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伝馬(テンマ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

伝馬てんまみ)テンマ

デジタル大辞泉だいじせん伝馬てんま」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

てん‐ま【伝馬てんま

逓送ていそうよううま律令制りつりょうせいでは、えきとはべつかくぐんに5とうずつ常置じょうちして公用こうようにあてた。戦国せんごく時代じだいしょ大名だいみょう主要しゅよう道路どうろ宿駅しゅくえき常備じょうびして公用こうようにあて、江戸えど時代じだいには、幕府ばくふ主要しゅよう街道かいどうもうけ、また、一般人いっぱんじん利用りようできるものもあった。
伝馬船てんません」のりゃく

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん伝馬てんま」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

てん‐ま【伝馬てんま

  1. 名詞めいし
  2. 逓送ていそうよううまれいせいでは、主要しゅよう幹線かんせんどう設置せっちされたえき(えきば)とはべつに、かくぐんごとにひきずつ常置じょうちしてかんじん供給きょうきゅうしたうまをいう。えきがもっぱら急速きゅうそくようする通信つうしんようだったのにたいして、伝馬てんま新任しんにん国司こくし任地にんち赴任ふにん諸種しょしゅりょう使(ことりづかい)などの不急ふきゅう公用こうよう旅行りょこうしゃ利用りようした。これは平安へいあん初期しょきより衰微すいびしたが、戦国せんごく時代じだいになると、しょ大名だいみょう領内りょうない支配しはい軍隊ぐんたい輸送ゆそう必要ひつようから伝馬てんませい復活ふっかつ整備せいびにつとめ、本城ほんじょうから国境こっきょうまでの主要しゅよう幹線かんせんどう宿駅しゅくえきをおいて伝馬てんま常備じょうびし、伝令でんれい飛脚ひきゃく逓送ていそう軍需ぐんじゅ物資ぶっし輸送ゆそうにあて、伝馬てんま手形てがた発行はっこうしてその使用しよう許可きょかした。江戸えど幕府ばくふもこれを継承けいしょうし、寛永かんえい年間ねんかんいちろくよんよんよん)には制度せいどして、幕府ばくふ諸侯しょこう公用こうよう逓送ていそう機関きかんとして重要じゅうよう役割やくわりたした。宿やどつぎうま
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「凡諸どうおけえきいち。〈りゃく〉其伝馬てんまごとぐんかく」(出典しゅってんれいかい(833)廐牧)
    2. [その文献ぶんけん]〔漢書かんしょあきらみかど
  3. てんません(伝馬船てんません」のりゃく
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「てんまのなか々に、物音ものおとせばあしからんと、ともつなといてろを押立おしたてて」(出典しゅってん浄瑠璃じょうるり博多はかたしょう女郎じょろう波枕なみまくら(1718)じょう)
  4. てんまやく(伝馬てんまやく」のりゃく
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「今夜こんや夜通よどおしに村中むらなかが、伝馬てんま(テンマ)られます」(出典しゅってん歌舞伎かぶき傾城けいせいあおよう𪆐(1794)だて)

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伝馬てんま (てんま)

ぜん近代きんだい宿駅しゅくえきあいだ往復おうふく旅行りょこうしゃ貨物かもつ逓送ていそうしたうま

日本にっぽん古代こだい駅伝えきでんせいでは,中央ちゅうおう兵部ひょうぶ(ひようぶ)しょう所管しょかん緊急きんきゅう公務こうむ出張しゅっちょう公文書こうぶんしょ伝送でんそうにのみ使つかわれたえきのほかに,全国ぜんこくかくぐん郡家こおげ(ぐうけ)に5疋(ひき)ずつの伝馬てんま用意よういし,国司こくし赴任ふにん国内こくない巡視じゅんしなどに使つかうことにしていた。この伝馬てんまは,官営かんえい牧場ぼくじょう繁殖はんしょくさせ,軍団ぐんだん兵士へいし飼育しいくさせるかんなかからえらぶが,適当てきとうかんがなければぐんいねという財源ざいげん民間みんかんから購入こうにゅうし,郡家こおげ付近ふきんゆたかで人手ひとでのある飼育しいくさせる。購入こうにゅう価格かかくえき場合ばあいよりも平均へいきん2わりやすい。伝馬てんま利用りようにはつて(てんぷ)を必要ひつようとし,伝馬てんま1疋につき伝馬てんままたは伝馬てんまちょうばれる馬丁ばていがふつうは6にんずつ指定していされており,交代こうたい手綱たづなをとり,はたらいた日数にっすうだけざつ徭が免除めんじょされる。このような伝馬てんませいは,ふるくから国造くにのみやつこ(くにのみやつこ)たちがうま飼育しいく使用しようしていたことに着眼ちゃくがんして,律令りつりょう国家こっか組織そしきした制度せいどであるが,国家こっかえき重視じゅうしして伝馬てんま十分じゅうぶん保護ほごくわえなかったために,律令りつりょう時代じだいにははやくから衰退すいたいした。しかし地方ちほう交通こうつうったのはえきでなく伝馬てんまであったから,中世ちゅうせい以後いご地方ちほう分権ぶんけん時代じだいには,また伝馬てんま復活ふっかつした。
駅伝えきでんせい
執筆しっぴつしゃ

