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堀氏 - Wikipedia

ほり

日本にっぽん氏族しぞくひと

ほり(ほりし)は、武家ぶけ華族かぞくだった日本にっぽん氏族しぞくひとつ。しょせいぞくするほりがあるが、藤原ふじわらじんりゅうしょう美濃みのこく出自しゅつじほりもっとさかえた。同家どうけほり秀政ひでまさ織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしつかえて台頭たいとうし、1585ねんには越前えちぜんこくきたしょう18まんせきあたえられた。その秀治しゅうじ1598ねん越後えちごこく春日山かすがやま30まんせきてんふうしたが、その忠俊ただとしだい1610ねん徳川とくがわにより改易かいえきされた[1]一方いっぽう秀治しゅうじおとうとほりちかしりょう系統けいとうしょう大名だいみょう信濃しなの飯田いいだはんしゅとしてつづき、維新いしんこう華族かぞく子爵ししゃくいえれつした[2]

ほり
本姓ほんせい しょう藤原ふじわらじんりゅう
いえ ほりだか
種別しゅべつ 武家ぶけ
華族かぞく子爵ししゃく
出身しゅっしん 美濃みのこく
おも根拠地こんきょち 美濃みのこく厚見あつみぐん茜部あかなべ
近江おうみこく長浜ながはま
越前えちぜんこくきたしょう
越後えちごこく春日山かすがやま
信濃しなの飯田いいだはん
東京とうきょう赤坂あかさか
著名ちょめい人物じんぶつ ほり秀政ひでまさ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

ほりにも同様どうようことりゅうがいくつかある。後述こうじゅつほり秀政ひでまさ系統けいとう藤原ふじわらじんりゅう斎藤さいとうぞく秀政ひでまさ従兄弟いとこほり直政なおまさもと清和せいわはじめ斯波しばぞく庶流奥田おくだ血脈けちみゃくだが、秀政ひでまさよりほりたまわり、藤原ふじわらせいあらためる。には、清和せいわはじめ頼光よりみつながれ多田ただはじめ)、桓武かんむたいら良文よしふみりゅう千葉ちばぞく近江おうみこく藤原ふじわらしゅうきょうながれ近江おうみこく浅井あさいぐんほりむら菅原すがわらぞく若狭わかさ武田たけだぞく宇多うたはじめ佐々木ささきぞく藤原ふじわらじんりゅう大神おおがみぞくなどがある。

概略がいりゃく

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戦国せんごく時代じだい後期こうきから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけて織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしつか活躍かつやくしたほり秀政ひでまさ一族いちぞく著名ちょめいである。秀政ひでまさ死後しご関ヶ原せきがはらたたかにおいてほり秀治しゅうじほり直政なおまさらはひがしぐん味方みかたし、徳川とくがわしたほり大名だいみょうとしてすういえのこったが、秀政ひでまさけい直政なおまさけいかく宗家そうけ断絶だんぜつ改易かいえきい、明治維新めいじいしん大名だいみょうとしてむかえたのは傍流ぼうりゅう一部いちぶ秀政ひでまさけいで1いえ直政なおまさけいで3いえ)にとどまった。秀政ひでまさまごたる嫡男ちゃくなん忠俊ただとしは、改易かいえきさい芳泉ほうせんいん名乗なの出家しゅっけ加賀かが蓮照寺れんしょうじ住職じゅうしょくとなり、堀家ほりいえのこし、その前田まえだ庇護ひごのもと越中えっちゅう富山とやま大田口おおたぐち地所じしょ拝領はいりょうし、蓮照寺れんしょうじ芳泉ほうせんいんしゃくじょうしゅうとしててらまもり、現在げんざい豊田とよださん蓮照寺れんしょうじへとつながっている。

