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明治維新(メイジイシン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

明治維新めいじいしんみ)メイジイシン

デジタル大辞泉だいじせん明治維新めいじいしん」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

めいじ‐いしん〔メイヂヰシン〕【明治維新めいじいしん

徳川とくがわまくはん体制たいせい崩壊ほうかいから明治めいじしん政府せいふによる中央ちゅうおう集権しゅうけんてき統一とういつ国家こっか成立せいりつ資本しほん主義しゅぎ出発しゅっぱつてんとなった一連いちれん政治せいじてき社会しゃかいてき変革へんかく始期しき終期しゅうきには諸説しょせつあるが、ペリー来航らいこうによる開国かいこくから大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいつちのえたつぼしん戦争せんそう廃藩置県はいはんちけんなどを西南せいなん戦争せんそうまでをいうことがおおい。御一新ごいっしん

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん明治維新めいじいしん」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

めいじ‐いしんメイヂヰシン明治維新めいじいしん

  1. いちきゅう世紀せいき後半こうはん日本にっぽんで、江戸えどまくはん体制たいせい崩壊ほうかいし、わって近代きんだい統一とういつ国家こっかとこれをささえる明治めいじしん政権せいけん形成けいせいされていった一連いちれん政治せいじてき社会しゃかいてき変革へんかく過程かていをいう。徳川とくがわ将軍しょうぐんから朝廷ちょうていへの大政奉還たいせいほうかん封建ほうけんせいから資本しほんせいへの移行いこうという激動期げきどうきで、その始期しき終期しゅうきをどこにおくか意見いけんかれる。広義こうぎには天保てんぽういちねんいちはちよんいち)の天保てんぽう改革かいかくから明治めいじ憲法けんぽう成立せいりつ明治めいじねんいちはちはちきゅう)まで、もっと狭義きょうぎには元治もとはる慶応けいおういちはちろくよんろくはち)の討幕とうばく運動うんどうから明治めいじよんねんいちはちなないち)の廃藩置県はいはんちけんまでをさす。また、明治めいじいちねん西南せいなん戦争せんそう維新いしん終期しゅうきとする見方みかた有力ゆうりょく
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「明治維新めいじいしん創業そうぎょう政府せいふは」(出典しゅってん官民かんみん調和ちょうわろん(1883)〈徳富とくとみ蘇峰そほういち)

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん明治維新めいじいしん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

明治維新めいじいしん (めいじいしん)

19世紀せいき後半こうはん国内こくない矛盾むじゅん世界せかい資本しほん主義しゅぎ圧力あつりょくとがむすびつくなかで,まくはん体制たいせい崩壊ほうかいし,近代きんだい天皇てんのうせい国家こっか創出そうしゅつされ,日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ形成けいせい起点きてんとなった政治せいじてき経済けいざいてき社会しゃかいてき文化ぶんかてき一大いちだい変革へんかく総称そうしょうしていう。〈明治めいじ〉という表現ひょうげんは,《えきけい》の〈聖人せいじん南面なんめんして天下てんかき,あかりに嚮(むか)いてむ〉(はら漢文かんぶん以下いかどう)からとったとされている。この元号げんごうは1868ねん9がつ7にちよる天皇てんのうむつみじん(むつひと)が宮中きゅうちゅう賢所かしこどころで,儒者じゅしゃ選定せんていしたいくつかの元号げんごう候補こうほからくじで〈明治めいじ〉をえらび,よく8にち一世一元いっせいいちげんみことのりむつみじん治世ちせい元号げんごうまった。〈維新いしん〉は《詩経しきょう》の〈しゅうきゅうくにと雖も(いえども),其命維(こ)れあらたなり〉や,《しょけい》の〈きゅうしみ汚俗おぞく,咸(みな)ともに維れあらたなり〉などからもちいられ,百事ひゃくじ一新いっしん意味いみする。そして,この〈明治めいじ〉と〈維新いしん〉とは,1870ねん明治めいじ3)1がつ3にちだいきょう宣布せんぷ詔書しょうしょで,〈ひゃく維新いしんよろしくきょうあきらかにし,もっ惟神かんながら(かんながら)のみち宣揚せんようすべし〉とべ,神道しんとうイデオロギーによってたくみに接合はぎあわされた。これが一般いっぱんてきな〈明治維新めいじいしん〉のかたり由来ゆらい説明せつめいである。だが,幕末ばくまつ長州ちょうしゅうはん結成けっせいされたしょたいのなかの差別さべつ部落ぶらくみん組織そしきされたたいにすでに〈維新いしんだん〉とか〈一新いっしんぐみ〉とかいう名称めいしょうがつけられており,かれらの解放かいほう願望がんぼうがこの〈維新いしん〉や〈一新いっしん〉の言葉ことばにはこめられていた,とみられる。その意味いみで,〈維新いしん〉というかたりには,まくはん体制たいせいしいたげられていたひとびとの解放かいほうへのおもいがめられていたのである。当時とうじ民衆みんしゅうが,天皇てんのうによってえらばれた元号げんごうとしての〈明治めいじ〉を,ぎゃくしたからんで〈おさまるめい〉といったというエピソードは,民衆みんしゅうにとっての明治維新めいじいしんのありかたしめして示唆しさてきである。

明治維新めいじいしんをいつからいつまでとみるかは,維新いしん変革へんかくをどうとらえるかによっておおくのせつがある。始期しきをいつとするかは,おおきく天保てんぽう(1830-44)と開国かいこく(1853-58)とにけられる。天保てんぽうも1837ねん天保てんぽう8)の大塩おおしお平八郎へいはちろうらん幕府ばくふ天保てんぽう改革かいかく失敗しっぱい(1843)など,いくつかの見解けんかいがある。天保てんぽう明治維新めいじいしん始期しきかんがえるのは,まくはん体制たいせい内部ないぶ維新いしん変革へんかくこす矛盾むじゅん農民のうみんてき商品しょうひん経済けいざい発展はってん階級かいきゅう闘争とうそう激化げきかなど)が全面ぜんめんてき顕在けんざいしたのがこの時期じきであるとみて,変革へんかく内的ないてき要因よういん着目ちゃくもくするからである。幕末ばくまつ維新いしん経済けいざいてき発展はってん倒幕とうばく運動うんどう階級かいきゅうてき性格せいかく,あるいは明治維新めいじいしん本質ほんしつ,さらには日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ構造こうぞう特徴とくちょうなどを,天皇てんのうせい打倒だとう戦略せんりゃく戦術せんじゅつとからめて,昭和しょうわ初年しょねんマルクス主義まるくすしゅぎ陣営じんえいろんじられたいわゆる〈日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう以後いごは,こうした内的ないてき必然ひつぜんろんのうえにった見方みかた基礎きそがすえられ,それまでの〈黒船くろふね〉の偶然ぐうぜんてき来航らいこうとして明治維新めいじいしんはじまったとする観点かんてん克服こくふくされた。

 これにたいして,開国かいこくせつは,1853ねんよしみなが6)のペリー来航らいこう,もしくは安政あんせい(1854-60)の通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ(1858)を維新いしん開始かいし時期じきとするが,この開国かいこくせつは,日本にっぽん開国かいこく背後はいごに,産業さんぎょう革命かくめい以降いこう世界せかい資本しほん主義しゅぎ発展はってんがあり,この世界せかい資本しほん主義しゅぎ日本にっぽん包摂ほうせつされた決定的けっていてき時点じてん明治維新めいじいしん始期しきとみるかんがかたである。つまり,明治維新めいじいしんをめぐる国際こくさいてき条件じょうけんないしは国際こくさいてき規定きていせい重視じゅうしする立場たちばである。しかし,現在げんざい明治維新めいじいしん研究けんきゅうでは,維新いしん変革へんかくをめぐる内的ないてき要因よういん外的がいてき国際こくさいてき規定きていせいかという二者択一にしゃたくいつ発想はっそうではなく,この内外ないがいふたつの要件ようけんがペリー来航らいこうかたむすびついて明治維新めいじいしんはじまり,それゆえに,ヨーロッパ後発こうはつこくたるドイツ帝国ていこく成立せいりつ(1871)やイタリアの統一とういつ完成かんせい(1870)にあいおうじたアジアの後進こうしんてき近代きんだい国家こっか近代きんだい天皇てんのうせい形成けいせいへの変革へんかく明治維新めいじいしんであったとする見方みかたつよまっている。日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう成果せいか継承けいしょうした戦後せんご明治維新めいじいしんろんでは,明治維新めいじいしん本質ほんしつないし性格せいかくをめぐって,これを日本にっぽん絶対ぜったい主義しゅぎ成立せいりつとみるか,ブルジョア革命かくめい規定きていするかで論争ろんそうつづけられたが,19世紀せいき後半こうはんという世界せかいてき条件じょうけんのなかでのこの変革へんかくは,いやおうなしにアジアにおける後発こうはつてき近代きんだい国家こっか形成けいせいないし日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ成立せいりつ起点きてんとなっているのであり,そのことと創出そうしゅつされた近代きんだい天皇てんのうせい国家こっか軍事ぐんじてき専制せんせいてき性格せいかくとをどのように統一とういつてきにとらえるかが理論りろんてき要請ようせいされている。それは同時どうじに,20世紀せいきなか以後いご現在げんざいにいたるだいさん世界せかい民族みんぞく独立どくりつ近代きんだいてき統一とういつ国家こっか形成けいせい理論りろんてき問題もんだいともからむ課題かだい内包ないほうしているのである。