中世ちゅうせいはいって荘園しょうえんせい定着ていちゃくするとふたた伝馬てんま制度せいど復活ふっかつし,荘園しょうえん領主りょうしゅ鎌倉かまくら幕府ばくふ地頭じとうらは自己じこ所領しょりょうない物資ぶっし輸送ゆそう商品しょうひん流通りゅうつう必要ひつようせまられて伝馬てんませい実施じっしした。それは領内りょうない上層じょうそう農民のうみんやくひとつとして伝馬てんま供出きょうしゅつ義務ぎむづけたものであるが,その実態じったいはまだ具体ぐたいてきてん不明ふめいてんおおい。また鎌倉かまくら幕府ばくふでは公的こうてき伝馬てんませい施行しこうはみられず,いずれも荘園しょうえん領主りょうしゅ地頭じとうなどの私的してき運送うんそう機関きかんであった。

 荘園しょうえんせい崩壊ほうかいし,かわって大名だいみょう領国りょうごくせい形成けいせいされはじめると,大名だいみょうによっては領内りょうないにかなり制度せいどされた伝馬てんませい施行しこうがみられるようになる。それも室町むろまち幕府ばくふ守護しゅご大名だいみょう領国りょうごくではそれほど明確めいかくなものはみられないが,戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごく,とくに東国とうごくしょ大名だいみょうりょうにおいては,かなり具体ぐたいてきなことがあきらかにされている。西国さいこく場合ばあい海上かいじょう交通こうつうめる割合わりあいたかく,それほど発達はったつしていない。東国とうごくでもっともはや伝馬てんませい確認かくにんできるのは駿河するが今川いまがわりょうであり,えいただし年間ねんかん(1504-21)には宿駅しゅくえき設置せっち公用こうよう伝馬てんま徴用ちょうようがみられる。今川いまがわ文書ぶんしょによると,公用こうよう伝馬てんま使用しようする場合ばあいは1にち5疋を限度げんどに,1さと10ぜに支払しはらうことが義務ぎむづけられている。隣国りんごく甲斐かい武田たけだも,今川いまがわ制度せいどをまねて比較的ひかくてきはやくから伝馬てんませいいていた。信玄しんげんちち信虎のぶとら時期じきに,伝馬てんま手形てがた伝馬てんまじょうしょされているが,本格ほんかくてきなものはえいろく年間ねんかん(1558-70)のはじめからである。武田たけだ場合ばあい公用こうよう私用しよう両様りょうよう伝馬てんま使用しよう規定きていがあり,伝馬てんま主要しゅよう街道かいどう沿いの宿駅しゅくえきおよび周辺しゅうへん村落そんらくに,伝馬てんまやくとして義務ぎむづけていた。さらに専用せんよう伝馬てんましるしつくり,伝馬てんま使用しようしゃには手形てがた発行はっこうして,交通こうつうじょう統制とうせいきびしくしていた。やはり今川いまがわ影響えいきょうのもとで,相模さがみのち北条ほうじょうりょうでも伝馬てんませい実施じっしはやくからみられる。方法ほうほうはほぼ武田たけだりょうおなじであるが,公用こうよう伝馬てんま使用しようは1にち3疋で,1さと1ぜに駄賃だちん明確めいかく規定きていされている。さらに小田原おだわら本城ほんじょうかく地方ちほうささえじょうりょうとをむす伝馬てんませい発達はったつしており,ささえ城主じょうしゅにも伝馬てんま制度せいど整備せいび義務ぎむづけて,かなり細密さいみつ制度せいど実現じつげんされていた。越後えちご上杉うえすぎ場合ばあいにも,伝馬てんませい実施じっし徴証ちょうしょうがみられる。これら戦国せんごく大名だいみょう場合ばあい日常にちじょうてき商品しょうひん流通りゅうつうじょう機能きのうとともに,せん時期じき軍需ぐんじゅ物資ぶっし輸送ゆそうや,遠方えんぽう家臣かしんだんとの連絡れんらく必要ひつようせいからも伝馬てんま制度せいど整備せいびにはちからそそいだ。全国ぜんこく統一とういつたした徳川とくがわはやくから伝馬てんませい実施じっししており,専用せんよう伝馬てんま手形てがた発行はっこうしたり,宿駅しゅくえき(とくに東海道とうかいどう)の整備せいびちかられていた。
執筆しっぴつしゃ

