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米沢藩(よねざわはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

米沢よねざわはんみ)よねざわはん

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん米沢よねざわはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

米沢よねざわはん (よねざわはん)

出羽でわこく置賜おきたま(おきたま)ぐん米沢よねざわげん山形やまがたけん米沢よねざわ)にはんちょういた外様とざまちゅうはん。1601ねん慶長けいちょう6)上杉うえすぎ景勝かげかつ関ヶ原せきがはらせん処分しょぶんにより会津あいづ120まんせきから米沢よねざわ30まんせきげんふうされ,以後いご上杉うえすぎは1871ねん明治めいじ4)まで米沢よねざわ定着ていちゃくした。その領地りょうちははじめ置賜おきたま伊達だて信夫しのぶぐんにわたったが,1664ねん寛文ひろふみ4)4だいつなけん急死きゅうしによって領地りょうちは15まんせきとなり,置賜おきたまぐんのうち上長井かみながいした長井ながい北条ほうじょうさとのみとなる。しかしはんだかははじめ51まんせきあまり半減はんげんは28まんせきあまりといわれた。それは1638ねん寛永かんえい15)のそう検地けんちによるもので,近世きんせい初頭しょとうにおける用水ようすいせき開削かいさく米沢盆地よねざわぼんち中央ちゅうおうおよび西部せいぶ山麓さんろく開発かいはつによるものである。米沢よねざわはん領地りょうちのわりに家臣かしんだんかずおおく,やく5000にんにのぼる。米沢よねざわ城下じょうかかくがい原屋敷はらやしきかれたほか,大身たいしん武士ぶし陪臣ばいしん集落しゅうらく農村のうそん散在さんざいし,周辺しゅうへん開発かいはつおこなわれた。はんさかい警備けいびのため領内りょうない四方しほうささえじょうもうけ,小国おぐに中山なかやま荒砥あらと鮎貝あゆかい高畠たかはた(のち糠ノ目ぬかのめ)の5ヵ所かしょには城代じょうだい(のちやくしょう)が派遣はけんされ,足軽あしがる30~40にん居住きょじゅうした。米沢よねざわはんのおもな産物さんぶつべいのほかあおからむし(あおそ),うるし蠟であった。はんはこれら特産とくさんぶつ栽培さいばい奨励しょうれいし,一定いってい値段ねだんげる初期しょき専売せんばいせい実施じっしして,はん財政ざいせい重要じゅうよう収入しゅうにゅうげんとしている。93ねん元禄げんろく6)せい蠟のためにはん営のせいとう米沢よねざわ城下じょうか長町ながまち小出こいでむら小国おぐにむらもうけた。米沢よねざわはん人口じんこうは93ねん武家ぶけやく3まん1000にん町人ちょうにんやく1まん2000にん農民のうみんやく8まん7000にん合計ごうけいやく13まん5000にんであったが,18世紀せいき後半こうはんになると人口じんこう減少げんしょういちじるしく,とくにたかられきおよび天明てんめい飢饉ききんのあとは10まんにんとしがでている。これは飢饉ききんのみでなく,農村のうそん荒廃こうはい反映はんえいでもあったから,藩政はんせいはこの荒廃こうはい財政ざいせい窮乏きゅうぼうによって危機きき状態じょうたいおちいった。