 終期しゅうきについてはつぎのようなおおくのせつがある。(1)1871ねん明治めいじ4)せつ 廃藩置県はいはんちけんあたらしい国家こっか統一とういつがなされた。(2)1873ねんせつ 学制がくせい徴兵ちょうへいれい地租ちそ改正かいせいなどの一連いちれん改革かいかくはじまり,また,大久保おおくぼ利通としみち政権せいけん成立せいりつし,さらに翌年よくねんからは自由じゆう民権みんけん運動うんどうこる。(3)1877ねんせつ 最大さいだい士族しぞく反乱はんらんである西南せいなん戦争せんそう鎮圧ちんあつされ,よく78ねんにかけて西郷さいごう隆盛たかもり木戸きど孝允たかよし大久保おおくぼ利通としみちといういわゆる維新いしんさんすぐるぼっし,維新いしんわったというイメージがつよい。(4)1879ねんせつ 〈琉球りゅうきゅう処分しょぶん〉がおこなわれ,廃藩置県はいはんちけんはここで完結かんけつする。そして,この時期じきまでに近代きんだい国家こっかとしての日本にっぽん領域りょういき確定かくていした。(5)1881ねんせつ 明治めいじ14ねん政変せいへんとしであり,このとしあたりから国家こっか権力けんりょく自己じこ修正しゅうせいげ,基盤きばん寄生きせい地主じぬし近代きんだい産業さんぎょうブルジョアジーに移行いこうする。(6)1884ねんせつ 秩父ちちぶ事件じけんこり,自由じゆう民権みんけん運動うんどう分裂ぶんれつ挫折ざせつする。また,この時期じきからまくはん体制たいせいてき階級かいきゅう対立たいりつ領主りょうしゅたい農民のうみん)から資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい階級かいきゅう対立たいりつ寄生きせい地主じぬし資本しほんたい小作こさくじん労働ろうどうしゃ)へとわる,とみる。(7)1889-90ねんせつ 大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう制定せいていされ,教育きょういく勅語ちょくごる。国会こっかい開設かいせつされ,体制たいせい立憲りっけんてき国家こっか形態けいたいへとわる。

 以上いじょうのように多様たようであるが,(5)~(7)は自由じゆう民権みんけん運動うんどう明治維新めいじいしんのなかにつつみこんでいる見解けんかいである。明治維新めいじいしん自由じゆう民権みんけん運動うんどうとを別個べっこにみる見方みかたでいえば,(3)が一般いっぱんてきであり,(4)はこれとあわせてかんがえてよいであろう。(7)のせつは,さらににちしん戦争せんそうおよび戦後せんご経営けいえいをもふくめてかんがえると,終期しゅうきを1897ねん明治めいじ30)前後ぜんこうにまでひろげることが可能かのうである。もし明治維新めいじいしん終期しゅうき近代きんだい天皇てんのうせい確立かくりつとみる観点かんてんてば,(7)せつ上述じょうじゅつのようにより幅広はばひろくとるほうが説得せっとくてきであるともいえよう。

明治維新めいじいしん構成こうせいする政治せいじ力学りきがくてき要件ようけん比喩ひゆてきにいえば,明治維新めいじいしんは,それを〈そとから〉規定きていした外圧がいあつと,アンシャン・レジームとしてのまくはん体制たいせいを〈うちから〉,そして〈したから〉つきくずしていったちから,およびそうした状況じょうきょうのなかで明治天皇めいじてんのうせい国家こっかを〈うえから〉つくりしたちからが,拮抗きっこうかつ交錯こうさくしながら19世紀せいき後半こうはんのアジア,とりわけひがしアジアのなかの日本にっぽんというで〈革命かくめい〉を構成こうせいした,とみてよい。

 この〈そとから〉のちからは,インドを植民しょくみんし,中国ちゅうごくはん植民しょくみんしつつ,日本にっぽん朝鮮ちょうせん開国かいこくせまった列強れっきょう資本しほん主義しゅぎであり,これがまる地球ちきゅう資本しほん主義しゅぎ世界せかい市場いちばとして完結かんけつせしめることは,不可避ふかひ客観きゃっかんてき法則ほうそくであった。もうすこくわしくいえば,17世紀せいきのイギリスのピューリタン革命かくめい(1640-60)および名誉めいよ革命かくめい(1688-89),18世紀せいきのアメリカの独立どくりつ(1776)やフランス革命かくめい(1789-99)などをて,欧米おうべいでは近代きんだいてき国家こっか形成けいせい国民こくみんてき統一とういつ進行しんこうし,一方いっぽう,18世紀せいきから19世紀せいきにかけては,産業さんぎょう革命かくめいなみがイギリスから欧米おうべいへと波及はきゅうした。この産業さんぎょう革命かくめい進行しんこうは,欧米おうべいにおける民主みんしゅ主義しゅぎ発展はってん一体いったいであり,そのなかから労働ろうどうしゃ階級かいきゅう成長せいちょうした。この発展はってんする資本しほん主義しゅぎなみがアジアにせたとき,インドではセポイの反乱はんらんインドだい反乱はんらん,1857-59)がこり,中国ちゅうごくでは太平たいへい天国てんごくによる抵抗ていこう(1851-64)となった。明治維新めいじいしんは,客観きゃっかんてきにはこうした外圧がいあつたいするアジア民族みんぞく抵抗ていこうのなかで遂行すいこうされたのである。つまりインドや中国ちゅうごく世界せかい市場いちばへの組込くみこまれかた日本にっぽん規定きていし,また,日本にっぽん対応たいおうがやがて朝鮮ちょうせんにも影響えいきょうおよぼしているのである。イギリスやフランスがアジアしょ民族みんぞく抵抗ていこう手間てまどっているあいだに,アメリカの使節しせつペリーは日本にっぽんへやってきた。したがって,1853ねんのこのペリーの来航らいこうは,世界せかい資本しほん主義しゅぎ客観きゃっかんてき法則ほうそくがアジアの状況じょうきょうのなかでつらぬかれたひとつの具体ぐたいてき表現ひょうげんとみなければならない。

 では〈うちから〉,そして〈したから〉のちからとはなにか。近世きんせい中期ちゅうき以降いこう全国ぜんこくてき農民のうみんてき商品しょうひん経済けいざい展開てんかいによって,まくはん体制たいせい矛盾むじゅんは,徐々じょじょにしかも確実かくじつ深化しんか拡大かくだいし,天保てんぽうにはすでに極限きょくげんちかくにたっしつつあった。開国かいこくによる貿易ぼうえき開始かいしはこれに拍車はくしゃをかけ,国内こくない経済けいざいおおきく変動へんどうした。ブルジョアてき発展はってん促進そくしんされたプラス地帯ちたいと,ぎゃくのマイナス地帯ちたいとが現出げんしゅつし,その地域ちいきてき落差らくさのなかで,幕末ばくまつしょうブルジョア経済けいざい全国ぜんこくてき規模きぼ発展はってんし,まくはん体制たいせい個々ここ領域りょういき分立ぶんりつてきかくはんあみきほぐし,民族みんぞくてき統一とういつへの経済けいざいてき条件じょうけん急速きゅうそく準備じゅんびされたのである。こうした経済けいざい変動へんどうのなかで農民のうみん商人しょうにんそう分化ぶんか分解ぶんかいはいちだんとすすみ,一部いちぶ地主じぬし豪農ごうのうしょう民族みんぞくてき自覚じかくうながされ,かれらの政治せいじ運動うんどう基盤きばん形成けいせいされた。そして,農民のうみん一揆いっきちこわしはたかまり,さまざまな形態けいたいをとった民衆みんしゅう運動うんどうは,なみのうねりをみせながら明治維新めいじいしんの〈革命かくめいてき変革へんかく背後はいご規定きていしたのである。また,このちからは,曲折きょくせつしながらも自由じゆう民権みんけん運動うんどうへと継承けいしょう発展はってんせしめられていく。〈うえから〉のちからは,この〈うちから〉ないし〈したから〉のちからや,前記ぜんきの〈そとから〉のちから対応たいおうしつつ,あるときにはこれを利用りようし,あるときには拮抗きっこう弾圧だんあつし,まくはん体制たいせいわる近代きんだい天皇てんのうせい国家こっか創出そうしゅつをすすめたちからであり,維新いしん官僚かんりょう中心ちゅうしんとなる。かれらは西南せいなん雄藩ゆうはん背景はいけいにしつつ〈朝臣あそんし,〈朝臣あそんすることによって天皇てんのう中心ちゅうしん価値かち体系たいけいをイデオロギーし,欧米おうべい近代きんだいてき国家こっかにならって中央ちゅうおう集権しゅうけんてき官僚かんりょう機構きこう整備せいびし,天皇てんのう絶対ぜったいせいをその権力けんりょく中核ちゅうかくにすえたのである。

ここでは明治維新めいじいしん開国かいこく(ペリー来航らいこう)から1877ねん明治めいじ10)ないし79ねん上述じょうじゅつした〈終期しゅうき〉の(3)(4)せつ)とみて,その大筋おおすじをみることとする。

 明治維新めいじいしん経過けいかは,おおきくけて,(1)開国かいこくから江戸えど幕府ばくふ倒壊とうかいまでと,(2)しん政府せいふ成立せいりつによる統一とういつ国家こっか形成けいせい,これにつづしん政策せいさく着手ちゃくしゅという2段階だんかいけられる。(1)は250年間ねんかん強固きょうこ支配しはい保持ほじしていたまくはん体制たいせいが,外圧がいあつ契機けいきにわずか15ねん崩壊ほうかいした過程かていであり,(2)は,伝統でんとうてき権威けんいにすぎなかった天皇てんのうを,薩長さっちょう中心ちゅうしんとした西南せいなん雄藩ゆうはん出身しゅっしん維新いしん官僚かんりょうになうことによって政治せいじてき絶対ぜったいし,欧米おうべいにならった近代きんだい国家こっかへのドラスティックな改革かいかくすすめようとした過程かていである。しかも,このふたつの過程かていには,列強れっきょう資本しほん主義しゅぎによるはん植民しょくみん危機ききがあったものの,鎖国さこくから開国かいこくへ,将軍しょうぐんから天皇てんのうへ,分権ぶんけんから集権しゅうけんへの転換てんかん急速きゅうそくかつ短期間たんきかんになされることによってその危機きき克服こくふくされ,天皇てんのう中心ちゅうしん中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか創出そうしゅつとなったのである。そのことは同時どうじに,まくはん体制たいせいから近代きんだい天皇てんのうせい国家こっかへの転換てんかんとして,明治維新めいじいしんに,連続れんぞく連続れんぞく封建ほうけんてき要素ようそ近代きんだいてき要素ようそとの癒着ゆちゃくとでもいうべき構造こうぞうてき特質とくしつをもたらし,明治維新めいじいしん本質ほんしつないし性格せいかくに,おおくの理論りろんてき論議ろんぎをよぶ要因よういんとなった。

