19世紀後半,国内矛盾と世界資本主義の圧力とが結びつくなかで,幕藩体制が崩壊し,近代天皇制国家が創出され,日本資本主義形成の起点となった政治的,経済的,社会的,文化的な一大変革を総称していう。〈明治〉という表現は,《易経》の〈聖人南面して天下を聴き,明に嚮(むか)いて治む〉(原漢文,以下同)からとったとされている。この元号は1868年9月7日の夜,天皇睦仁(むつひと)が宮中の賢所で,儒者の選定したいくつかの元号候補からくじで〈明治〉を選び,翌8日の一世一元の詔で睦仁治世の元号と決まった。〈維新〉は《詩経》の〈周は旧邦と雖も(いえども),其命維(こ)れ新たなり〉や,《書経》の〈旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり〉などから用いられ,百事一新を意味する。そして,この〈明治〉と〈維新〉とは,1870年(明治3)1月3日の大教宣布の詔書で,〈百度維新,宜しく治教を明らかにし,以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし〉と述べ,神道イデオロギーによって巧みに接合された。これが一般的な〈明治維新〉の語の由来の説明である。だが,幕末期長州藩で結成された諸隊のなかの被差別部落民で組織された隊にすでに〈維新団〉とか〈一新組〉とかいう名称がつけられており,彼らの解放の願望がこの〈維新〉や〈一新〉の言葉にはこめられていた,とみられる。その意味で,〈維新〉という語には,幕藩体制下に虐げられていた人びとの解放への思いが秘められていたのである。当時の民衆が,天皇によって選ばれた元号としての〈明治〉を,逆に下から読んで〈おさまるめい〉といったというエピソードは,民衆にとっての明治維新のあり方を示して示唆的である。
時期区分
明治維新をいつからいつまでとみるかは,維新変革をどうとらえるかによって多くの説がある。始期をいつとするかは,大きく天保期(1830-44)と開国期(1853-58)とに分けられる。天保期も1837年(天保8)の大塩平八郎の乱や幕府の天保改革の失敗(1843)など,いくつかの見解がある。天保期を明治維新の始期と考えるのは,幕藩体制内部に維新変革を引き起こす矛盾(農民的商品経済の発展や階級闘争の激化など)が全面的に顕在化したのがこの時期であるとみて,変革の内的要因に着目するからである。幕末・維新期の経済的発展や倒幕運動の階級的性格,あるいは明治維新の本質,さらには日本資本主義の構造や特徴などを,天皇制打倒の戦略・戦術とからめて,昭和初年にマルクス主義陣営で論じられたいわゆる〈日本資本主義論争〉以後は,こうした内的必然論のうえに立った見方の基礎がすえられ,それまでの〈黒船〉の偶然的な来航を機として明治維新は始まったとする観点が克服された。
これに対して,開国期説は,1853年(嘉永6)のペリー来航,もしくは安政期(1854-60)の通商条約の締結(1858)を維新開始の時期とするが,この開国期説は,日本開国の背後に,産業革命以降の世界資本主義の発展があり,この世界資本主義に日本が包摂された決定的時点を明治維新の始期とみる考え方である。つまり,明治維新をめぐる国際的条件ないしは国際的規定性を重視する立場である。しかし,現在の明治維新の研究では,維新変革をめぐる内的要因か外的な国際的規定性かという二者択一の発想ではなく,この内外二つの要件がペリー来航を機に固く結びついて明治維新は始まり,それゆえに,ヨーロッパの後発国たるドイツ帝国の成立(1871)やイタリアの統一完成(1870)に相応じたアジアの後進的な近代国家=近代天皇制形成への変革が明治維新であったとする見方が強まっている。日本資本主義論争の成果を継承した戦後の明治維新論では,明治維新の本質ないし性格をめぐって,これを日本絶対主義の成立とみるか,ブルジョア革命と規定するかで論争が続けられたが,19世紀後半という世界史的な条件のなかでのこの変革は,いやおうなしにアジアにおける後発的な近代国家の形成ないし日本資本主義成立の起点となっているのであり,そのことと創出された近代天皇制国家の軍事的・専制的性格とをどのように統一的にとらえるかが理論的に要請されている。それは同時に,20世紀半ば以後現在にいたる第三世界の民族独立や近代的な統一国家の形成の理論的問題ともからむ課題を内包しているのである。
