(Translated by https://www.hiragana.jp/)
伏見(フシミ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

伏見ふしみみ)フシミ

デジタル大辞泉だいじせん伏見ふしみ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ふしみ【伏見ふしみ

京都きょうと南部なんぶめいきゅう伏見ふしみ豊臣とよとみ秀吉ひでよし伏見ふしみじょうきずき、江戸えど時代じだい幕府ばくふ直轄ちょっかつなだなだなら酒造しゅぞうられ、伏見ふしみなな名水めいすいしょうされる湧水わきみずがあり、桃山ももやまりょうちかくの香水こうすいごこうすい霊水れいすいとして名高なだかい。

出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん伏見ふしみ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ふしみ【伏見ふしみ

  1. [ いち ] 京都きょうと行政ぎょうせいひとつ。南部なんぶにある。平安へいあん時代じだいから貴族きぞく別荘べっそうとなり寺院じいんおお建立こんりゅうされた。豊臣とよとみ秀吉ひでよし伏見ふしみじょう築城ちくじょう城下町じょうかまちとして発達はったつ江戸えど時代じだいには淀川よどがわ水運すいうん河港かこうとして繁栄はんえいなだとならぶ銘酒めいしゅ産地さんちで、桓武かんむ天皇てんのう柏原かしわばらりょう伏見桃山ふしみももやまりょう醍醐寺だいごじ伏見ふしみ稲荷いなり大社たいしゃなどがある。昭和しょうわよんねんいちきゅうきゅう市制しせいどうろくねん京都きょうと編入へんにゅう
  2. [ ] 謡曲ようきょく宝生ほうしょうりゅう作者さくしゃしょう世阿彌ぜあみさくとも)。藤原ふじわらしゅん伏見ふしみしゃもうでると、むかし伏見ふしみみやづくりに和歌わかをよんだ伏見ふしみおう(おきな)神霊しんれいあらわれ、翁草おきなぐさ伏見ふしみ神社じんじゃのいわれをかたり、よる神楽かぐらそうする。

出典しゅってん 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん伏見ふしみ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

伏見ふしみ (ふしみ)

現在げんざい京都きょうと伏見ふしみうちで,きゅう紀伊きいぐんない深草ふかくさみなみ鳥羽とばひがしをいう。

日本書紀にほんしょき》の雄略ゆうりゃく17ねんに,土師はじれん朝夕あさゆう御膳ごぜん土器どきたてまつるためにみんみつぎしんさせた記事きじがあり,そのなかに〈やまこく俯見むら〉がえる。桓武かんむ天皇陵てんのうりょうが807ねん大同だいどう2)このうつされ,《こう次第しだい》《ひろえあくたしょう》には〈伏見ふしみさんり〉とされている。伏見ふしみさん木幡きばた(こはた)やまともいい,このがのちに豊臣とよとみ秀吉ひでよし伏見ふしみじょうとなり,さらに明治めいじ天皇陵てんのうりょうとなった。そのみなみふもと延久のべひさ年間ねんかん(1069-74)藤原ふじわら頼通よりみちたちばなしゅんつな造営ぞうえいした伏見ふしみ山荘さんそうは1093ねん寛治かんじ7)焼失しょうしつしたが,こうよう(かや)いん石田いしだ殿どのとともにさん名勝めいしょうとされていた。