 1755ねんたかられき5),下級かきゅう藩士はんし扇動せんどうによる城下じょうかちこわし事件じけんがあり,60ねん北条ほうじょうきょうあおからむし騒動そうどうこっている。このころ,側役そばやくから郡代ぐんだい頭取とうどりとなって権力けんりょくをにぎった森平もりだいらみぎ衛門えもん新政しんせい実施じっししたが,譜代ふだいそう非難ひなんをあび,63ねん江戸えど家老がろう竹俣たけまた当綱まさつな(たけのまたまさつな)によって誅殺ちゅうさつされた。67ねん明和めいわ4)上杉うえすぎ治憲はるのり鷹山ようざん)が上杉うえすぎだい10代を家督かとくし,藩政はんせい改革かいかく実施じっしした。改革かいかく明和めいわ安永やすなが改革かいかく天明てんめい年間ねんかん(1781-89)の中断ちゅうだんおよび寛政かんせい改革かいかくけられるが,長期ちょうきにわたる。前期ぜんき改革かいかく家老がろう竹俣たけまた当綱まさつな中心ちゅうしんに,だい倹約けんやくれい実施じっしうるしくわコウゾかく100まんほん樹立じゅりつさく縮織ちぢみおり導入どうにゅうおこな一方いっぽう旧来きゅうらい御用ごよう商人しょうにんとの癒着ゆちゃくち,人材じんざい育成いくせいのため藩校はんこうきょうゆずるかん創設そうせつされた。とうつな失脚しっきゃくののち,後期こうき改革かいかくでは中老ちゅうろうのぞき善政ぜんせい(のぞぎよしまさ)が中心ちゅうしんとなり,代官だいかん制度せいど改革かいかく農村のうそん支配しはい機構きこう改革かいかく国産こくさんぶつ多様たようさく藩士はんし三男さんなん土着どちゃく奨励しょうれいなどが積極せっきょくてきすすめられた。勘定かんじょうあたま黒井くろいただしよせあなせき黒井くろいせき開削かいさくられるが,産業さんぎょうめんでは農村のうそん養蚕ようさん生糸きいとぎょう米沢よねざわ城下じょうか家中いえじゅう工業こうぎょうとしての絹織物きぬおりものがとくに発達はったつし,領内りょうないだいいち産物さんぶつとして発展はってんしたことにより,改革かいかく財政ざいせい再建さいけんなど一定いってい成果せいかおさめた。1868ねん戊辰戦争ぼしんせんそうでは奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとしてしん政府せいふぐんたたかったが同年どうねん8がつ降伏ごうぶく。71ねんはいはんにより米沢よねざわけん,のち置賜おきたまけんとなった。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)米沢よねざわはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

米沢よねざわはん
よねざわはん

出羽でわ(でわ)こく置賜おきたま(おきたま)地方ちほう領有りょうゆうしたはん関ヶ原せきがはらたたかい(1600)の処分しょぶんにより会津あいづ120まんせきから30まんせきげんふうされた上杉うえすぎ景勝かげかつ(かげかつ)を初代しょだい藩主はんしゅとする。以来いらい藩主はんしゅは、定勝さだかつ(さだかつ)、つなしょう(つなかつ)、つなけん(つなのり)、よしけん(よしのり)、そうけん(むねのり)、宗房むねふさ(むねふさ)、重定しげさだ(しげさだ)、治憲はるのり(はるのり)、ひろ(はるひろ)、斉定なりさだ(なりさだ)、斉憲なりのり(なりのり)、茂憲もちのり(しげのり)と13だいつづき、明治維新めいじいしんいたった。領地りょうち30まんせき時代じだいは、置賜おきたまぐん山形やまがたけん)と陸奥みちのく(むつ)の信夫しのぶ(しのぶ)・伊達だて(だて)りょうぐん福島ふくしまけん)にわたっていたが、1664ねん寛文ひろふみ4)つなしょう急死きゅうしによりはんそぎふうとなり、置賜おきたま地方ちほう高畠たかはた(たかはた)りょうのぞく)15まんせきふうぜられた。やく6000にん家臣かしんだん米沢よねざわ城下じょうかのほか、下級かきゅう家臣かしん城下じょうか郊外こうがい居住きょじゅうして原方はらかた(はらかた)しゅうとよばれ、このほか大身たいしん家臣かしん農村のうそん陪臣ばいしん(ばいしん)集落しゅうらくもうけていた。また米沢よねざわはんりょう地境じざかいささえじょう7かしょ(のち5かしょ)をき、元禄げんろく(げんろく)(1688~1704)以後いごはこれをやく(やくや)としょうし、足軽あしがる30にんあまり配置はいちする体制たいせい幕末ばくまつまでつづけた。1638ねん寛永かんえい15)にそう検地けんちおこない、だか51まんせきあまりし、これがはんは28まんせきとなっている。しかし、大量たいりょう家臣かしんだん生産せいさんりょくひく地域ちいきてき条件じょうけんなどにより、はやくからはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうした。

