん
  10. ^ 名将めいしょう言行げんこうろく』「ほり秀政ひでまさ”. 近代きんだいデジタルライブラリー. 2013ねん10がつ31にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c 名将めいしょう言行げんこうろく』「ほり秀政ひでまさ”. 近代きんだいデジタルライブラリー. 2013ねん10がつ31にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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