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講道館 - Wikipedia

公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん(こうえきざいだんほうじんこうどうかん)とは、柔道じゅうどうであり、教育きょういくでもある嘉納かのう治五郎じごろうおこした柔道じゅうどう総本山そうほんざん

公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん
Kodokan Judo Institute
講道館国際柔道センター(左)と講道館本館(右) 道場や資料館はセンターに、事務局は本館にある[1]。
講道館こうどうかん国際こくさい柔道じゅうどうセンター(ひだり)と講道館こうどうかん本館ほんかんみぎ
道場どうじょう資料しりょうかんはセンターに、事務じむきょく本館ほんかんにある[1]
創立そうりつしゃ 嘉納かのう治五郎じごろう
団体だんたい種類しゅるい 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん
設立せつりつ 1882ねん明治めいじ15ねん
所在地しょざいち 東京とうきょう文京ぶんきょう春日しゅんじつ1丁目ちょうめ16ばん30ごう
北緯ほくい3542ふん29びょう 東経とうけい13945ふん12びょう / 北緯ほくい35.70806 東経とうけい139.75333 / 35.70806; 139.75333座標ざひょう: 北緯ほくい3542ふん29びょう 東経とうけい13945ふん12びょう / 北緯ほくい35.70806 東経とうけい139.75333 / 35.70806; 139.75333
法人ほうじん番号ばんごう 5010005018478 ウィキデータを編集
主要しゅよう人物じんぶつ 館長かんちょう 上村うえむら春樹はるき
活動かつどう地域ちいき 日本の旗 日本にっぽん
主眼しゅがん 柔道じゅうどう指導しどう研究けんきゅう教授きょうじゅしてその普及ふきゅう振興しんこうはかり、もっ国民こくみん就中なかんづく青少年せいしょうねん心身しんしん鍛錬たんれんすること
活動かつどう内容ないよう 青少年せいしょうねん対象たいしょうとする学校がっこう講道館こうどうかん運営うんえい ほか
収入しゅうにゅう 708,345,000えん(2018年度ねんど予算よさん[2]
標語ひょうご 精力せいりょく善用ぜんよう
ウェブサイト http://kodokanjudoinstitute.org/
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講道館こうどうかん正面しょうめんにある嘉納かのう治五郎じごろうぞう

概要がいよう

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1882ねん明治めいじ15ねん)5がつ嘉納かのう治五郎じごろうによって創設そうせつされ、1909ねん明治めいじ42ねん)に財団ざいだん法人ほうじんとなり、段位だんい発行はっこう大会たいかい開催かいさい講習こうしゅうかい機関きかん発行はっこう書籍しょせき刊行かんこうなど柔道じゅうどう普及ふきゅうのためのしょ活動かつどうおこなっている。2012ねん平成へいせい24ねん)4がつ1にちより公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん移行いこうした。本館ほんかん5かい全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい事務じむきょくかれている。

1882ねん明治めいじ15ねん)、嘉納かのう治五郎じごろう東京とうきょう下谷しもたにきた稲荷いなりまち永昌寺えいしょうじにて創立そうりつ[3]ひとみちこうずるところという意味いみで「講道館こうどうかん」と名付なづけられた[4]。わずか12じょう道場どうじょう弟子でし富田とみた常次郎つねじろう稽古けいこはじめ、樋口ひぐちまことやすし西郷さいごう四郎しろうすうにんがそれにくわわった。翌年よくねんみなみ神保じんぼうまちうえ二番にばんまち移転いてんし、1884ねんにはじょうからなる入門にゅうもん誓文せいもんちょう作成さくせいされ、富田とみた筆頭ひっとう門弟もんていらが署名しょめい押印おういんした。このとき西郷さいごう印鑑いんかんわりに血判けっぱんしたことから以降いこう署名しょめい血判けっぱん伝統でんとうとなった[5]富田とみた西郷さいごう高弟こうていはのちに講道館こうどうかん四天王してんのうばれた。同年どうねん鏡開かがみびらきしき寒稽古かんげいこ月次げつじ勝負しょうぶ紅白こうはく勝負しょうぶなどのしょ行事ぎょうじはじまった[3]

1886ねん富士見ふじみまち移転いてんし、翌年よくねんやわらかたちかたかたち制定せいていされる[3]。そのも1889ねん本郷ほんごう真砂まさごまち、1891ねん二番にばんまち、1893ねん下富しもとみさかまち移転いてんつづけ、1894ねんについに講道館こうどうかん大道だいどうじょう落成らくせいした[3]。このあいだに、ぶんじょうとして伊豆いず韮山にらやま講道館こうどうかんにら山分やまわけじょう江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう講道館こうどうかん江田島えたじまぶんじょう京都きょうと講道館こうどうかん京都きょうとぶんじょう熊本くまもと市内しない熊本くまもと講道館こうどうかんもうけられた[3]。1901ねんにはだいはね久子ひさこ(のちのさくらかげ高等こうとう女学校じょがっこう校長こうちょう宮川みやがわヒサ)をはつ正式せいしき女性じょせい入門にゅうもんしゃとして許可きょかした[6][7]

1958ねん昭和しょうわ33ねん)に東京とうきょう文京ぶんきょう春日しゅんじつ1-16-30に移転いてんし、現在げんざいいたっている。また大阪おおさかにも支部しぶがある(「講道館こうどうかん大阪おおさか国際こくさい柔道じゅうどうセンター」大阪おおさか城東じょうとう永田ながた4-15-11)。

からだよわかった嘉納かのう治五郎じごろうとうわざすぐれた天神てんじん楊流柔術じゅうじゅつ福田ふくだはちこれすけいそただしさとしまなび、のち捨身しゃしんわざ中心ちゅうしんおこりたおせりゅう柔道じゅうどう飯久保いくぼつねねんまなんだ。天神てんじん楊流とおこりたおせりゅう存在そんざいしたみだれわざ整理せいり体系たいけいはかり、「みち」は根本こんぽんで「じゅつ」はその応用おうようである、というかんがえから「じゅつ」ではなく「みち」をこうずるところとして、名称めいしょうを「柔術じゅうじゅつ」から「柔道じゅうどう」とあらためた。   柔術じゅうじゅつ技術ぎじゅつ伝授でんじゅ制度せいどあらためてだんきゅうせい採用さいよう段位だんいせい囲碁いご将棋しょうぎかられたとされる。柔道じゅうどうかんする研究けんきゅうは、嘉納かのう治五郎じごろう1932ねん昭和しょうわ7ねん)から講道館こうどうかん医事いじ研究けんきゅうかい組織そしき医学いがくてき課題かだいにもんだ。戦後せんご研究けんきゅうかい1948ねん昭和しょうわ23ねん)に講道館こうどうかん柔道じゅうどう科学かがく研究けんきゅうかい改称かいしょう科学かがくてき研究けんきゅう着手ちゃくしゅした。研究けんきゅう成果せいかは『講道館こうどうかん柔道じゅうどう科学かがく研究けんきゅうかい紀要きよう』として刊行かんこうされている。

世界せかい柔道じゅうどう統括とうかつ団体だんたいである国際こくさい柔道じゅうどう連盟れんめいも、規約きやくだい1じょうで、「嘉納かのう治五郎じごろうによって創設そうせつされた心身しんしん教育きょういくシステムであり、かつオリンピック種目しゅもくとしても存在そんざいするものを柔道じゅうどうみとめる」と規定きていしている。初代しょだい国際こくさい柔道じゅうどう連盟れんめい会長かいちょう嘉納かのうくつただしであった。また、嘉納かのう行光ゆきみつだい4だい館長かんちょうはアジア柔道じゅうどう連盟れんめい会長かいちょうつとめた。

 
講道館こうどうかん創立そうりつ130周年しゅうねん記念きねんしき

独自どくじ伝統でんとう行事ぎょうじとして、館内かんないでは、1がつ寒稽古かんげいこを7がつ暑中しょちゅう稽古けいこをそれぞれ10日間にちかんおこなっている。2・3・4・5・7・8・9・11・12がつは、月例げつれい月次げつじ(つきなみ)試合しあい、6・10がつには紅白こうはく試合しあいおこなわれている。夏季かき夏期かき講習こうしゅうかい一部いちぶかたち)、女子じょし柔道じゅうどう少年しょうねん柔道じゅうどうなどが集中しゅうちゅうして開催かいさいされている。

試合しあいについては、4がつ全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい、10月の全日本ぜんにほん柔道じゅうどうかたち競技きょうぎ大会たいかい、11月の講道館こうどうかんはい全日本ぜんにほん柔道じゅうどう体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい、12月の嘉納かのう治五郎じごろうはい東京とうきょう国際こくさい柔道じゅうどう大会たいかい(のちのグランドスラム・東京とうきょう)などが全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめいとの共催きょうさいおこなわれている。

講道館こうどうかん初段しょだん合格ごうかくすると地方ちほう在住ざいじゅうしゃ門人もんじんとなるが、6だん以上いじょう高段こうだんしゃかぎっては講道館こうどうかん名簿めいぼ発行はっこうしている。

戦前せんぜん戦中せんちゅう剣道けんどう修道しゅうどう学院がくいん有信ありのぶかん空手からて松濤しょうとうかんだい日本にっぽん武徳ぶとくかい武道ぶどう専門せんもん学校がっこうたけせん)とともに武道ぶどう総本山そうほんざんとしてられた。占領せんりょうにはGHQにより制約せいやくけた。

歴代れきだい館長かんちょう

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機関きかん

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機関きかん1898ねん明治めいじ31ねん)に「国士こくし」として刊行かんこう開始かいししてから、「柔道じゅうどう」「有効ゆうこう活動かつどう」「大勢おおぜい」「柔道じゅうどうかい」「作興さっこう」「柔道じゅうどう」と改称かいしょうして刊行かんこうされている。

歴代れきだいじゅう段位だんいしゃ一覧いちらん

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※ 太字ふとじ存命ぞんめいちゅう人物じんぶつ

だい 氏名しめい
1 山下やましたよし
2 磯貝いそがいはじめ
3 永岡ながおか秀一ひでかず
4 三船みふね久蔵きゅうぞう
5 飯塚いいづか国三郎くにさぶろう
6 むら嘉一郎かいちろう
7 田畑たばたのぼり太郎たろう
8 岡野おかの好太郎こうたろう
9 正力しょうりき松太郎まつたろう
10 中野なかの正三しょうさん
11 栗原くりはら民雄たみお
12 小谷おたにきよしこれ
13 安部あべ一郎いちろう
14 醍醐だいご敏郎としお
15 大沢おおさわけいおのれ

女子じょし柔道じゅうどう福田ふくだ敬子けいこ講道館こうどうかん認定にんてい段位だんいとしてはきゅうだん2006ねん授与じゅよ)であるが、2011ねんなつ米国べいこく柔道じゅうどう連盟れんめいから独自どくじじゅうだん授与じゅよされている[8]

柔道じゅうどう殿堂でんどう

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じゅうだん
きゅうだん
はちだん
ななだん
ろくだん

柔道じゅうどう技法ぎほう思想しそう歴史れきし

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武術ぶじゅつとしての柔道じゅうどう勝負しょうぶほう

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今日きょう周知しゅうちされているような体育たいいくとしての柔道じゅうどうかん人間にんげん教育きょういくとしての柔道じゅうどうかん以上いじょうに、嘉納かのう治五郎じごろう柔道じゅうどうかん元々もともとはばひろいものであった。嘉納かのう柔道じゅうどう修行しゅぎょう目的もくてきを「おさむしんほう」「体育たいいくほうねりからだほう鍛錬たんれんほうともう)」「勝負しょうぶほう護身ごしんほうともう)」(ときに「慰心ほう」をふくむ)とし、柔道じゅうどう修行しゅぎょう順序じゅんじょ目的もくてきについて、上中かみなか下段げだん柔道じゅうどうかんがえをもうけて、最初さいしょおこな下段げだん柔道じゅうどうでは、攻撃こうげき防御ぼうぎょ方法ほうほう練習れんしゅうすること、中段ちゅうだん柔道じゅうどうでは、修行しゅぎょうとおして身体しんたい鍛練たんれん精神せいしん修養しゅうようをすること、上段じょうだん柔道じゅうどうでは終極しゅうきょくてき目的もくてきとして下段げだん中段ちゅうだん柔道じゅうどう修行しゅぎょう身体しんたい精神せいしんちから心身しんしんちから能力のうりょく活力かつりょく精力せいりょく)をもっと有効ゆうこう使用しようして、えきすることをねらいとした[10]武術ぶじゅつとしての柔術じゅうじゅつ勝負しょうぶほう)をベースに、体育たいいくてき方法ほうほうとしての乱取らんどおよかたち体育たいいくほう)、それらの修行しゅぎょうとおしてのつよ精神せいしんせい獲得かくとくおさむしんほう)を同時どうじねらいとしていた。

