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夏目漱石 - Wikipedia

夏目なつめ漱石そうせき

日本にっぽん小説しょうせつ (1867-1916)

夏目なつめ 漱石そうせき(なつめ そうせき、1867ねん2がつ9にち慶応けいおう3ねん1がつ5にち〉 - 1916ねん大正たいしょう5ねん12月9にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ英文えいぶん学者がくしゃ武蔵むさしこく江戸えど牛込うしごめ馬場下ばばした横町よこちょうげん東京とうきょう新宿しんじゅく喜久井きくいまち出身しゅっしん本名ほんみょう夏目なつめ 金之助きんのすけなつめ きんのすけ俳号はいごう陀仏。

夏目なつめ 漱石そうせき
(なつめ そうせき)
1912ねん夏目なつめ漱石そうせき
誕生たんじょう 夏目なつめなつめ 金之助きんのすけきんのすけ
1867ねん2がつ9にち
武蔵むさしこく江戸えど牛込うしごめ馬場下ばばした横町よこちょうげん東京とうきょう新宿しんじゅく馬場下ばばしたまち
死没しぼつ (1916-12-09) 1916ねん12月9にち(49さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう牛込うしごめ早稲田南わせだみなみまちげん:東京とうきょう新宿しんじゅく早稲田南わせだみなみまち
墓地ぼち 雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん東京とうきょう豊島としま
職業しょくぎょう 教師きょうし小説しょうせつ評論ひょうろん英文えいぶん学者がくしゃ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん
教育きょういく 文学ぶんがく帝国ていこく大学だいがく1893ねん
最終さいしゅう学歴がくれき 帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん卒業そつぎょう
活動かつどう期間きかん 1905ねん - 1916ねん
ジャンル 小説しょうせつ俳句はいく漢詩かんし評論ひょうろん随筆ずいひつ
主題しゅだい 近代きんだい知識ちしきじん我執がしゅう個人こじん主義しゅぎ日本にっぽん近代きんだい
文学ぶんがく活動かつどう 余裕よゆうはん自然しぜん主義しゅぎ文学ぶんがく
代表だいひょうさく
デビューさく吾輩わがはいねこである』(1905ねん
配偶はいぐうしゃ 夏目なつめ鏡子きょうこ
子供こども 夏目なつめ純一じゅんいち長男ちょうなん
夏目なつめ伸六しんろく次男じなん
親族しんぞく 夏目なつめぼうかいまご
松岡まつおか陽子ようこマックレインまご
半藤はんどうまつ利子りしまご
夏目なつめ太郎たろう新田にった太郎たろうあにまご
夏目なつめ哲郎てつろう曾孫そうそん
夏目なつめ一人かずと曾孫そうそん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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明治めいじ末期まっきから大正たいしょう初期しょきにかけて活躍かつやくし、今日きょう通用つうようする言文げんぶん一致いっち現代げんだい言葉ことばつくった近代きんだい日本にっぽん文学ぶんがく文豪ぶんごうのうちの一人ひとり代表だいひょうさくは、『吾輩わがはいねこである』『っちゃん』『三四郎さんしろう』『それから』『こゝろ』『明暗めいあん』など。明治めいじ文豪ぶんごうとして日本にっぽんせんえん紙幣しへい肖像しょうぞうにもなった。講演こうえんろくに「わたし個人こじん主義しゅぎ」がある。漱石そうせき私邸してい門下生もんかせいあつまったかい木曜もくようかいばれた。

大学だいがく時代じだい正岡子規まさおかしき出会であい、俳句はいくまなんだ。帝国ていこく大学だいがく(のちの東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく現在げんざい東京大学とうきょうだいがく英文えいぶん卒業そつぎょう松山まつやま愛媛えひめけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう教師きょうし熊本くまもとだい高等こうとう学校がっこう教授きょうじゅなどをつとめたあと、イギリス留学りゅうがくだいロンドンカムデンランベスなどに居住きょじゅうした。帰国きこく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく講師こうしとしてえい文学ぶんがくこうじ、講義こうぎろくには『文学ぶんがくろん』がある。みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃまんてつ総裁そうさい鉄道てつどういん総裁そうさい東京とうきょう市長しちょう貴族きぞくいん議員ぎいんなどを歴任れきにんした官僚かんりょう出身しゅっしん政治せいじ中村なかむらただしおおやけ親友しんゆうとしてもられる。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

編集へんしゅう
 
夏目なつめ漱石そうせき誕生たんじょう
 
夏目なつめ漱石そうせきはは千枝ちえだ

夏目なつめ金之助きんのすけは、1867ねん2がつ9にち慶応けいおう3ねん1がつ5にち)に江戸えど牛込うしごめ馬場下ばばした現在げんざい東京とうきょう新宿しんじゅく喜久井きくいまち)にて、名主なぬし夏目なつめしょう兵衛ひょうえちょくかつ千枝ちえだ夫妻ふさい末子まっし五男いつお)として出生しゅっしょうした。ちちちょくかつ江戸えど牛込うしごめから高田馬場たかだのばばまでの一帯いったいおさめていた名主なぬしで、公務こうむあつかい、大抵たいてい民事みんじ訴訟そしょうもその玄関げんかんさきさばくほどで、かなりの権力けんりょくち、生活せいかつゆたかだった[1]。ただし、はは千枝ちえだ子沢山こだくさんうえ高齢こうれい出産しゅっさんしたことから「面目めんぼくない」とじたといわれている。

の「金之助きんのすけ」は、まれた庚申こうしんたり、このまれた赤子あかごだい泥棒どろぼうになるという迷信めいしんがあったことから厄除やくよけの意味いみで「かね」のれられたものである。また、3さいごろには疱瘡ほうそう天然痘てんねんとう)に罹患りかんし、このときできた痘痕いも目立めだつほどにのこることとなった。

金之助きんのすけ祖父そふ夏目なつめただしもと道楽者どうらくもの浪費ろうひへきがあり、ときさけうえ頓死とんししたとわれるほどのひとであったため、夏目なつめ財産ざいさんちょくもといちだいかたむいてしまった[1]。しかしちちちょくかつ努力どりょく結果けっか夏目なつめ相当そうとう財産ざいさんることができた。とはいえ、当時とうじ明治維新めいじいしん混乱こんらんであり、夏目なつめ名主なぬしとして没落ぼつらくしつつあったのか、金之助きんのすけ生後せいごすぐに四谷よつや古道具ふるどうぐ一説いっせつには八百屋やおや)に里子さとごされた。夜中よなかまで品物しなものとなりならんでているのをあね不憫ふびんおもい、実家じっかもどしたとつたわる。

幼少ようしょう

編集へんしゅう
 
5、6さいごろ金之助きんのすけ

金之助きんのすけはその1868ねん明治めいじ元年がんねん)11月、塩原しおばら昌之まさゆきすけのところへ養子ようしされた。塩原しおばらちょくかつ書生しょせい同様どうようにしてづかえたおとこであったが、どころがあるようにおもえたので、ちょくかつおな奉公人ほうこうにんの「やす」というおんな結婚けっこんさせ、新宿しんじゅく名主なぬしかぶってやった[2]。しかし、昌之まさゆきすけ女性じょせい問題もんだい発覚はっかくするなど塩原しおばら家庭かてい不和ふわになり、金之助きんのすけは7さいとき養母ようぼとともに一時いちじ生家せいかもどった。一時期いちじき漱石そうせきじつ父母ちちははのことを祖父母そふぼおもんでいたという。

養父母ようふぼ離婚りこんにより金之助きんのすけは9さいのとき生家せいかもどるが、実父じっぷ養父ようふ対立たいりつにより21さいまで夏目なつめへの復籍ふくせきおくれた。このように、漱石そうせき幼少ようしょう波乱はらんちていた。この養父ようふには、漱石そうせき朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃしてから、かね無心むしんをされるなど実父じっぷぬまで関係かんけいつづいた。養父母ようふぼとの関係かんけいは、自伝じでんてき小説しょうせつ道草みちくさ』の題材だいざいにもなっている。

1874ねん明治めいじ7ねん)、浅草あさくさ寿ことぶきまち戸田とだ学校がっこう下等かとう小学しょうがくだいはちきゅう入学にゅうがく金之助きんのすけ市ヶ谷いちがや学校がっこうにしきはな小学校しょうがっこうへと転校てんこうかえしたが、にしきはな小学校しょうがっこううつった理由りゆう東京とうきょうだいいち中学ちゅうがくへの入学にゅうがく目的もくてきであったともされている。

少年しょうねん時代じだい

編集へんしゅう

12さいとき東京とうきょうだいいち中学ちゅうがく正則せいそく府立ふりついちちゅう現在げんざい都立とりつ日比谷ひびや高校こうこう[注釈ちゅうしゃく 1]入学にゅうがくした。この当時とうじだいいち中学ちゅうがくには正則せいそく変則へんそくがあり、正則せいそくでは大学だいがく予備よびもん(のちの旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこう受験じゅけん必須ひっすであった英語えいご授業じゅぎょうおこなわれていなかったこと、また漢学かんがく文学ぶんがくこころざすため、2ねんほどの在籍ざいせき1881ねん明治めいじ14ねん)に中退ちゅうたいし、漢学かんがく私塾しじゅく二松學舍にしょうがくしゃ現在げんざい二松學舍大学にしょうがくしゃだいがく)に入学にゅうがくした。ただし、長兄ちょうけい夏目なつめ大助だいすけとがめられるのをきらい、中退ちゅうたい弁当べんとうっていちちゅうかようふりをしていた。なお、中学ちゅうがく中退ちゅうたい直前ちょくぜんには実母じつぼ千枝ちえだ死去しきょしており、そのショックと二松學舎にしょうがくしゃへの入学にゅうがくとは漱石そうせき内面ないめんでかなりふかくつながっていたのではないかと指摘してきされている[3]

しかし、長兄ちょうけい大助おおすけ文学ぶんがくこころざすことに反対はんたいしたためもあり、二松學舎にしょうがくしゃいちねん中退ちゅうたいした。大助だいすけ病気びょうき大学南だいがくみなみこう中退ちゅうたいし、警視庁けいしちょう翻訳ほんやくがかりをしていたが、出来できのよかった末弟ばってい金之助きんのすけ見込みこみ、大学だいがくさせて立身出世りっしんしゅっせをさせることで、夏目なつめ再興さいこうねがいをたそうとしていた。

2ねん1883ねん明治めいじ16ねん)、金之助きんのすけ英語えいごまなぶため、神田駿河台かんだするがだい英学えいがくじゅく成立せいりつ学舎がくしゃ[注釈ちゅうしゃく 2]入学にゅうがくし、頭角とうかくあらわした。

 
大学だいがく予備よびもん時代じだい漱石そうせき

1884ねん明治めいじ17ねん)、無事ぶじ大学だいがく予備よびもん入学にゅうがくした。大学だいがく予備よびもん受験じゅけん当日とうじつ隣席りんせき友人ゆうじんこたえをそっとおしえてもらっていたこともさいわいした。その友人ゆうじん合格ごうかくであった。大学だいがく予備よびもん時代じだい下宿げしゅく仲間なかまには、のちまんてつ総裁そうさいとなる中村なかむらただしおおやけがいる。予備よびもん時代じだい金之助きんのすけは「成立せいりつ学舎がくしゃ」の出身しゅっしんしゃらを中心ちゅうしんに、中村なかむらただしおおやけ太田おおた達人たつひと佐藤さとうともぐま橋本はしもとひだり五郎ごろう中川なかがわしょう十郎じゅうろうらとともに「じゅうにんかい」を組織そしきしている。

1886ねん明治めいじ19ねん)、大学だいがく予備よびもんだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう改称かいしょうされた。そのとし金之助きんのすけ虫垂炎ちゅうすいえんわずらい、きゅう進級しんきゅう試験しけんけられずこうとともに落第らくだいした。その江東こうとうじゅくなどの私立しりつ学校がっこう教師きょうしをするなどして自活じかつした。以後いご学業がくぎょうはげみ、ほとんどの教科きょうかにおいて首席しゅせきであった。とく英語えいご頭抜ずぬけてすぐれていた[注釈ちゅうしゃく 3]

正岡まさおか子規しきとの出会であ

編集へんしゅう
 
夏目なつめ漱石そうせき句碑くひ木屋こやまち宿やどをとりて川向かわむかいけいさんに はるかわへだてて 男女だんじょ哉」(京都きょうと中京ちゅうきょう御池みいけどおり木屋こや町東まちひがしにゅうル)。

1889ねん明治めいじ22ねん)、金之助きんのすけ同窓生どうそうせいとして漱石そうせき多大ただい文学ぶんがくてき人間にんげんてき影響えいきょうあたえることになる俳人はいじん正岡子規まさおかしき出会であった。子規しきがけた漢詩かんし俳句はいくなどの文集ぶんしゅう七草ななくさしゅう』が学友がくゆうらのあいだ回覧かいらんされたとき金之助きんのすけがその批評ひひょう巻末かんまつ漢文かんぶんいたことから、本格ほんかくてき友情ゆうじょうはじまった。このときはじめて漱石そうせきというごう使つかった。漱石そうせきは、とうだいの『すすむしょ』にある故事こじ漱石そうせきまくらりゅう」(いしに漱〔くちすす〕ぎながれにまくらす)からったもので、しみのつよいこと、わりものたとえである。「漱石そうせき」は子規しき数多かずおおペンネームのうちのひとつであったが、のち漱石そうせき子規しきからこれをゆずけている。