 さて,(1)の段階だんかいは,1853ねんのペリー来航らいこうはじまるが,列強れっきょう資本しほん主義しゅぎによる外圧がいあつ伝統でんとうてき政治せいじてき天皇てんのう政治せいじさせ,天保てんぽう改革かいかく以後いご台頭たいとうした雄藩ゆうはん(とりわけ西南せいなん雄藩ゆうはん)がしだいにこれとむすびつき,まくはん体制たいせい分裂ぶんれつしたかたちとなる。幕府ばくふもまた体制たいせい立直たてなおしをめざして朝廷ちょうてい天皇てんのう)の権威けんいむすびつき,体制たいせい主導しゅどうけんにぎろうとした。1858ねん日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくをはじめとするいわゆるヵ国かこく条約じょうやく違勅いちょく調印ちょういん将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいをめぐる暗闘あんとう,それにつづ公武こうぶ合体がったいろん競合きょうごうによって,幕府ばくふ西南せいなん雄藩ゆうはん対立たいりつはしだいに鋭角えいかくしていった。こうした状況じょうきょうに,後期こうき水戸みとまなぶなどの影響えいきょうもあって,〈夷狄いてき(いてき)〉への危機きき意識いしきまくはん体制たいせい矛盾むじゅん敏感びんかんにうけとめたなか下層かそう武士ぶしそうは,自覚じかくてき地主じぬし豪農ごうのうそうをもみ,幕府ばくふ違勅いちょく調印ちょういんたいしては〈尊王そんのう〉を,開国かいこく政策せいさくたいしては〈攘夷じょうい〉のスローガンかかげて対抗たいこうした。ここに儒教じゅきょうてき名分めいぶんろんとしての〈尊王そんのうろん〉と〈攘夷じょういろん〉とは結合けつごうし,尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう展開てんかいとなった。この尊攘そんじょう運動うんどう主体しゅたいは,運動うんどう進展しんてんとともにいっそう下降かこうし,また,個人こじんてき術策じゅっさくから集団しゅうだんてき行動こうどうへと形態けいたい変化へんかした。そして,〈天誅てんちゅう〉や各地かくちあいつぐ挙兵きょへいなど運動うんどう激化げきかあいまって,いっさいの価値かち源泉げんせん天皇てんのうもとめて観念かんねんしていった。しかし,文久ぶんきゅう3ねん8がつ18にち政変せいへん(1863)で,尊攘そんじょう運動うんどう一挙いっきょ挫折ざせつした。この尊攘そんじょう運動うんどう拠点きょてんであった長州ちょうしゅうはんは,だい1せいちょう四国しこく連合れんごう艦隊かんたい下関しものせき砲撃ほうげきという局面きょくめんたされたが,高杉たかすぎ晋作しんさくしょたい決起けっきで,はん主導しゅどうけんをいわゆる俗論ぞくろんから奪取だっしゅし,きょはん軍事ぐんじ体制たいせいととのえた。一方いっぽう公武こうぶ合体がったい運動うんどうゆうであった薩摩さつまはんは,薩英戦争せんそう(1863)の洗礼せんれいをうけることによって脱皮だっぴし,徐々じょじょ幕府ばくふからはなれ,1866ねん慶応けいおう2)には薩長さっちょう同盟どうめいむすび,倒幕とうばく運動うんどう推進すいしんしはじめた。この倒幕とうばく運動うんどうをすすめた薩長さっちょう討幕とうばくは,尊攘そんじょう運動うんどう観念論かんねんろんからも,公武こうぶ合体がったい運動うんどう妥協だきょうろんからもぬけて,天皇てんのうたいしても民衆みんしゅうたいしても政治せいじてきリアリズムをもって対処たいしょし,むしろこれを操作そうさした。こうした討幕とうばく発想はっそう国際こくさい勢力せいりょくとの対応たいおうにもおよび,討幕とうばくはイギリスとむすんで開国かいこくさくすすめ,おおやけ政体せいたいろん基礎きそとしつつフランスにたよることによって徳川とくがわ慶喜よしのぶだい15だい将軍しょうぐん中心ちゅうしんあたらしい統一とういつ国家こっかをつくろうとする幕府ばくふがわの〈大君おおきみせい国家こっかプランを軍事ぐんじりょくはたきつぶした。1867ねんから翌年よくねんにかけての討幕とうばく密勅みっちょく大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこ鳥羽とば伏見ふしみたたかえ上野うえの戦争せんそうなどの過程かていがそれである。開国かいこく先頭せんとうをきったアメリカは,本国ほんごく南北戦争なんぼくせんそう(1861-65)で日本にっぽんから後退こうたいし,国際こくさい勢力せいりょく主導しゅどうけんは,西南せいなん雄藩ゆうはんがわ支持しじしていたイギリスがにぎった。このあいだ幕府ばくふ倒壊とうかいまえにして,世直よなお一揆いっきちこわしは1866ねんだい2せい長期ちょうきにピークにたっし,よく67ねんには〈ええじゃないか運動うんどう一揆いっき共存きょうぞんし,民衆みんしゅう江戸えど幕府ばくふから天皇てんのう政権せいけんへの転換てんかんにみずからの解放かいほうたくした。先述せんじゅつした民衆みんしゅうの〈一新いっしん〉〈維新いしん〉への願望がんぼうである。この民衆みんしゅうの〈一新いっしん〉への願望がんぼうが,〈うえから〉の変革へんかくによっていわゆる〈御一新ごいっしん〉となっていく過程かていが(2)の段階だんかいである。

 (2)の段階だんかいは,天皇てんのう中心ちゅうしん統一とういつ国家こっか形成けいせいであるが,それは王土おうどおうみん思想しそう王土おうど思想しそう--天皇てんのう絶対ぜったいのイデオロギー)と万国ばんこく対峙たいじ国際こくさい社会しゃかいへのナショナル対応たいおう)がかさわされるなかですすめられた。近代きんだい国家こっかのモデルをもとめて岩倉いわくら使節しせつだんは,欧米おうべい12ヵ国かこく回覧かいらんし,ヨーロッパにおける大国たいこく小国しょうこくをつぶさに調査ちょうさし,帰途きと植民しょくみんされた東南とうなんアジアをのあたりにして,〈脱亜入欧だつあにゅうおう〉に日本にっぽん近代きんだい方途ほうとさがもとめた。帰国きこく直後ちょくご明治めいじ6ねん10がつ政変せいへんせいかんろん分裂ぶんれつ,1873)によって,この外遊がいゆうは,大久保おおくぼ政権せいけん成立せいりつせしめた。そして,すでに留守るす政府せいふによって着手ちゃくしゅされていた学制がくせい徴兵ちょうへいれい地租ちそ改正かいせいなどのしょ改革かいかくをいっそう推進すいしんする反面はんめん士族しぞく反乱はんらんおさえ,しょ改革かいかく抵抗ていこうする民衆みんしゅう一揆いっき弾圧だんあつして,急速きゅうそく藩閥はんばつ政府せいふ官僚かんりょう機構きこうはかった。せいかんろん分裂ぶんれつ下野げやしたしょ参議さんぎみんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ提出ていしゅつは,自由じゆう民権みんけん運動うんどうへのきっかけとなるが,欧米おうべい回覧かいらん近代きんだい国家こっか民衆みんしゅうのありかた知悉ちしつ(ちしつ)していた明治めいじ藩閥はんばつ政府せいふは,つぎつぎに先手せんてをうって権力けんりょく主導しゅどう天皇てんのうせい国家こっか創出そうしゅつをめざし,朝鮮ちょうせん台湾たいわん問題もんだいにからめて近代きんだい国家こっか領域りょういきをも画定かくていし,〈琉球りゅうきゅう処分しょぶん〉によって国家こっか統一とういつ完成かんせいした。

 この国家こっか統一とういつ過程かていにすでに自由じゆう民権みんけん運動うんどう開始かいしがなされているように,明治維新めいじいしんにおける権力けんりょく集中しゅうちゅう構築こうちくが,同時どうじブルジョア民主みんしゅ主義しゅぎ内包ないほうした自由じゆう民権みんけん運動うんどう併存へいそんして進行しんこうするというじゅう構造こうぞうをもっているところに,19世紀せいき後半こうはん世界せかい潮流ちょうりゅうのなかにおけるアジアの後発こうはつこくとしての日本にっぽん明治維新めいじいしんないし近代きんだい天皇てんのうせい創出そうしゅつ特質とくしつがある,といえる。

ここにいう明治維新めいじいしんかんとは,もとより維新いしん研究けんきゅう史上しじょうでの明治維新めいじいしんのとらえかたふくまれるが,もっとひろ明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわかく時代じだいひとびとが明治維新めいじいしんいたイメージてきなものをす。