終期については次のような多くの説がある。(1)1871年(明治4)説 廃藩置県で新しい国家統一がなされた。(2)1873年説 学制,徴兵令,地租改正などの一連の改革が始まり,また,大久保利通政権が成立し,さらに翌年からは自由民権運動が起こる。(3)1877年説 最大の士族反乱である西南戦争が鎮圧され,翌78年にかけて西郷隆盛,木戸孝允,大久保利通といういわゆる維新の三傑が没し,維新が終わったというイメージが強い。(4)1879年説 〈琉球処分〉が行われ,廃藩置県はここで完結する。そして,この時期までに近代国家としての日本の領域が確定した。(5)1881年説 明治14年の政変の年であり,この年あたりから国家権力が自己修正を遂げ,基盤も寄生地主や近代産業ブルジョアジーに移行する。(6)1884年説 秩父事件が起こり,自由民権運動は分裂・挫折する。また,この時期から幕藩体制的な階級対立(領主対農民)から資本主義社会の階級対立(寄生地主・資本家対小作人・労働者)へと変わる,とみる。(7)1889-90年説 大日本帝国憲法が制定され,教育勅語も出る。国会が開設され,体制が立憲的な国家形態へと変わる。
以上のように多様であるが,(5)~(7)は自由民権運動を明治維新のなかに包みこんでいる見解である。明治維新と自由民権運動とを別個にみる見方でいえば,(3)が一般的であり,(4)はこれとあわせて考えてよいであろう。(7)の説は,さらに日清戦争および戦後経営をも含めて考えると,終期を1897年(明治30)前後にまで広げることが可能である。もし明治維新の終期を近代天皇制の確立とみる観点に立てば,(7)説を上述のようにより幅広くとるほうが説得的であるともいえよう。
明治維新の要件
明治維新の構成する政治力学的要件を比喩的にいえば,明治維新は,それを〈外から〉規定した外圧と,アンシャン・レジームとしての幕藩体制を〈内から〉,そして〈下から〉つき崩していった力,およびそうした状況のなかで明治天皇制国家を〈上から〉つくり出した力が,拮抗かつ交錯しながら19世紀後半のアジア,とりわけ東アジアのなかの日本という場で〈革命〉を構成した,とみてよい。
この〈外から〉の力は,インドを植民地化し,中国を半植民地化しつつ,日本や朝鮮に開国を迫った列強資本主義であり,これが丸い地球を資本主義世界市場として完結せしめることは,不可避の客観的法則であった。もう少し詳しくいえば,17世紀のイギリスのピューリタン革命(1640-60)および名誉革命(1688-89),18世紀のアメリカの独立(1776)やフランス革命(1789-99)などを経て,欧米では近代的国家の形成と国民的統一が進行し,一方,18世紀から19世紀にかけては,産業革命の波がイギリスから欧米へと波及した。この産業革命の進行は,欧米における民主主義の発展と一体であり,そのなかから労働者階級が成長した。この発展する資本主義の波がアジアに押し寄せたとき,インドではセポイの反乱(インド大反乱,1857-59)が起こり,中国では太平天国による抵抗(1851-64)となった。明治維新は,客観的にはこうした外圧に対するアジア民族の抵抗のなかで遂行されたのである。つまりインドや中国の世界市場への組込まれ方が日本を規定し,また,日本の対応がやがて朝鮮にも影響を及ぼしているのである。イギリスやフランスがアジア諸民族の抵抗に手間どっている間に,アメリカの使節ペリーは日本へやってきた。したがって,1853年のこのペリーの来航は,世界資本主義の客観的な法則がアジアの状況のなかで貫かれたひとつの具体的表現とみなければならない。