同年どうねん9がつ房州ぼうしゅう房総半島ぼうそうはんとう)をたびしたとき模様もよう漢文かんぶんでしたためた紀行きこう木屑きくずろく』の批評ひひょう子規しきもとめるなど、徐々じょじょ交流こうりゅうふかまっていった。漱石そうせきすぐれた漢文かんぶん漢詩かんし子規しきおどろいたという。以後いご子規しきとの交流こうりゅうは、漱石そうせきがイギリス留学りゅうがくちゅう1902ねん明治めいじ35ねん)に子規しきぼっするまでつづいた。

帝国ていこく大学だいがく入学にゅうがく

編集へんしゅう
 
帝国ていこく大学だいがく時代じだい漱石そうせき(1892ねん12がつ

1890ねん明治めいじ23ねん)、創設そうせつあいだもなかった帝国ていこく大学だいがく(のちの東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん入学にゅうがくした。この英文えいぶん明治めいじ20ねん新設しんせつされたばかりで、明治めいじ23ねん入学にゅうがくしたのは漱石そうせきだけで、2ねんじょう先輩せんぱいが1にんいるだけであり、3ねん後輩こうはい土井どい晩翠ばんすいがいる[4]。このころから厭世えんせい主義しゅぎ神経しんけい衰弱すいじゃくおちいはじめたともいわれる。1887ねん明治めいじ20ねん)の3がつ長兄ちょうけい大助おおすけ死別しべつ同年どうねん6がつ次兄じけい夏目なつめ栄之助えいのすけ死別しべつした。さらに直後ちょくご1891ねん明治めいじ24ねん)にはさんけい夏目なつめ和三郎わさぶろうつまとう死別しべつし、次々つぎつぎ近親きんしんしゃくしたことも影響えいきょうしている。漱石そうせきとう恋心こいごころいていたともわれ(江藤えとうあつしせつ)、しんふかきずけ、とうたいする気持きもちをしたためたなんじゅうしゅんでいる。

翌年よくねん特待とくたいせいえらばれ、J・M・ディクソン教授きょうじゅ依頼いらいで『方丈ほうじょう』の英訳えいやくなどをした。1892ねん明治めいじ25ねん)、兵役へいえきのがのために分家ぶんけし、貸費たいひせいであったため、北海道ほっかいどう岩内いわうちまちせきうつした[5]同年どうねん5がつあたりから東京とうきょう専門せんもん学校がっこう現在げんざい早稲田大学わせだだいがく)の講師こうしをしてみずか学費がくひかせはじめた。

漱石そうせき子規しき早稲田わせだあたりを一緒いっしょ散歩さんぽすることもあり、そのよう子規しきみずからの随筆ずいひつ墨汁ぼくじゅういちてき』で「この時余じよおどろいたこと漱石そうせき我々われわれ平生へいぜいくえしょべいはこのなえであることらなかったといふことである」とべている。

7がつ7にち大学だいがく夏期かき休業きゅうぎょう利用りようして、松山まつやま帰省きせいする子規しきとともに、はじめての関西かんさい方面ほうめんたびる。夜行やこう列車れっしゃ新橋しんばしち、8にち京都きょうと到着とうちゃくしてはくし、10日とおか神戸こうべ子規しきわかれて11にち岡山おかやま到着とうちゃくした。岡山おかやまでは、次兄じけい栄之助えいのすけつまであった小勝こかつ実家じっか片岡かたおかていに1かげつあまり逗留とうりゅうした。このあいだ、7がつ19にち松山まつやま子規しきから、学年がくねんまつ試験しけん落第らくだいしたので退学たいがくするとしるした手紙てがみとどいた。漱石そうせきは、その午後ごご翻意ほんいうなが手紙てがみおくり、「くならば 満月まんげつになけ ほととぎす」の一句いっくえた。その、8がつ10日とおか岡山おかやまち、松山まつやま子規しきもとかった。子規しきいえで、のちに漱石そうせき職業しょくぎょう作家さっかみちさそうことになる当時とうじ15さい高浜たかはま虚子きょし出会であった。子規しき1893ねん明治めいじ26ねん)3がつ大学だいがく中退ちゅうたいした。

英語えいご教師きょうしとして赴任ふにん

編集へんしゅう
 
高等こうとう師範しはん学校がっこう教師きょうし漱石そうせき(1894ねん3がつ

1893ねん明治めいじ26ねん)、漱石そうせき帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう文学ぶんがく部長ぶちょう外山とやま正一しょういち推薦すいせん[6]高等こうとう師範しはん学校がっこう英語えいご教師きょうしとなる。校長こうちょう嘉納かのう治五郎じごろうで、面接めんせつさい教育きょういくしゃとして学生がくせい模範もはんになれとわれ「わたしにはとてもつとまりかねる」と返答へんとうしている[7]夏目なつめにとって英語えいご指導しどうには負担ふたんかんじるものはなかったが、自身じしん考究こうきゅうしてきたのがえい文学ぶんがくであり英語えいごがくではないことや、教育きょういくしゃ育成いくせいする師範しはん学校がっこう学生がくせいの「模範もはん」であるべきものとしての資質ししつ葛藤かっとうがあり[8]、また恋愛れんあい問題もんだいがあったり1894ねん明治めいじ27ねん)2がつには血痰けったん結核けっかく検査けんさけるなど[9]極度きょくど神経しんけい衰弱すいじゃく強迫きょうはく観念かんねんにかられるようになる。かん虎雄とらおすすめで12月のれに鎌倉かまくら円覚寺えんかくじしゃく宗演そうえんした参禅さんぜんをするなどして治療ちりょうはかるも、効果こうかられなかった。

 
愛媛えひめけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう教師きょうし漱石そうせき(1896ねん3がつ

1895ねん明治めいじ28ねん)、東京とうきょうからげるように高等こうとう師範しはん学校がっこう辞職じしょくし、かん虎雄とらお斡旋あっせん愛媛えひめけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう旧制きゅうせい松山まつやま中学ちゅうがく現在げんざい松山東まつやまひがし高校こうこう)に英語えいご教師きょうしとして赴任ふにんした[10]松山まつやま子規しき故郷こきょうであり、ここで2かげつあまり静養せいようった。このころ子規しきとともに俳句はいく精進しょうじんし、数々かずかず佳作かさくのこしている。赴任ふにんちゅう陀仏あん下宿げしゅくしたが、52日間にちかんわたって正岡子規まさおかしき居候いそうろうした時期じきがあり、俳句はいく結社けっしゃ松風まつかぜかい」に参加さんか句会くかいひらいた。これはのちの漱石そうせき文学ぶんがく影響えいきょうあたえたとわれている。

1896ねん明治めいじ29ねん)、熊本くまもとだい高等こうとう学校がっこう熊本大学くまもとだいがく前身ぜんしん)の英語えいご教師きょうし赴任ふにんした(月給げっきゅう100えん)。親族しんぞくすすめもあり貴族きぞくいん書記官しょきかんちょう中根なかね重一しげかず長女ちょうじょ鏡子きょうこ結婚けっこんするが、3ねん鏡子きょうこれない環境かんきょう流産りゅうざんのためヒステリーしょうはげしくなり白川しらかわ井川淵いがわぶち投身とうしんはかるなど順風じゅんぷうまん夫婦ふうふ生活せいかつとはいかなかった。家庭かていめん以外いがいでは漱石そうせき俳壇はいだんでも活躍かつやくし、名声めいせいげていった。

1898ねん明治めいじ31ねん)、寺田てらだ寅彦とらひこだか学生がくせいたちが漱石そうせき盟主めいしゅ俳句はいく結社けっしゃむらさき溟吟しゃおこし、俳句はいく指導しどうをした。同社どうしゃおおくの俳人はいじん輩出はいしゅつし、九州きゅうしゅう熊本くまもと俳壇はいだん影響えいきょうあたえた[11]

イギリス留学りゅうがく

編集へんしゅう
 
1900ねん7がつごろ[12]、イギリス留学りゅうがくたり熊本くまもととみじゅう写真しゃしんかん撮影さつえいした送別そうべつ写真しゃしん[13]前列ぜんれつみぎ漱石そうせきひだりおく太一郎たいちろう後列こうれつひだり遠山とおやままいりりょうみぎだか生徒せいと木村きむら鎮太[12]
 
ロンドン滞在たいざい夏目なつめ漱石そうせき最後さいごいえランベス#関係かんけいしゃ参照さんしょう

1900ねん明治めいじ33ねん)5がつ文部省もんぶしょうより英語えいご教育きょういくほう研究けんきゅうのため(えい文学ぶんがく研究けんきゅうではない)、英国えいこく留学りゅうがくめいじられた。9月10にち日本にっぽん出発しゅっぱつ[14]最初さいしょ文部省もんぶしょうへのさるほうしょ報告ほうこくしょ)には「物価高ぶっかだか生活せいかつ困難こんなんナリじゅう磅(ポンド)ノ留学りゅうがくニテハ窮乏きゅうぼうかんじズ」と、官給かんきゅう学費がくひには問題もんだいがあった。メレディスディケンズをよくあさった。大学だいがく講義こうぎ授業じゅぎょうりょうを「はらい(はら)ヒ聴ク価値かちナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンえい文学ぶんがく聴講ちょうこうをやめて、『永日えいじつ小品しょうひん』にもてくるシェイクスピア研究けんきゅうウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人こじん教授きょうじゅけ、また『文学ぶんがくろん』の研究けんきゅういそしんだが、えい文学ぶんがく研究けんきゅうへの違和感いわかんがぶりかえし、ふたた神経しんけい衰弱すいじゃくおちいはじめた。「よる下宿げしゅくさんかいニテツクヅク日本にっぽん前途ぜんとこうフ……」とべ、なん下宿げしゅく転々てんてんとした。このロンドンでの滞在たいざいちゅうに、ロンドンとうおとずれたさい随筆ずいひつ倫敦ろんどんとう』がかれている。

1901ねん明治めいじ34ねん)、化学かがくしゃ池田いけだ菊苗きくなえと2かげつあいだ同居どうきょすることであらたな刺激しげきけ、下宿げしゅく一人ひとりこもって研究けんきゅう没頭ぼっとうはじめた。その結果けっかいままでいのあった留学生りゅうがくせいとの交流こうりゅう疎遠そえんになり、文部省もんぶしょうへのさるほうしょ白紙はくしのまま本国ほんごくおくり、土井どい晩翠ばんすいによれば下宿げしゅく女性じょせい主人しゅじん心配しんぱいするほどの「おどろくべき様子ようす猛烈もうれつ神経しんけい衰弱すいじゃく」におちいった。1902ねん明治めいじ35ねん)9がつ芳賀はが矢一やいちらがおとずれたさいには「はやめて帰朝きちょう帰国きこく)させたい、多少たしょうがはれるだろう、文部省もんぶしょう当局とうきょくはなそうか」とはなしたためか、「夏目なつめ発狂はっきょう」のうわさ文部省もんぶしょうないながれた。漱石そうせき急遽きゅうきょ帰国きこくめいじられ、同年どうねん12がつ5にちにロンドンをつことになった。帰国きこくふねには、ドイツ留学りゅうがくえた精神せいしん斎藤さいとう紀一きいちがたまたま同乗どうじょうしていた[15]精神せいしん同乗どうじょうった漱石そうせき親族しんぞくは、これを漱石そうせき精神病せいしんびょうわずらっているためであろうと、いよいよ心配しんぱいしたという[16]

当時とうじ漱石そうせき最後さいご下宿げしゅく反対はんたいがわには、1984ねん昭和しょうわ59ねん)に恒松つねまつ郁生いくおによって「ロンドン漱石そうせき記念きねんかん」が設立せつりつされた。漱石そうせき下宿げしゅく出会であった人々ひとびとんだ書籍しょせきなどを展示てんじ一般いっぱん公開こうかいされていたが、イギリスの欧州おうしゅう連合れんごう(EU)離脱りだつへのうごきによる影響えいきょうで、2016ねん9がつまつをもって閉館へいかん[17]漱石そうせきファンからのつよ要望ようぼうで、2019ねん5がつ8にち、ロンドン南郊なんこうサリーしゅうにある恒松つねまつたく一部いちぶ改装かいそうして再開さいかいされた[18]

帰国きこく教職きょうしょくつとめる

編集へんしゅう
 
帰国きこく漱石そうせき居住きょじゅうした千駄木せんだぎ邸宅ていたく現在げんざい博物館はくぶつかん明治めいじむら移築いちく)。漱石そうせきまえもり鷗外んでいた。

1903ねん明治めいじ36ねん)1がつ20日はつか英国えいこく留学りゅうがくから帰国きこくした[19]。3月3にち東京とうきょう本郷ほんごう駒込こまごめ千駄木せんだぎまち57番地ばんち転入てんにゅう現在げんざい文京ぶんきょう向丘むこうがおか2-20-7、千駄木せんだぎえき徒歩とほやく10ふん現在げんざい日本医科大学にほんいかだいがく同窓どうそう会館かいかん敷地しきちない記念きねんあり)。同月どうげつまつせきいていただい高等こうとう学校がっこう教授きょうじゅ辞任じにんした。同年どうねん4がつ第一高等学校だいちこうとうがっこう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく講師こうしになった(年俸ねんぽう高校こうこう700えん大学だいがく800えん)。当時とうじいち高校こうこうちょうは、親友しんゆう狩野かの亨吉こうきちであった[注釈ちゅうしゃく 4]