その一方いっぽう嘉納かのう武術ぶじゅつとしての柔道じゅうどうについて「まず権威けんいある研究けんきゅう機関きかんつくってくに固有こゆう武術ぶじゅつ研究けんきゅうし、またひろ日本にっぽん以外いがい武術ぶじゅつおよかぎ調査ちょうさしてもっとすすんだ武術ぶじゅつつくげ、それをひろくわが国民こくみんきょうへることはもちろん、しょ外国がいこくひとにもきょうへるつもりだ」との見解けんかいべており[11]研究けんきゅう機関きかんつく世界中せかいじゅう武術ぶじゅつ研究けんきゅうしてもっとすすんだ武術ぶじゅつこしらえたいとのかんがえもっていた。

勝負しょうぶほう乱取らんど

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嘉納かのう柔道じゅうどう柔術じゅうじゅつのもつ武術ぶじゅつせいもとめていたが、しかし勝負しょうぶにききめある当身あてみわざ)が危険きけんでありおしえることがむずかしいため、従来じゅうらい柔術じゅうじゅつしょ流派りゅうは修行しゅぎょうほうおなさまに「せんがたって練習れんしゅう」 しなければならぬとした。しかしかたちだけではなく、そこからさきへとすすめた、ふく乱取らんどりも工夫くふうすべきというかんがえを嘉納かのうはやくからつづけた。 1889ねん講演こうえん柔道じゅうどういちはんなみ教育きょういくじょう価値かち」のなかにおいて、嘉納かのう当身あてみふく対処たいしょする柔道じゅうどうの「勝負しょうぶほう乱取らんどり」の可能かのうせい構想こうそうについてべている。「はじめからいちしゅ約束やくそくさだめていきまたったりいたりするとき手袋てぶくろようなものをはめてすれば、勝負しょうぶほうみだれ随分ずいぶんできぬこともない。かたちばかりでは真似事まねごとのやうで実地じっち練習れんしゅうはできないから、やはり一種いっしゅみだれがあったほうがよい。」とし勝負しょうぶほうわざ実演じつえんしている。 そのさい勝負しょうぶほうかたちのうちから簡単かんたんわざとしていつつほど、

  • たいみぎってくるのをさば対処たいしょこしげる。
  • たいみぎってくるのをさば対処たいしょしその手先てさきもじたいしばる。
  • たいいてくるのをさば対処たいしょたいいたのをはいんで咽喉いんこうめる。
  • たいよこからってくるのをさば対処たいしょ咽喉いんこうめるなり急所きゅうしょてなりする。
  • たいってくるのをあしさきさば対処たいしょげる。またはかためる。

実演じつえんし、またそのうえ種々しゅじゅったがあり大抵たいてい場合ばあいおうずることを目的もくてきとするものであることを説明せつめいする。

武道ぶどう研究けんきゅうかい

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嘉納かのう古流こりゅう柔術じゅうじゅつ定義ていぎについて「無手むてあるいみじか武器ぶきっててき攻撃こうげきまた防御ぼうぎょするのじゅつ」とし、柔道じゅうどう修行しゅぎょう技術ぎじゅつについても「その修行しゅぎょう方法ほうほう攻撃こうげき防御ぼうぎょ練習れんしゅうによって身体しんたい精神せいしん鍛錬たんれん修養しゅうよう斯道しどう真髄しんずい体得たいとくすることである」「攻撃こうげき防御ぼうぎょ練習れんしゅう柔道じゅうどうでいう攻撃こうげきは、便宜上べんぎじょうなげかたとう三種さんしゅけることとしている。とうとは場合ばあい場合ばあいでいろいろの動作どうさをしてたいたおすことをいい、かたとはしぼぎょう関節かんせつぎょうそもそもぎょう区別くべつはあるが、ようするにたい体躯たいく、頸、四肢ししなどに拘束こうそくくわえてうごけなくしまたは苦痛くつうえられぬようにすることをいい、とうとはあしあたまときには器物きぶつまたは武器ぶきをもってたい身体しんたい種々しゅじゅ部分ぶぶん苦痛くつうかんじしめ、またはいたらしめることをいうのである。そうして防御ぼうぎょとはこれらの攻撃こうげきたいしておのれまっとうするためにほどこすいろいろの動作どうさをいうのである。」[12]べている。柔道じゅうどう当身あてみなか武器ぶきじゅつたい武器ぶきじゅつ概念がいねんふくむことをべている。

嘉納かのう理想りそう柔道じゅうどう教師きょうし条件じょうけんとして、「無手むて勿論もちろんぼうけん使つかじゅつにおいても攻撃こうげき防御ぼうぎょじゅつ熟練じゅくれんし、勝負しょうぶじょう理論りろん心得こころえ同時どうじ体育たいいくとして必要ひつよう知識ちしきゆうし、つその方法ほうほうにもおさむじゅくし、また教育きょういくとして必要ひつよう道徳どうとく教育きょういく理論りろんにも通暁つうぎょうし、訓練くんれん方法ほうほうにもたっし、のみならず柔道じゅうどう原理げんり社会しゃかい生活せいかつ応用おうようするうえにおいてせいふかなる知識ちしきゆうし、方法ほうほうをわきまえている」[13] 人物じんぶつとしている。嘉納かのう理想りそうとしての柔道じゅうどう攻撃こうげき防御ぼうぎょ修行しゅぎょうには無手むてのみではなく武器ぶきじゅつふくむものであったことがうかがえる。

また嘉納かのう1926ねん大正たいしょう15ねん)、当時とうじ機関きかん作興さっこう」に、「武術ぶじゅつとしての柔道じゅうどう手術しゅじゅつはもちろん、剣術けんじゅつ棒術ぼうじゅつ槍術そうじゅつ弓術きゅうじゅつ薙刀なぎなたそのあらゆる武術ぶじゅつ包含ほうがんする」とき、「剣術けんじゅつ棒術ぼうじゅつはいずれも価値かちあるものとみとめむるが、剣術けんじゅつ試合しあい練習れんしゅうはすでに世間せけん普及ふきゅうしているから、たり手術しゅじゅつほかには剣術けんじゅつおよび棒術ぼうじゅつかたちをするつもりである」とべている。[14][15]

嘉納かのうはそのような修行しゅぎょう形態けいたいさい試行しこうする目的もくてきで、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に講道館こうどうかんないに「武道ぶどう研究けんきゅうかい」をげ、やわらけんぼうつえじゅつとうふる武術ぶじゅつ保存ほぞんあらたな武術ぶじゅつ創作そうさく柔道じゅうどうとしての体系たいけいへの研究けんきゅうすすんでいる。

参加さんかメンバーの望月もちづきみのるは、武道ぶどう研究けんきゅうかいについて「武術ぶじゅつ殺傷さっしょう技術ぎじゅつであったのにたいし、武道ぶどう青少年せいしょうねん体育たいいく徳育とくいく知育ちいく志向しこうした教育きょういく手段しゅだんとして近代きんだいされたものである。したがって技術ぎじゅつてきには殺傷さっしょうわざとしては有効ゆうこうであっても、体育たいいくてきには適当てきとう做されたおおくのわざすべ淘汰とうたされてしまった。嘉納かのう治五郎じごろう先生せんせい大正たいしょう末期まっきから、これたいするさい検討けんとうはいられて、当時とうじすで消滅しょうめつひんしていた古流こりゅう武術ぶじゅつ保存ほぞんちかられられたのである」[16]べている。

講道館こうどうかん棒術ぼうじゅつ

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武道ぶどう研究けんきゅうかい設立せつりつされるとともに、「一般いっぱんもの武器ぶきたずさえていないような時代じだいでは、無手むてでできる武術ぶじゅつ一番いちばん価値かちがあるが、つえやステッキやかさなどのられやすいもの武器ぶきとして攻撃こうげき防御ぼうぎょできることがつぎ価値かちがある」という嘉納かのう治五郎じごろうかんがえのもと、講道館こうどうかん棒術ぼうじゅつ講道館こうどうかんにおいてまなばれる。香取かとり神道しんとうりゅう玉井たまい幸平こうへい椎名しいな市蔵いちぞう伊藤いとうたねよし久保木くぼきそう左衛門さえもんや、神道しんとう夢想むそうりゅう清水しみず隆次りゅうじなどをへいとし体系たいけいのぞんだ。嘉納かのう講道館こうどうかん柔道じゅうどう一部いちぶもんとして講道館こうどうかん棒術ぼうじゅつ大成たいせいひろぜん世界せかいへの普及ふきゅうかんがえていた。[17]

二代目講道館館長南郷次郎の理想りそう

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嘉納かのう治五郎じごろう死去しきょ1938ねん5月4にち嘉納かのうおいであり、海軍かいぐん軍人ぐんじんでもあった南郷なんごう次郎じろう代目だいめ講道館こうどうかん館長かんちょう就任しゅうにん(1938-1946ねん)した。 教育きょういくしゃであった嘉納かのう理想りそうとしてあった武術ぶじゅつ体育たいいく教育きょういく社会しゃかい貢献こうけん融合ゆうごうたいして、南郷なんごう次郎じろうは、とく嘉納かのう武術ぶじゅつろん継承けいしょうした。 生前せいぜん嘉納かのう武術ぶじゅつとしての柔道じゅうどうという観点かんてんボクシングからごう柔術じゅうじゅつ棒術ぼうじゅつレスリングといったおおくの武術ぶじゅつ研究けんきゅうしその必要ひつようせいき、講道館こうどうかん創立そうりつ50周年しゅうねんむかえた1932ねん昭和しょうわ7ねん)には以下いかのようにべている。

柔道じゅうどうはその本来ほんらい目的もくてきかられば、道場どうじょうける乱取らんどり練習れんしゅうのみをもって、満足まんぞくすべきものでないといふことにかんがみ、かたち研究けんきゅう練習れんしゅう一層いっそうりょくもちいひ、棒術ぼうじゅつ剣術けんじゅつ研究けんきゅうし、外来がいらいのレスリングやボキシングにもおよぼし、それとう改良かいりょうはかることにつとめなければならぬ」」[18]

南郷なんごう武道ぶどう技術ぎじゅつろんにおいては、いずれも柔道じゅうどう武術ぶじゅつせい重視じゅうしされているが、そこには南郷なんごう自身じしん軍人ぐんじんとしてあったアイデンティティにくわえ、当時とうじ日本にっぽんにおける戦時せんじ体制たいせい緊張きんちょうかんがあった。

空想くうそうざるちか理想りそう
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南郷なんごう館長かんちょう就任しゅうにん披露ひろう晩餐ばんさんかいにおいて南郷なんごう次郎じろうは「空想くうそうざるちか理想りそう」をかたり、そこでは柔道じゅうどう将来しょうらいたいする抱負ほうふを7てんのようにげた。

  1. 柔道じゅうどうによる精神せいしん教育きょういく
  2. 最優秀さいゆうしゅうしゃ最強さいきょうしゃ養成ようせい
  3. 少年しょうねん柔道じゅうどう向上こうじょう普及ふきゅう
  4. 講道館こうどうかん柔道じゅうどう以外いがい各種かくしゅ手術しゅじゅつ長所ちょうしょ包容ほうよう研究けんきゅうすること
  5. 相当そうとう離隔りかくせる位置いちより相手あいてせいするにいたるまでの技能ぎのう研究けんきゅう錬磨れんま」すること
  6. 近代きんだい武器ぶき服装ふくそう対応たいおうする柔道じゅうどうわざ研究けんきゅうすること
  7. らく気持きもち柔道じゅうどうたのしみたいとかんがへられる人々ひとびと」のために「講道館こうどうかんないあるいはクラブをもうけ」ること
嘉納かのう治五郎じごろう慰霊いれいさいでの奉納ほうのう演武えんぶ
編集へんしゅう

また、嘉納かのう治五郎じごろう慰霊いれいさいでの奉納ほうのう演武えんぶおこなわれたさいには、講道館こうどうかんにおいて制定せいていされていたかたち演武えんぶくわえて、1939ねん昭和しょうわ14ねん)におこなわれた嘉納かのう没後ぼつごいちねんさいにおいては嘉納かのう生前せいぜんからおこなわれていた講道館こうどうかん棒術ぼうじゅつを、また1941ねん昭和しょうわ16ねん)のさんねんさいでは28くみ流派りゅうは演武えんぶ1943ねん昭和しょうわ18ねん)のねんさいでは6くみ流派りゅうは演武えんぶおこなわれている。嘉納かのう生前せいぜんおこなっていた各種かくしゅ武術ぶじゅつ研究けんきゅうは、その講道館こうどうかん継続けいぞくされた。

