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戊辰戦争(ボシンセンソウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

戊辰戦争ぼしんせんそうみ)ボシンセンソウ

デジタル大辞泉だいじせん戊辰戦争ぼしんせんそう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ぼしん‐せんそう〔‐センサウ〕【戊辰戦争ぼしんせんそう

慶応けいおう4ねん(1868)つちのえたつとし1がつから翌年よくねん5がつにかけて、維新いしん政府せいふぐんきゅう幕府ばくふとのあいだおこなわれた内戦ないせん鳥羽とば伏見ふしみたたか上野うえのあきらたいたたか会津あいづ戦争せんそうはこかん戦争せんそうなどの総称そうしょうつちのえたつやく

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ぼしん‐せんそう‥センサウ戊辰戦争ぼしんせんそう

  1. 慶応けいおうよんねんいちはちろくはちつちのえたつとしはじまった討幕とうばくきゅう幕府ばくふぐんとの戦争せんそう慶応けいおうよんねんいちがつさんにち鳥羽とば伏見ふしみたたかいから、明治めいじねんいちはちろくきゅうがついちはちにちはこかん戦争せんそう終結しゅうけつまでをさす。薩長さっちょう討幕とうばく挑発ちょうはつによってきた鳥羽とば伏見ふしみたたかいできゅう幕府ばくふぐん敗退はいたい討幕とうばくぐん江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょうによって接収せっしゅう抵抗ていこうするきゅう幕府ばくふぐんたいし、あきらたいとの上野うえの戦争せんそう北越ほくえつ戦争せんそう会津あいづはんへのそう攻撃こうげきなどをつうじて圧倒的あっとうてき勝利しょうりおさめた。品川しながわからのがれた榎本えのもと武揚ぶようらのきゅう幕府ばくふ海軍かいぐんはこかん五稜郭ごりょうかく降伏ごうぶく。これによって徳川とくがわまくはん体制たいせい完全かんぜん解体かいたいした。つちのえたつやく

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア戊辰戦争ぼしんせんそう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

戊辰戦争ぼしんせんそう【ぼしんせんそう】

1868ねんがつ鳥羽とば伏見ふしみせんはじまるきゅう幕府ばくふ佐幕さばくしょはんぐん朝廷ちょうていがわ倒幕とうばくぐんとの内戦ないせんしょう御所ごしょ会議かいぎ挑発ちょうはつされて行動こうどうこしたきゅう幕府ばくふぐん会津あいづ桑名くわなりょうはんぐん鳥羽とば伏見ふしみせん敗走はいそうすると,倒幕とうばく朝廷ちょうてい徳川とくがわ慶喜よしのぶ追討ついとうれいけて東征とうせいぐん江戸えどおくった。慶喜よしのぶ恭順きょうじゅん態度たいどをとり,英国えいこく公使こうしパークス圧力あつりょくもあって江戸えどそう攻撃こうげき中止ちゅうしされたが,江戸えど開城かいじょうおおくのきゅう幕臣ばくしん脱走だっそう関東かんとう各地かくちはげしく抗戦こうせん会津あいづ中核ちゅうかくとする東北とうほくしょはんは5がつ奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめいさらに奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいして倒幕とうばく対抗たいこう,7がつ長岡ながおか落城らくじょう北越ほくえつ戦争せんそうやぶれ,9月くがつ会津あいづ落城らくじょうおよんでようやく降伏ごうぶく会津あいづ戦争せんそう)。鳥羽とば伏見ふしみせん以来いらい局外きょくがい中立ちゅうりつせんしていたしょ外国がいこく中立ちゅうりつ解除かいじょして形勢けいせいはほぼ落着らくちゃくした。1869ねんがつ五稜郭ごりょうかくせん榎本えのもと武揚ぶようぐん降伏ごうぶくして内戦ないせんわった。
関連かんれん項目こうもく秋田あきたはん磐城いわきひらはんウィリス王政おうせい復古ふっこ日本にっぽん大久保おおくぼ利通としみち大鳥おおとり圭介けいすけ大村おおむら益次郎えきじろう飫肥おびはん和宮かずのみや片岡かたおか健吉けんきち河井かわい継之助つぐのすけ川村かわむらじゅんよし兵隊へいたい桐野きりの利秋としあき雲井くもい竜雄たつお黒羽くろははん児玉こだま源太郎げんたろう五稜郭ごりょうかく西園寺さいおんじ公望きんもち西郷さいごう隆盛たかもり相楽さがら総三そうぞう佐佐木ささき高行たかゆき佐竹さたけ品川しながわ弥二郎やじろう新発田しばたはん島津しまつ忠義ただよしあきらたい白河しらかわはん新撰しんせんぐみ仙台せんだいはん相馬そうまはん草莽そうもうたい大政奉還たいせいほうかん棚倉たなぐらはん熾仁親王たるひとしんのう東郷とうごう平八郎へいはちろう倒幕とうばく運動うんどう鳥尾とりお小弥太こやた長岡ながおかはん日本にっぽん二本松にほんまつはん沼田ぬまたはんパークス彦根ひこねはん土方ひじかた歳三としぞう平戸ひらどはん福島ふくしまはん前原まえはら一誠いっせい松代まつだいはん松平まつだいら容保かたもり松本まつもとりょうじゅん三島みしま通庸みちつね明治維新めいじいしん盛岡もりおかはん柳原やなぎはら前光さきみつ山形やまがたはん米沢よねざわはん

