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東海道(トウカイドウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

東海道とうかいどうみ)トウカイドウ

デジタル大辞泉だいじせん東海道とうかいどう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

とうかい‐どう〔‐ダウ〕【東海道とうかいどう

畿七どういち伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみとおとうみ駿河するが甲斐かい伊豆いず相模さがみ武蔵むさし安房あわあわ上総かずさかずさ下総しもうさしもうさ常陸ひたちひたちの15かこく
江戸えど時代じだい街道かいどういち江戸えどから太平洋たいへいよう沿いに京都きょうといた街道かいどう現在げんざい、そのだい部分ぶぶん国道こくどう1号線ごうせんかさなる。→東海道とうかいどうじゅうさん

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん東海道とうかいどう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

とうかい‐どう‥ダウ東海道とうかいどう

  1. [ いち ] 古代こだい畿七どうひとつ。伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが甲斐かい伊豆いず相模さがみ安房あわ上総かずさ下総しもうさ常陸ひたちいちよんこく東山ひがしやまどうからうつされた武蔵むさしくわえたいちこくをいう。うみみち
  2. [ ] [ いち ]諸国しょこくむすみち鎌倉かまくら時代じだい京都きょうと鎌倉かまくらむす街道かいどうとして、急速きゅうそく発達はったつ江戸えど時代じだい街道かいどうひとつとして京都きょうと江戸えどむすさんえき東海道とうかいどうじゅうさん)をいた。現在げんざいは、ほぼこれに沿って国道こくどういちごうつうじる。

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日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい東海道とうかいどう」の解説かいせつ

東海道とうかいどう
とうかいどう

畿内きないからはっ東海とうかい地方ちほう経由けいゆして東国とうごくへとつづ幹線かんせんどう。またこの道路どうろ沿って分布ぶんぷする畿外諸国しょこくをまとめた行政ぎょうせいじょう単位たんいをさす。和訓わくんはヒガシノウミノミチ。静岡しずおか県内けんない遠江とおとうみ駿河するが伊豆いずさんこくはいずれも行政ぎょうせいじょう東海道とうかいどう」にぞくし、中央ちゅうおうとのあいだでの使者ししゃ往来おうらい情報じょうほう伝達でんたつ東海道とうかいどう利用りようしておこなわれた。古代こだいには坂東ばんどう奥羽おうう諸国しょこく中央ちゅうおうとの連絡れんらくとして、東山ひがしやまどうとともに重要じゅうよう役割やくわりはたした。江戸えど時代じだい道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつ街道かいどうひとつ。

古代こだい

行政ぎょうせい単位たんいとしての東海道とうかいどうは、天武てんむいちねんろくはちさんころ成立せいりつしたとする見解けんかい有力ゆうりょくである。交通こうつうとしての東海道とうかいどうという名称めいしょうもこの時期じき確定かくていしたとかんがえられるが、畿内きないから静岡しずおか県内けんない経由けいゆして坂東ばんどうへとつづ道路どうろそのものは、むろんふるくから存在そんざいしていたであろう。静岡しずおか県内けんないには急流きゅうりゅう河川かせん中心ちゅうしんとするしょう平野へいや海岸かいがん張出はりだ山地さんち台地だいちとが断続だんぞくてきならぶが、交通こうつうとしての東海道とうかいどうはこれらを東西とうざい横断おうだんする。そのため浜名湖はまなこ天竜てんりゅう大井おおい安倍あべあべ富士ふじといった河川かせんとの接点せってんには、その渡渉としょうのためはし渡船とせん整備せいびされていたうけたまわねんろくがつきゅうにち太政官だじょうかん類聚るいじゅうさんだいかく。また政治せいじてき使者ししゃ文書ぶんしょ伝達でんたつするためえきにはえきが、交通こうつう沿いのぐんには伝馬てんまかれた。「延喜えんぎしき兵部ひょうぶしょう諸国しょこく駅伝えきでんじょうにみえる県内けんない駅家えきやは、西にしから猪鼻いのはないのはな栗原くりはらくりはら引摩いんま横尾よこおよこおはつくらはづくら以上いじょう遠江とおとうみ小川おがわこがわ横田よこたよこたいきおきつ蒲原かんばらかんばら長倉ながくらながくら横走よこはしりよこはしり以上いじょう駿河するが、このほかしきせいにない駅家えきや存在そんざいする。えきすう横走よこはしりえき〇疋、それ以外いがいはみないち〇疋であった。また伝馬てんま浜名はまなじきさとしふち磐田いわた佐野さのさや蓁原はいばら以上いじょう遠江とおとうみえきあたまましず安倍あべいおりばらいおはら富士ふじ駿河するがかくぐん横走よこはしりえき以上いじょう駿河するがかく疋がかれていた。空海くうかいさくつたえる遠江とおとうみ浜名はまな淡海たんかい弘法大師こうぼうだいし全集ぜんしゅうに、浜名湖はまなこ周辺しゅうへん描写びょうしゃとして「東海とうかい大道おおみち朱雀すじゃくす」はら漢文かんぶんという表現ひょうげんがみられる。「常陸ひたちこく風土記ふどき信太しだぐんじょうの「東海とうかい大道だいどうにして、つね陸路りくろあたまなり」といった用例ようれい参考さんこうにすれば、さん国内こくない東海道とうかいどう現実げんじつには「東海大とうかいだいどう」および遠江とおのえ駿河するが伊豆いずとよばれたとおもわれる。前掲ぜんけい淡海たんかいにみえる「駅路えきろ」のかたり東海道とうかいどうをさす言葉ことばである。げん静岡しずおか曲金まがりかねきたまがりかねきた遺跡いせき発掘はっくつされた道路どうろ遺構いこうは、側溝そっこうしん距離きょりやくいちメートルであること、周辺しゅうへんじょうさとのありかたから推定すいていできる直線ちょくせんどう痕跡こんせきとの合致がっち側溝そっこうからの「常陸ひたちこく鹿島かしまぐん」としるされた木簡もっかん出土しゅつどなどから、「東海大とうかいだいどう東海道とうかいどうあと推定すいていされている。

具体ぐたいてきなルートについては、「静岡しずおかけん編纂へんさんや「静岡しずおかけん歴史れきしみち調査ちょうさ事業じぎょう、さらには矢田やたまさるらによるじょうさと地割じわりもとにした古代こだいどう復原ふくげん研究けんきゅうなどで追究ついきゅうすすめられている。


東海道とうかいどう
とうかいどう

古代こだい

古事記こじき」や「日本書紀にほんしょき」によればやまとけんいのち日本にっぽんたけたかしあいさがむ相模さがみから走水はしりみずはしりみずはせすいうみわた途中とちゅう暴風雨ぼうふううい、おとうとたちばなうり身代みがわりとなって海中かいちゅうとうじたはなしつたえ、これは古代こだい東海道とうかいどう東京とうきょう湾口わんこうせばまった走水はしりみず付近ふきんうみわたり、対岸たいがん上総かずさ連絡れんらくしていたことを示唆しさする。またきょうちかいほうのくに上総かずさとおいほうを下総しもうさとよんだ呼称こしょうほうや、南海なんかいどう西海さいかいどう同様どうよう東海道とうかいどううみわた経路けいろたいしての名称めいしょうであることから、かつての東海道とうかいどう相模さがみこくから上総かずさこく下総しもふさこく常陸ひたちこくいたっていたと推定すいていされる。この東海道とうかいどう道筋みちすじ判然はんぜんとしないが、足柄あしがらあしがらとうげ相模さがみこくはいり、東進とうしんして三浦半島みうらはんとう横断おうだんし、走水はしりみず付近ふきん対岸たいがん上総かずさわたったものであろう。