武道ぶどう振興しんこう委員いいんかい答申とうしんかたち研究けんきゅうかい
編集へんしゅう

戦時せんじ1939ねん昭和しょうわ14ねん)12月設置せっち武道ぶどう振興しんこう委員いいんかい政府せいふ諮問しもん機関きかん)が、1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ30にち提出ていしゅつした答申とうしんでは、武道ぶどうせんわざうたわれた。南郷なんごう武道ぶどう武術ぶじゅつ国家こっか統制とうせいからの民間みんかん武道ぶどう団体だんたい自立じりつ主張しゅちょうしながらも、それに対応たいおうするかたち南郷なんごう指示しじにより同年どうねんちゅうには講道館こうどうかんに「かたち研究けんきゅうかい」が開設かいせつかれた。そこでは柔道じゅうどうだけでなく様々さまざま武術ぶじゅつ専門せんもん22めい委員いいんとしてまねかれた。接近せっきんした間合まあいにおける柔道じゅうどう武術ぶじゅつせい自信じしん南郷なんごうは、離隔りかく間合まあい技術ぎじゅつ研究けんきゅうすべきとかんがえ、ちか間合まあいでの乱取らんどり離隔りかく間合まあいでのかたち不偏ふへん稽古けいこすべきと主張しゅちょうした。

南郷なんごうは、柔道じゅうどう技術ぎじゅつ体系たいけいが「たい近接きんせつしてこれれを制御せいぎょする武術ぶじゅつであり、一度いちどたい近接きんせつすることをれば、柔道じゅうどうほど有効ゆうこうにして優秀ゆうしゅうなる武術ぶじゅつはないと断言だんげんすることが出来できる」と、たがいにくことが可能かのう接近せっきんした間合まあいでの柔道じゅうどう武術ぶじゅつとしての優秀ゆうしゅうせい自信じしんしめす。 それをふまえたうえで「離隔りかく概念がいねん導入どうにゅうし、はなれた間合まあいから相手あいて制御せいぎょする技術ぎじゅつ必要ひつようであることをいた。

柔道じゅうどう武術ぶじゅつとして大成たいせいせしめるにはどうしても相当そうとう離隔りかくせる位置いちより相手あいてせいするにいたるまでの技能ぎのう研究けんきゅう錬磨れんましなければならない。離隔りかくにはけんあり鎗ありゆみあり長刀ちょうとうあり、またボクシングありからあり、これとうたいする離隔りかくより接触せっしょくへの過程かてい研究けんきゅうはじめて柔道じゅうどう武術ぶじゅつとしても天下てんか無敵むてきたりるのであつて、このてん今後こんご益々ますます研究けんきゅう錬磨れんまにつとめなければならないのであるとかんがへる」。

かたち研究けんきゅうかい」の成果せいか
編集へんしゅう

1941ねん昭和しょうわ16ねんなつ講道館こうどうかん指南しなんやく最上級さいじょうきゅう指導しどうしゃ委員いいんとした「離隔りかく態勢たいせいわざ」の研究けんきゅう委員いいんかい発足ほっそくし、1942ねん昭和しょうわ17ねん)、富木とみき謙治けんじが、南郷なんごう講道館こうどうかんちょうあたえた課題かだいこたえて「柔道じゅうどうける離隔りかく態勢たいせいわざ体系たいけいてき研究けんきゅう」を発表はっぴょうし、当身あてみによる攻撃こうげきにも対応たいおうし、くわえて近代きんだい課題かだい安全あんぜんせい)とも調和ちょうわする、いわば総合そうごう柔道じゅうどう基本きほん構想こうそう方法ほうほうしめした。富木とみきはそのなかにおいて「基本きほんかたち」を発表はっぴょうする。基本きほんかたちだいいちきょうとうわざ3ほんだいきょうそもそもわざ2ほんだいさんきょうきょくわざ3ほんだいよんきょうてんまわりわざ2ほんだい五教ごきょうのちわざ2ほんの5種類しゅるい分類ぶんるいされる。 富木とみきは、日本にっぽん武道ぶどう根本こんぽん原理げんりは、剣道けんどうの「けん」と柔道じゅうどうの「やわら」のふたつにあるとし、研究けんきゅうすすめていく。戦後せんご1956ねん昭和しょうわ31ねん)に完成かんせいした「護身ごしんじゅつかたち」(講道館こうどうかん護身ごしんじゅつ)は、「嘉納かのう重視じゅうしした武術ぶじゅつ護身ごしんとしての価値かちかん(すなわち勝負しょうぶかん)を純粋じゅんすい継承けいしょうしたものと位置いちづけることができる」と指摘してきされる。

また、1943ねん昭和しょうわ18ねん)、女子じょし柔道じゅうどう護身ごしんほう発表はっぴょうされる。

なお、1943ねん5がつ三船みふね久蔵きゅうぞうは、あらたに研究けんきゅうちゅう護身ごしんじゅつ部分ぶぶんてき紹介しょうかい、「無手むて短刀たんとう大刀たち銃剣じゅうけんとうたいするあたらしい防禦ぼうぎょほう、といふよりは積極せっきょくてき攻撃こうげき」を内容ないようとしたとされているが、これについての詳細しょうさい現状げんじょうわからず、[よう出典しゅってん]戦前せんぜんにまとまった著述ちょじゅつのこした委員いいんすくない。[19][20]

離隔りかく態勢たいせい柔道じゅうどう

編集へんしゅう

嘉納かのうあとも、嘉納かのうもとめた「はなれておこな柔道じゅうどう」の試行しこうだい2だい講道館こうどうかん館長かんちょう南郷なんごう次郎じろう望月もちづきみのる富木とみき謙治けんじなどにがれ、1942ねん南郷なんごう次郎じろう館長かんちょう時代じだい講道館こうどうかんにおいて「柔道じゅうどう離隔りかく態勢たいせいわざ研究けんきゅう委員いいんかい」が設置せっちされている。なかでも富木とみき謙治けんじによるはなれておこな柔道じゅうどう当身あてみ関節かんせつ主体しゅたいとする「離隔りかく態勢たいせい柔道じゅうどう」の研究けんきゅうは、講道館こうどうかん護身ごしんじゅつ合気道あいきどう競技きょうぎ柔道じゅうどうだい乱取らんどほう)などとしてまとめられることになる。

富木とみき謙治けんじは、嘉納かのう治五郎じごろうのこした言説げんせつから、古流こりゅう柔術じゅうじゅつかく流派りゅうはごう柔術じゅうじゅつ合気道あいきどう)、また剣術けんじゅつ剣道けんどう)を包括ほうかつする嘉納かのうの『柔道じゅうどう原理げんり』を分析ぶんせきする。また柔道じゅうどうわざを、従来じゅうらい乱取らんどりおこなわれるわざだいいち部門ぶもん)「とうわざ」・(だい部門ぶもん)「かたわざ」と、従来じゅうらいかたちおこなわれる(・突・武器ぶき対峙たいじする)はなれたわざだいさん部門ぶもん)「当身あてみわざ」・(だいよん部門ぶもん)「(ち)関節かんせつわざ手首てくび関節かんせつひじ関節かんせつっての関節かんせつわざきょわざげやかため)」、の4しゅ再度さいど分類ぶんるいし、「とうわざ」・「かたわざ」の従来じゅうらい乱取らんどりたいして、「当身あてみわざ」・「関節かんせつわざ」によっておこなわれる柔道じゅうどうだい乱取らんどりほう提唱ていしょうする。

富木とみきは、嘉納かのう帰納きのうしたふるかくりゅう柔術じゅうじゅつ一貫いっかんする基本きほんじゅつとしての「柔道じゅうどう原理げんり」を、「自然体しぜんたい」、「やわら」、「くずしの」の3つにまとめ、攻防こうぼう理論りろんとして、また「とうわざ」「かたわざ」「関節かんせつわざ」「当身あてみわざ」のわざをそれぞれの状況じょうきょうてはめる。

  1. 攻防こうぼう」に即応そくおうする、自在じざい姿勢しせいかたとして『自然体しぜんたい』 (変幻へんげん自在じざい臨機応変りんきおうへんに、つ「不動ふどうしん」や「心身しんしん一如いちにょ」「動静どうせい一如いちにょ」のぜんしんほうつうじる「かまえ」の思想しそう
  2. 防御ぼうぎょ」の立場たちばで、相手あいて攻撃こうげき無効むこうにするやわらかいはたらきかけとして『やわら』 (「不敗ふはい」の柔軟じゅうなんからだ運用うんよう
    1. んで」相手あいてちからなが
    2. はなれて」相手あいて突をかわしうける
  3. 攻撃こうげき」の立場たちばで、相手あいて姿勢しせいのバランスをくずして勝機しょうきを「つくる」『くずしの』 (古流こりゅう柔術じゅうじゅつわざ本質ほんしつ中心ちゅうしん技法ぎほうとしての「たおすこと」と「おさえること」)
    1. んで」相手あいてえりそで着物きものふくまたくびどうあしなど)をつかんでくず
    2. はなれて」相手あいてのあご・ひじ手首てくびれてくず
  • 相手あいて手首てくびまたは前腕ぜんわんをつかむことによって、とくにそのつかんだうでをひねることによって相手あいての「姿勢しせい」をくず場合ばあい。「関節かんせつわざ
  • 相手あいてからだとく顔面がんめんちからくわえることによって相手あいて姿勢しせいを「くずす」場合ばあい。「当身あてみわざ

くずしのにおいて富木とみきは「つくり」と「かけ」をそれぞれ重視じゅうしする。またそのなか富木とみきは、柔術じゅうじゅつにおける「「わざ」のだい目的もくてきは「たおすこと」と「おさえること」のふたつにすることが出来できる」とし、柔道じゅうどうだいいち乱取らんどりだい乱取らんどりのそれぞれのわざ分類ぶんるいてはめる。

たおすこと」の練習れんしゅう
  • だいいち場合ばあい
    みついてからかける「わざ」の練習れんしゅうであって、しゅとして、おたがいがえりそで着物きものふくまたくびどうあしなど)にみついて、あしこしのはたらきによる「わざ」を練習れんしゅうする。(こしわざ足技あしわざなどとうわざ
  • だい場合ばあい
    はなれて相手あいて・突・武器ぶき突をふせぎながらかける「わざ」の練習れんしゅうであって、しゅとして、手刀てがたな広義こうぎ)のはたらきによる「わざ」を練習れんしゅうする。(当身あてみわざ
    たおすときにうで手首てくびをとる。(関節かんせつわざ
おさえること」の練習れんしゅう
  • だいいち場合ばあい
    寝技ねわざぞくする「わざ」の練習れんしゅうであって、しゅとして、相手あいて仰向あおむけの姿勢しせいおさえることを練習れんしゅうする。(かたわざ
  • だい場合ばあい
    わざ」(柔道じゅうどうがたにおけるきょわざ)にぞくする「わざ」の練習れんしゅうであって、しゅとして、相手あいてを「うつせ」の姿勢しせいおさえることを練習れんしゅうする。(関節かんせつわざ

なお、富木とみきは「当身あてみわざにはふたつの性格せいかくがある」、「一撃いちげき必殺ひっさつ・突・威力いりょく発揮はっきするもの」で「こぶし手刀てがたなひじあしなどの鍛錬たんれん重点じゅうてんく」(衝撃しょうげきてき破壊はかいてきなもの)、「相手あいて姿勢しせいの「くずれ」にじょうじて、いちてんちからはたらきで相手あいてを「たおす」」もの(やわらかいちからはたらきであるが、くわえたちから持続じぞくてきであることによって相手あいてを「たおす」ことが出来できる)があり、「「当身あてみわざ」におけるふたつの性格せいかく相違そういは、その練習れんしゅう方法ほうほうにおいても根本こんぽんてきことなる」と説明せつめいする。[21]

また、富木とみき嘉納かのう言説げんせつにおける、「『柔道じゅうどう原理げんり』でけん使つかえば剣術けんじゅつとなり、やり使つかえば槍術そうじゅつとなる」の思想しそうから、「「柔道じゅうどう原理げんり」のなかには「剣道けんどう原理げんり」も吸収きゅうしゅうされていることを意味いみする」とし、