 維新いしん政府せいふは〈王政おうせい復古ふっころんによって,天皇てんのう維新いしん中心ちゅうしん位置いちづけようとしたが,戊辰戦争ぼしんせんそうさなかの1868ねん8がつされた《復古ふっころん》(しょうしゅう処士しょし)は,基本きほんてきには薩長さっちょうがわ立場たちばをとってはいるものの,今度こんど変革へんかくは〈草莽そうもう(そうもう)〉,すなわち〈しも人民じんみん〉からこったもので,〈万民ばんみんしん〉がわらないかぎり〈武家ぶけ政道せいどう〉にもどることはない,といいきっている。〈王政おうせい復古ふっころんがいわば〈うえから〉の見方みかたとすれば,この〈草莽そうもう復古ふっころんは〈したから〉の維新いしんろんのはしりといえよう。明治めいじ政府せいふの〈文明開化ぶんめいかいか政策せいさくのもとで,あかりろくしゃ中心ちゅうしんとする開明かいめいてき知識ちしきじん(ほとんどが官僚かんりょう)によって,維新いしん開明かいめいせい進歩しんぽせいいろあげがなされるが,自由じゆう民権みんけん運動うんどうこるや,政府せいふ専制せんせいてき性格せいかくはあらわになった。これにたいし,明治めいじ10年代ねんだい民権みんけんひとびとは,さきの〈したから〉の維新いしんろんをいちだんと発展はってんさせ,明治維新めいじいしん自由じゆうへの第一歩だいいっぽであり,その〈維新いしん精神せいしん〉をひきついだ自由じゆう民権みんけん運動うんどうこそが〈だい維新いしん〉である,と主張しゅちょうした。民権みんけん運動うんどう目標もくひょうとした国会こっかい開設かいせつ原点げんてんヵ条かじょう誓文せいもん代表だいひょうされる〈維新いしん精神せいしん〉にもとめられ,明治めいじ藩閥はんばつ政府せいふはそれを忘却ぼうきゃくしたと攻撃こうげきされたのである。これは明治めいじ20年代ねんだい前半ぜんはんみんともしゃ平民へいみん主義しゅぎ主張しゅちょうにもうけつがれ,徳富とくとみ蘇峰そほう人見ひとみ一太郎いちたろう竹越たけこし与三郎よさぶろう三叉みつまた(さんさ))らの主張しゅちょう代表だいひょうされた。かれらは〈維新いしん精神せいしん〉こそが原点げんてんであって,いま政府せいふは〈維新いしんだい革命かくめい血脈けちみゃくそむくもの〉で,けっして正統せいとうなあとつぎではない,と批判ひはんした。そして,これは明治めいじ憲法けんぽう体制たいせい初期しょき議会ぎかいにおけるみんとう政府せいふ攻撃こうげき対応たいおうしていたのである。

 しかし,1894-95ねんにちしん戦争せんそうとその勝利しょうりは,こうした事態じたい一変いっぺんさせた。明治維新めいじいしん自由じゆう民権みんけん運動うんどう延長線えんちょうせんじょうにちしん戦争せんそうがおかれ,にちしん戦争せんそうこそが明治維新めいじいしんの〈果実かじつ〉だ,とされたのである。にちしん戦争せんそう勝利しょうりとその戦後せんご経営けいえいは,明治めいじ政府せいふ明治維新めいじいしんたいする正統せいとうせいをイデオロギーとして民衆みんしゅうにまで浸透しんとうさせることに成功せいこうした。〈うえから〉の維新いしんかんが〈したから〉のそれを圧倒あっとうした,といってよい。圧倒あっとうされた〈したから〉の維新いしんかんは,べつ観点かんてん,つまり労働ろうどうしゃ階級かいきゅう成長せいちょうにともなう社会しゃかい主義しゅぎてき立場たちばからの登場とうじょうをまたなければならなかった。勝利しょうりめた〈うえから〉の維新いしんかんは,明治めいじ30年代ねんだい佐幕さばく維新いしんろんにももはやらぐことなく,むしろそれを許容きょようする余裕よゆうすらもっていた。きゅう幕臣ばくしんによる江戸えど時代じだいさい評価ひょうか幕府ばくふ衰亡すいぼう明治維新めいじいしん中軸ちゅうじくにおいた幕府ばくふ中心ちゅうしん維新いしんのとらえかた,あるいは東北とうほくしょはんおもえがかれた維新いしん登場とうじょうにも,すでに天皇てんのうせいかたむすびついた〈うえから〉の維新いしんかんはびくともしなかったのである。そして,にち戦争せんそう(1904-05)を天皇てんのうせい帝国ていこく主義しゅぎてき色彩しきさいつよめるのに呼応こおうして,明治維新めいじいしんには,一方いっぽうでは日本にっぽん伝統でんとうてき民族みんぞくてき特質とくしつ強調きょうちょうされ,神格しんかくされた天皇てんのう中心ちゅうしんじくにおかれ,他方たほうでは開国かいこく以来いらい欧米おうべい文化ぶんか摂取せっしゅした日本にっぽんの〈文明ぶんめいてき存在そんざい〉が主張しゅちょうされるとともに,かんせん明治維新めいじいしん編纂へんさんするために,1911ねんには文部省もんぶしょうによって維新いしん史料しりょう編纂へんさんかい設置せっちされた(1937ねんより《維新いしん史料しりょう綱要こうようぜん10かん,39ねんより《維新いしんぜん6かん刊行かんこう)。このとし同時どうじ大逆だいぎゃく事件じけん幸徳こうとく秋水しゅうすいらが死刑しけいしょせられたとしであったのである。〈したから〉の維新いしんかんふたた時代じだい思潮しちょう表面ひょうめんかびあがるのは,大正たいしょうデモクラシーのいわゆる〈大正たいしょう維新いしん〉の唱道しょうどうによってであった。個人こじん主義しゅぎてき論調ろんちょうのうえにこの〈大正たいしょう維新いしんろんとなえられ,だい1だい2護憲ごけん運動うんどうをとおして明治維新めいじいしん大正たいしょうデモクラシーの潮流ちょうりゅうかさわされたのである。

 恐慌きょうこう大陸たいりく出兵しゅっぺいによってまくけられた昭和しょうわ初期しょき維新いしんかんは,みっつの部分ぶぶんかれていた。だい1は,大衆たいしゅう小説しょうせつ古老ころう体験たいけんだん回顧かいこだんふくむ〈維新いしんもの〉ブームにみられるものであり,だい2は,日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう代表だいひょうされるマルクス主義まるくすしゅぎてき維新いしんかんである。この日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそうをとおして,明治維新めいじいしんはじめて科学かがくてき分析ぶんせきのメスをれられる基礎きそをもつにいたった。だい3は,このだい2の維新いしんかん対極たいきょく位置いちにあった〈昭和しょうわ維新いしんかんである。軍国ぐんこく主義しゅぎ,ファシズムすすむなかで,青年せいねん将校しょうこう右翼うよくがこれをにない,かれらは維新いしん原理げんり絶対ぜったいされた天皇てんのうのなかにみ,君臣くんしん本義ほんぎあきらかにするところに明治維新めいじいしん本質ほんしつがあるとした。さらにこの〈昭和しょうわ維新いしんろんは,〈アジアの維新いしん〉ともかさわされ,〈だい東亜とうあ共栄きょうえいけん思想しそうじゅううつしにされたのである。1945ねん8がつ15にち日本にっぽん敗戦はいせんは,この〈昭和しょうわ維新いしんろんがいかにあだばなであったかをひとびとにらしめた。そして,戦後せんごには前記ぜんき科学かがくてき維新いしんかんのうえにった明治維新めいじいしんろんがいっせいにはなかせた。だから,戦後せんご維新いしんかんは,大衆たいしゅう小説しょうせつといえどもこの科学かがくてき維新いしんかん洗礼せんれいなくしてはりたないし,そこでは維新いしん勝者しょうしゃのみならず敗者はいしゃえがかれ,民衆みんしゅうちから民衆みんしゅうのありかたわれ,民衆みんしゅうにとって明治維新めいじいしんとはなにであったのかが課題かだいとされるにいたった。そして,明治維新めいじいしん世界せかいながれのなかで検討けんとうされはじめたのである。

 このように,維新いしん変革へんかくのさなかからあった〈うえから〉と〈したから〉の維新いしんかんは,明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわかく時代じだい時代じだい思潮しちょうのなかでのなが相克そうこくて,〈したから〉の維新いしんかん視座しざをようやく確立かくりつしえた,といえる。と同時どうじに,この維新いしんかん変遷へんせんは,それぞれの時代じだい維新いしんかんがすぐれてかく時代じだい現代げんだいろんであったことを物語ものがたっている。明治維新めいじいしんをどうみるかは,とりもなおさず明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ時代じだいをどうみ,どうきるかというひとびとの“きざま”にかかわっていたのである。
執筆しっぴつしゃ


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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)明治維新めいじいしん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

明治維新めいじいしん
めいじいしん

まくはんせいはいし、中央ちゅうおう集権しゅうけん統一とういつ国家こっか資本しほん主義しゅぎとの出発しゅっぱつてんきずいた政治せいじてき社会しゃかいてき変革へんかく。「明治維新めいじいしん」という歴史れきしがく概念がいねんができる起源きげんは、当時とうじひともちいた「御一新ごいっしん(ごいっしん)」ということばにある。おかみ命令めいれいによってなかあたらしくなるという意味いみである。

遠山とおやま茂樹しげき

日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそう

明治維新めいじいしん科学かがくてき研究けんきゅうすす契機けいきとなったのは、1920年代ねんだいまつから1930年代ねんだい前半ぜんはんにかけて、コミンテルン共産きょうさん主義しゅぎインターナショナル)がした日本にっぽん革命かくめい戦略せんりゃく方針ほうしんななねんテーゼおよびさんねんテーゼ)の理解りかいをめぐって、マルクス主義まるくすしゅぎ学者がくしゃあいだおこなわれた論争ろんそうであった。これは日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ論争ろんそうといわれ、論争ろんそうてんひとつが、明治維新めいじいしん歴史れきしてき性格せいかくについてであった。山田やまだもり太郎たろう(もりたろう)、平野ひらの義太郎よしたろう(よしたろう)、服部はっとり之総しそう(はっとりしそう)、羽仁はに(はに)五郎ごろうら(講座こうざとよばれた)は、明治維新めいじいしんはブルジョア革命かくめいではなく、その結果けっかとして樹立じゅりつされた天皇てんのうせい権力けんりょくは、独占どくせん資本しほん主義しゅぎ段階だんかいでも、絶対ぜったい主義しゅぎである本質ほんしつえてはいないと主張しゅちょうし、その論証ろんしょうを『日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ発達はったつ講座こうざ』でおこなった。これにたい大内おおうち兵衛ひょうえ(ひょうえ)、向坂さきさか逸郎いつお(さきさかいつろう)、土屋つちやたかしゆう(たかお)ら(労農ろうのうとよばれた)は、明治維新めいじいしん不徹底ふてっていであるとはいえ、ブルジョア革命かくめいであり、天皇てんのうせい権力けんりょくはなしくずしにブルジョア権力けんりょく移行いこうしたとろんじた。戦後せんご学界がっかいでも、この論争ろんそうてんがれふかめられているが、研究けんきゅう焦点しょうてん戦前せんぜんことなっている。絶対ぜったい主義しゅぎ形成けいせいといっても、西にしヨーロッパのような15、16世紀せいき古典こてんてきなそれではなく、産業さんぎょう資本しほん主義しゅぎ段階だんかい末期まっき世界せかい資本しほん主義しゅぎつよ規制きせいされた19世紀せいきなかばのそれが、明治維新めいじいしん問題もんだいである。したがって、絶対ぜったい主義しゅぎ封建ほうけん国家こっかか、しからずんばブルジョア権力けんりょく資本しほん主義しゅぎ国家こっかかといった形式けいしきてき問題もんだいのたてかたでは解明かいめいできないとかんがえられ、両者りょうしゃ構造こうぞうてき関連かんれん実証じっしょうてき追究ついきゅうされている。