宝亀ほうきねんなななないちいちがつそれまで東山ひがしやまどうぞくしていた武蔵むさしこくあらためて東海道とうかいどうぞくさせることとなったが、その理由りゆうとして当時とうじ東海道とうかいどうはすでに相模さがみこくから陸路りくろとお下総しもふさこくいたっており、武蔵むさしこく東海道とうかいどうぞくするほうが便利べんりであるとされている(「ぞく日本にっぽん同月どうげつななにちじょう。すでに神護かんごけいくもねんななろくはちさんがつ下総しもふさこく井上いのうえいのうえげん東京とうきょう墨田すみだ浮島うきしまうきしま河曲かわのかわわげん千葉ちば武蔵むさしこくあまぬまげん東京とうきょう杉並すぎなみか)豊島としまとしまげん東京とうきょう中央ちゅうおうか)えき東海とうかい東山ひがしやま両道りょうどう連絡れんらくするささえとしての利用りようおおいので、とくに東海道とうかいどうおもじゅんじてそれぞれえきいち〇疋をくことが決定けっていされていた(「ぞく日本にっぽん同月どうげついちにちじょう。ここにみえる東海道とうかいどうこそ相模さがみ上総かずさ両国りょうこくあいだ渡海とかいする東海道とうかいどうで、当時とうじなおこのふる東海道とうかいどう制度せいどじょうかんどうとしての生命せいめいたもっていたものとおもわれる。しかし現実げんじつには相模さがみこくから武蔵むさしこく南部なんぶ下総しもふさこくいた通路つうろ利用りよう増加ぞうかした結果けっか武蔵むさしこく東海道とうかいどう移動いどうし、従来じゅうらいささえしん東海道とうかいどうになったものと推定すいていされる。「延喜えんぎしき兵部ひょうぶしょうに「相模さがみこくえき坂本さかもと廿にじゅう疋、しょうすべ箕輪みのわ浜田はまだかくじゅう疋、伝馬てんまあしじょうあや高座こうざぐんかく」「武蔵むさしこくえき店屋みせや小高おだか大井おおい豊嶋とよしまかくじゅう疋、伝馬てんま都筑つづきたちばないつき荏原えばら豊嶋とよしまぐんかく」としるされ、「和名わみょうしょう」には相模さがみこくあしじょうあしかみ足下あしもとあししも大住おおすみおおすみ高座こうざたかくらかくぐん武蔵むさしこく都筑つづきつづきたちばないつきたちばな荏原えばらえばら豊島としまかくぐんえき家郷かきょうがあったとしるされているのが、このしん東海道とうかいどうであろう。このみち足柄峠あしがらとうげえて相模さがみこくはいり、坂本さかもとさかもとげん南足柄みなみあしがら関本せきもと付近ふきんしょうそうおふさ(のちの酒匂さかわえきか、げん小田原おだわら鴨宮かものみや付近ふきん箕輪みのわみのわげん伊勢原いせはら笠窪かさくぼせつげん平塚ひらつか市内しないせつなどがあり比定ひてい定説ていせつはない)浜田はまだはまだげん海老名えびな大谷おおやじょう浜田はまだ下浜田しもはまだかあるいはその付近ふきん比定ひていするせつなどがある)店屋みせやまちやげん東京とうきょう町田まちだ付近ふきん比定ひていするせつもあるがしょう小高おだかおだかげん川崎かわさき高津たかつ新作しんさくしょう高説こうせつがあるがしょう大井おおいおおいげん東京とうきょう品川しながわと、いったん酒匂さこさかわかわ河口かこう付近ふきんまでたあとどう東北とうほくかたにとり、国府こくふ武蔵むさしこく南部なんぶ通過つうかしたのち下総しもふさこくかっていたことがわかる。


東海道とうかいどう
とうかいどう

古代こだい畿内きないからはっし、東海とうかい地方ちほう経由けいゆして東国とうごくへといたった幹線かんせんどう。またこのみち沿いに分布ぶんぷした畿外諸国しょこくをまとめた行政ぎょうせいじょう単位たんいでもあった。律令制りつりょうせいではだいちゅう小路こうじけたうちの中路なかじにあたる。東山ひがしやまどうとともに古代こだいには畿内きない坂東ばんどう奥羽おうう諸国しょこくをつなぐ重要じゅうようみちであった。江戸えど時代じだいには、江戸えど基点きてんとして整備せいびされた街道かいどうひとつで、道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつした。江戸えど日本橋にほんばし京都きょうと三条さんじょう大橋おおはしあいだに、初宿しやけ品川しながわ宿やどから大津おおつおおつ宿やどげん滋賀しがけん大津おおつまでさん宿しゅくあったことから、さんという。

古代こだい中世ちゅうせい

律令制りつりょうせいにおいては中国ちゅうごくしゅうけんせいにならいこくぐんせいをしき、諸国しょこく畿七どう編成へんせいした。東海道とうかいどう七道しちどういちで、「ウミツミチ」「ヒムカシノウミノミチ」などともむ。「日本書紀にほんしょきたかしかみ天皇てんのういちねんじょうよんみち将軍しょうぐん派遣はけんさきいちとしてみえるが、制度せいどとしてととのえられるようになるのは天智てんじちょう以降いこうである。伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが甲斐かい伊豆いず相模さがみ武蔵むさし安房あわ上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち諸国しょこくからなる。もっとも武蔵むさしこく東海道とうかいどう所属しょぞくになるのは宝亀ほうきねんなななないちいちがつ以降いこうで、それ以前いぜん東山ひがしやまどう所属しょぞくしていた。これらの諸国しょこくへはきょうより直線ちょくせん形態けいたいをとるかんどう敷設ふせつされ、このかんどうをも東海道とうかいどうしょうした。東海道とうかいどう諸国しょこくたばねる常置じょうちかん設置せっちされていないが、臨時りんじかんである巡察じゅんさつ使あいだみん使みち単位たんいかれており、大同だいどう元年がんねんはちろく五月ごがつかれることになった観察かんさつ使みち分掌ぶんしょうし、初代しょだい東海道とうかいどう観察かんさつ使藤原ふじわら葛野くずの麻呂まろであった公卿くぎょう補任ほにん。ただし観察かんさつ使ひろじん元年がんねんはちいち〇)ろくがつ廃止はいしされ参議さんぎせいもどっている(「日本にっぽんりゃく同月どうげつはちにちじょう朝廷ちょうていから地方ちほう諸国しょこく布告ふこくされる太政官だじょうかん宣旨せんじとうみちごとにせん使つかわされたり逓送ていそう方式ほうしきにより伝達でんたつされた。かんどう設置せっち目的もくてきいち朝廷ちょうていからの下達かたつ迅速じんそくおこなうことにあり、地方ちほう諸国しょこくから朝廷ちょうてい必要ひつよう事項じこう上申じょうしんするさい交通こうつうとして使用しようされた。そのためさんやくいちろくキロ)ごとにうま乗継のりつぎや休養きゅうよう宿泊しゅくはく施設しせつである駅家えきや設置せっちされた。

初期しょきかんどうとしての東海道とうかいどう相模さがみ国府こくふると三浦みうら半島はんとうかい、その先端せんたんより東京とうきょう湾口わんこう横切よこぎ上総かずさこく上陸じょうりくし、いち南下なんかして安房あわ国府こくふかい、北上ほくじょうして千葉ちばけん市原いちはら所在しょざいした上総かずさ国府こくふいたり、そこより香取かとりかとり方面ほうめん常陸ひたち国府こくふかう本道ほんどうと、千葉ちばけん市川いちかわ所在しょざいした下総しもうさ国府こくふかうささえぶんささえしていた。「ウミツミチ」にふさわしく太平洋たいへいようがん沿いを一部いちぶ海路かいろをとりすすんでいるのであるが、相模さがみ国府こくふから陸路りくろ下総しもうさ国府こくふかわないのは武蔵むさしこく下総しもふさこくとのあいだ低地ていちたいりく十分じゅうぶんすすんでおらず、かんどう開削かいさくできなかったことによる。