徳川とくがわ家康いえやす関ヶ原せきがはらせんよく1601ねん慶長けいちょう6)東海道とうかいどう宿やど伝馬てんませいき,1宿しゅくに36疋のうま常備じょうびさせ,かわりに伝馬てんま屋敷やしきあたえた。この伝馬てんま使用しようできるのは,将軍しょうぐんめい朱印しゅいんじょう携帯けいたいしゃかぎったが,そのほかに老中ろうじゅう所司代しょしだいらの発行はっこうする証文しょうもん伝馬てんま手形てがた)を携行けいこうするものにも提供ていきょうし,これらは無賃むちんであった。朱印しゅいん証文しょうもんによって人足ひとあし使つかうこともでき,そのために寛永かんえい年中ねんじゅう(1624-44)には東海道とうかいどうしょ宿やどには100にん,100疋の人馬じんば常備じょうびさせるようになった。中山道なかせんどう以下いか街道かいどうにもこれにじゅんずる施設しせつもうけた。伝馬てんま荷物にもつははじめ32貫目かんめ駄賃だちんは40貫目かんめまでとしたが,1616ねん元和がんわ2)にはともに40貫目かんめまでとなった。朱印しゅいんまたは証文しょうもんによる伝馬てんま使用しようしゃまたは運輸うんゆ物資ぶっしには規定きていがあり,幕府ばくふ公用こうようまたはそれにじゅんずるもので,その使用しようすう朱印しゅいんまたは証文しょうもんめん記載きさいされていた。それによる御用ごよう人馬じんばは,1704ねん宝永ほうえい1)には員数いんずう制限せいげんなく,昼夜ちゅうや遅滞ちたいなくまましおくすることをめいぜられた。また21ねんとおる6)には,無賃むちん人馬じんば宿やどりつ人馬じんばおくるのが原則げんそくであるが,宿やど人馬じんば定数ていすうえた場合ばあいじょさと(すけごう)へも賦課ふかすることをみとめた。しかし宿やどつぎ人馬じんばのうち朱印しゅいん証文しょうもんによる無賃むちん人馬じんばはきわめて少数しょうすうで,だい部分ぶぶんじょう公定こうてい賃銭ちんせんによるものであった。

 伝馬てんま負担ふたん伝馬てんまやくというが,その場合ばあいには人馬じんば負担ふたん全体ぜんたいすことがおおい。すなわち東海道とうかいどうしょ宿やどの100にん,100疋,中山道なかせんどうしょ宿やどの50にん,50疋,その甲州こうしゅうどうちゅうなどの25にん,25疋の常備じょうび人馬じんば伝馬てんまやくしょうし,その負担ふたんうまやく歩行ほこう(かち)やくけ,いえごとに隔年かくねんなど交代こうたい負担ふたんするのを原則げんそくとした。しかし後年こうねんおお金納きんのうとなった。その負担ふたんしゃのいる屋敷やしき伝馬てんま屋敷やしきといい,宿やどのことを伝馬てんま宿やどともしょうした。ようするに伝馬てんま提供ていきょう近世きんせい宿やど設立せつりつ発端ほったんであったからである。伝馬てんま無賃むちんすことから,〈てんま〉という言葉ことばは,むら公共こうきょう土木どぼく事業じぎょう用水ようすいせきざらい(さらい)や道普請みちぶしんなどに無償むしょうはたらくことを地方ちほうおおい。また宿やどじょさと負担ふたん全般ぜんぱんすこともあって,その増徴ぞうちょう反対はんたいする伝馬てんま騒動そうどうもあった。
宿駅しゅくえき
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)伝馬てんま」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