 歴史れきしがくとしての明治維新めいじいしんが、いつからいつまでの政治せいじ過程かていをさすかは、明治維新めいじいしん本質ほんしつをどう意義いぎづけるかとかかわり、つぎ諸説しょせつがある。

〔1〕始期しきについて
(イ)天保てんぽう(てんぽう)(1830~1843)、とくに大塩おおしお平八郎へいはちろう(へいはちろう)のらん(1837)、あるいは幕府ばくふ天保てんぽう改革かいかく失敗しっぱい(1843)にかんがえ。このかんがえは、明治維新めいじいしん実現じつげんさせた国内こくないてき条件じょうけん、すなわち階級かいきゅう闘争とうそう激化げきか幕府ばくふ施政しせい決定的けっていてき失敗しっぱい幕府ばくふ反抗はんこうする政治せいじ運動うんどう出現しゅつげん重視じゅうしするという立場たちばもとづいている。

(ロ)ペリー来航らいこう(1853)または安政あんせい(あんせい)通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ(1858)にかんがえ。明治維新めいじいしん生起せいきさせた原因げんいんのうちで、国際こくさいてき条件じょうけん重視じゅうしする見解けんかい、また日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ世界せかい市場いちば一環いっかんまれたという世界せかいてき観点かんてんにたっての見解けんかいである。

〔2〕終期しゅうきについて
(イ)西南せいなん戦争せんそう(1877)にかんがえ。封建ほうけん復帰ふっきざす士族しぞくはん政府せいふ運動うんどうがこれをもってわり、これ以降いこうは、統一とういつ国家こっか建設けんせつ資本しほん主義しゅぎ路線ろせんをめぐる明治めいじ政府せいふ自由じゆう民権みんけん運動うんどうとの対抗たいこう政治せいじ基本きほんをなすあたらしい段階だんかいだとみるかんがかたである。

(ロ)自由じゆう民権みんけん運動うんどう激化げきか形態けいたいであり貧農ひんのう主体しゅたいである秩父ちちぶ(ちちぶ)事件じけん(1884)にかんがかた封建ほうけん社会しゃかい基本きほんてき階級かいきゅう対立たいりつである封建ほうけん領主りょうしゅたい封建ほうけんしょう農民のうみん関係かんけいが、資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい基本きほんてき階級かいきゅう対立たいりつである寄生きせい地主じぬし資本しほんたい小作こさくじんちん労働ろうどうしゃ関係かんけい転換てんかんする出発しゅっぱつてんをこの事件じけんしめすとする見解けんかいもとづくかんがえである。

(ハ)大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ(1889)にかんがかた天皇てんのうせい国家こっか機構きこうのうえで整備せいび確立かくりつされたのは憲法けんぽう発布はっぷによってであり、同時どうじにこの時期じき経済けいざいのうえでは原始げんしてき蓄積ちくせきすすみ、寄生きせい地主じぬしせい産業さんぎょう資本しほん主義しゅぎ成立せいりつ土台どだいがほぼできあがったことを重視じゅうしする見解けんかいである。今日きょう学界がっかいでは、終期しゅうきについて(イ)と(ハ)のかんがかた有力ゆうりょくであるが、終期しゅうきをどうかんがえるかによって、明治維新めいじいしん性格せいかくのとらえかたちがってくる。

遠山とおやま茂樹しげき

幕府ばくふ倒壊とうかい

すでに天保てんぽう年間ねんかんには、まくはんせい解体かいたい傾向けいこう顕著けんちょあらわれた。農民のうみん封建ほうけん領主りょうしゅ年貢ねんぐ生産せいさんだけに専心せんしんする存在そんざいではなくなり、商品しょうひん生産せいさんしゃ商品しょうひん販売はんばいしゃ性格せいかくし、各地かくち農村のうそん工業こうぎょう、それも問屋とんやせい家内かない工業こうぎょうあるいはマニュファクチュア(工場こうじょうせい手工業しゅこうぎょう)がまれ、ブルジョアてき地主じぬししょうブルジョアてき富農ふのうはんプロレタリアてき貧農ひんのうというあたらしい階層かいそう農民のうみん身分みぶんのなかから形成けいせいされはじめた。年貢ねんぐ輸送ゆそう販売はんばい中心ちゅうしんさん江戸えど大坂おおさか京都きょうと)やかくはん城下町じょうかまち特権とっけんてきだい商人しょうにん独占どくせんてき支配しはいしていた従来じゅうらい商業しょうぎょう機構きこうは、農民のうみん商品しょうひん生産せいさん依存いぞんする新興しんこう中小ちゅうしょう商人しょうにん勢力せいりょく台頭たいとうによってくずされつつあった。幕府ばくふしょはんとも財政ざいせい窮迫きゅうはくなやみ、その打開だかいさくとしてとった貨幣かへい経済けいざい農村のうそん侵入しんにゅう阻止そし年貢ねんぐ増徴ぞうちょう専売せんばいせい拡大かくだいが、農民のうみん商人しょうにん反抗はんこうまねいて失敗しっぱいかえしたのも、この時期じきである。百姓ひゃくしょう一揆いっき(いっき)は激発げきはつし、しかも領主りょうしゅたいする反抗はんこうだけでなく、村役人むらやくにん地主じぬしたいする闘争とうそう頻発ひんぱつし、村落そんらく秩序ちつじょ根底こんていから封建ほうけん支配しはいるがした。うるに都市としでは、物価ぶっか騰貴とうきなや下層かそうみん蜂起ほうき(ほうき)である「毀(うちこわし)」がこり、一時いちじ封建ほうけん支配しはい麻痺まひ(まひ)するという情況じょうきょうあらわれた。

 こうした封建ほうけんせい崩壊ほうかいしょ条件じょうけん政治せいじ抗争こうそうにまで結集けっしゅうせしめたのは、1853ねんよしみなが6)のペリー来航らいこう契機けいきとする対外たいがい問題もんだい切迫せっぱくであった。欧米おうべい列強れっきょう武力ぶりょく威嚇いかくをもってわがくに強要きょうようしたものは、鎖国さこく制度せいど撤廃てっぱいし、資本しほん主義しゅぎ世界せかい市場いちば一環いっかんむことであった。しかもかれらの圧力あつりょくのもとでむすんだ安政あんせい通商つうしょう条約じょうやくは、欧米おうべい諸国しょこく清朝せいちょう(しんちょう)中国ちゅうごくとのあいだ条約じょうやくひながた(ひながた)とする不平等ふびょうどう条約じょうやくであり、開国かいこく反対はんたいする封建ほうけん支配しはいしゃとのあいだ武力ぶりょく衝突しょうとつこった。幕末ばくまつ日本にっぽん欧米おうべい強国きょうこくにより植民しょくみんされる危険きけんをもったといえる。

 この植民しょくみん危機きき進行しんこうさえることのできただいいち条件じょうけんは、封建ほうけん支配しはいしゃ鎖国さこく復帰ふっき攘夷じょうい(じょうい)の実行じっこう不可能ふかのう比較的ひかくてきはやさとったことである。すなわち、通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつをめぐって、幕府ばくふ雄藩ゆうはん上層じょうそう藩士はんし下層かそう藩士はんし対立たいりつ激化げきかし、攘夷じょうい旗印はたじるしとするまくかく批判ひはん政治せいじ勢力せいりょくちからをもったが、貿易ぼうえき比較的ひかくてき順調じゅんちょうび、国内こくない経済けいざい当初とうしょ若干じゃっかん混乱こんらんはあったものの、商品しょうひん経済けいざい発展はってんちからをいっそうつよめる結果けっかとなり、大勢おおぜいとしては、農民のうみん商人しょうにん武士ぶし攘夷じょうい運動うんどう支持しじすることとならなかった。そのうえ幕府ばくふしょはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうのため軍備ぐんび充実じゅうじつすすまず、また1863ねん文久ぶんきゅう3)の薩英(さつえい)戦争せんそう翌年よくねん四国しこく連合れんごう艦隊かんたい下関しものせき(しものせき)砲撃ほうげき事件じけんという対外たいがい戦争せんそう経験けいけんから、武士ぶし彼我ひが武力ぶりょく痛感つうかんするにいたった。かくて幕府ばくふがわにせよ、はんまくしょはんにせよ、指導しどうしゃは、列国れっこくとの接触せっしょくふか貿易ぼうえき参加さんかすることによって、強兵きょうへい富国ふこく実現じつげんしようとした。

 植民しょくみん危機ききふかまらなかっただい条件じょうけんは、列強れっきょうがわ事情じじょうにあった。在日ざいにち外交がいこうだん指導しどうてき位置いちにあったイギリスは、アヘン戦争せんそう中国ちゅうごく民衆みんしゅうはんえい闘争とうそう太平たいへい天国てんごくらん、インドのセポイ(傭兵ようへい(ようへい))のらん鎮圧ちんあつひがしアジアでの武力ぶりょくかざるをえず、日本にっぽんたいする武力ぶりょく行使こうしには慎重しんちょうであった。しかもイギリスたいロシア、イギリスたいフランスの列強れっきょうあいだ対立たいりつ増大ぞうだいのため、いちこく独占どくせんてき日本にっぽん利権りけん設定せっていすることは困難こんなんであった。列強れっきょう、とくにイギリスは、貿易ぼうえき発展はってん障害しょうがいとなっている封建ほうけん制度せいど廃止はいしのぞんでいたが、民衆みんしゅうちからによる革命かくめい、あるいは列国れっこく直接ちょくせつ干渉かんしょうによる実現じつげんは、むしろ市場いちば混乱こんらんをもたらすことになるとしてこれをけ、封建ほうけん支配しはいしゃ内部ないぶ開明かいめい育成いくせいし、かれらので「うえからの漸進ぜんしんてき改革かいかく」をおこなわせることがのぞましいとかんがえるようになった。