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)戊辰戦争ぼしんせんそう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

戊辰戦争ぼしんせんそう
ぼしんせんそう

1868ねん慶応けいおう4)1がつ鳥羽とば(とば)・伏見ふしみ(ふしみ)のたたかいから1869ねん明治めいじ2)5がつはこかん(はこだて)戦争せんそうまでの戦争せんそうをいう。1868ねん干支えと(えと)でつちのえたつ(つちのえたつ)のとしにあたるので、この呼称こしょうがつけられている。

 1867ねん慶応けいおう3)12月9にち王政おうせい復古ふっこクーデターによって成立せいりつしたしん政府せいふは、徳川とくがわ慶喜よしのぶ(よしのぶ)を政権せいけんから排除はいじょし、かん納地のうちかれ要求ようきゅうした。しん政府せいふは、クーデターに参加さんかした薩摩さつま(さつま)、土佐とさ安芸あき(あき)、尾張おわり(おわり)、越前えちぜん(えちぜん)などしょはん連合れんごう政権せいけんであり、おおやけ政体せいたいろん支配しはいてきイデオロギーとしていたが、政府せいふないでは当初とうしょ討幕とうばく優位ゆういがしだいにうしなわれておおやけ政体せいたい優位ゆういとなり、かん納地のうち問題もんだい当初とうしょ方針ほうしんがしだいに緩和かんわされていった。しかし、鳥羽とば伏見ふしみたたかいにより局面きょくめん一変いっぺんした。しん政府せいふぐん勝利しょうりにより、近畿きんき以西いせい諸侯しょこう急速きゅうそくしん政府せいふ忠誠ちゅうせいちかい、西日本にしにほんだい商人しょうにんそうしん政府せいふ協力きょうりょくすることになった。政府せいふないではおおやけ政体せいたいろんてき権力けんりょく構想こうそう急速きゅうそくおとろえ、討幕とうばく指導しどうけん成立せいりつした。しん政府せいふは、天皇てんのう親政しんせいのもとに少数しょうすう専制せんせいてき政治せいじ国家こっか最高さいこう意志いし決定けっていする方向ほうこう変貌へんぼう(へんぼう)していった。1868ねん3がつ14にちじょう誓文せいもん(せいもん)はこのようなしん政府せいふ成立せいりつ内外ないがい宣言せんげんするものであったし、うるう(うるう)4がつ政体せいたいしょ誓文せいもん精神せいしん官制かんせいじょう具体ぐたいしたものであった。