東京帝大とうきょうていだいでは小泉こいずみ八雲やくも後任こうにんとして教鞭きょうべんったが、前任ぜんにんしゃであった八雲やくもの、一度いちどくちけばたちまち教室きょうしつ全体ぜんたい詩的してき空気くうきつつわせてしまうような講義こうぎたいし、漱石そうせき分析ぶんせきてきかた講義こうぎ不評ふひょうで、学生がくせいによる八雲やくも留任りゅうにん運動うんどうこったり、不平ふへい不満ふまん陰口かげぐちにされてけなされるなどした。川田かわたじゅんのように「ヘルン先生せんせいのいない文科ぶんかまなぶことはない」と法科ほうかてんじた学生がくせいもいた。

また、当時とうじいちだかでのちの生徒せいと藤村ふじむらみさおがおり、ある授業じゅぎょうちゅう態度たいどわるさを漱石そうせき叱責しっせきされた数日すうじつ華厳けごんたき入水じゅすい自殺じさつしてしまい、それにともないちだか生徒せいと同僚どうりょう教師きょうしたちだけでなく、事件じけん衝撃しょうげきけた知識ちしきじんたちあいだで「漱石そうせき藤村ふじむらいやった」とわれのないうわさささやかれることとなった。漱石そうせきは、藤村ふじむらかんし『吾輩わがはいねこである』に冗談じょうだんめかして言及げんきゅうする[注釈ちゅうしゃく 5]一方いっぽうで、『草枕くさまくら』のなか言及げんきゅう批評ひひょうおこなっている[注釈ちゅうしゃく 6]

こうした職場しょくばでの風評ふうひょう被害ひがいさいなまれて苦悩くのうした結果けっか、とうとう漱石そうせき神経しんけい衰弱すいじゃくわずらってしまい、授業じゅぎょうちゅう家庭かていにおいて頻繁ひんぱん癇癪かんしゃくこしてはあばれまわるようになり、欠席けっせき代講だいこうえ、つまともやく2かげつ別居べっきょした。1904ねん明治めいじ37ねん)にはある程度ていどきをもどし、明治大学めいじだいがく講師こうしつとめた(月給げっきゅう30えん)。

吾輩わがはいねこである』『っちゃん』などを執筆しっぴつ

編集へんしゅう
 
千駄木せんだぎてい書斎しょさい漱石そうせき(1906ねん

そのとしれ、高浜たかはま虚子きょしから神経しんけい衰弱すいじゃく治療ちりょう一環いっかん創作そうさくすすめられ、処女しょじょさくになる『吾輩わがはいねこである』を執筆しっぴつした。はじめて子規しき門下もんかかいやまかい」で発表はっぴょうされ、好評こうひょうはくした。1905ねん明治めいじ38ねん)1がつ、『ホトトギス』に1かいりとして掲載けいさいされたが、好評こうひょうのため続編ぞくへん執筆しっぴつした。このころから作家さっかとしてきていくことを熱望ねつぼうはじめ、その倫敦ろんどんとう』『ぼうつちやん』とつづけに作品さくひん発表はっぴょうし、人気にんき作家さっかとしての地位ちいかためていった。漱石そうせき作品さくひん世俗せぞくわすれ、人生じんせいをゆったりとながめようとする低徊ていかい趣味しゅみ漱石そうせき造語ぞうごてき要素ようそつよく、当時とうじ主流しゅりゅうであった自然しぜん主義しゅぎとは対立たいりつする余裕よゆうばれた。

1906ねん明治めいじ39ねん)、漱石そうせきいえには小宮こみや豊隆とよたか鈴木すずき三重吉みえきち森田もりた草平そうへいなどが出入でいりしていたが、作家さっかとしての名声めいせいたかまるにつれて来客らいきゃくおおくなり、仕事しごと支障ししょうをきたしはじめ、鈴木すずき毎週まいしゅう面会めんかい木曜日もくようびさだめた。このだれてもよいことにしたので、漱石そうせき書斎しょさいおおくの門下生もんかせいあつまってかたうサロンのようなになり、やがて「木曜もくようかい」とばれるようになった(1906ねん10がつ8にちづけ書簡しょかんによれば、10月11にちから。)。

朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃ

編集へんしゅう
 
漱石そうせき東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく総長そうちょう濱尾はまおしんてた辞表じひょう(1907ねん

1907ねん明治めいじ40ねん)2がつ一切いっさい教職きょうしょくし、池辺いけべ三山さんざんわれて朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃした(月給げっきゅう200えん)。この当時とうじにち戦争せんそう販売はんばいすうきゅう拡大かくだいさせていた新聞しんぶん各社かくしゃ終戦しゅうせんによる部数ぶすう低下ていか回避かいひするため本格ほんかく文学ぶんがく掲載けいさい傾斜けいしゃしており、漱石そうせき読売よみうり大阪おおさか朝日あさひ両方りょうほうから入社にゅうしゃもうまれていた。大阪おおさか朝日あさひ入社にゅうしゃ条件じょうけん関西かんさい転居てんきょすることがふくまれていたため漱石そうせき難色なんしょくしめし、東京とうきょう朝日あさひ入社にゅうしゃうえ大阪おおさか東京とうきょう両紙りょうし連載れんさいおこなうことがめられた。また、当時とうじ京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく初代しょだい学長がくちょう現在げんざい文学ぶんがく部長ぶちょう相当そうとう)になっていた狩野かの亨吉こうきちからの英文えいぶん教授きょうじゅへのさそいがあったがこれもことわり、本格ほんかくてき職業しょくぎょう作家さっかとしてのみちあゆはじめた。

同年どうねん6がつ職業しょくぎょう作家さっかとしてのはじめての作品さくひん虞美人草ぐびじんそう』の連載れんさい開始かいし執筆しっぴつ途中とちゅうに、神経しんけい衰弱すいじゃく胃病いびょうくるしめられた。1908ねん明治めいじ41ねん)3がつ23にち平塚ひらつか明子あきこ平塚ひらつからいてう)栃木とちぎけん塩原しおばら心中しんちゅうの未遂みすい事件じけんこした門下もんか森田もりた草平そうへい後始末あとしまつ奔走ほんそうした(塩原しおばら事件じけん)。

1909ねん明治めいじ42ねん)、親友しんゆうだったみなみ満州まんしゅう鉄道てつどう総裁そうさい中村なかむらただしおおやけまねきで満州まんしゅう朝鮮ちょうせん旅行りょこうした。この旅行りょこう記録きろくは『朝日新聞あさひしんぶん』に「まんかんところどころ」として連載れんさいされる。

同年どうねん10がつまんかん旅行りょこうからの帰途きと大阪おおさからす長谷川はせがわ如是閑にょぜかんたずねる。このおり浜寺はまでら料理りょうりてんにもく。[20]

三四郎さんしろう』『それから』『もん』の前期ぜんきさんさく

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漱石そうせき全集ぜんしゅうだいはちかん 行人こうじん』より(1912ねん10がつ

1910ねん明治めいじ43ねん)6がつ、『三四郎さんしろう』『それから』につづ前期ぜんきさんさくの3さくにあたる『もん』を執筆しっぴつ途中とちゅう胃潰瘍いかいよう長与ながよ胃腸いちょう病院びょういん長與ながよ胃腸いちょう病院びょういん)に入院にゅういんした。

同年どうねん8がつ療養りょうようのため門下もんか松根東洋城まつねとうようじょうすすめで伊豆いず修善寺しゅぜんじかけ、菊屋きくや旅館りょかん転地てんち療養りょうようした。しかしそこで疾患しっかんになり、800 gにもおよだい吐血とけつこし、生死せいしあいだ彷徨ほうこう危篤きとく状態じょうたいおちいった。これが修善寺しゅぜんじ大患たいかんばれる事件じけんである。

このとき一時いちじてきな「」を体験たいけんしたことは、その作品さくひん影響えいきょうあたえることとなった。漱石そうせき自身じしんも『おもすことなど』で、このときのことにれている。さい晩年ばんねん漱石そうせきは「のりてんわたし」を理想りそうとしていたが、このとき心境しんきょうあらわしたものではないかとわれる。『硝子がらすなか』では、本音ほんねちか真情しんじょう吐露とろられる。同年どうねん10がつ容態ようだいき、長与ながよ病院びょういんもどさい入院にゅういんした。その胃潰瘍いかいようなどの病気びょうきなんくるしめられた。

彼岸ひがんまで』『行人こうじん』『こゝろ』の後期こうきさんさく

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早稲田南わせだみなみまち邸宅ていたく漱石そうせきやまぼう」における晩年ばんねん漱石そうせき(1915ねん7がつ

1911ねん明治めいじ44ねん)8がつ関西かんさいでの講演こうえん直後ちょくご胃潰瘍いかいよう再発さいはつし、大阪おおさか大阪おおさか胃腸いちょう病院びょういん入院にゅういんした。東京とうきょうもどったのちは、にかかり通院つういんした。

1912ねん大正たいしょう元年がんねん)9がつさい手術しゅじゅつけた。同年どうねん12がつには、『行人こうじん』も病気びょうきのためはじめて執筆しっぴつ中絶ちゅうぜつした。

1913ねん大正たいしょう2ねん)は、神経しんけい衰弱すいじゃく胃潰瘍いかいようで6がつごろまでなやまされた。

1914ねん大正たいしょう3ねん)9がつ、4度目どめ胃潰瘍いかいよう病臥びょうがした。晩年ばんねんやまいとのたたかいをつづけながらの執筆しっぴつつづいた。作品さくひん人間にんげんエゴイズムもとめていき、後期こうきさんさくばれる『彼岸ひがんまで』『行人こうじん』『こゝろ』へとつながっていく。

 
夏目なつめ漱石そうせきはか雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん

1915ねん大正たいしょう4ねん)3がつ京都きょうと旅行りょこうし、そこで5度目どめ胃潰瘍いかいようたおれた。6月3にちより『吾輩わがはいねこである』執筆しっぴつ当時とうじ環境かんきょう回顧かいこし、『道草みちくさ』の連載れんさい開始かいしした[21]1916ねん大正たいしょう5ねん)には糖尿とうにょうびょうにもなやまされた。そのとし辰野たつのたかし結婚式けっこんしき出席しゅっせきして12月9にち腹腔ふくこうない出血しゅっけつ[22]こし『明暗めいあん執筆しっぴつ途中とちゅう自宅じたく死去しきょした。50さいぼつ(49さい10かげつ)。

最期さいご言葉ことばは、寝間着ねまきむねをはだけながらさけんだ「ここにみずをかけてくれ、ぬとこまるから」であったという。だが、よんじょ愛子いとしごしてそれをつまである鏡子きょうこ注意ちゅういしたときに漱石そうせきがなだめて「いいよいいよ、もういてもいいんだよ」とったことが、最期さいご言葉ことばともされる[注釈ちゅうしゃく 7]

翌日よくじつ遺体いたい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ解剖かいぼうしつにおいて長與ながよ又郎またろうによって解剖かいぼうされた。そのさい摘出てきしゅつされたのう寄贈きぞうされた。のうは、現在げんざいもエタノールにけられた状態じょうたい東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ保管ほかんされている。おもさは1,425グラムであった。戒名かいみょう文献ぶんけんいん古道ふるみち漱石そうせき居士こじ遺体いたい落合おちあい斎場さいじょう荼毘だびされ、墓所はかしょ東京とうきょう豊島としま南池袋みなみいけぶくろ雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん(1しゅ14ごう1がわ3ばん)。

1984ねん昭和しょうわ59ねん)から2004ねん平成へいせい16ねん)まで発行はっこうされた日本銀行にっぽんぎんこうけんDせんえんけん肖像しょうぞう採用さいようされた。

りゃく年譜ねんぷ

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  • 1867ねん慶応けいおう3ねん1がつ5にち - 江戸えど牛込うしごめ馬場下ばばした横町よこちょうげん東京とうきょう新宿しんじゅく喜久井きくいまち)にちち夏目なつめしょう兵衛ひょうえちょくかつはは千枝ちえだおとことしてまれる。夏目なつめ代々だいだい名主なぬしであったが、当時とうじ家運かうんおとろえていたため、生後せいごあいだもなく四谷よつや古道具ふるどうぐ里子さとごされたものの、すぐにもどされる。
  • 1868ねん明治めいじ元年がんねん)11月 - 新宿しんじゅく名主なぬし塩原しおばら昌之まさゆきすけ養子ようしとなり、塩原しおばらせい名乗なのる。
  • 1869ねん明治めいじ2ねん) - 養父ようふ昌之まさゆきすけ浅草あさくさの添年寄としよりとなり浅草あさくさ三間みままち移転いてん
  • 1870ねん明治めいじ3ねん) - 種痘しゅとうがもとで疱瘡ほうそうみ、かお瘢痕はんこん(あばた)がのこ[注釈ちゅうしゃく 8]。「ひと夏目なつめ鬼瓦おにがわら」というかぞうたつくられるほど、痘痕いも目立めだった。
  • 1874ねん明治めいじ7ねん) - 養父ようふ昌之まさゆきすけ養母ようぼ・やすが不和ふわになり、一時いちじ喜久井きくいまち生家せいかられた。浅草あさくさ寿ことぶきまち戸田とだ学校がっこう下等かとう小学しょうがくだいはちきゅう(のち台東たいとう区立くりつ精華せいか小学校しょうがっこうげん台東たいとう区立くりつ蔵前くらのまえ小学校しょうがっこう)に入学にゅうがく
  • 1876ねん明治めいじ9ねん) - 養母ようぼ塩原しおばら離縁りえんされ、塩原しおばら在籍ざいせきのまま養母ようぼとともに生家せいかうつった。市ケ谷いちがややなぎまち市ケ谷いちがや学校がっこうげん新宿しんじゅく区立くりつあい小学校しょうがっこう)に転校てんこう
 