 1866ねん慶応けいおう2)、米価べいかをはじめ物価ぶっか暴騰ぼうとうみつぎ租の加重かじゅうなや民衆みんしゅうは、江戸えど大坂おおさかとその周辺しゅうへん地帯ちたい中心ちゅうしん各地かくち一揆いっき毀にがり、民衆みんしゅうはん封建ほうけん闘争とうそう江戸えど時代じだいつう最大さいだい高揚こうようしめした。ときあたかも幕府ばくふだい2かい長州ちょうしゅう征伐せいばつ最中さいちゅうであった。幕府ばくふしょはん大軍たいぐん動員どういんしながら、当初とうしょ戦闘せんとう敗北はいぼくにくじけて早々そうそう休戦きゅうせんれいしたのは、財政ざいせい窮迫きゅうはくくるしむしょはん戦争せんそう負担ふたんきらい、また内乱ないらんしたみん蜂起ほうき外国がいこく干渉かんしょうまねくのをおそれたからであった。こうして薩摩さつまはん雄藩ゆうはん中心ちゅうしんに、従来じゅうらいまくかく専制せんせいあらためて、天皇てんのうしたでのしょはん連合れんごう政権せいけんという形態けいたいによって、封建ほうけん権力けんりょく統一とういつ強化きょうかはか工作こうさく進行しんこうし、将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ(よしのぶ)の政権せいけん返上へんじょうつづいて、1867ねん12月9にち王政おうせい復古ふっこ宮中きゅうちゅうクーデターがおこなわれ、幕府ばくふ廃止はいしされ、天皇てんのう政権せいけん樹立じゅりつされたのである。

遠山とおやま茂樹しげき

統一とういつ国家こっか樹立じゅりつしょ改革かいかく

王政おうせい復古ふっこ直後ちょくご薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん挑発ちょうはつによってこされたつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうは、佐幕さばく勢力せいりょく打撃だげきあたえただけでなく、天皇てんのう政府せいふかたふくめたはん全体ぜんたい支配しはい体制たいせい解体かいたい促進そくしんした。西にしヨーロッパの絶対ぜったい主義しゅぎ王権おうけんは、だい規模きぼかつ長期ちょうき内乱ないらんつうじて、強大きょうだい領主りょうしゅ領主りょうしゅ圧服あっぷくして封建ほうけん権力けんりょく統一とういつ実現じつげんし、中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっかをつくりあげたものであるが、天皇てんのうは、古代こだい以来いらい権威けんいをもつとはいえ、実質じっしつ権力けんりょくはなく、倒幕とうばく雄藩ゆうはんによって「たま(ぎょく)」としてあたらしくかつされたものであったから、あらためてしょはん藩主はんしゅ藩士はんしそう豪商ごうしょう豪農ごうのうそう支持しじけるために、まくはんせいたいする革新かくしんてき姿勢しせいをとった。江戸城えどじょうそう攻撃こうげき開始かいし目前もくぜんされたじょう誓文せいもんはそのあらわれであった。1869ねん明治めいじ2)正月しょうがつ、薩・ちょうこえ4藩主はんしゅ王土おうどおうみん思想しそう強調きょうちょうし、土地とち人民じんみん形式けいしきじょう天皇てんのうかえすという建白けんぱくをすると、藩主はんしゅもこれにならい、版籍はんせき奉還ほうかん(はんせきほうかん)が実現じつげんした。ついで1871ねん7がつ詔勅しょうちょく発布はっぷというかたち廃藩置県はいはんちけんおこない、さらにつづいて華族かぞく藩主はんしゅ公卿くぎょう(くぎょう))と士族しぞくふうろく整理せいりかさねたすえ、1876ねんかねろく公債こうさい支給しきゅうによって、ふうろく制度せいど全廃ぜんぱいした。はん制度せいどふうろく制度せいど廃止はいし封建ほうけん支配しはいしゃ特権とっけん主要しゅようなものの解消かいしょう―が、戊辰戦争ぼしんせんそうと、1874~1877ねん西南せいなん一部いちぶ地域ちいき士族しぞく反乱はんらんという、封建ほうけん支配しはいしゃあいだ比較的ひかくてき小規模しょうきぼ内乱ないらんただけで、しかも民衆みんしゅう革命かくめいてき蜂起ほうきなしに実現じつげんをみたのは、ヨーロッパの歴史れきし比較ひかくして顕著けんちょ特色とくしょくであった。すでにはん体制たいせいは、財政ざいせいてきにも軍事ぐんじてきにも破産はさん情況じょうきょうにあり、それを救済きゅうさいできる中央ちゅうおう権力けんりょく確立かくりつぜん封建ほうけん支配しはいしゃ要望ようぼうであった。そして領主りょうしゅせい解体かいたいにあたっては、はん借金しゃっきんだい部分ぶぶん政府せいふ肩代かたがわりされ、はな士族しぞくにはきむろく公債こうさい支給しきゅうによって多額たがく補償ほしょう支払しはらわれ、その結果けっかは、民衆みんしゅうおも租税そぜい負担ふたんわせることとなった。公債こうさい利子りし自活じかつできるそうは、華族かぞくきゅう上層じょうそう藩士はんしかぎられていたが、ちゅう下層かそう士族しぞくには、官吏かんり軍人ぐんじん教員きょういん転身てんしんする機会きかい独占どくせんてきひらかれており、農工のうこうしょう従事じゅうじするものへの士族しぞく授産じゅさんには、政府せいふから特権とっけんてき保護ほごあたえられていた。もとよりかれらのなかには没落ぼつらくし、不平ふへいいだものおおかったが、統一とういつ国家こっか建設けんせつ中央ちゅうおう政府せいふ強化きょうか欧米おうべい文化ぶんか摂取せっしゅによる強兵きょうへい富国ふこく実現じつげんという政府せいふ方針ほうしん反対はんたいすることはできなかった。幕末ばくまつ以来いらい欧米おうべい列強れっきょう圧力あつりょく民族みんぞく独立どくりつ危機ききとを痛感つうかんしていたからである。

 廃藩置県はいはんちけん政府せいふ文明開化ぶんめいかいか改革かいかく政策せいさく積極せっきょくてき展開てんかいし、国民こくみん各層かくそう多数たすう政府せいふ支持しじけようとした。1872ねん学制がくせい発布はっぷし、身分みぶんにかかわらずすべての国民こくみん義務ぎむ教育きょういくせいさだめ、翌年よくねんには、国民こくみん皆兵かいへい看板かんばんとする徴兵ちょうへいれいして、武士ぶし軍隊ぐんたい廃止はいしし、さらに地租ちそ改正かいせい条例じょうれいさだめて、農民のうみん土地とち所有しょゆうけんみとめ、これまでの現物げんぶつ年貢ねんぐ金納きんのう地租ちそあらためた。これらの大改革だいかいかく性格せいかくをどのように評価ひょうかするかは、明治維新めいじいしんがブルジョア革命かくめいであるかどうかの理解りかいふかくかかわることである。評価ひょうかのうえでの問題もんだいてんだいいちは、これらの改革かいかくが、天皇てんのう絶対ぜったいてき権威けんい国民こくみん浸透しんとうさせる施策しさくおよび政府せいふ中枢ちゅうすうめる藩閥はんばつ勢力せいりょく内部ないぶ対立たいりつかさねながらしだいに統一とういつ強化きょうかしてゆく過程かていあい表裏ひょうりしていることである。だいは、しょ改革かいかくは、欧米おうべい資本しほん主義しゅぎ国家こっか制度せいど模範もはんとして制定せいていされ、法令ほうれい内容ないよう制度せいどのたてまえはブルジョアてき性格せいかくのものであったが、それと実際じっさい立案りつあん意図いと実施じっしにおいてもつ現実げんじつ機能きのう歴史れきしてき性格せいかくとは、いちおう区別くべつしてかんがえる必要ひつようがあることである。すなわち、小学校しょうがっこう設立せつりつ維持いじ費用ひようがもっぱら地域ちいき住民じゅうみん負担ふたん授業じゅぎょうりょうによってまかなわれたため、権力けんりょくきびしい強制きょうせいにかかわらず、国民こくみんみながくじつはあがらなかった。四民しみん平等びょうどうをたてまえとする徴兵ちょうへいれいも、実際じっさいには広範こうはん免役めんえき規定きていをもち、兵役へいえき負担ふたんするのはまずしい民衆みんしゅう三男さんなんかぎられていた。また地租ちそ改正かいせいは、現実げんじつには法令ほうれい規定きていするとおりの地価ちか算定さんてい方法ほうほうがとられず、従来じゅうらい年貢ねんぐ総額そうがく確保かくほするという前提ぜんていにたっての権力けんりょく強制きょうせいによるけの決定けっていであった。したがって、改革かいかくはいずれも民衆みんしゅうはげしい反対はんたいけた。これら改革かいかく法令ほうれいがたてまえとするブルジョアてき内容ないよう現実げんじつ成果せいかとしてあらわれるのは、すなわち、小学校しょうがっこう就学しゅうがくりつ学齢がくれい児童じどうの50%をえ、徴兵ちょうへいせい免役めんえき規定きてい廃止はいしされて国民こくみんみなへいをもち、地租ちそ改正かいせい結果けっか寄生きせい地主じぬしせい資本しほん主義しゅぎ経済けいざい安定あんていてきむすくのは、1890~1900年代ねんだいであった。この時期じきは、自由じゆう民権みんけん運動うんどう発展はってんとその挫折ざせつ(ざせつ)を経過けいかして、1889ねん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷされ、藩閥はんばつ専制せんせいあらためられ立憲りっけんせい導入どうにゅうされた反面はんめん統帥とうすいけん軍隊ぐんたい指揮しきけん)をはじめとする天皇てんのう絶大ぜつだい大権たいけん規定きていされ、天皇てんのうあたまとする官僚かんりょう機構きこう整備せいびされ、軍国ぐんこく主義しゅぎ強化きょうかされた。そして1894~1895ねんきよし(にっしん)戦争せんそう勝利しょうりすることで、植民しょくみん台湾たいわん領有りょうゆうするという日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎ樹立じゅりつする時期じきであった。