東海道とうかいどう
とうかいどう

歴史れきし時代じだい、ほぼ一貫いっかんして畿内きない東国とうごくむすんだ主要しゅようみきどう古代こだいにははっ東国とうごく太平洋たいへいようがん地域ちいきとおり、常陸ひたちこくからさらに北上ほくじょう陸奥みちのくこく多賀たがたがしろげん宮城みやぎけん多賀城たがじょうたっするだいいちきゅう駅路えきろかんどう鎌倉かまくら時代じだいには近江おうみ国内こくないでは古代こだい東山ひがしやまどう東海道とうかいどうとなるため、とう街道かいどうすじ伊勢いせみち伊勢大いせおお呼称こしょう定着ていちゃくしたようである。江戸えど時代じだいには道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつ街道かいどういち

古代こだい

はじめて近江おうみ国内こくないとおるのは天智天皇てんぢてんのうろくねんろくろくななからの近江おうみ大津おおつきょう時代じだいで、大津おおつきょうみなみ道筋みちすじ瀬田せたせたかわわたり、草津くさつ付近ふきんまで東山ひがしやまどう併用へいようされ、そこで分岐ぶんきして甲賀こうがぐん南東なんとうはしり、野洲やすやすかわ支流しりゅうそまそまかわたにをさかのぼり、柘植つげつげげん三重みえけん阿山あやまぐん伊賀いがまち付近ふきんけたと推定すいていされる。みずのえさるらんのとき瀬田川せたがわはしけられていたが(「日本書紀にほんしょき天武天皇てんむてんのう元年がんねんなながつにちじょう、おそらく大津おおつきょう成立せいりつとともに建設けんせつされた東山ひがしやま東海とうかい併用へいようどうはしであった。らん初期しょき吉野よしのから美濃みのかう大海人皇子おおあまのおうじが「せきふえつむえ山口やまぐちやまぐち柘植つげあたりにさしかかったとき高市皇子たけちのおうじ大津おおつきょうし、「鹿深ろくしんかふか甲賀こうがえてやってきた同書どうしょ同年どうねんろくがつよんにちじょう皇子おうじ田中たなかしんあし麻呂まろさんせんぐんひきいさせ、「萩野はぎのたらの」に駐屯ちゅうとんさせ「くられきくらふみち」をまもらせた同年どうねんなながつにちじょう一方いっぽう大友皇子おおとものおうじ近江おうみ朝廷ちょうていぐん差向さしむけた田辺たなべしょうすみぐんは「鹿深ろくしんさんえて、のぼりいだきて、くられきに」いたっている。くられき現在げんざいじょう柘植つげ集落しゅうらくきた倉部くらべくらぶという地名ちめいのこしょうをとどめ、くられきどう甲賀こうがえるみち野洲川やすがわから杣川そまがわ河谷こうだにをたどるみちであったこと、これが当時とうじ主要しゅようどう大津おおつきょう時代じだい東海道とうかいどうとみてまちがいない。おなみずのえさるらん記事きじ柘植つげから大山おおやまおおやまえた大海人皇子おおあまのおうじかたが「ひゃくぐんはっして、鈴鹿すずか山道さんどうふさが」ぐ処置しょちこうじたとあるが同年どうねんろくがつよんにちじょう鈴鹿すずか山道さんどう鈴鹿川すずかがわ源流げんりゅうをさかのぼって野洲川やすがわ本流ほんりゅうたにくだ鈴鹿峠すずかとうげえつ山道さんどう解釈かいしゃくすれば、のち東海道とうかいどうになるべきみちすくなくとも間道かんどうひとつとしてみずのえさるらん当時とうじすでに存在そんざいしたことになる。大津おおつきょうはいとともに東海道とうかいどう近江おうみ通過つうかしなくなるが、のべれきさんねんななはちよん長岡京ながおかきょう成立せいりつ以後いご近江おうみ東海道とうかいどう復活ふっかつ東山ひがしやまどうとの併用へいようどうとして相坂あいさか逢坂おうさかせきえて近江おうみはいった。「日本にっぽんりゃくのべれきいちよんねんなながつろくにちじょうに「ひだり兵衛ひょうえたちばな入居にゅうきょけん近江おうみ若狭わかさ両国りょうこく駅路えきろ」とあるのは、文脈ぶんみゃくからいえば北陸ほくりくどうにかかわる記事きじむこともできるが、平安京へいあんきょう成立せいりつ翌年よくねんであることからすれば、近江おうみいちこく駅路えきろ若狭わかさいちこく駅路えきろとともに調査ちょうさしたとむこともできる。


東海道とうかいどう
とうかいどう

古代こだい

東海道とうかいどう名称めいしょうは、周知しゅうちのように「日本書紀にほんしょきたかしかみ天皇てんのういちねんきゅうがつじょうの、いわゆるよんみち将軍しょうぐん派遣はけんのことをしるすなかに「たけ渟川べつをもて東海とうかいつかわす」とる。より東国とうごくつうずる海沿うみぞいの道路どうろつらなる地域ちいきという意味いみであろう。大宝たいほうれい施行しこう以前いぜん伊勢いせ国内こくない道筋みちすじについては、みずのえさるらんにおける大海人皇子おおあまのおうじのとった経路けいろがそれとされる。すなわちしょによれば、吉野よしの皇子おうじは、大和やまとこく宇陀うだうだぐん大野おおのおおのげん奈良ならけん室生むろうむら伊賀いがはいり、かくれなばり名張なばり駅家えきやよこかわ名張川なばりがわか)伊賀いが駅家えきや不明ふめい伊賀いが中山なかやま不明ふめい萩野はぎのたらの不明ふめいせきふえつみえ柘植つげとおり、「大山おおやま」をえて伊勢いせ鈴鹿すずかいたるとしるされているから、加太かぶとかぶとえつ伊勢いせはいったものとみられる。いで川曲かわまがり坂下さかしたかわわのさかもとげん鈴鹿すずか山辺やまべ付近ふきんか)三重みえぐんげん四日市よっかいち采女うねめ付近ふきんか)て、朝明あさあけあさけぐん迹太とほかわ朝明川あさけがわあたりでてんあきら太神おおが遥拝ようはいし、桑名くわなぐんげん桑名くわなか)いたったとある。伊勢いせこくはいってからの道筋みちすじはほぼ現在げんざい国道こくどういちごう道筋みちすじ相当そうとうする。大和やまと平野へいや南部なんぶから奈良ならうつると、その翌年よくねんにこの東海道とうかいどう路線ろせん手直てなおしがおこなわれた。すなわち「ぞく日本にっぽん和銅わどうよんねんなないちいち正月しょうがつにちじょうにある、山城やましろこく相楽さがらそうらくぐん岡田おかだおかだえきげん加茂かもまちなどえきとともに「伊賀いがこくおもね閇郡新家しんけえき」をはじめてくとの記事きじがそれで、新家しんやにいのみ上野うえの東高倉ひがしたかくらひがしたかくら比定ひていされる。これによって東海道とうかいどう奈良ならきょうから相楽さがらぐん加茂かもかも木津きづきづかわ沿ってさかのぼり、しましまはらはらげん阿山あやまぐんから伊賀いがはいることとなったものとみとめられ、現在げんざい国鉄こくてつ関西かんさい本線ほんせんとほぼおな道筋みちすじにあたる。

京都きょうとうつされると、東海道とうかいどうふたた手直てなおしがおこなわれる。近江おうみこくから鈴鹿峠すずかとうげえる新道しんどうがそれで、「さんだい実録じつろく仁和にわねんはちはちろく五月ごがついちにちじょうに、新道しんどう開削かいさくについて実地じっち調査ちょうさおこなわれたことをしるし、同年どうねんろくがついちにちじょうに、伊勢いせひとしおう内親王ないしんのうがこの新道しんどうとおって大神宮だいじんぐうはいることを伊勢いせこく通知つうちしたともしるしている。