  1. 目付めつけ
  2. 間合まあい
  3. かたなほう

もととする「手刀てがたなほうはたらきをっても「柔道じゅうどう原理げんり」を分析ぶんせきする。

富木とみきは「柔道じゅうどう原理げんり」の手刀てがたなほうとして、「相手あいて・突・武器ぶきによる突を、かたなほうじゅつ防御ぼうぎょするばかりでなく、相手あいて自分じぶんに「み」つこうとするのを瞬間しゅんかんてきにそれをめるはたらき、また、「み」つかれてから、それを「離脱りだつ」するはたらきなど、すべてひろ意味いみでの「手刀てがたな」のはたらき」とした。[22]

巨人きょじんたいする技術ぎじゅつ研究けんきゅう

編集へんしゅう

神田かんだ久太郎きゅうたろうきゅうだんは「巨人きょじんたいする技術ぎじゅつ研究けんきゅう」として、古流こりゅう柔術じゅうじゅつかく流派りゅうはなかにあった「自分じぶんよりおおきいたいまえげるわざ」として「かく流派りゅうは文献ぶんけんたり古流こりゅう先生せんせいかたいたりし」研究けんきゅうすすめ、朽木くちきだお双手そうしゅといったあしつかわざとして整備せいび乱取らんどりわざとして完成かんせいさせ、嘉納かのう治五郎じごろうみとめられ正式せいしき柔道じゅうどうわざ採用さいようされた[23][24]。またあしつかわざかかとかえし三船みふね久蔵きゅうぞうしたわざとされている[25]

当身あてみわざ体育たいいく

編集へんしゅう

精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいく

編集へんしゅう

嘉納かのう治五郎じごろう体育たいいく当身あてみわざわせた論考ろんこうは、1909ねん明治めいじ42ねん)7がつ発行はっこう中等ちゅうとう教育きょういく掲載けいさいしょうろんなずらえはたらけ体操たいそうについて」にある四方しほう四方しほうとうについての記載きさいや、『柔道じゅうどう概説がいせつ』(1913ねん大正たいしょう2ねん[26] などとつづき、昭和しょうわはいってからは「攻防こうぼうしき国民こくみん体育たいいく」(1927ねん昭和しょうわ2ねん)として精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくかたち発表はっぴょうされ、『精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいく』(1930ねん昭和しょうわ5ねん)や『柔道じゅうどう教本きょうほん』(1931ねん昭和しょうわ6ねんとうあわせて昭和しょうわ2ねんから6ねんあいだ発表はっぴょうされた一連いちれん著作ちょさくおびただしい言及げんきゅうがなされている[27]研究けんきゅう成果せいかは「精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくかたち」(単独たんどく動作どうさ相対そうたい動作どうさ)としてまとめられたが、このかたち制定せいてい理由りゆうについて、嘉納かのう治五郎じごろうは「わたしがこの国民こくみん体育たいいく考察こうさつした理由りゆうは、いちめん今日きょうまでおこなわれている柔道じゅうどうかたち乱取らんどり欠陥けっかんおぎなおうとするにあるのだから、平素へいそがた乱取らんどり修行しゅぎょうするものも、そこに留意りゅういしてこの体育たいいく研究けんきゅうもし、また実行じっこうもしなければならぬ」[28]昭和しょうわ6ねん)とべ、従来じゅうらい講道館こうどうかん柔道じゅうどう稽古けいこ体系たいけい不足ふそくしていたてんおぎな目的もくてきがあったとべている。 精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくかたちには、単独たんどく動作どうさ相対そうたい動作どうさがある[注釈ちゅうしゃく 1]下記かきかたちは1930ねん発行はっこう嘉納かのう治五郎じごろう精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいく』による分類ぶんるいであるが、時期じきによって分類ぶんるい仕方しかた多少たしょう差異さいがある[30]

単独たんどく動作どうさ

  • だい一類いちるいぽうとうぜんはすとうよことうこうとうぜんとう上当かみとう)、だいぽうとう大前おおまえはすとう大横おおよことうだいとう大前おおまえとうだい上当かみとう)、ぽうまえぜんはす左右さゆうぜんはす左右さゆう

こう)。

  • だいるいかがみみがく左右さゆう前後ぜんご突、うえ突、大上おおがみ突、左右さゆう交互こうご突、りょう手下てした突、はすうえはすだいはすうえ甲乙こうおつ)、こうすみ突、こうこう突前突。

相対そうたい動作どうさ

  • だい一類いちるいりょう手取てどり、はなし、ぎゃく手取てどり、突け、切掛きりかけ)、立合たてあい突上つきあげ、よこち、り、はすとっき、きりおろし)。
  • だいるいやわらかたち突出とっしゅつかた押、かたまわりせつくだし、片手かたて片手かたてじょうおびむね押、突上、両目りょうめ突)。

また嘉納かのう治五郎じごろうは「精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいく」が「攻防こうぼうしき国民こくみん体育たいいく」と「舞踊ぶようしき国民こくみん体育たいいく」のしゅによって構成こうせいされること、完成かんせい研究けんきゅう途中とちゅうであった「舞踊ぶようしき」の完成かんせいはかっていることをかたっている。[31][32]

精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくたいする空手からてかいからの主張しゅちょう

編集へんしゅう

また、このかたち使用しようされている当身あてみわざだい一種いっしゅ攻防こうぼうしき単独たんどく動作どうさ(基本きほん練習れんしゅう)の当身あてみわざについては、嘉納かのう治五郎じごろうから(のちの空手からて研究けんきゅう成果せいかによるものとの空手からてかいからの指摘してきがある[33]

1922ねん大正たいしょう11ねん)5がつ船越ふなこしよしちん文部省もんぶしょう主催しゅさいだいいちかい体育たいいく展覧てんらんかいから紹介しょうかいするために上京じょうきょう。そのだいいちかい体育たいいく展覧てんらんかいにおけるとうしゅ演武えんぶ実現じつげん船越ふなこしからのたのみをけ、その同郷どうきょう先輩せんぱいであった東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう教授きょうじゅ金城きんじょう三郎さぶろう懇願こんがんとおして、当時とうじだい日本にっぽん体育たいいく協会きょうかい名誉めいよ会長かいちょうとしてほん大会たいかい主催しゅさいしゃであり東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこうぜん学校がっこうちょうであった嘉納かのう治五郎じごろう斡旋あっせんにより実現じつげんしたものであった。

同年どうねん6がつ嘉納かのう船越ふなこし講道館こうどうかん招待しょうたいして、から演武えんぶ参観さんかんした。そのさいすべての演武えんぶ終了しゅうりょうすると、嘉納かのう師範しはんせきからがり、「かたち」のうんあしほうくみ手形てがた要領ようりょうについてするど質問しつもんした。当時とうじ講道館こうどうかんには柔術じゅうじゅつ拳法けんぽう家系かけい流派りゅうは専門せんもん沢山たくさんおり質問しつもん専門せんもんてきなものであった。船越ふなこしともとうしゅ演武えんぶおこなった儀間ぎま嘉納かのう質問しつもんするどさ、具体ぐたいせいしたきそのさい緊張きんちょうかんについて述懐じゅっかいしている[34]

嘉納かのうから興味きょうみをもったきっかけは、1908ねん明治めいじ41ねん)、沖縄おきなわ県立けんりつ中学校ちゅうがっこう生徒せいと京都きょうと武徳ぶとくかい青年せいねん大会たいかいにおいて、武徳ぶとくかい希望きぼうによりとうしゅかた披露ひろうとしたときであったとされ、このとき「嘉納かのう博士はかせかたつばんで注視ちゅうししてゐた」という[35]

また、1911ねん明治めいじ44ねん)、沖縄おきなわけん師範しはん学校がっこうから生徒せいと6めい修学旅行しゅうがくりょこう上京じょうきょうしたさい嘉納かのう治五郎じごろうまねかれて講道館こうどうかんとうしゅ演武えんぶかたち解説かいせついたりなどをおこなった。このときも「柔道じゅうどう元祖がんそ嘉納かのう先生せんせいをして嘆賞たんしょう辟易へきえきせしめた」という[36]。これは船越ふなこし上京じょうきょうする11ねんまえ出来事できごとであった。また、嘉納かのう沖縄おきなわ訪問ほうもんしたさいには、本部ほんぶあさもと料理りょうりまねいてとうしゅについて熱心ねっしん質問しつもんするなど[37]とうしゅたいして並々なみなみならぬ関心かんしんいていた。

嘉納かのうは、「乱取らんどりだけでは、当身あてみ練習れんしゅうができぬ」と[28]当身あてみわざ研究けんきゅうした。講道館こうどうかんとうしゅ演武えんぶをした儀間ぎま謹によれば、「このかたち精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくかたち)のなかには、沖縄おきなわから手術しゅじゅつ技法ぎほう随所ずいしょもちいられている」と指摘してきし、その研究けんきゅう成果せいか精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくかたちとしてまとめられた、とかんがえている[38]

ただし、嘉納かのう1909ねん明治めいじ42ねん)に発表はっぴょうした「なずらえはたらけ体操たいそう」にはたてばんみがけ四方しほう四方しほうとうなど、精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいくかたちふくまれるかがみみがくぽうぽうとう原型げんけいともかんがえられる動作どうさすで紹介しょうかいされている。

なお、嘉納かのう船越ふなこしよしちん本部ほんぶあさもと宮城みやぎちょうじゅん摩文仁まぶにけんとうへの接近せっきんやその上京じょうきょうへの斡旋あっせん協力きょうりょくなどをとおし、1934ねん昭和しょうわ9ねん)にはとうしゅ名称めいしょうあらた空手からて嘉納かのう斡旋あっせんによってだい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどう部門ぶもんへの入部にゅうぶみとめられることになる。空手からて本土ほんどにおける上陸じょうりく全国ぜんこくてき普及ふきゅう活動かつどう糸口いとぐちとなったのが講道館こうどうかんでの演武えんぶかいであり、それが近代きんだい空手からてどう出発しゅっぱつてんとなる[39]

体育たいいくとしての柔道じゅうどう体育たいいくほう

編集へんしゅう

日本にっぽんでん講道館こうどうかん柔道じゅうどう創始そうししゃである嘉納かのう治五郎じごろうは、武術ぶじゅつ教育きょういくてき価値かち見出みいだ整備せいびした武道ぶどうのパイオニアであり、武術ぶじゅつとしてその実績じっせきから「維新いしん以降いこうひゃくねん柔術じゅうじゅつかい最高さいこう偉人いじん[40]ひょうされる武術ぶじゅつ柔術じゅうじゅつかい第一人者だいいちにんしゃであった。

それとともに、教育きょういくかいにおける教育きょういくしゃとしての観点かんてんからも、わかくして学習院大学がくしゅういんだいがく教頭きょうとう東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう(のちの東京教育大学とうきょうきょういくだいがく筑波大学つくばだいがく校長こうちょうなどを歴任れきにんし、なだ中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう設立せつりつにも尽力じんりょくするなど第一人者だいいちにんしゃであった。

また体育たいいくめん日本にっぽん体育たいいくにおける観点かんてんにおいても「日本にっぽん体育たいいくちち」、「教育きょういくじょう体育たいいく尊重そんちょうし、体育たいいく地位ちい向上こうじょうをせしめたる卓見たっけん努力どりょくは、比較ひかくすべきひとない」[41]われるように卓越たくえつした見識けんしきち、アジアはつのオリンピック委員いいんだい日本にっぽん体育たいいく協会きょうかい初代しょだい会長かいちょうなどの実績じっせきからもられるように、嘉納かのう武術ぶじゅつ武道ぶどうとしてのめん以外いがいにも教育きょういくしゃとしても卓見たっけんであり、また西洋せいようほか格闘技かくとうぎ体育たいいく体操たいそう・スポーツへの知識ちしき造詣ぞうけいふかくあった。

体操たいそう伝習でんしゅうしょ答申とうしん

編集へんしゅう

嘉納かのう古流こりゅう柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょうおさめ、柔道じゅうどう創始そうしされた明治めいじ初期しょき日本にっぽんでは、一刻いっこくはや欧米おうべい列強れっきょうかたなら対峙たいじできるよう近代きんだいすすめることが至上しじょう命令めいれいとされ、「富国強兵ふこくきょうへい」「殖産しょくさん興業こうぎょう」というスローガンによってつよ国家こっか構築こうちくすることが重要じゅうよう国策こくさくとなっていった。国民こくみんの「体力たいりょく向上こうじょう」が国家こっかてき課題かだいとなり、それは教育きょういくかいにおいても、いわゆる「国民こくみん体育たいいく」の概念がいねんした身体しんたい鍛錬たんれん重視じゅうしされ、そのための具体ぐたいてき内容ないよう方法ほうほう模索もさくされつづけた。