伝馬てんま
てんま

道中どうちゅう各駅かくえき宿やどなどにそなえて公用こうよう輸送ゆそうにあてたうま大化たいか改新かいしん(645)により国府こくふ郡家こおげ連絡れんらくするため、かくぐん伝馬てんまというかん用意よういされ、その員数いんずうまいぐんかく5とされた。利用りようしゃ格別かくべつ規定きていはないが国司こくし流人るにん防人さきもり(さきもり)などであり、乗用じょうよう資格しかく証明しょうめいつてによる。伝馬てんまかんからえらぶが、民間みんかんから購入こうにゅうする場合ばあいにはぐんいね(ぐんとう)による。これにたいし、諸道しょどうえきそなえてえき使乗用じょうようきょうしたうまえきである。

 平安へいあん時代じだいには衰微すいびしたが、中世ちゅうせい荘園しょうえん(しょうえん)でふたたび伝馬てんま頻出ひんしゅつする。これは、荘園しょうえん領主りょうしゅ地頭じとう交通こうつうじょうから農民のうみんちょうしたうまをさす。戦国せんごく時代じだいには戦国せんごく大名だいみょう、とくに東国とうごくのち北条ほうじょう(ごほうじょう)、武田たけだ上杉うえすぎ徳川とくがわ諸氏しょしによるえきせい実施じっしされ、宿やどでは問屋とんや伝馬てんま営業えいぎょうおこなった。この伝馬てんまは、軍需ぐんじゅ物資ぶっし輸送ゆそう飛脚ひきゃく家臣かしん逓送ていそうにあたった。伝馬てんま継立つぎたて(つぎたて)には一定いってい書式しょしき手形てがた発行はっこうされたが、しだいに専用せんようのものとなった。すなわちこう北条ほうじょうとら(とら)の印判いんばん、「つね調ちょう」のうえうまをあしらった印判いんばん武田たけだまるりゅう朱印しゅいん、「伝馬てんま」「ふね」の印判いんばんがある。徳川とくがわ家康いえやすは1601ねん慶長けいちょう6)に公用こうよう書札しょさつ荷物にもつ逓送ていそうのため東海道とうかいどうかく宿やど伝馬てんま制度せいど設定せっていした。徳川とくがわ家康いえやすは「伝馬てんま調しらべ」の印判いんばん、ついでこま牽(こまひき)朱印しゅいん、1607ねんから「伝馬てんま相違そうい(そういなく) (いだすべき)しゃ也」の9を3ぎょうにしてたて二分にぶんした朱印しゅいん使用しようし、この御朱印ごしゅいんのほかに証文しょうもんによる場合ばあいもある。伝馬てんまやくにはうまやく歩行ほこう(かち)やく人足ひとあしやく)とがあり、東海道とうかいどうおよびその街道かいどうにもおのおの規定きていができた。

 伝馬てんま使用しようされるさいには無賃むちんか、じょう(おさだめ)賃銭ちんせんのため、宿やどには代償だいしょうとして各種かくしゅ保護ほごあたえられたが、一部いちぶ民間みんかん物資ぶっし輸送ゆそう営業えいぎょうとしてみとめた。伝馬てんま制度せいど前述ぜんじゅつのとおり公用こうようのためのものであったから、一般いっぱん物資ぶっし輸送ゆそう街道かいどうでは後回あとまわしにされた。武士ぶし場合ばあいでも幕臣ばくしん優先ゆうせんされている。民間みんかん運送うんそう業者ぎょうしゃ、たとえば中馬ちゅうま(ちゅうま)などが成立せいりつして伝馬てんま以外いがい手段しゅだん私用しようにあたった。1872ねん明治めいじ5)にかく街道かいどう伝馬てんましょじょさと(すけごう)が廃止はいしされた。