東海道とうかいどう
とうかいどう

古代こだい

東海道とうかいどう畿七どういちとして行政ぎょうせいじょう地域ちいきしょうした。「日本書紀にほんしょき」にはたかしかみ天皇てんのういちねんよんみち将軍しょうぐんした伝承でんしょうに「たけ渟川べつをもて東海とうかいうみつみちつかわす」とある。また、天武天皇てんむてんのういちよんねんに「東山ひがしやまどう美濃みのより以東いとう東海道とうかいどう伊勢いせより以東いとうくらいゆうらむじんとうに、なみやくまぬかれせ」とのみことのりしるす。大宝たいほう年間ねんかんなないちななよん東海道とうかいどういちさんヵ国かこく地域ちいきとし、宝亀ほうきねんなななないちにはいちヵ国かこくとした。「延喜えんぎしき」は伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが伊豆いず甲斐かい相模さがみ武蔵むさし安房あわ上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち東海道とうかいどう地域ちいきとする。

東海道とうかいどうはまたきょうからこの地域ちいきとおって常陸ひたち国府こくふげん茨城いばらきけん石岡いしおかへのみちをさした。各所かくしょ駅家えきやもうけて人馬じんば常備じょうびしたが、「延喜えんぎしき兵部ひょうぶしょうによればげん愛知あいち県内けんないえきうまうまづげん津島つしまか)しんみぞにいみぞげん名古屋なごやりょうむらふたむらげん豊明とよあけとりととりげん岡崎おかざき山綱やまつなやまつなげん岡崎おかざき渡津わたづわたつげん宝飯ほいぐん小坂井こざかいまちである。経路けいろ近江おうみから鈴鹿峠すずかとうげえて伊勢いせはいり、尾張おわり三河そうごからほぼ太平洋たいへいようがんひがしかっていた。しかし、しだいに美濃みのとおって尾張おわりはいみち利用りようされ、平安へいあん中期ちゅうきには「更級さらしな日記にっき」の筆者ひっしゃ菅原孝標女すがわらたかすえのむすめ美濃みのからきょうかえっている。

中世ちゅうせい

鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつで、東海道とうかいどう鎌倉かまくら街道かいどうとよばれ、鎌倉かまくらきょうむす重要じゅうようみちとなる。「吾妻あづまきょう文治ぶんじさんねんいちいちはちななさんがつさんにちじょうには、美濃みのこく守護しゅご新宿しんじゅくうべきことの記事きじがあり、また幕府ばくふから朝廷ちょうていへの使者ししゃ美濃みのとおっているので、これが公式こうしきみちとなったといえよう。


東海道とうかいどう
とうかいどう

古代こだいかんどう畿内きない東国とうごくむすび、房総ぼうそうから常陸ひたち陸奥みちのく多賀たがたがしろげん宮城みやぎけん多賀城たがじょうたっする駅路えきろであるが、行路こうろ時代じだいにより変遷へんせんする。神護かんごけいくもねんななろくはち段階だんかいでは東京とうきょうわんわたって上総かずさこくはいり、北上ほくじょうしてそれより香取かとりぐんなどを常陸ひたちこくかうのが本道ほんどうであることがられるが、井上いのうえいかみえき浮島うきしまうきしまえき河曲かわのかわわえきさんえき武蔵むさしこくえきとともに東山ひがしやまみち東海道とうかいどう延長えんちょう位置いちして使命しめい繁多はんたであるとして、中路なかじじゅんじてえきいち〇疋をくことになっている(「ぞく日本にっぽん同年どうねんさんがついちにちじょう香取かとりぐん方面ほうめんのいわば香取かとり香取かとりみちたいして、このさんえきすじささえどうあつかいであったが、交通こうつう伝達でんたつ経路けいろとしては本道ほんどうならぶかそれ以上いじょうであった実態じったいがうかがえる。井上いのうええき下総しもうさ国分寺こくぶんじあとから「井上いのうえ」の墨書ぼくしょ土器どきめい出土しゅつどしたことなどからげん市川いちかわ市域しいき比定ひていするせつ有力ゆうりょくとなり、同市どうし市川いちかわともいう。浮島うかしまえきげん船橋ふなばし習志野ならしの千葉ちば花見川はなみがわはなみがわ区域くいきなどの諸説しょせつがあるが、うけたまわよんねんいちいちはち〇)みなもと頼朝よりとも鷺沼さぎぬまさぎぬま旅館りょかんげん習志野ならしの宿所しゅくしょとしており(「吾妻あづまきょう同年どうねんいちがついちにちじょう注目ちゅうもくされる。


東海道とうかいどう
とうかいどう

くびさとじょうから沖縄おきなわとう東海岸ひがしかいがん沿いの西原にしはらにしばる中城なかしろなかぐしく具志川ぐしかわぐしちやー越来ごえくぐいーく金武かなたけちん名護なごなぐかくあいだきり通過つうかして国頭くにがみくんじやんあいだきりいたり、西海にしうみみちとつながる近世きんせい初期しょきにみえる主要しゅよう街道かいどう正保しょうほうこく絵図えず道筋みちすじしゅしるされ、いちさんろくまちごとに一里山いちりやまえがかれ、東海道とうかいどうでは王城おうじょうくびさとじょうから国頭くにがみあいだきり辺戸へどふいるむらげん国頭くにがみむらまでにさんヵ所かしょかぞえる。また街道かいどう横切よこぎかわ入江いりえには「わたり」の文字もじがみえる。元禄げんろく天保てんぽう両国りょうこく絵図えずにも東海道とうかいどう道筋みちすじ同様どうようえがかれている。東海道とうかいどう名称めいしょう正保しょうほうさんねん絵図えずちょううつしにのみみえ、くに絵図えずじょう記録きろくでは確認かくにんできない。絵図えずちょううつしには通過つうかあいだきりさかいからつぎきり一番いちばんちか一里山いちりやままでの距離きょりつぎのようにしるされている。

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア東海道とうかいどう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

東海道とうかいどう【とうかいどう】

(1)畿七どうひとつ。畿内きないから東方とうほう太平洋たいへいよう沿岸えんがん諸国しょこく連絡れんらくしたみち。また沿道えんどう諸国しょこく。《延喜えんぎしき》に,伊賀いが(いが)・伊勢いせ(いせ)・志摩しま(しま)・尾張おわり(おわり)・さんまいりかわ(みかわ)・遠江とおとうみ(とおとうみ)・駿河するが(するが)・伊豆いず(いず)・甲斐かい(かい)・相模さがみ(さがみ)・武蔵むさし(むさし)・安房あわ(あわ)・上総かずさ(かずさ)・下総しもうさ(しもうさ)・常陸ひたち(ひたち)の15ヵ国かこく。(2)江戸えど時代じだい街道かいどうひとつ。江戸えど京都きょうとむすもっと重要じゅうよう街道かいどうで,幕府ばくふ直轄ちょっかつ江戸えど日本橋にほんばし京都きょうと三条さんじょう大橋おおはしあいだ以下いか53の宿駅しゅくえきととのえられ,ぞく東海道とうかいどうじゅうさん品川しながわ東京とうきょう),川崎かわさき神奈川かながわ保土ヶ谷ほどがや(ほどがや),戸塚とつか藤沢ふじさわ平塚ひらつか大磯おおいそ小田原おだわら箱根はこね以上いじょう神奈川かながわけん),三島みしま沼津ぬまづはら吉原よしはら(よしわら),蒲原かんばら(かんばら),由比ゆひ(ゆい),興津おきつ江尻えじり府中ふちゅう丸子まるこ(まりこ),岡部おかべ藤枝ふじえだ島田しまだ金谷かなやにちざか(にっさか),掛川かけがわ袋井ふくろい見附みつけ浜松はままつ舞坂まいさか新居にい(あらい),白須賀しらすか(しらすか)(以上いじょう静岡しずおかけん),二川ふたかわ(ふたがわ),吉田よしだ御油ごゆ(ごゆ),赤坂あかさか藤川ふじかわ岡崎おかざきいけこいぶな(ちりゅう),鳴海なるみみや以上いじょう愛知あいちけん),桑名くわな四日市よっかいち石薬師いしやくし庄野しょうの亀山かめやませき坂下さかした以上いじょう三重みえけん),土山つちやま水口みずぐち(みなくち),石部いしべ草津くさつ大津おおつ以上いじょう滋賀しがけん)。現在げんざい国道こくどう号線ごうせんにほぼ相当そうとう
関連かんれん項目こうもく愛知あいちけん赤坂あかさか新居にいまち新居しんきょせき安房あわこく伊賀いが街道かいどう伊賀いがこく石部いしべまち伊豆いずこく伊勢路いせじ伊勢いせこくこんきりわたり磐田いわたえき駅家えきや江尻えじり大磯おおいそまち大木戸おおきど大久保おおくぼ長安ながやす大山おおやま街道かいどう岡部おかべまち小田原おだわら音羽おとわまち尾張おわりこく甲斐かいこく掛川かけがわ柏原かしわばら宿やど金谷かなやまち川越かわごえ川崎かわさき観音寺かんおんじじょう蒲原かんばらまちきた京街道きょうかいどう草津くさつ相模さがみこく薩【た】とうげよる中山なかやま静岡しずおかけん静岡しずおか七里しちりわたる品川しながわ宿やど島田しまだ志摩しまこく清水しみず下総しもうさこく宿やど宿駅しゅくえき宿やどむら大概たいがいちょう白河しらかわせき白須賀しらすか鈴鹿すずか墨俣すのまたがわせん駿河するがこくせきまちちゃつぼ道中どうちゅう土山つちやままち手越てごし宿やど遠江とおとうみこく鳥居本とりいもと中山道なかせんどう中原なかはらみちにちざか沼津ぬまづ箱根峠はこねとうげ箱根はこねせきはら番場ばんば宿やど引間ひきま常陸ひたちこく平塚ひらつか袋井ふくろい藤枝ふじえだ藤川ふじかわ藤沢ふじさわ伏見ふしみ奉行ぶぎょう二川ふたかわ保土ヶ谷ほどがや舞阪まいさかまち三河みかわこく三島みしま水口みずぐちまち武蔵むさしこく山崎やまざきとおる山中さんちゅうきょう由比ゆひまち吉田よしだ六郷ろくごうわたり