 18世紀せいきまつ、9だい藩主はんしゅ治憲はるのり鷹山ようざん(ようざん))が実施じっしした明和めいわ(めいわ)・安永やすなが(あんえい)の改革かいかくおよび寛政かんせい(かんせい)の改革かいかく有名ゆうめいである。おもな政策せいさくは、農村のうそん復興ふっこうさくうるし(うるし)・くわ(くわ)・こうぞ(こうぞ)および織物おりものなどの国産こくさんぶつ奨励しょうれい代官だいかん制度せいど改革かいかくおよび藩校はんこうきょうゆずる(こうじょう)かん設置せっち教学きょうがく振興しんこうなどであった。改革かいかく主要しゅよう人物じんぶつとして、竹俣たけまた当綱まさつな(たけのまたまさつな)・のぞき義政よしまさ(のぞきよしまさ)(太華たいか(たいか))・黒井くろいただしよせ(ただより)、また儒者じゅしゃにはわらまつはく(わらしなしょうはく)・神保じんぼつなちゅう(じんぼつなただ)などが輩出はいしゅつした。改革かいかく一定いってい成功せいこう背景はいけいには、初期しょき以来いらい特産とくさんぶつあおからむし(あおそ)・うるしろう(うるしろう)の生産せいさん流通りゅうつう掌握しょうあくをはじめ、あらたな国産こくさんぶつ養蚕ようさんぎょう織物おりもの発展はってん統制とうせい成果せいか見逃みのがすことができない。1868ねん慶応けいおう4)のつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうではおく羽越うえつ(おううえつ)列藩れっぱん同盟どうめい盟主めいしゅとしてしん政府せいふぐんたたかったが、北越ほくえつ戦争せんそうやぶれて降伏ごうぶく。1871ねん明治めいじ4)はいはん米沢よねざわけん置賜おきたまけん山形やまがたけん編入へんにゅうされた。

横山よこやま昭男あきお


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はんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん米沢よねざわはん」の解説かいせつ

よねざわはん【米沢よねざわはん

江戸えど時代じだい出羽でわ(でわ)こく置賜おきたま(おきたま)ぐん米沢よねざわげん山形やまがたけん米沢よねざわ)にはんちょうをおいた外様とざま(とざま)はん藩校はんこうきょうゆずる(こうじょう)かん関ヶ原せきがはらたたか処分しょぶんにより、会津あいづ120まんせきから30まんせきげんふう(げんぽう)された上杉うえすぎ景勝かげかつ(かげかつ)が、家老がろう直江なおえけんつづけ(なおえかねつぐ)からゆずけた米沢よねざわしろうつり、米沢よねざわはん成立せいりつした。以後いご明治維新めいじいしんまで上杉うえすぎ13だいつづいた。1664ねん寛文ひろふみ(かんぶん)4ねん)に3だいつなしょう(つなかつ)が嗣子しし(しし)をさだめないまま急死きゅうし改易かいえき(かいえき)まぬかれたものの、石高こくだかは15まんせき半減はんげんされた。相次あいつげんふうはん財政難ざいせいなんくるしみ、農民のうみん困窮こんきゅうした。1767ねん明和めいわ(めいわ)4)に9だい藩主はんしゅとなった治憲はるのり(はるのり)鷹山ようざん(ようざん))が長期ちょうきにわたり藩政はんせい改革かいかく実施じっしだい倹約けんやくれいはっするとともに、うるし(うるし)クワコウゾなどの国産こくさんひん奨励しょうれい、また越後えちご(えちご)(新潟にいがたけん)からちぢみ(ちぢ)みりを導入どうにゅう財政ざいせい再建さいけんはかった。幕末ばくまつつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうでは、おく羽越うえつ(おううえつ)列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんだったが、1868ねん明治めいじ1)の北越ほくえつ戦争せんそうしん政府せいふぐんやぶれた。71ねん廃藩置県はいはんちけん米沢よねざわけんとなり、置賜おきたまけんて76ねん山形やまがたけん編入へんにゅうされた。