 終期しゅうきを1877ねんとするか1889ねんとするか、いずれの見解けんかいをとるにせよ、明治維新めいじいしんとは、封建ほうけんせいから資本しほんせいへの移行いこう過程かていにおける政治せいじてき社会しゃかいてき変革へんかくであり、その結果けっかは、強力きょうりょく天皇てんのうせい官僚かんりょう支配しはい確立かくりつと、軍国ぐんこく主義しゅぎおよび寄生きせい地主じぬしせいふかむすいた日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ形成けいせいとをもたらしたということができよう。

遠山とおやま茂樹しげき

原口はらぐちきよしちょ日本にっぽん近代きんだい国家こっか形成けいせい』(1966・岩波書店いわなみしょてん)』芝原しばはらたく自著じちょ日本にっぽん歴史れきし23 開国かいこく』(1975・小学館しょうがくかん)』遠山とおやま茂樹しげきちょ明治維新めいじいしん現代げんだい』(岩波いわなみ新書しんしょ)』

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア明治維新めいじいしん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

明治維新めいじいしん【めいじいしん】

まくはん体制たいせい崩壊ほうかいさせて天皇てんのうせい統一とういつ国家こっか形成けいせいし,封建ほうけん社会しゃかいから資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいへの移行いこう出発しゅっぱつてんとなった社会しゃかいてき政治せいじてき変革へんかく広義こうぎには1830年代ねんだい天保てんぽうから,明治めいじ憲法けんぽう体制たいせい成立せいりつの1889ねん―1890ねんまでをとる。その始期しきを1853ねんペリー来航らいこう終期しゅうきを1871ねん廃藩置県はいはんちけん,1873ねん地租ちそ改正かいせい,1877ねん西南せいなん戦争せんそうとするなどの諸説しょせつがある。 天保てんぽう以後いご国内こくないでは百姓ひゃくしょう一揆いっき(いっき)や毀(うちこわし)が激発げきはつ対外たいがいてきには1858ねん日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ頂点ちょうてん攘夷じょうい(じょうい)ろん開国かいこくろん世論せろん分裂ぶんれつ,また将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいもからんで国論こくろん沸騰ふっとうした。同年どうねん安政あんせい大獄たいごくは,幕府ばくふ独裁どくさい体制たいせい再建さいけん意図いとしたものであったが,1860ねん桜田さくらだ門外もんがいへんにより挫折ざせつ公武こうぶ合体がったい政策せいさくも,1862ねん坂下さかした門外もんがいへんなどにはばまれた。1862ねん―1863ねんころにいたり,開港かいこう影響えいきょう物価ぶっか高騰こうとう攘夷じょうい運動うんどう激化げきかし,外人がいじん殺傷さっしょう事件じけん続発ぞくはつうませき戦争せんそう薩英戦争せんそうこった。文久ぶんきゅうねんがつ18にち政変せいへん,1864ねん禁門きんもんへんて,幕府ばくふは1864ねん―1865ねんだいだい長州ちょうしゅう征伐せいばつおこなまくけん回復かいふくはかったが,しょはん同意どういられず失敗しっぱいした。このあいだ長州ちょうしゅうはんでは天保てんぽう安政あんせい改革かいかく登用とうようされた開明かいめいてき人材じんざい藩政はんせい実権じっけんにぎり,薩摩さつまはんでも積極せっきょくてき英国えいこく接近せっきんしん国家こっか建設けんせつ意図いとしたに1866ねん薩長さっちょう同盟どうめい結成けっせいされ,討幕とうばく運動うんどう進展しんてんした。 1867ねん土佐とさぜん藩主はんしゅ山内やまうち容堂ようどう大政奉還たいせいほうかん建白けんぱく,それをいれた徳川とくがわ慶喜よしのぶ政権せいけん返上へんじょうったが,幕府ばくふ権力けんりょく徹底的てっていてき失墜しっつい意図いとする討幕とうばく武力ぶりょく追討ついとう強行きょうこう,1868ねん戊辰戦争ぼしんせんそうはん政府せいふ勢力せいりょく制圧せいあつした。このあいだしん政府せいふ王政おうせい復古ふっこしょ外国がいこく通告つうこくヵ条かじょう誓文せいもん基本きほん綱領こうりょうかかげ,政体せいたいしょによって政治せいじ制度せいど確立かくりつ政府せいふ基盤きばん全国ぜんこくてき構築こうちくした。1869ねん版籍はんせき奉還ほうかんにより行政ぎょうせいてき中央ちゅうおう統一とういつ推進すいしん,1871ねん廃藩置県はいはんちけん断行だんこうによりはん体制たいせい解体かいたい実質じっしつてき中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか成立せいりつさせ,以後いご富国強兵ふこくきょうへい〉〈殖産しょくさん興業こうぎょう〉をスローガンに近代きんだい政策せいさく強行きょうこうした。 明治維新めいじいしん評価ひょうかについては,これを絶対ぜったい主義しゅぎてき改革かいかくとする講座こうざとブルジョア革命かくめいとする労農ろうのう見解けんかい対立たいりつだい大戦たいせんまえからあり,現在げんざい論争ろんそうつづけられている。
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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん明治維新めいじいしん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

明治維新めいじいしん
めいじいしん

日本にっぽんにおける政治せいじてき革命かくめい徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ没落ぼつらくし,くに支配しはいけん明治めいじみかどのもと天皇てんのう親政しんせいもどり,明治めいじ時代じだいとしてられる政治せいじてき経済けいざいてき社会しゃかいてきだい変革へんかく時代じだいはじまった。この革命かくめい日本にっぽん近代きんだい西洋せいようをもたらした。江戸えど幕府ばくふ歴史れきしてき敵意てきいをもつしょはんわか武士ぶし主体しゅたいとする維新いしん指導しどうしゃは,深刻しんこくする国内こくない問題もんだい外国がいこくによる侵略しんりゃく脅威きょういをバネにして活動かつどうした。「富国強兵ふこくきょうへい」というスローガンを採用さいようすることで,かれらは西洋せいよう列強れっきょうかたならべられる国民こくみん国家こっかをつくろうとした。慶応けいおう4 (1868) ねん箇条かじょう誓文せいもんべられているように,東京とうきょう移転いてんしたしん政府せいふだいいち目標もくひょうまくはん体制たいせい解体かいたいであった。これは明治めいじ4 (1871) ねんかくはん公式こうしき廃止はいしされ,けん制度せいどわったことでおおむね達成たっせいされた。すべての領主りょうしゅてき特権とっけん廃止はいしされた。おなねん国軍こくぐん創設そうせつされ,1873ねん徴兵ちょうへいれいによって一層いっそう強化きょうかがはかられた。しん政府せいふはまた,金融きんゆう税制ぜいせい一本いっぽんをはかるしょ政策せいさく実施じっしし,1873ねん地租ちそ改正かいせいにより,主要しゅよう収入しゅうにゅうげん確保かくほされた。
維新いしん指導しどうしゃ天皇てんのうのもとにすすめた革命かくめいてき変化へんかは,1870年代ねんだいなかばに反対はんたいろんたかまりに直面ちょくめんした。しん政府せいふ相手あいてにした各地かくち反乱はんらんには不平ふへい士族しぞく参加さんかしており,その最大さいだいのものはかつての維新いしん英雄えいゆう西郷さいごう隆盛たかもりひきいた反乱はんらん (西南せいなん戦争せんそう ) であった。これらの武装ぶそう蜂起ほうきおおきな困難こんなんともないつつも,あらたに創設そうせつされた軍隊ぐんたい鎮圧ちんあつされた。しん政権せいけん不信ふしんをいだき,その農業のうぎょう政策せいさく不満ふまんをもつ貧農ひんのうたちも反乱はんらん参加さんか,こうした運動うんどうは 1880年代ねんだい頂点ちょうてんむかえる。おな時期じき自由じゆう西洋せいよう思想しそう導入どうにゅうによっていきおいづいた自由じゆう民権みんけん運動うんどうは,立憲りっけん政府せいふ創設そうせつ国会こっかいつうじたより広範こうはん政治せいじ参加さんか要求ようきゅうした。こうした圧力あつりょく対応たいおうして,1881ねん政府せいふは 1890ねんまでに憲法けんぽう起草きそうすることを公約こうやくした。 1885ねん内閣ないかく制度せいどととのい,1886ねんには憲法けんぽう起草きそう作業さぎょう開始かいしされた。最終さいしゅうてきに 1889ねん天皇てんのうから国民こくみんくだしおかれるかたち憲法けんぽう公式こうしき発布はっぷされた。これをもとに,二院にいんせい議会ぎかいもうけられ,参政さんせいけん制限せいげんはあったものの,選挙せんきょによって議員ぎいんえらばれた。よく 1890ねんだい1かい帝国ていこく議会ぎかいひらかれた。
明治めいじ時代じだいには政治せいじてき変化へんか並行へいこうして,経済けいざいてき社会しゃかいてき変化へんか進行しんこうした。経済けいざい依然いぜんとして農業のうぎょう依存いぞんしていたが,工業こうぎょう政府せいふだいいち目標もくひょうであり,政府せいふ戦略せんりゃくてき産業さんぎょう交通こうつう通信つうしん分野ぶんや発展はってん指導しどうした。日本にっぽんはつ鉄道てつどう明治めいじ5 (1872) ねん建設けんせつされ,1890ねんまでに線路せんろそう延長えんちょうは 2250kmにたっした。すべての主要しゅよう都市としが 1880ねんまでに電信でんしんむすばれた。民間みんかん企業きぎょう政府せいふ財政ざいせい支援しえんによって奨励しょうれいけるとともに,これを支援しえんするため 1882ねんにはヨーロッパの銀行ぎんこう制度せいどした金融きんゆう機関きかん創設そうせつされた。こうした近代きんだいへの努力どりょくには西洋せいよう科学かがく技術ぎじゅつ必要ひつようであり,「文明開化ぶんめいかいか」の旗印はたじるしのもと,西洋せいよう文化ぶんか知的ちてき流行りゅうこうから衣服いふく建築けんちくにいたるまで,さかんにもてはやされた。しかし,無分別むふんべつ西洋せいようは 1880年代ねんだいにいくぶん抑制よくせいされ,伝統でんとうてき日本にっぽんてき価値かちかんあらたに称揚しょうようするうごきがあらわれた。たとえば,近代きんだいてき教育きょういく制度せいど発展はってんさせる場合ばあい西洋せいよう理論りろん実践じっせん影響えいきょうけながらも,武士ぶし忠誠ちゅうせいしん社会しゃかいてき調和ちょうわといった伝統でんとうてき価値かちかん強調きょうちょうされた。おな傾向けいこう芸術げいじゅつ文化ぶんかにもみられ,当初とうしょ西洋せいようスタイルが模倣もほうされたが,その西洋せいようてき趣味しゅみ日本にっぽんてき趣味しゅみのより選択せんたくてき混交こんこう実現じつげんされた。
20世紀せいきはじめまでに,明治維新めいじいしんのさまざまな目標もくひょうはおおむね達成たっせいされ,日本にっぽん近代きんだい工業こうぎょうこくになるみち着実ちゃくじつあゆんでいた。治外法権ちがいほうけんつうじて外国がいこく列強れっきょう司法しほうめん経済けいざいめん特権とっけんゆるしていた不平等ふびょうどう条約じょうやくは 1894ねん改定かいていされ,さらに 1902ねんにちえい同盟どうめい締結ていけつと,ふたつの戦争せんそう勝利しょうり (1895ねんにちしん戦争せんそうと 1905ねんにち戦争せんそう ) により,日本にっぽん西側にしがわ世界せかいから敬意けいいをもってられるようになり,史上しじょうはじめて国際こくさい舞台ぶたい主要しゅよう世界せかいてき勢力せいりょくとして台頭たいとうした。 1912ねん明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょは,こうした時代じだいわりをかくするものであった。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん明治維新めいじいしん」の解説かいせつ