 一方いっぽう鳥羽とば伏見ふしみたたかいののち江戸えどかえった慶喜よしのぶは、しん政府せいふ自己じこ恭順きょうじゅんうったえる工作こうさくおこなったが効果こうかなく、ついに上野寛永寺うえのかんえいじ(かんえいじ)に閉居へいきょする。しん政府せいふ朝敵ちょうてき慶喜よしのぶ追討ついとうのため、だい総督そうとくした北陸ほくりく東海とうかい東山ひがしやまさんどう先鋒せんぽう(せんぽう)総督そうとくき、しょはん軍隊ぐんたい指揮しきして江戸えどかわせた。草莽そうもう(そうもう)有志ゆうし結成けっせいしたしょたい東征とうせい参加さんかした。草莽そうもうしょたいのなかには、相楽さがら総三そうぞう(さがらそうぞう)らのあかほうたい(せきほうたい)のようにしん政府せいふがわ策謀さくぼうによってにせ官軍かんぐんつみ弾圧だんあつされたものもある。江戸城えどじょうそう攻撃こうげきは、西郷さいごう隆盛たかもり(さいごうたかもり)、山岡やまおか鉄太郎てつたろう山岡やまおか鉄舟てっしゅう)の駿府すんぷ(すんぷ)会談かいだんて、江戸えどでの西郷さいごう勝安かつやすかおる(かつやすよし)(海舟かいしゅう)の会談かいだんにより平和へいわてき開城かいじょう可能かのうとなる。1868ねん4がつ4にち勅使ちょくし江戸城えどじょうはいり、慶喜よしのぶ水戸みと謹慎きんしん開城かいじょう軍艦ぐんかん兵器へいき没収ぼっしゅう重臣じゅうしん処分しょぶんなどの降伏ごうぶく条件じょうけん徳川とくがわかた伝達でんたつ同月どうげつ11にち江戸城えどじょうわたしがおこなわれた。しかし徳川とくがわかた抗戦こうせん将兵しょうへい江戸えど脱走だっそうして関東かんとう各地かくち抵抗ていこうせんおこない、おりからの一揆いっき(いっき)、毀(うちこわし)とともに政府せいふぐん苦境くきょうおとしいれた。このなかで徳川とくがわ処分しょぶん決着けっちゃくいそがれ、うるう4がつ三条さんじょう実美みみ(さんじょうさねとみ)は関東かんとう監察かんさつ使として江戸えどくだ徳川とくがわ処分しょぶん内容ないよう決定けってい同月どうげつ29にち徳川とくがわ相続そうぞくじん田安たやす亀之助かめのすけ(たやすかめのすけ)(徳川とくがわ家達いえさと(いえさと))とするむね徳川とくがわかたつたえた。5月15にち上野うえの戦争せんそうあきらたい(しょうぎたい)を撃滅げきめつして関東かんとう制圧せいあつ有利ゆうり条件じょうけん獲得かくとくしたしん政府せいふは、5月24にち徳川とくがわ亀之助かめのすけ駿河するが(するが)府中ふちゅう70まんせき城主じょうしゅとするむね徳川とくがわかた伝達でんたつした。徳川とくがわ駿河するがうつりふうにより、しん政府せいふ江戸えど中心ちゅうしんにして関東かんとう経営けいえいし、東北とうほく地方ちほうにも支配しはい浸透しんとうさせ、名実めいじつともに全国ぜんこく君臨くんりんする基礎きそかためられた。7月江戸えど東京とうきょうとし、10がつ天皇てんのう東京とうきょう行幸ぎょうこう実現じつげんする。

 一方いっぽう朝敵ちょうてきとされた会津あいづ庄内しょうない(しょうない)りょうはん降伏ごうぶく謝罪しゃざい条件じょうけんについて、りょうはんしん政府せいふとのあいだ斡旋あっせん(あっせん)に尽力じんりょくした仙台せんだい米沢よねざわ(よねざわ)はんなどの努力どりょく失敗しっぱいし、しん政府せいふ奥羽おうう鎮撫ちんぶ(ちんぶ)総督そうとく参謀さんぼう不満ふまん不信ふしんいた東北とうほくしょはんは、5月奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいし、やがて北越ほくえつしょはんもこれに参加さんかして奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいとなってしん政府せいふ抵抗ていこう。1868ねん明治めいじ1)7がつ仙台せんだいはんりょう白石しらいし(しろいし)におおやけもうけ、はなわ王寺おうじみや(りんのうじのみや)を軍事ぐんじ総督そうとく推戴すいたい(すいたい)し、奥羽おううえつしょはん重臣じゅうしん参加さんかして軍事ぐんじ民政みんせい会計かいけいその議定ぎてい執行しっこうすることになる。これは、奥羽おううえつ成立せいりつしたしょはん連合れんごう政権せいけんであったが、しん政府せいふぐんとの戦闘せんとうやぶれ、同盟どうめいしょはん次々つぎつぎ降伏ごうぶくした。12月奥羽おううえつしょはん処分しょぶん決定けってい藩主はんしゅ幽閉ゆうへい謹慎きんしんそぎふうじうたてふうじ重臣じゅうしん処分しょぶん贖罪しょくざいきん(しょくざいきん)賦課ふかなどがおこなわれた。また、8がつ徳川とくがわかた海軍かいぐんひきいて脱走だっそうした榎本えのもと武揚ぶよう(えのもとたけあき)らは、北海道ほっかいどうばこかん攻略こうりゃくしてこのしん政権せいけん樹立じゅりつしたが、69ねん5がつ五稜郭ごりょうかく(ごりょうかく)においてしん政府せいふぐん降伏ごうぶくし、戊辰戦争ぼしんせんそう終了しゅうりょうする。