学校がっこう教育きょういくでは、体育たいいく実施じっしされるようになり、その中心ちゅうしん教材きょうざいには欧米おうべいならって西洋せいようしき体操たいそう位置いちづけられた。医学いがく生理学せいりがく根拠こんきょ体操たいそう採用さいようした文部省もんぶしょうでは、体操たいそう万能ばんのうとする体育たいいくかん支配しはいてきとなった。

明治めいじ10年代ねんだいごろから国内こくない学校がっこう教育きょういくへの武術ぶじゅつせい採用さいようこえ武術ぶじゅつ中心ちゅうしんされるようになり、ついに1883ねん明治めいじ16ねん文部省もんぶしょう体操たいそう伝習でんしゅうしょたい剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ教育きょういくたいする利害りがい適否てきひ調査ちょうさするよう通達つうたつした。

そこでおこなわれた剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつへの、実施じっし医学いがくてき検討けんとう視察しさつ調査ちょうさ結果けっかとして、よく1884ねん明治めいじ17ねん)10がつ体操たいそう伝習でんしゅうしょつぎのように答申とうしんした(体操たいそう伝習でんしゅうしょ答申とうしん)。

じゅつ剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ)のとするほう

  1. 身體しんたい発育はついくたすく。
  2. ながからだどうこらえふる力量りきりょうしむ。
  3. 精神せいしん壮快そうかいにし志氣しき作興さっこうす。
  4. やわら惰のふうほしいままりてつよしたけし姿すがたかくおさめしむ。
  5. 不慮ふりょ危難きなんさいして護身ごしんもとしむ。

がいわかくは不便ふべんとするほう

  1. 身體しんたい発育はついく往々おうおう平均へいきん均一きんいつうしなはん。
  2. 實習じっしゅうさい多少たしょう危険きけんあり。
  3. 身體しんたい運動うんどう適度てきどしむることむずかし強壮きょうそうしゃ脆弱ぜいじゃく者共ものども過剰かじょうしっやすし。
  4. 精神せいしんはげやすく輙もすれば粗暴そぼう氣風きふうやしなえふべく。
  5. 争闘そうとうねんこころざしもりにしいたずらにかちせいせんとのかぜしやすし。
  6. きおいしんて却てなる勝負しょうぶしんやしなえひがちなり。
  7. 演習えんしゅうじょうごとじん監督かんとくよういちきゅう全體ぜんたい一斉いっせいさづけがたし。
  8. 教場きょうじょう坪数つぼすうようすること甚大じんだいなり。
  9. 柔術じゅうじゅつ演習えんしゅうたん稽古けいこようするのみなれども剣術けんじゅつさら稽古けいこ道具どうぐようし、つねに其衣るい及道清潔せいけつたもつこと生徒せいとごうには容易よういならず。

その理由りゆうから

  1. 学校がっこう体育たいいく正課せいかとして採用さいようすることは適当てきとうなり。
  2. 慣習かんしゅうじょうおこなわれやすところあるをもっかれ正課せいか体操たいそうおこたせんこころいくのみにへんするがごとところこれれをほどこさば其利をおさむむることをべし。

とされ、武術ぶじゅつ正課せいか体操たいそう教材きょうざいはならなかった。

柔道じゅうどういちはんなみ其ノ教育きょういくじょう価値かち

編集へんしゅう

体操たいそう伝習でんしゅうしょ答申とうしんの5ねんにあたる1889ねん明治めいじ22ねん)、当時とうじ29さいであった嘉納かのう治五郎じごろうだい日本にっぽん教育きょういくかい依頼いらいにより、文部もんぶ大臣だいじん榎本えのもと武揚ぶよう在日ざいにちイタリア公使こうしらの出席しゅっせきあおぎ、「柔道じゅうどういちはんなみニ其ノ教育きょういくじょう価値かち」とだいして講演こうえんおこなった。

講演こうえん柔道じゅうどういちはんなみニ其教育きょういくじょう価値かち」は、1884ねん体操たいそう伝習でんしゅうしょ答申とうしん沿かたちで、がいしくは不便ふべんとするほうとしてげられた条件じょうけんひとひとつクリアしていくかたち構成こうせいされている。

そこでは講道館こうどうかん柔道じゅうどう従来じゅうらいの(古流こりゅう柔術じゅうじゅつからさらすすめた柔道じゅうどう勝負しょうぶほう柔道じゅうどう護身ごしんほうともう)、柔道じゅうどう体育たいいくほう柔道じゅうどうねりからだほう柔道じゅうどう鍛錬たんれんほうともう)、やわら道修どしょうしんほう分類ぶんるいにより、修行しゅぎょう目的もくてき効用こうよう修行しゅぎょう方法ほうほうけてかんがえたうえ構成こうせいされた。講道館こうどうかん柔道じゅうどうでは「体育たいいく勝負しょうぶ武術ぶじゅつ真剣しんけん勝負しょうぶ方法ほうほう)、おさむしんみっつの目的もくてきっておりまして、これを修行しゅぎょういたしますれば体育たいいく出来でき勝負しょうぶ方法ほうほう練習れんしゅう出来でき一種いっしゅさとしそだて徳育とくいく出来でき都合つごうになっております。」とべて、柔道じゅうどう目的もくてきとして体育たいいく勝負しょうぶおさむしんみっつを智徳ちとくたいまなべる、といた。

講道館こうどうかん柔道じゅうどう独自どくじせい理論りろんてき大系たいけい教育きょういくかいにおける影響えいきょうりょくは、この嘉納かのう講演こうえん柔道じゅうどういちはんなみニ其教育きょういくじょう価値かち」によっておおやけるところとなり、武術ぶじゅつあらた武道ぶどう教育きょういくにおける正規せいき採用さいようおおきな影響えいきょうあたえていくことになる。

乱取らんどりとかたち両立りょうりつ

編集へんしゅう

柔道じゅうどういちはんなみニ其ノ教育きょういくじょう価値かち」において、柔道じゅうどう体育たいいくほう効用こうよう乱取らんどりとかたち両立りょうりつかれる。

乱取らんどりにおいては「身体しんたい強化きょうか」や、実践じっせんしゃが「興味きょうみ面白おもしろみ」をられるというてん、「主体性しゅたいせい育成いくせい」のてんから価値かちく。

かたちにおいては、学校がっこう体育たいいくしゅ目的もくてきたる「身体しんたい調和ちょうわてき発達はったつ」の観点かんてん、「乱取らんどり」を補完ほかんするものとして必要ひつようせい強調きょうちょうし、老若男女ろうにゃくなんにょ実施じっし可能かのうなものとしてしつらえ、「大衆たいしゅうせい」や「生涯しょうがいせい」をそなえた体育たいいくほうとして位置いちづけた。

体育たいいくほうにおける乱取らんどりとかたち嘉納かのう工夫くふうをこらすことになる。

従来じゅうらい乱取らんどりは体育たいいくとしての利点りてんがある反面はんめん初学しょがくもの方法ほうほうあやまると運動うんどう過激かげきになり危険きけんしょうじることも懸念けねんされる。そのため嘉納かのうは、どもの発達はったつ段階だんかいわざ難易なんい考慮こうりょした乱取らんどりわざ指導しどう順序じゅんじょしめして、学校がっこう柔道じゅうどうてきした段階だんかいてき指導しどう方法ほうほう整備せいびしていく。

また柔道じゅうどうにおけるかたちはその目的もくてきから、それぞれ乱取らんどりのかたちげのかたちかためのかたち)、体操たいそうかたちやわらかたちつよしやわらかたち)、真剣しんけん勝負しょうぶかたちきょくかたち講道館こうどうかん護身ごしんじゅつ女子じょし柔道じゅうどう護身ごしんほう)、古式こしきかたちなど目的もくてき用途ようとごとにけられるが、嘉納かのうは「柔道じゅうどういちはんなみニ其ノ教育きょういくじょう価値かち」において柔道じゅうどう体育たいいくほう目的もくてき沿うものとして、そのなかから体操たいそうかたちとして体育たいいくほうかたちだい一種いっしゅつよしやわらかたち)、体育たいいくほうかたちだいしゅやわらかたち)をげる。昭和しょうわはいるとさらに改良かいりょうくわえた「精力せいりょく善用ぜんよう国民こくみん体育たいいく(のかたち)」を嘉納かのう考案こうあんし、学校がっこう柔道じゅうどうにおいて「かたち」から「乱取らんどり」へという教習きょうしゅう課程かてい確立かくりつしていくことになる。

また嘉納かのうは「柔道じゅうどういちはんなみニ其ノ教育きょういくじょう価値かち」において柔道じゅうどう体育たいいくほうとしてみだれ体操たいそうもちいるさい怪我けががないために、また道場どうじょうはなれた日常にちじょうにおいてもくるまからころちたり梯子はしごはずしたり他人たにんからがいくわえられかかったりしたとき危険きけんけることの出来でき利益りえきのあることとして、危険きけんける方法ほうほうとして種々しゅじゅ受身うけみ方法ほうほうろん重要じゅうようせい説明せつめいしている。

このような嘉納かのうによる学校がっこう柔道じゅうどうにおける教授きょうじゅ内容ないよう方法ほうほう整備せいび確立かくりつするための工夫くふう過程かてい共通きょうつうする視点してんは、「やさしいものからむずかしいものへ」ということである。それは、初学しょがくもの対象たいしょうとする学校がっこう柔道じゅうどうにおける段階だんかいてき指導しどう観点かんてん一環いっかんとしてとらえることができる。

つよしけんよう 理想りそうてき体育たいいく

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嘉納かのう柔道じゅうどう体育たいいくほう目的もくてき優位ゆういせい効用こうようとして、「つよしけんよう」(強化きょうか調和ちょうわてき発達はったつ実用じつようせい)をげる。

1930ねん昭和しょうわ5ねん嘉納かのうは「理想りそうてき体育たいいく」としてつぎ条件じょうけん内容ないようべている。

  1. 筋肉きんにくとしても、内臓ないぞうとしても、身体しんたい円満えんまん均斉きんせい発達はったつせしめて、なるべく危険きけんともなわないこと。
  2. 運動うんどうはいちいち意味いみゆうし、したがって熟練じゅくれんがこれにともない、かつ熟練じゅくれん人生じんせいようをなすものであること。
  3. 単独たんどくでも団体だんたいにても出来でき老若男女ろうにゃくなんにょ区別くべつなく実行じっこうとくらるること。
  4. ひろ場所ばしょようせず、なるべく簡単かんたんなる設備せつびおこなられ、服装ふくそうのごときも平素へいそのままでおこなとくらるること。
  5. 時間じかんさだめておこなうも、随時ずいじれい砕の時間じかん利用りようしておこなうも、人々ひとびと境遇きょうぐうじょうおよび便宜上べんぎじょう自由じゆうになしること。

また柔道じゅうどう修行しゅぎょうにおける必要ひつよう医学いがく生理学せいりがくてき根拠こんきょまな方法ほうほうじょうとしては柔道じゅうどう修行しゅぎょうほうひとつ「講義こうぎ」をもうけ、それによって補完ほかんする必要ひつようのあることを嘉納かのうべる。

柔道じゅうどう修行しゅぎょうにおける強度きょうどちが

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柔道じゅうどう修行しゅぎょうにおけるその強度きょうどちがい、真剣しんけん勝負しょうぶ武術ぶじゅつ)、競技きょうぎ教育きょういく目的もくてき体育たいいく、はその修行しゅぎょう方法ほうほう修行しゅぎょうしゃ考慮こうりょしておこなわれるべきものである。

武術ぶじゅつとしての真剣しんけん勝負しょうぶ柔道じゅうどう勝負しょうぶほう修行しゅぎょうは、「柔道じゅうどう勝負しょうぶほうとは、ひところそうとおもえばころすことが出来できいためようとおもえばいためることが出来できとらえようとおもえばとらえることが出来できる。また相手あいてがそのようなことを仕掛しかけてきたとき自分じぶんのうこれふせぐことの出来できじゅつ練習れんしゅうである。要約ようやくすると肉体にくたいじょうひとせいし、かつひとせいせられないじゅつといえよう。」と嘉納かのう説明せつめいするものであり、急所きゅうしょへの当身あてみわざ武器ぶきじゅつふく柔道じゅうどう勝負しょうぶほう修行しゅぎょう方法ほうほうは「たやすいものではない」と嘉納かのうべる。

またチャンピオンシップにもとづいた競技きょうぎ中心ちゅうしん柔道じゅうどうにおいては「つよ選手せんしゅそだてること」に主眼しゅがんかれる「強者きょうしゃのための柔道じゅうどう」であり、そこには弱者じゃくしゃたいする配慮はいりょはほとんどおこなわれない可能かのうせいがあるという指摘してきがある。その一方いっぽう教育きょういくとしておこなわれるべき学校がっこう柔道じゅうどう初学しょがくもの対象たいしょうとしており、競技きょうぎとしておこなうことはできない「弱者じゃくしゃ」(たとえば、どもたち)にてきした指導しどうがなされるべきである。各々おのおの柔道じゅうどう修行しゅぎょう目的もくてき修行しゅぎょう方法ほうほう見極みきわめる必要ひつようがある。