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)東海道とうかいどう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

東海道とうかいどう
とうかいどう

京師けいしより太平洋たいへいよう沿って東方とうほういた地域ちいきまたは街道かいどうめい

児玉こだまみゆき

古代こだい

たかししん(すじん)天皇てんのうのとき、よんみち将軍しょうぐん1人ひとりたけ渟川別命べつめい(たけぬかわわけのみこと)が巡視じゅんしした東路あずまじ(うみつみち)、日本にっぽんたけたかし(やまとたけるのみこと)やけいぎょう(けいこう)天皇てんのう東国とうごくおもむいたときのみち伝承でんしょうする、三浦みうら半島はんとうから房総半島ぼうそうはんとうわたるのが古代こだいみちであったのであろう。律令りつりょう(りつりょう)せいでは行政ぎょうせい区画くかく畿(ごき)七道しちどうひとつである。すなわちはじめには伊賀いが伊勢いせ(いせ)、志摩しま三河みかわ尾張おわり(おわり)、遠江とおとうみ(とおとうみ)、駿河するが(するが)、伊豆いず甲斐かい(かい)、相模さがみ(さがみ)、上総かずさ(かずさ)、下総しもうさ(しもうさ)、常陸ひたち(ひたち)の13かこくであった。718ねん養老ようろう2)上総かずさの4ぐんいて安房あわ(あわ)こくいたが、741ねん天平てんぴょう13)きゅうふくし、757ねん天平てんぴょうたから1)にふたたび安房あわこくいた。また771ねん宝亀ほうき2)に武蔵むさし(むさし)こく東山ひがしやまみち(とうさんどう)より東海道とうかいどう転属てんぞくし、これより15かこくとなった。道筋みちすじ相模さがみより武蔵むさし下総しもうさはいることとなった。行政ぎょうせいじょうでは各国かっこく国司こくしかれたほか、東海道とうかいどう全域ぜんいきたいして巡察じゅんさつ使観察かんさつ使などの派遣はけんされることもあった。これら諸国しょこくむす街道かいどう東海道とうかいどうというが、大和やまと(やまと)にあったときには、伊賀いがこくはいり、それより伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわたっしたが、山城やましろ(やましろ)にうつると、近江おうみ(おうみ)から鈴鹿すずか(すずか)とうげえて伊勢いせはいるようになった。れいせいによれば、街道かいどうにはえきもうけられて、公使こうし利用りようきょうせられたのであるが、『延喜えんぎしき(えんぎしき)』の諸国しょこく駅伝えきでんじょうには伊賀いが伊豆いず両国りょうこくには記載きさいがない。主要しゅようからはずれたことになる。これらえき所在しょざいについては明確めいかくでないところおおく、したがって古代こだい東海道とうかいどう道筋みちすじのすべてをあきらかにすることはできない。平安へいあん時代じだいはじめ802ねんのべれき21)に富士山ふじさん噴火ふんかしたため、足柄あしがら(あしがら)みちはいして「筥荷(はこねじ)」をひらいたが、翌年よくねんには足柄あしがらみち復旧ふっきゅうして、かんどうはもとにもどった。

児玉こだまみゆき

中世ちゅうせい

鎌倉かまくら時代じだいになると、鎌倉かまくら京都きょうとあいださい重要じゅうようとなり、幕府ばくふでは宿やどごとに早馬はやうま常設じょうせつするなどのことをしている。また公私こうし旅行りょこうしゃ増加ぞうかによって宿駅しゅくえき遊女ゆうじょあつまるようにもなり、天竜川てんりゅうがわほとり池田いけだ宿やど浜名はまな湖畔こはん橋本はしもと宿やどなどがとくに著名ちょめいであった。なお鎌倉かまくら時代じだいからは、鎌倉かまくら京都きょうと往来おうらいに、熱田あつた(あつた)から美濃みの(みの)みち東山ひがしやまどう近江おうみから入洛にゅうらく(にゅうらく)、またぎゃくしもらくする道筋みちすじもちいられた。戦国せんごく時代じだいには、東海道とうかいどう諸国しょこく群雄ぐんゆうきおおこり、尾張おわり織田おだ(おだ)、三河みかわ松平まつだいら徳川とくがわ)、駿河するが今川いまがわ甲斐かい武田たけだ相模さがみ北条きたじょうなどの諸氏しょし勢力せいりょくるい、それぞれの領内りょうないには伝馬てんま制度せいど発達はったつした。

児玉こだまみゆき

近世きんせい

関ヶ原せきがはらたたかいによって徳川とくがわ家康いえやす覇権はけん確立かくりつすると、1601ねん慶長けいちょう6)には東海道とうかいどうしょ宿やど伝馬てんませいもうけ、宿やどごとに36ひきうま常備じょうびさせて、公用こうよう旅行りょこうしゃまたはそれにじゅんずるもの使役しえききょうした。宿やど設置せっち一時いちじ完了かんりょうしたものではなく、戸塚とつか(とつか)宿やどは1604ねん石薬師いしやくし(いしやくし)宿やどは1616ねん元和がんわ2)、川崎かわさき宿やどは1623ねんなど逐次ちくじ追加ついかされて1624ねん寛永かんえい1)の庄野しょうの(しょうの)宿やど設立せつりつによって、江戸えど日本橋にほんばし)―京都きょうと三条さんじょう大橋おおはしあいだ品川しながわ大津おおつ宿やどの53宿しゅくととのい、通常つうじょうじゅうさん」という。ぐはぐと同意どういで、宿やどごとに人馬じんば継立つぎたて(つぎたて)をしたからである。なお大津おおつよりかれて、伏見ふしみ(ふしみ)、よどみ(よど)などよん宿しゅくだいさかいた街道かいどう東海道とうかいどうとした。そのほか東海道とうかいどうわき(わき)街道かいどうとしては、熱田あつたから伊勢湾いせわん北岸ほくがん万場まんば(まんば)、佐屋さた(さや)などのよん宿しゅく桑名くわな(くわな)にいた佐屋さやと、浜松はままつからかれて、浜名湖はまなこ北岸ほくがん気賀きが(きが)、三ヶ日みっかび(みっかび)などのさん宿しゅくとおって御油ごゆ(ごゆ)または吉田よしだほんざか(ほんさか)どおりがあった。またほん街道かいどう箱根はこね(はこね)と新居しんきょ(あらい)(こんきり(いまぎれ))と、本坂ほんざかどおり気賀きがには関所せきしょがあって、往来おうらいじん携帯けいたいひんあらためた。