ほり直政なおまさ子孫しそんは、嫡男ちゃくなんちょくきよし直次なおじ)の系統けいとうは、ちょくきよし嫡男ちゃくなんちょくあきら小浜おばまはん酒井さかいつかえ、次男じなんちょくきよしちょくりん)とろくなん直正なおまさ直信なおのぶ)は越後えちご新発田しばたはん家老がろうとなり、なななんちょくかちじきちょう)は飯田いいだ堀家ほりいえつかえた。ちょくきよし三男さんなんからなんしょうであるが、そのうちちょくなり(なおしげ)が飯田いいだ堀家ほりいえに、舎人とねりぼう細川ほそかわえつちゅうもり熊本くまもとはん)につかえたという。直政なおまさ子孫しそんで、村松むらまつはん須坂すざかはん椎谷しいやはん藩主はんしゅとなった、ちょくよせちょくじゅう直之なおゆき系統けいとうは、明治めいじ時代じだい奥田おくだ復姓ふくせいしていて、子孫しそんはすでにほりではない(椎谷しいやはん嫡流ちゃくりゅう奥田おくだ復姓ふくせいこばみ、現在げんざいほりで、[よう出典しゅってん]椎谷しいやはん家督かとく村松むらまつからの養子ようし相続そうぞくした)。

春日かすがさん越後えちご福島ふくしまはん

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ほりしげるじゅう嫡男ちゃくなんほり秀政ひでまさ信長のぶながつかえ、近江おうみこく坂田さかたぐんに2まん5,000せきあたえられた。本能寺ほんのうじへん秀吉ひでよししたがい、越前えちぜん国北くにほくしょうに18まんせきあたえられた。

秀政ひでまさ長男ちょうなん秀治しゅうじは、慶長けいちょう3ねん1598ねん)4がつ越前えちぜんきたしょう18まんせきから越後えちご春日山かすがやま30まんせき一説いっせつには45まんせき[3]加増かぞううつりふうされ、そのさい村上むらかみ義明よしあき(9まんせき)、溝口みぞぐち秀勝ひでかつ(6まん1000せき)、ほりちかしりょう(3まんせき)、ほりただしよせ(1まんせき)を与力よりきとした。与力よりき一門いちもんくわえると小早川こばやかわ鍋島なべしまえ、豊臣とよとみ政権せいけんだいきゅうだい大名だいみょうとなった[4]

秀治しゅうじは24さいのため、豊臣とよとみ秀吉ひでよしほり直政なおまさをして補佐ほさせしめた[5]。また、越後えちごうつりふうされたさいぜん国主こくしゅ上杉うえすぎ景勝かげかつ家老がろうである直江なおえけんつづけ前半ぜんはんとし租税そぜいしるしたので、返還へんかんもとめたが、上杉うえすぎはこれを拒否きょひした[6][5]秀治しゅうじ入部にゅうぶすると春日かすが山城やましろ矢倉やぐらほり普請ふしんおこない、慶長けいちょう5ねん1600ねん)には福嶋ふくしま居城きょじょう移転いてん計画けいかく

慶長けいちょう12ねん1607ねん)、ほり忠俊ただとしだい越後えちご福嶋ふくしまじょううつる。慶長けいちょう15ねん1610ねん)に内紛ないふん改易かいえき発端ほったんである村松むらまつはんこう参照さんしょう)。

飯田いいだはん

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ほり秀政ひでまさ次男じなんほりちかしりょう蔵王ざおうどうに4まんせきりょうし、うち1まんせき家老がろう近藤こんどう重勝しげかつ分与ぶんよした。慶長けいちょう7ねん1602ねんごろ宗家そうけ重臣じゅうしんほり直政なおまさ不和ふわになって対立たいりつ出奔しゅっぽん所領しょりょううしなう。慶長けいちょう16ねん1611ねん)、下野げやこく真岡もおかに1まん2,000せきたまわり、江戸えど秀忠ひでただ拝謁はいえつする。このあいだほり宗家そうけ改易かいえき処分しょぶんけているが、隠遁いんとんしていたおやりょう当時とうじ秀成ひでなり)は連座れんざをすることはなかった。

寛永かんえい4ねん1627ねん下野げやこく烏山からすやまうつりふうされ2まん5,000せきりょうした(うち5,000せきおとうとさんおとうと分与ぶんよ旗本はたもといえてる)。嫡男ちゃくなんおやあきら寛文ひろふみ12ねん(1672ねん)、信濃しなの飯田いいだ2まんせきてんふうとなる。 その歴代れきだい当主とうしゅ水野みずの忠邦ただくに失脚しっきゃくによる連座れんざ天狗てんぐとうたいしてなん対処たいしょもとらずに関所せきしょ通過つうかさせたけんなどで、すうげんふうがあり1まん5000せき明治めいじいたる。

