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奇兵隊(キヘイタイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

兵隊へいたいみ)キヘイタイ

デジタル大辞泉だいじせん兵隊へいたい」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

きへい‐たい【兵隊へいたい

文久ぶんきゅう3ねん(1863)長州ちょうしゅうはん高杉たかすぎ晋作しんさくらがつくった軍隊ぐんたい武士ぶし庶民しょみんわず参加さんかみとめた。長州ちょうしゅう征伐せいばつつちのえたつぼしん戦争せんそう活躍かつやくしたが、明治めいじ2ねん(1869)はん兵制へいせい改革かいかくのために解散かいさん

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きへい‐たい【兵隊へいたい

  1. 文久ぶんきゅうさんねんいちはちろくさん)、長州ちょうしゅうはん高杉たかすぎ晉作しんさくらが創設そうせつした軍隊ぐんたい長州ちょうしゅうはんしょたいひとつ。へいとははん正規せいきへいたいするで、従来じゅうらい門閥もんばつ制度せいどにとらわれず武士ぶしのほか百姓ひゃくしょう町人ちょうにん有志ゆうし参加さんかえいべいふつらんよんこく連合れんごう艦隊かんたい下関しものせき砲撃ほうげき事件じけんさいして防衛ぼうえいにあたり、高杉たかすぎ尊攘そんじょうはんない保守ほしゅたおすのに貢献こうけんした。また、だい長州ちょうしゅう征伐せいばつ戊辰戦争ぼしんせんそうにも活躍かつやくした。明治めいじねんいちはちろくきゅうはん兵制へいせい改革かいかくにより解体かいたいしたが、脱退だったい兵士へいしによる反乱はんらんきた。

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん兵隊へいたい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

兵隊へいたい (きへいたい)

幕末ばくまつ維新いしん長州ちょうしゅうはん編成へんせいされ,維新いしん動乱どうらん活躍かつやくした混合こんごう軍事ぐんじ組織そしき結成けっせいは1863ねん文久ぶんきゅう3)6がつで,場所ばしょ下関しものせき豪商ごうしょう白石しらいし上海しゃんはい中国ちゅうごくはん植民しょくみんをまのあたりにした長州ちょうしゅう藩士はんし高杉たかすぎ晋作しんさくが,安政あんせい以降いこう長州ちょうしゅうはん軍制ぐんせい改革かいかく成果せいかって,藩主はんしゅ信任しんにんのもとにつくったのが兵隊へいたいである。ときに長州ちょうしゅうはんは,攘夷じょうい期限きげん(1863ねん5がつ10日とおか)のそとせん砲撃ほうげき結果けっかべいふつなどの反撃はんげきによって武士ぶし階級かいきゅう無力むりょくさを暴露ばくろされていた。高杉たかすぎは,〈陪臣ばいしんざつそつ藩士はんし〉の身分みぶんにかかわらず,こころざしがあれば,力量りきりょう本位ほんい兵隊へいたいへの参加さんかみとめた。

 〈へい〉のには,〈せいへい〉(はん正規まさきへい)にたいする意味いみと,ゲリラ軍事ぐんじりょくじゅう意味いみがこめられていたとみてよい。それは幕末ばくまつ外圧がいあつまくはん体制たいせい矛盾むじゅんとが交錯こうさくした危機ききてき状況じょうきょうなかで,伝統でんとうてき停滞ていたいてき社会しゃかい突破口とっぱこうともなった軍事ぐんじりょくである。《稿本こうほんもりのしげり》(1916かん増補ぞうほ訂正ていせいばん1932かん所収しょしゅうの〈きゅう長州ちょうしゅうはんしょたいひょう〉には,161のしょたい(このたい編成へんせいぐんだんあるいはくみへいともいう)がかぞえられるが,これには純然じゅんぜんたる藩士はんしたい農兵のうへいたいしょう兵隊へいたいふくまれており,兵隊へいたいはそのひとつであると同時どうじに,兵隊へいたいはこれらしょたい総称そうしょうとしても使用しようされる。《ちょうはん兵隊へいたい名鑑めいかん》に兵隊へいたいいんとしてる622めいちゅうしょう63めいのぞいた559めいについての研究けんきゅうによると,士分しぶんかく272めい(48.6%),農民のうみん237めい(42.4%),町人ちょうにん25めい(4.5%),しゃそう25めい(4.5%)の比率ひりつしめす。兵隊へいたい,庶相なかばした混合こんごう軍事ぐんじりょくであったことがわかる。この士分しぶんかくには下士かし陪臣ばいしん軽卒けいそつおおいが,農民のうみん商品しょうひん経済けいざい発展はってんした瀬戸内せとうち地帯ちたいにおけるちゅう下層かそう農民のうみんつぎ三男さんなんおお参加さんかしている。町人ちょうにんにははぎうませき下関しものせき地方ちほうものおおい。兵隊へいたいには武士ぶしてきイデオロギー要請ようせいされると同時どうじに,庶民しょみんてき要素ようそ内包ないほうしていた。兵隊へいたい人員じんいんは,1865ねん慶応けいおう1)初頭しょとうは300めいだったが,3月には定員ていいんは375めいとされ,5月には400めいとされた。総督そうとくそうかん)には高杉たかすぎのあと,河上かわかみ弥市やいちたき弥太郎やたろう赤根あかね武人たけひと山内やまうちうめ三郎さぶろう山県やまがた有朋ありともらがなっている。指揮しき系統けいとう総督そうとく伍長ごちょう隊員たいいんとなっており,意見いけん具申ぐしんもこの系統けいとうによった。しかし,幹部かんぶきゅう指揮しき合議ごうぎである〈会議かいぎしょ〉をもっていたことは注目ちゅうもくしてよい。たいぶんまわし厳格げんかくで,陣中じんちゅう他行たこう酒宴しゅえん遊興ゆうきょう淫乱いんらんこうこえ,けんか,口論こうろんきんじ,てき味方みかた批判ひはん禁止きんしされていた。