藤村ふじむら潤一郎じゅんいちろう

豊田とよだたけし児玉こだまみゆきへん交通こうつう』(『体系たいけい日本にっぽん叢書そうしょ24』1970・山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)』児玉こだまみゆきちょ近世きんせい宿駅しゅくえき制度せいど研究けんきゅう』(1960・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』丸山まるやま雍成ちょ近世きんせい宿駅しゅくえき基礎きそてき研究けんきゅう いち』(1975・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア伝馬てんま」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

伝馬てんま【てんま】

ぜん近代きんだい宿駅しゅくえきあいだ往復おうふくした逓送ていそう(ていそう)よううま律令制りつりょうせいではぐんごとの郡家こおげ(ぐうけ)に5疋常備じょうびされたかんえき(えきば)にたいしてきゅうようしない公用こうようきょうされた。国家こっかえき重視じゅうししたため,律令りつりょう時代じだいにははやくから衰退すいたい。しかし中世ちゅうせいはいって伝馬てんませい復活ふっかつし,宿駅しゅくえき発達はったつ戦国せんごく大名だいみょう本城ほんじょうから国境こっきょうまでの幹線かんせん道路どうろ宿駅しゅくえき伝馬てんま常備じょうびして軍事ぐんじ物資ぶっし輸送ゆそうもちいた。江戸えど幕府ばくふ伝馬てんませいいたが,伝馬てんま提供ていきょう宿やど設立せつりつ発端ほったんであったため,宿やど伝馬てんま宿やどともしょうした。→えき駅家えきや宿やど宿駅しゅくえき
関連かんれん項目こうもく駅伝えきでん郡家こおげ駄賃だちん中馬ちゅうま町人ちょうにん伝馬てんままちといまる問屋場とんやば夫役ぶやく

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん伝馬てんま」の解説かいせつ

伝馬てんま
てんま

古代こだいから宿駅しゅくえきあいだ公用こうよう旅行りょこうしゃの貨客輸送ゆそうをするうま広義こうぎには人足ひとあしふくむ。(1)律令制りつりょうせいぐんごとに設置せっちされつて使などが乗用じょうようするうまかくぐん5疋常備じょうびされ,不足ふそくぶん民間みんかんから徴発ちょうはつされた。伝馬てんまなどの労働ろうどうりょくぐんないからざつ徭(ぞうよう)をもちいて徴発ちょうはつされた。伝馬てんまのルートはぐんぐんむすび,駅路えきろとはべつ系統けいとうで,大化たいか前代ぜんだい国造くにのみやつこなどの交通こうつうをもとに編成へんせいされたとかんがえられる。平安へいあん初期しょき駅伝えきでんせいさい編成へんせいされ,「延喜えんぎしき」では伝馬てんま駅路えきろとおぐんのみの設置せっちとなった。(2)室町むろまち時代じだい守護しゅご大名だいみょう百姓ひゃくしょう伝馬てんましていたことがられる。それをうけて戦国せんごく大名だいみょう宿駅しゅくえき伝馬てんませい創設そうせつし,無賃むちんゆうちんで1にち使役しえきできる伝馬てんまかずをきめた。こう北条ほうじょう平時へいじで1にちに3疋,武田たけだ無賃むちん伝馬てんまは4疋である。豊臣とよとみ政権せいけん伝馬てんま50疋を京都きょうと清須きよすあいだ宿駅しゅくえきしていた。(3)江戸えど初期しょきの1601ねん(慶長けいちょう6)徳川とくがわ家康いえやす東海道とうかいどうかく宿駅しゅくえき伝馬てんまじょうしょし,朱印しゅいんじょうによる伝馬てんま使役しえきかく宿やど36疋に統一とういつし,積荷つみにりょうもきめた。このかずじょうといわれ,寛永かんえい年間ねんかん100疋にきあげられた。朱印しゅいんまたは証文しょうもん(老中ろうじゅう所司代しょしだい発行はっこう)による公儀こうぎ伝馬てんま無賃むちん人馬じんばとよばれ,大名だいみょうなど領主りょうしゅ駄賃だちん支払しはらい(のちてい賃銭ちんせんという一定いってい)による使役しえき駄賃だちん伝馬てんまとは区別くべつされた。幕府ばくふ伝馬てんま維持いじのため助成じょせいきんあたえたが,困難こんなんをきわめた。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん伝馬てんま」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