教育きょういく精神せいしん修養しゅうよう応用おうようとしての柔道じゅうどうおさむしんほう

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講道館こうどうかん柔道じゅうどう創始そうししゃ嘉納かのう治五郎じごろうは、1889ねんの「柔道じゅうどういちはんなみニ其ノ教育きょういくじょう価値かち講演こうえんにおいて、柔道じゅうどうみっつの目的もくてき柔道じゅうどう勝負しょうぶほう」「柔道じゅうどう体育たいいくほう」「やわら道修どしょうしんほう」のうち、「やわら道修どしょうしんほう」についておもに3つの効用こうようげる。

  1. 徳目とくもく涵養かんよう
  2. 知育ちいく
  3. 勝負しょうぶ理論りろん応用おうよう

徳性とくせい涵養かんようする

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嘉納かのう日本にっぽんにおけるふるくからの高等こうとう教育きょういく手段しゅだんとされて武芸ぶげい精神せいしん柔道じゅうどう修行しゅぎょうによって、みずから「自国じこくおもんじ」「自国じこく事物じぶつあいし」「気風きふう高尚こうしょうにし」「勇壮ゆうそう活発かっぱつ性質せいしつ」などの徳性とくせい涵養かんようすることが出来できるとする。また、れいはじまりれいわる柔道じゅうどう修行しゅぎょうただしい礼儀れいぎ作法さほうけ、かつ、自主じしゅ沈着ちんちゃく真摯しんし勇気ゆうき公正こうせい謙譲けんじょうとうしょ徳目とくもく涵養かんようすることが出来できるとする。しかし、これらの徳性とくせい涵養かんようは、柔道じゅうどう修行しゅぎょう固有こゆう性質せいしつから自然しぜん涵養かんようすることのできるものと、柔道じゅうどう関係かんけいあるすべてのそとかこえ事柄ことがら利用りようして、とく徳育とくいくじょう教育きょういくほどこしてその目的もくてきたっするものとがあり指導しどうじょう留意りゅういする必要ひつようがあるとした。前者ぜんしゃ柔道じゅうどう修行しゅぎょうのうち「乱取らんどり」「かたち」からまなび、後者こうしゃ柔道じゅうどう修行しゅぎょうの「講義こうぎ」と「問答もんどう」の修行しゅぎょうによってまな必要ひつようせいがある。

嘉納かのうべる柔道じゅうどう修行しゅぎょうからまなべる徳目とくもくれい具体ぐたいてきげるとつぎのようになる。

  • 気風きふう高尚こうしょうであること
  • 驕奢きょうしゃかぜきらうこと
  • 正義せいぎおもんずること
  • みちのためには艱苦かんくをいとわず、容易ようい身命しんめいをなげうつ覚悟かくごがあること
  • 公正こうせいなること
  • 礼儀れいぎまもること
  • 信実しんじつなること
  • 身体しんたい大切たいせつにすること
  • 有害ゆうがいじょう制止せいしすること
  • 艱苦かんくえる習慣しゅうかんやしなうこと
  • たいにんちからつよくすること
  • 勇気ゆうきませること
  • おしえをけることとみずか考究こうきゅうすることの関係かんけいらせること
  • 準備じゅんびすること
  • そのほかである。

智力ちりょく

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嘉納かのう柔道じゅうどう修行しゅぎょうやわら道修どしょうしんほうつうじて会得えとく目指めざ智力ちりょくについておおくあるなか一部分いちぶぶんとしておもつぎのようにげる。 「観察かんさつ」、「注意ちゅうい」、「記憶きおく」、「推理すいり」、「試験しけん」、「想像そうぞう」、「分類ぶんるい」、「言語げんご」、「大量たいりょうあたらしい思想しそうきらわずれる性質せいしつ種々しゅじゅさまざまなことを同時どうじかんがえて混淆こんこうせしめぬようにまとめるちからの2つ)」、「その」となる。

勝負しょうぶ理論りろん百般ひゃっぱん応用おうようする

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嘉納かのう柔道じゅうどう修行しゅぎょうについて、勝負しょうぶどう追求ついきゅうでもあり、勝負しょうぶつことが重要じゅうよう目標もくひょうになるともする。その勝負しょうぶつための理論りろんは、たん勝負しょうぶのみでなく、政治せいじ経済けいざい教育きょういくその一切いっさいことにも応用おうようできるものであるとする。その応用おうよう部分ぶぶんおさむしんほうなかでも随分ずいぶん面白おもしろくもあり有益ゆうえきであると嘉納かのうく。嘉納かのうげる勝負しょうぶ理論りろん応用おうようれいについて要約ようやくするとつぎのようになる。 自他じた関係かんけいること 迅速じんそく判断はんだん さきれ(さきさきさきさき熟慮じゅくりょ断行だんこう さきられたときのなすべき手段しゅだん やすきにき、相手あいてあやうきにくこと まることをること 制御せいぎょじゅつ その とうである。また、練習れんしゅう必要ひつよう 彼我ひが接触せっしょく けどころ おのれをてること 注意ちゅうい観察かんさつ工夫くふう 最善さいぜんくす 進退しんたい仕方しかた あらゆる機会きかい利用りようする 格外かくがいちからおうじるとき心得こころえ ぎょうかかったとき心得こころえなども嘉納かのう発言はつげん著作ちょさくからうかがることが出来できる。 嘉納かのうはこれらのおしえは、たん柔道じゅうどう勝負しょうぶ修行しゅぎょうのみでなく、すべ社会しゃかいことをなすうえおおきな利益りえきるものであるとした。 最後さいごもっと肝要かんようなる心得こころえひとつとして「ってそのちにおごることなく、けてそのけにくっすることなく、やすきにって油断ゆだんすることなく、あやうきにあっておそれるることなく、唯々いい一筋ひとすじみちけ」のおしえを強調きょうちょうして、いかなる場合ばあいにおいても、その場合ばあいにおいて最善さいぜん手段しゅだんくせということを嘉納かのう強調きょうちょうする。[42]

ざんこころ

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ざんこころ(ざんしん)とは日本にっぽん武術ぶじゅつ武道ぶどうおよび芸道げいどうにおいてもちいられる言葉ことばであり、武術ぶじゅつ武道ぶどうとしての柔道じゅうどうにおけるざんしんは、「相手あいてげたのち相手あいて反撃はんげきそなえる態度たいど心構こころがまえ」[43] ひとしわざめたのち心身しんしんともに油断ゆだんをしないことをう。たとえ相手あいて完全かんぜん戦闘せんとうりょくうしなったかのようにえてもそれは擬態ぎたいである可能かのうせいもあり、油断ゆだんしたすきいて反撃はんげきることがる。それをふせぎ、完全かんぜんなる勝利しょうりへとみちびくのがざんしんである。 わざくずれず態勢たいせいたもつ、だてわざから寝技ねわざへのスムーズな移行いこう相手あいて当身あてみ意識いしきする、ふくかたち技法ぎほうにおいてはとどめのれる動作どうさをするひとし柔道じゅうどうにおけるざんしんとなる。なお、柔道じゅうどうわざにはわざふくまれており、寝技ねわざ攻防こうぼう技法ぎほうふくまれ、かたち技法ぎほうなかにはきょわざふくまれるため、つね姿勢しせいざんしんわけではないことを留意りゅういする必要ひつようもある。 講道館こうどうかん柔道じゅうどう母体ぼたいひとつになっている天神てんじん楊流においては、わざおこなまえ心構こころがまえとして「ぜんしん」、わざ挙動きょどうちゅうしんうごきとして「つうしん」、挙動きょどうわって相手あいてそそぐこととして「ざんしん」をき、ぜんしんつうしんざんしんまでいてはいけないことをいている。[44][45] また、ざんしんは、茶道さどう日本にっぽん舞踊ぶようなど日本にっぽん芸道げいどうにももちいられるように、柔道じゅうどうにおける礼法れいほうにもつうじる。なにがあっても興奮こうふんせず、油断ゆだんせず、ゆとりをちながらまわりを意識いしきし、感情かんじょうおさえて冷静れいせい態度たいど平常へいじょうしんたもち、謙虚けんきょ勝敗しょうはいけとめ、相手あいて気持きもちをかんがえることができる。実戦じっせんからまれたこのコンセプトは、確実かくじつなことがないという覚悟かくご同時どうじに、たおしたてきたいする懺悔ざんげ敬意けいいあらわす。[46]

安全あんぜんめんにおいて:全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい主催しゅさい安全あんぜん指導しどう講習こうしゅうにおいて、体育たいいくとしての指導しどう初心者しょしんしゃ指導しどうにおける柔道じゅうどうの「」を指導しどうするさい安全あんぜんれるために、安全あんぜんめんでのキーワードとして

  1. 危険きけんときみずかたおれる「いさぎよさ」
  2. 相手あいてげるときたおれない「ざんしん)」
  3. たがいの柔道じゅうどうころもってバランスをたもつ「命綱いのちづな

大切たいせつさを強調きょうちょうしている。

娯楽ごらく美育びいく幅広はばひろ目的もくてき柔道じゅうどう(慰心ほう

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嘉納かのう治五郎じごろう1889ねん明治めいじ22ねん)にだい日本にっぽん教育きょういくかいにおいて文部もんぶ大臣だいじんらをまねき、「柔道じゅうどういちはんなみニ其教育きょういくじょう価値かち」とだいした講演こうえんおこない、柔道じゅうどう目的もくてきとして体育たいいく勝負しょうぶおさむしんげて、「此學全國ぜんこく教育きょういく科目かもくちゅうにゅうレマシタナラバ目下めした教育きょういくじょう缺点けってんフコトノ出来できル」とべ、全国ぜんこく教育きょういく機関きかん、とりわけ中学校ちゅうがっこうへの採用さいよう国民こくみんへの普及ふきゅう主張しゅちょうしていく。

こうした嘉納かのう活動かつどう剣道けんどうかい尽力じんりょくにより、1911ねん明治めいじ44ねん)に撃剣げっけん柔術じゅうじゅつ体操たいそう採用さいようされ、柔道じゅうどう日本にっぽん旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこうにおけるせいになる。その嘉納かのう柔道じゅうどう目的もくてきとして慰心ほうふくめて発表はっぴょうし、さらにあたらしい要素ようそ運動うんどうたのしさ、乱取らんどり試合しあい、そしてかたちたのしみ、芸術げいじゅつ形式けいしきとしてのかたちによる美育びいくふくむ)を柔道じゅうどうくわ柔道じゅうどうにおける幅広はばひろ目的もくてき主張しゅちょうしていく。

嘉納かのう当時とうじ国内こくないにおいて採用さいようされていた西洋せいようしき普通ふつう体操たいそう面白おもしろみが学校がっこう卒業そつぎょうながつづけられないことにかんする当時とうじ教育きょういくからの不満ふまんと、柔道じゅうどう様々さまざま利益りえきぎゃく競技きょうぎ運動うんどう面白おもしろながつづけられるという社会しゃかいてき背景はいけいから慰心ほうあたらしい発想はっそうした。

1913ねん大正たいしょう2ねん)、嘉納かのうは「柔道じゅうどう概説がいせつ」に「柔道じゅうどうやわら応用おうようしてたい制御せいぎょするじゅつ練習れんしゅうし、また其理ろん講究こうきゅうするものにして、身体しんたい鍛錬たんれんすることよりいふときは体育たいいくほうとなり、精神せいしん修養しゅうようすることよりいふときはおさむしんほうとなり、娯楽ごらく享受きょうじゅすることよりいふときは慰心ほうとなり、攻撃こうげき防禦ぼうぎょ方法ほうほう練習れんしゅうすることよりいふときは勝負しょうぶほうとなる」としるし、柔道じゅうどうは「やわら原理げんりとし、身体しんたい鍛錬たんれんには体育たいいくほう精神せいしん修養しゅうようにはおさむしんほう娯楽ごらくには「慰心ほう」、そして攻撃こうげき防御ぼうぎょ習得しゅうとくには勝負しょうぶほうとなる」といた。