 戊辰戦争ぼしんせんそうにより、しょはん財政ざいせい極度きょくど窮乏きゅうぼう藩主はんしゅはんない統制とうせいりょく喪失そうしつ勤王きんのう佐幕さばく両派りょうは分裂ぶんれつしてのはんないこうそう激化げきか上級じょうきゅう武士ぶしたい下級かきゅう武士ぶし将校しょうこうたい兵士へいし文官ぶんかんたい武官ぶかんなどの対立たいりつ領土りょうど飛地とびち(とびち)・いれぐみ(いりくみ)関係かんけい矛盾むじゅん顕在けんざい、その広範こうはんあらわれ、はん体制たいせい解体かいたいおおきく促進そくしんされた。領主りょうしゅ階級かいきゅうだい部分ぶぶんは、天皇てんのうしん政権せいけんへの依存いぞんつよめ、はんぶつ(はんもつ)返上へんじょうさい交付こうふによる藩主はんしゅ権威けんい増大ぞうだい領地りょうちさい編成へんせいによりこの危機ききから脱出だっしゅつすることをねがった。この領主りょうしゅ階級かいきゅう願望がんぼうしん政府せいふ指導しどうしゃ策謀さくぼう結合けつごうし、1869ねん版籍はんせき奉還ほうかん(はんせきほうかん)が平和へいわてき実現じつげんする。

 戊辰戦争ぼしんせんそうにより封建ほうけん領主りょうしゅ階級かいきゅう決定的けっていてき弱体じゃくたいし、封建ほうけん制度せいど終焉しゅうえん(しゅうえん)と中央ちゅうおう集権しゅうけんてき統一とういつ国家こっか樹立じゅりつ機運きうん飛躍ひやくてき増大ぞうだいさせた。また幕府ばくふ倒壊とうかいしん政権せいけん誕生たんじょうは、幕末ばくまつ以来いらいはん植民しょくみん危機ききから日本にっぽん脱出だっしゅつする可能かのうせいおおきく増大ぞうだいさせるものとなった。これらが戊辰戦争ぼしんせんそうのもつ最大さいだい意義いぎである。

原口はらぐち きよし

原口はらぐちきよしちょ戊辰戦争ぼしんせんそう』(1963・はなわ書房しょぼう)』原口はらぐちきよしちょ明治めいじ前期ぜんき地方ちほう政治せいじ研究けんきゅう うえ』(1972・はなわ書房しょぼう)』石井いしいたかしちょ維新いしん内乱ないらん』(1968・至誠しせいどう)』佐々木ささきかつちょ戊辰戦争ぼしんせんそう』(中公新書ちゅうこうしんしょ)』


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戊辰戦争ぼしんせんそう (ぼしんせんそう)