 山荘さんそう付属ふぞくした土地とち藤原ふじわら荘園しょうえんであったらしく,1160ねんながれき1)白河しらかわいんちょうぶん(くだしぶみ)には,〈かれしょう領主りょうしゅしゅんつな以下いか,雖多其数,すうじゅうねん〉とある。しゅんつなおとうと家綱いえつなにこれをゆずり,家綱いえつな白河しらかわいん献上けんじょう白河しらかわいんおいみなもとゆうじんゆずり,ゆうじんはこの山荘さんそう居住きょじゅうし,伏見ふしみてらそく成就じょうじゅいん(そくじようじゆいん)・そくなりいん)をいとなんだとされている。そのゆうじん養女ようじょ鳥羽とっぱいん皇女おうじょ頌子(しようし)内親王ないしんのうでんりょう,頌子(五辻いつつじ斎院さいいん)はひらはんほん家職かしょく留保りゅうほして,領家りょうけまたはあずかしょしょくのみをあたえた。ひらはんは60ねん木幡きばたきよし妙寺みょうじりょう150まち伏見ふしみそうわたしりょうごうして,そうみんらせらんさまたげしたとしてうったえられている。この事件じけん翌年よくねんはん伏見ふしみさと建立こんりゅう居住きょじゅうしていた護法ごほうてらきた岩倉いわくらうつしている。そののち伏見ふしみそう知行ちぎょうけんはんいえおやはんでんりょうされたようである(〈ひらおやはんおけぶん〉)。ほん家職かしょくは頌子内親王ないしんのうからこう白河しらかわいん寄進きしんされ,いん長講ちょうこうどうりょうとした。91ねんたてひさ2)の〈長講ちょうこうどう所領しょりょう注文ちゅうもん〉には,〈伏見ふしみ御領ごりょう〉として,〈べい3せき6にん夫役ぶやくうつりはな30まい,菖がま)3もぐさ(からくさ)(まぐさ)1〉が記載きさいされている。こう白河しらかわいん没後ぼつごせんもんいんでんりょうされた伏見ふしみそうは,さらに持明院じみょういんみつるつたえられていった。文和ふみかず年間ねんかん(1352-56)広義こうぎもんいん寧子やすこが,大光明寺おおこうみょうじ建立こんりゅうした。このてらひかりげん光明こうみょうたかしこうの3天皇てんのうにゅうてらしている。やがて伏見ふしみそうは,たかしこう天皇てんのう皇子おうじさかえじん(よしひと)親王しんのう伏見ふしみ宮家みやけ)のつてりょうするところとなった。一時いちじ足利あしかが義満よしみつによる伏見ふしみそう没収ぼっしゅうということもあったが,また返還へんかんされ,以後いご秀吉ひでよし伏見ふしみ築城ちくじょうまで,さかえじん親王しんのう仁王におうさだなり(さだふさ)親王しんのうつたえられ,さだなりの《日記にっき》によって,伏見ふしみそう室町むろまち時代じだい初期しょき姿すがたきとつたえられることになった。

 伏見ふしみそうは〈伏見ふしみきゅうさと〉としょうされる9むら構成こうせいされていた。久米くめむら鷹匠たかしょうまち金札きんさつみや付近ふきん),舟戸ふなとむら淀川よどがわめんした柿ノ木浜かきのきはま付近ふきん),森村もりむら桃陵とうりょうまち付近ふきん),石井いしいむら御香宮門前ごこうぐうもんぜん付近ふきん),そくなりいんむら桃山町泰長老ももやまちょうたいちょうろう付近ふきん),ほう安寺あてらむら深草大亀谷五郎太ふかくさおおかめだにごろうたまち付近ふきん),北内ほくないむら深草ふかくさ大亀おおかめたに付近ふきん),山村さんそん谷口たにぐち--きゅう伏見ふしみじょう域内いきないこうにわ),北尾きたおむら深草大亀谷敦賀ふかくさおおかめだにつるがまち付近ふきん)である。ただこのさとめいさとすうは,史料しりょうによって異同いどうがある。伏見ふしみそう9むら鎮守ちんじゅにあたるこうみや(ごこうぐう)は石井いしいむら所在しょざいし,春秋しゅんじゅう2かい例祭れいさい猿楽さるがくもよおされたことでられる。その費用ひよう地下ちか(じげ)のさむらいそうみんとの出費しゅっぴでまかなわれた。地下ちかさむらいのなかでも有力ゆうりょくであったのは小川おがわ三木みきであり,小川おがわぜんけいおうなが20年代ねんだい伏見ふしみそう政所まんどころにんぜられており,三木みきこうみや神主かんぬししょくをもっていた。そのほか,内本うちもと下野げやおかしばなどのしょさむらいがおり,かれ地下ちかさむらい中心ちゅうしんに,伏見ふしみきゅうさと住民じゅうみん団結だんけつ武装ぶそうし,そう結合けつごうによってとなりきょうとのさかいしょうろん用水ようすい草苅くさかりしょうろん盗賊とうぞくとの対決たいけつなど,自治じち自衛じえいおこなっていた。そくなりいんはいった盗賊とうぞく詮議せんぎのため,こうみや住民じゅうみん起請きしょうおこなうなど,けんだん警察けいさつ裁判さいばん自治じちけんてき色彩しきさいい。