「慰心ほう」の内容ないようは「慰心ほうとは柔道じゅうどう娯楽ごらくとして修行しゅぎょうする場合ばあいをいふ。いろたのしみみおとたのしむがごとく、筋肉きんにくまた運動うんどうして快楽かいらくかんずるものにして、ひとひと筋肉きんにく使用しようして勝負しょうぶけっするごときはさらだいなる快楽かいらくのこれにともなえふことろんほうたざるなり、且自ら快楽かいらくかんずるのみならず其勝負しょうぶ仕方しかたごう巧拙こうせつとうあじひてこれをたのし素養そようあるひとは、他人たにん勝負しょうぶても快樂かいらくかんずるはまた當然とうぜんのことなり。こと名人めいじん試合しあい及起たおせりゅう扱心りゅうかたち講道館こうどうかんかたちやわらかたちごときものにいたりては、しん勝負しょうぶかたちたる性質せいしつはなみずか美的びてき情操じょうそうおこさしむるものにして、もの快楽かいらくかんぜしむるやだいなり。かく單純たんじゅんなる筋肉きんにく快楽かいらくより高尚こうしょうなる美的びてき情操じょうそういたるまで快楽かいらくるを目的もくてきとして修行しゅぎょうするは、これを慰心ほうとして柔道じゅうどう修行しゅぎょうすといふ」とべ、

  1. 運動うんどう勝負しょうぶたのしみ
  2. 他人たにん勝負しょうぶわざ巧拙こうせつたのしみ
  3. 他人たにんかたちたのしみ

などをれいげた。

また、修行しゅぎょうさいしては「柔道じゅうどうはかくよんよう着眼ちゃくがんてんより修行しゅぎょうするをるものなれど、實際じっさいおいてはこれをおさむむるを得策とくさくとす・・・(中略ちゅうりゃく)・・・慰心ほうとしておさむむるときもまた同様どうようにして、実益じつえきともはざる娯楽ごらく人事じんじ多端たたんおいおおくこれをまずしることをざるものなれど、種々しゅじゅ實益じつえきともなえ柔道じゅうどう娯楽ごらくは、これをとおるくることおおきもえきることありてごうも其弊をず」とべ、慰心ほう以外いがい目的もくてきねて練習れんしゅうおこなうことでたのしみながらも体育たいいく勝負しょうぶおさむしんじょう利益りえきることが出来できると主張しゅちょうした。

しかしその嘉納かのう言説げんせつなかから「慰心ほう」の名称めいしょうられなくなり、ふたたび「体育たいいくほう」「勝負しょうぶほう」「おさむしんほう」を中心ちゅうしんとしたものになっていく。それでも1915ねん3がつの「たてこう基礎きそ柔道じゅうどう修行しゅぎょう」のなかられるように体育たいいくほうとしては

  1. 運動うんどう種類しゅるいおお老若男女ろうにゃくなんにょてきする
  2. 多目的たもくてき興味きょうみきない
  3. 実生活じっせいかつ役立やくだ

といった3つの利点りてんげた。

嘉納かのうは1について「柔道じゅうどう運動うんどうしてもっとおおくの目的もくてきゆうし、したがってさきからさきへときぬ興味きょうみがある。いち体育たいいくそのものよりそと目的もくてきのない運動うんどうやその目的もくてきかでない運動うんどうは、興味きょうみかんじないものである。興味きょうみのない運動うんどうは、ひと績してぎょうはせることも出来できず、熱心ねっしん練習れんしゅうさせることも出来できず、体育たいいく方法ほうほうとして価値かちすくないものである。しかるに柔道じゅうどう身体しんたい強健きょうけんにするそとに、おのれまもじんつことを目的もくてきとし、五體ごたい自由自在じゆうじざい動作どうささせることを目的もくてきとし、精神せいしん礪を目的もくてきとしてために、競争きょうそう興味きょうみごう熟練じゅくれん興味きょうみ人格じんかく向上こうじょう興味きょうみ美的びてき感情かんじょう養成ようせい、その他言たごんぶたせぬほど多様たよう興味きょうみ喚起かんきらず識らずのあいだ体育たいいくじょうこうはておさめることが出来できる」とべ、競技きょうぎたのしさを魅力みりょくの1つにげている。このように「慰心ほう」の名称めいしょう消失しょうしつするが、その内容ないよう柔道じゅうどう奨励しょうれいいち手段しゅだんとして位置いちづけられていく。

しかし明治めいじ後期こうきから対校たいこう試合しあい隆盛りゅうせいとも試合しあいたいする学生がくせい関心かんしんたかまる一方いっぽうで、学生がくせいあいだ紛擾ふんじょう学校がっこうあいだ対立たいりつなどがしょうじることになる。やがて大正たいしょう後期こうきになると高等こうとう専門せんもん学校がっこう柔道じゅうどう大会たいかい活況かっきょうていし、学生がくせい母校ぼこう名誉めいよのために過熱かねつし、様々さまざま弊害へいがいあらわれてくることになる。それらにたいし、嘉納かのうは慰心ほうわり、状況じょうきょう改善かいぜんさくこうじ、柔道じゅうどう本来ほんらいのありかたもどそうと腐心ふしんしていくことになる。

時代じだいくだだい大戦たいせんのちには軍事ぐんじてき色彩しきさいつよしとして一時いちじ禁止きんしされていた柔道じゅうどうであったが、1949ねん昭和しょうわ24ねん)には全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい結成けっせいされ、よく1950ねん昭和しょうわ25ねん)には学校がっこう柔道じゅうどう解禁かいきんされる。

講道館こうどうかんさん代目だいめ館長かんちょうとなった嘉納かのうくつただし著書ちょしょ柔道じゅうどういち戦後せんごはちねんあゆいち』において「スポーツとしての柔道じゅうどう」とだいし「快適かいてきなスポーツとして柔道じゅうどう練習れんしゅう方法ほうほうかんがへる場合ばあいかならずしも鍛錬たんれん主義しゅぎ全面ぜんめんてきによいとはげんへず、 教育きょういくてき見地けんちからその対照たいしょうによっては再考さいこうすべきてんもあるであらう。講道館こうどうかん柔道じゅうどう一部いちぶでは、旧弊きゅうへいスポーツてきなものであるといふよう誤解ごかいもあるが、とお明治めいじよんじゅうさんねん嘉納かのう治五郎じごろういた柔道じゅうどう説明せつめいうちに、 柔道じゅうどうは・・・(中略ちゅうりゃく) ・・- 娯楽ごらく享受きょうじゅすることよりうんは慰心ほうとなり・・・(中略ちゅうりゃく)・・・とあるよう娯楽ごらくとしての柔道じゅうどうめんうたってゐるので、けっして講道館こうどうかん柔道じゅうどうたんなる武道ぶどうてききびしいめん強調きょうちょうするものでなく、しんなぐさむるものとして、のりちスポーツの字義じぎどおりの内容ないようをも具備ぐびするものである」とべ、これまでの柔道じゅうどう勝負しょうぶ精神せいしんめん強調きょうちょうされぎたが、娯楽ごらく意義いぎ今後こんご大切たいせつであるといている。柔道じゅうどう「慰心ほう」の存在そんざい意義いぎさい認識にんしきするときともいえる。[47]

礼法れいほう

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講道館こうどうかん柔道じゅうどう礼法れいほうのその趣旨しゅし動作どうさについて「試合しあいにおける礼法れいほう」として、1967ねん昭和しょうわ42ねん)3がつ15にち以下いかのように発表はっぴょうしている[48]

れいは、ひとまじわるにたり、まずその人格じんかく尊重そんちょうし、これに敬意けいいひょうすることにはっし、ひとひととの交際こうさいをととのえ、社会しゃかい秩序ちつじょたもみちであり、礼法れいほうは、この精神せいしんをあらわす作法さほうである。精力せいりょく善用ぜんよう自他じた共栄きょうえいみちまな柔道じゅうどうじんは、うちれい精神せいしんふかめ、そと礼法れいほうまさしくまもることが肝要かんようである。

敬礼けいれい

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1.立礼りつれい(りつれい) 立礼りつれいは、まずそのほうせいたいして直立ちょくりつ姿勢しせいり、いで上体じょうたい自然しぜんまえげ(やく30)、両手りょうて指先ゆびさき膝頭ひざがしらうえにぎこぶしやくいちにぎりくらいのところまでからだ沿わせてすべりおろし、敬意けいいひょうする。この動作どうさののち、おもむろに上体じょうたいをおこし、もと姿勢しせいにかえる。この立礼りつれいはじめてからわるまでの時間じかんは、平常へいじょう呼吸こきゅうにおいて大体だいたいいち呼吸こきゅうやく4びょう)である。直立ちょくりつをつけ)の姿勢しせいは、りょうかかとをつけ、あしさきをやく60ひらき、ひざかるばして直立ちょくりつし、あたままさしくたもち、くちじ、正面しょうめんたかさを直視ちょくしし、りょううで自然しぜんしだれ、ゆびかるそろえてばし体側たいそくにつける。

2.すわれい(ざれい)

1)正坐せいざ(せいざ)のしかた
正座せいざするには、直立ちょくりつ姿勢しせいから、まず左足ひだりあしいち足長あしながはんいて(爪立つまだてておく)、からだ大体だいたい垂直すいちょくたもったまま、ひだりひざ左足ひだりあしさきがあった位置いちにおろす。いで、右足みぎあし同様どうようにひいて爪立つまだてたままひだりひざをおろす(この場合ばあいりょうひざ間隔かんかく大体だいたいにぎこぶしにぎりとする)。いで、両足りょうあし爪先つまさきばし、両足りょうあし親指おやゆび親指おやゆびかさねて臀部でんぶをおろしからだをまっすぐにたもってすわる。この場合ばあい両手りょうては、りょう大腿だいたいきつけて指先ゆびさきをやや内側うちがわけておく。
2)すわれい
すわれいは、まずそのほうかって正坐せいざし、いで、りょうひじをひらことなく両手りょうてりょうひざぜんにぎこぶしやくにぎりのところにその人差ひとさゆび人差ひとさゆびとがやく6 cmの間隔かんかく自然しぜんうようにおき、前額ぜんがく両手りょうてうえやく30 cmの距離きょりいた程度ていど上体じょうたいしずかにげて敬意けいいひょうする。この動作どうさののち、しずかに上体じょうたいこし、もと姿勢しせいふくする。上体じょうたいまえげるとき、臀部でんぶがらないように留意りゅういする。

3.正坐せいざからのちかた がるには、まず上体じょうたいこして両足りょうあしさき爪立つまだてて、いですわるときと反対はんたいに、みぎひざ右足みぎあしみぎ膝頭ひざがしら位置いちすすめ、いで右足みぎあし体重たいじゅううつしてがり、左足ひだりあし右足みぎあしそろえて直立ちょくりつ姿勢しせいふくする。

戦前せんぜん文部省もんぶしょう制定せいていした「昭和しょうわ国民こくみん禮法れいほう」では、「すわった姿勢しせい」として「両足りょうあし拇指ぼしかさね、男子だんし膝頭ひざがしらさんよんすんくらいはなし、女子じょしはなるべくつけ」としめされている[49]柔道じゅうどうにおいては、女子じょし柔道じゅうどうという言葉ことば存在そんざいしており、男性だんせいのそれとはことなる部分ぶぶんがあるという認識にんしきたれている。礼法れいほうにおいても正坐せいざ膝頭ひざがしら位置いちかんして、以下いか指摘してきられる。伊藤いとう四男よつおは『女子じょし柔道じゅうどう護身ごしんじゅつ』で「ひざにぎこぶしひとはいるくらいにひらく」[50]じょうとみ政子まさこは『女子じょし柔道じゅうどう教本きょうほん』で「りょうひざ間隔かんかくは4~5 cm[51]柳沢やなぎさわひさ山口やまぐちかおりは『基本きほんレッスン女子じょし柔道じゅうどう』で「正座せいざしたさいりょうひざをそろえる」[52] とし、講道館こうどうかんの”りょうひざ間隔かんかく大体だいたいにぎこぶしにぎりとする”よりせまい。 また、すわときの”左足ひだりあしからすわって右足みぎあしからつ”「ひだりすわみぎおこり」の方法ほうほうは、1943(昭和しょうわ18)ねん講道館こうどうかんだい日本にっぽん武徳ぶとくかいとのあいだ礼法れいほう統一とういつがなされたとき採用さいようされたものである。講道館こうどうかんではそれまで『柔道じゅうどう修行しゅぎょうしゃ礼法れいほう』にしめされるように「みぎすわひだりおこり」の方法ほうほうがとられていた[53]