王政おうせい復古ふっこによって成立せいりつしたしん政府せいふが,反抗はんこうするしょはんぐんきゅう幕府ばくふ残存ざんそん勢力せいりょく武力ぶりょくをもって平定へいていし,統一とういつ国家こっか基礎きそかためることになった内乱ないらんである。戦乱せんらんは1868ねん明治めいじ1)つちのえたつとしにあたる1がつから69ねん5がつまで1ねんはんおよんだ。王政おうせい復古ふっこ結果けっかきゅう幕府ばくふ武力ぶりょく討伐とうばつとなえる討幕とうばくと,きゅう幕府ばくふふくめた平和へいわてきしょはん連合れんごう構想こうそうするおおやけ政体せいたいが,拮抗きっこう(きつこう)しながら連合れんごうしたしん政府せいふ成立せいりつした。武力ぶりょく討幕とうばく関東かんとう攪乱かくらん(かくらん)工作こうさくおこなってきゅう幕府ばくふぐん軍事ぐんじ行動こうどう挑発ちょうはつし,ついに1868ねん1がつ3にち大坂おおさか集結しゅうけつしたきゅう幕府ばくふぐん進撃しんげき開始かいしし,鳥羽とば伏見ふしみまも薩長さっちょうぐん交戦こうせんしたのである。かずてきおと薩長さっちょうぐんにとって,あらかじめ勝利しょうり保証ほしょうするものはなかったが,3にち装備そうび指揮しき系統けいとう欠陥けっかんをもつきゅう幕府ばくふぐん撃破げきはした。ここに戊辰戦争ぼしんせんそうはじまった。この鳥羽とば伏見ふしみせん勝利しょうりおさめたしん政府せいふは,天皇てんのう権威けんい確保かくほし,以後いご討幕とうばくぐん官軍かんぐんとしてきくあきらはたかかげて進軍しんぐんすることができた。またしん政府せいふないでも岩倉いわくら具視ともみ大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよしらの武力ぶりょく討幕とうばく指導しどうけんにぎり,西日本にしにほん大名だいみょうらは形勢けいせいてぞくぞく入京にゅうきょうはじめ,しょ外国がいこく局外きょくがい中立ちゅうりつ宣言せんげんした。江戸えどかえった徳川とくがわ慶喜よしのぶ当初とうしょ反攻はんこう計画けいかくしたが,すでにしん政府せいふないおおやけ政体せいたい勢力せいりょくうしなっており,失地しっち回復かいふくがかりがないのを恭順きょうじゅんった。かくて事実じじつじょう大勢おおぜいけっしたのである。2月,しん政府せいふは,だい総督そうとく諸道しょどう総督そうとく設置せっちし,有栖川ありすがわみやおきじん(ありすがわのみやたるひと)親王しんのうだい総督そうとくみや任命にんめいし,いわゆる朝敵ちょうてきはんたいして,開城かいじょう藩主はんしゅ謹慎きんしん勤王きんのう誓紙せいし差出さしだしなどを条件じょうけん降伏ごうぶくをいれつつ東征とうせいぐんすすめた。

 関東かんとう一帯いったいでは百姓ひゃくしょう一揆いっき毀が頻発ひんぱつし,またイギリス公使こうしパークスも江戸えど戦乱せんらん憂慮ゆうりょしてしん政府せいふ圧力あつりょくくわえ,かつ海舟かいしゅうだい総督そうとく参謀さんぼう西郷さいごう隆盛たかもりは,当初とうしょしん政府せいふ方針ほうしんより後退こうたいした無血むけつ江戸えど開城かいじょう合意ごういたっした。かくして4がつ11にち江戸城えどじょうしん政府せいふぐん接収せっしゅうされたが,なおあきらたい上野寛永寺うえのかんえいじってゲリラてき抗戦こうせんつづけ,軍備ぐんびととのわないしん政府せいふぐんも,これを圧服あっぷくできず,しん政府せいふ前途ぜんとあやぶむこえ内外ないがいおおかった。この江戸えど不安定ふあんてい情勢じょうせい東北とうほく奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいゆるし,ひいては戦乱せんらん予想よそうがい長期ちょうきさせる要因よういんになったのである。大村おおむら益次郎えきじろうあきらたい討伐とうばつし,しん政府せいふ権威けんい江戸えど確立かくりつするのは,開城かいじょうの1ヵ月かげつ,5月15にちのことである。