明治維新めいじいしん
めいじいしん

19世紀せいきなかば,まくはん体制たいせい打破だはし,西洋せいよう国際こくさい体系たいけい参加さんかして近代きんだい国民こくみん国家こっか形成けいせいする契機けいきとなった政治せいじ社会しゃかいだい変革へんかく。「維新いしん」という文字もじ幕末ばくまつ使つかわれた「一新いっしん」というかたりを「詩経しきょうちゅう雅語がごでおきえたもの。期間きかんについては,起点きてん天保てんぽう年間ねんかん(1830~40年代ねんだい),ペリー来航らいこう開国かいこく(1853・54),終点しゅうてん廃藩置県はいはんちけん(1871),西南せいなん戦争せんそう終結しゅうけつ(1877),立憲りっけん政治せいじ実現じつげん(明治めいじ憲法けんぽう制定せいてい帝国ていこく議会ぎかい開設かいせつ,1889・90)などにおくしょ見解けんかいがある。明治維新めいじいしん性格せいかく規定きていについては,(1)絶対ぜったい主義しゅぎ形成けいせい,(2)ブルジョア革命かくめい,(3)民族みんぞく(国民こくみん)革命かくめいなどの諸説しょせつがある。とくに(3)は,欧米おうべい先進せんしん列強れっきょうによりくわえられた外圧がいあつ(西欧せいおう衝撃しょうげき)への反応はんのうという側面そくめん強調きょうちょうした見方みかたである。維新いしんによってしょうじた構造こうぞうてき変化へんかは,だい1に中華ちゅうか帝国ていこく秩序ちつじょ縁辺えんぺん孤立こりつしていた日本にっぽん西洋せいよう国際こくさい体系たいけい参加さんかし,開放かいほう体制たいせい移行いこうしたこと,だい2にそれまでの多元的たげんてき政体せいたい王政おうせい復古ふっこ廃藩置県はいはんちけんつうじて一元化いちげんかされ,さらに国民こくみんおおやけ参加さんかへのみちひらかれたこと,だい3に身分みぶんせい大幅おおはば解体かいたいされ,経済けいざい社会しゃかい自由じゆうおこなわれたこと,だい4に古代こだい以来いらい中華ちゅうか文明ぶんめいにかわって西洋せいよう文明ぶんめい社会しゃかいのモデルになったことなどであった。変革へんかく規模きぼはこのように19世紀せいき世界せかいしょ革命かくめいのなかで最大さいだい部類ぶるいぞくしたが,それにともなう人命じんめい犠牲ぎせい推定すいてい3まんにん程度ていど比較的ひかくてきすくなかった。維新いしんにおける対立たいりつこうそう身分みぶんあいだ闘争とうそうとならなかったこと,つよ対外たいがい危機きき意識いしき対立たいりつこうそう抑制よくせいする機能きのうをはたしたことなどが要因よういんかんがえられる。またきゅう体制たいせい解体かいたい過程かてい威力いりょくをふるった「復古ふっこ象徴しょうちょうは,廃藩置県はいはんちけんによる王政おうせい復古ふっこ完成かんせいは「開化かいか象徴しょうちょうにその位置いちゆずり,欧化おうかにともなう文化ぶんかてき摩擦まさつ最小限さいしょうげんにとどまった。明治維新めいじいしん西洋せいようによるグローバルな国際こくさい社会しゃかい形成けいせい運動うんどうたいする,伝統でんとう新来しんらい西洋せいよう文明ぶんめいをともに動員どういんした西洋せいよう組織そしきてき応答おうとうひとつの成功せいこうれいといえよう。

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん明治維新めいじいしん」の解説かいせつ

明治維新めいじいしん
めいじいしん

19世紀せいき後半こうはんまくはん体制たいせいがその内部ないぶ矛盾むじゅん欧米おうべい資本しほん主義しゅぎ外圧がいあつによって崩壊ほうかいし,日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ近代きんだい天皇てんのうせい国家こっか形成けいせい起点きてんとなった政治せいじてき経済けいざいてき社会しゃかいてき変革へんかく
明治維新めいじいしん始期しきについては,国内こくないてき条件じょうけん第一義だいいちぎとして,1840年代ねんだい天保てんぽうをあてるものと,国際こくさいてき条件じょうけん重視じゅうしして,ペリー来航らいこう時期じきをあてるものとがある。終期しゅうきについては,(1)'71ねん廃藩置県はいはんちけんから,'73ねん地租ちそ改正かいせいいた封建ほうけんてき領主りょうしゅせい崩壊ほうかい,(2)'77ねん西南せいなん戦争せんそうによる封建ほうけんてき勢力せいりょく敗退はいたい,(3)'84ねん秩父ちちぶ事件じけん資本しほん主義しゅぎてき階級かいきゅうてき対立たいりつ出発しゅっぱつてんとして),(4)'89ねん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう成立せいりつから,翌年よくねん帝国ていこく議会ぎかい開設かいせついた近代きんだい天皇てんのうせい国家こっか成立せいりつまで,とする諸説しょせつがあり,(1)(2)(4)が有力ゆうりょくである。この変革へんかくは,農民のうみん都市とし貧民ひんみん世直よなお一揆いっき外圧がいあつ危機ききなかで,下級かきゅう武士ぶしとく西南せいなん雄藩ゆうはんの)と豪農ごうのうそうむすびついて推進すいしんしたものとかんがえられるが,これを絶対ぜったい主義しゅぎ成立せいりつとみるか,ブルジョア革命かくめいとみるかの論争ろんそうがある。それは日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ構造こうぞう性格せいかくだい世界せかい大戦たいせんまでの日本にっぽん近代きんだい意義いぎかんがえるじょうでもおおきな分岐ぶんきてんとなっている。

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防府ほうふ歴史れきし用語ようごしゅう明治維新めいじいしん」の解説かいせつ

明治維新めいじいしん

 1867ねんおこなわれた徳川とくがわ慶喜よしのぶ[とくがわよしのぶ]の将軍しょうぐんしょく返上へんじょう大政奉還たいせいほうかん[たいせいほうかん])から朝廷ちょうてい政権せいけんがもどってきたことの宣言せんげん王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい[おうせいふっこのだいごうれい])、1868ねん明治めいじ政府せいふ[めいじせいふ]の成立せいりつまでのながれをいます。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち明治維新めいじいしん言及げんきゅう

王政おうせい復古ふっこ】より

共和きょうわせい武家ぶけ政治せいじなどによって支配しはいわれていた君主政体くんしゅせいたいが,ふたたびきゅう体制たいせい回復かいふくすること。通常つうじょう,O.クロムウェルの共和きょうわ政治せいじ崩壊ほうかいのイギリスにおけるスチュアートあさのチャールズ2せい即位そくい,ナポレオン1せい没落ぼつらくのフランスにおけるブルボンあさのルイ18せい即位そくい,および日本にっぽん明治維新めいじいしん以上いじょうみっつの歴史れきしてき事例じれいをさすことがおおい。えいふつ場合ばあいきゅう王政おうせいささえていた貴族きぞく僧侶そうりょらを中心ちゅうしんとする〈おう党派とうは勢力せいりょく存在そんざい,また王朝おうちょう体現たいげんする伝統でんとう権威けんい存続そんぞくが,〈復古ふっこ実現じつげん条件じょうけんとなっていたが,きゅう王政おうせい(絶対ぜったい主義しゅぎ王政おうせい,アンシャン・レジーム)を打倒だとうした〈市民しみん革命かくめい社会しゃかいにおいては,ブルジョアジーとうしん勢力せいりょく台頭たいとう,および合理ごうり主義しゅぎてき思考しこう発展はってんともな伝統でんとう権威けんい低下ていかのゆえに,文字もじどおりのきゅう体制たいせいの〈復古ふっこ〉は困難こんなんとなる。…

※「明治維新めいじいしん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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