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア米沢よねざわはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

米沢よねざわはん【よねざわはん】

出羽でわ(でわ)国米こくまいさわはんちょうをおいた外様とざま(とざま)はん。1601ねん初代しょだい藩主はんしゅ上杉うえすぎ景勝かげかつ(かげかつ)が会津若松あいづわかまつ(あいづわかまつ)からりょうだか30まんせきてんじてたてはん。1664ねんからのりょうだかは,出羽いずはこく置賜おきたま(おきたま)ぐんやく15まんせき。1767ねん上杉うえすぎ治憲はるのり(はるのり)(鷹山ようざん(ようざん))が藩政はんせい改革かいかくひとつとして殖産しょくさん興業こうぎょうみ,米沢よねざわ織物おりもの発達はったつさせた。つちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうではおく羽越うえつ(おううえつ)列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとしてしん政府せいふぐんたたかったが降伏ごうぶく
関連かんれん項目こうもくきょうゆずるかん出羽でわこく

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん米沢よねざわはん」の解説かいせつ

米沢よねざわはん
よねざわはん

出羽でわこく米沢よねざわ(げん山形やまがたけん米沢よねざわ)をしろとする外様とざま大藩たいはん。1601ねん(慶長けいちょう6)上杉うえすぎ景勝かげかつ関ケ原せきがはら戦後せんご処分しょぶんによって,会津若松あいづわかまつ120まんせきから領地りょうち一部いちぶだった米沢よねざわ30まんせきにゅうふうして成立せいりつ以後いご13だいにわたる。64ねん(寛文ひろふみ4)3だいつなしょう嗣子ししさだめずにぼっしたため15まんせきげんふうはんりょうは,30まんせき時代じだい出羽いずはこく置賜おきたま(おきたま)ぐん陸奥みちのくこく伊達だて信夫しのぶ(しのぶ)りょうぐんげんふう置賜おきたまぐんのみ。家臣かしんだんすう会津あいづ時代じだい規模きぼ維持いじしたため,下級かきゅう武士ぶし原方はらかたしょうして城下町じょうかまちそと居住きょじゅうし,はんのうはん生活せいかついとなんだ。あおからむし(あおそ)・うるし紅花べにばなろうなどの特産とくさんぶつさんする。9だい治憲はるのり(鷹山ようざん(ようざん))によって徹底的てっていてき藩政はんせい改革かいかくおこなわれ,財政ざいせい再建さいけん絹織物きぬおりもの専売せんばいせいなどの殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく実施じっしされた。つちのえたつ(ぼしん)戦争せんそう処分しょぶんで4まんせきげんふう。1869ねん(明治めいじ2)ささえはんべい沢新田さわしんでんはん併合へいごうつめせき大広間おおひろま藩校はんこうきょうゆずるかんはいはん米沢よねざわけんとなる。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん米沢よねざわはん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

米沢よねざわはん
よねざわはん

江戸えど時代じだい出羽でわこく米沢よねざわ地方ちほう (山形やまがたけん) を領有りょうゆうしたはん慶長けいちょう6 (1601) ねん上杉うえすぎ景勝かげかつ陸奥みちのく会津あいづ (福島ふくしまけん) から 30まんせきにゅうふうしたのにはじめる。寛文ひろふみ4 (64) ねんに3だいつなしょう急死きゅうししたため吉良きら義央よしなか (きらよしなか) の長子ちょうしつなけんかさねふうしたが,のち 15まんせきげんふうされた。とおる4 (1719) ねんだい5だいよしけん (よしのり) はおとうとかつあまね (かつちか) にしん墾田こんでん1まんせき分与ぶんよしてべい沢新田さわしんでんはん創設そうせつ。 12だい斉憲なりのりだい慶応けいおう2 (1866) ねんに3まんせき加増かぞうされた。つぎ茂憲もちのり (もちのり) のだい戊辰戦争ぼしんせんそうおこり,米沢よねざわはん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐん参加さんかしたため 14まん 7000せきげんふうされて廃藩置県はいはんちけんにいたった。外様とざま江戸城えどじょう大広間おおひろまつめ