では〈内から〉,そして〈下から〉の力とは何か。近世中期以降の全国的な農民的商品経済の展開によって,幕藩体制の矛盾は,徐々にしかも確実に深化・拡大し,天保期にはすでに極限近くに達しつつあった。開国による貿易開始はこれに拍車をかけ,国内経済は大きく変動した。ブルジョア的発展を促進されたプラス地帯と,逆のマイナス地帯とが現出し,その地域的落差のなかで,幕末期の小ブルジョア経済は全国的規模で発展し,幕藩体制の個々の領域,分立的な各藩の網の目を解きほぐし,民族的統一への経済的条件は急速に準備されたのである。こうした経済変動のなかで農民や商人層の分化・分解はいちだんとすすみ,一部の地主・豪農商は民族的自覚を促され,彼らの政治運動の基盤も形成された。そして,農民一揆,打ちこわしは高まり,さまざまな形態をとった民衆運動は,波のうねりをみせながら明治維新の〈革命〉的な変革を背後で規定したのである。また,この力は,曲折しながらも自由民権運動へと継承・発展せしめられていく。〈上から〉の力は,この〈内から〉ないし〈下から〉の力や,前記の〈外から〉の力に対応しつつ,あるときにはこれを利用し,あるときには拮抗・弾圧し,幕藩体制に代わる近代天皇制国家の創出をすすめた力であり,維新官僚が中心となる。彼らは西南雄藩を背景にしつつ〈朝臣〉化し,〈朝臣〉化することによって天皇中心の価値体系をイデオロギー化し,欧米の近代的国家にならって中央集権的な官僚機構を整備し,天皇の絶対性をその権力の中核にすえたのである。
経過
ここでは明治維新を開国期(ペリー来航)から1877年(明治10)ないし79年(上述した〈終期〉の(3)(4)説)とみて,その大筋をみることとする。
明治維新の経過は,大きく分けて,(1)開国から江戸幕府の倒壊までと,(2)新政府の成立による統一国家の形成,これに続く新政策の着手という2段階に分けられる。(1)は250年間強固な支配を保持していた幕藩体制が,外圧を契機にわずか15年で崩壊した過程であり,(2)は,伝統的権威にすぎなかった天皇を,薩長を中心とした西南雄藩出身の維新官僚が担うことによって政治的に絶対化し,欧米にならった近代国家へのドラスティックな改革を進めようとした過程である。しかも,この二つの過程には,列強資本主義による半植民地化の危機があったものの,鎖国から開国へ,将軍から天皇へ,分権から集権への転換が急速かつ短期間になされることによってその危機が克服され,天皇中心の中央集権国家の創出となったのである。そのことは同時に,幕藩体制から近代天皇制国家への転換として,明治維新に,連続と非連続,封建的要素と近代的要素との癒着とでもいうべき構造的な特質をもたらし,明治維新の本質ないし性格に,多くの理論的な論議をよぶ要因となった。
さて,(1)の段階は,1853年のペリー来航に始まるが,列強資本主義による外圧は伝統的,非政治的な天皇を政治化させ,天保改革以後台頭した雄藩(とりわけ西南雄藩)がしだいにこれと結びつき,幕藩体制は分裂化した形となる。幕府もまた体制の立直しをめざして朝廷(天皇)の権威と結びつき,体制の主導権を握ろうとした。1858年の日米修好通商条約をはじめとするいわゆる五ヵ国条約の違勅調印と将軍継嗣問題をめぐる暗闘,それに続く公武合体論の競合によって,幕府と西南雄藩の対立はしだいに鋭角化していった。こうした状況下に,後期水戸学などの影響もあって,〈夷狄(いてき)〉への危機意識や幕藩体制の矛盾を敏感にうけとめた中・下層の武士層は,自覚的な地主・豪農層をも巻き込み,幕府の違勅調印に対しては〈尊王〉を,開国政策に対しては〈攘夷〉のスローガンを掲げて対抗した。ここに儒教的名分論としての〈尊王論〉と〈攘夷論〉とは結合し,尊王攘夷運動の展開となった。この尊攘運動の主体は,運動の進展とともにいっそう下降し,また,個人的術策から集団的行動へと形態も変化した。そして,〈天誅〉や各地の相つぐ挙兵など運動の激化と相まって,いっさいの価値の源泉を天皇に求めて観念化していった。しかし,文久3年8月18日の政変(1863)で,尊攘運動は一挙に挫折した。この尊攘運動の拠点であった長州藩は,第1次征長や四国連合艦隊の下関砲撃という局面に立たされたが,高杉晋作ら諸隊の決起で,藩の主導権をいわゆる俗論派から奪取し,挙藩軍事体制を整えた。一方,公武合体運動の雄であった薩摩藩は,薩英戦争(1863)の洗礼をうけることによって脱皮し,徐々に幕府から離れ,1866年(慶応2)には薩長同盟を結び,倒幕運動を推進しはじめた。