 伏見ふしみそうには,中世ちゅうせい大光明寺おおこうみょうじおよびその塔頭たっちゅう(たつちゆう),そくなりいんなどのてらあん多数たすう存在そんざいしたが,秀吉ひでよし伏見ふしみ築城ちくじょう過程かてい移転いてんしたものがおおい。大光明寺おおこうみょうじ跡地あとちには,光明こうみょうたかしこうりょう天皇陵てんのうりょうがある。また伏見ふしみ殿どの近辺きんぺん名勝めいしょうゆびがつ(しげつ)のもり観月橋かんげつきょう豊後橋ぶんごばし)の北辺ほくへん一帯いったいをいい,ひがし南西なんせい水流すいりゅう東南とうなんきょむく(おぐら)入江いりえひがしふせ見沢みさわがあり,詩文しぶんまれたが,現在げんざいきょむく干拓かんたくされ,変化へんかしている。なお伏見ふしみには歌枕うたまくらおおく,〈伏見ふしみさと〉〈伏見ふしみ田居たい〉〈伏見ふしみさわ〉〈伏見ふしみ野辺のべ〉などが,きょむく木幡山こはんさんなどとともにみこまれている。
執筆しっぴつしゃ

1592ねんぶんろく1),豊臣とよとみ秀吉ひでよしきょむくのぞ景勝けいしょう隠居いんきょしょ造営ぞうえいをはじめたが,翌年よくねんれには隠居いんきょしょ本格ほんかくてき城郭じょうかくとし,城下町じょうかまち造成ぞうせいすることをめ,94ねん2がつからゆびがつ中心ちゅうしんだい土木どぼく工事こうじこした。天下てんかじん秀吉ひでよしゆびがつしろはいったのにともない,有力ゆうりょくしょ大名だいみょう伏見ふしみしゅうじゅうし,大坂おおさか伏見ふしみふねむすぶための宇治川うじがわりゅうづけえや,京都きょうと奈良なら大坂おおさか大津おおつなどを諸国しょこく伏見ふしみむすしょ街道かいどうあらたに整備せいびされ,伏見ふしみ中央ちゅうおう政治せいじ都市としにふさわしい機能きのう景観けいかんをもつにいたった。96ねんだい地震じしんしろ城下町じょうかまちはいったん破壊はかいされたが,まもなくゆびがつから伏見ふしみさん場所ばしょをかえて築城ちくじょうされ,伏見ふしみじょう城下町じょうかまちはさらに規模きぼひろげて再生さいせいした。城下町じょうかまち伏見ふしみさん西麓にしふもと中心ちゅうしん武家ぶけ社寺しゃじまち策定さくていされ,七瀬ななせがわそう外堀そとぼりとし,京町通きょうまちどおり両替りょうがえまちどおりなどの市街しがい中心ちゅうしんをつつむように外堀そとぼりほりがわ)がもうけられて舟運しゅううんにも利用りようされた。秀吉ひでよし没後ぼつご,1600ねん慶長けいちょう5)の関ヶ原せきがはらせんさいしろ城下じょうか兵火へいかかれたが,覇権はけんにぎった徳川とくがわ家康いえやす全国ぜんこく統治とうちうえから政治せいじ都市としとしての伏見ふしみ位置いち重視じゅうしして,伏見ふしみ再生さいせいをはかった。伏見ふしみ両替りょうがえまち全国ぜんこくはじめての銀座ぎんざもうけたり,京都きょうと伏見ふしみあいだ高瀬川たかせがわひらかせて舟運しゅううんつうじさせたり,書籍しょせき伏見ふしみばん版行はんこうおこなった円光寺えんこうじ誘致ゆうちしたり,伏見ふしみじょう歴代れきだい将軍しょうぐんはいにんしきおこなうなど,徳川とくがわ伏見ふしみ発展はってんうながした。