11、12さいごろ金之助きんのすけ
 
大学だいがく予備よびもん時代じだい金之助きんのすけ(1886ねん
 
1891ねん金之助きんのすけ富士ふじ登山とざん記念きねん撮影さつえい
 
帝国ていこく大学だいがく時代じだい漱石そうせき(1892ねん6がつ
 
漱石そうせき松山まつやま時代じだいにおける寓居ぐうきょ陀仏あん
 
だい高等こうとう学校がっこう教授きょうじゅ時代じだい漱石そうせき
 
第一高等学校だいちこうとうがっこう本館ほんかん玄関げんかんまえ漱石そうせき(1907ねん2がつ
  • 1903ねん明治めいじ36ねん
    • 4がつ - 第一高等学校だいちこうとうがっこう講師こうしになり、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく講師こうし兼任けんにん
    • 10月 - さんじょ栄子えいこ誕生たんじょう水彩すいさいはじめ、しょもよくした。
  • 1904ねん明治めいじ37ねん)4がつ - 明治大学めいじだいがく講師こうし兼任けんにん
  • 1905ねん明治めいじ38ねん)1がつ - 『吾輩わがはいねこである』を『ホトトギス』に発表はっぴょう翌年よくねん8がつまで断続だんぞく連載れんさい)。
    • 12月 - よんじょ愛子あいこ誕生たんじょう
  • 1906ねん明治めいじ39ねん)4がつ - 『ぼうつちやん』を『ホトトギス』に発表はっぴょう
  • 1907ねん明治めいじ40ねん
    • 1がつ - 『野分のわけ』を『ホトトギス』に発表はっぴょう
    • 4がつ - 一切いっさい教職きょうしょくし、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃ職業しょくぎょう作家さっかとしてのみちあゆはじめる。
    • 6がつ - 長男ちょうなんじゅんいち誕生たんじょう。『虞美人草ぐびじんそう』を『朝日新聞あさひしんぶん』に連載れんさい( - 10がつ)。
    • 9月 - 牛込うしごめ早稲田南わせだみなみまち番地ばんち転居てんきょ[25]
  • 1908ねん明治めいじ41ねん
    • 1月『坑夫こうふ』( - 4がつ)、6月『文鳥ぶんちょう』、7月『ゆめじゅう』( - 8がつ)、9月『三四郎さんしろう』( - 12月)を『朝日新聞あさひしんぶん』に連載れんさい
    • 12月 - 次男じなん伸六しんろく誕生たんじょう
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)3がつ - 養父ようふからかね無心むしんされ、そのような事件じけんが11月までつづいた。
  • 1910ねん明治めいじ43ねん
    • 3月 - じょひな誕生たんじょう
    • 6がつ - 胃潰瘍いかいようのため内幸町うちさいわいちょう長与ながよ胃腸いちょう病院びょういん入院にゅういん
    • 8がつ - 療養りょうようのため修善寺しゅぜんじ温泉おんせん転地てんち同月どうげつ24にちよるだい吐血とけつがあり、一時いちじ危篤きとく状態じょうたいおちいる。
    • 10月 - 長与ながよ病院びょういん入院にゅういん
  • 1911ねん明治めいじ44ねん
    • 2がつ21にち - 文部省もんぶしょうからの文学ぶんがく博士はかせごう授与じゅよ辞退じたい[26]
    • 8がつ - 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ主催しゅさい講演こうえんかいのために明石あかし和歌山わかやまさかい大阪おおさかき、大阪おおさか胃潰瘍いかいよう再発さいはつし、湯川ゆかわ胃腸いちょう病院びょういん入院にゅういん
    • 11月29にち - じょひな原因げんいん不明ふめい突然とつぜん。のちの漱石そうせき遺体いたい解剖かいぼう遠因えんいんとなる。
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん
    • 1がつ - ひどいノイローゼ再発さいはつ
    • 3月 - 胃潰瘍いかいよう再発さいはつ。5月下旬げじゅんまで自宅じたく病臥びょうがした。北海道ほっかいどうから東京とうきょうさい転籍てんせきする。
 
漱石そうせきやまぼう書斎しょさい漱石そうせき(1914ねん

栄典えいてん

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作品さくひん一覧いちらん

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作品さくひん著作ちょさくけんはすでに消滅しょうめつし、パブリックドメインとなっている。

小説しょうせつ

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なか長編ちょうへん小説しょうせつ

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  • 吾輩わがはいねこである(1905ねん1がつ - 1906ねん8がつ、『ホトトギス』/1905ねん10がつ - 1907ねん5がつ大倉おおくら書店しょてん服部はっとり書店しょてん
  • ぼうつちやん(1906ねん4がつ、『ホトトギス』/1907ねん春陽しゅんようどうかんうずらかご収録しゅうろく
  • 草枕くさまくら(1906ねん9がつ、『しん小説しょうせつ』/『うずらかご収録しゅうろく
  • ひゃくじゅうにち(1906ねん10がつ、『中央公論ちゅうおうこうろん』/『うずらかご収録しゅうろく
  • 野分のわけ(1907ねん1がつ、『ホトトギス』/1908ねん春陽しゅんようどうかんくさあい収録しゅうろく
  • 虞美人草ぐびじんそう(1907ねん6がつ - 10月、『朝日新聞あさひしんぶん』/1908ねん1がつ春陽しゅんようどう
  • 坑夫こうふ(1908ねん1がつ - 4がつ、『朝日新聞あさひしんぶん』/『くさあい収録しゅうろく
  • 三四郎さんしろう(1908ねん9 - 12月、『朝日新聞あさひしんぶん』/1909ねん5がつ春陽しゅんようどう
  • それから(1909ねん6 - 10月、『朝日新聞あさひしんぶん』/1910ねん1がつ春陽しゅんようどう
  • もん(1910ねん3がつ - 6がつ、『朝日新聞あさひしんぶん』/1911ねん1がつ春陽しゅんようどう
  • 彼岸ひがんまで(1912ねん1がつ - 4がつ、『朝日新聞あさひしんぶん』/1912ねん9がつ春陽しゅんようどう
  • 行人こうじん(1912ねん12月 - 1913ねん11月、『朝日新聞あさひしんぶん』/1914ねん1がつ大倉おおくら書店しょてん
  • こゝろ(1914ねん4がつ - 8がつ、『朝日新聞あさひしんぶん』/1914ねん9がつ岩波書店いわなみしょてん
  • 道草みちくさ(1915ねん6がつ - 9月、『朝日新聞あさひしんぶん』/1915ねん10がつ岩波書店いわなみしょてん
  • 明暗めいあん(1916ねん5がつ - 12月、『朝日新聞あさひしんぶん』/1917ねん1がつ岩波書店いわなみしょてん

短編たんぺん小説しょうせつ小品しょうひん

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  • 倫敦ろんどんとう(1905ねん1がつ、『帝国ていこく文学ぶんがく』/1906ねん大倉おおくら書店しょてん服部はっとり書店しょてんかん『漾虚しゅう収録しゅうろく
  • 幻影げんえいたて(1905ねん4がつ、『ホトトギス』/『漾虚しゅう』)
  • きんのそら(1905ねん7がつ、『ななにん』/『漾虚しゅう収録しゅうろく
  • 一夜いちや(1905ねん9がつ、『中央公論ちゅうおうこうろん』/『漾虚しゅう収録しゅうろく
  • らっきょうゆき(かいろこう)(1905ねん9がつ、『中央公論ちゅうおうこうろん』/『漾虚しゅう収録しゅうろく
  • 趣味しゅみ遺伝いでん(1906ねん1がつ、『帝国ていこく文学ぶんがく』/『漾虚しゅう収録しゅうろく
  • 文鳥ぶんちょう(1908ねん6がつ、『大阪おおさか朝日あさひ』/1910ねん春陽しゅんようどうかんよんへん収録しゅうろく
  • ゆめじゅう(1908ねん7がつ - 8がつ、『朝日新聞あさひしんぶん』/『よんへん収録しゅうろく
  • 永日えいじつ小品しょうひん(1909ねん1がつ - 3月、『朝日新聞あさひしんぶん』/『よんへん収録しゅうろく

評論ひょうろん随筆ずいひつ講演こうえんなど

編集へんしゅう
評論ひょうろん
  • 文学ぶんがくろん(1907ねん5がつ大倉おおくら書店しょてん服部はっとり書店しょてん
  • 文学ぶんがく評論ひょうろん(1909ねん3がつ春陽しゅんようどう
随筆ずいひつ
 ・ まんかんところどころ(1909ねん
 ・ かん満所まんしょかん(1909ねん
  • おもことなど(1910ねん - 1911ねん、『朝日新聞あさひしんぶん』/1911ねん8がつ春陽しゅんようどうかん切抜きりぬきじょうより』収録しゅうろく
  • 硝子がらすなか(1915ねん1がつ - 2がつ、『朝日新聞あさひしんぶん』/1915ねん3がつ岩波書店いわなみしょてん
  • 点頭てんとうろく(1916ねん)
講演こうえん
  • 現代げんだい日本にっぽん開化かいか(1911ねん和歌山わかやまけんかい議事堂ぎじどう/1911ねん11月、朝日新聞あさひしんぶん合資ごうし会社かいしゃかん朝日あさひ講演こうえんしゅう収録しゅうろく
  • わたし個人こじん主義しゅぎ(1914ねん)。に「道楽どうらく職業しょくぎょう」「中味なかみ形式けいしき」「文芸ぶんげい道徳どうとく」などがある。
紀行きこう
  • カーライル博物館はくぶつかん(1905ねん、『がくあぶみ』/『漾虚しゅう収録しゅうろく
  • まんかんところどころ(1909ねん10がつ - 12月、『朝日新聞あさひしんぶん』/『よんへん収録しゅうろく
句集くしゅう詩集ししゅう
  • 漱石そうせき俳句はいくしゅう(1917ねん11月、岩波書店いわなみしょてん
  • 漱石そうせき詩集ししゅう 印譜いんぷ(1919ねん6がつ岩波書店いわなみしょてん
新体詩しんたいし
  • 従軍じゅうぐんぎょう(1904ねん5がつ、『帝国ていこく文学ぶんがく』10かん5ごう
  • 我輩わがはいはおさきくらねこである

全集ぜんしゅう

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  • 漱石そうせき全集ぜんしゅう(1993ねん - 1999ねん岩波書店いわなみしょてんぜん28かん別巻べっかん1)。2016ねん12月より新版しんぱんかん
    1. 吾輩わがはいねこである
    2. 倫敦ろんどんとうほか・ぼうつちやん
    3. 草枕くさまくらひゃくじゅうにち野分のわけ
    4. 虞美人草ぐびじんそう
    5. 坑夫こうふ三四郎さんしろう
    6. それから・もん
    7. 彼岸ひがんまで
    8. 行人こうじん
    9. しん
    10. 道草みちくさ
    11. 明暗めいあん
    12. 小品しょうひん
    13. えい文学ぶんがく研究けんきゅう
    14. 文学ぶんがくろん
    15. 文学ぶんがく評論ひょうろん
    16. 評論ひょうろんほか
    17. 俳句はいく詩歌しか
    18. かん詩文しぶん
    19. 日記にっき断片だんぺん じょう
    20. 日記にっき断片だんぺん
    21. ノート
    22. 書簡しょかん じょう
    23. 書簡しょかん ちゅう
    24. 書簡しょかん
    25. 別冊べっさつ じょう
    26. 別冊べっさつ ちゅう
    27. 別冊べっさつ
    28. そう索引さくいん
      1. 漱石そうせき言行げんこうろく
  • 漱石そうせき文学ぶんがく全集ぜんしゅう(1982ねん - 1983ねん集英社しゅうえいしゃぜん10かん
  • 夏目なつめ漱石そうせき全集ぜんしゅう(1987ねん - 1988ねんちくま文庫ぶんこぜん10かん
    • 旧版きゅうばん夏目なつめ漱石そうせき全集ぜんしゅう 筑摩ちくま全集ぜんしゅう類聚るいじゅう」 (筑摩書房ちくましょぼうぜん10かん別巻べっかん1)
  • 漱石そうせき新聞しんぶん小説しょうせつ復刻ふっこく全集ぜんしゅう(1999ねんゆまに書房しょぼうぜん11かん
  • 漱石そうせき雜誌ざっし小説しょうせつ復刻ふっこく全集ぜんしゅう(2001ねんゆまに書房しょぼうぜん5かん
  • 漱石そうせき評論ひょうろん講演こうえん復刻ふっこく全集ぜんしゅう(2002ねんゆまに書房しょぼうぜん8かん