この倒幕運動をすすめた薩長の討幕派は,尊攘運動の観念論からも,公武合体運動の妥協論からもぬけ出て,天皇に対しても民衆に対しても政治的リアリズムをもって対処し,むしろこれを操作した。こうした討幕派の発想は国際勢力との対応にも及び,討幕派はイギリスと結んで開国策を推し進め,公議政体論を基礎としつつフランスに頼ることによって徳川慶喜(第15代将軍)中心の新しい統一国家をつくろうとする幕府側の〈大君〉制国家プランを軍事力で叩きつぶした。1867年から翌年にかけての討幕の密勅,大政奉還,王政復古,鳥羽・伏見の戦,上野戦争などの過程がそれである。開国の先頭をきったアメリカは,本国の南北戦争(1861-65)で日本から後退し,国際勢力の主導権は,西南雄藩側を支持していたイギリスが握った。この間,幕府の倒壊を前にして,世直し一揆・打ちこわしは1866年の第2次征長期にピークに達し,翌67年には〈ええじゃないか〉運動と一揆が共存し,民衆は江戸幕府から天皇政権への転換にみずからの解放を託した。先述した民衆の〈一新〉〈維新〉への願望である。この民衆の〈一新〉への願望が,〈上から〉の変革によっていわゆる〈御一新〉となっていく過程が(2)の段階である。
(2)の段階は,天皇中心の統一国家の形成であるが,それは王土王民思想(王土思想--天皇絶対のイデオロギー)と万国対峙(国際社会へのナショナルな対応)が重ね合わされるなかで進められた。近代国家のモデルを求めて岩倉使節団は,欧米12ヵ国を回覧し,ヨーロッパにおける大国や小国をつぶさに調査し,帰途,植民地化された東南アジアを目のあたりにして,〈脱亜入欧〉に日本近代化の方途を探し求めた。帰国直後の明治6年10月の政変(征韓論分裂,1873)によって,この外遊派は,大久保政権を成立せしめた。そして,すでに留守政府によって着手されていた学制,徴兵令,地租改正などの諸改革をいっそう推進する反面,士族反乱を抑え,諸改革に抵抗する民衆の一揆を弾圧して,急速に藩閥政府の官僚機構化を図った。征韓論分裂で下野した諸参議の民撰議院設立建白書の提出は,自由民権運動へのきっかけとなるが,欧米回覧で近代国家や民衆のあり方を知悉(ちしつ)していた明治藩閥政府は,つぎつぎに先手をうって権力主導の天皇制国家の創出をめざし,朝鮮・台湾問題にからめて近代国家の領域をも画定し,〈琉球処分〉によって国家の統一を完成した。
この国家統一の過程にすでに自由民権運動の開始がなされているように,明治維新における権力の集中と構築が,同時にブルジョア民主主義を内包した自由民権運動と併存して進行するという二重構造をもっているところに,19世紀後半の世界史の潮流のなかにおけるアジアの後発国としての日本の明治維新ないし近代天皇制創出の特質がある,といえる。
明治維新観の変遷
ここにいう明治維新観とは,もとより維新研究史上での明治維新のとらえ方も含まれるが,もっと広く明治,大正,昭和の各時代の人びとが明治維新に抱いたイメージ的なものを指す。
維新政府は〈王政復古〉論によって,天皇を維新の中心に位置づけようとしたが,戊辰戦争さなかの1868年8月に出された《復古論》(小洲処士)は,基本的には薩長側の立場をとってはいるものの,今度の変革は〈草莽(そうもう)〉,すなわち〈下人民〉から起こったもので,〈万民ノ心〉が変わらない限り〈武家ノ政道〉にもどることはない,といいきっている。〈王政復古〉論がいわば〈上から〉の見方とすれば,この〈草莽復古〉論は〈下から〉の維新論のはしりといえよう。明治政府の〈文明開化〉政策のもとで,明六社を中心とする開明的な知識人(ほとんどが官僚)によって,維新の開明性,進歩性の色あげがなされるが,自由民権運動が起こるや,政府の専制的性格はあらわになった。これに対し,明治10年代の民権派の人びとは,先の〈下から〉の維新論をいちだんと発展させ,明治維新は自由への第一歩であり,その〈維新の精神〉をひきついだ自由民権運動こそが〈第二の維新〉である,と主張した。民権運動が目標とした国会開設の原点は五ヵ条の誓文に代表される〈維新の精神〉に求められ,明治藩閥政府はそれを忘却したと攻撃されたのである。これは明治20年代前半の民友社の平民主義の主張にもうけつがれ,徳富蘇峰,人見一太郎,竹越与三郎(三叉(さんさ))らの主張に代表された。彼らは〈維新の精神〉こそが原点であって,今の政府は〈維新大革命の血脈に背くもの〉で,決して正統なあとつぎではない,と批判した。そして,これは明治憲法体制下の初期議会における民党の政府攻撃と対応していたのである。