 江戸えど騒乱そうらん状態じょうたい継続けいぞくするうちに,慶喜よしのぶ重罪じゅうざいされた会津あいづはんひろしてんもとめる東北とうほくしょはんは,5月3にち奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめいむすび,ついで長岡ながおかはんなどの北越ほくえつしょはんがこれに合流ごうりゅうし,ここに戊辰戦争ぼしんせんそうは,しん政府せいふぐん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐんとの戦乱せんらん拡大かくだいした。とくに北越ほくえつ方面ほうめんでは,長岡ながおかはん会津あいづはん援軍えんぐんなどの同盟どうめいぐんしん政府せいふぐん一進一退いっしんいったい焦土しょうどせんつづき,7がつ29にちしん政府せいふぐん再度さいど長岡ながおかじょう接収せっしゅうによってようやく大勢おおぜいけっした。越後えちごこう白河しらかわこうから進攻しんこうしたしん政府せいふぐんは,米沢よねざわはん仙台せんだいはんなどを順次じゅんじ降伏ごうぶくさせ,9月15にちやく1ヵ月かげつ籠城ろうじょうえた会津あいづはん攻略こうりゃくし,やがて盛岡もりおかはん庄内しょうないはん軍門ぐんもんくだり,東北とうほく戦乱せんらん終了しゅうりょうした。激戦げきせんつづいた東北とうほく戦争せんそうでは,りょうぐん支配しはい民衆みんしゅう一揆いっき続発ぞくはつし,民政みんせいきょく設置せっちしたしん政府せいふ民心みんしん掌握しょうあくのうえでおおきな課題かだいったのである。

 東北とうほく戦争せんそうたたかわれているころ,きゅう幕府ばくふ艦隊かんたい乗船じょうせんして江戸えど脱走だっそうしたきゅう幕臣ばくしんらは,10がつ20日はつか蝦夷えぞ到着とうちゃくし,はこかん五稜郭ごりょうかくって,榎本えのもと武揚ぶよう総裁そうさいとする士族しぞく共和きょうわ政府せいふ樹立じゅりつ蝦夷えぞ統治とうち開拓かいたく着手ちゃくしゅした。しん政府せいふは,よくはるきたせい艦隊かんたい派遣はけん,1869ねん5がつ18にち,これを攻略こうりゃくし,戊辰戦争ぼしんせんそう終結しゅうけつした。

 しん政府せいふない戦争せんそう大局たいきょく推進すいしんさせたのは大久保おおくぼ木戸きどらの政務せいむ官僚かんりょうであり,また実戦じっせん戦略せんりゃく戦地せんち民政みんせい指導しどうぐんぼう事務じむきょく判事はんじ加勢かせい大村おおむら山県やまがた有朋ありともらの参謀さんぼうたちによっておこなわれ,かれらが維新いしん政府せいふ実権じっけんにぎるのである。またりょうぐん参加さんかしたしょはんは,ともに長期ちょうき遠征えんせい莫大ばくだい戦費せんぴによって疲弊ひへいし,これがやがて封建ほうけんてきはん割拠かっきょ体制たいせい終了しゅうりょうする重要じゅうよう要因よういんとなった。
執筆しっぴつしゃ