 宿やど任務にんむ人馬じんば継立つぎたて旅行りょこうしゃきゅうはくおうずることにあり、人馬じんばはじうま36ひき提供ていきょう義務ぎむづけられていたが、寛永かんえい(かんえい)(1624~44)にはほん街道かいどうでは100にん、100ひきとされた。この人馬じんば幕府ばくふ公用こうよう旅行りょこうしゃ大名だいみょう公家くげ(くげ)、武士ぶしなどが指定していされたかずまでを使役しえきでき、その事務じむかく宿やど問屋場とんやばおこなった。そのほかの庶民しょみんうま(まご)やこめ(かご)かき人足ひとあし相対そうたい(あいたい)で利用りようした。東海道とうかいどうには天竜川てんりゅうがわ大井おおいがわなどのだい河川かせんがあるほか、こんきり伊勢湾いせわんなどの渡海とかいじょうもあり、ふねまたは人足ひとあしによってわたところおおく、風波ふうは大水おおみずのために交通こうつう途絶とぜつすることもまれではなかったので、それをけるために中山道なかせんどう(なかせんどう)を通行つうこうするものもあった。しかし参勤交代さんきんこうたい大名だいみょうをはじめ、東海道とうかいどう利用りようしゃはもっともおおく、それにおうじて本陣ほんじん脇本わきもとじん旅籠はたご(はたご)、あるいは茶屋ちゃやなどの設備せつびととのい、小田原おだわら外郎ういろう(ういろう)、箱根はこね細工ざいく丸子まるこ(まりこ)のとろろじる宇津うつ(うつ)ノたに(や)とうげじゅう団子だんご(とおだんご)、掛川かけがわ葛布くずふ(くずふ)、新居しんきょのうなぎ、鳴海なるみしぼ(なるみしぼ)り、桑名くわなはまぐり(はまぐり)、草津くさつうば(うば)ヶもち(もち)、大津絵おおつえなど各地かくち名産めいさん名物めいぶつおおく、旅人たびびとつうじて諸方しょほうひろめられた。

 幕府ばくふはこの重要じゅうよう街道かいどう確保かくほするために、小田原おだわら沼津ぬまづ田中たなか掛川かけがわ浜松はままつ吉田よしだげん豊橋とよはし(とよはし))、岡崎おかざき桑名くわななどにはすべて譜代ふだい(ふだい)大名だいみょう配置はいちした。それに駿府すんぷ(すんぷ)を直轄ちょっかつとし、名古屋なごや親藩しんぱんいた。将軍しょうぐん上洛じょうらくなどにはそれらの城内きうち宿所しゅくしょにあてられた。一般いっぱん旅行りょこうしゃには十返舎一九じっぺんしゃいっく(じっぺんしゃいっく)の滑稽本こっけいぼん(こっけいぼん)『東海道とうかいどうちゅう膝栗毛ひざくりげ(ひざくりげ)』や歌川うたがわ広重ひろしげ(ひろしげ)の浮世絵うきよえ東海道とうかいどうじゅうさん』などでしたしまれ、18世紀せいきまつからは伊勢いせ参宮さんぐう奈良なら大坂おおさか京都きょうとなどの参詣さんけい(さんけい)や見物けんぶつのために利用りようされた。それらの紀行きこうぶん数多かずおおのこされている。このころには行政ぎょうせい区画くかくとしての東海道とうかいどう意味いみはなくなり、幕府ばくふ巡見じゅんけん使東海とうかい地域ちいきというような範囲はんい単位たんいとするようになった。

児玉こだまみゆき

大熊おおくまくにちょ東海道とうかいどう宿駅しゅくえきとその本陣ほんじん研究けんきゅう』(1942・丸善まるぜん)』大島おおしま延次郎のぶじろうちょ日本にっぽん交通こうつう概論がいろん』(1964・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』児玉こだまみゆき豊田とよだたけしへん体系たいけい日本にっぽん叢書そうしょ24 交通こうつう』(1970・山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)』児玉こだまみゆき校訂こうてい近世きんせい交通こうつう史料しりょうしゅう よん 東海道とうかいどう宿やどむら大概たいがいちょう』(1970・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 伊賀いが 上野うえの

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 伊勢いせ 朝熊あさま

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 志摩しま 日和ひより

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 三河そうご 鳳来ほうらい

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歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 遠江とおのえ 浜名はまな

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 駿河するが 三保さんぼう

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 伊豆いず おさむぜん

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歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 下総しもふさ 銚子ちょうし

歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 常陸ひたち 鹿島かしま

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歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ 武蔵むさし 隅田すみた


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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん東海道とうかいどう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

東海道とうかいどう (とうかいどう)

地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく七道しちどう畿七どう)のひとつ。《西宮にしのみや》では〈ウヘツミチ〉〈ヒウカシノウミノミチ〉とんでいる。きた東山ひがしやまみち南西なんせい畿内きないおよび南海なんかいどう紀伊きいせっし,南東なんとう太平洋たいへいようめんしている。《日本書紀にほんしょきたかしたかしにみえる東海道とうかいどう追記ついきとみられるが,672ねん天武てんむ1)みずのえさるらん記事きじ東海とうかいぐんとあり,また685ねん東海とうかい使者ししゃとしてみやこつとむぎゅうよう派遣はけん記事きじがみえるので,その成立せいりつ天武てんむちょうまつねんもとめることができよう。《延喜えんぎしき》によれば伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが甲斐かい伊豆いず相模さがみ武蔵むさし安房あわ上総かずさ下総しもうさ常陸ひたちの15こく所属しょぞくするが,このうち武蔵むさしは771ねん宝亀ほうき2)に東山ひがしやまどうから編入へんにゅうされ,また安房あわは718ねん養老ようろう2)に上総かずさより分立ぶんりつしたものである。大化たいか前代ぜんだいから東山ひがしやまどう諸国しょこくとともに,大和やまと朝廷ちょうてい軍事ぐんじりょく供給きょうきゅうとしてとくにおもきをなしたが,律令制りつりょうせいでも防人さきもり(さきもり)やせいえびす兵士へいし供給きょうきゅうとして,重要じゅうようせいかわりはなかった。なおえきせいかんどうとしての東海道とうかいどうれいせいでは中路なかじで,各駅かくえきえき10疋をおくのが原則げんそくであった。《延喜えんぎしき》では伊勢いせ鈴鹿すずかえきより常陸ひたち薩(おさか)えきまで55えきがおかれ,最多さいたで22疋,最少さいしょうで2疋のえきをおいている。
執筆しっぴつしゃ