 兵隊へいたいは,1863ねん6がつ結成けっせい3ヵ月かげつ下関しものせきから小郡おごおり(おごおり)おさむばん秋穂あいおうつったが,その年末ねんまつにはふたたび下関しものせきもどり,よく64ねんもと1)8がつまでざいじん,そのとしから65ねんのはじめにかけては,高杉たかすぎ挙兵きょへいによって,しょたい解散かいさんれいしていたはん政府せいふ(いわゆる俗論ぞくろん)から主導しゅどうけんうばった。このはん内戦ないせんではみや(みやいち)・なまくも(いくも)・山口やまぐちはぎなどに転戦てんせんし,翌年よくねん7がつにかけては吉田よしだちょう駐屯ちゅうとんした。幕府ばくふとの対決たいけつざし,はん主導しゅどうけんにぎった討幕とうばく(いわゆる正義せいぎ)は,兵隊へいたい以下いかしょたい軍事ぐんじてき基盤きばんにしていたのである。兵隊へいたいだい2せいちょうにおいては幕府ばくふぐん果敢かかんたたかい,豊前ぶぜんにも出陣しゅつじんした。また,戊辰戦争ぼしんせんそうでは伏見ふしみ北越ほくえつなどに転戦てんせんし,出陣しゅつじんしたべ620めいちゅう戦死せんし74,負傷ふしょう121をかぞえた。69ねん11月の常備じょうびぐん編成へんせいはしはっしたいわゆるだつたい騒動そうどうしょたい反乱はんらん)には,兵隊へいたいしょたいともやく半数はんすう反乱はんらんした。これに農民のうみん一揆いっき同調どうちょうし,内乱ないらんをおそれた維新いしん政府せいふは,木戸きど孝允たかよし(たかよし)らを派遣はけんしてこれを鎮圧ちんあつした。

 一般いっぱんには,兵隊へいたい日本にっぽん軍隊ぐんたい原型げんけいとしているが,それは兵隊へいたい以下いかしょたい換骨奪胎かんこつだったいさせたこのしょたい反乱はんらん過程かてい無視むしすることになり,ひいては天皇てんのうせい軍隊ぐんたい本質ほんしつあやまることにもなる。また,明治維新めいじいしんろんにはつねに兵隊へいたいじゅううつしにろんじられているが,それは兵隊へいたいが,維新いしん変革へんかく権力けんりょく民衆みんしゅう接点せってんっているからにほかならない。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)兵隊へいたい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