しかし,1894-95年の日清戦争とその勝利は,こうした事態を一変させた。明治維新-自由民権運動の延長線上に日清戦争がおかれ,日清戦争こそが明治維新の〈果実〉だ,とされたのである。日清戦争の勝利とその戦後経営は,明治政府の明治維新に対する正統性をイデオロギーとして民衆にまで浸透させることに成功した。〈上から〉の維新観が〈下から〉のそれを圧倒した,といってよい。圧倒された〈下から〉の維新観は,別の観点,つまり労働者階級の成長にともなう社会主義的な立場からの登場をまたなければならなかった。勝利を占めた〈上から〉の維新観は,明治30年代の佐幕派の維新論にももはや揺らぐことなく,むしろそれを許容する余裕すらもっていた。旧幕臣による江戸時代の再評価や幕府の衰亡を明治維新史の中軸においた幕府中心の維新史のとらえ方,あるいは東北諸藩を主に描かれた維新史の登場にも,すでに天皇制と固く結びついた〈上から〉の維新観はびくともしなかったのである。そして,日露戦争(1904-05)を経て天皇制が帝国主義的色彩を強めるのに呼応して,明治維新には,一方では日本の伝統的な民族的特質が強調され,神格化された天皇が中心軸におかれ,他方では開国以来欧米の文化を摂取した日本の〈文明的存在〉が主張されるとともに,官撰の明治維新史を編纂するために,1911年には文部省によって維新史料編纂会が設置された(1937年より《維新史料綱要》全10巻,39年より《維新史》全6巻を刊行)。この年は同時に大逆事件で幸徳秋水らが死刑に処せられた年であったのである。〈下から〉の維新観が再び時代思潮の表面に浮かびあがるのは,大正デモクラシー期のいわゆる〈大正維新〉の唱道によってであった。個人主義的な論調のうえにこの〈大正維新〉論は唱えられ,第1次・第2次護憲運動をとおして明治維新は大正デモクラシーの潮流に重ね合わされたのである。
恐慌と大陸出兵によって幕が開けられた昭和初期の維新観は,三つの部分に分かれていた。第1は,大衆小説や古老の体験談,回顧談を含む〈維新もの〉ブームにみられるものであり,第2は,日本資本主義論争に代表されるマルクス主義的維新観である。この日本資本主義論争をとおして,明治維新は初めて科学的な分析のメスを入れられる基礎をもつにいたった。第3は,この第2の維新観と対極の位置にあった〈昭和維新〉観である。軍国主義化,ファシズム化の進むなかで,青年将校や右翼がこれを担い,彼らは維新の原理を絶対化された天皇のなかにみ,君臣の本義を明らかにするところに明治維新の本質があるとした。さらにこの〈昭和維新〉論は,〈アジアの維新〉とも重ね合わされ,〈大東亜共栄圏〉思想と二重写しにされたのである。1945年8月15日の日本の敗戦は,この〈昭和維新〉論がいかにあだ花であったかを人びとに知らしめた。そして,戦後には前記の科学的維新観のうえに立った明治維新論がいっせいに花を咲かせた。だから,戦後の維新観は,大衆小説といえどもこの科学的維新観の洗礼なくしては成りたないし,そこでは維新の勝者のみならず敗者も描かれ,民衆の力や民衆のあり方が問われ,民衆にとって明治維新とは何であったのかが課題とされるにいたった。そして,明治維新は世界史の流れのなかで検討されはじめたのである。
このように,維新変革のさなかからあった〈上から〉と〈下から〉の維新観は,明治,大正,昭和の各時代の時代思潮のなかでの長い相克を経て,〈下から〉の維新観の視座をようやく確立しえた,といえる。と同時に,この維新観の変遷は,それぞれの時代の維新観がすぐれて各時代の現代論であったことを物語っている。明治維新をどうみるかは,とりもなおさず明治,大正,昭和の時代をどうみ,どう生きるかという人びとの“生きざま”にかかわっていたのである。
執筆者:田中 彰