行政ぎょうせい管区かんくとしては古代こだいおなじく15ヵ国かこくであった。しかし1185ねん文治ぶんじ1),みなもと頼朝よりともえきせいさだめて京都きょうと鎌倉かまくらあいだ交通こうつう整備せいびをはかったので,交通こうつうとしての東海道とうかいどう近江おうみ美濃みの尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが伊豆いず相模さがみ通過つうかするこの幹線かんせん道路どうろをさすようになった。このみち平安へいあん時代じだい,すなわち《延喜えんぎしき》に記載きさいされた東海道とうかいどう比較ひかくすると,まず鈴鹿峠すずかとうげえる伊勢路いせじが,関ヶ原せきがはらえる美濃みの変更へんこうされていること,また足柄峠あしがらとうげえたのち相模さがみ国府こくふ海老名えびな(えびな))より武蔵むさし国府こくふ府中ふちゅう)にむかって内陸ないりくすすんでいたみちが,海岸かいがん沿いに鎌倉かまくら直行ちょっこうするようになったこと,さらにより鎌倉かまくらへの近道ちかみちとなる芦ノ湖あしのこ南岸なんがん箱根はこね湯坂ゆさかどうが,従来じゅうらいきた足柄あしがらみち同等どうとう利用りよう整備せいびされるようになったこととうがおもなちがいである。室町むろまち時代じだい京都きょうと鎌倉かまくらあいだは《大乗だいじょういん日記にっき目録もくろく》(応仁おうにん2ねん(1468)12月15にちじょう)によれば,そのあいだ120あまりさと,63宿しゅくある。その宿場しゅくば近江おうみでは大津おおつ勢田せた(せた),野路のじ(のじ),守山もりやまかがみ武佐むさ蒲生野かもうの(がもうの),あいさとしがわ(えちがわ),四十九院つるしいん小野おの馬場ばば番場ばんば(ばんば)),佐目さめ醒井さめがい(さめがい)),柏原かしわばらきょぞう美濃みのでは山中さんちゅう垂井たるい(たるい),赤坂あかさかぼくまた(すのまた),尾張おわりでは黒田くろだ折戸おりと下津しもつ(おりづ)),萱津かいづ(かやづ),熱田あつた(あつた),鳴海なるみ(なるみ),くつかか(くつかけ),三河そうごでははちきょう(やつはし),矢波やなみ矢作やさく(やはぎ)),さくおか山中さんちゅう赤坂あかさか渡津わたづ今橋いまはし遠江とおのえでは橋本はしもとひき(引馬(ひくま)),池田いけだ国府こくふ袋井ふくろいかかかわ掛川かけがわ(かけがわ)),西坂にしさかにちざか),きくかわ鎌塚かまづか駿河するがでは島田しまだ前島まえじま藤枝ふじえだ岡部おかべ満利子まりこ丸子まるこ(まりこ)),手越てごし国府こくふせらかわ高橋たかはし興津おきつ(おきつ),由比ゆひ(ゆひ)),蒲原かんばら(かんばら),くるまかえし伊豆いずでは三島みしま相模さがみではあしかわ湯本ゆもと小田原おだわら酒匂さこ(さかわ),ぐんすい志保しほ平塚ひらつかふところとう(ふところじま),鎌倉かまくらであった。これらの宿やどには守護しゅごかんがおかれたり,またひらかれ,遊女ゆうじょ傀儡かいらい(くぐつ)もいて繁栄はんえいしていたことが,おおくの紀行きこうぶん記録きろくによってられる。
執筆しっぴつしゃ

戦国せんごく時代じだいには松平まつだいら今川いまがわこう北条きたじょうなど東海道とうかいどう諸国しょこくちからるった大名だいみょう伝馬てんま制度せいどもうけたが,東海道とうかいどう全体ぜんたいつうずる施設しせつおこなわれなかった。関ヶ原せきがはらせん終結しゅうけつした直後ちょくごの1601ねん慶長けいちょう6)正月しょうがつ徳川とくがわ家康いえやす東海道とうかいどうしょ宿やど伝馬てんませいき,1にちに36疋までの伝馬てんま提供ていきょうめいじ,代償だいしょう居屋敷いやしきあたえた。宿やどはすでに既存きそん集落しゅうらく利用りようしたが,18ねん元和がんわ4)に箱根はこね宿やど,23ねん川崎かわさき宿やど設置せっちするなどおくれたものもある。江戸えど日本橋にほんばし)・京都きょうと三条さんじょう大橋おおはしあいだ品川しながわ川崎かわさき神奈川かながわ保土ヶ谷ほどがや戸塚とつか藤沢ふじさわ平塚ひらつか大磯おおいそ小田原おだわら箱根はこね三島みしま沼津ぬまづはら吉原よしはら蒲原かんばら由比ゆひ興津おきつ江尻えじり府中ふちゅう丸子まるこ岡部おかべ藤枝ふじえだ島田しまだ金谷かなやにちざか掛川かけがわ袋井ふくろい見附みつけ浜松はままつ舞坂まいさか新居しんきょ白須賀しらすか二川ふたかわ吉田よしだ御油ごゆ赤坂あかさか藤川ふじかわ岡崎おかざきいけこいぶな(ちりゆう),鳴海なるみみや桑名くわな四日市よっかいち石薬師いしやくし庄野しょうの亀山かめやませき坂下さかした土山つちやま水口みずぐち石部いしべ草津くさつ大津おおつの53宿しゅくがあるので,じゅうさんという。また大津おおつから伏見ふしみよどみ枚方ひらかた(ひらかた),守口もりぐちの4宿しゅくだいさかいた京街道きょうかいどう東海道とうかいどう延長えんちょうとみなされる。江戸えど京都きょうとあいだが126さと6まちあまり江戸えど大坂おおさかあいだが137さと4まちあまりであった。脇道わきみちとして,浜松はままつから浜名湖はまなこ北岸ほくがんとおって吉田よしだまたはあぶらほんざか(ほんさか)みちひめ街道かいどう)には気賀きが三ヶ日さんがにちやまかさの3宿しゅくがあり,みやから伊勢湾いせわんきためぐって桑名くわなまたは四日よっか佐屋さたには岩塚いわつか万場まんば神守かもり佐屋さたの4宿しゅくがあった。みやからは名古屋なごや墨俣すのまた大垣おおがき中山道なかせんどう垂井たるいごうする美濃みのがあるが,これが鎌倉かまくら時代じだい東海道とうかいどうひとつのみちにほぼかさなる。箱根はこねせき新居しんきょせきがあるほか,大井おおいがわ天竜川てんりゅうがわみや桑名くわなあいだ海路かいろ七里しちりわたる)などの難所なんしょがあった。しかし近世きんせいでは宿駅しゅくえき継立つぎたて人馬じんばとう施設しせつもっともすぐれ,参勤交代さんきんこうたい大名だいみょうをはじめ通行つうこうしゃおおく,つねににぎわいをみせた。おおくの紀行きこうぶんのほか,案内あんないしょおおく,歌川うたがわ広重ひろしげの《東海道とうかいどうじゅうさん》や十返舎一九じっぺんしゃいっくの《東海道とうかいどうちゅう膝栗毛ひざくりげ》などもひろ流布るふした。明治維新めいじいしん鉄道てつどう東海道とうかいどう本線ほんせん鎌倉かまくら時代じだい東海道とうかいどうひとつにおおむね沿っている。
執筆しっぴつしゃ

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん東海道とうかいどう」の解説かいせつ

東海道とうかいどう
とうかいどう

(1)古代こだい七道しちどうひとつ。伊勢湾いせわん沿岸えんがんから現在げんざい中部ちゅうぶ関東かんとうりょう地方ちほう太平洋たいへいようがんにそった地域ちいきで,伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが伊豆いず甲斐かい相模さがみ武蔵むさし(771ねん東山ひがしやまどうから移管いかん)・安房あわ上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち各国かっこく所属しょぞくする行政ぎょうせい区分くぶんであった。地方ちほうかんとして732~734ねん(天平てんぴょう4~6)に東海とうかい東山ひがしやま二道ふたみち節度せつど使,746ねん東海道とうかいどう鎮撫ちんぶ使,761~764ねん(天平てんぴょうたから5~8)に東海道とうかいどう節度せつど使設置せっちした。(2)これらの諸国しょこくむす交通こうつう東海道とうかいどうしょうし,「うみみち」ともよばれた。畿内きないからかく国府こくふじゅんむす陸路りくろ基本きほんかんどう整備せいびされ,当初とうしょ相模さがみこくから上総かずさこくへは海路かいろわたった。駅路えきろとしては中路なかじ各駅かくえきに10とうえきがおかれる原則げんそくであり,「延喜えんぎしき」では総計そうけい55えきに465とうえきをおく規定きていであった。みなもと頼朝よりともによる東国とうごく政権せいけんがうまれると,1194ねん(たてひさ5)にはだい宿やど8にん小宿こしゅく2人ふたり人夫にんぷがおかれ,もっと重要じゅうよう街道かいどうとなった。1601ねん(慶長けいちょう6)徳川とくがわ家康いえやすあらためて宿やど設定せっていして伝馬てんま常備じょうびめいじた。街道かいどうひとつ。宿駅しゅくえき品川しながわから大津おおつまで,江戸えど京都きょうとあいだの126さとあまりに53宿しゅくあり,東海道とうかいどうじゅうさん(つぎ)といわれた。また大津おおつからわかれて伏見ふしみよどみ枚方ひらかた(ひらかた)・守口もりぐちの4宿しゅくをへてだいさかいた京街道きょうかいどうふくめた137さとあまりという見方みかたもある。道中どうちゅう箱根はこね新居しんきょには関所せきしょ設置せっちされ,大井おおい天竜てんりゅう両川りょうかわ桑名くわな七里しちりわたるなど難所なんしょおおいが,参勤交代さんきんこうたい大名だいみょう参府さんぷ公家くげ通行つうこうなど交通こうつうりょう非常ひじょうおおく,文化ぶんか伝播でんぱにも重要じゅうよう役割やくわりをはたした。脇道わきみち浜松はままつから御油ごゆ(ごゆ)をむすひめ街道かいどう熱田あつた(みや)から桑名くわなむす佐屋さや(さやじ),中山道なかせんどう垂井たるい(たるい)にいた美濃みのなどがある。