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戊辰戦争ぼしんせんそう
ぼしんせんそう

明治維新めいじいしん倒幕とうばく幕府ばくふとのあいだ一連いちれんたたかい。慶応けいおう4 (1868) ねん (つちのえたつとし) 1がつ3日大にちだいざかから京都きょうと進撃しんげきした会津あいづはん桑名くわなはんへいは,鳥羽とば伏見ふしみ薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん中心ちゅうしんとするしん政府せいふぐんたたかってやぶれた (→鳥羽とば伏見ふしみたたか ) 。しん政府せいふ有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう東征とうせいだい総督そうとくにんじ,大坂おおさかから江戸えど退去たいきょしたきゅう幕府ばくふ勢力せいりょくって,徳川とくがわ追討ついとうぐんこした。どう 1868ねん2がつ薩長さっちょうりょうはんへい主力しゅりょくとする 20はん以上いじょうしょへい東海道とうかいどう東山ひがしやまみち北陸ほくりくどうさんぽうかれて進発しんぱつした。徳川とくがわ慶喜よしのぶ恭順きょうじゅん態度たいどをとって謹慎きんしんし,駿河するがせまった東征とうせいぐんたいしてかつ海舟かいしゅうつうじて交渉こうしょうし,助命じょめいえに江戸城えどじょう自発じはつてき開城かいじょう約束やくそくさせた。こうした情勢じょうせいのなかで徳川とくがわ静岡しずおかうつりふうされたが,抗戦こうせんさけきゅう幕臣ばくしんたちは上野うえのにこもって王寺おうじみやこうげん法親王ほうしんのう (北白川きたしらかわみや能久よしひさ ) をいただいてあきらたい結成けっせい東征とうせいぐん抗戦こうせんしたがやぶれ,りん王寺おうじみや奥羽おううのがれた (あきらたいたたかい) 。一方いっぽう鳥羽とば伏見ふしみたたかいで賊名ぞくめいわされた会津あいづ桑名くわなりょうはんにも追討ついとうれいされた。奥羽おううしょはん会津あいづはん赦免しゃめん東征とうせいぐん斡旋あっせんしたがいれられず,ついに5月北越ほくえつしょはんをもくわえた奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいするにいたり,はなわ王寺おうじみやようして官軍かんぐん対決たいけつした。しかし奥羽おうう北越ほくえつ戦争せんそうで,優秀ゆうしゅう装備そうびをもつ薩長さっちょう中心ちゅうしんとする官軍かんぐんは,まず北越ほくえつ平定へいていし,いで9がつ会津あいづはん降伏ごうぶくさせた (→会津あいづ戦争せんそう ) 。これに先立さきだち,きゅう幕府ばくふ海軍かいぐんふく総裁そうさい榎本えのもと武揚ぶようらは,軍艦ぐんかん8せき搭乗とうじょうして江戸えど脱出だっしゅつはこかん占拠せんきょし,武器ぶき軍艦ぐんかんわたしをこばんだ。官軍かんぐんは,よく明治めいじ2 (1869) ねん5がつばこかん進撃しんげきし,はこかん戦争せんそうひらかれたが,5月 18にち五稜郭ごりょうかく開城かいじょうされ,榎本えのもとらは降伏ごうぶくして (→五稜郭ごりょうかくたたか ) ,戊辰戦争ぼしんせんそう終結しゅうけつした。この国内こくないせん結果けっかきゅう幕府ばくふ体制たいせい根底こんていから崩壊ほうかいし,明治めいじ絶対ぜったい主義しゅぎ国家こっか確立かくりつみちひらかれた。

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戊辰戦争ぼしんせんそう
ぼしんせんそう

1868ねん(明治めいじもと)1がつ鳥羽とば伏見ふしみせんから69ねん5がつはこかん戦争せんそうまでの,しん政府せいふはんしん政府せいふしょはんきゅう幕府ばくふ勢力せいりょくとの戦争せんそう。67ねん(慶応けいおう3)12月9にちしょう御所ごしょ会議かいぎ決定けっていしたぜん将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ(よしのぶ)へのかん納地のうち命令めいれい討幕とうばく挑発ちょうはつ行動こうどうにより,68ねん1がつ3にち鳥羽とば伏見ふしみせん勃発ぼっぱつ。これに勝利しょうりした討幕とうばく慶喜よしのぶ会津あいづはん追討ついとうれいはっして,東海とうかい東山ひがしやま北陸ほくりくの3どうから江戸えど進軍しんぐんした。2がつ慶喜よしのぶ謝罪しゃざい恭順きょうじゅんあらわして江戸城えどじょう退去たいきょ,4がつ11にち江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょうとなったが,きゅう幕府ばくふ主戦しゅせん抗戦こうせんつづけ,しん政府せいふは5月15にち上野うえの戦争せんそうあきらたい壊滅かいめつさせてようやく関東かんとう治安ちあん回復かいふくした。しかし8がつきゅう幕府ばくふ海軍かいぐんふく総裁そうさい榎本えのもと武揚ぶよう(たけあき)は艦隊かんたいひきいて江戸えど脱出だっしゅつ,10がつ蝦夷えぞ(えぞち)に上陸じょうりくしてはこかん蝦夷えぞとう政府せいふ樹立じゅりつした。しん政府せいふから会津あいづはん追討ついとうれいをうけていた東北とうほくしょはんは,会津あいづはんへの寛大かんだい処分しょぶんもとめる周旋しゅうせん工作こうさく失敗しっぱいわると,5月に仙台せんだい米沢よねざわりょうはん中心ちゅうしん奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいした。これが奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい発展はってんして,しん政府せいふとのあいだ東北とうほく北越ほくえつ戦争せんそう展開てんかいされたが,9月の会津あいづ戦争せんそう最後さいご同盟どうめいがわ敗北はいぼくわった。68ねん1がつ局外きょくがい中立ちゅうりつ表明ひょうめいしていた列国れっこくも12月これをし,翌年よくねん5がつ18にちばこかん戦争せんそう榎本えのもとぐん降伏ごうぶくしてわった。