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん米沢よねざわはん」の解説かいせつ

米沢よねざわはん
よねざわはん

江戸えど時代じだい出羽いずはこく米沢よねざわ地方ちほう山形やまがたけん南部なんぶ)をりょうした外様とざまはん
中世ちゅうせい大江広元おおえのひろもと子孫しそん長井ながい居住きょじゅう。のち伊達だて長井ながいって当地とうち接収せっしゅう。1590ねん伊達だてまさしむねうつりふう会津蒲生あいづがもうきょう (がもううじさと) のりょうとなった。関ケ原せきがはらたたか1601ねん上杉うえすぎ景勝かげかつ入部にゅうぶし,以後いご30まんせき城下町じょうかまちとして繁栄はんえい。'64ねん養子ようしみとめる代償だいしょうとして15まんせきげんふうされ,幕末ばくまつ維新いしんまでつづいた。9だい治憲はるのり (はるのり) のとき藩政はんせい改革かいかく実施じっし特産とくさん米沢よねざわはじめ,はん財政ざいせい再建さいけんし,藩校はんこうきょうゆずるかん創建そうけんした。幕末ばくまつには奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんとしてしん政府せいふ抵抗ていこうした。

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デジタル大辞泉だいじせんプラス米沢よねざわはん」の解説かいせつ

米沢よねざわはん

出羽でわこく米沢よねざわげん山形やまがたけん米沢よねざわ)を本拠地ほんきょちとした外様とざまはん関ヶ原せきがはらたたかいにやぶれ、会津あいづ120まんせきから30まんせきげんふうされてにゅうふうした上杉うえすぎ景勝かげかつ初代しょだい藩主はんしゅとなり、以後いご上杉うえすぎ領有りょうゆう。9だい藩主はんしゅ治憲はるのり鷹山ようざん)による藩政はんせい改革かいかくられ、養蚕ようさん織物おりものぎょうなどが発達はったつ幕末ばくまつには奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい中心ちゅうしんだったが北越ほくえつ戦争せんそうやぶ降伏ごうぶくした。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち米沢よねざわはん言及げんきゅう

上杉うえすぎ治憲はるのり】より

だい10代米沢よねざわ藩主はんしゅ江戸えど時代じだい名君めいくん一人ひとり。…

すすむのう】より

… 中期ちゅうき以降いこうになると,領主りょうしゅ財政ざいせいなおしを意図いとした藩政はんせい改革かいかく一環いっかんとして,流通りゅうつう過程かていでの施策しさく対応たいおうしたすすむのうかれる。米沢よねざわはんでは財政ざいせい整理せいり必要ひつようからしょつぎさんなん土着どちゃく督励とくれいし,1801ねん(とおる1)に酒田さかた本間ほんま信四郎のぶしろうなどからの借用しゃくようきんすすむのうきんづけてしん百姓ひゃくしょうおっとしょく(ぶじき)・家作かさく資材しざい資金しきん給付きゅうふし,士分しぶん土着どちゃく促進そくしんして開墾かいこんをあげた。他方たほう蚕桑こぐわやくきょくもうけて養蚕ようさん指導しどうおこない,家中いえじゅう工業こうぎょうをおこして織物おりもの特産とくさんちからそそいだ。…

出羽いずはこく】より

…17世紀せいき初頭しょとうかくはんともそう検地けんち実施じっしして,実際じっさいむらだか把握はあくしたが,はんだか幕府ばくふ朱印しゅいんだかたいして大幅おおはば増加ぞうかをみている。たとえば表高おもてだか30まんせき米沢よねざわはんだかは51まんせきあまり秋田あきたはん(20まんせき)はだか30まんせきあまりちだした。1647ねん(正保しょうほう4)の出羽いずはこく絵図えずによれば,置賜おきたま村山むらやま最上もがみ田川たがわ櫛引くしびき遊佐ゆさ油利ゆり雄勝おがつひらかり(平鹿ひらか),山本やまもと豊嶋とよしま秋田あきた檜山ひやまの13ぐんがあり,石高こくだか合計ごうけいは95まんせきあまりで,その領域りょういき佐竹さたけ(秋田あきた),上杉うえすぎ(米沢よねざわ),松平まつだいら(山形やまがた),酒井さかい(鶴岡つるおか)などのほか幕府ばくふ代官だいかんりょう(11まんせきあまり),寺社じしゃりょう(1まん7000せきあまり)など14に色分いろわけしているが,その石高こくだか合計ごうけい幕府ばくふへのとどけだかおなじである。…