明治めいじ以降いこう

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最後さいご飯田いいだ藩主はんしゅほりちかしひろは、明治めいじ2ねん1869ねん)に版籍はんせき奉還ほうかんはんごとてんじるとともに華族かぞくれっし、1871ねん明治めいじ4ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではんごとつとめた[7]明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい華族かぞく爵制になるときゅうしょうはん知事ちじ飯田いいだはんげんこめ1まん40せきげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう)として子爵ししゃくいえれっする[8]

ほり子爵ししゃく邸宅ていたく東京とうきょう赤坂あかさか新町しんまちにあった[9]

奥田おくだ堀家ほりいえ奥田おくだ

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奥田おくだほり奥田おくだ
 
いえ ほり直政なおまさ
種別しゅべつ 武家ぶけ
華族かぞく子爵ししゃく
出身しゅっしん 尾張おわりこく
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

尾張おわり中島なかじまぐん奥田おくだしょうにて、奥田おくだ直純なおずみとしてまれ、従弟じゅうていほり秀政ひでまさ家老がろうとなり、ほりせいあたえられたほり直政なおまさ奥田おくだ直政なおまさ)のいえ

直政なおまさ子孫しそん宗家そうけおよ直政なおまさ嫡流ちゃくりゅう断絶だんぜつも庶流が村松むらまつはん椎谷しいやはん須坂すざかはんとして幕末ばくまつまで存続そんぞく明治めいじ10ねん(1877ねんきゅう3藩主はんしゅ奥田おくだせい復姓ふくせいし、明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれいともなって3いえとも子爵ししゃくじょされた。

村松むらまつはん

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ほり直政なおまさ主君しゅくんほり秀政ひでまさ没後ぼつご嫡男ちゃくなんほり秀治しゅうじつかえる。上杉うえすぎ景勝かげかつわり秀治しゅうじ越後えちごうつされたさい甘粕あまかすけいかわって三条さんじょうじょう城主じょうしゅとなる。

直政なおまさ長男ちょうなんちょくきよしちちからいださんじょう5まんせき城主じょうしゅとなり、堀家ほりいえ執政しっせいしょくとなる。ところが慶長けいちょう15ねん(1610ねん)、昨年さくねん幼君ようくん忠俊ただとしうったえて追放ついほうしたおとうとちょくよせほり直政なおまさ次男じなん)が徳川とくがわ家康いえやすうったえたためちょくきよし改易かいえきされ、越後えちご福島ふくしま藩主はんしゅ秀治しゅうじ嫡男ちゃくなんほり忠俊ただとし磐城いわきひらはん鳥居とりい忠政ただまさへおあづけとなった。しかし、ちょくよせ自身じしんも1まんせきげんふう信濃しなの飯山いいやまはん4まんせきてんふうされた(越後えちご福嶋ふくしま騒動そうどう)。

そのほりただしよせ長岡ながおか8まんせきから村上むらかみ10まんせきだか17まんせきとも)にてんふうとなり、さらに3まんせき加増かぞうされる。加増かぞうぶんちょくよせ次男じなんちょくとき分与ぶんよされ安田やすだはんてる。村上むらかみはんは、ちょくよせ長男ちょうなん直次なおじ寛永かんえい15ねん(1638ねん)にちち先立さきだって死去しきょした。翌年よくねんにはちちちょくよせくなり直次なおじ長男ちょうなんでわずか4さい直定なおさだあとぐことになったが、寛永かんえい19ねん(1642ねん)に夭折ようせつし、村上むらかみはん堀家ほりいえ直政なおまさけい嫡流ちゃくりゅう)は断絶だんぜつした。