兵隊へいたい
きへいたい

1863ねん文久ぶんきゅう3)6がつ高杉たかすぎ晋作しんさく(しんさく)によって創設そうせつされた長州ちょうしゅうはん最初さいしょ民兵みんぺいたい同年どうねん5がつ長州ちょうしゅうはん攘夷じょうい(じょうい)を決行けっこうし、下関しものせき(しものせき)海峡かいきょう通航つうこうする外国がいこくせん砲撃ほうげきした。このため同月どうげつから翌月よくげつにかけてべいふつかんから報復ほうふく攻撃こうげきけ、下関しものせき前田まえだ砲台ほうだい一時いちじ占領せんりょうされるなど苦戦くせんいられた。この難局なんきょく打開だかいするため、はん謹慎きんしんちゅう高杉たかすぎ晋作しんさく登用とうよう高杉たかすぎ下関しものせき豪商ごうしょう白石しらいし正一郎しょういちろうたくはん正規せいきぐんとはことなる民兵みんぺいたい組織そしきし、兵隊へいたいづけた。兵隊へいたい身分みぶんにこだわらず、武士ぶし陪臣ばいしん(ばいしん)、百姓ひゃくしょう町人ちょうにんなかから、500めい有志ゆうしものつのって組織そしきし、高杉たかすぎ総督そうとくとなり、幹部かんぶには実力じつりょくのあるもの任命にんめいした。庶民しょみん参加さんかしゃおおく、これまであった有志ゆうし集団しゅうだん光明寺こうみょうじとうなどもこれにくわわった。たい武器ぶき俸給ほうきゅうはんから支給しきゅうされ、庶民しょみん出身しゅっしんしゃ苗字みょうじ(みょうじ)帯刀たいとうゆるされた。兵隊へいたい駐屯ちゅうとんしょ最初さいしょ下関しものせきかれたが、のち厚狭あさ(あさ)ぐん吉田よしだむら下関しものせき大字だいじ吉田よしだ)にうつった。1865ねん慶応けいおう1)のはんない内訌ないこう(ないこう)せんにはしょたいかた主力しゅりょくとなってたたかい、翌年よくねんだい長州ちょうしゅう征伐せいばつには豊前ぶぜんこう(ぶぜんぐち)のたたかいの主力しゅりょくぐんとして活躍かつやくし、小倉こくらじょう占領せんりょうした。つづいて68ねん慶応けいおう4)つちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうでは鳥羽とば(とば)・伏見ふしみ(ふしみ)のたたかいに参加さんか、さらに北越ほくえつ戦争せんそう奮戦ふんせんした。このため戦死せんししゃ77めい戦傷せんしょう病死びょうししゃ61めい負傷ふしょうしゃやく199めいした。翌年よくねん兵制へいせい改革かいかくによりしょたい解散かいさんされた。兵隊へいたいはじめしょたい解散かいさん反対はんたいし、だつたい騒動そうどうこしてはんぐんたたかったが、やがて鎮圧ちんあつ解除かいじょされた。

広田ひろたとおるひさ

『『兵隊へいたい日記にっきぜんよんかん(1918・日本にっぽん史籍しせき協会きょうかい)』田中たなかあきらちょ幕末ばくまつ長州ちょうしゅう』(中公新書ちゅうこうしんしょ)』

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア兵隊へいたい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

兵隊へいたい【きへいたい】

1863ねん長州ちょうしゅうはん高杉たかすぎ晋作しんさくらが創設そうせつした軍隊ぐんたいへいとは正規せいきぐんでないという意味いみで,百姓ひゃくしょう町人ちょうにん中間ちゅうかん(ちゅうげん)・足軽あしがる藩士はんしべつわず,有志ゆうし実力じつりょく中心ちゅうしん主義しゅぎ入隊にゅうたいさせた。庶相なかばする軍事ぐんじ組織そしきで,はんから武器ぶき俸給ほうきゅう支給しきゅうされ近代きんだいてき訓練くんれんおこない,うませき戦争せんそうやいわゆる俗論ぞくろんから主導しゅどうけん奪取だっしゅしたはん内戦ないせんだい長州ちょうしゅう征伐せいばつつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそうなどに活躍かつやくはん兵制へいせい改革かいかくで1869ねん解体かいたい。→だつたい騒動そうどう
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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん兵隊へいたい」の解説かいせつ

兵隊へいたい
きへいたい

幕末ばくまつ維新いしん長門ながとこくはぎはんでうまれた軍事ぐんじ組織そしき高杉たかすぎ晋作しんさく(しんさく)が1863ねん(文久ぶんきゅう3)6がつ下関しものせき編成へんせいしたのが最初さいしょ混成こんせい編成へんせい幹部かんぶクラスの会議かいぎしょによる合議ごうぎ体制たいせい特徴とくちょうで,洋式ようしきされたはん軍制ぐんせいのなかにまれ,正規せいきへいたいしてへいしょうされた。ほかの洋式ようしき部隊ぶたいとともにしょたいとよばれ,その象徴しょうちょうてき存在そんざいでもあった。たい武士ぶしてき理念りねんささえられ,65ねん(慶応けいおうもと)ちゅうには定員ていいん400にんであった。はん改革かいかく軍事ぐんじてき基盤きばんとなり,はん内戦ないせんだい2長州ちょうしゅう戦争せんそう,さらにつちのえたつ(ぼしん)戦争せんそう活躍かつやくしたが,維新いしん集権しゅうけんてき常備じょうびぐん編成へんせいうごきに反発はんぱつし,69ねん(明治めいじ2)11月,しょたいとともにだつたい騒動そうどうをおこし,維新いしん政府せいふ農民のうみん一揆いっきとの結合けつごうおそれ,徹底的てっていてき弾圧だんあつした。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん兵隊へいたい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