 しかし,江戸えどおよび駿府すんぷ政治せいじ中心ちゅうしんうつるにしたが伏見ふしみ地位ちい低下ていかし,伏見ふしみまちみん大坂おおさか移住いじゅう奨励しょうれいされ,伏見ふしみじょう廃棄はいきが1619ねん元和がんわ5)には決定けっていされた。23ねんの3だい将軍家しょうぐんけこう将軍しょうぐんはいにんしき伏見ふしみじょうこわされて,伏見ふしみ城下町じょうかまち時代じだいわった。はいじょうれはておそれられた伏見ふしみじょう跡地あとち城山しろやますうまんほんももじゅえられ,ぜんやまはなぶしには桃色ももいろまり,庶民しょみん花見はなみつどうようになったのは17世紀せいき後半こうはんである。こうして伏見ふしみさん桃山ももやましたしまれるようになったころ,伏見ふしみ城下町じょうかまちから京都きょうと大坂おおさかむす中継ちゅうけい商業しょうぎょう都市としへと転生てんせいした。また東海道とうかいどう大津おおつ追分おいわけから山科やましな伏見ふしみとおり,よどみから大坂おおさかへと整備せいびされたことにより,大名だいみょう行列ぎょうれつ商人しょうにん旅行りょこうしゃ宿場しゅくばまちとしても発展はってんした。行政ぎょうせいてきには伏見ふしみ奉行ぶぎょう支配しはいにあり,まちすう263,家数やかず6256は江戸えど中期ちゅうき数字すうじであるが,人口じんこうをみると江戸えど中期ちゅうきに3まんにん前後ぜんこう後期こうき天保てんぽう年間ねんかん(1830-44)には4まんにんあまり増加ぞうかしている。特産とくさんひんは,伏見ふしみ人形にんぎょう寒天かんてん花火はなびおうぎこつ団扇うちわとうたけ製品せいひん伏見ふしみのこさけなど多種たしゅにわたるが,生業せいぎょうとしては過書かしょせん高瀬舟たかせぶね伏見ふしみせん伏見ふしみしゃなどの運輸うんゆぎょう問屋とんやぎょう旅宿りょしゅくぎょうなどもすくなくなかった。幕末ばくまつには鳥羽とば伏見ふしみせん戦場せんじょうとなった。1929ねん市制しせい施行しこうしたが,31ねん京都きょうと合併がっぺいし,伏見ふしみとなった。
執筆しっぴつしゃ

出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう

日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)伏見ふしみ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

伏見ふしみ
ふしみ

京都きょうと南部なんぶ伏見ふしみ中心ちゅうしん地区ちく東部とうぶ桃山ももやま(ももやま)丘陵きゅうりょうのぞけば、だい部分ぶぶんかも(かも)かわ氾濫はんらんばら(はんらんげん)でていたいらである。JR奈良ならせん京阪けいはん電鉄でんてつ本線ほんせん近鉄きんてつ京都きょうとせん南北なんぼくつうじ、中書島ちゅうしょじま(ちゅうしょじま)で京阪けいはん電鉄でんてつ宇治うじ(うじ)せん分岐ぶんきし、名神めいしん高速こうそく道路どうろ東西とうざい交差こうさする。また近鉄きんてつ竹田たけだえき市営しえい地下鉄ちかてつ烏丸からすま(からすま)せん接続せつぞくしている。

 延久のべひさ(えんきゅう)年間ねんかん(1069~1074)ごろたちばなしゅんつな(たちばなのとしつな)が伏見ふしみ山荘さんそう造営ぞうえいして以来いらい貴紳きしん別業べつぎょうとなった。豊臣とよとみ(とよとみ)秀吉ひでよし桃山ももやま丘陵きゅうりょう伏見ふしみじょうきずいて城下町じょうかまちとして発展はってんしたが、1625ねん寛永かんえい2)江戸えど幕府ばくふによって伏見ふしみじょう解体かいたいされた。その伏見ふしみ奉行ぶぎょう(ぶぎょう)の支配しはいはいり、高瀬川たかせがわ開削かいさくで、京都きょうと大坂おおさかむすよどみ(よど)かわ水運すいうん起点きてんとしてさかえた。明治めいじ以後いご東海道とうかいどうせん開通かいつうによって淀川よどがわ水運すいうんおとろえたが、京阪けいはん電鉄でんてつ開通かいつうして京都きょうと衛星えいせい都市としとして発展はってん良質りょうしつ硬水こうすい湧出ゆうしゅつ(ゆうしゅつ)し、兵庫ひょうごけんなだ(なだ)となら酒造しゅぞうとしてられ、いまもしん高瀬川たかせがわ沿いなどにふる酒蔵さかぐらならぶ。