伝馬てんま
てんま

江戸えど時代じだいしょ街道かいどう宿駅しゅくえき常備じょうびされ,公用こうようひと荷物にもつおくりにあたったうまをいう。古代こだいえきせいにも伝馬てんませいがあったが,その廃絶はいぜつした。戦国せんごく時代じだいしょ大名だいみょう軍事ぐんじてき必要ひつようから領国りょうごく宿駅しゅくえき設置せっち伝馬てんま常置じょうちしたが,制度せいどてき確立かくりつしたのは江戸えど時代じだいである。徳川とくがわ家康いえやす慶長けいちょう6 (1601) ねん東海道とうかいどう中山道なかせんどうおおくの宿駅しゅくえき指定していし,36とうずつの伝馬てんま常備じょうびさせたのがはじめで,寛永かんえい 15 (38) ねん幕府ばくふ東海道とうかいどう 100とう中山道なかせんどう 50とう日光にっこう奥州おうしゅう甲州こうしゅうかく道中どうちゅう 25とうさだめた。伝馬てんま使用しようできるものは幕府ばくふ公用こうようしょ大名だいみょう公家くげなどの特権とっけんしゃであったが,これには無賃むちん朱印しゅいん伝馬てんまてい賃銭ちんせんはら駄賃だちん伝馬てんまの2つがあった。

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん伝馬てんま」の解説かいせつ

伝馬てんま
てんま

古代こだい以来いらい逓送ていそうよう用意よういされたうま
江戸えど幕府ばくふ宿駅しゅくえき整備せいびして公用こうようきょうしたうま
律令制りつりょうせいえきとともに官吏かんり公用こうようきょうするためにそなえられた。郡司ぐんじ管理かんりし,急用きゅうようのときはえきを,不急ふきゅうのときは伝馬てんま利用りようした。律令制りつりょうせい衰微すいびとともにおとろえた。
鎌倉かまくら時代じだい荘園しょうえん領主りょうしゅ地頭じとうなどが,農民のうみんから徴発ちょうはつして公用こうよう使つかったうま
戦国せんごく大名だいみょう領内りょうない宿駅しゅくえき常備じょうびし,伝令でんれい物資ぶっし輸送ゆそうなどにあてた。
東海道とうかいどう100とう中山道なかせんどう50とう奥州おうしゅう日光にっこう甲州こうしゅうかく道中どうちゅうかく25とうを,宿駅しゅくえきごとにいた。

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普及ふきゅうばん どおり伝馬てんま」のみ・字形じけい画数かくすう意味いみ

伝馬てんま】てんま・でんば

えき

どおりつて」の項目こうもく

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち伝馬てんま言及げんきゅう

宿駅しゅくえき】より

… 律令制りつりょうせい崩壊ほうかいとともにえきせいくずれ,わって荘園しょうえん寺院じいん施設しせつきゅうはく利用りようされるようになった。そして平安へいあん末期まっきごろから宿やどえきわってもちいられはじめ,えきよりも伝馬てんま称呼しょうこ使つかわれるようになった。くま野路のじ信達しんだち藤代ふじしろ山中さんちゅうなどの宿やどめいあらわれるが,まだ十分じゅうぶん施設しせつはなく,神崎川かんざきがわのぞんだ摂津せっつ江口えぐち神崎かんざきかにとうなどが水陸すいりく旅行りょこうしゃあつめて繁栄はんえいしていた。…

つて】より

古代こだい中国ちゅうごくではえきつて制度せいどじょう区別くべつはなく,みなでん提示ていじしてえきそなえつけの車馬しゃば利用りようした。しかし古代こだい日本にっぽんでは朝廷ちょうてい直轄ちょっかつえきえきすず提示ていじして利用りようすることにしていたので,律令制りつりょうせいによりあらたに郡司ぐんじうま利用りようする伝馬てんま制度せいどもうけたさいには,とうにならってつてをその利用りよう資格しかく証明しょうめいとした。とうつてどうせいりゅうなどのかたちをしていたというが,日本にっぽんのばあい当初とうしょかたち不明ふめいであり,やがて公文書こうぶんしょ同様どうようかみけんになったとおもわれる。…

※「伝馬てんま」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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