映像えいぞう作品さくひん

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家族かぞく親族しんぞく

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夏目なつめ

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夏目なつめ系図けいずによると、夏目なつめ先祖せんぞ清和せいわはじめまんかいりゅう夏目なつめ一族いちぞくであり、三河みかわこく徳川とくがわ家臣かしんであった夏目なつめ吉信よしのぶ広次ひろつぐ)とは先祖せんぞ夏目なつめ国平くにへいおなじくする同族どうぞくたる。夏目なつめ先祖せんぞ武田たけだつかえ、甲斐かいこく八代やしろぐん夏目なつめ邑をたまわり、それからすうだい武田たけだ勝頼かつより没落ぼつらくしたため、当時とうじ当主とうしゅ夏目なつめ信頼しんらい武蔵むさしこく埼玉さいたまぐん岩槻いわつき邑にうつり、太田おおたぼうつかえ、その岩槻いわつきはんりょうした高力こうりききよしちょうつかえた[29]せい病気びょうきのために隠退いんたいして郷士ごうしとなり、豊島としまぐんうしかごむらにうつった[29]1702ねん元禄げんろく15ねん旧暦きゅうれき4がつせい夏目なつめ兵衛ひょうえ直情ちょくじょうとき名主なぬしにんじられたという[1][29]。ただし渡辺わたなべ三男みつお旗本はたもと夏目なつめ高力こうりき系図けいず比較ひかくして世代せだいすうすくなすぎることや、つう連続れんぞくせいがないなど、夏目なつめ家系かけいには不審ふしんてんがあるとしている[30]

夏目なつめ苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされ、奉行ぶぎょうしょはいさいのみかたなをはずすという待遇たいぐうみとめられていた[30]現在げんざい新宿しんじゅく存在そんざいする“夏目なつめざか”は、漱石そうせきちちちょくかつにより名付なづけられた。生誕せいたんいしぶみさかめんしている。

家紋かもん定紋じょうもん)が“井桁いげたきく”であることから町名ちょうめい喜久井きくいまちとしたのも、ちょくかつであった[注釈ちゅうしゃく 10]。なお、漱石そうせき自身じしん家紋かもんは「きくひし」である。これは漱石そうせき長男ちょうなんでないため、分家ぶんけあかしとしてもちいているとかんがえられる(本家ほんけ分家ぶんけ はちが家紋かもんもちいるのが通常つうじょうである)。

  • ちちちょくかつはは千枝ちえだ(ちゑ)になんいちじょがあり、漱石そうせきなんである。千枝ちえだちょくかつ後妻ごさいであり、伊豆いずきょうという新宿しんじゅく遊女ゆうじょむすめだった。『夏目なつめ漱石そうせき じん作品さくひん3』 11ぺーじによると、「遊女ゆうじょ当時とうじはそれほど卑(いや)しい職業しょくぎょうとみなされず、一種いっしゅ社交しゃこうじょうとされていた。その家族かぞくみせべつみ、遊芸ゆうげいちゃをしてごすというふうで、趣味しゅみてき生活せいかつをしていたのである。しかしちょくかつはやはり世間体せけんていかんがえにれた。そこで千枝ちえあね嫁入よめいさきの、しば薩摩さつまはん出入でいりのすみ問屋とんや高橋たかはしちょう左衛門さえもんいもうととして結婚けっこんしたが、表向おもてむきは四谷よつや大番おおばんまち鍵屋かぎやという質屋しちやからとついだことにしていた。そのため漱石そうせきは、終生しゅうせいはは実家じっか質屋しちやだとおもんでいたらしいという。ちょくかつ先妻せんさいとのあいだ二女じじょ異母いぼあね)がいる。
  • さんけいかず三郎さぶろう夏目なつめただしのり)のまごに、芸能げいのうプロダクション経営けいえいしゃVISAカードのCFで漱石そうせきやくえんじた夏目なつめ太郎たろう新田にった太郎たろう)がいる[31][32][33]
  • さんけいかず三郎さぶろう夏目なつめただしのり)のべつまご朝日新聞社あさひしんぶんしゃいん(『週刊しゅうかん朝日あさひふく編集へんしゅうちょう、『アサヒカメラ編集へんしゅうちょう、『図書としょ編集へんしゅうちょう、『美術びじゅつ図書としょ編集へんしゅうちょうなどを歴任れきにん)の角田つのだ秀雄ひでお[34]
  • つま - 夏目なつめ鏡子きょうことのあいだに2なん5じょ
    • 次女じじょ恒子つねこは、『其面影おもかげ』をあらわしている。
    • よんじょ愛子あいこは、津田つだ青楓せいふう少女しょうじょぞうのモデルとなっている。
    • じょひなは1さいくなっている。そのほぞいとぐち発見はっけんされ、東北大学とうほくだいがく購入こうにゅうしている[35]

子供こどもらの生年月日せいねんがっぴつぎのようになっている。

  • 明治めいじ32ねん(1899ねん)5がつ31にち - 長女ちょうじょ ひつ誕生たんじょう下記かき参照さんしょう
  • 明治めいじ34ねん(1901ねん)1がつ26にち - 次女じじょ 恒子つねこ誕生たんじょう江副えぞえとつぐも離婚りこん昭和しょうわ11ねん (1936ねん)に病死びょうしする。
  • 明治めいじ36ねん(1903ねん)11月3にち - さんじょ 栄子えいこ誕生たんじょう生涯しょうがい独身どくしんつらぬはは世話せわをした。昭和しょうわ54ねん (1979ねん)に死去しきょする。
  • 明治めいじ38ねん(1905ねん)12月14にち - よんじょ 愛子あいこ誕生たんじょう仲地なかちとつぐ。昭和しょうわ56ねん (1981ねん)に死去しきょする。
  • 明治めいじ40ねん(1907ねん)6がつ5にち - 長男ちょうなん 純一じゅんいつ誕生たんじょう個別こべつ記事きじ参照さんしょう
  • 明治めいじ41ねん(1908ねん)12月17にち - 次男じなん 伸六しんろく誕生たんじょう個別こべつ記事きじ参照さんしょう
  • 明治めいじ43ねん(1910ねん)3がつ2にち - じょ ひな誕生たんじょう明治めいじ44ねん (1911ねん)11月29にちに1さい死去しきょ

長男ちょうなん

編集へんしゅう
  • 長男ちょうなん - 夏目なつめ純一じゅんいち(バイオリニスト)
  • まご - 夏目なつめぼうかい漫画まんが批評ひひょう・エッセイスト、純一じゅんいつ長男ちょうなん
  • 曾孫そうそん - 夏目なつめりんかい(ライター・エディター、ぼうかい長男ちょうなん

長女ちょうじょ

編集へんしゅう

次男じなん

編集へんしゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鏡子きょうこ
いもうと
 
鈴木すずきただし
 
夏目なつめ鏡子きょうこ
 
夏目なつめ漱石そうせき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏目なつめ伸六しんろく
 
 
 
 
 
夏目なつめ純一じゅんいち
 
長女ちょうじょふで
 
松岡まつおかゆずる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伸六しんろく
長女ちょうじょ
 
純一じゅんいつ
長女ちょうじょ
 
夏目なつめぼうかい
 
半藤はんどうまつ利子りし
 
半藤はんどう一利かずとし
 
松岡まつおか陽子ようこ
マックレイン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏目なつめ一人かずと
 
Emi
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

門下生もんかせい

編集へんしゅう
 
夏目なつめ漱石そうせきしょ 五言ごごん絶句ぜっくよし菲看ややにょう 韶景とろけ詩情しじょう 却愧丹青たんせいえだ 春風しゅんぷう描不なり

漱石そうせき門下生もんかせいとされるものには、作家さっかだけでなく、様々さまざま分野ぶんや学者がくしゃ教育きょういくしゃ文化ぶんかじんふくまれている。かれらによって漱石そうせき影響えいきょう広汎こうはん文化ぶんか領域りょういきおよび、大正たいしょう後期こうきから昭和しょうわ初期しょき知識ちしきじんあいだでスタンダードな価値かちかん形成けいせいした。そこで、戸坂とさかじゅんはこの時期じきに「漱石そうせき文化ぶんか」が成立せいりつしていた[37] とし、その発信はっしんげんとなった門下生もんかせい集団しゅうだん本多ほんだ顕彰あきらによって漱石そうせき山脈さんみゃく命名めいめいされている[38]門下もんか画家がかとされる津田つだ青楓せいふうの「漱石そうせきやまぼうと其弟子でしたち[39]かれらの姿すがたえがいた絵画かいがとして有名ゆうめいで、以下いかかおぶれがられる。

また、以下いか作家さっか漱石そうせき門下もんかとされている。

さらに、以下いか学者がくしゃ教育きょういくしゃ文化ぶんかじん漱石そうせき師事しじしていた。

漱石そうせきかれらと、自分じぶん後継こうけいしゃ養成ようせいするという意味いみでの師弟してい関係かんけいむすんでいたわけではない。漱石そうせき教員きょういんだった時期じきおしもかなりの割合わりあいめているが、おおくは木曜もくよう面会めんかい所謂いわゆる木曜もくようかい」)を中心ちゅうしんきゃくとしてやって青年せいねんで、漱石そうせきとの交流こうりゅうつうじてつよ感化かんかけ、門下もんかしょうするにいたったものである。ただ、漱石そうせき木曜もくようかいにおいてもほとんど対等たいとう立場たちばかれらと議論ぎろんしており、徳田とくた秋声しゅうせい自分じぶん師事しじした尾崎おざき紅葉こうようくらべ「漱石そうせき場合ばあい事情じじょうすこちがって、厳密げんみつ意味いみ師弟してい関係かんけいとはいへない、各人かくじん相当そうとう自由じゆう態度たいどでゐられたやうにおもふ」という[43]門下生もんかせい一人ひとりとされる阿部あべ次郎じろうつぎのようにべている。

門下生もんかせいとは、先生せんせい正式せいしき師弟していやくむすんだもの意味いみするならば、自分じぶん先生せんせいには門下生もんかせいなるものがまったくなかったとうんひたい。もとより先生せんせい周囲しゅういにはおおくのわか人達ひとたちたかってゐた。先生せんせいと此等の人達ひとたちとのあいだには、先輩せんぱいおよ後輩こうはいとして、今日きょう日本にっぽん文壇ぶんだんではられないほどのしたしみがあった。併し此等の人達ひとたちは、先生せんせいがそのみちつたへるために、とく簡抜かんばつされた人達ひとたちではなかった。(中略ちゅうりゃく先生せんせいただその寛容かんようしんもって、自然しぜんにそのもんつどって青年せいねん接見せっけんして、これはなしをしたり、その相談そうだんあずかったり、ときとしてはその世話せわをされたりしたにぎなかった。所謂いわゆる先生せんせい門下生もんかせいとなるには、ただ先生せんせいかぜしたって、木曜日もくようびにそのいえきゃくとなればりたのである。先生せんせい所謂いわゆる門下生もんかせいとの関係かんけい最初さいしょはこれほどの意味いみぎない。(中略ちゅうりゃく先生せんせいはいつも独立どくりつおもんぜられるひとであったから、所謂いわゆる門下生もんかせいたいして自分じぶん意見いけん強制きょうせいするやうなことは殆んどないやうに見受みうけられた。さうして実際じっさい先生せんせい所謂いわゆる門下生もんかせいとのあいだには、随分ずいぶんはげしい意見いけん扞格かんかくがあった。」[44]

また、阿部あべ次郎じろうげている漱石そうせき門下もんかのリストには、白樺しらかんば武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ志賀しが直哉なおやふくまれており、長尾ながおつよしかれらを事実じじつじょう弟子でしとしている[45]かれらは文壇ぶんだん先輩せんぱいたないというポリシーをっており、漱石そうせき門下もんか自称じしょうすることはなかったが、当時とうじ文壇ぶんだん漱石そうせきもっと尊敬そんけいしていることを自認じにんしていて、漱石そうせきかれらにをかけていた。かれらを上記じょうき門下生もんかせい区別くべつして、「直接ちょくせつ門下生もんかせいではなかった」とする見解けんかいもある[46] が、漱石そうせき本人ほんにんにそのような区分くぶん意識いしきがあったわけではない。