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東海道とうかいどう
とうかいどう

古代こだい畿七どうひとつ。伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが甲斐かい伊豆いず相模さがみ安房あわ上総かずさ下総しもうさ常陸ひたちの 14ヵ国かこく,のちに武蔵むさしくわえられた。またこの地域ちいきとお街道かいどう呼称こしょうでもある。 30 (やく 120km) ごとにえき設置せっちし,えき常備じょうびした。鎌倉かまくら時代じだいには交通こうつうりょう増加ぞうか街道かいどうとしての重要じゅうようたかまり,江戸えど時代じだいには街道かいどうひとつにさだめられた。 53の宿駅しゅくえきがおかれ,軍事ぐんじてき意味いみから河川かせん架橋かきょうきんじられた。また箱根はこね新居しんきょなどには関所せきしょもうけられ,江戸えどへの出入でいりがきびしくかんされた。 (→新居しんきょせき , 箱根はこねせき )

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん東海道とうかいどう」の解説かいせつ

東海道とうかいどう
とうかいどう

律令制りつりょうせい畿七どうひと
江戸えど時代じだい街道かいどうひと
現在げんざい中部ちゅうぶ関東かんとう地方ちほう太平洋たいへいようがん一帯いったい地域ちいきで,伊賀いが伊勢いせ志摩しま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ (とおとうみ) ・駿河するが甲斐かい伊豆いず相模さがみ武蔵むさし安房あわ (あわ) ・上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち (ひたち) の15カ国かこく
鎌倉かまくら時代じだい以来いらい発展はってんし,江戸えど時代じだいもっと重要じゅうよう交通こうつうとなった。宿場しゅくば江戸えど京都きょうとあいだ53

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち東海道とうかいどう言及げんきゅう

はまどおり】より

福島ふくしまけん地勢ちせいをもとにひがしからはまどおり,中通なかどお会津あいづ地方ちほうの3地域ちいきけた場合ばあい地域ちいきめいひとつで,ふるくから関東かんとうから東北とうほく地方ちほうへの通路つうろであるはま街道かいどうかよっており,その街道かいどう通過つうかする周辺しゅうへん地域ちいきとしてこの名称めいしょうもちいられる。はま海道かいどうひがし(ひがし)海道かいどう海道かいどうともしょうした。現在げんざい交通こうつうとしては国道こくどう6号線ごうせんとJR常磐ときわせんつうじている。…

駅伝えきでんせい】より

えきせい律令りつりょう国家こっか強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけんてき支配しはいのもとで急速きゅうそく展開てんかいしたのにくらべて,伝馬てんませい維持いじ管理かんり国造くにのみやつこ子孫しそんである郡司ぐんじたちの古来こらい実力じつりょくによるところがおおきかったから,国家こっか権力けんりょく背後はいごにした国司こくし郡司ぐんじ圧迫あっぱく弱体じゃくたいさせる傾向けいこうつよかった律令りつりょう時代じだいには,比較的ひかくてきはやくから維持いじ管理かんり困難こんなんとなったようで,10世紀せいき初頭しょとう延喜えんぎしき伝馬てんまかれているのは全国ぜんこくで590あまりのぐんのうちの4ぶんの1にもたなくなっていたが,えきせい律令りつりょう国家こっか同時どうじ衰退すいたいしはじめ,10世紀せいき後半こうはんにはとびえき派遣はけんもまれとなり,11世紀せいきにはほとんど機能きのうしなくなった。しかしそのころから発達はったつしてきた民間みんかん商品しょうひん流通りゅうつうは,交通こうつう要地ようちにあったえきあと宿やど(しゆく)を発達はったつさせ,商人しょうにん一般いっぱん旅行りょこうしゃ利用りようできるようになり,鎌倉かまくら幕府ばくふ東海道とうかいどう宿やど周囲しゅうい荘園しょうえんから人馬じんば提供ていきょうさせてきょう鎌倉かまくらあいだ公用こうよう連絡れんらくもちい,さらに江戸えど幕府ばくふ江戸えど中心ちゅうしん東海道とうかいどう中山道なかせんどう日光にっこう道中どうちゅう奥州おうしゅう道中どうちゅう甲州こうしゅうどうちゅう街道かいどう整備せいびして,宿場しゅくば中継ちゅうけいによる公私こうし交通こうつう飛脚ひきゃく(ひきやく)による公私こうし通信つうしん便宜べんぎをはかった。宿駅しゅくえき青木あおき 和夫かずお
中国ちゅうごく
 中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか体制たいせいしたにあったぜん中国ちゅうごくにおいても,駅伝えきでんふるくより発達はったつして,そのあみ全国ぜんこくにはりめぐらされていた。…

京街道きょうかいどう】より

豊臣とよとみ秀吉ひでよし大坂おおさかよどみ伏見ふしみ築城ちくじょうのち,1594ねん(ぶんろく3)に淀川よどがわ左岸さがんぶんろくつつみ築造ちくぞうし,堤防ていぼうじょう道路どうろとして伏見ふしみ大坂おおさかあいだ近道ちかみちとしたのが起源きげんである。江戸えど幕府ばくふ道路どうろをさらに整備せいびし,京街道きょうかいどう伏見ふしみよどみ枚方ひらかた守口もりぐちの4宿駅しゅくえき設定せっていし,品川しながわから大津おおつまでのいわゆる東海道とうかいどうじゅうさんのほかにその延長えんちょうじょう宿やどとみなし,道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかついた。【いぬい ひろし】。…

街道かいどう】より

江戸えど幕府ばくふ直轄ちょっかつした主要しゅよういつつの陸上りくじょう交通こうつう江戸えど起点きてんとして四方しほうたっするみちで,東海道とうかいどう中山道なかせんどう甲州こうしゅう道中どうちゅう日光にっこう道中どうちゅう奥州おうしゅう道中どうちゅうをいう。名称めいしょうは1716ねん(とおる1)に幕府ばくふ公称こうしょう一定いっていしたが,民間みんかんでは中山道なかせんどう中仙道なかせんどう木曾きそがい(うみ)みちといい,甲州こうしゅうどうちゅう甲州こうしゅう街道かいどうということも慣用かんようされた。…

遠江とおのえこく】より

現在げんざい静岡しずおかけん西部せいぶ大井川おおいがわ以西いせい
古代こだい
 東海道とうかいどうぞくするうえこく(《延喜えんぎしき》)。国名こくめいは〈琵琶湖びわこきん淡海たんかい〉(近江おうみ)にたいする〈浜名湖はまなことお淡海たんかい〉(遠江とおとうみ)に由来ゆらいするとされている。…

※「東海道とうかいどう」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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