直江なおえけんつづけ】より

小田原おだわらさんじんなど豊臣とよとみ政権せいけん軍役ぐんえき奉仕ほうしのため,検地けんち実施じっし石高こくだかせい採用さいようによる知行ちぎょうせい軍役ぐんえき調整ちょうせい整備せいび上方かみがた駐在ちゅうざい朝鮮ちょうせん出陣しゅつじんなどにともなう通商つうしょう関係かんけい掌握しょうあく灌漑かんがい排水はいすい工事こうじ新田にった開発かいはつ,さらに当時とうじ領国りょうごく経済けいざいにとって最大さいだい収益しゅうえきをもたらした鉱山こうざん開発かいはつなど行財政ぎょうざいせい軍事ぐんじ外交がいこう殖産しょくさん興業こうぎょうとあらゆるめんおよんだ。米沢よねざわは,関ヶ原せきがはら敗戦はいせん処理しょり,とりわけげんふうによる家中いえじゅう整理せいり課題かだいとなったが,譜代ふだい家臣かしんげんずることなく,米沢よねざわはん基礎きそかためることに成功せいこうした。自身じしん学芸がくげいこのみ,そうばんの《史記しき》《漢書かんしょ》《こう漢書かんしょ》(重要じゅうよう文化財ぶんかざい)はけんつづけ蔵書ぞうしょだったものだし,《文選ぶんせん》30さつ刊行かんこうおこなうなど文化ぶんかてき業績ぎょうせきにもみるべきものがおおい。…

藩政はんせい改革かいかく】より

…だから,大名だいみょう補佐ほさする執政しっせいめぐまれるとき,藩政はんせいさい構築こうちくざす藩政はんせい改革かいかくがみられることになる。この典型てんけいとしては,肥後ひご熊本くまもとはん54まんせきいだだい6だい細川ほそかわ重賢しげかた(しげかた)と家老がろうほりまさるめい関係かんけい陸奥みちのく会津あいづはん28まんせきだい5だい松平まつだいら容頌かたのぶ(かたのぶ)と家老がろう田中たなかげんおさむとの関係かんけい,そして,出羽いずは米沢よねざわはん15まんせきだい10代上杉うえすぎ治憲はるのり(はるのり)(鷹山ようざん)と改革かいかく代表だいひょうする竹俣たけまた当綱まさつな(たけのまたまさつな)との関係かんけいをあげることができよう。 上杉うえすぎ治憲はるのり名君めいくん典型てんけいであったことはよくられているが,かれ日向ひなたこく高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月あきづき次男じなんとしてまれ,部屋住へやずみがりの辛酸しんさんをなめていた。…

三谷みたにさんきゅうろう】より

…とくに米沢よねざわ秋田あきた会津あいづなど東北とうほくしょはんへの大名だいみょうかしおこない,大坂おおさか鴻池こうのいけならしょうされた。米沢よねざわはんではさんたにろくだか700せき待遇たいぐうあたえ,金融きんゆうめんだけでなく上杉うえすぎ鷹山ようざん(ようざん)の殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくふかくかかわり,蠟,あおからむし(あおそ),絹織物きぬおりもの一手いって販売はんばいまでおこなわせていた。会津あいづはんでも天明てんめい寛政かんせい(1781‐1801)の改革かいかくさんたにだけの資金しきん調達ちょうたつ実施じっしされており,1800ねん(寛政かんせい12)にははん三谷みたにからの借金しゃっきんは10まん8000りょうおよんだという。…

※「米沢よねざわはん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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