門下生もんかせいのうち、鈴木すずき三重吉みえきち小宮こみや豊隆とよたか森田もりた草平そうへい安倍あべ能成よしなり漱石そうせき親炙しんしゃ度合どあいがとくつよく、木曜もくようかい中心ちゅうしんになって仕切しきっていたので、「漱石そうせき門下もんか四天王してんのう」としょうされている。なかでも小宮こみや豊隆とよたか漱石そうせきもっとあいされていたとわれ、漱石そうせきぼつもその権威けんいつとめたことから「漱石そうせき神社じんじゃ神主かんぬし」と揶揄やゆされることもあった。だい高等こうとう学校がっこう時代じだいから漱石そうせきふか信頼しんらい関係かんけいにあった寺田てらだ寅彦とらひこ門下生もんかせいちゅうでも別格べっかくあつかいされており、一番いちばん弟子でしばれることもおお[45]一方いっぽう野上のかみ弥生子やよこ木曜もくようかい出席しゅっせきしたことがなく、漱石そうせき直接ちょくせつったのはすうかいだけだったが、瀬沼せぬま茂樹しげき大岡おおおか昇平しょうへいから「漱石そうせきもっと正統せいとう継承けいしょうしゃ」とひょうされている[47]。また、漱石そうせき文学ぶんがく多様たよう性格せいかくのうち、「はん自然しぜん主義しゅぎ文学ぶんがく伝統でんとう芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけに、倫理りんりせい志賀しが直哉なおやに、浪漫ろうまんせい内田うちだ百閒ひゃっけんに」継承けいしょうされたという見解けんかいもある[48]。これらの作家さっかのうち、一般いっぱんてき人気にんきもっとたかいのは芥川あくたがわであり、学術がくじゅつめんでは阿部あべ次郎じろう安倍あべ能成よしなりかずつじ哲郎てつろう大正たいしょう教養きょうよう主義しゅぎ主導しゅどうして戦前せんぜんのアカデミズムにおおきな影響えいきょうあたえたことから、戸坂とさかじゅんはこのよんにんを「漱石そうせき文化ぶんか代表だいひょうしゃ」としている[37]出版しゅっぱん業界ぎょうかいにおいて「漱石そうせき文化ぶんか」を普及ふきゅうさせた最大さいだい功労こうろうしゃ岩波いわなみ茂雄しげおである。

なお、漱石そうせき朝日新聞あさひしんぶんを、をかけた新進しんしんともしており、作家さっかとしては無名むめいであった森田もりた草平そうへいちゅう勘助かんすけに『煤煙ばいえん (小説しょうせつ)』『ぎんさじ』を連載れんさいさせ、それがかれらの出世しゅっせさくとなった。大正たいしょう3(1914)ねん、『こころ』ののち長編ちょうへん連載れんさいを、それまで短編たんぺんしか発表はっぴょうしていなかった志賀しが直哉なおや依頼いらいしたのも同様どうよう配慮はいりょによる。志賀しがはそれをけて長編ちょうへん執筆しっぴつんだが、なやんで辞退じたいすることになり、漱石そうせきはその穴埋あなうめを武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ野上のかみ弥生子やよこらに依頼いらいしている。そのとき武者小路むしゃのこうじ発表はっぴょうした「」は、かれ最初さいしょにまとまったかねさくとなった[49]。(ただ、志賀しがなやみながらも長編ちょうへん執筆しっぴつ放棄ほうきせず、昭和しょうわ12(1937)ねんにようやく完成かんせいさせた。これがかれ唯一ゆいいつ長編ちょうへん暗夜あんや行路こうろ』である)。また漱石そうせき明治めいじ42(1909)ねん、「朝日あさひ文芸ぶんげいらん」を創設そうせつして批評ひひょう活動かつどうとし、森田もりた草平そうへい小宮こみや豊隆とよたか編集へんしゅう担当たんとうさせた。そこでこの二人ふたり阿部あべ次郎じろう安倍あべ能成よしなりらがはん自然しぜん主義しゅぎ論陣ろんじんって注目ちゅうもくされたが、紙面しめん私物しぶつしているという批判ひはん朝日新聞社あさひしんぶんしゃない発生はっせいし、明治めいじ44ねん廃止はいしされた。

大正たいしょう4(1915)ねん初夏しょかまつミサオという作家さっか志望しぼう女性じょせい名古屋なごやから漱石そうせきいえおとずれたが、漱石そうせき彼女かのじょ文才ぶんさい評価ひょうかせず、「地元じもと両親りょうしんもとらしつづけたほうがよい」とすすめた。彼女かのじょはそのもたびたび木曜もくようかい出席しゅっせきしていたが、大正たいしょう4ねん10がつ6にち霞ヶ浦かすみがうら投身とうしん自殺じさつはかり、にち時事新報じじしんぽうに「あたらしき おんな入水じゅすい夏目なつめ漱石そうせきもんまなび、才媛さいえんひょうあり」という記事きじ漱石そうせき談話だんわとも掲載けいさいされた(のち未遂みすい判明はんめい[50]漱石そうせきにとっては来客らいきゃくという以上いじょう関係かんけいではなかったが、マスコミは門下生もんかせいとみなしており、阿部あべ次郎じろう言葉ことばにある「所謂いわゆる門下生もんかせい」の性格せいかく裏付うらづけるものとなっている。

アジアかん

編集へんしゅう

1909ねん明治めいじ42ねん)10がつ18にちづけの『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』に掲載けいさいされた随筆ずいひつまんかん文明ぶんめい』の記事きじにおいて、漱石そうせき以下いかとお記述きじゅつしている[51]

たび旅行りょこうして感心かんしんしたのは、日本人にっぽんじん進取しんしゅ気性きしょうんでて、貧乏びんぼう世帯せたいながら分相応ぶんそうおう何処どこまで発展はってんしてくと事実じじつこれともな経営けいえいしゃ気概きがいであります。まんかん遊歴ゆうれきしてるとなりほど日本人にっぽんじんよりゆきははしい国民こくみんだとおこります。したがえつて何処どこくだりつても肩身かたみひろくつて心持こころもちよろしいです。これはんしてささえじん朝鮮ちょうせんじんるとはなはどくになります。さいわいにして日本人にっぽんじんうまれていて仕合しあわせだとおもいました。

— まんかん文明ぶんめい

8にちの10がつ26にち伊藤いとう博文ひろぶみハルビンえき暗殺あんさつされた伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつ事件じけんのち、11月6にちづけの『まんしゅう日日ひび新聞しんぶん』に掲載けいさいされた随筆ずいひつかん満所まんしょかんした)』の記事きじでは、漱石そうせき以下いかとお記述きじゅつしている[52][53]

歴遊れきゆうさいもうひとかんじたことは、こうにして日本人にっぽんじんうまれたとうん自覚じかくことである。内地ないち跼蹐きょくせき(きょくせき)してゐるあいだは、日本人にっぽんじんほどあわれな国民こくみん世界中せかいじゅうにたんとあるまいといふこう始終しじゅう圧迫あっぱくされてならなかつたが、まんしゅうから朝鮮ちょうせんわたりつて、わが同胞どうほう文明ぶんめい事業じぎょうかく方面ほうめん活躍かつやくしておおいに優越ゆうえつしゃとなつてゐる状態じょうたい目撃もくげきして、日本人にっぽんじんはなはよりゆきははしい人種じんしゅだとの印象いんしょうふかあたまなかきざみつけられた。同時どうじに、ささえじん朝鮮ちょうせんじんうまれなくつて、まあかつたとおもえつた。彼等かれら眼前がんぜんいて勝者しょうしゃ意気いきこみもっことあたるわが同胞どうほうは、しん運命うんめい寵児ちょうじうんはねばならぬ。

— かん満所まんしょかん

かん満所まんしょかん』は2013ねん発掘はっくつされた随筆ずいひつであるが、比較ひかく文学ぶんがくしゃ平川ひらかわゆうひろしは、「漱石そうせき植民しょくみん帝国ていこく英国えいこく気持きもちがつよかったせいか、ストレートに日本にっぽん植民しょくみん事業じぎょう肯定こうていし、在外ざいがい邦人ほうじん活動かつどうしている。にちかん併合へいごう疑義ぎぎていした石黒いしぐろ忠悳ただのり上田うえださとしのような政治せいじてき関心かんしんしめしていない。正直しょうじきに『こうにして日本人にっぽんじんうまれたとうん自覚じかくた』『ささえじん朝鮮ちょうせんじんうまれなくつて、まあかつたとおもえつた』といている。『まあ』に問題もんだいはあろうが、ともかくも日本にっぽん帝国ていこく一員いちいんとして発展はってんしたのだ」とひょうしている[54][55]

伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつ事件じけんへの反応はんのう

編集へんしゅう

1909ねん明治めいじ42ねん11月5にちづけの『まんしゅう日日ひび新聞しんぶん』に掲載けいさいされた漱石そうせき随筆ずいひつかん満所まんしょかんうえ)』の記事きじにおいて、伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつ事件じけんれており、「昨夜さくやひさりにすん閑を偸(ぬす)んでまんしゅう日日ひにちなに消息しょうそくかうとおもつて、ふでりながらさんぎょうみとすと、伊藤いとうこう哈爾はま狙撃そげきされたとうん号外ごうがいた。哈爾はまがつい先達せんだつ見物けんぶつ(けぶ)にくだりつたしょで、おおやけ狙撃そげきされたとうんふプラツトフオームは、げんいちケ月かげつまえ(ぜん)にくつうらけたところだから、希有けう兇変きょうへんうん事実じじつ以外いがいに、場所ばしょ連想れんそうからくるつよ刺激しげきあたまけた」[53] などとしたうえで「ごと政治せいじじょう門外漢もんがいかんは(中略ちゅうりゃく報道ほうどうするの資格しかくがないのだからきわめて平凡へいぼん便たよたけ(だけ)にめてく」などといており、伊藤いとう博文ひろぶみ暗殺あんさつ事件じけんたいする感想かんそうつづられている。

漱石そうせき病気びょうき

編集へんしゅう

漱石そうせきは、としかさねるごとに病気びょうきがちとなり、トラホーム神経しんけい衰弱すいじゃく糖尿とうにょうびょう命取いのちとりとなった胃潰瘍いかいようまで、多数たすう病気びょうきかかえていた。『硝子がらすなか』のように直接ちょくせつ自身じしん病気びょうき言及げんきゅうした作品さくひん以外いがいにも、『吾輩わがはいねこである』の沙弥さや先生せんせい胃弱いじゃくだったり、『明暗めいあん』が診察しんさつ場面ばめんはじまっていたりするなど、小説しょうせつにも自身じしん病気びょうき下敷したじきにした描写びょうしゃがみられる。「秋風あきかぜやひびのはいりたるふくろ」など、病気びょうき題材だいざいにした多数たすうある。

さけめなかったが、胃弱いじゃくであるにもかかわらずビーフステーキ中華ちゅうか料理りょうりなどのあぶらっこい食事しょくじこのんだ[注釈ちゅうしゃく 13]だい甘党あまとうで、療養りょうようちゅうには当時とうじ貴重きちょうひんだったアイスクリームしがり、ついには家族かぞく無断むだん業務ぎょうむようアイスクリーム製造せいぞうせ、つまだい喧嘩けんかになったこともある。当時とうじ出回でまわはじめたジャムもおりで、毎日まいにちのようにめ、医師いしめられるほどだったという[注釈ちゅうしゃく 14]

胃弱いじゃく原因げんいん頻繁ひんぱん放屁ほうひをしたが、そのおとやぶ障子しょうじふうきつけるおとにそっくりだったことから、「やぶ障子しょうじ」なる落款らっかんつくり、使用しようしていたことがある。

また、漱石そうせき天然痘てんねんとう疱瘡ほうそう)にかかっており、自分じぶん容姿ようし劣等れっとうかんいていた。しかし当時とうじ写真しゃしん修正しゅうせいくわえることがよくおこなわれており、いまのこっている写真しゃしんには漱石そうせきにしていた「あばた」のあと見受みうけられない。

精神せいしん医学いがくじょう研究けんきゅう対象たいしょう

編集へんしゅう

漱石そうせきは、神経しんけい衰弱すいじゃくうつびょうあるいは統合とうごう失調しっちょうしょうわずらっていたとされている[注釈ちゅうしゃく 15][56]。このことが当時とうじのエリートそう一員いちいんであり、最上級さいじょうきゅうインテリでもあった漱石そうせき生涯しょうがいおよび作品さくひんたいしていかに影響えいきょうおよぼしているのかが、精神せいしん医学いがくしゃやまいあとがくうえ研究けんきゅう対象たいしょうとなっており、実際じっさいにこれを主題しゅだいとしたいくつかの学術がくじゅつ論文ろんぶん発表はっぴょうされている。

漱石そうせきと鷗外

編集へんしゅう

のぞまれぬ末子まっしとして江戸えど町方まちかた名主なぬしいえまれ、薄幸はっこう少年しょうねん時代じだいすごした漱石そうせきはんかんてき国家こっか反抗はんこうする姿勢しせい)な態度たいどつらぬいたことにたいして、津和野つわのはんてん長男ちょうなんとしてはやくから家族かぞくちゅう期待きたい愛情あいじょうによりそだてられたもり鷗外ぬまで大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんをはじめ国家こっか官僚かんりょうしょく歴任れきにんし、かんがわ人間にんげんでありつづけた、という対照たいしょうがある。夏目なつめ漱石そうせきは「余裕よゆう」、もり鷗外は「高踏こうとう」とばれた。

しかし、その一方いっぽうではにんとも「自然しぜん主義しゅぎ文学ぶんがく姿勢しせい」とははっきりした距離きょりたもちながらよう東西とうざいわぬひろ知識ちしきをもって文学ぶんがく活動かつどうすすめ、いがんでいく近代きんだいにおける価値かちかん主流しゅりゅうにおいても自分じぶんたちの認識にんしきをしっかりと見据みすえ、後続こうぞく文学ぶんがく世代せだい相応そうおう影響えいきょうあたえた。