 なお、1929ねん昭和しょうわ4)京都きょうととの合併がっぺい前提ぜんてい伏見ふしみまち市制しせい施行しこう、1931ねん伏見ふしみ深草ふかくさ(ふかくさ)まち竹田たけだ堀内ほりうち(ほりうち)、下鳥しもとり(しもとば)、横大路よこおおじ(よこおおじ)、納所なっしょ(のうそ)、向島むこうじま(むかいじま)、醍醐だいご(だいご)の7むらとともに京都きょうと編入へんにゅうして伏見ふしみとなり、さらに1950ねん昭和しょうわ25)久我くが(くが)、羽束師はづかし(はつかし)の2むら、1957ねんよどまち編入へんにゅうした。

織田おだ武雄たけお

出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい

旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん伏見ふしみ」の解説かいせつ

伏見ふしみ
ふしみ

京都きょうと南部なんぶにある,現在げんざい伏見ふしみ中心ちゅうしん地区ちく
1594ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし伏見ふしみじょう築城ちくじょうにより城下町じょうかまち建設けんせつ。このとき宇治川うじがわ一部いちぶ改修かいしゅうし,のちだか瀬川せかわひらくわせて京都きょうと大坂おおさかあいだ淀川よどがわ水運すいうん主要しゅよう中継ちゅうけいこうとなる。伏見ふしみじょう江戸えど初期しょき破壊はかいされ,京都きょうと関門かんもんのおさえとして伏見ふしみ奉行ぶぎょうもうけられた。江戸えど中期ちゅうき以降いこう酒造しゅぞうぎょう発達はったつし,幕末ばくまつには寺田てらだ事件じけん鳥羽とば伏見ふしみたたかいなどがあった。

出典しゅってん 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばんについて 情報じょうほう

事典じてん日本にっぽん観光かんこう資源しげん伏見ふしみ」の解説かいせつ

伏見ふしみ

(岐阜ぎふけん可児かにぐん御嵩みたけまち)
中山道なかせんどうろくじゅうきゅう指定してい観光かんこう名所めいしょ

出典しゅってん 日外にちがいアソシエーツ「事典じてん日本にっぽん観光かんこう資源しげん事典じてん日本にっぽん観光かんこう資源しげんについて 情報じょうほう

世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち伏見ふしみ言及げんきゅう

山城やましろこく】より

…ことに,応仁おうにん文明ぶんめいらんになり諸国しょこく荘園しょうえんからの年貢ねんぐおさめられなくなると,山城やましろこく荘園しょうえんは,その重要じゅうようした。久我くが(こが)久我くがそう伏見ふしみ宮家みやけ伏見ふしみそうきゅうじょう東九条とうくじょうそうなどは,名字みょうじ荘園しょうえんばれるようになった。
産業さんぎょう
 諸国しょこくからの物資ぶっし京都きょうと奈良ならあつめられたために,交通こうつう要衝ようしょうには運送うんそう業者ぎょうしゃ発達はったつした。…

※「伏見ふしみ」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

出典しゅってん株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばん)」

関連かんれんをあわせて調しらべる

今日きょうのキーワード

手玉てだま

世界せかい各地かくちふるくからおこなわれている遊戯ゆうぎひとつ。日本にっぽんでは,小豆しょうずべい,じゅずだまなどを小袋こぶくろめ,5~7ふくろくみとして,これらを連続れんぞくして空中くうちゅうげ,おとさないように両手りょうてまたは片手かたてりさばき,だまかずつぎ...

手玉てだま用語ようご解説かいせつ

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android