ほりただしとき本家ほんけ村上むらかみはん断絶だんぜつ所領しょりょうげとなったのちも、安田やすだはん3まんせき領有りょうゆうみとめられた。本家ほんけ遺臣いしんらにより村上むらかみのこりょう相続そうぞくねがたが、幕府ばくふからはみとめられなかった。 寛永かんえい21ねん1644ねん)5がつじきほり直吉なおきち時代じだい領地りょうちえと城主じょうしゅかくへの昇進しょうしんおこなわれて、安田やすだ陣屋じんやから村松むらまつしろうつしたことから、正式せいしき村松むらまつはんはじまった。

椎谷しいやはん

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元和がんわ2ねん1616ねん)7がつほり直政なおまさよんなん一説いっせつには三男さんなん)・ほり直之なおゆき大坂おおさかじんによる軍功ぐんこうみとめられて、越後えちごこく沼垂ぬったりぐんに5500せきあたえられ、椎谷しいや陣屋じんやいた。直之なおゆきあといだほりただしけい時代じだい関東かんとうに1まんせきあたえられ、大名だいみょうとなった。元禄げんろく11ねん1698ねん)、だい4だい当主とうしゅほりただしなだめ越後えちご沼垂ぬったり三島みしま蒲原かまはらさんぐんないにおいて1まんせきりょうし、椎谷しいや居住きょじゅうしたのが正式せいしき椎谷しいやはんはじまりである。

須坂すざかはん

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ほり直政なおまさなん一説いっせつにはよんなん)・ほりただしじゅうは、慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかひがしぐんくみして軍功ぐんこうげたことにより、下総しもうさ矢作やさくに2000せき信濃しなの須坂すざかに6000せき所領しょりょうあたえられた。慶長けいちょう19ねん1614ねん)からの大坂おおさかじんでも徳川とくがわかたとして参戦さんせんし、功績こうせきげて高井たかいぐんないに4000せき加増かぞうされた。この加増かぞうねんかんしては、元和がんわ元年がんねん1615ねんせつ元和がんわ2ねん1616ねんせつ[10][11]がある。当初とうしょは1まん2000せきだてはんしたが、だい2だいほりただします下総しもうさ国矢くにやさく2000せきのうち、1000せきつぎおとうとほり直昭なおあきに、さんおとうと末弟ばっていにそれぞれ500せきぶんしたため、須坂すざかはんは1まんせきとなった。

明治めいじ以降いこう

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村松むらまつ藩主はんしゅ椎谷しいや藩主はんしゅ須坂すざか藩主はんしゅ、いずれも明治維新めいじいしんまでつづき、維新いしんにはほりから奥田おくだ復姓ふくせいした。維新いしん3いえとも華族かぞくれっし、華族かぞくれい施行しこうにはきゅうしょうはん知事ちじ村松むらまつはんげんべいは2まん690せき椎谷しいやはんげんべいは4390せき須坂すざかはんげんべいは4330せきで、いずれもげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん)として子爵ししゃくいえれつした[12]村松むらまつ奥田おくだ子爵ししゃく邸宅ていたく東京とうきょう杉並すぎなみ西高にしこう井戸いど[13]椎谷しいや奥田おくだ子爵ししゃく邸宅ていたく京都きょうと左京さきょう下鴨松原しもがもまつばらまち[14]須坂すざか奥田おくだ子爵ししゃく邸宅ていたく東京とうきょう杉並すぎなみ下高井戸しもたかいどにあった[15]

利重とししげけい堀家ほりいえ交代こうたい寄合よりあい

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ほりしげるじゅう三男さんなん秀政ひでまさおとうと)・ほり利重とししげも、元和がんわ8ねん(1622ねん)に常陸ひたち玉取たまとりに1まんせき(のち加増かぞう分与ぶんよで1まん2せんせき)をあたえられ大名だいみょうれつした。嫡男ちゃくなん利長としながにはがなく、やしなえまごつうしゅうのべたから7ねん錯乱さくらんして家臣かしんりつけ、玉取たまとりはん改易かいえきのちつうしゅうおとうと利雄としお養子ようしむかえたうえで、3せんせき交代こうたい寄合よりあいとして家名かめい存続そんぞくゆるされた。