なお、鷗外が1890ねんから1ねんほどごし、『ぶんづかひ』などを執筆しっぴつした千駄木せんだぎ邸宅ていたくは、のちにロンドンより帰国きこくした漱石そうせきが1903ねんからやく3ねん居住きょじゅうして『吾輩わがはいねこである』をあらわした場所ばしょでもあったが、現在げんざいどうやしき愛知あいちけん犬山いぬやま博物館はくぶつかん明治めいじむら移築いちく保存ほぞんされている[57]

神格しんかく

編集へんしゅう

晩年ばんねん漱石そうせき修善寺しゅぜんじ大患たいかん心境しんきょうてき変化へんかいたった」とは、のちのおおくの批評ひひょう研究けんきゅうによってかたられた論評ろんぴょうである。また、この心境しんきょうあらわ漱石そうせき自身じしん言葉ことばとして「のりてんわたし」という語句ごくひろられ、『広辞苑こうじえん』にも紹介しょうかいされている。しかしながら、この「のりてんわたし」というかたり漱石そうせき自身じしん文章ぶんしょうのこしたわけではなく、漱石そうせき発言はつげん弟子でしたちがのこしたものであり、その意味いみかならずしも明確めいかくではない。

このてんについては、小宮こみや豊隆とよたかいたもの、とりわけ『夏目なつめ漱石そうせき』(1938)もあらためて精査せいさする必要ひつようがある[注釈ちゅうしゃく 16]

留学りゅうがく指導しどう教授きょうじゅさが

編集へんしゅう

熊本くまもと在住ざいじゅう英国えいこくじん宣教師せんきょうしグレース・ノット母親ははおやしたしくなり、また渡航とこうふねでも相談そうだんしていることはかれ日記にっきにある[よう出典しゅってん]

言葉ことばあそびと造語ぞうご

編集へんしゅう

漱石そうせき作品さくひんには、順序じゅんじょえ、など言葉ことばあそ多用たようられる。漱石そうせき以前いぜん使つかった形跡けいせきられないみやつこ単語たんご一般いっぱんてき使つかわれている漢字かんじとはことなる別種べっしゅつづりがある。現在げんざい下記かきの「浪漫ろうまん」「沢山だくさん」のように一般いっぱん用語ようごされたものもおおいが、漢字かんじ検定けんてい上級じょうきゅう問題もんだいとしてもちいられることもおおい。

れい
  • 単簡たんかん簡単かんたん
  • わらいだん冗談じょうだん
  • はちがましい(やかましい)
  • 非道ひどうい(ひどい)
  • 浪漫ろうまん(ロマン)
  • 沢山たくさん(たくさん)
  • 月並つきなみ(つきなみ)[58]東大とうだい予備よびもん時代じだい同窓生どうそうせい正岡子規まさおかしき旧派きゅうは毎月まいつきいちにちおこな句会くかいを「月並つきなみ俳句はいく」とんだことから。てんじて「ありきたりで面白おもしろみにけるもの」という意味いみとして定着ていちゃく
  • あんはい(あんばい)[59] 普通ふつうは「塩梅あんばい」や「あんはい」とく。ATOKなどのワープロ変換へんかんしても候補こうほとしててこない。
  • れつじき(はげしく)[60] 普通ふつうは「はげしく」。そもそも引用いんようもとの「坑夫こうふ」は「鉱夫こうふ」とくのが普通ふつう

うさぎかく」(とにかく)のように一般いっぱんてき用法ようほうとして定着ていちゃくしたものもあるとわれている。しかし、漱石そうせききた時代じだい現在げんざいでは使つかわれないおおもちいられており、たとえば「バケツ」を「馬尻うまじり」とくのも当時とうじとしてはごく一般いっぱんてきであり、「単簡たんかん」などは当時とうじ軍隊ぐんたい用語ようごであるなど、漱石そうせき固有こゆう言葉ことばあそびであるということは、漱石そうせき以前いぜんすべての資料しりょう確認かくにんしないかぎり、確定かくていはできない。

新陳代謝しんちんたいしゃ」「反射はんしゃ」「無意識むいしき」「価値かち」「電力でんりょく」「かたこごる」などは漱石そうせき造語ぞうごであるとわれているが、実際じっさいには漱石そうせきよりもふる用例ようれいがある。いちれいとしては、漱石そうせきが「かたこご」という言葉ことばつくったとするせつがあるが、18世紀せいきまつごろ江戸えど時代じだい後期こうき)からの歌舞伎かぶき滑稽本こっけいぼん用例ようれいられる。学術がくじゅつてきに「漱石そうせき造語ぞうご」であるとえる言葉ことばはまだ一語いちご確認かくにんされていないが、「浪漫ろうまん」については『教育きょういく文芸ぶんげいちゅうに「適当てきとうわけがないためにわたしつくって浪漫ろうまん主義しゅぎとしてきました」との記述きじゅつがある[注釈ちゅうしゃく 17]

日本人にっぽんじんつくった漢詩かんしなかには平仄ひょうそくっていても中国ちゅうごくでの声調せいちょうまで意識いしきしていないものもあるため、中国ちゅうごくぎんじられた場合ばあいにはすぐれた漢詩かんしとされにくい場合ばあいがある。しかし、漱石そうせき漢詩かんし中国ちゅうごくぎんじられてもうつくしい[61] とされ、2006ねん平成へいせい17ねん)には『中国ちゅうごく夏目なつめ漱石そうせき漢詩かんしせん』(こうぶんしゃ)というCDつきの書籍しょせき出版しゅっぱんされている。

漱石そうせき漢詩かんしについての先駆せんくてき研究けんきゅうしょとしては、吉川よしかわ幸次郎こうじろう漱石そうせきちゅう』(1967ねん昭和しょうわ42ねん))があるが[62]、これは漱石そうせき造詣ぞうけいふかかったぜん用語ようごなどにかんしては注釈ちゅうしゃくがないなどの不備ふびがあるとされている(『週刊しゅうかん読書どくしょじん勝又かつまたひろし)。またそれに先立さきだち、1946ねん昭和しょうわ21ねん)、むすめ婿むこ松岡まつおかゆずるが『漱石そうせき漢詩かんし[注釈ちゅうしゃく 18]出版しゅっぱんしている。2008ねん平成へいせい20ねん)に作家さっか古井ふるい由吉よしきちにより『漱石そうせき漢詩かんし[63]発表はっぴょうされた[注釈ちゅうしゃく 19]ぜん観点かんてんから注釈ちゅうしゃくされたものとしては飯田いいだ利行としゆき新訳しんやく 漱石そうせき詩集ししゅう[64] がある。ほかに和田わだ利男としお漱石そうせき漢詩かんし[65] がある。2016ねん1がつ25にち二松学舎大学にしょうがくしゃだいがくが、漱石そうせき直筆じきひつかん詩文しぶん屏風びょうぶ古書こしょてんから購入こうにゅうしたと発表はっぴょうした。屏風びょうぶは2まいり1つい、1まいたて1m62、よこ80cm。内容ないようは『禅林ぜんりん句集くしゅう』から春夏秋冬しゅんかしゅうとう場面ばめんえらばれていた[66]

早稲田南わせだみなみまち漱石そうせきやまぼうだい世界せかい大戦たいせんちゅう空襲くうしゅう焼失しょうしつしたが、小宮こみや豊隆とよたか館長かんちょうつとめたえん蔵書ぞうしょ日記にっきとう自筆じひつ資料しりょう大半たいはん東北大学とうほくだいがく付属ふぞく図書館としょかん移動いどうされており焼失しょうしつまぬかれている。東北大学とうほくだいがくでは「夏目なつめ漱石そうせきライブラリ」として研究けんきゅうしゃ公開こうかいしている。近年きんねんでは原稿げんこう用紙ようし劣化れっかすすんでいるため、2019ねんにはデジタルアーカイブとして保存ほぞんする資金しきんクラウドファンディング調達ちょうたつした[67]

神奈川かながわ近代文学館きんだいぶんがくかんでは遺族いぞくから提供ていきょうされた書画しょが落款らっかんしるし画像がぞうを「Webばん夏目なつめ漱石そうせきデジタル文学ぶんがくかん」として公開こうかいしている。

日本にっぽん国外こくがいでの評価ひょうか

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日本にっぽんでの絶大ぜつだい名声めいせい比較ひかくすると、欧米おうべいでの知名度ちめいどはそれほどたかいとはえないものの、英語えいごけんでは主要しゅよう作品さくひんのいくつかがやくされており、一定いってい評価ひょうかている。

  • 1960年代ねんだいに、英国えいこくじんアラン・ターニーによる『草枕くさまくら』の英訳えいやく "The Three Cornered World"刊行かんこうされた。これはカナダのピアニストのグレン・グールド愛読あいどくするところとなり、晩年ばんねんに、みずからラジオ番組ばんぐみ一部分いちぶぶん朗読ろうどくしたことがある[68]
  • アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく批評ひひょうスーザン・ソンタグは、「死後しごなま マシャード・デ・アシス」(『くこと、ロラン・バルトについて』所収しょしゅう)のなか漱石そうせきについて、「ヨーロッパ中心ちゅうしん世界せかい文学ぶんがくかんはししやってしまったもうひとりの多才たさい天才てんさい夏目なつめ漱石そうせき」とひょうしている。
  • イギリス批評ひひょうで、2005ねんに『倫敦ろんどんとう』の翻訳ほんやく "The Tower of London"刊行かんこうしたダミアン・フラナガンは、漱石そうせきシェイクスピアゲーテなどになら世界せかいてき文豪ぶんごうであると評価ひょうかしたうえで、イギリスなど欧米おうべいではほとんど漱石そうせき認知にんちされておらず、その理由りゆうとして、川端かわばた康成やすなり三島みしま由紀夫ゆきおのような「日本にっぽんらしさ」が漱石そうせきには感知かんちされないためではないかとしている。しかしフラナガンによれば、漱石そうせきたんに「日本にっぽん文学ぶんがく」を代表だいひょうするのみならず、人間にんげんしん普遍ふへんせい探求たんきゅうした世界せかい文学ぶんがくであり、現在げんざいはそのように認知にんちされていないが、シェイクスピアが世界せかいてき評価ひょうかるにいたったのは、レッシングやゲーテなどドイツ・ロマンによるところがおおきいことを引用いんようしながら賞賛しょうさんしている[69]
  • アメリカの比較ひかく文学ぶんがくしゃジェイ・ルービン(Jay Rubin)の英訳えいやく "Sanshiro A Novel"トロント大学だいがく出版しゅっぱんきょく)に添付てんぷされた自身じしん執筆しっぴつ評論ひょうろん "SANSHIRO AND SOSEKI: A Critical Essay" は『三四郎さんしろうろんとして包括ほうかつてきすぐれている。漱石そうせき全集ぜんしゅう本文ほんぶん厳密げんみつ引用いんよう英訳えいやくするルビンの姿勢しせいには、漱石そうせき世界せかい文学ぶんがく仲間入なかまいりをしていることを如実にょじつかんじさせる。ルビンはほかにも『坑夫こうふ』などを英訳えいやくしている。

中国ちゅうごく台湾たいわん韓国かんこくではよくられており、おおくの作品さくひん中国ちゅうごく韓国かんこくやくされている。中国語ちゅうごくごけんでは周作しゅうさくじんにより紹介しょうかいされて以来いらいおおくの読書どくしょじんあいされてきた。韓国かんこくでもふるくから漱石そうせき作品さくひんしたしまれてきたが、1990年代ねんだい以降いこうとく人気にんきたかまり、「漱石そうせきブーム」とわれるほどになった。

作品さくひんにおける差別さべつ表現ひょうげん問題もんだい

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坑夫こうふ』における「いもちゅうけがれおお」(いもなか最下さいかとうのもの、の)との表現ひょうげん問題もんだいされ、角川書店かどかわしょてんはこのかたり伏字ふせじにしたが、巻末かんまつちゅうで「特殊とくしゅ部落ぶらく人々ひとびとへの蔑称べっしょう」と記述きじゅつしたためにかえって問題もんだいとなり、1981ねんはじめに部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいから糾弾きゅうだんされた[70]。このくだりは、『夏目なつめ漱石そうせき全集ぜんしゅう4』(ちくま文庫ぶんこ)でも「いもちゅうのヽヽ」と伏字ふせじになっている。

その、1994ねん3がつには『ぼうつちやん』における「小使こづかい」(学校がっこう用務員ようむいん)のかたりNHK-FM放送ほうそう朗読ろうどく時間じかん問題もんだいとなり、「それだから中学校ちゅうがっこう小使こづかいなんぞをしてるんだ」などの文章ぶんしょうをそのままげたうえで、朗読ろうどく終了しゅうりょうにアナウンサーが弁解べんかいしたことがある[71]。しかし、1994ねん4がつからの『吾輩わがはいねこである』では「めくらめくら」「ちんばびっこ」などの表現ひょうげん問題もんだいとなり、これらのかたりばして朗読ろうどくされた[71]

また、漱石そうせき1913ねんから1914ねんにかけて、播州ばんしゅう坂越さこし岩崎いわさき太郎たろう名乗なのものからかんりのちゃおくられ、富士ふじ登山とざんさんをしてくれ、赤穂あこう義士ぎしかんする俳句はいくいてくれとねだられたがことわったことがある[72]。すると岩崎いわさきは「かないならちゃかえせ」としつこく要求ようきゅうかえした[72]漱石そうせき岩崎いわさき言動げんどうにあきれて「なに(ど)うもけがれなおふとしじんでもなけりや、こんなひな嗇(けち)なことはうんはなかろう」とうたがい、播州ばんしゅうちかくのおとこ岩崎いわさき地元じもと調しらべさせた。すると「坂越さこしうんふは播州ばんしゅうでも素封そほうそろいつてところださうだ」との回答かいとうであった[73][74]