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戊辰戦争ぼしんせんそう
ぼしんせんそう

1868(つちのえたつとし)〜69ねんにかけておこなわれた明治めいじしん政府せいふきゅう幕府ばくふがわとの内戦ないせん総称そうしょう
つちのえたつやくともいう。しょう御所ごしょ会議かいぎにおける徳川とくがわ慶喜よしのぶ (よしのぶ) にたいするかん納地のうち決定けってい憤激ふんげきした幕臣ばくしんおよび会津あいづ桑名くわなはんへいらは1868ねんがつ京都きょうと南部なんぶ鳥羽とば伏見ふしみ薩摩さつま長州ちょうしゅうはん中心ちゅうしんとしたしん政府せいふぐん官軍かんぐん)とたたかやぶれた(鳥羽とば伏見ふしみたたかい)。つづいてしん政府せいふぐん官軍かんぐん)は江戸えどかって進撃しんげきしたが,徳川とくがわかた戦争せんそう回避かいひし,江戸城えどじょうわたした。きゅう幕臣ばくしん主戦しゅせんおよび東北とうほく越後えちごしょはんは,あきらたい奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい組織そしきしてしん政府せいふぐん官軍かんぐん)に抵抗ていこう,しかし,9月くがつまつまでに内戦ないせんはほとんど終了しゅうりょうした。その榎本えのもと武揚ぶよう (たけあき) らがはこかん五稜郭ごりょうかく抵抗ていこうしたが,翌年よくねん鎮圧ちんあつされはん政府せいふぐん攻略こうりゃく終了しゅうりょうした。

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防府ほうふ歴史れきし用語ようごしゅう戊辰戦争ぼしんせんそう」の解説かいせつ

戊辰戦争ぼしんせんそう

1868ねん明治めいじ元年がんねん)の鳥羽とば伏見ふしみたたかい[とば・ふしみのたたかい]から、翌年よくねんの1869ねん明治めいじねん)の五稜郭ごりょうかく[ごりょうかく](現在げんざい函館はこだて)におけるたたかいまでの、きゅう幕府ばくふがわしん政府せいふがわとの一連いちれんたたかいです。なかでも長岡ながおかはん[ながおかはん](新潟にいがたけん)や会津あいづはん[あいづはん](福島ふくしまけん)でははんない戦場せんじょうとなり、おおくの死傷ししょうしゃしました。防府ほうふしょたい出兵しゅっぺいし、とお東北とうほく北海道ほっかいどうにまでおもむいた兵士へいしすくなくありません。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち戊辰戦争ぼしんせんそう言及げんきゅう

出羽いずはこく】より

…また近世きんせいちゅう後期こうき出羽でわ出身しゅっしん人物じんぶつきたでは佐藤さとう信淵のぶひろ平田ひらた篤胤あつたねなどの日本にっぽんてき学者がくしゃがあらわれ,みなみでは幕末ばくまつ清川きよかわ八郎はちろう雲井くもい竜雄たつおなど維新いしん志士ししんだ。戊辰戦争ぼしんせんそうは,結局けっきょく西南せいなん雄藩ゆうはん政府せいふぐん会津あいづ庄内しょうない中心ちゅうしんとする奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいたたかいとなったが,出羽でわしょはんなかでもきた秋田あきたはん官軍かんぐんにつき,庄内しょうないはんぐんとのあいだはげしいたたかいをまじえた。しかし米沢よねざわ山形やまがたをはじめ出羽でわしょはんだい部分ぶぶん同盟どうめいぐんとなったが,政府せいふぐん洋式ようしき軍備ぐんびのもとに次々つぎつぎ降伏ごうぶくしてやく6ヵ月かげつたたかいは終結しゅうけつした。…

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