柔道じゅうどうにおける「やわら」の背景はいけい意味いみ

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講道館こうどうかん柔道じゅうどうは、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだいにかけておこ隆盛りゅうせいきわめた古流こりゅう柔術じゅうじゅつ母体ぼたいとするものであり、講道館こうどうかん柔道じゅうどうの「やわら」の名称めいしょうも、柔術じゅうじゅつからったものである。柔術じゅうじゅつ名称めいしょう由来ゆらいについては明確めいかく詳細しょうさいさだかではないとされるが、通説つうせつでは「さんりゃく」の文中ぶんちゅう、「やわらのうせいつよし」の「やわら」を意味いみするといわれている。柔術じゅうじゅつから発展はってんした柔道じゅうどうじゅつわざおおくはやわらえるとされる。

講道館こうどうかん草創そうそう時代じだい勝負しょうぶ理論りろん古来こらいおしえをいだ傾向けいこうつよく、やわら総括そうかつされていた。 嘉納かのう治五郎じごろうは「やわらとはすべ相手あいてちから順応じゅんのうしてそのちから利用りようちをせいするあいである」とし、「やわらすべての柔道じゅうどう勝負しょうぶつうはたらいている大切たいせつ原理げんりである」ともいている。

柔道じゅうどうもとになったおこりたおせりゅう関口せきぐちりゅう楊心りゅうなど古流こりゅう柔術じゅうじゅつ主要しゅよう流派りゅうは伝書でんしょるいにおいて散見さんけんされる「やわら」というかたりには「やわらつよしなどの相対そうたいする和合わごうし、どちらにもかたよりのない、安定あんてい円満えんまん状態じょうたい」を意味いみしているというてんにおいて、実際じっさいに『さんりゃく』やそれに影響えいきょうあたえたとされる『老子ろうし』の「やわら思想しそう」との共通きょうつうせいみとめることが出来できるとされる[54]

えきけい』におけるやわら

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中国ちゅうごく古典こてんいて、やわらつよしはじめてとなえたのは『えきけい』であるとされる。「てんたっとは卑くして乾坤けんこんさだまる。動静どうせいつねり、つよしやわらことわる。つよしやわらしょうし、八卦はっけうごかす」としるされ、自然しぜんかいかげやわらつよし対立たいりつ転化てんかによりつとべられている。よってやわらごうねてはじめてやわとく発揮はっきするという、やわらつよし兼備けんびの「やわら」であった[55]

老子ろうし』におけるやわら

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さんりゃく』に影響えいきょうあたえたとわれる『老子ろうし』において「やわら思想しそう」は、 「天下てんかいたりやわらは、天下てんかいたりけんはせ騁し、ゆうあいだはいる」

しょうるをあかりのたまい、やわらまもるをつよのたまう」

ひとなまくるや柔弱にゅうじゃくするやけんきょう万物ばんぶつ草木くさきなまくるややわもろするや枯槁。ゆえに、けんきょうなるもの柔弱にゅうじゃくなるものなまもって、へいつよからばのりたず、つよからばのりどもさる。強大きょうだいしたしょり、やわらきょううえしょる。」

天下てんかみずより柔弱にゅうじゃくなるは莫し。而もけんきょうをせおさむむるしゃこれのうまさる莫きは、もっこれやすうるきをもってなり。じゃくつよち、やわらごうつは、天下てんからざるを莫くして、のうぎょうう莫し。」

などにられるように、老子ろうしはたびたびみずをひきあいにすいの「流動りゅうどうせい順応じゅんのうせい変幻へんげん自在じざいうごき」が、けんきょうくずせる要素ようそであると指摘してきしている[55]

また「「みち」は万物ばんぶつすのみならず、すべてをれる。「みち」の形容詞けいようしが「やわら」(あるいはじゃく)とすれば、「つよしつよしけん」などのかたちすものはすべて「やわら」からまれて「やわら」にかえることになる。「やわら」はすべてのもの包含ほうがんするのである」[56]解釈かいしゃくもされる。

さんりゃく』におけるやわら

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中国ちゅうごく兵法ひょうほうしょである『さんりゃく』においては、「やわらのうごうせいし、じゃくのうきょうせいす。やわらとくなりつよしぞくなり、じゃくひとたすくるところ、つよは怨のおさむむるところ。やわらしつらえくるところあり、つよしほどこすところあり。じゃくもちいうるところり、つようるところり。此のよんしゃね、しかしてよろしきをせいす。」としるされ、「やわら」は他者たしゃつつはぐくとくによりごうせいせるとしながらも、兵法ひょうほうろんとしては柔弱にゅうじゃくのみではなく、やわらつよし強弱きょうじゃく兼備けんびして変幻へんげん自在じざい対処たいしょせよとべている。

中国ちゅうごく古典こてんける「やわら」とは、もともと自然しぜんかい法則ほうそくもとづく、ごうふくんだ絶対ぜったいの「やわら」であった。一方いっぽう老子ろうしさんりゃくの「やわらのうせいつよししょの「やわら」は、みず性質せいしつである。「流動りゅうどうせい順応じゅんのうせい変幻へんげん自在じざいうごき」をいったものであり、またあらそわざるとく意味いみしていた[55]

古流こりゅう柔術じゅうじゅつにおけるやわら

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古流こりゅう柔術じゅうじゅつ伝書でんしょにおいては、やわらはしばしばうたなどにたくされたりして抽象ちゅうしょうてき表現ひょうげんされている。 たとえば楊心りゅうでは「るをればもらぬさきにはらえ、ふうあるまつ雪折ゆきおれはなし」「てはなみらるるあま小舟こぶね、ただうら々のふうにまかせて」といい、おこりたおせりゅうでは「ちからをすててきちからをもってつ」とき、天神てんじん楊流では「身体しんたいをしてしんほっするところに従順じゅうじゅんならしむ」といている[57]

正徳まさのり年間ねんかん(1711-1715ねん)にしるされた日夏ひなつしげるだかによる『本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』においては「やわらにしててきあらそわず。しばしばたむごともとめず。きょせいようとし、ものをとがめず、ものにふれうごかず、ことあればしずみてかばず、沈をかんじるとうんふ」とされている[55]

また「てきうごきに先立さきだみ、のコントロールによっててきちからわせず、てきはずれのきょをついてせいする」というような、ちから衝突しょうとつのないなめらかなうごさま形容けいようした言葉ことばであり、さちに本体ほんたいそのものがあらわ安定あんていかん無形むけいさを形容けいようした言葉ことばであるとかんがえられた。したがって「やわらのうせいつよし」とは、「あつかものが、ちから勝負しょうぶをするものつ」という意味いみとなるとされる[56]

これらの古流こりゅう柔術じゅうじゅつにおける「やわら」は、嘉納かのうう「やわらとは、相手あいてちからもちいて攻撃こうげき場合ばあいはこれに反抗はんこうせず、やわたいちから順応じゅんのうして動作どうさし、これを利用りようしてちをせいするあい」と合致がっちするとされる[55]

やわら」から「精力せいりょく善用ぜんよう」「自他じた共栄きょうえい」への発展はってん

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講道館こうどうかん草創そうそう時代じだい勝負しょうぶ理論りろん古来こらいおしえをいだ傾向けいこうつよく、やわら総括そうかつされていた。しかしやわらをもって柔術じゅうじゅつ柔道じゅうどう根本こんぽん原理げんりかんがえていた嘉納かのうも、攻撃こうげき防御ぼうぎょ実際じっさいにおいて、やわら以外いがい説明せつめいしなくてはならないおおくの事例じれいにぶつかることになる。いわく、

「たとえばってしょ他人たにんうしろからきついたと仮定かていせよ。此のとき厳格げんかくなるやわらではのがれることは出来できぬ。たいちから順応じゅんのうして動作どうさするはない。本当ほんとうきしめられるまえならばからだひくげてはず仕方しかたもあるけれども一旦いったんきしめられた以上いじょうはそのちから反抗はんこうしてはずすよりべつ仕方しかたはない。」

ようするに反対はんたいすればちからすくないからけるが、順応じゅんのうして退しりぞけばこうのからだくずれてちからげんずるからてる。やわらのうごうせいすという理屈りくつになる。ところがふかかんがえてみると、いつでもやわのうせいつよし理屈りくつでは説明せつめい出来できない。(中略ちゅうりゃく勝負しょうぶときには相手あいてるということがある。この場合ばあいやわのうごうせいするとはいえない。これは積極せっきょくてきにある方向ほうこうちからはたらかせてこうの急所きゅうしょって相手あいてころすとかきずつけるとかいうことになる。あるくのも同様どうようである。かたなるのも同様どうようである。ぼうくのも同様どうようである。これもやわのうごうせいするということではない。こうかんがえてみると、柔術じゅうじゅつという名称めいしょう攻撃こうげき防御ぼうぎょ方法ほうほうのただある場合ばあい名状めいじょうした呼称こしょうである。」

つまり、「相手あいてちから利用りようして相手あいてせいする」という「やわらやわらのうごうせいす」だけではすべての場面ばめん説明せつめいできず、いわば状況じょうきょうおうじた臨機応変りんきおうへんな「主体しゅたいてき積極せっきょくてきちから発揮はっき」も必要ひつようであることから、くわえて攻撃こうげき防御ぼうぎょさい精神せいしんじょうはたらきからかんがえてみても、たんやわら応用おうようだけでは困難こんなんであるとかんじた嘉納かのう明治めいじ30年代ねんだいいたってやわのみにらぬ柔道じゅうどう解説かいせつするようになる。

勝負しょうぶにおいてはいかなる場合ばあいでも精神せいしん最上さいじょう手段しゅだんくすべきである。いかなるわざでもまず目標もくひょうげる、かためる、てるという目的もくてきげるためにはおのれ精神せいしんりょく身体しんたいちからもっと効果こうかてきはたらかせる必要ひつようがある。心身しんしんちから、すなわち精力せいりょく最善さいぜん活用かつようすることである。今日きょう精力せいりょく善用ぜんようっているがこれが柔道じゅうどう技術ぎじゅつ原理げんりである。」とっている。嘉納かのうはより普遍ふへんてきな「ちからもちかた」をさい定義ていぎした結果けっか、「心身しんしんちからもっと有効ゆうこう活用かつようする」とした。

そして心身しんしんちから精力せいりょく文字もじめ、「精力せいりょくさい有効ゆうこう使用しよう」「精力せいりょく最善さいぜん活用かつよう」などと表現ひょうげんされて、「精力せいりょく善用ぜんよう」へといたる。

嘉納かのう柔道じゅうどう意味いみたん心身しんしんちから有効ゆうこう攻撃こうげき防御ぼうぎょ勝負しょうぶ使つかうだけでなく、さらひろ人間にんげん万事ばんじ事柄ことがら応用おうよう心身しんしんちからもっと有効ゆうこう発揮はっきするみちのあるところにも柔道じゅうどう名称めいしょうもちいるようになる。精神せいしん身体しんたいちから合理ごうりてき活用かつようさせそれを日常にちじょう生活せいかつ応用おうようさせることが精力せいりょく善用ぜんようとしたのである。

またそれまでも1889ねんの「教育きょういくじょう価値かち」の講演こうえんにおいて嘉納かのうしめした「勝負しょうぶ理論りろん百般ひゃっぱんこと応用おうようする」のなかの「自他じた関係かんけいるべし」にられていたようなやわらにおける融和ゆうわ原理げんりから「自他じた共栄きょうえい」の理論りろん確立かくりついたる。

嘉納かのう1922ねん大正たいしょう11ねん)の「講道館こうどうかん文化ぶんかかい創立そうりつにあたり、その綱領こうりょうにおいて「精力せいりょく善用ぜんよう」「自他じた共栄きょうえい」を発表はっぴょうする。

  1. 精力せいりょく最善さいぜん活用かつよう自己じこ完成かんせいようけつなり。
  2. 自己じこ完成かんせい完成かんせいたすくることによって成就じょうじゅす。
  3. 自他じた完成かんせい人類じんるい共栄きょうえいもとなり。

精力せいりょく善用ぜんよう」「自他じた共栄きょうえい」のだい原理げんりが、たんなる攻撃こうげき防御ぼうぎょ方法ほうほう原理げんりということから、人間にんげんのあらゆる行為こうい原理げんりへと、おおきく拡大かくだいしたことによって、柔道じゅうどう意味いみ内容ないようおおきく拡大かくだいすることになる。

ここにいたり、精力せいりょく最善さいぜん活用かつようによって自己じこ完成かんせいし(個人こじん原理げんり)、この個人こじん完成かんせいただちに完成かんせいたすけ、自体じたい一体いったいとなって共栄きょうえいする自他じた共栄きょうえい社会しゃかい原理げんり)によって人類じんるい幸福こうふくもとめたのである。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 柔道じゅうどう教本きょうほん』(1931ねん)では「単独たんどく練習れんしゅう」と「きょくしき相対そうたい練習れんしゅう」と表記ひょうきしている[29]

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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