かく系統けいとう家紋かもん

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  • 藤原ふじわらじんりゅう斎藤さいとうぞく - みっもり亀甲きっこうから花菱はなびし亀甲きっこうから花菱はなびし釘抜くぎぬき、まるうめばち飯田いいだ堀家ほりいえ)、ひだりふじともみほりしげるむら家系かけい)、まるつたまるけんへんくえ(かたばみ)、まる沢瀉おもだか(おもだか)、まるいだ茗荷みょうがまるがりふじ
  • じんりゅうもと斯波しばぞく奥田おくだ - 亀甲きっこうから花菱はなびしみっもり亀甲きっこうから花菱はなびし釘抜くぎぬき(村松むらまつ堀家ほりいえ椎谷しいや堀家ほりいえ)、亀甲きっこうまんじ須坂すざか堀家ほりいえ)、まる釘抜くぎぬき、まるたが釘抜くぎぬき、いつふりからはなまるけんへんくえ
  • 藤原ふじわらしゅうきょうりゅう - まる木瓜ぼけ
  • 菅原すがわらぞく - うめはちまるはちじゅうむかうめまるいだ茗荷みょうが
  • 千葉ちば氏族しぞく - 九曜くようひだりどもえ
  • 若狭わかさ武田たけだぞく - まるさんきり
  • 宇多うたはじめ佐々木ささきぞく - よっすみかくひらよっまるけんへんくえ
  • じんりゅう大神おおがみぞく - まるけんへんくえ

戦国せんごく時代じだいほり秀政ひでまさみっもり亀甲きっこうから花菱はなびしほり直政なおまさ亀甲きっこうから花菱はなびし定紋じょうもんとし、とも釘抜くぎぬきを替紋かえもんとしていた。村松むらまつ堀家ほりいえ定紋じょうもん釘抜くぎぬきとし、飯田いいだ堀家ほりいえまるうめはち定紋じょうもんにしてからは、これらがほり代表だいひょうてき家紋かもんとしてげられることがおおい。ちょくきよし系統けいとう亀甲きっこうから花菱はなびし定紋じょうもんとしている(新発田しばたはんしんちょくきよしまごにあたる蔵人くろうど直隆なおたかが、村松むらまつから亀甲きっこうから花菱はなびし定紋じょうもんとしたいともうがあったさいゆるさぬ、と返答へんとうしたという逸話いつわっている)。まるのある家紋かもん装飾そうしょくおおくなった江戸えど中期ちゅうき以降いこう分家ぶんけ家紋かもんおもわれる。亀甲きっこうから花菱はなびし一般いっぱん流行りゅうこうどおりもんとなったため、ほりだけのものではなくなっている(「みっもり亀甲きっこうから花菱かりょう」は戦国せんごく時代じだい近江おうみ浅井あさい家紋かもんとしてもられている)。

脚注きゃくちゅう

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文献ぶんけん

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  • 都道府県とどうふけんべつ姓氏せいし家紋かもんだい事典じてん 東日本ひがしにっぽんへん』『どう 西日本にしにほんへんせん鹿野かのしげるしる 柏書房かしわしょぼう 2004
  • 姓氏せいし家系かけい歴史れきし伝説でんせつだい事典じてん志村しむら有弘ありひろへん
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか
  • 堀家ほりいえ歴史れきしほりただしけいしる 堀家ほりいえ歴史れきし研究けんきゅうかい 1967
  • 浅見あさみ雅男まさお華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ体面たいめん明治めいじリブロポート、1994ねん平成へいせい6ねん)。 
  • 小田部おたべ雄次ゆうじ華族かぞく 近代きんだい日本にっぽん貴族きぞく虚像きょぞう実像じつぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ1836〉、2006ねん平成へいせい18ねん)。ISBN 978-4121018366 
  • 新田にったかんさん内閣ないかく文庫ぶんこぞう諸侯しょこう年表ねんぴょう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1984ねん昭和しょうわ59ねん)。 
  • 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい華族かぞく大鑑たいかん日本にっぽん図書としょセンター日本人にっぽんじんぶつ叢書そうしょ7〉、1990ねん平成へいせい2ねん)。ISBN 978-4820540342