兵隊へいたい
きへいたい

文久ぶんきゅう3 (1863) ねん長州ちょうしゅうはん結成けっせいされたしょたいのうち代表だいひょうてき軍隊ぐんたい組織そしきへいとは不正規ふせいき軍隊ぐんたい意味いみである。組織そしきにあたったのはどう藩士はんし高杉たかすぎ晋作しんさくで,身分みぶんにこだわらず,ひろどうはん農民のうみん町人ちょうにんからも有志ゆうしつのり,平民へいみんぐん発端ほったんをなした。たいはんから武器ぶき給与きゅうよ支給しきゅうけた。下関しものせき戦争せんそうだい2長州ちょうしゅう征伐せいばつでは予期よき以上いじょう勇敢ゆうかんであった。明治めいじ2 (69) ねんはん兵制へいせい改革かいかくにより解散かいさんしたが,だつたい騒動そうどうなどがおこり,内乱ないらんした。

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兵隊へいたい
きへいたい

幕末ばくまつ高杉たかすぎ晋作しんさく組織そしきした長州ちょうしゅうはん正規せいき軍隊ぐんたい
1863ねん高杉たかすぎ門閥もんばつ制度せいどにとらわれないしん軍隊ぐんたいをつくろうと計画けいかくし,足軽あしがる郷士ごうしらの下級かきゅう武士ぶし農民のうみん町人ちょうにんらで兵隊へいたい組織そしきした。'64ねん四国しこく艦隊かんたい下関しものせき砲撃ほうげき事件じけん,'66ねんだい長州ちょうしゅう征討せいとう,'68〜69ねんつちのえたつ (ぼしん) 戦争せんそうなどで活躍かつやくしたが,'69ねんはん兵制へいせい改革かいかく解散かいさん

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防府ほうふ歴史れきし用語ようごしゅう兵隊へいたい」の解説かいせつ

兵隊へいたい

1863ねん高杉たかすぎ晋作しんさく[たかすぎしんさく]がつくった軍隊ぐんたいです。足軽あしがる[あしがる]や農民のうみんなどの志願しがんしゃ組織そしきされており、江戸えど幕府ばくふをたおすとき活躍かつやくしました。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち兵隊へいたい言及げんきゅう

高杉たかすぎ晋作しんさく】より

長州ちょうしゅう藩士はんし松下まつした村塾そんじゅく逸材いつざいで,兵隊へいたい創設そうせつしたことで有名ゆうめいはぎ菊屋きくや横丁よこちょう,150せきいえまれ(ちちしょう忠太ちゅうたはは道子みちこ),めい春風しゅんぷう暢夫のぶお(ちようふ),通称つうしょう晋作しんさくひがしいちまたは和助わすけともいう。…

農兵のうへい】より

農兵のうへいたいのほとんどは平時へいじには農業のうぎょう従事じゅうじする文字もじどおりの農兵のうへいであり,恒常こうじょうてきたいをなしていないが,有志ゆうししゃつの強固きょうこたい組織そしき形成けいせいした,有志ゆうし草莽そうもう(そうもう)しょたいられる。長州ちょうしゅうはん兵隊へいたいゆうげきたいなどのしょたいはん正規せいきぐん編入へんにゅうされたが,有志ゆうししょたい代表だいひょうてき事例じれいであり,下級かきゅう武士ぶし農民のうみん町民ちょうみん差別さべつ部落ぶらくみん動員どういんし,戊辰戦争ぼしんせんそう軍事ぐんじりょく一翼いちよくとなり,討幕とうばく最強さいきょう軍隊ぐんたいとなった。このほか,各地かくち郷士ごうし豪農ごうのうひきいる草莽そうもう勤王きんのうたい戊辰戦争ぼしんせんそう官軍かんぐんがわ参戦さんせんした。…

※「兵隊へいたい」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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