現在げんざいは、作者さくしゃ故人こじんでありかつ文学ぶんがく作品さくひんであることから、これらが差別さべつ用語ようごであることをみとめたうえで、そのまま掲載けいさいされていることがおおい。このようなあつかいは故人こじん作家さっかでも同様どうようであることがおお[注釈ちゅうしゃく 20]。なお漱石そうせきには「けがれてら(えたでら)へとつあわれやとしくれ」のもある[75]

つき綺麗きれいですね

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漱石そうせき英語えいご教師きょうしをしていたときに、“I love you.”を「わがきみあいす」と生徒せいとやくしたので、漱石そうせきは「つき綺麗きれいですね」とロマンチックにやくせとおしえた、という逸話いつわがある。 ただし漱石そうせき著作ちょさく記録きろくにはそのようなはなしのこされておらず、また漱石そうせきかれちかしいひとからそれをいたという文献ぶんけん記録きろく存在そんざいしない[76]

またたようなはなしは1970年代ねんだいまつにも存在そんざいし、そちらでは「つきがとってもあおいなあ」[77]・「つきがとってもあおいから」[78]やくしたとされている[79] 。しかし典拠てんきょ不明ふめい[80]、1970年代ねんだいごろからわれはじめた逸話いつわであることから、これは後世こうせいものによる創作そうさくで、いまでは都市とし伝説でんせつになったとされている[76]

夏目なつめ漱石そうせきえんじた人物じんぶつ

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映画えいが
テレビドラマ
アニメーション
その
CM
  • 夏目なつめ太郎たろう新田にった太郎たろう)-(2008ねん)VISAカードのCFで漱石そうせきやくえんじる

夏目なつめ漱石そうせきえがいた作品さくひん

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小説しょうせつ、マンガ、ゲーム、ドラマ

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郵便ゆうびん切手きって

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  • 文化ぶんかじん切手きってだい1)」1950ねん4がつ10日とおか発行はっこう、8えん切手きって
  • 「20世紀せいきデザイン切手きってシリーズ だい1しゅう」1999ねん8がつ23にち発行はっこう。10しゅシートちゅうの50えん切手きって2しゅに『吾輩わがはいねこである』および『っちゃん』はつ版本はんぽん表紙ひょうし、シート背景はいけい漱石そうせき肖像しょうぞう[81]
  • 近代きんだい俳句はいくのふるさと 松山まつやま」2009ねん9がつ1にち発行はっこう。80えん切手きって5しゅのうちの1しゅ漱石そうせきおく子規しき ちやるか ちやれ 新酒しんしゅ きくはな」。[82]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 当時とうじ学校がっこうのあった地名ちめいをとって一ツ橋ひとつばし中学ちゅうがくないし一ツ橋ひとつばし尋常じんじょう中学ちゅうがくともばれた。
  2. ^ 現在げんざい成立せいりつ学園がくえんとは無関係むかんけい
  3. ^ スコットランド出身しゅっしんジェームズ・マードックにかわいがられ、教室きょうしつ以外いがいでも先生せんせいいえまねかれておしえられ、「マードックさんはぼく先生せんせいだ。……英国えいこくじんもあんなひともと(ばかり)だと結構けっこうだが」と野間のましんつなての書簡しょかんいたり、マードックの『日本にっぽん』に推薦すいせんぶんいたりしている(平川ひらかわゆうひろし漱石そうせきマードック先生せんせい講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 1884ねん)。
  4. ^ 狩野かのあて書簡しょかんに「洋行ようこうちゅう英国えいこくじん馬鹿ばかだとかんじてつてた。日本人にっぽんじん英国えいこくじん真似まねろ\/とうんふのはなに真似まねろとうんふのかいまもっからない」といている。
  5. ^

    この様子ようすではいつまで嘆願たんがんをしていても、とうてい見込みこみがないとおもったたけみぎ衛門えもんくん突然とつぜんかの偉大いだいなる頭蓋骨ずがいこつたたみうえあつしつけて、無言むごんうらあん訣別けつべつあらわした。主人しゅじんは「かえるかい」とった。たけみぎ衛門えもんくん悄然しょうぜんとして薩摩下駄さつまげたきずってもんた。愛想あいそに。ちゃってくといわおあたまぎんでもいて華厳けごんたきからむかもれない。

    「しかしじゃないか、りもしないところへ、いたずらにつやしょおくるなんて、まるで常識じょうしきをかいてるじゃないか」
    「いたずらは、たいがい常識じょうしきをかいていまさあ。すくっておやんなさい。功徳くどくになりますよ。あの容子ようすじゃ華厳けごんたき出掛でかけますよ

  6. ^ 夏目なつめ漱石そうせき草枕くさまくら新潮社しんちょうしゃ、1950ねん11月25にち、155-156ぺーじ 

    むかしいわおあたまぎんのこして、じゅうたけ飛瀑ひばく直下ちょっかして急湍きゅうたんおもむいた青年せいねんがある。るところにては、かれ青年せいねんいちのために、捨つべからざるいのちてたるものとおもう。そのものはまこと壮烈そうれつである、ただそのを促がすの動機どうきいたってはかいしがたい。されどもそのものの壮烈そうれつをだにたいざるものが、いかにして藤村ふじむら所作しょさを嗤いべき。かれらは壮烈そうれつ最後さいごとげぐるの情趣じょうしゅあじざるがゆえに、たとい正当せいとう事情じじょうのもとにも、とうてい壮烈そうれつ最後さいごべからざる制限せいげんあるてんにおいて、藤村ふじむらよりは人格じんかくとして劣等れっとうであるから、嗤う権利けんりがないものと主張しゅちょうする。

  7. ^ 夏目なつめ伸六しんろくの『ちち漱石そうせきとその周辺しゅうへん』によればつぎのよう。

    ふとけたちち最期さいご言葉ことばは、

    なにいたい」
     という、このおよんでいまだにみた食欲しょくよくへの切実せつじつ願望がんぼうだったのである。で、早速さっそく医者いしゃはからいでいちさじ葡萄酒ぶどうしゅあたえられることになったが、
    「うまい」

     ちち最後さいごのぞみをこのいちさじ葡萄酒ぶどうしゅのなかにあじわって、またしずかにじたのである。

  8. ^ かれは其所で疱瘡ほうそうをした。おおきくなつてくと、種痘しゅとうもとで、ほん疱瘡ほうそうさそしたのだといふはなしであつた。かれくらすだれのうちでころめぐつた。にくところいやはずきむしつてさけんだ。〉「道草みちくさ」(39)
  9. ^ 茂木もき健一郎けんいちろう所蔵しょぞう。『アナザースカイ』(日本にほんテレビ) 2009ねん7がつ3にち放映ほうえいぶんにて披露ひろう。100まんえん購入こうにゅうしたそうである。
  10. ^ 硝子がらすなか』に関連かんれんする記述きじゅつあり。喜久井きくいまち#地名ちめい由来ゆらい参照さんしょう
  11. ^ 松岡まつおか陽子ようこマックレイン息子むすこ米国べいこくせき)は、息子むすこ(つまり漱石そうせき玄孫げんそん)のミドルネームに Soseki と命名めいめいした。
  12. ^ 菊池きくちひろしとの親交しんこうふかかったことで、「ちち夏目なつめ漱石そうせき」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ)を発表はっぴょうした。
  13. ^ 門下生もんかせいあつまればかなら牛鍋ぎゅうなべかこむ。羊羹ようかん、お汁粉しるこ、ケーキなどあまいものがきで、とくにおりは自家製じかせいアイスクリームだった。胃弱いじゃくのためには大量たいりょう鶏肉とりにく使つかったスープをんでいたという。なぜか鳥類ちょうるいのもらいものおおかった。シャモ、カモ、山鳥やまどり、キジなどで、知人ちじんたくでのかり料理りょうり舌鼓したつづみったこともあったらしい(河内かわうち一郎いちろう漱石そうせき、ジャムをめる』新潮しんちょう文庫ぶんこ
  14. ^ 吾輩わがはいは-」には1かげつに8かんめたとの記述きじゅつがある。
  15. ^ 医師いし松本まつもと健次郎けんじろうは「漱石そうせき精神病せいしんびょうせつ」を主張しゅちょうしている。漱石そうせき精神病せいしんびょうせつ根拠こんきょ熊本くまもとだか辞職じしょくするときされた神経しんけい衰弱すいじゃく診断しんだんしょと、つま夏目なつめ鏡子きょうこ回想かいそう漱石そうせきおも』などにえがかれた漱石そうせき言動げんどう記述きじゅつや、同書どうしょ東大とうだい精神せいしん秀三しゅうぞうが、漱石そうせき診断しんだんし、鏡子きょうこ漱石そうせき病気びょうきであるとげたという記述きじゅつがあることであるが、辞職じしょくのために、だか提出ていしゅつした診断しんだんしょいたは、漱石そうせきしたしいかん虎雄とらお親友しんゆうであり、また夏目なつめ家庭かてい尼子あまこ四郎しろうともしたしかった。当時とうじ実家じっかもどっていた、鏡子きょうこを、尼子あまことおした依頼いらい説得せっとくした言葉ことばが、鏡子きょうこのなかで漱石そうせき精神病せいしんびょうしゃであるという記憶きおくわっていったのではないかと主張しゅちょうしている。『漱石そうせきおも』の記述きじゅつ引用いんようしただけの漱石そうせきやまいあとがく学問がくもんてきでないと主張しゅちょうしている。『漱石そうせき精神せいしんかい松本まつもと 健次郎けんじろう (ちょ) 金剛こんごう出版しゅっぱん (1981/01) ISBN 4772401377
  16. ^ 山下やましたひろしはつこうゲラをとおしてみた小宮こみや豊隆とよたかの『夏目なつめ漱石そうせき参照さんしょう
  17. ^ これよりまえ漱石そうせき使用しようしたれいとしては「同時どうじにスコット一派いっぱ浪漫ろうまんまんがために存在そんざいした時期じきである。」(『野分のわけ』11しょう、1907ねん1がつ)がもっとはやい。また翌年よくねん講演こうえん創作そうさく態度たいど』では「浪漫ろうまん」「浪漫ろうまん主義しゅぎ」の語句ごくおおもちいられている。
  18. ^ 初版しょはん十字屋じゅうじや書店しょてん昭和しょうわ41ねん1966ねん)に、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ新装しんそう再刊さいかん
  19. ^ たとえば押韻おういん問題もんだいについてまったまえていないなどの問題もんだいがあるとされる[よう出典しゅってん]
  20. ^ 夏目なつめ漱石そうせきちょ小説しょうせつ文庫ぶんこばん巻末かんまつ参照さんしょう

出典しゅってん

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  4. ^ 東北大学とうほくだいがく附属ふぞく図書館としょかん夏目なつめ漱石そうせきライブラリ「漱石そうせき生涯しょうがい-学生がくせい時代じだい[1]
  5. ^ 夏目なつめ漱石そうせき兵役へいえきのがれのため北海道ほっかいどう転籍てんせきしたといたが、そのことについてかれたほんはあるか。|レファレンス協同きょうどうデータベース
  6. ^ 森下もりしたきょうこう教師きょうし夏目なつめ金之助きんのすけ研究けんきゅう(よん)」(明星大学めいせいだいがく教育きょういくがく研究けんきゅう紀要きよう (だい15) 2000ねん[2]P.35、PDF-P.2
  7. ^ このさい嘉納かのうは「そう正直しょうじきことわられると、ますますあなたにていただきたくなった」とおう夏目なつめはなさなかった。夏目なつめ漱石そうせきわたし個人こじん主義しゅぎ」(1914ねん)、青空あおぞら文庫ぶんこ[3][4]
  8. ^ 森下もりしたきょうこう教師きょうし夏目なつめ金之助きんのすけ研究けんきゅう(よん)」(明星大学めいせいだいがく教育きょういくがく研究けんきゅう紀要きよう (だい15) 2000ねん[5]P.P.36-37、PDF-P.P.3-4
  9. ^ 須山すやま長治ながはる夏目なつめ漱石そうせき参禅さんぜん」(駒澤大学こまざわだいがく佛教ぶっきょう学部がくぶ論集ろんしゅう 50 113-126, 2019-10)P.P.1-3[6][7]
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  17. ^ 「ロンドン漱石そうせき記念きねんかん」が9月で閉館へいかん EU離脱りだつ影響えいきょう前倒まえだお
  18. ^ 漱石そうせき記念きねんかん、ロンドンで再開さいかい 天皇陛下てんのうへいか記帳きちょうなど公開こうかい 朝日新聞あさひしんぶん(2019ねん5がつ9にち)2019ねん5がつ18にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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1 ISBN 4106001268、2 ISBN 4106001276、3 ISBN 410600447X、4 ISBN 4106005050、5 ISBN 4106005751すうかいのこし(作者さくしゃで)未完みかんとなった。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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オンライン・テキスト

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施設しせつなど

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